第十六話 やっと少しは殴りがいがあるな
朝のグランディアは、夜の続きをそのまま引きずっているみたいだった。
窓の外から人の声が絶えず流れてくる。通りを行く足音、荷車の軋み、どこかで鍋をかき回す音、朝から開いている屋台の呼び声。まだ陽は高くないのに、街はとっくに目を覚ましていた。いや、ほとんど眠っていないのかもしれない。大会の熱が、石畳の下にまで残っているような朝だった。
大きな寝台の上で、グランはゆっくりと目を開けた。
隣はもう空いている。
視線を上げると、窓辺に立つルシアの背が見えた。白金の髪を肩の後ろへ流し、朝の薄い光を受けながら、片手に持った杯を口元へ運んでいる。酒ではない。水だ。大会の朝にまで酔うほど雑ではない。
グランは上半身を起こし、軽く首を鳴らした。
「起きるの早えな」
ルシアは振り返らず、窓の外を見たまま答える。
「おぬしが遅いだけじゃ」
「まだ朝だろ」
「すでに通りは埋まっておる」
「そりゃ街の連中だろ」
「大会を見に来る者も、賭ける者も、騒ぎたいだけの者もおる。どれでも同じじゃ。人が多い」
グランは寝台から足を下ろした。床板が軽く鳴る。
大会二日目。本戦一回戦。前日の勝利で体が重いということもない。むしろ少し軽い。乱戦より、一対一の方が楽しい。まとめて殴るのも悪くはないが、相手が一人なら、どこまで耐えるかをよく見られる。
ルシアがようやく振り返った。
「顔が笑っておるの」
「そうか?」
「そうじゃ」
「悪くねえからな」
「そういうところが分かりやすすぎる」
呆れたような声だったが、そこに嫌な響きはない。
グランは立ち上がり、水場へ向かう。顔を洗い、首筋に残る熱を少し流す。冷たい水が肌を滑ると、体がはっきりと目覚めていく。鏡の代わりの磨いた金属板に映る自分の顔は、いつも通りだった。奴隷紋も見える。見慣れたものだ。今さら隠す気もない。
身支度を整えて食堂へ降りると、そこには昨日よりも濃い空気があった。
卓のあちこちに武人らしい連中が座っている。肩の広い男。傷の多い女。歳は食っているが背筋の伸びた老人。戦う者の匂いを纏っているが、今はただ皿を前にしている者たちだ。中には腕に包帯を巻いたまま酒を飲んでいる者もいるし、前日の試合について好き勝手に語っている連中もいる。
「さっきの槍の踏み込み、浅かったな」
「出てたら言えねえくせに」
「今日は見物だ。好きに言わせろ」
そんな声が飛ぶ。
別の卓では、斧を背負った男が仲間へ身振りで昨日の勝負を再現していた。あれは観戦に来た武人だ。自分では出ないが、強い戦いが見たくて来る連中。グランはそういうのが割と好きだった。戦う気がないなら嫌いだが、戦えた上で見ている目は嫌いではない。
グランとルシアが食堂へ入ると、いくつかの視線が流れた。
全身に奴隷紋を刻んだ獣人。
その隣にいる長身の美しい女エルフ。
「あれだ」
「昨日の予選で圧勝した獣人」
ひそひそとした声がいくつか重なる。だが、前日ほど露骨ではない。面白がるだけの目から、少し真面目な目に変わっている。
グランは椅子へ座るなり、運ばれてきた肉へ手を伸ばした。
分厚く切られた肉は、香草と塩だけで焼いてある。焼き目はしっかり、脂はほどよく落ちている。噛めば中から熱い肉汁が滲む。朝に食うには十分すぎる。
「美味い」
短く言う。
ルシアは向かいで薄いスープを飲みながら、周囲の卓を眺めていた。そういう時の目は、酒を飲んでいる時より少しだけ冷えて見える。だが険しいわけではない。観察しているだけだ。
「今日は昨日とは少し違うの」
「何がだ」
グランは肉を噛みながら返す。
「見ておる目じゃ」
「またそれか」
「またそれじゃ」
ルシアはスープの中の豆を匙で軽く掬う。
「前日は色物を見るような目が多かった。今は違う。勝ち上がるかどうかを見ておる」
「勝てばいいんだろ」
「まあ、そうじゃな」
それで済んでしまうのがグランだった。
食事を終え、宿を出る。
朝の空気は少し冷たいが、街の熱がそれを薄くしていた。大通りにはもう人の流れが出来ている。闘技場へ向かう者、賭け屋へ急ぐ者、朝のうちに何か食っておこうという顔の者、ただ騒ぎに混じりたいだけの者。誰もが昨日より少しだけ目を覚ましていた。
