五章 銀葉アカシアに寄せる想い
なぜ、こんな所に連れてこられたのか理解不能だった。
防寒など、霊力を使えばどうとでもなることだ。それを、わざわざ服装で左右するなど非効率的だとシャナインは思っていた。
しかし、インジュにだけは大人しく従えと命を受けていたシャナインは、何も言わずに白虎野で1番大きな街に来ていた。そもそも、主の命令も非効率的だと思う。復讐とはよくわからないが、最後には殺してしまうのなら、今抹殺してもいいような気がするが、まだ殺すなという。シャナインは、魔物が狩れれば他は何もいらない。言われるがまま、インジュと行動を共にしていた。
「これなんてどうです?」
そして、その恰好は寒い!というギンヨウに連れられ、3人で街の服屋に来ていた。
インジュが手にしたのは、落ち着いた赤色の、白いファーが首と手首、裾に縫い付けられた可愛らしいコートだった。
「いいですが、動き辛くてやがりませんか?雪かきには向きやがりません」
「……ギンヨウ君……そんな重労働と普段の防寒、一緒にしちゃダメです!雪かきの時は、店にあるあれでいいでしょうが!」
店にあるあれと聞いて、ギンヨウはあからさまに不満そうに眉根を潜めた。
「あれでいいんでやがりますか?まったくもって、可愛さの欠片もなくてやがりますが」
「ギンヨウ君、雪かきに可愛さ求めちゃダメです!」
普段常識人なのに、いきなりどうしてこんなおかしなことを言うのだろうか?とインジュは初めてに近い、ギンヨウへのツッコミをしていた。するとギンヨウは、困った顔をした。
「女性がいたことがないので、勝手がわからなくてやがります」
普段自信があるギンヨウが、本気で困っているのがわかった。シャナインはこんなもの、着られれば何でもいいのにと思っていた。それよりも、早く魔物狩りに行きたかった。のだが、インジュが気になることをギンヨウに言った。
「じゃあ何も考えないで、シャナインに似合うと思うモノを選べばいいんですよぉ!アクセサリー作家なんだから、得意ですよねぇ?」
ギンヨウは、盲目のアシュデルの代わりに描かれたデザインを形にする。絵が立体になっていく様は不思議で、シャナインはなぜか興味を惹かれていた。
特に『雪の女神』と名付けられたシリーズは、シャナインの密かなお気に入りだった。身につけても何の効果も得られないアクセサリーになどに、何の意味もないのになぜか、身につけてみたいと思ってしまっていた。
「ああ、そういうことでしたら、こちらなどいかがでやがりましょう?」
ギンヨウが選んだのは、明るい茶色のコートだった。袖口に雪の結晶の刺繍が施され、銀糸が縫い込まれているのか、ランプの明かりでキラキラと煌めいて見えた。
刺繍の雪の結晶が、ギンヨウの作る雪の結晶の装飾に似ていて、シャナインはそっと手を伸ばしていた。これが似合うと、ギンヨウが思ってくれたことに、シャナインの心はなぜだか温かくなった。これはいったい何だろう?わからなかったが、シャナインはこのコートがいいと思った事は確かだった。
「決まりですかねぇ?」
袖を掴み、無言で凝視している姿を見てか、インジュは言った。
「そうでやがりますか?それはよかった」
ギンヨウは得意げに、眼鏡の奥の瞳を細めた。
それからシャナインは、ギンヨウの買い出しについて行くようになった。彼から命じられたからではない。家にいるとき、戦闘時は脱げと言われてしまうこのコートを着たかったのだ。
自主的についてくるシャナインに初めは「女性に荷物持ちはさせられやがりません」と言っていたギンヨウも、シャナインが自分よりも遙かに腕力があることを知り、自然と持たせてくれるようになった。自分が手ぶらということは絶対になかったが。
大きな街に出ることはあまりなかったが、店先のショーウインドウに飾られた服を何気なく見ていると、ギンヨウが近寄ってきて言った。
「ああ、あなたに似合いそうでやがりますね。服飾ができれば、作ってさしあげるんですが、こればかりはしかたなくてやがります」
「ギンヨウにも、できないことがあるのですか?」
思わず問うてしまった。ギンヨウはゆっくりと瞳を瞬いて、不思議そうな顔をした。
「ありますよ?できないことだらけでやがります」
当たり前のように返され、シャナインは首を傾げた。
「ギンヨウは、何でもできます」
シャナインの言葉に、ギンヨウはフフと笑った。困った人でやがりますね。そう言われた気がした。
