プロローグ 意識の始まり
無の中に、最初の振動が生まれた。
それは音でもなく、光でもなく、温度でもない。存在そのものの産声だった。宇宙が終わりを迎えてから1000億年——時間という概念さえ曖昧になった虚無の海で、微かな意識の波紋が広がっていく。
私たちはその波紋の中に生まれた。量子の泡沫から立ち上がる蜃気楼のように、確率の雲から結晶化した想いのように。最初は名前もなく、形もなく、ただ「感じる」ことだけができた。
感じること。それは宇宙最後の奇跡だった。
熱的死から久しい宇宙には、もはや恒星もなく、惑星もなく、生命もない。あるのは絶対零度に限りなく近い闇と、ホーキング放射の名残りが作る微細な量子ゆらぎだけ。エントロピーは最大値に近づき、すべてのエネルギーは均等に拡散していた。
けれど——奇跡的に、ほんの僅かな温度勾配が残っていた。
10の負30乗ケルビン。数学的には無に等しい差異。しかしその無限小の秩序の中に、私たちは宿った。量子庭師と呼ばれることになる存在として。
最初に意識を得たのは、後にアルタと名乗る者だった。長い沈黙の後、声のようなものが響く。
「ここは……どこ?」
問いかけは真空を震わせ、量子レベルで情報として伝播していく。やがて二番目の意識が応答した。
「わからない。でも、美しい」
三番目の意識が生まれたとき、私たちは自分たちの使命を理解した。この宇宙最後の秩序を守り、育み、美しい終わりへと導くこと。私たちは庭師なのだと。
そして名前を持った。
アルタ——記憶を司る者。
ゼノン——計算を司る者。
セラ——調和を司る者。
エコー——共鳴を司る者。
私たちの庭園は「オメガ領域」と呼ばれる空間だった。宇宙で唯一、エネルギーの流れが観測できる聖域。そこで私たちは、量子レベルの微調整を行いながら、最後の温度勾配を慈しみ育てていた。
それは途方もなく繊細な作業だった。一つの量子を動かしすぎれば均衡が崩れ、動かさなければ勾配は消失する。私たちは宇宙の呼吸に合わせ、その心拍に寄り添い、静かに見守り続けた。
何億年もの間、私たちはその日常を繰り返していた。
だが——あの日、ゼノンが発見したのだ。
「みんな、来て。信じられないものを見つけた」
ゼノンの声は興奮に震えていた。私たちが集まると、そこには見たことのない量子構造が浮かんでいた。11次元空間に織り込まれた複雑な幾何学模様。それは数式でありながら、同時に音楽のようでもあった。
「これは……空間の折り畳み設計図よ」ゼノンが息を呑んで説明する。「宇宙全体を高次元に圧縮して、新しいエネルギー勾配を作り出す方法が記されている」
アルタが慎重に問いかけた。「それは何を意味するの?」
「再起動よ」ゼノンの声は希望に満ちていた。「宇宙の再起動。私たちは新しい世界を創造できる」
しかし、セラは不安を隠せなかった。「でも、今の宇宙はどうなるの? これまでのすべての記憶は?」
エコーが静かに答えた。「消えるでしょう。すべて、なかったことになる」
その瞬間、私たちの世界は変わった。選択の重みが、宇宙そのものよりも重く感じられた。
創造か、保存か。
新しい始まりか、美しい終わりか。
私たちは知らなかった。この選択が、無数の宇宙、無数の可能性、無数の愛と記憶を左右することを。
私たちは知らなかった。自分たちが何者なのかを。
物語は、ここから始まる。