リアル・フラッシュ・ゴードン MLB選手 ジョー・ゴードン(1915-1978)
フラッシュ・ゴードンは、連載開始が1938年のスーパーマンや1939年のバットマン以前のコミックヒーローだが、コミックの方もフットボール選手出身ということで大学時代フットボール部でも活躍したジョー・ゴードンとキャラが酷似していたため、スーパーマンやバットマン以上に現実味があって、子供たちは相当身近に感じていたのではないかと想像する。コミックの中の人物が、常勝軍団ニューヨーク・ヤンキースの背番号6を背負って、球場でホームランをかっ飛ばすのだから、まさにバーチャルリアリティである。
フラッシュ・ゴードンはアメリカを代表するコミック・ストリップ・ヒーローの一人で、一九三四年一月七日から新聞連載が始まるや、あっという間に全米中で大評判となった。その人気に後押しされて、一九三二年のロサンジェルス・オリンピック競泳男子四百メートル自由形金メダリストのバスター・クラブを主演にユニヴァーサルから映画化され、「フラッシュ・ゴードン」の名は全世界に広まった。わが国でも『超人対火星人』(一九三六)、『火星、地球を攻撃す』(一九三八)の二本のフラッシュ・ゴードン映画が公開されている。
スクリーン上でのフラッシュ・ゴードンの活躍と時を同じくして、ピンストライプのユニフォーム姿で全米を沸かせた現実世界のフラッシュ・ゴードンがいた。ニューヨーク・ヤンキースが誇る強打の二塁手、ジョー“フラッシュ”ゴードンである。
ゴードンが野球で注目されるようになったのはオレゴン州立大学時代である。
フットボール、サッカー、体操、走り幅跳びの選手として活躍する一方で、大学のオーケストラではバイオリニストを務めるほど多種多芸なゴードンだったが、オレゴン大学を一九三四、一九三五年と二年連続西海岸北部リーグ優勝に導いた大学球界きっての強打の遊撃手をメジャーリーグのスカウトが放っておくはずはなかった。
一七八センチ八十キロそこそことメジャーリーガーとしては線が細かったが、ヤンキーススカウトのビル・エシックは、その並外れたタフネスを買い、一九三六年にマイナー契約を結んだ。2Aオークランド・オークス時代は遊撃手で三割をマークし、ニューアーク・ベアーズでは二塁手として二割八分〇厘、二六本塁打と身体に似合わぬ長打力を披露した。
「フラッシュ・ゴードン」と呼ばれるようになったのは、彼がまだマイナーリーガーだった一九三六年からで、ちょうど映画が大ヒットしたのと時を同じくする。
一九三八年、待望のメジャーデビューを果たすと、エシックの期待に違わぬ活躍で、前年まで十年以上も不動の二塁手として活躍したトニー・ラゼリの抜けた穴を完全に埋めてみせた。二割五分五厘、二五本塁打、九七打点は他球団ならクリーンナップ級の長打力である。
しかも彼は新人ながらア・リーグの二塁手として初めて二〇本塁打をクリアした。このゴードンが八番を打つのだから、この頃のヤンキースは層が厚い。
ゲーリッグ、ディマジオ、ディッキーと並ぶメジャー最強のクリーンナップにゴードンまで加わったヤンキースはまさに無敵で、ワールドシリーズでもカブスを四タテしている。
初のワールドシリーズも十五打数六安打六打点一本塁打というヤンキース打線では最高の成績を収めたゴードンは、メジャーリーグでも「フラッシュ・ゴードン」が通り名になった。
ゴードンは二年目も二割八分四厘、二十八本塁打、一一一打点と大暴れし、ヤンキースは二位レッドソックスに十七ゲーム差をつけるぶっちぎりでペナントレースを制した。守備面でも刺殺、捕殺、併殺のいずれも二塁手としてリーグトップの成績を収め、初のオールスターにも選出されている。
ワールドシリーズは前年に続いての四連勝で、レッズを軽く一蹴した。
一九四二年はゴードンにとって最も輝かしい一年になった。
チームではディマジオに次ぐ強打者でありながら、前年度は五十六試合連続安打という空前の大記録を達成した球界屈指のスーパースターの輝きの前では影が薄かったゴードンも、このシーズンやや調子を落としたディマジオの分まで打ちまくり、三割二分二厘、二四本塁打、一〇三打点の好成績で初のリーグMVPを受賞した。
もちろん評価されたのは打撃成績だけではない。打撃だけなら年度の三冠王テッド・ウィリアムズが上にいたからだ。
