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四章 流星の君

 太陽の城は、暖かく穏やかな空気で、風の城に雰囲気が似ていると精霊達に人気だった。

風の城は常に戦いの中にあり、インファは精霊大師範として、いろいろな相談に乗ってくれるが、やはり精霊達には敷居の高い城だった。そして精霊達は、風の城と懇意な、太陽王・ルディルと花の王・ジュールを勝手に窓口にし始めたのだ。

風四天王、執事、旋律の精霊・ラスは、太陽の城にも集まる相談事を回収するために、定期的に訪れていた。金色のハヤブサの翼を生やした、黒い踝まである裾の長い上着を羽織った、左目を前髪で隠した中肉中背の印象に残りにくい容姿の男性だ。

だが、どこもかしこも真っ白な太陽の城では、ラスの姿はとても目立つ。花の精霊達がソワソワとしながら、ラスが前髪に隠れていない右目を向けると、会釈をしてサッと隠れていく。羨望の眼差しを向けられるのは、いつまでも慣れないなと、ラスは視線を廊下の先へ戻した。

太陽の城は、巨人でも昔住んでいたのか?と思われるほどに、天井が高く、部屋の扉は聳えるようだ。しかし、ドアノブは常識的な位置にある。曲線を描く壁が、柔らかな影を作り、白い森の中を歩いているようなそんな錯覚に囚われる。

 ある部屋の前を通りがかったとき、中から声が聞こえてきた。部屋の扉は、少しだけ開いている。声に誘われて、中を覗いた瞬間、中から魔法が襲ってきた。ラスはまったく感情の動いた様子なく、飛び退いていた。

「――ラス?ああ、ごめんねぇ。誰かの気配がしたからつい」

左手を腰に当て、右手を突き出した男らしい佇まいだったリフラクは、次の瞬間、少女のような愛らしい笑みでコテンと首を横に倒した。避けたラスの背後の壁に当たった吹雪の球は、花吹雪をまき散らして消えていった。

「こっちこそごめん」と謝るつもりだった。それを、二十代前半のラスより1、2才年上の、男性の声が遮った。

「リフ兄、その猫かぶりやめろよ!いい加減、気持ち悪い!」

彼が言い終わるか終わらないかで、ラスの前からリフラクの姿が消えていた。

「やり過ぎだよ?リフラク」

ラスの手が、リフラクの氷の刃を纏った右手首を掴んでいた。

「これくらい、避けられないこいつが未熟なんだよぉ?」

リフラクは、炎の入れ墨を顔の半分に入れた逞しい男性の首から、左手を離した。首を締め上げられた男は、リフラクの足下に頽れて、咳き込んだ。

「現に、君は見えてただろう?ラス」

仁王のような顔で男性を見下ろすリフラクに視線を向けられ、ラスは苦笑した。彼に対するのとオレに対する態度が真逆ほど違うと。ラスに視線を向ける頃には、リフラクの表情は可愛らしく変わっていた。凄い演技力だ。

「オレはハヤブサだから。素早さならリティルにだって負けないよ」

「彼はこれで、ナンバー4。強さは10番目だ。ボクに手も足も出ないようじゃ、風の城ではやっていけないんだよ?レイシ」

レイシ。その名を聞くと、ラスの心にはさざ波が立つ。

ラスは、リフラクの後ろから”レイシ”を感情の籠もっていない瞳で見つめていた。

オレンジ色の短い髪。細いが筋肉のみっしりとついた、強靱な体躯。金色の双眸。二十代半ばのインファやインジュと同世代のその姿。

どれをとっても、ラスの知っている”レイシ”とはかけ離れていた。

太陽光の精霊・レイシ。彼は、夕暮れの太陽王・ルディルと夜明けの太陽女王・レシェラの息子ということになっている。そして、兄として面倒を見ているのはフリージアの精霊・リフラクだ。

「成人後、覚えてろよ!リフ兄!絶対にあんたより強くなってやる!」

吠えたレイシは、直後リフラクに殴られて壁にめり込まされていた。

「ボクより強くなるだってぇ?寝言は寝て言ってほしいねぇ……」

「あはは……容赦ない……」

ラスは苦笑いを浮かべた。オレでもやらないよ?と。

「フン!こいつには、これくらいがちょうどいいんだよ!すぐつけあがるんだからねぇ。ラス、今日はインファ、安定しているかい?」

「ああ、精神安定剤がそばにいるからね。リフラク、あんたも来てくれると嬉しいんだけど?」

ラスの言葉に、リフラクは瞳を瞬いた。そして、複雑そうな顔をした。

「ボクも安定剤代わりになるって、インファ、相当病んでないかい?心配になってきた。君と一緒に今すぐ行く」

さっさと決めて部屋を出て行こうとしたリフラクの背に、レイシが叫んだ。

「狡いぞ!リフ兄!」

途端に、キッとリフラクがレイシを睨んだ。彼からスウッと白い冷気が立ち上り、女性の姿を取る。彼女は、ツェエーリュアの眷属の1人だったユキノだ。美しい顔が、刹那鬼女となり、レイシは氷の刃を胸に突きつけられていた。

「ユキノ、ラスの前で血の赤は散らさないでねぇ。ボク達が行ったら、好きにして」

リフラクはラスを促して部屋を出、パタンと扉を閉めた。

「本当に容赦ないね。見込みはあるって思ってもいい?」

ラスの言葉にリフラクは大きく息を吐いた。

「見込みなかったら、ボクもあそこまでしないねぇ。強くなってもらわないと困るんだ。身も、心も。ボクは生き残ってしまったからねぇ。インファの心に、大きな傷を残しただけで、許されているわけにはいかないんだ」

「インファは、弱くないよ?」

「強くもないねぇ。割り切ってるなら、レイシの兄貴分、彼ならできたはずだからねぇ。レイシが望んだことだ。途中で音を上げるならその首、ねじ切ってやるってねぇ」

「ありがとう、リフラク」

「礼を言わないでほしいねぇ。ボクの罪だ。丸め込まれないでインリーを殺しておけばよかったと、今でも本気で思っているよぉ」

リフラクに体温は戻り顔の痣は消えたが、ミイロタテハの羽根に積もった霜は消えないままだ。それは、ユキノを体内に住まわせているためだが、これは、明らかに贖罪だった。

 風の城と太陽の城とを繋ぐ、鏡のゲート。

リフラクとラスはそれを越え、風の城の応接間に足を踏み入れた。

「リフラク?珍しいですね。どうしました?」

壁に掛けられた大鏡からソファーまでは、優に十数メートルある。リフラクとラスは羽根を広げ一気に飛んだ。

「どうかしたのは君じゃないのかい?ボクと会えると嬉しいって、おかしいだろう?」

笑いかけるインファとは対照的に、リフラクは複雑そうな顔をしていた。

「そうですか?あなたが来てくれると楽できるので、ありがたいですよ?」

「……はあ……何?探ってほしいことでもできたのかい?」

花の十兄妹、長兄代理・フリージアのリフラク。リフラクは現在、兄弟達を率い、グロウタースでの諜報を行っている。風の仕事は、狩りばかりではない。不具合を起こした事象の平定。問題を起こした精霊の討伐。禁呪の破壊、封印と多岐にわたる。

グロウタースに、人間に身をやつして潜入する事も多々ある。花の十兄妹は、溶け込む能力を使って、情報収集の為に先に潜入する組織へと成長を遂げていた。

「今はあなたに頼むような事案はありません。友人として、世間話に付き合ってください」

「……君の望みなら」

リフラクの返答に気分を害した様子なく、インファはフフと微笑んだ。


 十年前、インファは実の妹と血の繋がらない弟を失った。

その事態を招いたのは、リフラクだ。風の城の皆は、いつかこうなっていた。リフラクのせいではないと言ってくれた。しかし、インファを未だに苦しめる結果になったことは、確かだ。

土壇場でインリーを選び、身をもって彼女を引き戻そうとして失敗したレイシは、自身の力である太陽の力で、彼の殆どを焼き尽くしてしまった。一緒に炎に灼かれてくれたツェエーリュアが、リティルから託された風の王の風を使い、生きる方へ導いてくれたが、以前の彼は、もう別人では?と思われるほど失われてしまった。

記憶の大半も焼き尽くされ、朧気に覚えているだけで、以前から気にかけていた太陽王夫妻が実子として引き取った。導くため極限まで力を使ったリティルと、話がついていたとしても、我が子を手にかけたシェラでは、とても、レイシを抱えることはできなかったのだ。

 レイシが、太陽の力を持っていたことと、ツェエーリュアが引き戻したときに風の王の風が魂に混じってしまい、風の力を持ってしまったため、言いくるめて信じさせたのだ。

しかし、レイシは未だ不安定な存在だ。原初の風が肉体を作った為に、混血精霊だった要素を完全に失い、精霊のようなモノになってしまった。

精霊のようなモノ。といったのは、精霊には産まれながらに定められた存在理由という言うモノがあるが、レイシにはそれがなく、姿も、太陽の精霊なのか、風の精霊なのかどっちつかずなのだ。

本人は元風の王の息子だから、風の力があるのだと思い込んでいるが、真実が知れてしまうのは精霊の成人である12年後、確実に訪れる。その真実に耐えうる精神を育てる為、リフラクが面倒を見ているのだった。本当は、その役目をインファが担うはずだった。だが、インファは失敗した。炎の翼を持つレイシの姿に、燃えている弟の姿をただ見ていたあの時が蘇り、とても冷静には付き合えなかったのだ。 

 表向きは、風の城の多忙さということになっている。

短い間雷帝・インファと過ごしたレイシは、彼の強さと美しさに憧れていて、太陽の城に戻されたことをずっと不満に思っている。度々風の城に赴くリフラクに、毎回ついてこようと画策しては、兄貴分を出し抜けずに失敗している。

「はあ……あの跳ねっ返りのバカ……世話の焼ける……。ああ、ボクも似たようなものだねぇ」

リフラクは、インファの隣で、堂々と風の仕事の書かれた書類に目を通していた。

「あなたは違いますよ?」

顔を上げずにデスクワークするインファは、時折リフラクに書類を手渡す。それを受け取り時折「ああ、これはボクの仕事だねぇ」とハトに複製を頼み、元の書類にはサインを入れた。

「よく言う。今でもボクは、凶花のようなモノだよぉ」

リフラクは書類をまとめながら「こっちはラスでいい」と向かいにいたラスに回す。

「飲まれず、オレの味方でいてくれるならば、いいではありませんか。忘れてください。オレは忘れました」

「インファ、ボクは今でもインリーをやり損なったことを後悔しているよぉ。シェラ様にさせてしまうなんて、ボクの役目だったよ!」

「母親ですからね。母さんの役目でしたよ。リフラク、後悔があるのならば、尚更オレの使える友人でいてください。心の黒い者は使いやすいんです。純粋な者は、罪悪感がありますからね。使いづらいんですよ」