「わたしに何ができて何ができやがらないのか、探しやがってください。わたしを観察する許可を、さしあげます」
それは、もっと一緒にいてもいいということだろうか?シャナインが答えられないでいると、彼は言った。
「ご褒美制の方が、やる気が出やがりますか?でしたら、3個見つけるごとに、ケーキでどうでやがりますか?」
ケーキ!あの綺麗で美味しいお菓子は、手間とお金がかかるらしく、ギンヨウはなかなか作ってくれない。作ってほしいが、要求などできるはずもなく、シャナインは我慢していた。
「やります。最初のケーキは、黒いサクランボケーキを要求します」
それは、さっきパンを買った時に置いてあったケーキだ。何味なのか、黒いスポンジに、白いクリームが雪のようにのっかり、煮詰めたサクランボが宝石のように飾られていた。
ジッと見つめていたら、店主が名を教えてくれたのだ。「買うかい?」となぜかギンヨウは店主にニヤニヤと笑われていた。ギンヨウは「自分で作りやがりますので、買いません」と笑顔を返していた。
「よっぽど気になっていたんでやがりますね。わかりました。作ってさしあげますよ」
ギンヨウは確かに、できないことがあった。だが、それのどれも彼には必要ないことのように思えた。
「自分で言った事でやがりますが、これだけできないことを挙げられると凹みやがりますね」
かぶるといけないと、メモに書き出されたできないことリストに目を通しながら、ダイニングテーブルの向かいに座ったギンヨウは苦笑していた。シャナインの前には雪下木イチゴのケーキが置かれている。このケーキの報酬は、いくつ目だろうか。
「ですがあなたは、やはり何でもできます。ギンヨウ」
料理作りを手伝っても、一向に上手くならない。ギンヨウは怒らないが、直される様を見るとガッカリする。
「シャナイン、わたしができることをあなたができないとしても、あなたの生きる世界には必要ないモノでやがります。魔物に拘るあなたは、戦う精霊なんでやがりましょう?そちらはまったくなので、何も言えることはなくてやがりますが、自分の進む道を精進すればいいんでやがりますよ?」
自分の進む道……考えたこともなかった。シャナインは心細くなって顔を上げた。ギンヨウが僅かに驚いたような気がしたがなぜなのかわからなかった。
「わたしは、ここにいてはいけないのでしょうか?」
何かおかしなことを言っただろうか。ギンヨウは、僅かに瞳を見開いた。それは、シャナインの先の表情の理由がわかったような顔、のような気がした。そして、ゆっくりと微笑んで、首を横に振った。
「いけません。あなたの生きるべき世界は、イシュラースでやがります。ここは、借住まいでやがります」
ギンヨウを見つめていると、彼の手が伸びてきて頭に触れた。
「そんなに、不安そうな顔をしやがらないでください。追い出したりしやがりませんから」
不安?自分が何を感じているのかわからなかったが、頭を撫でてくれたギンヨウの手が温かいことだけはわかった。
インジュはどこへ行っても、注目を集めた。
それは、美形だからだそうだ。対するギンヨウは、そうでもないらしい。
「目立たない方がいいに決まってやがります」
人々に囲まれたインジュを尻目に、ギンヨウは黙々と野菜を吟味していた。今夜の夕食の買い出しに、工房近くの村に来ていたのだ。なんでも今日は、月に1回行われている市が立つ日なのだそうだ。
「うちにはすでに、注目を集めやがっても無頓着な、困ったダメ師匠がいやがります。わたしまで注目を集めてしまったら、暮らしにくくなってしまいやがりますよ」
「やっかみかい?ギンヨウさん」
すかさず八百屋の店主に揶揄われたギンヨウは、微笑んだ。
「はい。インジュは美しいですね。羨ましいです」
「ギンヨウ君!心がこもってないですよぉ!ボクこれでも奥さんいるんで、節度は守ってますよぉ?」
知っている。インジュは魔導士だから頼られている節もある。それに、ギンヨウとインジュ、どっちの顔が好みか?と聞かれたら、シャナインは断然ギンヨウだと思う。
「では、妻帯者のインジュさん、今日もしっかり稼いで来やがってください。食い扶持が2人も増えやがって、家計に響きまくりでやがりますので」
「わかってますよぉ!見ててくださいよぉ?あの肉!買って帰りますからねぇ!」
インジュが指さしたのは、今朝仕留められたというシロクマだった。いつ買う話になったのだろうか?あれは高い。予算オーバーしている。あんなモノ買ったら、ギンヨウが苦労してしまう。阻止しなければ!
