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婚約破棄された侯爵令嬢、辺境伯に嫁いだら刺繍の才能で付与術が開花して――氷の将軍に溺愛されました

作者: 百鬼清風

 香草と柑橘の香りが満ちる晩春の王宮。

 大理石の床には光が流れ、天井の水晶灯が万の星のように瞬いていた。侯爵令嬢エリシア・ヴァレンタインは、銀糸で刺繍を施した淡桃色のドレスを身にまとい、指先でグラスの縁をなぞっていた。


 その夜は、彼女の人生の節目となるはずの夜だった。

 ――王太子セリオ・ルクレールとの正式な婚約披露舞踏会。

 幼少のころからの許嫁、学園でも常に傍にいた相手。

 今日という日が、未来の礎になると信じて疑わなかった。


 しかし、違和感は最初からあった。

 セリオはエリシアを避けるように他の令嬢たちと談笑し、視線を合わせようとしない。舞踏の誘いもなく、彼の傍らには侯爵家の次女であるリディア・クロードが、まるで正式な婚約者のように寄り添っていた。


 心臓が不安にきしむ。

 けれど、エリシアは笑顔を崩さなかった。――社交界では、感情を見せることは“敗北”に等しい。


「エリシア嬢、陛下がお呼びですよ」


 侍従の声で、舞台中央の階段へと導かれる。

 玉座の前、王太子が立っていた。

 彼の手には金の巻紙。内容を知る者は、まだ誰もいない。


「本日、我セリオ・ルクレールは、侯爵令嬢エリシア・ヴァレンタインとの婚約を破棄する」


 瞬間、音楽が途絶えた。

 誰かのグラスが床に落ち、静寂を破る。

 人々の視線が、一斉に彼女へと突き刺さった。


「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか、殿下」


 声が震えないよう、彼女は喉の奥で息を押しとどめた。

 セリオは眉をひそめ、わざと冷たく言い放つ。


「君は、王太子妃にふさわしくない。

 内向的で、刺繍などという無益な趣味に溺れ、政治にも興味を示さない。

 王家に必要なのは、民の目を惹き、国を動かす力を持つ者だ」


 ざわめきが広がる。

 リディアが涙を浮かべ、彼の袖を掴む。――演出のように。


「殿下、そんな……私のせいでは……」


「君は関係ない。私が真に愛しているのはリディアだ」


 場の空気が確定する。

 エリシアは理解した。

 ――これは、王太子の政治的な断罪ではなく、“見世物”だ。


 唇を噛み、胸の奥に焼けるような痛みを覚える。

 人々は噂を囁き、誰かが笑った。

 冷たい視線が彼女の人生を断ち切るように通り過ぎていく。


 やがて、王の許可もなく、セリオは宣言した。


「この場をもって、エリシア・ヴァレンタインとの縁を断つ。

 君の父上には、後日正式な書状を送る。以上だ」


 それで終わり。

 彼女の十七年の想いも、夢も、誇りも、ひとことで打ち砕かれた。


 エリシアは深く一礼し、涙を見せぬまま踵を返す。

 侍女マリアンヌが心配そうに駆け寄るが、彼女は微笑んだ。


「大丈夫よ。……少し、風に当たりたいだけ」


 中庭へ出ると、夜風が頬を撫でた。

 花壇のチューリップが散り、月光が淡く刺繍布を照らす。

 彼女は腰の小袋から刺繍針を取り出し、布を手のひらに乗せた。


 ――王太子妃には、ふさわしくない。


 その言葉が何度も耳に響く。

 だが、不思議なほど涙は出なかった。

 心が静かすぎて、逆に痛みを感じる。


 針を刺す。糸を通す。

 何かを縫わずには、呼吸すら乱れてしまいそうだった。

 縫い目に意識を集中させるうち、針先がわずかに光を放つ。

 驚いて手を止めたが、すぐに光は消えた。


「……今のは、何?」


 自問しても、答えは出ない。

 ただ、確かに見た。

 糸の間に、ほんの一瞬だけ、淡い青の輝き。


 足音が近づく。

 振り返ると、父であるヴァレンタイン侯爵が立っていた。

 その顔は冷たく、感情を押し殺している。


「……恥をかいたな、エリシア。だが泣くな。

 お前にはまだ、家の名を繋ぐ義務がある」


「……義務、ですか」


「そうだ。王家に代わり、北の辺境から縁談が届いている。

 グランベルグ辺境伯。……氷の将軍レオンハルトだ。

 条件は――“平民扱いで構わない”と」


 息を呑んだ。

 つまり、“見返りなど要らぬ”ということ。

 政略ではなく、ただ血筋の繋がりだけを欲しているのだろう。


「……わかりました。行きます」


 侯爵は驚いた顔をした。

 だが、エリシアの目に迷いはなかった。

 王都に残れば、侮辱と哀れみの視線にさらされ続けるだけ。

 ならば、雪原でも氷でも構わない。自分の居場所を見つける方がましだった。


 夜空に雲が流れ、星がひとつ消える。

 エリシアは手のひらの布を握りしめた。

 ほんのわずかに、再び糸が光った気がした。


 ――まだ終わっていない。

 彼女の物語は、ここから始まる。



 夜が明けた。

 王都の空はどこまでも晴れ渡り、白い鳩が屋根の間を飛んでいく。

 だが、その光景を見上げるエリシアの胸には、ひと欠けの温もりもなかった。


 王宮での婚約破棄から三日。

