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最強獣人に転生したのに女王様エルフに調教されるオレの話  作者: ねこ丸


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17/23

第十七話 お前よりルシアの方がずっといい女だぞ


 グランディアの朝は、前の日よりも少しだけ静かだった。


 いや、静かというのは違う。人の数が減ったわけではない。通りへ出れば朝から屋台の煙が上がり、酒場帰りの声もまだ残っているし、荷車の車輪も絶えず石畳を鳴らしている。ただ、騒ぎの質が変わっていた。


 浮ついた熱が少しだけ沈み、その下から硬い期待が顔を出している。


 勝ち残った者だけが立つ場へ、誰が上がり、誰が落ちるのか。


 そういう目が、街全体に増えていた。


 宿の窓から見下ろせば、朝のうちから闘技場へ向かう人の流れが出来ている。喧嘩が見たい者もいれば、賭け札を握りしめている者もいる。遠くから見物に来たらしい者たちは、まだ眠そうな顔のまま、だが足取りだけは速い。


 ルシアはその流れをしばらく眺めていた。


 卓の上には水差しと杯。朝から酒を飲まなくとも、目は十分に冴えている。背後では寝台の布がわずかに擦れる音がした。グランが目を覚ましたのだろう。


「起きたか」


 振り返らずに言うと、寝台の方から低い声が返る。


「……ん」


 まだ少し眠たそうな声だ。だが、その中に妙な弾みがあることをルシアは聞き逃さない。


「機嫌がいいの」


「悪くねえ」


 素直な返事だった。


 グランは大きな欠伸を一つ噛み殺し、上体を起こす。寝癖で少し乱れた髪を片手でかき上げ、肩を鳴らした。その仕草一つにも、これから強い相手と殴り合えるという期待が滲んでいる。


 昨日の重戦士は、それなりに良かったのだろう。


 そう思うと、ルシアの口元もわずかに緩む。


「今日は女じゃぞ」


 軽くそう言うと、グランは寝台から足を下ろしながら首を傾げた。


「そうだったか」


「覚えておらぬのか?」


「覚えてる。魔法のやつだろ」


「それだけか」


「それだけで十分だろ」


 確かに、この獣人にはそれで十分なのかもしれない。


 ルシアは小さく息を吐き、窓から離れた。


 朝の支度は手早く済んだ。水で顔を洗い、髪をまとめ、軽く食堂へ下りる。昨日と同じ宿だが、やはり空気が少し違う。泊まり客の中には武器を持っていない者も多いが、ただの旅人には見えない。会話の端々に昨日の試合の話が混じり、勝者の名が飛び、賭けの話が囁かれる。


「重戦士を埋めたの、本当か」

「見た。あれは引いた」

「引くな、喜べ」

「お前はそうだろうよ」


 そんな言葉がどこからともなく聞こえてくる。


 グランとルシアが食堂へ入った瞬間、その視線の幾つかが自然とこちらへ寄った。


 奴隷紋の獣人。


 長身の女エルフ。


 今のグランディアで、その組み合わせはもう十分に噂になっている。


 だが前日と違い、ただ珍しがるだけの目ではない。値踏みをし、試すように見てくる目だ。強いか、どこまで行くか、どこで落ちるか。そういうことを考えている顔が増えていた。