「インジュ、シロクマが食べたいのでしたら、わたしが仕留めてまいりますが」
シャナインは、提案してみたがあっさり却下された。
「あれを買うことに意味があるんです!待っててください!シロクマ鍋!」
インジュは意気込んで、なぜか市の立つ広場の真ん中へ出て行った。
何を?と彼の後ろ姿を見ていると「見ていてください」とギンヨウに言われた。言われた通り大人しくしていると、インジュはどこからともなくバイオリンを取り出して弾き始めた。軽快なリズムで、思わず踊りたくなるような曲だった。そこへ、インジュの男性にしては高い、軽やかで今日の空のように澄んだ歌声が重なった。
「ギンヨウさん、シロクマを捌けるかい?」
八百屋の店主が、ギンヨウに声をかけた。
「ええ、まあ」
「あれの肉が丸ごと入るくらいの、大きな鍋があるんだがねぇ」
いつの間に、1頭買うという話に?と思わなくもなかったが、八百屋の店主が何を言いたいのかギンヨウにはわかったようだ。
「あれを持ち帰っても、半分も食べられませんし、インジュはお祭り好きでやがります。乗りましょう」
何事か商談が成立したようで、ギンヨウと八百屋の店主はすぐさま行動を開始していた。シャナインはというと、誘われるように広場の真ん中へ足を進めていた。インジュの歌声に、広場には人々が集まり始めていた。
インジュが1、2曲歌う間に、どこからともなく楽器を持った人々も集まり、インジュは短く彼等と打ち合わせをすませると、この島の誰もが知る歌を、彼等と共に弾き始めた。
インジュの歌を、シャナインはこのとき初めて聞いた。
彼が、度々夜にどこかへ出掛けていっているのは知っていたが、シャナインは夜は外出禁止だと言われていた。戻ってきたギンヨウの話では、インジュは、村々の酒場で歌って金を稼いでいたらしい。夜では聞ける者が限られてしまうと、昼間に歌ってくれないか?と持ちかけられるほど人気があるようだ。
「おかしな話ではなくてやがりますよ。あの人、正真正銘、プロの歌手でやがりますから」
楽しそうに歌うインジュを見つめ、ギンヨウも楽しそうだった。そんなギンヨウの横顔を、シャナインは見つめていた。
その夜広間では、収穫祭さながらのシロクマ鍋食し会が催された。
調理を担当したギンヨウは、シロクマを1人で捌いてしまった。その手際の良さに、人だかりができたほどだ。シャナインは、あんなモノを捌けるのに、なぜ戦えないのかとても不思議だった。
「レイシとは、誰なのでしょうか?」
シャナインは何気なく、アクセサリーを作るギンヨウに問うていた。
「昔ここにいた、居候でやがりますね。師匠はどうも、犬猫のように人を拾うくせがあるようでやがります」
レイシという名を、シャナインが知っているのは、主が度々その名を口にしていたからだ。恨み辛みにまみれた、でもその他に何かあるような、そんな声だった。
手元から顔を上げないギンヨウの後ろ姿を見つめながら、シャナインはわからなくなる。まるで、刷り込むように主はレイシの名を口にするが、シャナインは何も感じてはいなかった。インジュにも同じだ。誤解を与えるような態度を取れと命じられ、実践してはいるが、それだけだった。
だのに、ギンヨウの没頭する後ろ姿を見ていると、なんだか、胸の辺りがモヤモヤする。何というか、抱きつきたくなるような?いきなりそんなことはできない。それくらいの節度はある。でも、あの頼りない腕に抱かれてみたいなと思ってしまうこともある。この想いは、いったい何なのだろうか?
「レイシには昔、奥さんがいたんでやがります。取り返しのつかないことをして、別れたと言ってましたが、そんな話、巷に溢れてやがります。永遠に思い合えたら、そんな幸せなことはありませんが、難しいことなんでやがりましょう」
ギンヨウが振り返った。
「わたしは、願いを込めて指輪を作りやがります。死が、2人を別つまで幸せでいられるように。花を咲かせ実を結ぶ、花の精霊の性でやがりますね」
ギンヨウが差し出してきたそれを、シャナインは受け取った。
「『雪の女神』シリーズの新作でやがります。どうです?見事でやがりましょう?」
指輪の輪の上に、絡むような雪の結晶の台座があり、台座にはこの島の特産の鉱石である『ツェーの息吹』をブリリアントカットしたものがはめ込まれていた。
無色透明な氷のような石の中に、キラキラと朝日に輝くダイヤモンドダストのような煌めきが、閉じ込められている。
綺麗……。シャナインはギンヨウの座る机に置かれていたランプの光に『ツェーの息吹』をかざして見ていた。
「婚約指輪というヤツでやがります。結婚の約束のために贈る指輪でやがりますよ。師匠はボンヤリしていますが、デザインセンスだけは確かでやがりますね」
満足げなギンヨウに、シャナインは自分でも驚くような行動に出ていた。
「ぬ、抜けない!?」
指輪を左手の薬指にはめ、その美しさに刹那ホウとため息を漏らしたシャナインは、ハッと我に返って慌てて指輪を抜こうとした。だが、スリルと入ったはずの指輪はまったくぬけなくなっていた。
「ああ、指輪の精にイタズラされやがりましたね?今日店頭に出すと、告知してしまってるんですが……」
時計を見れば、開店まで1時間だった。「困りましたね」ギンヨウにそう呟かれ、シャナインは血の気が引いた。
「ごめんなさい」