 ヴァレンタイン侯爵邸は、冷たい沈黙に包まれていた。

 使用人たちは主の顔色を伺い、屋敷の奥では新たな縁談の支度が淡々と進められている。

 エリシアの部屋には、荷造りのための箱が積まれ、彼女の人生を形づくっていた物たちが一つずつ消えていった。


「本当に、行かれるのですか……お嬢様」


 侍女マリアンヌの声が震えていた。

 栗色の髪をまとめた彼女は、幼いころからエリシアの傍に仕えてきた。

 彼女だけが、涙を隠そうともしない。


「ええ。……ここにいても、息ができませんから」


 エリシアは、箱の中に最後の刺繍枠を収める。

 それは婚約披露用に縫っていた王家の紋章――未完成のままだ。

 刺し途中の糸は青く、針先に触れるとわずかに温かい。

 あの夜と同じ、微かな光がまた、針の先に宿った。


 マリアンヌは息をのむ。


「お嬢様……その光、やはり……」


「わからないの。ただ、見ていると少し、落ち着くの」


 彼女は針を布に刺し、ひと縫いだけ糸を通した。

 青い光が細く走り、すぐに消える。

 その瞬間、部屋に冷たい風が流れ込み、窓辺の花弁が舞い上がった。


 マリアンヌは胸の前で手を組む。


「……辺境には魔獣が出ると聞きます。もしかすると、お嬢様の力が……」


「力なんて、そんな大げさなものじゃないわ。

 ただの癖よ。針と糸でしか、私は自分を保てないの」


 そう言いながらも、エリシアは心の奥でわずかに思う。

 ――この“癖”が、何かの始まりであるなら。


 荷造りを終えると、玄関に馬車が待っていた。

 真紅の家紋を掲げたそれは、ヴァレンタイン家のものではなく、すでに新たな主――辺境伯グランベルグの使者の所有だった。

 彼女は父と母に別れを告げる。

 母は静かに微笑み、言葉少なに頭を下げた。

 父は短く「恥を忘れるな」とだけ告げた。


 扉が閉じられ、車輪が石畳を転がる。

 エリシアは窓越しに見送った。

 王都の白い塔、花咲く並木道、幼いころ遊んだ庭園――すべてが遠ざかっていく。

 胸の奥が空洞になるような感覚。それでも、涙は流れなかった。


「お嬢様、寒くありませんか?」


「ええ、大丈夫。……この外套、とても暖かいわね」


「グランベルグ領の織物だそうです。氷雪の中でも耐える糸で紡がれているとか」


「そう……強い糸なのね。私も、そうありたいわ」


 マリアンヌは小さく笑った。

 馬車の中には、彼女の他に二人の従者がいたが、会話には入らず黙々と前方を見つめている。

 北へ進むにつれ、空気が変わっていく。

 青空は薄くなり、やがて雲が低く垂れ込め、風が冷たい灰色を帯びた。


 道中、宿場町で一泊することになった。

 小さな宿屋の暖炉の前、エリシアは刺繍布を広げていた。

 針の先が炎に照らされ、再び淡い光を放つ。

 その光はまるで、生き物の呼吸のように、ゆっくりと瞬いている。


「……あなた、何者なの?」


 思わず布に問いかけた。

 その時、扉が軋む音がして、ひとりの男が入ってきた。

 背が高く、厚い外套に雪をまとっている。

 灰銀の髪、鋭い青の瞳――まるで氷でできた人のようだった。


「ヴァレンタイン嬢か」


 低く響く声。

 エリシアは立ち上がり、裾を摘まんで礼をする。


「はい。……あなたが、グランベルグ辺境伯様の……?」


「レオンハルト・グランベルグだ」


 名を聞いた瞬間、空気が張り詰めた。

 噂に聞く“氷の将軍”――王国北部の魔獣討伐軍を率い、冷徹無比と呼ばれる男。

 しかし、彼の目の奥にはどこか深い疲労があった。

 戦場の氷よりも静かな、諦めにも似た孤独の色。


「遠路ご苦労だった。王都でのことは聞いている」


「……お恥ずかしい限りです」


「恥などではない。王都の事情は腐っている。お前が何をしたわけでもない」


 あまりに率直な言葉に、エリシアは目を瞬かせた。

 冷たい人だとばかり思っていた。だがその声には、奇妙な温度があった。


「辺境は厳しい。だが、ここでは誰も、過去を詮索しない。

 生きる者が力を尽くす、それだけだ」


 エリシアはゆっくりと頷いた。

 心の中の氷が少しだけ溶けた気がした。

 彼の言葉は慰めではなく、宣告でもない。ただ、真実として響いた。


「明朝出発する。雪嶺を越えるには三日かかる。準備を怠るな」


「はい」


 レオンハルトは踵を返し、扉の向こうへ去っていった。

 残された空気には、彼の放つ冷気のような緊張が漂う。

 だが、エリシアの胸にはほんの微かな灯がともった。

 ――この人のいる場所でなら、何かを見つけられるかもしれない。


 夜更け、寝台に横たわりながら、彼女は天井の梁を見つめた。

 外では雪が降り始めている。

 風が窓を叩き、遠くで狼の遠吠えが響く。

 それでも、心の中は不思議なほど静かだった。


 翌朝、夜明け前に宿を出る。

 雪原を渡る道は白く凍りつき、車輪が軋む音だけが響く。

 マリアンヌは毛布にくるまり、時折眠たげに目をこする。

 エリシアはその肩をそっと包み、自らの外套をかけた。


「お嬢様……」


「いいの。あなたがいてくれるだけで、心強いもの」