 グランは相変わらず何も気にせず席へ座り、運ばれてきた肉へすぐ手を伸ばした。


 焼き目のついた厚い肉を一口噛めば、脂と塩の味が口へ広がる。朝から食うには少し重いが、このくらいの方がいい。


「美味い」


 短く言う。


 ルシアは薄いスープを飲みながら、横目でその様子を見た。


「今日もそれだけで動く気か」


「腹減ってる方が調子悪い」


「それはそうじゃな」


 あっさり認める。


 ルシア自身も、何も入れぬまま戦うよりはよほどましだと思っている。食えぬほど緊張するような相手でもない。むしろ、今日のグランは昨日よりずっと自然だ。


 肉を食いながら、グランが聞く。


「お前は食わねえのか」


「飲んでおる」


「それだけで足りるのか」


「足りる」


「そうか」


 それで終わる。


 食堂のざわめきは、その短いやり取りのあとも途切れなかった。どこかの卓では、露出の多い衣装の女が今日の本戦に残っているらしいと、品のない笑い声つきで語られている。


「おいおい、今日は眼福だぞ」

「見てるだけで気が緩みそうだ」

「お前は元から締まってねえだろ」


 それを聞いたルシアは、何となく嫌な予感を覚えた。


 グランはというと、全く反応していない。肉を食い、パンをちぎり、最後に水を飲み干して立ち上がる。


 宿を出ると、朝の光はもう石畳を白く照らしていた。


 通りには人が多い。だが昨日のような、何でもいいから騒ぎたいだけの熱ではない。言葉は少し抑えられ、視線だけが鋭くなっている。強い者を見る日。そういう空気だった。


 闘技場の前まで来ると、その空気はさらに濃くなる。


 入口の周りには露店が並び、焼いた肉や酒の匂いが入り混じっていたが、誰もが片目は会場の方へ向けていた。勝者の顔を見たいのだろう。


 ルシアは足を止める。


「行ってこい」


「おう」


「今度は埋める前に終わらせよ、などとは言わぬ」


「なんだそりゃ」


「何でもない」


 グランは少しだけ笑って、出場者の入口へ向かった。


 ルシアは観客席へ上がる。


 本戦二回戦の客席は、昨日よりも明らかに埋まっていた。すでに勝ち上がった顔ぶれが濃いからだろう。誰が強いかを語るのではなく、本当に見たい相手を見るために座っている。ざわめきはあるが、無駄に高くはない。


 ルシアは少し高い位置へ腰を下ろした。


 見晴らしがいい。砂地の細かな動きも、出場者の呼吸の乱れも、武器の角度も見える。そういう位置だ。


 まもなく、試合の名が呼ばれた。


 先に女魔導師が姿を見せる。


 歓声が上がった。


 予想していたよりも露出が多い。肩も腹も惜しげなく晒した衣装に、細かな金具や薄布を絡め、歩くたびにそこかしこが揺れる。色気を見せるためだけに作られたような格好だ。観客席の一部からは露骨な口笛まで飛ぶ。


「おおっ!」

「いいぞ!」

「脱がなくていいからそのまま来い!」


 下品な声も混じる。


 女魔導師はそれに慣れているのだろう。薄く笑い、手を振るような仕草まで見せた。観客の空気がそれだけで少し緩む。


 次にグランが出る。


 ざわめきの質が変わった。


 歓声もある。だが、笑う者は少ない。むしろ、どこまで本物かを確かめたがっている目が集まる。奴隷紋の獣人。乱戦を一瞬で片づけ、重戦士を地面へ沈めた男。


 グランはそんな視線にまるで関心を示さなかった。


 歩き、中央へ立つ。


 向かいに女魔導師が立つ。


 女はその視線を受けて、わずかに首を傾げた。観客の男たちのような反応が来ないことに、少しだけ違和感を覚えたらしい。


「珍しいわね」


 小さく笑って言う。


「何がだ」


「わたしを見ても、目が変わらない」


 グランは平然と答えた。


「そうか?」


 その返しに、女魔導師の笑みがほんの少しだけ深くなる。


「そういう人、嫌いじゃないわ」


 ルシアは観客席で眉ひとつ動かさなかった。


 だが耳の奥が少しだけ熱い。


 それが何に対してなのか、自分でもよく分からなかった。


 審判の合図が響く。


 試合が始まる。


 女魔導師は最初から距離を取った。砂を踏む足取りは軽く、まるで踊るみたいだった。指先がゆっくりと空をなぞる。唇が動く。声は聞こえぬほど小さいのに、空気の方がわずかに揺れた。


