第十二話 ようやく殴れるな
アルトリアの武道大会は、朝から熱を持っていた。
石造りの大きな闘技場の外には、まだ日が高くなりきる前から人が溢れている。商人、衛兵、旅人、賭け札を握った荒くれ、見物目当ての女たち、子どもを肩車した親までいる。人の匂い、獣の匂い、焼いた肉の匂い、酒の匂い、それに大河沿いの湿った風が混ざり合い、街の空気そのものがざわついていた。
入口近くでは賭けの声が飛び交っている。
「一回戦は銃使いが硬いぞ!」
「重装の方に張るなら今だ!」
「獣人の倍率が下がってる!」
その喧騒の横を、グランは何でもない顔で歩いていた。肩の力は抜けている。だが目だけは生き生きとしていて、会場の空気を吸い込むたびに口元が少しずつ上がっていく。
「ようやく殴れるな」
独り言のように呟いたその声に、横を歩くルシアが酒の入った小さな瓶を傾けながら答える。
「今まで殴っていなかったような言い方じゃの」
「大会で、ちゃんとだ」
「おぬしは本当に単純じゃ」
呆れたように言いながらも、ルシアの足取りは軽かった。賭けの金も入る。グランも上機嫌。大会の規模も大きい。都市の空気はまだきな臭いままだが、その中でこうして堂々と人が集まり、武を競う場所があるのはアルトリアらしいとも思う。
闘技場へ入ると、その熱気はさらに濃くなった。
観客席はすでにかなり埋まっている。石段に並ぶ人影は地方大会の比ではない。武器を見れば、この都市の異質さがよく分かる。剣、槍、斧、拳闘用の鉄籠手はもちろん、魔道銃を担いだ参加者、金属糸のように細い鞭を巻いた優男、鎧そのものに魔石を埋め込んだ重装の男までいる。どいつもこいつも、この都市でしか見ないような匂いがした。
グランは控えへ向かう前に、観客席のルシアを一度だけ見た。
「ちゃんと見てろよ」
「見ておるわ」
ルシアは座る前から賭け札を手にしている。完全にいつもの顔だ。グランはそれを見て安心したように鼻を鳴らし、控えへ入っていった。
控えの空気は重い。
出場者たちが互いをちらちら見ている。地方大会の時にあったような、ただ荒いだけの熱ではない。相手の武器、体格、立ち方、癖。見える範囲で出来るだけ拾おうとしている目だ。そういうのはグランには関係ない。強いか弱いか、それだけだ。
だが観客席のルシアは、そういうのをちゃんと見ていた。
次の対戦相手の試合が始まる。
魔道銃使いだった。痩せた男で、無駄に動かない。撃つための足だ。撃った後も崩れず、すぐに次へ移れる構えをしている。相手は剣士。距離を詰めようとするが、男は引きながら撃ち、引きながら撃つ。速い。魔力の弾は肉眼で追えないほどではないが、避けながら詰めるには厄介だろう。結局、剣士は距離を詰めきれないまま沈んだ。
観客が湧く。
「決まった!」
「やっぱり速い!」
「銃使い本命だ!」
その中で、ルシアは酒をひと口飲んだだけだった。
「……軽いの」
横で聞いていたらしい、賭け屋崩れのような男が反応する。
「軽い? あれがか?」
ルシアは男の方を見もしない。
「まあ、あれなら死なんじゃろ」
男は何を言われたのか分からない顔をした。ルシアはさらに続ける。
「弱すぎても困るがの」
一拍。
「あれがうるさくなる」
言葉の意味を知らない者には、ただの高飛車な女の独り言に聞こえただろう。だがルシアにとっては本気だった。グランは負けない。問題はそこではない。あまりにも相手が弱すぎると、終わったあとで不満をぶつけてくる。それが面倒なのだ。
やがてグランの名が呼ばれた。
一戦目。
相手は予想通り、魔道銃使いだった。
入場した瞬間から観客がざわつく。闘技場の中央へ進むグランの足取りはいつも通りだ。構えも何もない。対する銃使いは、最初から距離を測るように斜めに立っている。片目だけ細め、銃口をグランへ向ける仕草に迷いがない。
開始の合図。
乾いた破裂音が響いた。
撃つのが早い。観客席から小さく悲鳴のような声が上がる。魔力の弾が一直線に飛ぶ。グランは避けない。胸のあたりにまともに当たる。
服が少し裂けた。