 遠く、氷壁のような山々が見え始める。

 そこが、彼――レオンハルトの領地。

 雪を戴いた大地の上で、彼女の新しい人生が待っている。


 胸の奥で、何かが静かに鳴った。

 それは恐れではなく、確かな鼓動だった。


 エリシアは馬車の窓を開け、冷たい風を吸い込む。

 青い空の下、彼女の刺繍布が陽に透けて輝いた。

 針の跡が光を返し、まるで“導きの道”を描くかのように。


 ――この旅は、きっと意味を持つ。

 それを信じることが、今の彼女にできる唯一の祈りだった。



 雪嶺を越えた先に、それはあった。

 霧を裂くようにそびえる灰白の城。塔は氷のように光を反射し、風に舞う雪片がまるで星屑のように輝いていた。

 グランベルグ城――王国北端に位置する要塞であり、辺境伯レオンハルトの居城だ。


 馬車が石橋を渡るたび、車輪が凍てついた音を立てる。

 門兵たちは無言で敬礼し、その瞳は鋭くも忠実だった。

 エリシアは窓越しにその光景を見ながら、息を呑んだ。

 王都の華やかさとは正反対。ここには“生き延びるための美”だけがあった。


「……本当に、別の国みたい」


 マリアンヌが小声で呟く。

 雪煙の向こう、レオンハルトが黒馬にまたがり、先頭で指揮を執っていた。

 彼の姿はまるでこの地の象徴のように静かで、凍てついた風の中でなお揺るがぬ意志を感じさせた。


 やがて馬車は城門前で止まる。

 扉が開かれ、レオンハルトが振り返った。

 その瞳は淡青に光り、まっすぐに彼女を射抜いた。


「ようこそ、グランベルグへ。……寒さは堪えるか?」


「いえ、思ったよりも……澄んでいて、息がしやすいです」


 彼の眉がわずかに動く。

 ほとんどの来訪者がまず「寒い」と言うのに、この令嬢は違う。

 レオンハルトの中で、興味という名の火が小さく灯った。


 エリシアは雪を踏みしめながら城内へ足を踏み入れる。

 石造りの廊下は冷たいが、壁面には魔力灯が点り、暖かな光が滴るように揺れている。

 出迎えたのは副官エドガー。

 落ち着いた声で、丁寧に案内を始めた。


「お部屋は南棟の三階でございます。暖炉もございますので、ご安心を。

 辺境は初めてとのこと、何か必要なものがあれば遠慮なく」


「ありがとうございます。……あの、副官殿。皆さまは、日々ここで戦っておられるのですね」


「はい。魔獣の出現は不定期ですが、この季節は比較的穏やかです。

 とはいえ、油断すればすぐに命を落とす。それがこの地です」


 エリシアは小さく頷いた。

 戦いの場に来たのだという現実が、ようやく体の奥に沈み始める。

 彼女の仕事――政略結婚の“妻”としてではなく、この地に“居場所”を作ること。

 そのために、何をすべきか。まだ答えは見えない。


 部屋に通されると、マリアンヌが暖炉に火をくべた。

 炎が立ち上がり、石壁に赤い光が踊る。

 エリシアは荷を解き、刺繍布と針を机に置いた。


「また、縫うのですか?」


「ええ。落ち着くの。……手を動かしていないと、心が寒くなりそうで」


 糸を通す指先は迷いなく、針は静かに布をすくっていく。

 その様子を見ていたマリアンヌは、そっと囁いた。


「お嬢様。今度は、どんな模様を?」


「……雪の結晶。

 でも、壊れやすいものを描くのではなく、氷の中で永く光る形にしたいの」


 その言葉の通り、縫い進めるたびに、布の上で結晶が形を成していった。

 すると、布の中心が淡く青く光り出す。

 マリアンヌが息を呑む。


「また、光が……!」


「……ええ。でも、今回は少し違う。暖かいの」


 手のひらを通じて伝わる熱。それは炎ではなく、生命の温度に似ていた。

 布を壁にかけると、部屋の冷気がわずかに和らぐ。

 まるで、刺繍が周囲の空気を守っているかのようだった。


 その時、扉がノックされた。

 入ってきたのはレオンハルト本人だった。


「……何かあったのか?」


「いえ、ただ刺繍をしていたら……。あの、これを見てください」


 エリシアが壁を指すと、彼の視線が刺繍に止まった。

 青い光を放つ雪の紋様。

 彼は近づき、手をかざした。


「……温かい」


「やはり、そう感じますか?」


「これは……防御の魔力だ。魔獣の瘴気を和らげる。

 この領では数十年前に失われた“付与術”の痕跡に似ている」


 レオンハルトの声が低く震えた。

 それは驚愕と、わずかな希望が混じった響きだった。


「失われた……?」


「ああ。武器や防具に魔を宿す古技だ。

 だが、今それを使える者は王国にひとりもいない。

 ――君が、それを再び起こしたのか?」


「わかりません。ただ、縫っていると、糸が勝手に……」


 彼は沈黙し、青い光に見入った。

 長い間、戦場で凍ったように動かなかった表情が、ほんの少し緩む。

 その横顔を見て、エリシアは初めて“人”としての彼を感じた。


「面白い。……いや、これは希望だな。

 この地に、神がまだ見捨てていない証だ」


 彼は静かに息を吐いた後、振り返る。


「ヴァレンタイン嬢、明日から私の参謀たちに会ってもらう。

 この力が確かなら、正式に研究を進めたい」


「承知しました」