「フフフ。道を踏み外してよかったとのたまわって、君に後ろから笑顔で刺されたいねぇ。いつでもいいんだよ?ボクは、死なないからねぇ」

「怒りも憎しみもありません。猟奇的なあなたは、圧倒的で好きですよ?」

顔を上げたインファに笑顔で好きだと言われ、リフラクはサインが乱れた。

「!?……受け入れすぎじゃないかい?」

「そんなことはありません。思慮に欠ける者は嫌いですし、能力の低い者は視界に入りません。努力を怠る者は滅びろと思っていますね。ああ、能力は低くとも、頑張る者は愛しいですね。思わず守ってしまいますよ」

「ああ、この城には一定水準以下の者はいなかったねぇ。ボクは、君のお眼鏡に適ったみたいで、光栄だねぇ」

リフラクは毒を含んだ笑みを浮かべた。そんな彼に、インファはニッコリと容姿に似合いの笑みを浮かべた。

 「休憩しよう」とラスがお茶の用意をしてくれたころ、城の外へ通じる白い石の扉を開き、リティルが帰還した。

「おかえりなさい、父さん、インジュ。どうしました?」

まだ遠くにいるリティルにかけたインファの声は、風が届けてくれる。床を蹴ってソファーまで飛んで来たリティルは、キラキラ輝く金色の髪を三つ編みハーフアップに結った、女性のような柔らかな美しさを持つ男性を連れていた。オウギワシの翼を持つ彼は、煌帝・インジュ。四天王、補佐官を務めているインファの息子だ。

「やられたんですよぉ。ほら、最近ちょくちょく出る、魔物を横取りする人です」

困惑気味に、インジュは不満そうに告げながらソファーにストンッと舞い降りた。

「遭遇しましたか?」

「いや。目前でやられたぜ。いつもの、終了のお知らせが来るやつだ。お、リフラク、悪いな出向いてもらって」

「邪魔してるよぉ、リティル様。うちに寄せられた相談を持ってきたついでだからねぇ、大したことじゃないねぇ。それより、流星の君?まだ正体不明なのかい?」

風の城の通常業務である、魔物狩り。魔物の出現は、イシュラース中で、出現は風と小鳥達が風の城に知らせてくる。日々生まれる魔物を、優先順位をつけて狩りに行っているのだが、それを、風の城の要請なく勝手に狩っている者がいるのだ。

その行為は、禁じられている。というのは、生き物の命を奪うと血の穢れと呼ばれる呪いが降りかかるからだ。それは蓄積され、やがてその者を死へ誘う。風の城には、その穢れを浄化できる精霊がいる。その為、風の城の要請なく魔物狩りに手を出してはいけないことになっているのだ。

流星の君というのは、その無断で魔物狩りを行っている者を、他の精霊達がそう呼び始めたのだ。どうやら、その者の攻撃が流れ星のようだから。らしい。

ちなみに、流星の君の出現は、1年くらい前からだ。

「そうなんですよぉ!いったい、誰なんでしょうか?もう案外狩ってますよねぇ?大丈夫なんでしょうかねぇ」

インジュは不満げに言いつつも、案じているのか神妙な様子だった。

「心配してるのかい?お優しいねぇ」

「勝手に死なれるのも癪じゃないですかぁ!死ぬことないんですよぉ。生きられるだけ生きたらいいんです!」

「やっぱりお優しいねぇ。そんなインジュに免じて、ボクが動いてやる」

「え!?いいんです?」

「いいよ。こっちの仕事は兄弟達で何とかなるからねぇ。風の城も、無駄足になるんじゃ迷惑だろう?」

それが狩られるなら、別の場所に行ける。と、リフラクは可愛らしく笑った。

「そこで、相談なんだけれどねぇ、エーリュを借りられないかい?」

歌の精霊・エーリュ。旋律の精霊・ラスの妻だ。可愛らしい外見の女性だが、シロハヤブサの翼を持ち、ラスと共に世界の裏側を飛ぶ精霊だ。

「オレが行ってもいいけど?」

ラスとエーリュは能力的に似通っている。ラスはリフラクが、四天王を指名することを遠慮したのだと思った。

「エーリュには、風の糸があるからねぇ。生け捕りには君より適してると思うけれどねぇ」

「ああ、そういう?抵抗されたら、オレなら殺してしまうからね。わかった。呼ぶよ」

番という必然の関係であるラスとエーリュは、魂の一部が繋がっている。ラスが呼ぶと言ってしばらくすると、中庭に面した聳えるような掃き出し窓の一部を開いて、エーリュがやってきた。緑がかった金色の短い髪の、快活そうな勝ち気な外見のエーリュは、とても戦えるようには見えなかった。上級精霊だが、ラスと組めば、その実力は最上級精霊に匹敵する。目立たない実力者の1人だ。

「ラス、仕事?」

「うん。エーリュ、リフラクと流星の君を捕まえてきてほしいんだけど」

「流星の君?ああ、あの迷惑な人ね?でもいいの?インファさん、関わりたくなさそうだったけど」

ラスに並んだエーリュの言葉に、皆の視線がインファに集まった。

「何だよ?おまえ、何か掴んでたのかよ?」

リティルと皆の反応に、エーリュは「あ」と余計な事を言ってしまった!と口をふさいでいた。そんなエーリュにインファは苦笑した。

「あなたに見抜かれているとは思っていませんでした。気にしないでください。エーリュ」

「はあ……言っておいてくれるかなぁ?流星の君のことは、花の十兄妹の間でも話題なんだ。風の城から要請があれば、ボクが出ることで決まっていたくらいにはねぇ」

リフラクは余計な事をしたと、額に手を置いてため息をついた。

「長兄自らって、最優先事項扱いじゃないですかぁ!」

驚くインジュに、リフラクはすかさず訂正した。

「長兄代理。長兄は今でもペオニサ兄さんだよ。そりゃぁね。ルール違反は迷惑極まりないからねぇ」

「頑なですねぇ。ペオニサ、リフラクに長兄返した気でいますよぉ?」

「だろうねぇ。いいんだよ、兄さんはそれでねぇ。これはボクの問題だからねぇ。そんなことより、インファ、何を隠しているんだい?兄さんも勘づいているよ?あの人のことだ。知れば、勝手に動いたと思うけれどねぇ?」

「ペオニサ、お父さんの事となると、周り見えなくなりますからねぇ」

困りましたねえと、あまり困っていない様子でインジュが言った。インジュは知っているのだ。ペオニサをラスが監視しているのを。ラスは、リフラクにも知らせておくことにした。

「守護精霊のノアが監視してくれてるよ。単独行動したら、オレに情報が来ることになってる」

「兄さんが愛されていて、ボクは安心だねぇ。ラス、その情報、今後はボクにも回してくれないかい?君の邪魔はしないけれど、フォローはするよ。ボク達の兄さんだしねぇ」

「助かるよ」とラスは何やらリフラクと、魔法のようなモノをやり取りしていた。

「おい、インファ」

リティルに促され、インファはやっと口を開いた。

「流星の君の攻撃を、見た事があるんです。彼女があんな魔法を使ったことは過去にありませんが、確かに感じたんです。あれは、彼女です」

リティルが苛立って先を促した。

「勿体つけてんなよ!彼女って誰なんだよ?」

「父さんも、感じた事があるのではありませんか?以前よりは周到ですが、1人ではボロが出るモノです」

インファの言いたいことはわかる。流星の君は、攻撃すら風の城の者には見せないのだ。いつも、現地につく前に魔物消失と、風か小鳥から知らせがくる。ラスは、リティルを見た。いつからだろう。リティルが、終わったという現場に、必ず足を運ぶようになったのは。リティルも、インファと同じ人だと思っている?ラスは、そんなことを感じていた。

「オレの妹。インリナスです」

その名に、応接間は水を打ったかのような静寂に刹那包まれた。

「インファ……あんたはそれを、1人で抱えてたのか?」

ラスは努めて穏やかに見えるようにしている。応接間で執事をしているときも、戦闘中も。だが、思わずこのときは感情が表に出てしまった。これは単純な怒りだった。

リティルが言わなかったことには、納得できる。リティルは、確証を探していたのだ。

リティルは、こんな魔物相手にパートナーにインジュやノインを選ぶのか?という人選を、強引に通すことがあった。そういうとき、高確率で『終了のお知らせ』が来るとインジュから聞いていた。その知らせを聞いても、リティルが現地へ赴いていることをラスが知ったのは、偶然だった。

リティルは秘密裏に、流星の君の痕跡を探っている。インジュとノインは、協力者だ。

しかし、インファは、流星の君に興味がなさそうだった。リティルは表だってではなかったが、動き始めていたのに、インファにはまったく動きがなかったのだから。副官である彼のこれまでの行動を思えばおかしなことだったが、リティルが動いていたこともあり、そういうことで話がついているのだとラスは思っていた。

それが、動かなかった理由が『彼女』だったなんて!

ペオニサはインファの様子が何かおかしいと、吐露していた。しかし、珍しく問いただせない様子だった。

妃のセリア、息子のインジュ――誰一人、打ち明けられてはいなかった。

1人で抱えていいことじゃないだろ!インファは家族思いだ。そんな彼にとって、10年前の事は、癒えることのない心の傷だ。わかっているのだろうか。どんな顔で、風の領域に降る雪を見ているのかを。

レイシが風一家に戻るまであと2年。それすら、大丈夫か?という意見が一家から上がっている。皆、インファを案じているのだ。副官と慕う皆は、インファを選んでいる。

「すみません。捨ておきたかったんです。レイシはここへ戻る事が決まっていますから、会わせたくはありません。オレは……選ぶと決めました。レイシを選ぶと決めました。しかし、斬ることはできそうにありません。あちらが接触してこないのならば、オレ達の誰かが出会わなければと、祈ってしまいました」

「すみません……」インファは深々と頭を垂れた。

 「あなたが望むなら」

インファは、顔を上げなかったが、リフラクの言葉にピクッと反応した。

「これは誓いだ。話したはずだけれどねぇ。インファ、君はボクに話すべきだったよ。ボク達花の十兄妹は、風の城の為の諜報機関だ。情報を元に采配する君のための組織だよぉ?副官、雷帝・インファ。ボクは確かに、インリーにいい感情は抱いていないよぉ。だが、それとこれとは話が別だ。殺すのはいつでもできるんでねぇ。調べろ、生け捕りにしろというのなら、そのようにする。雷帝・インファ、あなたが望むならねぇ!」

