第一章1——『静寂の花園』——
陽光が差し込む丘の上、薄桃色の花が一面に揺れていた。
風が吹くたび、花弁は空に舞い、少女の金糸の髪をそっと撫でていく。
「……今年も、同じ色の風。」
ミディア・エルフェリアは、そっと目を細めた。
十五歳の春、彼女はこの国の魔法学園への入学を迎えていた。
白銀の制服に袖を通した彼女の姿は、誰の目にもただの可憐な少女にしか映らない。
けれど——その瞳の奥に宿るのは、神代の時代をも焼き払う“黄昏の光”。
彼女こそ、かつて世界を救った巫女にして、最強の魔法使いだった。
だが、それを知る者はもういない。
ミディア自身も、その名を口にすることをやめていた。
学園は、王都から少し離れた湖のほとりに建つ。
湖面には常に薄靄がかかり、朝焼けを映すと金色に輝くことから、「神の瞳」とも呼ばれていた。
入学初日。
新入生たちは期待と不安を胸に、大講堂へと足を運ぶ。
ミディアもまた、控えめにその列に加わっていた。
「おーい! そこの子、一人?」
背後から明るい声。
振り返ると、赤髪の少女が笑っていた。
快活な瞳が印象的で、名をリリィ・アーディアと名乗った。
「私はリリィ! あなたは?」
「……ミディア。よろしくね」
「ミディアか、いい名前! 一緒に席行こう!」
リリィの勢いに押される形で、ミディアは微笑を浮かべる。
人付き合いは得意ではない。けれど、こうして差し伸べられる手を拒む理由もなかった。
その日のうちに、彼女たちはクラス《初等魔法Ⅰ組》へと配属された。
授業は基礎魔法の詠唱、魔力制御、そして各属性の適性検査。
生徒たちは競い合うように魔法を披露していた。
「次、ミディア・エルフェリア」
教師の声が響く。
ミディアは静かに立ち上がり、杖を掲げた。
本来なら、この世界のすべての魔素を操ることができる。
だが、そんなことをすれば一瞬で目立ってしまう。
「……《風の囁き》」
控えめに唱えた詠唱。
小さな風が吹き、花弁を一枚だけ浮かせる。
見事に“普通”な魔法。周囲から拍手が起こる。
「おお、繊細で綺麗な制御だね!」
「すごーい! あんなに精密なの、難しいよ!」
教師も微笑んだ。「なるほど、制御型か。いい適性だ。」
——これでいい。目立たなければ、それでいい。
ミディアは胸の奥でそっと安堵した。
放課後、学園の庭園でリリィと昼食を取る。
その隣には、寡黙な少年カイルも加わっていた。剣士志望の彼は、無口だが優しい目をしている。
「ねえ、ミディアって、どんな魔法が得意なの?」
「……風、かな。小さいのしか使えないけど。」
「えー、もったいない! 絶対もっとできるタイプでしょ!」
リリィは明るく笑い、カイルはパンをかじりながら「……たしかに、妙に安定してる」と呟いた。
ミディアは苦笑するしかない。嘘は言っていない。ただ、本当を隠しているだけだ。
この平穏が続けばいい。
そう願う自分が、少しだけ切なかった。
その夜。
ミディアは学園寮の屋上に立っていた。
湖面に映る月光が、まるで異界の門のように輝いている。
「……また、あの夢。」
毎晩、夢を見る。
燃え尽きる世界。叫ぶ人々。崩れ落ちる神殿。
その中心で祈る自分——“黄昏ノ巫女”と呼ばれていた過去の姿。
——《巫女よ、なぜ力を封じる?》
——《いずれ、魔王が再び甦る》
——《そのとき、お前は再び選ばれねばならぬ》
「……いやよ。もう、誰も救えない。」
ミディアは空に手を伸ばした。
指先に、わずかな魔素が灯る。
かつて世界を焼いた光——黄昏の輝き。
けれど彼女は、そっとその光を消した。
数日後。
学園では《模擬討伐演習》が行われることになった。
森に潜む魔獣を倒す実践授業。新入生にとっては最初の大試練だ。
「おーし、気合い入れるぞ!」
とリリィが拳を振る。
カイルは剣を構え、ミディアは控えめに頷いた。
彼女の役目は後方支援。風魔法で味方を守るだけ。
そう、ただの一生徒として——。
しかし、森の奥。
突如として空気が歪み、漆黒の穴が開いた。
「な、なにあれ……!? 魔獣の群れ!?」
「違う……あれ、召喚陣だ!」
教師たちが駆け寄るが、間に合わない。
黒い霧の中から、異形の影が現れた。
その姿を見た瞬間、ミディアの全身が震えた。
「……まさか、封印が……」
霧の中で咆哮が響く。
魔王の眷属——“虚闇の犬”が蘇っていた。
仲間が叫び、逃げ惑う。
リリィが足を取られて倒れる。
その瞬間——
ミディアの中で、何かが切れた。
「やめて……!」
空気が震え、世界が一瞬、静止した。
光が花弁のように散り、彼女の背に光輪が浮かぶ。
封じていた魔力が、あふれ出したのだ。
「《黄昏の祈祷》——沈め、闇。」
詠唱は静かで、けれど絶対的だった。
光が爆ぜ、黒い霧ごと魔獣を消し飛ばす。
風が止み、時間が再び流れ出す。
——誰も、言葉を発せなかった。
リリィは呆然とミディアを見つめ、カイルは剣を握る手を震わせた。
教師が駆け寄る。「お、お前……今のは……」
ミディアは小さく首を振った。
「……秘密に、してほしいの。」
そう言って、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
けれど、その背後の空には、微かに黒い兆しが浮かんでいた。
——魔王復活の予兆が、静かに世界を染め始めていた。