皮膚が赤くなる。
それだけだった。
グランはそこで足を止めることもなく、ただ相手を見た。
「それだけか?」
銃使いの顔色が変わる。
もう一発、撃とうとする。だが遅い。グランの踏み込みの方が速い。地面を潰すように前へ出て、そのまま男の胴へ拳を叩き込む。
鈍い音。
銃使いの体がくの字に折れ、そのまま後ろへ転がった。
終わりだ。
会場が一拍遅れて沸く。
「受けたぞ!」
「止まってない!」
「何だあれ!」
観客席でルシアは、そうなると知っていた顔で酒を飲むだけだった。
「防いだ、ではない」
小さく呟く。
「通らぬだけじゃ」
二戦目は鞭使いだった。
しなやかな細身の男だ。巻いた鞭は金属糸の束のようで、動くたびに嫌な音を立てる。観客には人気があるらしい。場内が妙に盛り上がっていた。
開始。
鞭が空気を裂いて飛ぶ。
一撃目はグランの肩を打った。皮膚が少し裂ける。二撃目は腕へ絡む。観客がどっと沸いた。
「決まった!」
「絡んだぞ!」
グランは少しだけ眉を寄せた。
「邪魔だな」
次の瞬間、そのまま腕を引いた。
鞭ごと相手の体が前へ引っ張られる。驚いた顔が一気に近づく。距離がゼロになる。そこでグランは何も考えずに頭を前へ出した。
鈍い音がした。
男の体がそのまま折れ、膝から崩れる。
鞭は力なく地面へ落ちた。
一瞬、静かになる。次いで、何が起きたのか理解した観客から大きな笑いと歓声が上がった。
「頭突き!?」
「そこかよ!」
「雑すぎるだろ!」
ルシアは口元だけ少し緩めた。
「雑じゃの」
一拍。
「じゃが、悪くない」
三戦目は重装だった。
全身を覆う金属鎧に魔石が埋め込まれている。歩くだけで重い音が鳴る。相手は自信満々だ。これまでの大会では、この鎧でほとんどの攻撃を受け切ってきたのだろう。
開始と同時に前へ出る。
大盾のように体を使い、そのまま押し潰しにくる。グランは真正面で待った。
ぶつかる。
衝撃で地面の土が弾ける。
だが次の瞬間には、グランの拳が鎧の中心へ入っていた。
鈍く重い音が響き、鎧の男の体が宙に浮く。
浮いた体が空中で一瞬止まり、そのまま背中から落ちた。鎧の胸元は大きく陥没している。起き上がれない。
会場が大きくどよめいた。
「浮いたぞ!」
「鎧ごとか!?」
ルシアはその光景を見ながら、杯を唇に寄せる。
「防御など意味をなしておらぬな」
続く相手は速さ自慢だった。
軽装。刃の短い剣を二本。足が速い。とにかく速い。観客もその速度には素直に感心しているらしく、踏み込むたびに声が上がる。
「速い!」
「見えねえ!」
グランは少しだけ目で追った。
右へ、左へ、横へ滑るように走る相手が一瞬だけ真正面へ入る。その瞬間に踏み込む。拳がひとつ。
相手は途中で切れた糸みたいに吹き飛び、転がって動かなくなった。
「速えだけだな」
グランの一言に、観客の熱がまた変わる。速さが通じない相手というのは、それだけで見世物になる。
もう一人は技巧派だった。
構えに無駄がない。受ける、流す、いなす、それに徹した男だ。観客はこういう手合いも好きらしい。分かりやすく派手ではないが、うまさがある。実際、一度だけグランの拳を流した。
その瞬間、観客席から「おおっ」と声が上がる。
だが、それで終わりだ。
グランは一歩踏み込みを深くした。受ける流れの上から、そのまま力で押し潰す。男の両腕ごと胸を圧し込むように拳が入り、その場で崩れ落ちた。
「意味ねえな」
グランはそう言って次の相手を待つ。
ここまでは全部、ただの通過点だった。
観客席のルシアは、途中途中で相手の技や速度を見ながらも、結局どれも評価しきれない顔をしていた。弱いというわけではない。だが、グランの力を受け止めるには足りない。その物足りなさを確認するように杯を傾けている。
そこで空気が変わった。
次の相手が入ってきたからだ。
牛のような頭。
太い首。
肩幅の広い体。
巨大な鉄棒を片手で担ぐその姿は、人間の観客よりも獣人たちの方がざわついた。
「ツノの部族か」
「珍しいな」
鉄棒を担いだ獣人は、グランを見た瞬間に目を細めた。