「……それと」


 レオンハルトは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


「ここでは、誰も君を“侯爵令嬢”とは呼ばない。

 肩書よりも、力と意思で人を見る土地だ。……それでも構わないか?」


「もちろんです。むしろ、その方が救われます」


 彼の目が柔らかくなり、ほんの一瞬だけ、微笑が浮かんだ。

 だがすぐに背を向け、冷静な声に戻る。


「――今夜はゆっくり休め。明日は長い一日になる」


 扉が閉まり、足音が遠ざかる。

 エリシアは深く息を吐いた。

 心臓が少し早く打っている。

 恐れではない。自分が“認められた”という実感だった。


 窓の外では雪が降り続いていた。

 だが、氷の城の中には小さな炎が生まれていた。

 刺繍の光と、まだ名もない温もり――それが、彼女の心に確かに灯っていた。



 翌朝、城の鐘が鳴った。

 低く響くその音は、辺境の空気を震わせ、雪をまとった塔の壁に反響した。

 エリシアは厚手の外套を羽織り、城の中庭へ向かう。

 そこでは、兵士たちが訓練を始めていた。


 鉄の鎧がぶつかる音、雪を踏む靴の音、掛け声。

 王都の舞踏会では聞くことのなかった“生の音”が響く。

 彼女は立ち止まり、吐く息の白さを見つめた。

 この地では、息をすることすら生きる証なのだと思えた。


「ヴァレンタイン嬢」


 背後から、低い声がした。

 振り向くと、レオンハルトが立っていた。

 鎧を纏い、肩には銀色の紋章。彼は氷の将軍の名に相応しい、凛とした気配を纏っていた。


「……おはようございます、閣下」


「準備はできているか」


「はい。刺繍布も数枚、昨夜仕上げました」


 彼女は布の束を差し出す。

 白地に銀糸、青い結晶の紋が縫い込まれている。

 光に当たると淡く輝き、まるで雪解け水のように澄んで見えた。


「これを兵の鎧に試してみる。……よいか?」


「もちろん。私の刺繍が役に立つなら」


 レオンハルトは頷き、布を副官エドガーに渡す。

 訓練場の中央で、兵士たちが布を鎧に巻きつけると、青い光がじわりと滲み出した。

 辺境の兵たちはざわめき、互いに顔を見合わせる。


「……暖かい」


「重さが消えたようだ」


「瘴気の匂いもしない……」


 口々に驚きが漏れた。

 レオンハルトは表情を変えず、指先で光を確かめる。

 やがて、わずかに唇の端が動いた。――満足のしるしだった。


「間違いない。付与術の再現だ。

 ヴァレンタイン嬢、君の針は王国を救うかもしれん」


「……そんな、大げさな」


「大げさではない。この地では、ひと針が命を繋ぐ。

 君の力は、兵の盾となる」


 その言葉が胸の奥に響いた。

 これまで“無益な趣味”と嘲られてきた刺繍が、初めて“価値”として認められた瞬間だった。


 その後、城の作業室が与えられた。

 エリシアは昼も夜も針を動かし、布を縫い続けた。

 マリアンヌは傍らで糸を撚り、刺繍に必要な染料を調合した。

 糸は氷花草という辺境特有の植物から取る。淡青の光を放つその繊維は、魔力をよく通すらしい。


「お嬢様、手が赤くなっています」


「平気よ。……久しぶりに、心が満たされてるの」


 その笑顔に、マリアンヌは胸を打たれた。

 王都では一度も見たことのない微笑だった。


 数日後、レオンハルトから正式な呼び出しが来た。

 戦支度の会議室。地図の上には、黒い印が点在している。


「魔獣の群れが北方の森に出た。瘴気が強い。

 明日の夜には、この城の防壁に触れるだろう」


 その言葉に、空気が緊張した。

 エリシアも同席していたが、場違いな居心地を感じた。

 彼女のような令嬢が戦の会議に呼ばれるなど、あり得ないことだった。


「ヴァレンタイン嬢。

 城壁の結界布を君の刺繍で補強してほしい。……できるか?」


「試してみます。布は広範囲になりますが、模様を連結させれば魔力が流れるはず」


「理論は?」


「経験だけです。……ですが、針が導いてくれる気がします」


 レオンハルトは一瞬だけ息を止めた後、静かに言った。


「ならば、信じよう」


 その一言が、胸の奥を熱くした。

 彼の目には疑いがなかった。

 氷のような人が、自分の“感覚”を信じてくれる――そのことが何より嬉しかった。


 夜。

 雪の中、彼女は兵たちとともに外壁に布を張り巡らせた。

 冷気で指がかじかみ、針を持つ感覚が薄れる。

 だが、止めなかった。

 針先が光を放ち、青い線が闇を走る。

 まるで氷壁の上に新しい星座を描くように、刺繍は城を包み込んだ。


「……これで、よし」


 最後の一針を通した瞬間、風が凪ぎ、雪が舞い上がった。

 結界が完成したのだ。

 空には光の幕がかかり、淡く輝く弧を描いた。


「成功だ!」


 兵たちが歓声を上げる。

 その中で、レオンハルトは黙って空を見上げた。

 光が彼の鎧に映り込み、冷たい表情に温かい色を落とす。


「見事だ、エリシア」


 初めて名を呼ばれた。

 その声は低く穏やかで、氷の中に火を灯すようだった。