通りの脇では、肉を焼く匂いが早くも漂っている。香草を焦がす匂い、焼き魚の匂い、甘い酒の匂い。グランの鼻が少し動く。
ルシアはそれを見て先に言った。
「先に会場じゃ」
「まだ何も言ってねえぞ」
「顔が言っておる」
「鼻だろ」
「どちらでもよい」
会場へ近づくにつれ、人の密度はさらに増していった。
だが前日と違って、騒ぎ方が少し落ち着いている。ただ大声で浮かれるだけではない。強い者を見るために来ている目が増えた。観客席へ上がる途中ですれ違う連中の顔つきも、どこか張っている。勝者たちを見に来る日。そういう空気だった。
ルシアは会場の入口近くで立ち止まる。
「行ってこい」
「おう」
「壊しすぎるでないぞ」
グランは少しだけ口元を上げた。
「分かんねえ」
「分かれ」
ルシアはそこで肩をすくめ、観客席への階段へ向かう。グランは出場者の入口へ入った。
本戦の控え室は、前日の石室よりも静かだった。
人数が少ないせいもある。前日は十人が一つの場へ詰め込まれていた。今日は一対一。だから広い空間の中で、個々の気配がはっきりしている。壁際に腰を下ろす者。目を閉じて呼吸を整える者。武器の柄を黙って握る者。喋る者は少ない。
今日の相手はもうそこにいた。
ドワーフの重戦士。
近くで見ると、さらに重い。鎧は前日見た時よりも分厚く感じた。肩から胸、腹、脚まで隙間が少なく、鉄板が幾重にも重なっている。だが無様には見えない。削るべきところは削り、支えるべきところは支えている。防御だけの鎧ではない。戦うための鎧だ。
長柄の戦槌は壁へ立てかけられていた。柄の太さだけで、普通の人間ではまともに扱えぬと分かる。鎚頭は黒く、使い込まれて角が鈍っている。それでも、叩かれたら骨ごと潰れそうだった。
ドワーフは黙ってこちらを見る。
兜の隙間から覗く目だけが鋭い。
グランはその前に立って、少しだけ笑った。
「お前、硬そうだな」
ドワーフの口元が見えたわけではない。だが、声にはわずかな笑いが混じった。
「砕けるなら砕いてみろ」
グランの口元がさらに上がる。
「やっと少しは殴りがいがあるな」
それだけで十分だった。
闘技場へ呼ばれる。
陽はもう高く、砂地はうっすらと熱を持っていた。昨日の乱戦でいくつもの足跡が刻まれたはずなのに、朝のうちにしっかり均されている。中央へ立てば、四方から視線が刺さる。観客席はほぼ埋まっている。空いた席を探す方が難しいくらいだ。
グランが出ると、ざわめきが起こる。
前日のような好奇心だけではない。勝つのかどうか、その目で確かめるためのざわめきだ。
反対側からドワーフが出てくる。
そちらにも拍手と歓声が飛ぶ。昨日の勝ち方が印象に残っているのだろう。鎧と戦槌の重さだけで相手を押し潰していった男。そういう本物の重戦士は、見ていて分かりやすい強さがある。
ルシアは高い席から、その二人を見下ろしていた。
風が少しだけ高所を抜ける。だが体の中は静かではない。酒を飲んでいなくても、こういう時の自分の鼓動ははっきりしている。面白い試合になる予感がある時のそれだ。
審判が中央へ出る。
二人が向き合う。
グランは拳を軽く握り、ドワーフは戦槌の石突きを砂へ落として低く構えた。
短い沈黙。
観客の声すら少しだけ引く。
「始め!」
合図と同時に、ドワーフは踏み込まなかった。
いや、踏み込んではいる。
だが速くない。
じり、と前へ出る。重い一歩だ。砂が沈み、鎧が低く鳴る。もう一歩。早さはない。だが近づかれるだけで嫌な圧がある。
グランはそれを待たなかった。
真正面から行く。
ドワーフの戦槌が横へ薙がれた。
風が唸る。
観客席から短い悲鳴が上がるほどの一撃だ。軽い武器の鋭さとは違う。大きな塊を丸ごと横へ叩きつけるみたいな軌道だった。
グランはそのまま両腕を上げて受けた。
衝撃。
鈍く、骨へ響くような重さ。足元の砂が爆ぜ、片足がわずかに沈む。
「押した!」
「重いぞ!」
観客がどよめく。
ルシアの目が少しだけ細くなる。
「……なるほどの」
ドワーフはそこで止まらない。
戦槌を戻し、今度は真上から振り下ろす。グランは半歩だけずらし、肩と腕で受ける。そのまま踏み込む。拳が鎧の胸へ入る。