 観客席の男たちの空気がふっと緩む。


 前のめりだった体が椅子へ沈み、妙にだらしない笑みが浮く。隣の男へ肘を入れていた者まで、目を細めて口を開けたまま女を見ている。


 ルシアはその変化を感じ取り、冷たく目を細めた。


「魅了と……その先か」


 ただ色気で揺さぶるだけではない。


 警戒をほどき、そのまま心の内側へ手を入れる。そういう魔法だ。


 女魔導師はそのまま、ゆっくりとグランへ視線を絡めた。


「ねえ」


 柔らかい声だった。


「楽しくやりましょう?」


 グランは何も変わらない。


 ただ立っている。


 女魔導師のまぶたが一度だけ揺れた。


 もう一度、指先が動く。


 今度は声にもっと強く魔力が乗った。甘い響きが空気へ溶け、観客席の男たちからへらりとした笑いが漏れる。何人かは、まるで夢を見ているような顔で女を見つめていた。


 グランは、やはり変わらなかった。


 目もぼんやりしない。呼吸も緩まない。視線も逸れない。ただ普通にそこにいる。


 女魔導師の笑みがわずかに固まる。


「……どうして?」


 小さな声が漏れた。


 その瞬間、グランが歩き出した。


 スタスタと、いつもの歩幅で。


 女魔導師の目が見開かれる。


 魔法を重ねる。視線を合わせる。声を乗せる。指先が震えるほどに魔力を注ぐ。だが、それでもグランの足は止まらない。


 観客席がざわつき始める。


「効いてねえぞ」

「おい、何だあれ」

「止まんねえ」


 女魔導師は一歩下がる。


 次にまた一歩。


 グランは変わらぬ速度で近づく。


 恐怖が女の顔に滲む。さっきまでの余裕は跡形もない。唇が震え、肩が揺れ、目だけが必死に相手を見ていた。


「なぜ……」


 声が掠れる。


「どうして、効かないの……」


 グランはそこでようやく足を止めた。


 目の前まで来ている。


 女魔導師は逃げたいのに足が動かないらしい。魅了で縛る側の人間が、恐怖で体を縛られていた。


 グランは本当に不思議そうな顔で言う。


「お前よりルシアの方がずっといい女だぞ」


 会場が止まる。


 一瞬、風の音すら消えたように感じた。


 次の瞬間、観客席が爆発した。


「言いやがった!」

「何だそれ!」

「今この場で言うか普通!」

「最高だろ!」


 爆笑と歓声が一緒くたに押し寄せる。


 ルシアは表情を変えない。


 だが耳だけが、はっきりと赤かった。


「……馬鹿者」


 小さく呟く。


 その声は歓声に紛れて誰にも届かない。


 闘技場の中央では、女魔導師が完全に硬直していた。


 呪いも魔法も関係ない。ただただ心が折れている顔だ。


 グランはそのまま一歩だけ踏み込み、足を払った。


 女魔導師の体勢が崩れる。膝が落ちる。無理に防ごうとする動きもない。そのまま跪くような形になる。


 グランは少しだけ首を傾げた。


 そして、軽く尻を引っ叩いた。


 乾いた音。


 女魔導師の体がびくりと震え、そのまま糸が切れたように前へ倒れる。


 失神だった。


 観客席からまた大きな笑いが起こる。


「終わりかよ!」

「尻叩いて終わりか!」

「無茶苦茶だ!」


 審判は一瞬だけ絶句したが、すぐに意識を取り戻し、倒れた女魔導師を確認して腕を上げた。


「勝者、グラン!」


 グランはその声に特別な反応も見せず、振り返って闘技場を出た。


 女魔導師の方は、運び出される間もまだ顔が真っ赤だった。


 観客席を下りてきたルシアは、グランの顔を見るなり少しだけ目を細めた。


「おぬしは……」


「なんだ」


「いや、もうよい」


 何を言っても無駄だと、この時点で半分くらい悟っている。


 だが耳はまだ熱いままだった。


 準決勝まで少し間があった。


 会場の外でも、中でも、さっきの一戦の話でもちきりだ。ルシアはそれを聞き流しながら、グランへ水を渡した。グランはそれを一気に飲み干し、喉を鳴らす。


「次は爺さんだな」


 ルシアは短く頷く。


「妙な気配をしとる。油断するでないぞ」


「しねえよ」


「本当か?」


「面白そうだからな」


 その答えに、ルシアは少しだけ息を吐いた。


 やはりこの獣人は、強い相手を前にすると妙に素直になる。恐れもしない。だが侮りもしない。ただ楽しそうにする。それが一番厄介で、同時に一番頼もしい。


 準決勝。


 会場の空気は、二回戦の時とはまた違っていた。


 笑いや浮つきが薄れ、代わりに静かな熱が満ちている。勝ち上がった者しかいない。観客もようやく、ただ珍しいものを見るのではなく、本当に強いもの同士がぶつかるのを待つ顔になっていた。