「私は……やっと、何かを守れた気がします」


「君は守った。この城も、ここで生きる者たちも」


 沈黙が訪れ、雪だけが静かに降り続けた。

 ふたりの間に、言葉を超えた何かが流れる。

 寒さではなく、心臓の鼓動だけが確かに響いていた。


 その夜、エリシアは眠れなかった。

 窓の外の光の結界を見つめながら、手のひらを胸に当てる。

 針を持つ指先がまだ熱い。

 魔力の残滓――それとも、誰かの想いか。


 王都で捨てられた彼女の“手”が、今この地を護っている。

 それが、何よりも誇らしかった。



 夜明け前、空が白む前に、グランベルグ城の警鐘が鳴った。

 冷たい鐘の音が雪原を震わせ、眠っていた兵士たちが一斉に走り出す。

 エリシアは寝間着のまま廊下に出た。風が吹き込み、火の消えた燭台が揺れている。


「魔獣です!」

「北門側に群れが――!」


 叫び声が交錯し、足音が響く。

 城中に張った刺繍の結界布が淡く青く光り始め、外壁の瘴気を弾いていた。

 その光を見た瞬間、エリシアは理解した。――いま、彼女の縫った布が“戦っている”。


 マリアンヌが駆け寄る。


「お嬢様、避難を――!」


「いいえ、私は行くわ。防壁の維持を見届けないと」


「危険です!」


「私の布が使われているのよ。……針を持たずに逃げられると思う?」


 マリアンヌは言葉を失い、それでも彼女の外套を肩に掛けた。

 その布の裾には、エリシア自身の刺繍があった。

 ――青い花の縫い取り。それが、ほんのりと光っている。


 階段を駆け下りると、外はすでに修羅場だった。

 黒い影が雪を蹴立て、獣の咆哮が響く。

 瘴気をまとう狼のような魔獣が十数頭、結界にぶつかり、弾き飛ばされては再び突進してくる。

 結界の光が揺らぎ、まるで生き物のように鼓動している。


「陣形を保て! 壁を離れるな!」


 前線で声を張るのは、レオンハルトだ。

 銀の鎧が夜明けの光を反射し、剣が氷を裂くように閃く。

 その一振りごとに魔獣が倒れ、黒煙となって消えていく。

 しかし、数は減らない。次から次へと雪原の闇から這い出してくる。


「防壁の光が弱まってる……!」


 副官エドガーの声。

 エリシアは息を呑み、刺繍布の結界を見上げた。

 繋ぎ合わせた糸の一部が、黒く焦げている。

 ――魔力の流れが乱れている。修復しなければ、破られる。


「私が行きます!」

「危険だ、下がれ!」とエドガーが叫ぶが、彼女は針を握りしめた。


 雪を蹴って駆ける。

 風が頬を切るように冷たい。

 崩れかけた結界布の端にたどり着き、針を布に突き立てた。

 指が凍える。けれど、迷いはなかった。

 糸を通し、断線した模様を繋ぐ。

 瞬間、針先が眩く光を放ち、瘴気を押し返した。


 魔獣が咆哮を上げ、牙をむいて突進してくる。

 その前に立ちはだかったのはレオンハルトだった。

 剣を構え、彼は一閃。氷の刃が走り、魔獣を両断した。

 雪煙が上がり、彼の鎧が青い光を浴びる。

 彼の目が、一瞬こちらを見た。


「――下がれ、危ない!」


 叫ぶ声と同時に、別の魔獣が横から飛びかかった。

 エリシアは咄嗟に刺繍布を広げ、針を走らせる。

 糸が風に舞い、光が弾けた。

 まるで見えない壁のように、魔獣が弾き飛ばされる。

 彼女自身の手から、結界の力が発動したのだ。


「お、お嬢様……今の、まさか!」


「考えるのは後よ!」


 針を持つ手が震える。けれど、それは恐怖ではなかった。

 命を繋ぐための手仕事。――それが、いまこの瞬間、誰かを救っている。


 戦は夜まで続いた。

 やがて魔獣の群れは退き、雪原に静寂が戻る。

 瘴気は消え、空には満月がかかっていた。

 兵たちが歓声を上げ、疲れ切った声で互いを称え合う。


 レオンハルトが近づいてきた。鎧の肩口が裂け、血が滲んでいる。

 エリシアは息を詰め、布を裂いて包帯代わりに巻きつけた。

 針を通すように丁寧に、震える手で結ぶ。


「……痛みますか?」


「いや、大丈夫だ。君こそ、無事か」


「ええ。怖かったけれど……守りたかったから」


 レオンハルトは彼女を見つめ、ゆっくりと頷いた。

 その瞳に、いつもの冷たさはなかった。

 代わりに、静かな敬意と、何か言葉にできない感情が宿っていた。


「君の刺繍がなければ、この城は落ちていた。

 ……ありがとう、エリシア」


 また、名前で呼ばれた。

 それだけで、心臓が強く跳ねた。

 雪明かりの下、彼女の手に残る針が微かに光を放つ。

 まるで感謝の言葉に応えるように。


「これは、まだ始まりです。

 次は、もっと強く縫えるようにします」


「……ああ。だが、無理はするな。君の手はこの城の命だ」


 そう言って、彼は背を向けた。

 その歩みは、戦場の英雄ではなく、一人の人間の静けさをまとっていた。

 氷の将軍――その名の裏にある優しさを、エリシアは確かに見た。


 月が高く昇り、雪原が青く輝く。

 エリシアは針を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。

 指先には痛みと温もりが混じっている。