パタパタとどこからともなく7匹のミイロタテハが、リフラクの座るソファーの後ろに飛んできて1直線に並んだ。ミイロタテハ達はそれぞれの花びらを舞わせながら、化身を解いた。現れた、見目麗しい二十代前半の男女達。

長兄、フリージアの精霊・リフラク率いる、花の十兄妹だ。

「レイシの耳に入れるよな愚行は、犯さないよぉ。この件はボクが預かる。流星の君のすべて、詳らかにしてやろう。それで決めておくれ。どうするのかをねぇ。ボク達はもちろん、決定に従うよぉ」

インリーが、インファの嫌いなタイプに合致するとしても、妹だ。インファは、1度懐に入れた者を手放さない。情に厚く家族思いだ。インファの目は確かで、これまで一家入りした者達は皆力もあり一定水準以上の精神を持つ者達ばかりだ。脱落者はいなかった。

血縁という関係が災いしている。わかっていたから、リフラクは凶花として、インリーを殺してやろうと思ったのだ。インファには、どんな愚かな妹でも見捨てられないのだから。

 リフラクは十年前、太陽の城に戻ることを選んだ。

ペオニサに「長兄代理だから、助けてやってね」と言わせ、リフラクは兄弟達とレイシを鍛えることにした。リフラクについてこられない者は、ペオニサがいつの間にか助けていた。そして、7人は誰も欠けることなく、風の城直属の諜報機関へと成長を遂げたのだ。

すでに風の城と太陽の城のパイプ役を務めていたラスが、花の十兄妹の直属の上司だが、ラスは「一家の誰とインファが決裂しても、あんた達はインファについてくれ」と命を下していた。ラスは、リティルから離れる事はない。しかしインファを孤立させたくない彼の願いだった。

「あなたが望むなら」それは、四天王とリフラクで決めた合い言葉だ。

花の十兄妹がインファの為だけに動くという、インファに対する合図だ。こちらから言わなければ、インファは、自分のために使おうとはしないから。

 リフラクに答えられないインファに代わり、リティルが口を開いた。

「悪いなリフラク。頼むよ。流星の君に接触しねーで、そいつのこと詳しく調べてくれ」

立ち上がったリフラクは、胸に片手を置き深々と頭を垂れた。

「風の王の心のままに」

8人の花の精霊は、一斉にミイロタテハに化身して飛び去った。

「インファ、おまえ休むか?アシュデルのところにでも行ってこいよ」

「……それは命令ですか?すみません……そうですね……今のオレに、ここにいる資格はありません」

「インファ……」

流星の君のことを、誰にも言えなかったのはリティルも同じだった。力は感じるが微量で、確証のない事で一家に波風立てたくなかった。特に、シェラとイリヨナの耳には入れたくなかった。

シェラの使ったあの魔法は、母親の依頼でイリヨナが作ったのだ。

あの魔法でインリーが死んだと報告を受けたイリヨナはただ「そうですの……」と言った。どう使われるのか知っていても、交流は皆無だった姉でも、姉は姉なのだ。完全に無関心とはいかない。

イリヨナが、アシュデルに色目を使う者に嫉妬する感情をインリーにも持っていて、自業自得!と笑えるような女だったらよかった。しかし、負の感情を浄化する翳りの女帝であるイリヨナは、きちんと負の感情を持っていても、心優しかった。

リティルは、イリヨナは大丈夫か?と、アシュデルに口を割らせた。インリーの死を知って、彼女は「私は間違ってしまいましたの!魔法を、作るべきではなかったのですの!」とアシュデルの前で激しく取り乱して泣いたと聞いた。アシュデルは「ボクがついているよ。だから、大丈夫」と穏やかに笑ってくれた。

その時アシュデルに言ったらしい「インリー姉様を、信じた私が愚かだったのですの!」その言葉の意味を、リティルはずっと考えている。

リティルには、いつでも人知れずインリーを殺す事ができた。インリーはもうとっくに、邪精霊だったのだから。もっと早く、始末していれば、皆を、傷つけずに、すんだ……後悔が消えない。

「リティル、ボクが一緒に行きます。だから、大丈夫ですよぉ」

項垂れるインファの腕を掴んだインジュが、明るい声で言った。


 ギンヨウは、シチューの鍋を掻き混ぜていた。

ここはグロウタース・白虎野島。ミモザの精霊・アシュデルの一番弟子であるギンヨウの任されている地だ。

今アシュデルはこの地に滞在している。冷えて帰って来る主の為に、温かいモノを用意する。できる弟子でなければならない!と、ギンヨウは意気揚々シチューを作っていた。

「ギンヨウ君!」

「……インジュ?と、インファ?どうしやがったんですか?親子で珍しくてやがりますね」

「それが……」

店へ繋がる扉を開きやってきたインジュは、和やかなギンヨウに口ごもった。眼鏡を押し上げ首を傾げたギンヨウの前で、煮えたシチューがいい香りを立てていた。

「え?インリー生きているの?」

 インファとインジュが来たと聞いて、絵を描きに出ていたアシュデルはすっ飛んで帰ってきた。師匠のその姿に、ギンヨウはアポなしだったかと思った。それはそれは「インジュとインファが来ていやがりますよ?約束忘れたんでやがりますか?ダメ師匠」と言ったことを取り消さなければなとボンヤリ思っていた。

そして、顛末を聞いたアシュデルの第一声が前記のあれだった。

 インリーは10年前、この地で死んだはずだ。はずだというのは、誰も絶命の瞬間をそういえば見ていないからだ。その場に居合わせたアシュデル、リフラク、ペオニサは、ツェエーリュアの眷属達の影でそれを見ていない。インリーに魔法をかけたシェラは、燃え盛るレイシに向かっていて、背を向けていたようだ。

目撃者といえば、ツェエーリュアの眷属達である雪女だが……。ツェエーリュアに会えるのは、年に2回春と冬の祭りのときだけだ。

「リフ兄、ここへも来るね。大丈夫?インファ兄、別の工房へ移動しようか?兄さんもイベントでグロウタースだよね?兄さんのいるところに行く?」

「ペオニサには……」

知られたくない。皆まで言わなかったが、インファの考えなど読める。

「ダメですよぉ!お父さん、ペオニサに隠すとろくな事にならないです!って、すでに隠しちゃってるんで、暴走しちゃいますかねぇ……」

「あー……その前にここに突撃かなぁ?」

苦笑したアシュデルの背後の扉が、勢いよく開いて誰かが飛び込んで来た。

「インファ!」

駆け寄ってきた人影は、1直線にインファに駆け寄っていた。

「ごめん!リフラクにインファの悩みを聞き出してって頼んだの、オレなんだ!何となく、インリーちゃんが関係してるような気がして……聞けなくて……」

早っ!リフラクから情報が行くだろうとは思っていたが、こんなに早く来るとは思わなかった。ペオニサは、作家業のイベントで今日は帰りが遅くなるはずだったのだから。

「聞けなくてやがりましょうね。わたしも、弟子同士で殺し合うのは、ちょっと想像できやがりません。もしそんなことになったら、トラウマものでやがります」

ペオニサの言葉を肯定する落ち着いているギンヨウと、ニコニコしているアシュデルから何やら慣れを感じる。アシュデルが慣れているのはわかるが、ギンヨウも?ペオニサはこんな風にこの工房に突然現れるのだろうか?この、出版社のない工房に?何しに来ているのか気になるところだ。

「オレが聞くべきだったよね?リティル様にもセリアにも言えないんだから……。ごめん……1人にしちゃって……」

「1人ではありませんでしたよ?この十年間、1人では――」

ペオニサは座っている彼に目線を合わせた。

「インファ、もう、話してくれるよね?」

「ええ。知られてしまいましたからね」

インファは力なくも、微笑んだ。

 しかし、今日のペオニサは宝城十華だ。トントンッとノックの音がして、女性の声がした。

「十華様、申し訳ありません。お時間です」

本当に申し訳なさそうな声がした。

「なんで今日なのかなぁ!?インファ、ごめん、行かないと」

「大丈夫です。ここにはアシュデル達がいてくれますから」

「うん……アシュデル、ギンヨウ、頼んだよ?」

「うん。大丈夫だよ。仕事頑張ってね」

「任せやがってください」

名残惜しそうにペオニサはインファを見やり、スゴスゴとグロウタースの別の場所へ戻っていった。

「理解のある秘書がいて、十華は幸せでやがりますね」

フフと、ギンヨウは意味ありげに眼鏡の奥の瞳をインファに向けた。

「ああ、あの大陸では宝城十華とインファ兄って、恋人設定だったね」

間違えられるならいっそ。グロウタースに精霊が潜入するとき、その土地土地にあった設定を世界に用意してもらう。インファと宝城十華は、友人という設定なのだが、赴く先々で恋人に間違えられるので、インファが開き直ったのだ。

「わたしも、花の精霊でなければ疑うレベルでやがります。インジュは平気なんでやがりますか?……インジュ?」

そこにいたはずのインジュの姿は、どこにもなかった。今の今までいたはずなのに、氷が溶けたようにいなくなっていた。

「……インジュ……?」

インジュの立っていた場所には、彼の翼から抜け落ちたのだろう。オウギワシの羽根が1枚落ちていた。


 何かに呼ばれた気がした。

ハッとインジュが気がつくと、知らない場所に立っていた。

『おい、大丈夫か?』

心の中で、気遣うような乱暴な自分の声がした。インジュの3つある人格の内の1人、観測のエンドだ。

「はい。あのぉ、おかしかったです?」

『おかしいってレベルじゃねえ!ふらふら~って大魔導の工房を出て、1直線にここだぜ?おまえまた、何に干渉されていやがる!』

頭ごなしに叱られてしまった。

「あはは。そうですねぇ。でも、必然ですかねぇ」

『何だ?必然だと?』

インジュは、人の手で掘られたとわかる洞窟を、奥へ向かって足を踏み出した。外は吹雪いているようだが、ここは防寒がいらないくらい暖かだった。

「原初の風ですよぉ。10年前、レイシが守護神・ツェエーリュアに貸して、回収し忘れてます」

『オレ達の欠片かよ。人騒がせな!そもそも、陛下の許しなく力使いやがって!』

煌帝・インジュは、原初の風の精霊だ。受精させる力である彼の宝石は、有象無象に狙われる。故にインジュは、原初の風の精霊とは名乗らず、何の力を司っているのかわからない煌帝を名乗っているのだ。精霊の至宝・原初の風は風の王が守護する至宝だ。半分はリティルが持っている。そして、扱いきれなかった当時のリティルの命を救うため、4分の1はインジュとして、もう4分の1はレイシに託された。