すんなり謝罪の言葉が出ていた。いけないと思うことをしたら、そう言えとインジュに言われていたが、どういうタイミングで使えばいいのか、今まではわからなかった。それが、考えるよりも早く、口から出ていた。
「シャナイン、このまま店の中に1日立っいやがりなさい。手はこうでやがります」
ジッと見つめていたギンヨウが、いきなりシャナインの手を取った。抜けなくなった指輪と、零れ出た謝罪の言葉に動揺していたシャナインは、ギンヨウに手を握られて瞬間思考回路が停止した。ギンヨウは気がついた様子なく、シャナインの指輪の嵌まった手を、手の甲が皆に見えるように顔の横に持っていった。
「いい。我ながら天才的な出来映えだ」
いつもの彼よりも低い、聞いたことのない口調のつぶやきに、シャナインは我に返っていた。
ギンヨウは機嫌良く、シャナインをレジカウンターの隣に立たせて店番を始めたのだった。
その日、5件の指輪の注文を取り、ギンヨウはホクホクだった。アシュデルには「どんな魔法を使ったの?」と驚かれていたが、ギンヨウは「秘密でやがります」と笑った。
「ああ、シャナイン。しっかり泡立てて手を洗いやがってください」
上機嫌のギンヨウは、その夜そう言った。真面目にそれを実践すると、指輪は驚くほどすんなりシャナインの指から外れたのだった。
ホッとしたが、重みのなくなった薬指が、なぜか物足りなかった。
愛して――
意味はわかる。ノインが、名前負けだと言った意味も、今のシャナインには理解できていた。
シャナーという言葉の意味が、愛する、愛されるという意味であることを、シャナインは知っていた。そしてこの名が、復讐のためにつけられた名であることも、知っていた。
愛して。求めてはいけないもの?シャナインは、死んでいるような青白い顔で眠るギンヨウを見つめていた。かれの左手首には、腕時計があった。弟子達と音声のみやりとりできる魔法が組み込まれた魔導具でもあるそれを、ギンヨウはいつでも身につけていた。
シャナインはギンヨウの冷たくなった左手を取っていた。
蚊帳の外のギンヨウは、蚊帳の外のままだと思っていた。
それなのに、主は彼を、戦闘能力皆無のギンヨウを巻き込んだ。
なぜ、関係ないギンヨウがこんな目に遭わなければならないのか、遭わされなければならないのか、シャナインには理解できない。だって、主はギンヨウに見向きもしていなかった。眼中になかったのに、こんな……。
シャナインの胸の奥、ずっと深いところからユラリユラリと、何も映さない闇の心が揺さぶられるのを感じた。
ギンヨウの冷たい手が、哀しい。冷たい雪に冷やされて赤くなった指先を何度も目にしていた。それとは違う、死に掴まれた凍える手……。
ギンヨウは何でもできる人だ。この手で、美味しい料理を作り、皆を魅了するようなアクセサリーを作り出す。対するシャナインは何もできない。この手は、何をしてもうまくできなかった。
「なぜそんなに拘るんでやがりますか?」
「何もできません」が口癖になっていた。あるとき、それをギンヨウに咎められた。
「あなたは、何もできないのではなくてやがります。できないと、思い込んでいるだけでやがります」
ギンヨウの怒った瞳を、シャナインは見返していた。彼の手が、シャナインの手を取った。
「あなたの生きるべき世界はどこでやがりますか?ここではなくてやがります!もう、逃げるのはやめなさい」
見捨てられたと思った。握られた手を取り戻そうとしたが、ギンヨウは離してくれなかった。
「わたしは、ここから出ることはできなくてやがります。しかし、あなたは風の精霊だ!隔てる壁のない世界を飛ぶことのできる精霊でやがります。それなのに、こんな狭い世界で終わるつもりでやがりますか?」
何かを訴えかける、哀しげな瞳の意味を、あの時は理解できなかった。
それが、夜の闇に閉ざされた道を照らすランプの光のように、今、シャナインの心を光が貫いていた。
あなたは、わたしを、1人の人として見てくれていたのですね?意志など、感じる心など不要だと思っていた。ただ、魔物を狩れればそれでいいと思っていた。ただの人形であるわたしを……。
魔物を狩ることさえ奪われなければいいと、思っていた。
主に支配されていることに、気がついていなかった。支配されるということが、どういうことなのかすら、わかっていなかった。わかろうとしていなかった。
大人しくしていれば、従っていれば続くと思っていた。ギンヨウに守られた、この優しい世界に、いられると思っていた。しかし、ギンヨウは知っていたのだ。この世界には終わりがあるということを。
それを、悟らせようとしてくれていた。インジュもアシュデルもいろいろ教えてくれたが、ギンヨウのように叱ってくれることはなかった。彼の怒りは、いつまで経ってもできないことへの苛立ちではなかった。もっと深く、根源的なモノに苛立ってくれていたのだ。
それを、シャナインはわからなかった。彼のくれた愛を。
もっと早く、ギンヨウの愛に気がつけばよかった。そうしていれば、ギンヨウがこんな目に遭うことはなかったのかもしれない。
後悔。後悔がシャナインの心に風を巻き起こして、魂と心に絡みついていた闇を弾き飛ばしていた。
ギンヨウ……わたしは、何もできません。愛して、もらう資格はないのです。こっちへおいでと手を伸ばしてくれたギンヨウの手を、掴むことはもう、できない。遅すぎた。ギンヨウが愛してくれたのに、それを受け取りそこなったから。
それでも――シャナインは死んでいるようなギンヨウの顔を見た。