 老人が姿を見せる。


 細い。軽い。枯れ木のようだ。武器らしいものは見えない。歩く音すら薄い。だが、場へ出た瞬間に分かる。普通ではない。


 対するグランはいつも通り。


 中央へ出て、相手を見て、口元を少しだけ上げる。


「面白そうだな」


 老人は何も言わない。


 ただ、そこに立っていた。


 審判の合図。


 開始。


 グランは普通に歩いた。


 走らない。構えもしない。ただ距離を詰める。


 老人の手が揺れる。


 ほんのわずかだった。


 だがグランはそれを見逃さなかった。腕を伸ばし、そのまま掴む。老人の腕は細い。握れば折れそうなくらいだ。


 指先の間に、細く透明な針が挟まっていた。


 陽に透けて、ようやく見える程度の細さ。


「毒針か」


 グランが言う。


「つまらん」


 その瞬間、老人が口を開いた。


 含み針だった。


 細い光が一直線に飛ぶ。目を狙った軌道。


 だがグランは気にしない。


 顔を逸らさず、そのまま老人の腕を掴んだまま振り上げる。


 次の瞬間には、老人の体が大きく宙を描いていた。


 軽い。


 だからよく飛ぶ。


 しかし、飛ばしたことに意味はない。重要なのはその先だ。


 グランはそのまま老人を地面へ叩きつけた。


 鈍い音が会場へ響く。


 砂が跳ねる。


 老人の体が地面へ深くめり込む。体格の小ささに反して、落ちる瞬間の音は妙に重かった。


 観客席が静まる。


「死んだんじゃねえか……?」


 誰かが本気でそう呟く。


 ルシアも一瞬だけ息を止めた。だが次の瞬間、老人の指先がぴくりと動いた。肩もわずかに震える。生きている。だが立てない。


 グランはそれを見て鼻を鳴らした。


「しぶてえな」


 審判が恐る恐る近づき、状態を確認する。老人はまだ動いていたが、とても戦える状態ではない。勝者が告げられる。


「勝者、グラン!」


 歓声が遅れて追いつく。


 今度は笑いではない。本物のどよめきと歓声だ。女魔導師の時とは違う。静かなものを一瞬で叩き潰した、その力の無茶苦茶さに対する歓声だった。


 ルシアはそこでようやく息を吐いた。


 妙な武器、妙な技、含み針。そういう小細工めいたものを全部ごと叩き潰した。らしい終わり方だ。


 ブレイクの準決勝も、ちょうど決着していた。


 相手はあのエルフの弓使いだった。


 距離を取り、間合いを支配する戦い方だった。踏み込めば矢が来る。退けば位置を変えられる。

 

 一歩ごとに削られるような嫌な戦いだ。


 だが、ブレイクは止まらない。


 一本。


 二本。


 三本。


 それを受けながら、まっすぐ進む。


 鉄棒を構えるでもない。振りかぶるでもない。


 ただ距離を詰める。


 エルフの目が変わる。


 さらに矢を重ねる。


 だが、ブレイクの足は止まらない。


 踏み込み。


 一気に間合いを潰す。


 そこで初めて、鉄棒が振られた。


 横薙ぎ。


 空気が焦げつく。


 エルフは咄嗟に弓で受ける。


 だが、受けきれない。

 

 体が大きく弾かれる。


 砂を滑る。


 立て直す前にもう一歩。


 ブレイクが前に出る。


 振り下ろし。


 鈍い音。


 それで終わりだった。


 エルフの弓使いはその場で崩れ落ちた。


 動かない。


 審判の声が遅れて響く。


「勝者、ブレイク!」


 観客席から、重い歓声が上がる。


 派手さはない。だが、実力で押し切った勝ち方だった。

 