 その両方が、生きている証のようだった。


 城壁の上では、刺繍布が夜風に揺れ、淡い光を残していた。

 それは戦の爪痕ではなく、希望の灯火――彼女がこの地に刻んだ新しい命の証だった。



 雪原を渡る風が、春の匂いを含み始めていた。

 グランベルグ城の屋根にはまだ氷が残るが、陽光が少しずつその白を溶かしている。

 戦から一月。エリシアの刺繍結界は、いまも淡い光を放ち続けていた。


 その日、エリシアは作業室で新たな布に針を走らせていた。

 針先は滑らかで、糸が布の上を踊る。

 戦の夜から、彼女の針はまるで生き物のように力を帯びるようになった。

 魔力を込めようと意識せずとも、糸は自然に光を吸い上げる。


「お嬢様、その模様……花、ですか?」


「ええ。雪の中でも枯れない花。“凍光花”というの。

 辺境の民が春を呼ぶ象徴にしているそうよ」


「素敵ですわ。……お嬢様らしい」


 マリアンヌが微笑む。

 彼女の手も器用になってきた。糸を撚る指つきは、まるで弟子のようだ。

 そんな穏やかな時間を破るように、扉が荒々しく叩かれた。


「閣下より至急の呼び出しだ!」

 伝令の声。エリシアの手が止まる。

 嫌な予感がした。


 会議室に入ると、レオンハルトが机の上の文書を見つめていた。

 封蝋には王家の紋章。

 青い炎のような印章が、冷たく輝いている。


「王都からの使者が来る。……王太子セリオの名で」


 その名を聞いた瞬間、心臓が止まった。

 過去が雪を破って顔を出す音が、胸の中に響いた。


「理由は――?」


「“辺境の結界術の報告を聞きたい”とのことだ。

 要するに、君の力を調べに来るのだろう」


 レオンハルトの声は静かだったが、眼差しは鋭かった。

 政治の匂い。功績を奪おうとする動き。

 エリシアは唇を噛む。


「……彼は、私を否定した人です。

 今さら、何を聞きたいというの」


「だからこそ来る。

 力を持った女を、もう一度“支配下”に置きたいのだろう」


 言葉に滲む苛立ち。

 レオンハルトが感情を表に出すのは珍しい。

 それが、彼女のためだとわかり、胸が熱くなった。


「私は、ここを離れるつもりはありません。

 王都にも、あの人にも、もう戻る理由はないわ」


「……わかっている。だが使者は君を連れて行こうとするだろう。

 “王命”の名を使ってな」


 沈黙。

 彼女は針を握りしめた。

 いまでは、この針こそが彼女の誇りであり、居場所だった。


 数日後、使者の一行が城に到着した。

 金糸の刺繍を施した旗、煌びやかな衣。

 雪の中を進む彼らは、まるで別の世界の住人のようだった。


「お初にお目にかかります。王太子殿下の名代、エドモン・ルクレールと申します」


 使者は丁寧な口調で頭を下げたが、その目には侮蔑の光が宿っていた。

 彼の背後には王都騎士団の紋章――あの夜、婚約破棄を告げた場所の記憶が蘇る。


「この地で奇妙な術が使われていると伺いました。

 王家の許可なく魔術を扱うことは、厳密には禁忌に近い。

 確認のため、ヴァレンタイン嬢に同行を願います」


 その言葉に、レオンハルトの眼が冷たく光った。


「この地では、王都の法より先に“生存”がある。

 禁忌よりも命が優先だ」


「しかし、殿下の命令です」


「命令が、雪嵐を止めるとでも?」


 沈黙。

 使者の頬が引き攣る。

 レオンハルトの声には威圧ではなく、圧倒的な実力の静けさがあった。


「……私は、行きません」

 エリシアが一歩前へ出る。

 震えはしなかった。

 ただ、心の奥にあるものをすべて言葉に変える。


「王都で捨てられたとき、私は“何も持たない人間”でした。

 でも、ここで針を持ち、誰かを守れた。

 だから私は、もう誰の所有物でもありません」


 使者の眉が吊り上がる。


「身分をお忘れか。王家に背く気か」


 そのとき、レオンハルトが前に出た。

 剣を抜くでもなく、ただ一歩。

 その存在だけで空気が変わった。


「背くのではない。

 彼女はここで、王国を守った。

 ならば、王家こそが彼女に敬意を払うべきだろう」


 静かな声だった。

 だが、その場にいた誰もが動けなかった。

 使者の顔が蒼白になる。

 レオンハルトの背中を見つめながら、エリシアは心の奥で何かがほどけていくのを感じた。


 かつて、誰も自分を守ってくれなかった。

 今、目の前の人は、剣を抜かずに自分を守っている。

 その事実だけで、涙がこみ上げた。


 使者たちは無言のまま撤収した。

 雪の門が閉まり、蹄の音が遠ざかる。

 静寂が戻ると、風の音だけが残った。


「……怒らせてしまいましたね、殿下を」


「構わん。王都の者にとって、私はもとより邪魔者だ」


「私も、そうでした」


「……だが、ここでは違う」


 レオンハルトの声は、かすかに柔らかかった。

 彼は窓の外を見上げ、降り積もる雪を見つめる。

 その横顔は穏やかで、いつもの厳しさが薄れていた。


「君が来てから、この城は少し変わった。

 兵たちは笑うようになったし、俺も……眠れるようになった」


「……それは、刺繍のおかげですか?」