「エンド君、流星の君がインリーって話し、どう思います?」

『あいつねぇ……あいつにしては、力が強すぎるな。アジャラ、どう思う?』

『アタシぃ?そうねぇ……アタシ、インリーちゃんのこと知らないのよねぇ……』

インジュの3つ目の人格、殺戮のアジャラ。彼女に人格交代すると、皆インジュは女の子だったか?と錯覚する。

「ああ、ボクが三重人格になったあと、インリーと殆ど接してませんねぇ」

『まあ、わからないでもないわよぉ?アタシぃ、怖いお姉さんだもの』

『気持ち悪りぃお兄さんだよ!で?どうなんだ?』

『インリーちゃんかどうかはわからないけどぉ、リティルちゃんの力は感じたわぁ』

『陛下?ってこたぁ……』

「リティルは、ツェエーリュアに力をあげちゃってましたねぇ。そして、原初の風も持ってますねぇ」

『あいつだったら殺してやる!』

「物騒です。エンド君。それに殺しちゃダメです。痛い目見るの、ボク達ですよぉ?」

『期待させやがってってことだ!親父殿はこの騒動でどうなった?やっと、傷が癒えてきたところだったんだぞ?陛下も、何か感じないか?って毎回毎回!あいつを捜してたことは、確かだろうが!』

エンドは、皆を名前で呼ばない。あだ名で呼ぶのだが、インリーにはあだ名すらないらしい。それくらい怒らせているのだ。

「会って、どうするつもりだったんでしょうか」

『ああ?』

「リティル、流星の君に会って、どうするつもりだったんだろうかって、ずっと考えてたんです。あの時リティルは、リフラクとレイシを優先したんです。リフラクは深刻な状態で、リティルが王の風を使って守ってくれなかったら死んでたって、ペオニサが言ってました。ツェエーリュアに王の風を渡したのは、あの人がレイシを気にかけてたからです。原初の風に賭けたんです。リティルは、賭けに勝ちましたけど、インリーの事はシェラに丸投げで、それを、後悔してるような気がするんですよぉ」

『してたわねぇ、後悔。オレが殺してればよかったって、アタシが思わずぶっ飛びそうな心を感じたわぁ』

ウットリと恍惚と、アジャラは暗く悦んでいた。

『ぶっ飛ばなくてよかったなぁ。勘弁してくれ。オレ達は体共通なんだぞ!』

『あらぁ?きっと気持ちいいわよぉ。手っ取り早くぅ、ノインに付き合ってもらいましょうよぉ!ああああ!切り刻みたいいいい!』

『兄者、災難だな』

「あはは!ノインなら付き合ってくれますよぉ。ここが終点ですかねぇ?」

先の空間が開けるのを感じて、インジュは気を引き締めた。

『悪意は感じねえ。けど、気をつけろよ?インジュ』

「はい。危なくなったらアジャラ――はやめときますぅ?」

『出られるわよぉ!エンドより上手くやるわよぉ!』

「2人とも、期待してますよぉ?ボク、ラスかリティルがいないと、上手く戦えませんからねぇ」

『おう!』『まっかせなさーい!』

 離れられない2人がいる。それが、臆病なインジュには心強い。

肉体で隔てられているインファは、どんなにペオニサが守ろうとしても、守り切れない。

この先にインリーがいるとしたら、ボクはどうするべきなんですかぁ?

原初の風がインファを父として生まれたいと願い生まれたインジュには、インファは、かけがえない。

お父さん。お父さんがインリーと会ってしまったら、どうするつもりだったんですかぁ?

インファが、弟妹を守ってきた事は知っている。一家の誰もが知っている。

そしてインファが、潔く強い人であることも。

「エンド君、アジャラ、ボクはインリーを守りますよぉ?」

『はあ?わかってるぜ?』

『インジュの願いは、何だって叶えちゃうわよぉ?』

長い階段の先、四角い石造りの舞台の上に、いつもは三つ編みにしていた黒い髪を下ろした女の子がいた。

 インジュは、スウッと息を吸った。

「ボクを呼んだのはあなたですかぁ!インリー!」

彼女が振り返る。両親からもらった紅茶色と金色の瞳が、階段の上にいるインジュを真っ直ぐに見上げてきた。


 雷帝・インファを裏切ること。それとも、風の王・リティルを裏切ることだろうか?

これがその代償だとしたら、風一家に入るということは、もの凄い契約なのではないだろうか。

「あのぉ、それであなたは何なんですかぁ?」

「わたしの名は、シャナインです。インジュ」

硬質な光を宿した瞳で、ニコリともせずに、彼女は名乗った。

「インリーじゃないって、言い張るんですねぇ?」

「シャナインです。インジュ」

髪は下ろしているが、金色のハクチョウの翼を生やす彼女は、どこからどう見ても、インジュには風の王夫妻の娘であるインリーに見えた。

「ここで何してるんですかぁ?ボク、原初の風に呼ばれたんですけど、どこにいるか知りません?」

「わたしはここで目覚めました。なので、ここにいます。原初の風とは、これのことですか?」

彼女は始終真面目な声色だ。記憶に新しいインリーは、オドオドとしてあまり喋らない女の子だった。

雰囲気がまったく違う。姿はインリーだが、中身が違うような?姿形は変わってしまったが、中身は変わっていないようなレイシとは真逆な現象だ。

シャナインがインジュに差し出したのは、魔水晶のオカリナだった。

「あ、これですこれです!中身は……ああ、いますねぇ。返してもらってもいいですぅ?」

「はい」

完結に同意したシャナインから、オカリナを受け取ったインジュは、改めて彼女を見た。意思のある瞳だが、どこか作り物のような印象を受ける。生まれたて?意識はあるが、心はあまり発達していないような?

うーん、どうしましょう?これは予想外の展開だ。

インリーが生きている。もしくは、ツェエーリュアがなぜかイシュラースで魔物狩りをしているのかと思っていたが、どちらも違った。このインリーにしか見えないシャナインを、ここに放って行くわけにもいかないが、アシュデルのところには流星の君の件から遠ざけられたインファがいる。

元凶かも知れない人を、連れて行くわけには……

「1つ、質問してもよろしいですか?」

「はい!いいですよぉ?」

話しかけられるとは思っていなかったインジュは、驚きながらも答えていた。

「あなたは、この体のことを知っているのですか?」

シャナインは、自分の胸に手を置いて問うてきた。インリーは隠すところしか隠していないような軽装だったが、彼女は、雪国でこれは寒いだろう?とは思うが、半袖で、前だけ丈の短いワンピースだった。スカートの下にはスパッツを履いていて、よく動けそうな雰囲気だ。

「この体?です?シャナインは、もともとこの体じゃないんですぅ?」

「いいえ。あなたの態度が、中身が違うと言いたそうだったので」

「目覚めた時から、この体なんですねぇ?すみません。知ってる人に、ソックリだったんで、その人だと思っちゃったんです。ここに、ずっといるんです?」

「ここにいるようにと、ツェエーリュアに言われました」

「ツェエーリュア?話ができるんです?」

インジュは、階段の上にそびえ立つツェエーリュアの像を仰ぎ見た。

「ツェエーリュアは気まぐれです。わたしは、11ヶ月と5日前にここで目覚めました」

「だいたい1年前……」

流星の君の出現と、彼女の目覚めは合致しているようだ。

じゃあ、この人が?インジュが次の質問を考えていると、シャナインがピクリと反応した。

「敵意を感知。迎撃します」

「え?なんて言いましたぁ?」

戸惑うインジュの耳に、知っている声が聞こえた。

「ツェエーリュア!聞きたいことがある。出てこい!」

階段の上を見上げると、不機嫌そうなリフラクが入ってくる所だった。

あの人、ホント役者ですよねぇ。笑うと無害な少女にしか見えないリフラクだが、普段はどう見ても大人の男性なのだ。

「リフラク!逃げてください!」

さすがのリフラクも、こんな不意打ちは危険極まりない。インジュは叫んでいた。シャナインはすでに空中だ。

『ちっ!血の気の多い女だな!』

エンドの声が聞こえて、インジュの姿が変貌を始める。しかし、インジュは変身を待ってはいられなかった。キラキラ輝く金色の風を纏いながら、飛んでいた。


 誰かの警告と、純粋な殺気を感じて、リフラクは巨大虫ピンを手にしていた。

インリーが生きている可能性を考えるなら、ツェエーリュアを疑うのが手っ取り早い。

リフラクは、ペオニサにインファの現状を伝えた後、白虎野島を目指した。間の悪いことに、アシュデルの滞在も白虎野だったが、顔を合わせずにアッシュの工房を出ることなど造作もない。そうしてここへ来たのだが、本当にインリーに出くわすとは、しかも襲われるとはさすがに思っていなかった。

襲ってくるのならしかたがない。殺しはしないが、痛い目は見てもらおう!

リフラクに迷いはなかった。襲いかかってくるインリーの右手には、純粋な風の力が握られていた。

「ちょっとは――待ちやがれ……!」

双方の攻撃は放たれていた。

「――インジュ?」

リフラクの虫ピンは、彼の背に深々と突き刺さっていた。

「おまえもだ。この特急女!」

インジュの姿は変貌していた。四肢がオウギワシのかぎ爪に変わり、尻には尾羽も生えていた。エンドの戦闘形態だった。

エンドのかぎ爪が、シャナインの両腕を掴んでいた。

「凶花のこれは敵意じゃねえ!こいつが不機嫌なのはいつもだ!」

「そうなのですか?それは大変失礼しました。インジュ、先ほどとすべてが違いますが、大丈夫ですか?」

まったく表情を動かさずに、シャナインは言った。

「おまえ!怪我させたことを謝りやがれ!オレはエンドだ。煌帝・インジュはなぁ、三重人格なんだよ!」

「三重。ということは、もう1人いるのですか?」

「ああ。って、こんな会話してる場合か!?」

調子の狂う!とエンドはシャナインを突き放した。ハアハアと肩で息をするエンドの体から、血が床に向かって滴り落ちていた。

「黒い悪意を感知。殲滅します」

「はあ!?待ちやがれ!」

ピクリと何かに反応したシャナインはつぶやき、ゲートを開くと飛び込んで行った。それを、リフラクが追って行く。

「待て――凶、花……」

流星の君は彼女だ。次元を越えることのできる固有魔法・ゲートを使い、神出鬼没に魔物狩りを行っていたのだ。誰も遭遇できなかったのは、魔物を狩り終わるとゲートでここへ帰ってきていたからだ。