 勝者が確定したあと、少し離れた場所で二人の目が合った。


 グランが口元を上げる。


 ブレイクも、ほんの少しだけ笑う。


 言葉は要らない。


 明日、ぶつかる。


 それだけで十分だった。


 ルシアはその視線の交わりを見たあと、すぐにグランの手を取った。


「行くぞ」


「おう」


「早く来い」


 いつもより少し強めに引く。


 グランは抵抗しない。だが歩幅が大きいので、結局ルシアの方が早足になる。


 通りへ出ると、人々の視線が一気に集まった。


「あれだ」

「仲いいなあ」

「お熱いねぇ」

「確かに美人だな」


 勝手な声が飛ぶ。


 ルシアの耳がまた熱くなる。


 だが止まらない。


 グランは全く気にしていない。むしろ通りに漂う匂いの方へ意識が向いていた。


「腹減ったな」


「今はそれどころではない」


「飯は大事だろ」


 言いながら屋台の前で止まる。


 焼いた肉、串魚、香草をまぶしたパン。迷わずどんどん買い込み始める。ルシアは少し離れた場所で腕を組み、早くせいと言いたげな顔で待つ。


 だが、その待っている姿まで妙に絵になるものだから、周りの視線が余計に寄る。


「ほら見ろ、やっぱり仲いいじゃねえか」

「尻に敷かれてるのはどっちだ?」


 そんなことを言われても、グランもルシアも返さない。


 ようやく買い終えたグランの手を、ルシアは再び引いた。


 宿へ戻る。


 廊下を通り、部屋へ入る。


 扉が閉まった瞬間、外の喧騒が薄くなった。


 ルシアはその場で振り返った。


「人前であのような事を言うな!」


 グランは手に持っていた包みを卓へ置き、首を傾げる。


「本当の事だろ」


「そういう問題ではない!」


「違うのか?」


「違わぬが!」


 言ってから、ルシアは一瞬だけ固まった。


 違わぬ。


 口に出してしまったことに気づき、さらに顔が熱くなる。グランはそんなことを気にする様子もなく、むしろ素直に納得した顔をした。


「じゃあいいだろ」


「よくない!」


「なんでだ」


 ルシアは本気で頭が痛くなった。


 ここで説明しても無駄だ。何が駄目で、どこが恥ずかしくて、なぜ人前でああいうことを言われると困るのか。グランに理屈で伝えたところで、たぶん半分も届かない。


 届けたところで、次も同じように言う。


 それが分かるから余計に腹立たしい。


 ルシアは大きく息を吐いた。


「……もうよい」


「そうか」


「そうじゃ」


 諦めた、と言った方が正しい。


 ルシアは卓の前へ歩き、包みを開く前にふと足を止めた。


 老人。


 毒針。


 含み針。


 気にしていないような顔をしていたが、あれが本当に何も残していないかは別だ。


 グランへ近づく。


「何だ」


「黙っておれ」


 ルシアはそう言って、そっとグランの顔へ触れた。


 頬。顎。首筋。耳の下。目元。


 傷がないか、針が刺さっていないか、毒の変色が出ていないか。指先で確かめる。グランはそれをされるまま立っていたが、しばらくして喉の奥が低く鳴った。


「……ゴロ」


「鳴くな」


「気持ちいい」


「獣か、おぬしは」


「獣人だぞ」


 当たり前みたいに返され、ルシアは言葉を失う。


 もう一度、指先で首筋をなぞる。何もない。呼吸も正常。体温も変わらない。ようやく少しだけ肩の力が抜けた。


 その時だった。


 グランが平然と言う。


「やっぱりお前の方がずっといい女だな」


 ルシアの手が止まる。


 顔が一気に熱くなった。耳だけでは足りない。頬も、首も、全部が熱い。


「……馬鹿者」


 小さく呟く。


 それ以上の言葉が出ない。


 そして次の瞬間、ルシアはそのままグランを抱きしめていた。


 自分でも、半分くらい衝動だったと思う。


 腕の中の体温はいつも通りだ。呼吸も落ち着いている。鼓動も、特に変わらない。何も異常はない。それを指で確かめたばかりだというのに、こうして抱きしめると妙に胸の奥が静かになる。


 グランは少しだけ首を傾げたが、嫌がらない。


 腕の中で、また小さく喉が鳴る。


「……あまり心配させるでない」


 ルシアが低く言う。


「おぬしはわらわの奴隷じゃぞ」


 グランは少しだけ考えるような顔をした。


「心配なんてしてたのか?」


 ルシアは答えない。


 答える代わりに、ゆっくりと腕をほどいた。


 そのままグランの手首を取る。


 強くはない。だが迷いはない。自分が何をしたいのか、今はっきり分かっている手だった。


 寝台の方へ、そっといざなう。


 グランは何も言わずにそれについていく。


 視線が合う。


 ルシアはそこで少しだけ目を細めた。熱を帯びた目だった。言葉はない。だが、言葉がなくとも今は十分だった。


 寝台の布が沈む。


 外の喧騒はもう遠い。


 部屋の灯りが揺れ、その影が壁へ細く伸びる。


 グランが何か言いかけるより先に、ルシアの方が少しだけ近づく。


 距離が縮まる。


 熱が混じる。


 そのまま、夜が静かに深くなっていった。

本日はここまで

次回は明日朝6時投稿予定です

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