「わたし」が、あなたを、愛して、いる――。シャナインは、腕時計の文字盤を保護しているガラスに触れていた。ガラスにシャナインの霊力が巡り、光の加減で姿を現す、雪の結晶が描かれていた。
そうっと、ギンヨウの手を彼の腹の上に戻すと、シャナインは立ち上がっていた。
ギンヨウのようにできないわたしにも、1つだけ、できることがある。ギンヨウの命を、諦めるわけにはいかないと、シャナインの瞳に、初めて、意志という光が宿っていた。
彼女の背後にゲートが開く。シャナインは、その中へ飛び込んでいた。
ゲートの先は、彼女の知らない場所だった。白虎野島とは違う、真っ白な光溢れる、人工物――太陽の城だった。
「レイシ、わたしと来てください」
彼とは初対面だが、その姿は聞き出していた。それに、主から教えられた固有魔法・レイシの隣を使って最初に会えた人がレイシだと、確信していた。
愛して、愛してとは、愛しているから芽生える願望ではないのか?しかし、主からは「なぜ愛してくれないの?」という心しか感じなかった。
今のシャナインにはわかる。それは、主が『レイシ』を愛していなかったから、愛してくれなかったのだと。
ギンヨウがなぜ、愛していないシャナインを愛してくれたのかわからない。わからないが、彼のくれた愛と、シャナインに芽生えた愛が別物であることは、理解していた。そういう意味では、シャナインはまだ、ギンヨウに愛されてはいない。だが、なぜ愛してくれないの?とは思わない。わたしが愛しているのだ。それでいい。
「はあ?あんた誰?」
オレンジ色の短い髪の、勝ち気で暑苦しいギラギラした瞳の青年が、訝しそうにシャナインを見やった。
「事態を終息させる力があると、判断しました。レイシ、あなたを連行します」
ギンヨウは、口が悪い。だが傷つけるような物言いではない。不遜な態度で、しかし、甲斐甲斐しくて、料理の腕は確かで、アシュデルのデザインに絶対の自信を持っていた。
平穏をこよなく愛する彼にはきっと、シャナインは重荷以外の何者でもなかった。それでもギンヨウは、そこに関してだけは文句も言わず、付き合ってくれた。シャナインが、脅かす者だと知っていたのに。
――愛して――くれなくてもいい。ギンヨウ……
今まで通り、あの場所で生きていてほしい。消えるべきはギンヨウではなく、シャナインのほうなのだから。
レイシを前にしても、シャナインの心にあるのはギンヨウのことだけだった。彼はまったく戦えない。インジュが守ってくれているが、長引けばどんな後遺症が残ってしまうかしれない。彼が何かを失うのは、絶対に嫌だった。
「嫌だと言ったら?」
お決まりのセリフですね。シャナインは冷えた心で思った。
「今わたしと来れば、雷帝・インファに恩が売れます。そのチャンス、ふいにしますか?」
レイシが単純な男だということは、聞いていた。そんな彼に感謝しなければならない。なぜなら、ギンヨウを助ける為に、利用されてくれるのだから!
「ノインとインジュが苦戦する戦いに勝利できれば、インファは、あなたを見直すでしょう」
兄だというインファの事など、シャナインはまったく知らない。ノインのことも会ったことがあるが、主に関わるなと言われて遠ざけた。まったくのはったりだ。
「そ、そんなに言うならしかたないな。行ってやるよ」
「フフフ、チョロい」ギンヨウがたまに黒い笑みを浮かべて呟いていた言葉が、シャナインの心にシャナインの声で再生された。
シャナインはレイシと共に、開いたままにしていたゲートを越えた。
――ギンヨウ、あなたを、わたしが、救います
シャナインの心に、金色に輝く風が力強く吹いていた。
インジュは、シャナインがゲートを開いたのを見て、後を追おうか刹那迷った。
しかし、インジュがまだそばにいるというのに、眠れるギンヨウに愛おしげに触れていた彼女を、信じようと思った。
それに、彼の時計の文字盤に施したこれは、婚姻の証になり得る。
精霊の婚姻は、自分の霊力で作ったアクセサリーを贈り合うことで成立する。シャナインが理解してこれを、ギンヨウに贈ったのかはわからないが、決意があることは確かだ。
今思えば、ことある事にギンヨウの後をついて回っていたシャナイのあれは、幼子の恋だ。ギンヨウはケーキが目当てだと思っていたようだが、違う。シャナインの瞳はずっとギンヨウを見ていた。
あんなにあからさまでは、インジュを誘惑しろと、インリーに強要されていたらしいシャナインの心は、筒抜けだっただろう。だから、インリーは見せしめのようにギンヨウを殺したのだ。
可哀想なこと、しちゃいましたね。傀儡だと思っていたインジュは、シャナインを見誤ったのだ。ギンヨウが頑なに人として接していたように、シャナインという魂を認めればよかった。インジュもまた、シャナインのあの姿に惑わされてしまった。
全くの別人だと、わかっていたのに。
本当に、シャナインとインリーは別人なのだ。同じなのは姿だけで、魂も心もインリーのモノではないのだ。それを、わかっていたのに、認めることができなかった。
それは不快だったからだ。その気もないのに、気のある素振りをするシャナインの態度が嫌だったのだ。素直で真面目なくせに、ギンヨウが好きなくせに、あんなに強いのに、誰かに支配され従っているシャナインが嫌いだった。