「違う。君という人の、静けさのおかげだ」


 息を呑む。

 それ以上、言葉が出なかった。

 胸の奥が熱くなり、雪の白さが滲んだ。

 レオンハルトは彼女の方を見ずに、低く言った。


「王都が何を言おうと、俺は君を守る。

 ――それが、俺の意志だ」


 その言葉が、雪よりも温かく彼女の心に降り積もった。



 風が凪いでいた。

 雪の合間から、初めて小さな草花が顔を出している。

 春の兆しが、氷の城にもわずかに届き始めていた。


 しかし、その静けさは嵐の前のものだった。

 北方の山脈で魔獣の大軍が集結しているという報せが入ったのだ。

 グランベルグ領は、再び戦に巻き込まれようとしていた。


 会議室で、レオンハルトは地図を前に立っていた。

 副官エドガーの声が低く響く。


「敵はこれまでの十倍規模。

 結界を張っても長くは持ちません。……どうされますか、閣下」


「迎え撃つ。……ここで止めねば、王都が滅びる」


 冷静な声。だが、その目の奥には覚悟が宿っていた。

 彼は視線を上げ、エリシアの方を見た。


「俺が行く。前線の指揮は私が取る」


「……あなたが、直接?」


「ああ。だが心配はいらない。兵を無駄にはしない」


 その一言が、かえって胸を締めつけた。

 氷の将軍――その名は、戦場に生きる男の象徴だった。

 生還を約束できない者の声だった。


「……どうして、あなたが行かなければならないのですか」


「他に適任がいない。

 この地は俺が治め、俺が守る。

 ――それが、グランベルグの義だ」


 淡々とした言葉の奥に、どこか遠い哀しみがあった。

 彼はずっと一人で、寒さの中を歩いてきた人なのだと、エリシアは気づく。

 守るために戦い続け、誇りを鎧に変え、心を凍らせてきた人。


 彼が立ち上がるのを見て、エリシアは決意した。

 自分の針で、彼の鎧を護る。

 それが、今の自分にできる唯一の祈りだった。


 その夜。

 彼女は部屋の灯を落とし、机に広げた黒布に針を通した。

 月明かりが糸に反射し、青い光が部屋を照らす。

 縫うたびに、心が震え、糸が歌うように響いた。


「お嬢様……まさか、それを……?」


「ええ。彼の軍服に縫い込むの。

 “守りの契約”――刺繍に込めた魔力が、命と共に動くはず」


「命と……?」


「ええ、もし彼が倒れれば、この針も折れるでしょう。

 だから、決して失敗できないの」


 マリアンヌは黙って頷き、糸束を差し出した。

 淡い光がふたりの手を照らす。

 縫い目ひとつひとつに、祈りを込めた。


 翌朝、彼女は刺繍を終えた軍服を抱えて執務室へ向かった。

 扉を叩くと、中で書類を閉じる音がした。

 レオンハルトが顔を上げ、静かに問う。


「眠れたか?」


「少しだけ。……あなたこそ、休まれましたか?」


「休めるほどの余裕はないが、君の光がある。

 不思議と、心は静かだ」


 エリシアは微笑み、黒い軍服を差し出した。

 胸元には雪の結晶の刺繍。淡い青が陽光を受けてきらめく。


「これを着てください。……あなたを守る力を込めました」


 レオンハルトは布を手に取り、しばらく見つめた。

 やがて、指で糸をなぞる。


「……温かいな。

 ただの布ではない。……君の心が入っている」


「はい。……私の祈りです」


 ふたりの視線が交わった。

 沈黙の中に、言葉よりも強い何かがあった。

 彼は軍服を身にまとい、深く息を吐く。


「これで戦に出れば、君は安心か?」


「ええ。……この刺繍は、あなたの帰り道でもあります。

 糸が切れなければ、あなたは必ず戻ってこられる」


「なら、必ず戻ろう。――約束だ」


 レオンハルトは、エリシアの右手を取った。

 戦場の男の手は硬く、冷たい。だが、その掌には確かな鼓動があった。

 エリシアの針を持つ手と重なった瞬間、光が小さく走る。

 糸がふたりの間で輝き、結ばれた。


 それは儀式でも、契約でもなく、“心の契り”だった。


「君の針が俺を繋ぎ止めるなら、俺の剣は君を護る。

 それで均衡が取れる」


「……そんな約束、ずるいです」


「ずるい?」


「ええ。私の方が……あなたを想ってしまうから」


 言ってしまったあと、彼女は頬を赤く染めた。

 レオンハルトは驚いたように目を瞬かせ、そして、微かに笑った。

 それは氷が解ける音に似ていた。


「なら、俺も同じだ。

 ――君の光を見ていると、心が戻ってくる」


 静かな空気の中で、雪が舞い始めた。

 ふたりの肩に積もるその白が、まるで誓いの印のように見えた。


「戻ってきます。……この城に、君の針の光のもとに」


「ええ。待っています。

 ――あなたのために、また縫い続けますから」


 その言葉に、彼は短く頷き、踵を返した。

 扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。

 その背に、エリシアはそっと呟いた。


「……どうか、無事で」


 静まり返った部屋に、青い光が一度だけ瞬いた。

 針の先が、まるで彼の心音に呼応するように、微かに震えた。