鈍い音。
重い。
だが手応えは薄い。鎧が鳴るだけで、ドワーフの重心は崩れない。
ドワーフはそのまま前へ出る。戦槌を短く持ち替え、押し込むように振る。振るというより、近づいて潰す。重さの塊がじわじわと間合いを食ってくる。
グランは笑った。
「いいな」
もう一発、拳を打ち込む。
鎧が鳴る。肩へ返る感触は硬い。だが砕けない。ドワーフもまた、戦槌の柄を軸に体ごと押してくる。避けない。逃げない。崩さない。ただ前から押し潰しに来る。
それが面白かった。
拳と戦槌が何度もぶつかる。
グランは正面。ドワーフも正面。
砂が散る。重い音が何度も続く。観客席の熱が、見る見るうちに高まっていく。
「押せ!」
「そこで潰せ!」
「もっとだ!」
大声が飛ぶ。
ルシアは腕を組んだまま、じっと見ていた。
ドワーフの戦い方は完成している。逃がさない。崩れない。受け切り、重さで押し潰す。技ではなく積み上げた重厚さだ。
グランの拳がまた入る。
今度は肘も続けて入る。鎧の継ぎ目を狙ったわけではない。ただ近いところをそのまま打っているだけだ。それでも、同じ箇所へ重さが何度も溜まっていく。
ドワーフは苦しそうな息を漏らしながらも、止まらない。
戦槌が今度は真正面から叩き下ろされる。
グランは両腕を交差させてそれを受けた。
衝撃で足元が沈む。砂がめくれる。普通の相手なら、その場で膝が折れていた。
だがグランはそこで笑ったままだ。
重い。
だからいい。
ドワーフはもう一歩出る。戦槌を引き戻す。次を振るうための動きだ。速さはない。だが重さに隙がない。
グランは低く潜り込んだ。
距離が縮む。
拳が上から落ちる。
ドワーフの胸へ。
鈍い音が響く。
足元の砂が割れる。
ドワーフの膝が落ちた。
わずかに沈む。鎧の下の足が地面へめり込み、戦槌の柄が揺れる。観客席が大きくどよめいた。
「沈んだ!」
「押し込んだぞ!」
ルシアはそこで小さく息を吐いた。
「ようやく、まともに硬いのが出てきた」
だが終わらない。
ドワーフはなお立とうとする。
戦槌を杖代わりに地へつき、体を起こす。鎧は軋んでいる。胸のあたりが少しだけ歪んでいる。だが、まだ折れてはいない。
グランはそれを見てさらに機嫌が良くなった。
「まだ立つか」
ドワーフは返事をしない。
ただ、もう一度だけ前へ出ようとした。
そこでグランがもう一歩踏み込む。
距離が完全に潰れる。
拳が正面から叩き込まれる。
今度は撃ち下ろしではない。埋めるように、押し込むように、真正面から。
鈍く、重い、嫌な音がした。
地面が割れる。
鎧ごと、ドワーフの体がさらに深く沈む。
砂と土が跳ねる。戦槌が手を離れ、横へ倒れる。鎧の歪みが一気に広がり、そのまま全身の力が抜けたように頭が垂れた。
動かない。
一瞬、闘技場が静まる。
次の瞬間、歓声が爆発した。
「埋めた!」
「鎧ごとか!」
「なんだあの拳!」
審判が駆け寄り、状態を確かめる。何度か声をかけても返事はない。そこでようやく腕を上げた。
「勝者、グラン!」
グランは息を吐き、肩を回した。腕には少しだけ痺れが残っている。だが嫌な痛みではない。悪くない相手だったという感触だけが残る。
闘技場を下りると、ルシアが待っていた。
「よい相手じゃったな」
グランは短く頷く。
「悪くなかった」
それだけで十分通じる。
他の勝者たちの名も、そこかしこで耳へ入ってきた。
ブレイクも勝った。奇妙な魔法を使う女も落ちていない。あの老人も、弓のエルフも、当然のように残っているらしい。
「今年は濃いぞ」
「本戦がやばい」
「どこもおかしい」
観客の声には浮つきよりも、本気の期待が混じっていた。
会場の外へ出ると、少し離れたところでブレイクが手を上げた。
「おう」
グランも返す。
ブレイクは鉄棒を肩へ担いだままだった。汗はかいているが息は乱れていない。こちらも大きな傷はないらしい。
「やはり勝ったな」
ブレイクが言う。
グランは鼻を鳴らす。
「おう」
「そっちもだろ」
「まあな」
少しだけ間が空く。
グランはブレイクの体をざっと見てから言った。
「ちゃんとオレに賭けたか?」
ブレイクは一瞬だけ目を細め、それから笑う。