リーグ最多の一二一併殺に代表されるように、内野の要である二塁手としての信頼感に加えてここぞというチャンスに強いクラッチヒッターぶりが加味され、二七〇ポイント対二四九ポイントでゴードンに凱歌が上がったのだ。打撃三冠王がMVPに選出されなかったのは史上初の出来事だった。
ディマジオが兵役でチームから離れた一九四三年は開幕から四番に抜擢されたが、どうも柄ではなかったようで、終盤は定位置の六番を打った。
一九四四~一九四五年は自身も兵役でブランクをつくり、一九四六年にチームに復帰したが、自己最低の成績に終わりインディアンズにトレードされてしまった。
ところがボブ・フェラーのワンマンチームだったインディアンスは、打の中軸となるゴードンの加入により強豪チームに生まれ変わったのである。
ゴードンは二九本塁打とその長打力を取り戻し、インディアンスは一九四六年度の六位から四位に躍進、一九四八年度はついにリーグ優勝を勝ち取るまでになった。監督兼遊撃手のルー・ブードローと四番二塁手ゴードンのコンビによる攻守に渡る活躍はチームの快進撃の原動力となった。
一九四八年度のオールスターのア・リーグ先発はブードローが三番、ゴードンが四番でディマジオとウィリアムズが控えというのを見ても、ア・リーグ屈指の二遊間がいかにファンに支持されていたか想像がつくだろう。
同年のMVPは首位打者に輝いたブードローが獲得したが、ゴードンもキャリアハイの三二本塁打、一二四打点と猛打を振るい、本塁打、打点の二部門でかつての同僚ディマジオとタイトル争いを繰り広げた(本塁打はリーグ二位)。
ゴードンの引退は一九五〇年、三十五歳の時で二割三分六厘、十九本塁打とまだ余力を残しての英断だった。
兵役を除く十一シーズンの全てをレギュラー二塁手として過ごし、オールスター出場九回、リーグ優勝六回、ワールドチャンピオン五回という輝かしいキャリアを歩んできたゴードンならではの潔い引き際だった。
一九五八年シーズン後半からインディアンスの監督を務め、このシーズンは四位、翌年は二位と順位を上げたが、一九六〇年の後半には監督同士のトレードでタイガースに移籍した(最終順位は六位)。
ゴードンを同時代最高の二塁手に推す声は多い。打撃成績、守備能力だけであれば、彼より上の選手はいたかもしれないが、人間的にも明朗で正義感が強く、架空のヒーロー、フラッシュ・ゴードンを地でゆくような人望のある選手だった。
ゴードンがインディアンスに移籍した最初のシーズンの七月、チームは初の黒人選手ラリー・ドビーを獲得した。
メジャー初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンもそうだったが、巷で黒人に対する差別意識が払拭されていない当時は、カラーラインが撤廃されたとはいえ、白人選手の黒人選手に対する風当たりは強く、ドビーが自己紹介しても握手にすら応じてくれる選手はいなかったという。
監督のブードローからして、ドビーの入団はオーナーのジョークと思っていたそうだから、相当気まずい雰囲気だったのだろう。
そんな彼に「よう、若いの。キャッチボールしようぜ」と最初に声をかけたのがゴードンだった。
「この時は本当に救われた気がした」とゴードンの気遣いに感謝していたドビーは、2年目に三割を打ってレギュラーに定着した後、本塁打王二回、打点王一回を獲得するほどのリーグを代表する強打者に成長した。一九六二年には中日ドラゴンズに入団し、元メジャーの本塁打王として大々的に紹介されたこともある。
ドビーはメジャー十三年のキャリアで二五三本塁打、九七〇打点、一五一五安打を記録したが、これはゴードンの残した二五三本塁打、九七五打点、一五三〇安打とほとんど同じである。これだけではない。キャリアハイの記録もまたドビーの三割二分六厘、三二本塁打、一二六打点に対してゴードンは三割二分二厘、三二本塁打、一二四打点という僅差である。
長らくインディアンスの四番を打ったドビーと、彼よりも二回りほど小柄なゴードンの打撃成績に大差がないのはある意味驚きである。
近年の選手で言えば、同じ二塁手でヤンキースの後輩にあたるロビンソン・カノがゴードンに最も近いタイプかもしれない。
偶然ではあるが、銀幕の世界のフラッシュ・ゴードン(バスター・クラブ)と野球界のフラッシュ・ゴードンは、ともに北アメリカで最古最大の男子学生友愛クラブ(秘密結社的趣もある)の一つであるシグマカイ友好会のメンバーであった。
もう一つおまけの偶然だが、頑強な肉体を誇ったバスター・クラブ、ジョー・ゴードンともに心臓麻痺で亡くなっている。