わかったのに。エンドは空中でグラリと体を揺らすと、背中から床に落下していた。

「インジュ!」

――親父殿?なぜ……ここに……

階段を、翼を広げ飛び降りてくるインファとアシュデルの姿を眺めながら、エンドは意識を失っていた。

「……い、たあーい!うんもお!相打ちの間に入るぅ?普通ぅ」

人格を交代したアジャラは、背中に刺さった虫ピンを引き抜くとため息をついた。

「大丈夫ですか?何があったんですか?」

「ああ、お父さぁん。インジュとエンドなら寝ちゃったわよぉ?原初の風に導かれてきてみれば、とんだ拾いものだわぁ」

はあと、アジャラはため息をついた。

こうしてリフラクに捕らえられたシャナインは、風の城に連行されることとなるのだった。


 インリーを見つけたら、オレは、どうすればいいのか、決められなかった。

リティルが、インジュかノインを連れていっていたのは、2人なら迷わず適切な行動が取れると知っていたからだ。2人の目に、判断を押しつけていただけだ。

「それで、これはどういう状況だ?」

ノインが困惑気味に、連行されてきた女性を観察していた。

「ええとですねぇ。シャナインです」

ノインに答えたインジュの言葉に、リフラクはシャナインを睨んだ。

「聞きたいのは、名じゃないんだよ。この女、散々手こずらせてくれて!」

競い合うように魔物を狩り、その後はシャナインとリフラクの一騎打ちとなった。場を治めたのは、魔物を狩りに来たリティルとノインだった。ノインの操った風の糸が、シャナインの体を縛り上げ、何とかその場は収まったのだ。

 城に戻ると、インジュのみならずアシュデルとインファも戻ってきていた。

応接間にいる面々を見て、ノインはため息をつくと、ソファーに座らせ、気を取り直してシャナインに問うた。

「シャナイン、君は自分が何の精霊なのか、告げることができるか?」

シャナインは、これだけの最上級精霊、上級でも率いる立場にいるような精霊に囲まれていても、平然としていた。その態度からも、インリーではないということがわかるほどだった。

「わたしは、風の王の娘です」

皆が言い切ったシャナインを凝視していた。

「風の王は、黒い悪意を狩る者。わたしは、黒い悪意を感知、殲滅していましたが、何か問題がありましたか?」

シャナインには、本当にそれ以上の感情はないようだ。

「風の王の娘……か。シャナイン、オレがその風の王だ。君は、娘っていう言葉の意味を知ってるか?」

やっぱりか。リティルは、問いの意味がわからない様子のシャナインに、頷いた。

「君の身柄は、15代目風の王・リティルが預かる」

「いいのかい?リティル様。この娘、いろいろと問題がありそうだよぉ?」

この場の誰も意見できないだろう?間髪入れずに問うてきたリフラクに、リティルはフッと笑った。

「だからだろ?これは、風の仕事だぜ?」

「まあ、そうだねぇ。今、この城に、あなたに異を唱える精霊はいないねぇ」

リフラクは鋭い瞳を、応接間の面々に向けた。そして、最後にリティルを見据えた。

「リティル様、彼女を受け入れるということは、インファとシェラ様の心に多大な負担をかけることになるけれど、きちんとケアできるんだろうねぇ?この女がインリーではないと言い張っても、容姿だけならあのインリーその者だ。容姿の違うレイシを、インファは受け入れられなかった。そのこと、忘れていないよねぇ?」

わかっている。シャナインを受け入れる器が、今この城にはないということを、リティルは承知していた。しかし、まるで、誰かにそういうふうに作られたかのように動くシャナインを、野放しにはできようはずもなかった。

「あのぉ」

険悪な雰囲気の中、声を上げたのはインジュだった。

「シャナインのこと、ボクが預かりますよぉ。一番最初に会ったよしみです。それに、エンド君が気にしてるんですよねぇ」

『おい!』

エンドの低い抗議の声が聞こえたが無視した。煌帝妃・リャリスがそばにいなければ、体を支配していない人格の声は、皆には聞こえないのだ。

「黒い悪意を感知。殲滅します」

ピクッとシャナインが反応した。インジュは、彼女がゲートを開く前に捕らえていた。

「殲滅にもルールがあるんですよねぇ。教えてあげますから、ちゃんとした風の王の娘になりません?」

涼しい顔で笑うインジュだが、彼の素早さと絶妙な力加減には、まだまだ勝てないなとリフラクは思う。

「君なら異論はないよ。父さんも納得するだろうからねぇ」

「ジュールさん、リティルが預かってたら、乗り込んできてましたよねぇ?ボクがいてよかったですねぇ」

インジュは、シャナインが抵抗をやめたのを感じて、手を放した。シャナインは、さすがに掴まれた手が痛かったのか、赤くなった腕をさすっていた。

「シャナイン、ボクの指示なく動いちゃダメですよぉ?殺したいなら、存分に殺させてあげますから。ね?」

「わかりました。あなたの指示に従います。インジュ」

大人しくなったシャナインに、インジュは柔らかな微笑みを浮かべた。

「ってことでアシュデル君、ボク共々お願いしますねぇ!」

インジュにいい笑顔を向けられたアシュデルは、ああ、そういうことね。と、苦笑いを浮かべたのだった。


 インジュとシャナインは、アシュデルの滞在にかかわらず白虎野で過ごすことになった。

シャナインは、イシュラースに産まれる魔物を感知する能力に優れ、1日の回数制限はあるもののゲートの力も使いこなしていて、すぐに行ってしまいそうになる。インジュは風の城からいつも通り魔物狩りを振ってもらいながら、シャナインに城のルールや一般常識を教えていった。

初め、インジュに対するギンヨウの尊大な態度に「抹殺しますか?」と真顔で聞いてきたが、それもなくなった。

「はあ、火の魔法が使えないって、不便ですねぇ」

「便利さをしっちまうとね。助かったよ、インジュ」

白虎野は、雪深い地だ。常に白銀の世界とはいえ、一晩に多くの雪が降れば、いろいろと不具合が出る。

霊峰・ツェエーリュアの麓にある大きな街から、小さな村へ道が通っているのだが、こんな日は道が雪でふさがってしまうことが多々あるのだった。インジュは、アッシュの工房のお使いで、その村へ向かっていたのだが、立ち往生している犬ぞりと出くわした。

 この地は、多くの混血精霊がいたために、祖先に混血精霊を持つ家系が多い。その血は薄れ、人間以外の生き物の特徴を持って産まれてくる者も、もう殆どいないが、女神・ツェエーリュアへの信仰は根深い。

混血精霊や、特異な姿の者に偏見や恐れを抱く者はいない土地柄だ。

常識のわからないシャナインは、翼の消し方がわからなかった。彼女は大魔導・アッシュの面倒を見ている、混血精霊ということになっていた。インジュは、たまたま滞在している、アッシュの友人の魔導士ということになっていた。

今、一緒に除雪作業をしている年配の男性は、片腕に白い猿の毛が生えている。

「ご先祖様は怪力だったらしいが、オレにはちょっと腕が温かいくらいだな。魔法の才があったのは儲けものだ」

男は、炎の魔法を操れた。インジュは彼と力を合わせ、小さな炎の竜巻を起こして、道を溶かしながらノンビリ進んでいた。インジュは、彼の操る犬ぞりに便乗し魔法を維持していた。インジュの乗ってきたトナカイのそりは、犬ぞりを追従している。

「インジュ、わたしでしたら、瞬時に道を通せます」

「ダメですよぉ。道の向こうに誰かいたら、巻き込んじゃいます。配達は鳥に頼んだんで、ノンビリ行きましょうよぉ」

「向こうからも除雪してるはずだ。このペースならいつもの半分の時間でいけそうだな。島の外の世界を知ってるあんた達には不便だろう?」

「はい。非効率的です」

「ハハハハ!オレ達の効率を考えても、この自然相手だ。オレ達の力なんぞ、たかが知れてる。確かにアッシュの魔法のおかげで、人が死ぬことは少なくなったが、この自然を変えることはできない。ままならんことは、島の外でも多いだろう?」

「はい。そんなことだらけですよぉ。ボク、そこそこの魔導士なんですよぉ?それなのに、除雪も満足にできないんですからぁ。あ、道、繋がりましたねぇ」

見れば、村の方から除雪していた人々の影が見えた。

「ああ、オレとあんたの複合魔法に、驚いてるな!」

「あはは。咄嗟でしたけど、上手くいってよかったですぅ」

男とインジュは、満足そうに笑った。そんな2人を、シャナインは硬質な瞳で、ジッと観察していた。


 インジュは、なんとなく、シャナインがどんな魔物に反応するのか、わかったような気がした。

「黒い悪意を感知」

まさにギンヨウの用意してくれた夕食を食べているときに、シャナインは突然顔を上げた。頬張ったばかりの鶏肉のソテーが口からこぼれ落ち、彼女は慌てていた。

「行ってみますぅ?」

ハンカチを手渡してやりながら、インジュは言った。この魔物は、インジュ達には狩りの依頼が来ていない。おそらく、リティルと誰かだろうなとインジュは予測していた。

「ですが」

シャナインは、遠慮した。気になっているくせに、可愛いところもあるものだ。

「ギンヨウ君、無作法ですみません。ちょっと行かせてください」

「どうぞ。風の仕事に口出しはしやがりませんよ。後で食べやがってください」

インジュは「ありがとうございます」と笑うと、シャナインを促しゲートを開かせた。

 越えた先は、夕焼けに赤く染まる風の領域だった。

荒涼としたテーブルマウンテンの上空に、金色の翼を持った精霊が、巨大な猿型の魔物と対峙していた。

艶のない黒い体をした魔物は、リティルの十数倍の大きさだった。伸ばされた手に向かい、何本もの金色の光が閃いた。リティルの放つ斬撃が軌跡を残しているのだ。キラッと鋭い金色が煌めいたかと思うと、上から下へ1直線に線が走っていた。猿の腕が断ち切れて、咆哮があがる。振り回された腕に、リティルが巻き込まれる。弾かれたその背を受け止めたのは、インファだった。2人は刹那視線を交えると、2手に分かれて飛んだ。

リティルを追いかけた巨大な手が閉じられる。フワリと金色の風が漏れたかと思うと、拳が内側から弾き飛ばされていた。金色の風を纏ったリティルは、そのまま真っ正面から猿に肉薄した。猿が大きな口を開き、唾を飛ばすように黒い球を吐き出した。それらを掻い潜り、リティルは飛ぶ。背後を取っていたインファの槍が猿を貫くのと同時に、リティルの剣も横に薙がれていた。体を切り裂かれ、巨大な猿はまるで形などなかったかのように崩れて、黒い残滓を残して消え去った。