 夜明け前の空が、やわらかく明るみを帯びていく。

 長い冬が、ようやく終わろうとしていた。

 雪の大地に吹く風が緩み、氷を割るように水音が響く。

 春は、いつも気づかぬうちに忍び寄ってくるのだとエリシアは思った。


 それからどれほどの日が過ぎただろう。

 レオンハルトが出征してから、二か月。

 雪が解けても、彼の不在は続いていた。

 刺繍室の窓辺には、毎朝淡い光が差し込むが、そのたびに胸の奥が痛んだ。


 机の上には、彼が去る前に残していった黒い軍服の切れ端。

 その布の端に縫い込んだ糸が、いまも微かに光を放っている。

 “契約の糸”――彼の命と繋がる印。

 それが光を失わない限り、彼は生きている。

 それだけを頼りに、エリシアは針を動かし続けていた。


「……また光りましたね、お嬢様」


 マリアンヌが静かに言う。

 彼女の声にも、どこか春の柔らかさが宿っている。

 エリシアは小さく頷き、針を置いた。


「ええ。……まだ、戦ってるのね」


「きっと、勝っていますよ。あの方は強いですもの」


「ええ。強いけれど、あの人は……優しすぎるから」


 だからこそ、心配なのだ。

 守ることばかりを選ぶ人ほど、自分を顧みない。

 エリシアは糸を撚りながら、指の先で布の端をなぞった。

 ふと、手が止まる。

 針がかすかに震え、光が強くなったのだ。


「……あっ」


 糸がひときわ眩しく輝いたあと、静かに収まる。

 心臓が跳ねる。

 彼が生きている。それを確かめるように、光はまた穏やかになった。


 その夜、彼女は眠れなかった。

 胸の鼓動と針の脈動が重なる。

 まるで、遠く離れた場所で、誰かと同じ呼吸をしているような錯覚。

 窓の外では、雪解け水が流れ、風に春の香りが混じっていた。


 翌朝、城の門が開いた。

 朝靄の中を、黒馬の列がゆっくりと進んでくる。

 エリシアは針を落とし、無意識に立ち上がった。

 足が震える。

 あの姿――。

 氷の外套をまとい、雪を背負って戻る男。

 その胸には、彼女の刺繍が刻まれた紋章があった。


「……レオンハルト」


 名前が、唇から零れた。

 彼が馬を降り、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 傷だらけの鎧、疲れ切った瞳。

 それでも、微笑を浮かべたその姿は、確かに“生きて帰った人”の顔だった。


「ただいま、エリシア」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 こらえきれず、涙が頬を伝う。

 彼は驚いたように目を瞬かせ、そして、微笑んだ。


「約束、守っただろう。

 君の糸が、俺をここまで導いてくれた」


「ええ……。

 針が折れなかったから、信じていました。

 あなたは、必ず帰ってくるって」


 彼は手を差し出し、彼女の指先に触れた。

 戦場で荒れた手。

 それが、こんなにも温かいとは思わなかった。

 触れた瞬間、彼女の針が光を放つ。

 その光はゆっくりと二人を包み、空気が柔らかく震えた。


「これは……?」


「契約の終わりの合図です。

 あなたが帰ってきたから、もう“守る魔法”はいらないの」


 針の光が静かに消え、代わりに淡い桜色の花弁が布の上に浮かび上がった。

 それは彼女の無意識の“願い”の形だった。

 春を告げる刺繍――この世界で最も美しい再会の印。


 レオンハルトは微笑み、彼女の肩に手を置いた。


「君の針が、俺の命を繋いでくれた。

 だから今度は、俺が君の人生を繋ぎたい」


「……それは、求婚の言葉として受け取っていいのですか?」


「そうだ。正式に、だ。

 ――俺の妻になってくれ」


 雪解けの音が遠くで響いた。

 世界が静かに息をする。

 彼女は涙の中で笑った。

 王都で捨てられ、絶望の夜を歩いた少女は、いまや自らの針で未来を縫い直した。


「はい。……あなたとなら、どんな季節でも縫っていけます」


 レオンハルトの手が、彼女の手を包む。

 外では、春の風が氷を砕き、草の芽が顔を出す。

 その風の中で、刺繍布が舞い上がった。

 青と白の糸が絡まり、空へ溶けていく。

 まるで、この城そのものが新しい季節を迎えたようだった。


 城下では、民が歌い始める。

 「氷の将軍に春の花嫁が訪れた」と。

 それは伝説のように語られ、長く長く、この地に残ることとなる。


 エリシアは微笑んで、針を見つめた。

 もう光らないその針は、静かに机に置かれる。

 だが、心の中ではいまも確かに輝いていた。

 あの夜、彼女が初めて針を動かしたときから続く、再生の光が。


「――ようやく、春ですね」


「そうだ。君が縫った春だ」


 二人は並んで城の窓辺に立ち、解け始めた雪を見下ろした。

 世界はまだ冷たく、それでもどこか優しい。

 青空の下で、エリシアのドレスの裾が風に揺れた。

 針仕事の手は、もう震えない。

 その指先に宿るのは、これからの未来だけだった。



完。

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