「……ん?」
一歩近づく。
「牙の部族の族長の息子か?」
グランは眉を寄せる。
「誰だ、お前?」
獣人の口元が少しだけ緩んだ。
開始の合図。
ツノの獣人は真正面から来た。鉄棒を振り上げる。重い。地面が鳴る。観客席からもその一撃の重さが伝わる。
グランは避けない。
真正面で受けた。
鉄棒が腕に当たり、衝撃で土が沈む。だがそこで止まった。次の瞬間、グランの拳がその鉄棒へ叩き込まれる。
鈍い音。
続けて、嫌な軋み。
鉄棒にひびが入る。
さらにもう一撃。
砕けた。
破片が飛び、ツノの獣人の目が見開かれる。その距離で、グランはそのまま拳を前へ出した。獣人の胸へめり込み、巨体が大きく揺れる。踏みとどまろうとした足がずれ、最後は膝をついた。
それでも倒れる直前、どこか満足そうな顔をしていた。
場内が湧く。
「今のはいい!」
「獣人同士か!」
「鉄棒が砕けたぞ!」
ルシアもそこで初めて、少しだけ納得したように頷いた。
「……あの獣人が一番ましじゃったのう」
準決勝は魔薬使用者だった。
最初は普通の男に見えた。だが動きが荒い。目も濁っている。殴られても止まらない。痛みがないように前へ来る。
ルシアは一目で分かった。
「使っておるな」
グランは相手の拳を受けながら言う。
「そうか」
それで済ませるのがグランだ。
魔薬のせいで力は増している。痛みも感じていない。だが、だからこそ動きは荒い。理性も鈍い。まともに殴り合えば厄介なはずの相手を、グランは正面から殴り返した。
一撃。
相手がよろける。
まだ来る。
もう一撃。
今度は深く入る。
男の体が折れ、そのまま崩れ落ちた。
終わりだ。
ルシアは小さく息を吐いた。
「強くなるわけでもあるまいし、無駄なごとをするのう」
一拍。
「……痛みを感じんのは厄介じゃな」
さらに小さく。
「やりすぎねばよいが」
意味はもちろん、グランが殴り殺さなければいいが、だ。だがその程度の心配は、今のところ要らなかった。
そして決勝。
会場の熱は最高潮だった。
相手は魔道銃と剣を併用する実戦型。ここまでの勝ち上がりも派手だった。遠距離で牽制し、近距離で仕留める。アルトリアらしい、見世物としても実戦としても強い男だ。
最初の一発が飛ぶ。
観客が息を呑む。
だが今度のグランは受けなかった。
拳を振る。
魔力の弾丸が、空中で砕けた。
光が弾け、破片のように散る。場内が一瞬静まる。
「砕いた!?」
「弾を!?」
グランは拳を軽く振る。
「遅えな」
一拍。
「オレの拳の方が強え」
そのまま踏み込もうとした時だった。
準決勝で沈んだはずの魔薬使用者が、観客席側の通路から乱入してきた。目が完全に死んでいる。理性のないまま、ただ前へ走ってくる。
会場が一気にざわつく。
「おい!」
「乱入だ!」
「止めろ!」
決勝の相手も一瞬だけ意識をそちらへ向けた。
だがグランは気にしない。
「まとめて来い」
まず乱入者が来る。
拳ひとつで吹き飛ばす。
その勢いのまま視線を戻し、決勝相手へ踏み込む。相手は銃を捨て、剣で迎えた。だが遅い。グランの拳が胴へ入る。
相手の体が宙に浮く。
空中で止まり、そのまま落ちる。
乱入者は壁際で転がったまま動かない。
決勝相手も起き上がれない。
終わった。
観客は一瞬、理解が追いつかなかった。次いで、闘技場が爆発したみたいな歓声に包まれる。
アルトリアの大会が、グランの優勝で終わった。
賞金を受け取り、会場を出る頃には、まだあちこちでその話をしている声が聞こえた。魔道銃の弾丸を砕いたこと。決勝では乱入ごと相手を殴り倒したこと。獣人の鉄棒が砕けたこと。どれも酒の肴には十分すぎる。
そこで待っていたのが、あのツノの獣人だった。
姿勢を正し、真正面から来る。
「グラン殿」
グランは少しだけ顔をしかめた。
「堅苦しいのは嫌いだ」
ツノの獣人は一瞬だけ黙り、それから素直に頷いた。
「……そうか」
グランはそこで話を切った。
「飯行くか?」
獣人は目を瞬かせる。
「こちらは妻子がいる」
ルシアが横から口を挟む。