「どう思う」
「賭けてねえ顔だな」
「半分だ」
「足りねえな」
「残りはお前に勝った時のためだ」
グランは肩を鳴らすように笑った。
「無駄になるぞ」
ブレイクも肩をすくめる。
「それはどうかな」
周囲にいた者たちが、その会話を聞いてざわついた。奴隷紋の獣人と鉄棒の獣人が、当たり前のように優勝を口にしている。しかも軽口みたいに。
ルシアはその反応を見て小さく息を吐いた。
「おぬしらは、もう少し隠すということを覚えぬのか」
「なんでだ」
「余計に騒がれる」
「勝てば同じだろ」
「その通りなのが腹立たしいの」
そこで会話は終わる。
二人はそのまま街へ出た。
闘技場を離れても、グランディアの熱はまだ続いている。屋台の煙は昼より濃く、酒場の前にはもう卓を求める客が並び始めていた。屋台から屋台へ移るたびに、肉の匂い、魚の匂い、焦がした味噌のような匂いまで流れてくる。
グランはその一つで串焼きを買った。
「美味い」
噛んで言う。
ルシアは酒を口に運んでから、少しだけ口元を緩めた。
「アルトリアの方が上じゃな」
「まあな」
それももう自然な会話になっていた。
グランディアの酒も肉も悪くはない。だが、帰ればアルトリアのいつもの味がある。そう思うと、ここで食うものまで少し違って感じる。
歩きながら、グランが唐突に聞いた。
「あと何回だ?」
ルシアはすぐに意味が分かった。だが、足は止めない。
「……三回じゃな」
少しだけ間を置いて答える。
グランは串の最後の肉を噛みちぎった。
「少ねえな」
「多いと思え」
「すぐだろ」
「おぬしにとっては何でもすぐじゃの」
ルシアは酒をひと口流し込む。耳のあたりが少し熱い気がしたが、夜風のせいだと思うことにした。
宿へ戻る頃には、外の騒ぎも少し丸くなっていた。日が落ちると、街の熱気は上へ抜ける代わりに、酒場の灯りが目立ち始める。泊まり客の多い宿の廊下を歩き、部屋の扉を開けると、ようやく静けさが戻ってくる。
卓の上には水差し。
椅子が二つ。
大きな寝台。
昨日と同じ部屋だが、今日の空気は少し違う。勝った日の夜の空気だ。
グランは上着を脱ぎ、寝台の端へ腰を下ろした。腕を軽く回す。まだ少しだけ重い。だが不快ではない。あのドワーフの重さが、まだ骨へ残っている気がした。
「やっぱ硬かったな」
ルシアは卓の椅子へ座り、杯へ酒を注ぐ。
「潰したではないか」
「潰したけどよ」
一拍。
「まだ足りねえな」
ルシアの視線が少しだけ動く。
「贅沢な話じゃ」
「だろ」
グランは悪びれない。
しばらく沈黙が落ちる。
外からはまだ、遠い歓声が聞こえていた。どこかの酒場で、今日の勝敗でも肴にしているのだろう。街が大きいぶん、そのざわめきも長く残る。
ルシアは杯を持ったまま、ぽつりと呟いた。
「……あと三つじゃ」
グランはすぐに返す。
「すぐだな」
ルシアは答えない。
酒をひと口飲み、視線だけをわずかにグランへ向ける。グランは気づいていない。腕の具合を確かめるように拳を握ったり開いたりしている。
「次も、面白いといいな」
グランが言う。
ルシアは少しだけ目を細めた。
「……おぬし次第じゃ」
その声は小さかったが、はっきり届いた。
灯りが揺れる。
しばらくして、ルシアは杯を置いた。
寝台へ上がる。布がわずかに沈む。隣にいるグランの体温がすぐ近くにあることにも、もう特別な意味を与える必要はないように思えた。必要があるのかもしれないが、今は考えない方が楽だった。
グランは横になり、片腕を頭の後ろへ回す。
「今日のやつは良かったな」
「うむ」
「次はもっといいといい」
「おぬしがそう思うなら、そうなるのじゃろう」
「だといいな」
ルシアはそこで少しだけ笑った。
ほんのわずかに。
強さを疑っていない顔だった。自分のことも、相手のことも、勝つことも、全部を当然のように思っている。馬鹿なのか、自信家なのか、そのどちらもなのか。だが少なくとも、その顔を見ていると、妙な安心感があるのも事実だった。
外の騒ぎはまだ遠く続いている。
だが、その音も少しずつ薄くなっていく。
あと三つ。
その数が、ルシアの胸の奥で静かに重みを持っていた。