「見たかったんですよねぇ?風の王・リティルの戦い」

食い入るように見つめていたシャナインに、インジュは声をかけた。インジュに合わさった彼女の視線は「なぜ?」と言っていた。

「だって、シャナインが感知する魔物、リティルが担当しそうな魔物ばっかりだったんで」

インジュはちゃんと裏も取っていた。シャナインが反応した魔物がどんな魔物で、誰が飛ぶことになっていたのか、確認していた。

そのすべてに、リティルかインファが絡んでいた。


 インファは、ノインと共に、ツェエーリュアの祭壇に立っていた。

「ツェエーリュア、あなたが沈黙しているのは、オレ達に知られたくないことがあるからですか?」

シャナインと出会ってから、インファとノインは何度ここを訪れたかしれない。だが、女神・ツェエーリュアは1度も呼びかけには答えてはくれなかった。

「あなたは、何をしたんですか?あの人はいったい、誰なんですか?」

何度も繰り返す問いは、空しく広い祭壇にこだまするばかりだ。

「ツェエーリュア!」

インジュが面倒を見ているシャナインは、まるで赤子だ。魔物狩りに拘るのは、本能であるように見えた。それをしないと死んでしまうから、だから魔物を狩っているようで、その姿が儚く見えて恐ろしい。体も魂もあるのに、いつ消えてもおかしくないような危うさを感じる。インジュは、そういうものに敏感だ。だから、引き受けたのだろう。

彼が気にかける者は、死と隣り合わせだ。彼の中の、受精という最高の産む力が、反属性の死に反発している結果だ。

彼女は死ぬ。

存在を解き明かさなければ、インリーの姿をしたインリーでないあの人は、確実に死ぬ。

インリーに魔法をかけたシェラは、シャナインを遠巻きにするばかりで、近づこうとしない。風の王の娘だと宣言されたリティルに至っては、この白虎野に1歩たりとも入らない。

「インファ、ペオニサが心配する。戻ろう」

「しかし!ノイン、彼女しか手がかりがないんですよ?」

「……彼女は、生かすべきか?」

「ノイン?」

焦りを浮かべるインファに、ノインは迷いながらも、問いかけてきた。

「イリヨナの魔法を、インリーが悪用した結果が、シャナインのような気がしてならない」

「どういう意味ですか?」

ノインは、言葉にしてもいいものか、思案しているようだった。

「イリヨナは、シェラの依頼した通りに魔法を作っていない。これまで他者に与えた痛みを返す、断罪の魔法・痛みの闇。レイシが死を選んだことで、インリーの死は確定した。だが、イリヨナは、その魔法から逃れる術を、組み込んでいた」

「ええ。イリヨナは、悔い改める心が芽生えれば、生き残るようにしていました。インリーに、その心があったからシャナインが産まれたのではないんですか?」

ノインは、腕を組んでしばし沈黙した。

「シャナイン。その名がずっと引っかかっている」

「名ですか?……愛し愛される風という意味ではないんですか?」

ノインは、インファの瞳をジッと見つめてきた。

「どうして、わたしを愛してくれなかった?わたしは、愛しているのに」

ゆっくりと紡がれた言葉に、インファはハッと瞳を見開いた。

「あのまま育てていいものか、オレは決めかねている」

「……イリヨナは、どう言っているんですか?」

「悪意はないと言っている。だが、命令を受けて行動しているとしたらどうだ?人形なのだとしたら?」

「シャナインが、愛を返さなかったオレ達に対する、インリーの復讐の産物だというんですか?」

「苦しめるには足る存在だ。彼女の出現で、風の城の雰囲気は悪化の一途を辿っている。風の王の娘だと言ったシャナインの心に、リティルはいない。つきっきりのインジュに、もし恋心でも芽生えようものなら、煌帝夫妻の絆にヒビを入れかねない」

「彼女を殺せというんですか?」

「排除ならばいつでもできる。どうしたものかと、傍観していたのだが、おまえのその顔を見て、気が変わった」

「ノイン?」

ノインは、インファよりも少し年上の落ち着いた瞳に、涼やかな笑みを浮かべた。

「汚れ役はオレの仕事だ。彼女の本心、ここで聞いてやろう」

ノインから立ち上った陽炎のような艶やかな黒い力に、インファは弾かれていた。ノインとインファの間に、濡羽色の透明な壁が立ちはだかっていた。

「さあ、おまえの本当の主が誰か、教えてもらおう」

ノインの手の中に、黒光りする鞘に収まった、鎖で縛られ抜けない大剣が姿を現した。その鞘に収まった切っ先を、ツェエーリュアの像に突きつけた。

「ノイン!」

ノインは、インファの制止の声を聞かずに像目掛けて剣を振り下ろしていた。艶やかな煌めきを纏った黒い三日月が、1直線にツェエーリュアの像へ吸い込まれ、破壊音とともに砂煙が上がった。

「主への敵意を確認。これより掃討します」

インファの目に、無傷の神像の前に立ちはだかるシャナインの姿が映っていた。


 彼女を一目見たときから違和感があった。

しかし、聞き出すには無知で、探ろうにも警戒心だけは人一倍で、ノインは近づけなかった。風の城にいないインジュは知るよしもないだろうが、彼の妻であるリャリスは、強がって見せなかったが、苦しんでいた。

智の精霊・リャリスと力の精霊・ノインは、対の精霊で関係性は腐れ縁だ。互いに別の精霊を愛し、伴侶を持った、ずっと昔からの相棒だ。

リャリスは、近寄りがたい妖艶な美しさを持つその容姿から、インリーに敬遠されていた。精霊的年齢的にも大人であるリャリスはそれを知っていた。いい感情など、抱けるはずのない関係性だ。その彼女と容姿のソックリな者が、自分の夫達と一緒にいる。夫達というのは、リャリスはインジュの3つある人格のすべてを受け入れていて、3人と婚姻を結んでいる奇特な精霊だからだ。

シャナインは、インジュ以外、風の城に住まう精霊を牽制している。心穏やかでいられるわけがない。その現状を、インジュに言えない健気さで、ノインは見ていて不憫でならなかった。

 赤子同然に見えるシャナインだが、風の城と花の十兄妹の評価は最悪だった。

この事態は、以前、風の王妃・シェラを極限まで痛めつけ、一時心が体に戻れないまでにした魔女・シェレラをリティルが許して受け入れた時と似ていた。違うところは、シェレラは悔い改め、極悪非道な魔女を生涯演じ通したところだ。彼女の償いを、一家は知っていた。1人、インリーを除いて。

「リティル、彼女をどう見る?」

ノインは王であり、弟であるリティルに問うた。

「風の王の娘……か。それは嘘じゃないと思うぜ?ただな、風の王が大切か?っていうと、違うと思うんだ。あいつは、一見インジュに忠実に見えるけどな、好意とは違う気がするな」

リティルは、ノインの顔を見た。薄ら笑みを浮かべて。

「あいつは敵だ。でもな、今は尻尾を出さねーよ」

「どうする?」

「兄貴、インファとツェエーリュアのところ行ってるだろ?」

「ああ。余計だったか?」

リティルは首を横に振った。

「続けてくれ。インファの負担になるけどな。あいつは完全に盲目だ。悪いけどな、餌になってもらうぜ」

リティルの鋭い瞳には、怒りが渦巻いていた。そして、決意だ。ノインからすれば、遅すぎるが、自分の娘息子のはなしだ。ノインも、同じ目に遭って即決断が下せるのかは危うい。ただ、それでも、邪精霊となったインリーを守ってしまったことは失敗だと思っている。邪精霊に堕ちてしまったら、もう、戻ることはない。邪精霊となっても戻ってきた例はあるが、インリーは……。そうなる前に食い止めなければ、残念ながらその先には死しかないのだ。ここまで事態を悪化させてしまったのは、決断できなかった風の王・リティルの失態だと言わざるを得ない。そして、知っていて黙っていたノインも同罪だった。

「一家と太陽の城には、情報流しとく。インジュには見極めさせてーからな、このまま様子見だ。アシュデルとイリヨナには監視してもらうかな?」

「リティル、大丈夫か?」

「正直辛いぜ?あいつの首を飛ばしても、親玉が出てこねーってことがわかってるからな。それで黒幕が釣れるなら、とっくに殺してるぜ」

「敵の正体を、知っているのか?」

「いや。なんて言うか、混血精霊の悪意に似てるなってことくらいか?あいつらの最後は後味悪いぜ?自分ばっかりで、受け入れられなかった恨み辛みで話もできねーんだ。同情はするぜ?けどな、それだけだ。オレには、終わらせてやる以外、何もできねーよ。もう、愛を受け取る器もねーんだからな」

愛を受け取る器?ノインはその言葉に引っかかったが、考えを形にはできなかった。

ノインは、リティルの頭にその大きな手を置いた。

「リティル、オレはいつでもおまえの剣になる。遠慮なく使え」

「兄貴、愛してるぜ?」

ノインの手を頭に乗せたまま見上げてきたリティルの言葉に、ノインは瞳を見開くと手を引いていた。

「ハハハハ!おまえのそれ、オレが大事だって言ってくれてるんだろ?だから、返したんだよ。昔な、インジュが、好きだって気持ちが伝わらなかったことが寂しかったって言った事があったんだ。……伝わってなかったんだな……気がつかなかった……」

哀しげに辛そうに、リティルは俯くと微笑んだ。

「リティル……おまえは……」

ノインは、リティルが黒幕が誰なのかを知っていることに気がついた。ノインにも、実は確信がある。

 こんなに、恨まれねばならないのか?

愛を受け取る器がないとは、これほどまでに哀しい事なのだと、ノインは知った。

ノインは力の精霊の力を得てから、混血精霊を斬ったことがない。リティルが意図的に外していることは知っていたが、それは、ノインがもう、風の精霊ではなくなったからなのだと思っていた。しかし、違ったのかもしれない。

ノインは転成精霊だ。元風の精霊だ。不老不死の精霊ではありえない、命の期限をつけられ、生き長らえるために、空白だった至宝・黄昏の大剣の所有者となり、力の精霊となった。その代償は、これまで生きてきた記憶だった。

リティルとは、縁を繋ぎ直し、兄として今共にいる。ノインとの絆を諦めなかったリティルによって、ノインは繋ぎ止められたのだ。

後に、リティルの父である14代目風の王・インから風の王としての心得を、初代力の精霊・有限の星から力の精霊としての心得を引き継ぎ、風の王兄弟、次男としても、ルディルとジュールに認められている。

もう、不甲斐なかった力の精霊ではない。だがリティルは、ノインに混血精霊狩りをやらせない。それは、ただ狩るしかない悲しみを、知られたくなかったから。なのかもしれないなと、ノインは何となく理解した。だが、風の仕事だから関わらせられないという理由でないのならば、やめさせなければならない。風一家が数人がかりで倒す魔物も1人で倒せるノインに、そんな気遣いは不要だし、戦う組織で、世界最強の力を持つノインを使わない手はないのだから。リティルは時に変な気の使い方をする。それを正さねばならないなとノインは思っている。ノインが正さなかったがために、身内から脱落者が出るという事態になってしまったのだから。