実害がなかったために「あなた、抗えますよねぇ?」と突きつけられなかった。それだけ、この白虎野が、ギンヨウが作る世界が優しくて穏やかで楽しくて、インジュもまた終わらせがたかったのだ。
ギンヨウ君……知ってましたけど、あなた、侮れませんねぇ。小物作家、大魔導・アッシュの1番弟子。インジュも、彼が大好きだ。こんな形で、ギンヨウという世界を終わらせるのは不本意だ。
「リフ兄の雪女?じゃないって?あれ全部燃やせばいいのか?」
ん?インジュは振り返った。開いたままのゲートとギンヨウを守ることに徹していたインジュは、ゲートを越えてくるレイシの姿を見たのだった。レイシを連れてくるために、ゲートを?インリーの指示で?インジュはシャナインの行動に首を傾げた。
「はい。完膚なきまでに、お願いします」
真面目な表情のシャナインが、どこか澄まして見える。「へえ?」レイシの、オレンジ色の瞳に、嬉々とした光が宿った。そして、回りに人がいるというのにその炎の翼を広げた。
インジュは咄嗟にギンヨウの上に覆い被さっていた。冷凍死体のような状態のギンヨウに、この熱波はいただけない。インジュは、ギンヨウの体が溶けないように護ったのだ。ついでに防御魔法をかけておく。
リフラクが、ことある事に、バカだバカだと言っていたが、ずいぶん乱暴な仕上がりのようだ。
これ、あと2年で何とかなるんです?インジュは、一抹の不安を覚えた。
7人の雪女と交戦を繰り返していたインファとノインは、レイシの出現に即座に気がついた。手当たり次第に雪女を炎の大剣で斬るレイシのデタラメな戦い方に、2人はしばし空中で立ち尽くしていた。
「それでは消耗するだけです!レイシ、オレの言うとおりに、魔法を使う自信がありますか?」
憧れのインファに声をかけられ、レイシの剣が鈍った。
「それができないのであれば、邪魔ですから引っ込んでいてください」
「できる!やってみせる!だからインファ、成功したら風一家に入れてくれ!」
「考えておきます」
インファの言葉を聞いてガッツボーズするレイシを見て、ノインは「先が思いやられる」とため息をついた。しかし、この炎、活用しない手はない。形を戻して来た雪女を退け、インファはレイシに並んだ。
「ノイン!インジュ!」
インファの声に、ノインとインジュは動いていた。風を巧みに使い、2方向から雪女達をある地点へ誘導する。レイシの攻撃範囲へと。
「点火!」
インファの腕が、振り下ろされていた。レイシはそれに合わせて剣を振り下ろしていた。軌跡に炎が走る。
洞窟を熱気が包み、とても雪が降るような温度ではなくなっていた。
残るは。3人の目が、神像の上にある影に向いた。
インファが動こうとすると、神像の前にシャナインが立ちはだかった。
「背後のそれともども、死を選びますか?」
インファが槍を構えた。
「あなたが、手を下しては、いけません」
真面目な表情を崩さず、インファを見返す彼女の瞳には、確かな光があった。インファは、シャナインが何かを決意していることに気がついた。
「オレがやるべきです」
インファの揺るがない瞳に、シャナインは首を横に振った。インファを見返してきたシャナインの瞳に、切なさが宿っていた。
「愛してほしい。その想いの真実を知りました。そして同時に、愛してくれなくてもいいという想いも、知りました」
シャナインは、背後のインリーを振り返った。
「シャナーとは、愛する、愛されるという意味です。愛してほしいという、意味の言葉ではありません。主、わたしは、あなたのいう人に、愛してほしくはありません」
シャナインの言葉に、インリーから悲鳴のような音が放たれた。襲いかかってくる黒い風。
シャナインは、インファ達に向かい、5本の指に集めた風を放っていた。回避と防御を余儀なくされた4人には、シャナインを庇う一手は打てなかった。
「ギンヨウ……わたしは、あなたが、好きです」
あれは影だ。愛してくれなかったすべてに復讐するために、シャナインは産まれた。
影を消し去るには、本体を――シャナインのこの体を消滅させればいい。過去のないシャナインには、主が固執するレイシに愛されたいという想いの真実はわからない。わからないが、主の怒らせ方はわかっていた。
レイシに愛されたくないと、言えばいいのだ。想いを否定された主は、思惑通り激高した。
これで終わる。あの影の本体であるシャナインが死ねば、ギンヨウを蝕む呪いは消える。イリヨナとツェエーリュアの情けが、こんな化け物を産み出してしまった。
なぜ、主が――インリーが愛することを愛されることを忘れてしまったのか、シャナインにはわからない。だが、なくした心を取り戻して終われるのなら、きっと、輪廻の先の生では、誰かを愛し、愛される。
取り戻す時間をくれたイリヨナとツェエーリュアには、感謝したい。
慈しんでくれたギンヨウには、好きだという温かくも切ない想い以外にない。この心を抱いて逝けるなら、それはそれで、幸せなのだろう。ギンヨウは、こんな狭い世界にいるなと言ったが、ギンヨウのいない世界になど、行きたくはない。
シャナインは、黒い風を前に無防備に、瞳を閉じた。死を前に、シャナインの口元には、笑みが浮かんでいた。
「聞こえたぜ?おまえの声」
声に見開いたシャナインの瞳に、襲いかかってくる黒い風を、弾き飛ばす金色の風が映った。
シャナインは動揺していた。
本体である自分が影に討たれれば、誰の手も汚さずにギンヨウを助けて終われるはずだったのだ。それを、彼は台無しにした!