「構わん」
一拍。
「儲かったからのう」
そう言われれば断る理由もないらしい。獣人は口元を少しだけ緩めた。
「ブレイク・シオン」
名乗る。
グランは短く返した。
「グラン」
「ルシアじゃ」
ルシアは酒場へ向かって歩き出しながら言う。
「ブレイクとやら、行くぞ」
アルトリアの酒場は広い。だが夜になるほど人が増えるのもアルトリアらしかった。種族も服装もばらばらな連中が混ざっている。そこへブレイクの妻と子が合流した。
妻は人間だった。やわらかな顔立ちの女で、だが目つきはしっかりしている。子どもは獣人。角は小さいが、顔の骨格に獣人らしさが残っている。
ルシアは席に着くなり、酒を頼んだ。
「人から生まれても、獣人になるのじゃな」
普通に聞く。
ブレイクは頷いた。
「男の子はだいたいそうだな」
一拍。
「だが、相手種族の子が生まれることもある」
「強ければ問題はない」
グランが肉を摘まみながら口を挟む。
「オレのおふくろも人だぞ」
さらりと言う。
ルシアの手が一瞬だけ止まり、ブレイクも少しだけグランを見る。
「……そうか」
そこで終わる。
グランもそれ以上は何も言わない。
ルシアはそのまま次を聞いた。
「こちら側に住んでもよいのか?」
ブレイクはすぐに答える。
「アルトリアは住みやすい」
一拍。
「人を受け入れて大きくなった都市だ」
「獣人でも問題ない」
少しだけ笑う。
「変わり者も多い」
グランはそこで肩をすくめた。
「別にどこでもいいんじゃねえか?」
ルシアが横目で見る。
グランは続ける。
「殴れて食えれば」
ルシアはため息をついた。
「おぬしはそれだけじゃの」
だが、否定はしない。
ルシアはさらに聞く。
「この街、少しきな臭いのう」
ブレイクも酒を少し口にしてから答えた。
「元は小さな川沿いの街だ」
「人が集まって発展した」
「それを面白く思わん連中もいる」
「獣人は、それほど多くは見えぬな」
「多くはない」
ブレイクは頷く。
「獣人がこっちへ来る理由はだいたい嫁探しだ」
「人の社会は複雑だからな」
「合わん奴も多い」
ルシアは酒を飲みながら考え込むように頷く。
「獣人とは強さで全てが決まるのか?」
「基本はそうだ」
「だが、賢さも強さだ」
「本当に弱い奴でなければ問題はない」
そこでブレイクはグランを見る。
「……グラン殿は極端だがな」
グランは即答した。
「殴った方が簡単だろ」
ブレイクの妻が思わず吹き出しそうになるのを堪える。ルシアも小さく笑った。
「ほんに、分かりやすいの」
話はさらに魔薬へ移る。
「妙な動きの者がいたが」
ルシアがそう言うと、ブレイクの目が少しだけ細くなった。
「魔薬か」
ルシアは頷く。
「無駄なごとをするのう」
「作るにも手間がかかるはずじゃが」
ブレイクは低く答えた。
「金もかかる」
「何か考えている連中がいるな」
ルシアは杯を傾ける。
「面倒じゃの」
最後に、ルシアはブレイクを見る。
「牙の部族は強いと聞く」
ブレイクは少しだけ姿勢を正した。
「最大勢力だ」
「強い者も多い」
「だが、争いを好むわけではない」
一拍。
「……まあ、例外もいるがな」
グランは肉を噛みちぎりながら言った。
「殴った方が簡単だろ」
同じ答えだった。
ルシアはそこで今度こそ声を殺して笑った。
酒場の灯りが揺れる。人の声が重なる。アルトリアの夜はやはり騒がしい。だが、その騒がしさの中にも、席を囲むこの空気は妙に落ち着いていた。
ルシアは杯を口へ運びながら、ふと横を見る。
グランはもう次の肉へ手を伸ばしている。大会で優勝し、乱入者まで殴り倒し、それでも今はただ腹を満たしているだけだ。強さも、部族の名も、他人の敬意も、本人にはほとんど意味がない。ただ殴って、食って、次へ行く。それだけだ。
だが、それが妙に心地いい。
単純で、雑で、無駄にまっすぐで、だからこそ目が離せない。
ルシアは酒を飲み干し、何でもない顔で次を頼んだ。
その横で、グランはもう次の一皿を引き寄せていた。
アルトリアの夜は、まだ長い。