 インリーという娘の事を、関係性だけ覚えているノインは、弟子だと認識していた。しかし、以前の自分が育てたにしては、あまりに不甲斐ないと言わざるを得ない娘だった。他の弟子である、インジュやエーリュが輝かしい為に、その力のなさは目立っていた。

そんな娘だったが、リティルもシェラも娘としてきちんと愛していた。それを、少なくともノインは感じていた。

それなのに、これは……

 ノインは、ツェエーリュアの像を庇い立ったシャナインを見据えていた。買い物にでも出ていたのか、彼女は茶色の裾の長いコートを着ていた。袖口に縫われた雪の結晶の刺繍が、僅かに煌めいていた。まったく場違いな出で立ちだ。

「本性を現したな。そこにいるのは誰だ?ツェエーリュアをどうした!」

縁ある守護神のツェエーリュアが、これだけインファに答えないのはおかしい。これだけ信仰を集めている神だ。消滅させられたとは考えにくいが、よくて幽閉されているのだろう。シャナインの主の手によって。

シャナインはノインに答える代わりに、五本の指にそれぞれ力を集めると、投げつけてきた。風の弾丸。攻撃を受けたのインの姿が、刹那砂埃に消える。

「ノイン!」

 思わずインファは叫んでいた。インファの前に立ちはだかる障壁は消えない。ノインは無事だということだが、これを見せられるのはインファには苦痛以外の何者でもなかった。しかし、ノインの障壁は強固だ。そして周到なことに、風の力を無効化する魔法がかけられていて、インファには壊すことができなかった。

砂埃を割いて、ビームのような光がシャナインを撃った。ツェエーリュアの像を庇う彼女は、避けなかった。あれが大事であることは明白だ。なぜ、石の像を守る?インファは、神像を見上げた。

体を失った魂には、器が必要だ。それが一時的にでもなければ、魂を葬送する風に見つかって輪廻の輪へ還されてしまうから。

神であるツェエーリュアが葬送されないのは、彼女が、この島と同化しているからだ。この島自体が、彼女の体だからだ。

人の手が作ったあんな像1つ壊されても、彼女にはなんら影響はない。ではなぜなのか。あの像の中にいるのは、ツェエーリュアではないと、インファは確信した。インファは、改めてツェエーリュアの像を見た。あの像は、祭りの度に、人々が祈りを捧げている神器だ。それは力ある物体だ。あの像なら、魂の1つや2つ風に見つからずに隠していられるかもしれない。


 像を、守らなければならない。像が攻撃されるのを感じて、シャナインは来たくはなかったがここへ来るしかなかった。この人を退けて、早く帰りたい。ここへ来る前、呼び止めたギンヨウの声が、酷く心配そうで行ってほしくなさそうだったから。早く帰って、彼に安心してもらいたい。

「おまえは、何の為に送り込まれた?」

ノインの簡潔な問いに、シャナインは黙して何も言葉を発しなかった。答えるが、シャナインの中になかったからだ。

「無垢なフリをして、インジュを懐柔しようとしたか?残念だったな。彼は風の城の看板役者だ。心のこもらない演技に、心打たれることはない」

ブンッと大剣がうなり、像から離れられないシャナインは受け止めきれずに床に落ちていた。ああ、この人は強い。勝てそうにない。どうしよう?帰れないかもしれない。

「だがインジュだ。彼は愛をくれただろう?君は、受け取らなかったのか?おまえの魂は、何の為に産まれた!」

シャナインは、割れた床の上に体を起こした。インジュが愛?何の事だろうか?と思ったのだが、1つ、彼の言葉で引っかかるモノがあった。

「わたしの、魂……」

俯いたシャナインに、ノインの剣が迫った。シャナインは辛うじて避けたが、床を割ったそのつぶてに体を打たれていた。

わたしは、何のために生まれた?そんなこと「わたし」には関係ない。ただ、言われたことを忠実にこなすだけ。命じられたことは少なく、それ以外は魔物さえ狩れればそれで良かった。良かったはずだった。


「ここは、極寒でやがりますからね」


シャナインは、唐突に彼の声を聞いた。純粋に、シャナインを気遣ってくれるギンヨウの声だった。今着ているコートは、インジュとギンヨウが選んでくれたものだ。

「それ着て戦いますぅ?」とインジュに言われたが魔物狩りに出るときにも、なぜか脱ぎたくなくて、着ていってしまっていた。

そのコートが、つぶてに破かれていた。

「愛してとは、名が泣くな」

ジャリッと影がシャナインの上に落ちた。

この気持ちは何だろう。破れた袖が気になって、次の攻撃に備えることができなかった。ノインの剣が振り下ろされるのを、顔を上げられないシャナインは感じていた。でも、そんなことどうでもいいくらい、破られた袖が気になっていた。

「はい。ボクもそう思いますよぉ?」

ゆっくりと顔を上げると、目の前に知っている背中があった。インジュの上げられた手に触れる寸前で、ノインの剣は止まっていた。

「シャナインは、演技じゃないんです。ボクに変な接し方するの、そう命じられてるからなんです。誰にってところは、まだ聞き出せてなかったんですけどねぇ。お父さん、そんなに傷ついちゃってるんですぅ?ノイン」

 シャナインは何も言わずにゲートで行ってしまったが、インジュは彼女はここだと確信していた。たどり着けばもう戦闘が始まっていて、ため息モノだった。インジュには、ノインの張った障壁だろうが単純なモノならこの手の平で触れるだけで壊せる。

ノインのこの、至宝・黄昏の大剣もしかりだ。折れてもすぐ再生するらしいが、ノインはインジュとは争わないという意思表示だろう、手の平に触れないでくれた。そこだけはホッとしている。

「何も見えていないくらいには、な」

ノインは、損な役回りだ。インファが潰れなければ、こちらにシャナインのことを任せてくれる気だっただろうに。そして、もうすぐだったと思う。彼女の心に影響は出ていたのだから。

「そうですか。わかりました。ボクがやります」

ノインは剣を退いた。そして、こちらから距離を取ってくれた。

「シャナイン、あなたは、怖いんですよねぇ?自分が心を動かされたら、どうなるんだろうって、考えたくないんですよねぇ?」

インジュは、立ち上がれないシャナインの前に膝を折った。手を伸ばすと、ビクリと怯えたように身を振るわせたが、インジュは手を引かなかった。かざされた手から透明な光が溢れ、破れたコートを元通りに直した。

これまで見てきて、シャナインは不可解だ。

このコートを明らかに大切にしているくせに、インジュに気がある素振りをしていた。感情を動かさないように、常に戒めているような気がしていた。

弱みでも握られてるんですかねぇ?インジュの見解はそうだった。インジュは、シャナインをスパイ的な何かだと確信していた。このまま付き合うのは危険かもしれないと、ギンヨウとアシュデルには話してあったのだ。

アシュデルは「ああ、そうなの?」とまったく動じず、ギンヨウも然りだったが、彼の反応は少しだけ違っていた。ギンヨウは「そうでやがりますか。しかし、わたしには関係なくてやがります」と言った。そして、今まで通り、いなくなるまで接するだけだと笑った。そして、本当に変わらなかった。

「ボクは、奥さんのリャリスにしか、そういう愛はあげられません。それより、その気もないのに誘惑までしろって言われてたんです?」

シャナインは、やっと顔を上げた。

「はい」

シャナインは、ギンヨウに懐いていた。と、インジュには見えていた。行きたいのに行けないような、躊躇うような素振りでインジュのそばにいたが、ギンヨウのすることに興味があるようだった。それで気がついたのだ。今の状態は、シャナインの本心ではないのでは?誰かに命じられているのでは?と。本当に、影響は出ていたのだ。「愛してとは名が泣く」本当だ。ギンヨウは待っていても、振り向いてはくれない人だと思う。こちらから「愛している」と伝えて、何度も押さなければ信じてさえもらえない気がする。インジュに言わせれば、ギンヨウも十分訳ありだ。

「ずっと疑問だったんですけど、それでいいんです?そのコートを大事にしてくれたり、戦うリティルに見とれてたりしてたじゃないですかぁ。転んだお婆さんを助け起こしたのは、どうしてだったんですかぁ?」

「インジュは、気がついていたのですか?」

「ボク、偽りだらけですからねぇ。心にもないことは、どんなに上手く取り繕っても、違和感感じちゃうんですよねぇ。どうします?ボク達と敵対しちゃいます?」

シャナインは、いつもの本心の読めない真面目な表情でインジュを見つめるばかりだった。このまま。誰かの道具のまま終わっちゃうんです?ノインが痺れを切らすのもわかる。シャナインは誰がどう見ても敵なのだから。だが、インジュはもう少し見守りたかった。

一緒に暮らすギンヨウが、シャナインを大事にしていたからだ。

しかし、ノインが動いたことですべてが断たれてしまった。任せたんなら最後まで任せてくださいよぉ!と思う。

「選べないです。ボクはリティル以外、選べません。でも、シャナイン」

風の王の補佐官、煌帝・インジュは哀しそうに微笑んだ。もう、ギンヨウさんちの居候、インジュさんではいられない。

「ボク、あなたのこと、ちゃんと好きでしたよぉ?」

そんな顔もできるんですねぇ。驚きに瞳を見開いたシャナインの顔を見て、違う表情ができるなら笑顔がよかったです。と、インジュは思った。ああ、ダメか。シャナインの笑顔が見られる人は、きっとギンヨウでなければならないだろう。だって、ギンヨウは多分、シャナインを守っていたのだから。敵だと、シャナインをそんな目で見ていたインジュが得ていいものではない。

「インジュ!」

「恨みたいのは、こっちのほうですよ!」

 ノインの築いた壁の向こうから、インファの警告の声がした。身を翻したインジュの手が、襲ってきた氷の刃を弾いた。インジュに触れられた氷の刃が、雪女の手から霧散した。

反属性返し。どんな属性の力も、確実に消す、もしくは跳ね返すインジュの固有魔法だ。吹雪を纏う雪女?確か、ツェエーリュアの眷属とか言ってましたかねぇ?インジュはリフラクが連れている守護精霊のユキノを思い出していた。再び手に氷の刃を纏わせ攻撃してきたその手を払い、インジュは手の平を雪女の腹に押し当てた。吹雪を解かれ、彼女の姿はあっけなく霧散していた。

「ゲートです!?お父さん!ノイン!」

どこへ行こうというのか。神樹と神樹に縁ある精霊にしか操れないはずの次元のゲートが、数個空間に穴を開けていた。6人の雪女が一斉に行動を開始した。

ノインとインファが共にいるとしても、6人にバラバラに動かれれば対処できない。1人を取り逃がしてしまった。取り逃がした1人は、すぐさま戻ってきた。絶対に、巻き込んではいけない人を連れて。