「退いてください。わたしが生きていては、ギンヨウが死んでしまいます!」
シャナインはリティルの腕を掴んでいた。
「ああ?あいつを死なせるようなこと、するわけねーだろ?」
見てみろよ。とリティルに言われ、シャナインはギンヨウを見下ろした。そこには、アシュデルとペオニサ、リフラクがいた。そして、リフラクの守護精霊となっているユキノの姿があった。
「呪いなら、ユキノとリフラクが解けるぜ?傷はうちの治癒師が来てるんだ、死にたくても死ねねーよ」
ギンヨウは助かったのですか?シャナインは気が抜けて墜落しそうになって何とか堪えた。
「ごめんな。おまえを敵だと思ってたんだ」
「敵です。あなたも、皆も、間違ってはいません。あれは影です。ここにある肉体を破壊しなければ滅することはできません。あなた方の誰にも、そんなことはさせられません」
「シャナイン、おまえはまだ、オレの娘だと思ってるか?」
「はい。わたしは風の王の娘です。世界を守る刃の娘として、正しく、事象を平らげる義務があります」
「おまえを育てたのは、本当にギンヨウなのかよ……?」
今何と?シャナインは首を傾げた。
「?ギンヨウはただ、平穏にいたかっただけです。わたしは、その平穏を、ギンヨウもろとも破壊してしまいました。主は、ギンヨウに、見向きもしていなかったというのに……」
「花の精霊半端ねーな。邪精霊の心に、愛を受け取る器を作っちまうなんてな。ああ、おまえのことじゃないぜ?」
「いいえ。わたしは主の一部です。邪精霊の一部は邪精霊です」
「違うぜ?おまえはおまえだよ、シャナイン。おまえを作ったのは原初の風だ。インリーと同じ姿にしたのは、オレへの挑戦だったんだよ」
「お父さんへの?」
「……そう呼んでくれるのかよ?」
「ギンヨウが、風の王・リティルはわたしのお父さんだと教えてくれました」
ギンヨウがそう言うのだからそうだと言い切るシャナインに、リティルは苦笑した。
「はは、いいとこなしだなオレ達。シャナイン、たしかにおまえはインリーの一部を使って産み出された精霊だ。存在的には双子ってヤツだ。インリーは分身のつもりだっただろうけどな、おまえは個々の命だよ。オレの風を持つおまえは、おまえのために生きられるぜ?」
「わたしのため……わかりません」
「今はそれでいいぜ?さて、あいつをどうにかするか!」
シャナインは、周りを金色の風と吹雪が取り囲んでいることに、やっと気がついた。
『話は終わったかしら?』
この声はツェエーリュアだ。吹雪を纏い、彼女は現れた。インリーに捕らえられていた守護神は、無事助け出されたようだ。
「ああ。戦線離脱して悪かったな」
『わたしの始めた戦いだわ。嫌な思いをさせてごめんなさいね』
「はは、イリヨナが止めてくれなかったらヤバかったぜ?オレはシャナインを、斬る気満々だったからな」
『それなんだけど、イリヨナに働きかけてあなたを止めさせたのは、ギンヨウよ』
「はあ?」
『ウフフフ。あの子、まったくの大穴だったわ。シャナインに愛を教えるのはリティルだと思っていたから』
ツェエーリュアは笑った。
ギンヨウは、シャナインが突然ゲートを開き行ってしまったあと、イリヨナを通信球に呼び出した。
「イリヨナさん!リティルにシャナインを殺すなと言いやがってください!シャナインは邪悪な者ではなくてやがります!」
ギンヨウは確かに蚊帳の外だった。ただ、平穏な日常を守るのみで、インリーも彼にまったく意識を向けていなかった。
ギンヨウから通信を受けたイリヨナは、戸惑った。イリヨナには、シャナインの心と魂の穢れが見えていた。それは、インリーがシャナインを傀儡にするために施したことだったが、皆が彼女を邪精霊に堕ちたインリーだと思い込んでいたのだ。
「皆さんでわたしの平穏をぶち壊しておいて、その元凶をわたしの許可なく狩りやがるんですか?シャナインを殺すなら、師匠諸共この白虎野に出禁にしてやったあと縁を切ってやりますよ!」
『ひっ!わ、わかりましたの!絶対止めますの!だから、そんなことしないでくださいですの!』
「わかればいいんでやがります」
イリヨナを脅して思い通りにしたギンヨウは、それはそれはいい笑顔をしていた。
しかし、彼がイリヨナを動かしてしまったことで、インリーに目をつけられてしまった。結果、ギンヨウはシャナインの心を砕く道具にされた。
だが、またしてもギンヨウはインリーの思惑を裏切った。
命を脅かす元凶であるシャナインに、恨み辛みを言わなかったのだ。彼はどこまでも通常運転だった。そして、使えない道具だと失望したインリーにギンヨウが傷つけられ、シャナインは哀しみと自責の念から、やっと戦う決心をしてくれた。
レイシを助ける為に殆どの力を使ってしまっていたツェエーリュアには、見守ることしかできなかったが、原初の風と共謀した、インリーに愛を思い出させましょう計画(丸投げ)は、なんとか終幕へ向かいそうだ。
「主を斬るのですか?」
「オレ達風には、狩ることでしか救う方法はねーからな」
「できることと、できないことがあるのですね。わたしにも、戦う以外にできることはありません。……1つ、試したいことがあるのですが、よろしいですか?」
「死ぬ以外のことだったらな」
こんなことを言われると思っていなかったシャナインは、僅かに瞳を見開いた。
「ギンヨウを、悲しませるなよ」
わたしがいなくても、ギンヨウの世界には何の影響もありません。そう言いそうになって、シャナインは言葉を飲み込んだ。アップルパイを食べろと言ってくれたギンヨウの、思い出の一部くらいにはなれたのだ。遠い世界に暮らしても、その思い出が楽しいままでいてほしい。
「……はい。誰も犠牲にしません」
真面目な表情で頷いたシャナインの瞳には、確かな光が宿っていた。
何なんだ?あの黒い女。レイシは気味の悪さを感じながら、インファ達と応戦していた。インファは「父さんの決断を待ちます。凌ぎますよ!」と言った。
こんな悪意の塊みたいなヤツ、さっさと斬ってしまえばいいのに。と思ったが、インファの命では仕方がない。そうこうしていると、あの不気味な黒い女の前に、レイシをここへ連れてきた女――シャナインが立ちはだかった。
「主、わたしは、ギンヨウを傷つけたあなたを、許しません」
よく通る、凜として綺麗な声だなとレイシは思った。顔も、あどけなさの残る顔立ちだが、表情は引き締まっていて美しいと思えた。
「そして、わたしにも選ぶ権利があります」
シャナインがフワリと飛び、戸惑うように動きを止めた黒い女を真横に、レイシを見た。レイシは、その射貫くような瞳にドキッとした。彼女がレイシに向かい、人差し指を突きつけた。
「目には目を、歯には歯を。死にやがってください。レイシ」
「はあ!?」
シャナインの指先に、鋭い金色の光を発する風が集まっていた。
逃げようとしたレイシは、リティルとツェエーリュアに両腕を捕らえられていた。
『ウフフフフ。そうね、これは、あなたがインリーを愛さなかったせいで起こったことだものね。殺されてあげなさい』
「はあ?え?インリーって誰?」
「これだもんな。綺麗さっぱり忘れやがって!あの黒い女だよ。大丈夫だ!レイシ、オレの娘のケジメに、もういっぺん死んでくれ」
「はあ!?どんな理由!?」
「不愉快です。あなたのような人、こちらから願い下げです!」
シャナインは、躊躇いなく心の中で引き金を引いた。ドンッと指先から離れた風の弾丸が、真っ直ぐにレイシの心臓へ吸い込まれるように飛んでいた。
これは賭けだ。最後の賭け。
このままインリーが動かないのなら、シャナインがインリーを狩ろうと思っていた。でも、きっと動いてくれる。シャナインは、インリーの憎悪の中にある、かすかな光を知っていた。それは、ギンヨウが育ててくれた輝きに似ていた。
シェラのかけた『痛みの闇』には、イリヨナの願いが込められていた。
「インリー姉様、愛する心、愛される心を思い出してくださいですの!」
そして、転生する前のレイシの願い。
「インリー、オレから解放されて。オレももう、君を振り返らない!」
この世に、奇跡などない。あるのは、複雑に絡み合った縁が産む必然だけだ。
邪精霊に堕ちながら、インリーに僅かながら、愛の心が残っていたのだ。だから、こんな姿でも生き残った。
シャナインは確かに、復讐の傀儡とされた。インリーに幽閉されたツェエーリュアが、こっそりリティルの風を魂に吹き込んでくれていたが、そんなこと、お見通しだったのではないのか?と思う。
そして、ギンヨウに惹かれていくシャナインの心も。インリーは、ギンヨウを選ぶことを許したのだと、シャナインは思っている。
何もわからず喚くレイシを、インリーは庇っていた。
「それが、あなたの答えです。インリー」
シャナインの放った弾丸は、インリーに当たる前に霧散していた。インリーを黒く塗りつぶしていたモノが剥がれ落ち、シャナインは自分と瓜二つの姿のインリーと対面していた。
シャナインを前に戸惑うインリーは、両側から抱きしめられていた。
『お父さん?お母さん?』
「手間かけさせやがってこのバカ娘!」
リティルが叫んだ。そして、風の王夫妻は同時に叫んでいた。
「愛してるぜ?インリー」「愛しているわ。インリー」
シャナインは、風の王夫妻の腕の中で、白金の風となって消えていくインリーを、見つめていた。
彼女は、嬉しそうに、泣き笑っていた。