「ギンヨウ……やめて!言われた通りにします!だから、ギンヨウを巻き込まないでください!」

シャナインの悲痛な叫びが響いた。インジュが初めて聞く、彼女の感情がこもった声だった。ゲートから戻ってきた雪女は、アッシュの工房にいるはずのギンヨウを捕らえていた。

「人質ってヤツでやがりますか?これからわたしがどうなるのか、教えやがってください」

はははとギンヨウは、困ったように笑っていた。民間人であるはずのギンヨウからは、恐怖が感じられない。いったい彼は何者なんだろうか?とインジュは今更ながら思ってしまった。常識的に考えて、戦いとは無縁の者がこんなことに巻き込まれたら、少なくとも命の危険や不安を感じて恐怖するはずだ。それとも、無縁すぎて想像が追いつかないのだろうか?しかしながら、落ちつきすぎだと思う。

「うーん、殺されるんじゃないんです?なんかそういう位置ですよぉ?」

神像の前に、まるで盾になれとでも言うかのように吹雪の鎖で留め置かれたギンヨウに、インジュは率直な意見を述べていた。

「それは困ってしまいやがります。師匠、あの人わたしがいないと普通の生活すら送れない、ダメ師匠なんでやがります。インジュ、何とかしやがってください」

「頑張りたいのは山々なんですけどぉ、ロックオンされてます」

シャナインは咄嗟に顔を庇っていた。3人の雪女に一斉に攻撃され、インジュの姿が吹雪の白に刹那掻き消えた。

「さすが……に、3人は無理ですねぇ……手が1本足りませんよぉ」

左肩を貫かれ、インジュは片膝をつかされていた。インジュを刺したまま、もう一方の手を振り上げた雪女は、ノインの大剣に薙がれ、消し飛んでいた。

「行けるか?」

「あはは。誰に言ってるんです?」

立ち上がったインジュの肩の傷は、すでに消えていた。超回復能力だった。再び襲ってきた雪女達を、インジュとノインは空中へ逃れて躱した。

「ギンヨウ君!大丈夫ですかぁ?」

ギンヨウは、神像の中心に縛り付けられていた。部屋としては広いが、戦闘を繰り広げるには狭い。加えてギンヨウがあの位置では、インジュとノインといえども近づかなければ彼を救うことができない。雪女達は、聞いていたよりは脆いが、再生が速い。そして機動性もそこそこだ。早く救い出したいが、上手くいかない。

「後ろに誰かいやがります。年貢の納め時ってヤツでやがりますね」

 どうしようもない。と、ギンヨウは困ったように笑った。そして、シャナインを見た。彼の視線に、シャナインは身を固くした。インジュには、敵だと見抜かれていた。ギンヨウも知っていただろうと刹那思った。

「本性を現しやがりましたね」そんなことを、言われると思った。それを、自業自得だと思える心が、すでに芽生えてしまっていた。ギンヨウに関して、特に指示は受けていない。シャナインにとっても、無関心な相手のはずだった。だのに、インジュに突きつけられるよりも、シャナインの胸は痛んだ。

わからない。それがなぜなのか、シャナインには理解不能だった。

ギンヨウは、シャナインに何も聞かなかった。

いつも、シャナインの問いに答えるのみで、白虎野のこと、料理のこと、手がけるアクセサリーのこと、そんなことばかりを話して聞かせてくれた。

まるで、蚊帳の外にいる人。

戦うしか能のないシャナインにとって、眼中にない人のはずだった。興味など、微塵も惹かれない世界の住人のはずだった。だのに、ギンヨウの笑ってくれる瞳が、拒絶する色を纏いこちらを見ることを、シャナインは今全力で避けたがっていた。だが、ギンヨウを選ばなかったのだ。彼が、背を向けるとしても道理なのだ。シャナインはギンヨウから目をそらしていた。とても、彼を見ていることができなかったのだ。怖い……奈落の底へ突き落とされるような恐怖を、感じていた。ノインのあの剣で貫かれてもいないのに、胸の中心が砕けたような痛みが走っていた。

ああ……嫌……嫌です……ギンヨウ……。誠心誠意謝ったら、ギンヨウは許してくれるだろうか?謝って手を伸ばしたら、彼はまた受け入れてくれるだろうか?……あり得ない。初めから裏切っていた自分が許されることは、あり得ない。ああ、こんな罰を受けるくらいなら、ノインに殺されてしまいたかった。ギンヨウに背を向けられるくらいなら、死んだ方がマシだった!

だが、ギンヨウが口にしたことは、思わぬ事だった。

「シャナイン、アップルパイが焼いてあるんでやがります。終わったら食べやがってください。あなた、美味しそうに食べるんで、作りがいありやがりました」

わたしは、悲鳴を上げているのでしょうか?

シャナインは顔を両手で覆った。しかし、大きく見開いた瞳は隠しきれずに、背後から貫かれるギンヨウの姿を見たくないのに映していた。

「ギンヨウ君!」

風を放ち雪女達を消し飛ばしたインジュは、やっと神像にたどり着いていた。

「インジュ!ギンヨウを早く!」

ギンヨウを縛っていた吹雪を消し、彼の体を神像から引き剥がすと、ノインの大剣が薙がれていた。ツェエーリュアの像が砕け散る。

ツェエーリュアの像のなくなった上半身が、真っ黒な人影に置き換わっていた。ただただ黒い物体だとしても、その人影がツェエーリュアでないことは、この場にいる誰もがわかった。長い髪を1本の三つ編みに結った影。その髪型をしている女性に、皆心当たりがあった。

「インリー……」

誰が呟いたのだろうか。神像が断たれ正体が暴かれ、シャナインは命令を完遂することができなかったことになるが、そんなことはもうどうでもよかった。ただ、笑って凶刃を受け入れたギンヨウの姿を、その現実を受け入れることができなかった。


 ギンヨウを奪い返したインジュは、ヘタリと床に座り込んで顔を覆っているシャナインの腕を掴んできた。

「ギンヨウ君を連れて、風の城に行ってください。城に行けば、ギンヨウ君助けられる人、誰かいますからぁ」

インジュが何か言っている。だが、何を言っているのかわからない。ただただこの現実が受け入れられない。インジュが乱暴に肩を掴んで1度大きく揺さぶってきた。

「精霊は死んじゃうと、消えてなくなるんですよぉ。ギンヨウ君、れっきとした精霊なんで、まだ生きてます!見殺しにしないでくださいよぉ。食べたいでしょう?ギンヨウ君の手料理!」

インジュの「ギンヨウ君の手料理」という言葉に、彼の声が蘇る。「今夜、何が食べたくてやがりますか?リクエスト、しやがってください」彼はああだこうだと、口うるさく指示してきた。だが、言うことを忠実に聞くと、美味しいモノが食べられた。そして、黙々と食べるシャナインを、満足そうに見つめていた。

美味しいと言った事はなかった。表情が動いている自覚もなかった。だのに、美味しそうに食べているように、彼には見えていた?そんなはずない。美味しいとは思っていたが、口に出して言ったことはなかったし、自分の表情が乏しいことには自覚があるのだから。

精霊は、経口摂取でエネルギーを得る種族ではない。食べることは必須ではないのだ。けれどもギンヨウは、3度の食事に拘った。皆一緒の食卓を囲むことに拘った。たわいないことを、ずっとしゃべり続けるインジュに相づちを打つギンヨウ達の会話を、シャナインはただ聞いていた。生きるために必要のない、無駄な時間――だったはずなのに、あの光景が頭から離れない。

「わたしは……」

ギンヨウは戦えない人だ。それなのに、なぜ巻き込まれてしまったのか、彼女が彼を傷つけた理由が、シャナインにはわからなかった。

ギンヨウは、関係ない!何も指示されていない眼中にない人のはずなのに、なぜ?

「今はギンヨウ君のことだけ考えましょう!任せましたからねぇ?」

 埒が明かない。だがインジュはギンヨウを床に寝かせると、すぐさま立ち上がり両腕を広げた。襲いかかってくる雪女から守る障壁を、ドーム状に展開したのだ。

「インジュ、ギンヨウを診てください!」

しかし、障壁を執拗に攻撃する雪女を斬り、インジュを庇い立ったインファが思わぬことを命じてきた。

「え?は、はい!」

インジュは慌てて、ギンヨウの傍らに膝をついた。

背後から貫かれた腹の傷はすでに癒やした。しかし、このままでは目覚めることはないだろう。彼の顔には、ツェエーリュアの眷属を掌握したときリフラクが負っていた、氷の結晶型の痣があった。体も霜をかぶったように白く、仮死状態だ。

「その痣は、呪いではありませんか?」

庇い立っているインファは、襲ってきた雪女を槍の一撃で霧散させた。そんなこと聞かれても。とは思ったが、魔法的な何かであることは間違いない。苦手だが、あれがこうだから、こうでこうで……とギンヨウの痣を紐解く。

「…………はい。残念ながら、呪いですねぇ。進行は遅らせてみますけど、術者を殺すのが手っ取り早いですよぉ?お父さん、できます?」

どういう呪いかまではわからなかったが、呪いの解き方は決まっている。

「ええ。問題ありません。問題なのは、攻撃手段だけですかね?」

「ああ、炎系がいれば早そうですよねぇ」

炎系といえば、1番に思い浮かぶのはアシュデルだが、どこにいるかわからない。次に思い浮かぶのはレイシだが……インジュはチラリとシャナインを見てしまった。斑ボケのレイシは、シャナインを見て、インリーを思い出したりするのだろうか。彼の記憶からは、都合よく彼女に関することは完全に燃えてなくなっている。過去に2人のグロウタースの民の女性と恋愛関係にあり、きちんと彼女達を見送っているインジュは、レイシのこの状態になんだかモヤモヤしていた。まったくもって悲惨な別れだったが、だからといって、綺麗さっぱり忘れることないじゃないか!と思ってしまう。幸せだった時間、あったでしょう?と。何なんだろうか?あの夫婦。人騒がせな上に自分勝手な恋愛をして!と思って、恋愛は自分達勝手なものだったと思い直した。だが、だがだがだが!ああー!イライラする!はっ、平常心平常心。

「通信が遮断されています。父さんはすでに気がついているでしょうが、空間も閉じていると思われます。皆が来るまでには時間がかかるでしょう。オレ達だけで平らげる方向で行きます!」

「はい!了解です!」

それにしても、いつの間に状況分析をしていたのか。腑抜けているのかと思えば、仕事している父の優秀さが怖い。

――世界は、そこに生きる者の心でできてるんだ

そう言って、滅びを目前に控えた大陸を見つめていたリティルの横顔を、インジュは思いだしていた。

争うことをやめられずに、いがみ合い、血を流し、その怨嗟が大陸を1つ殺した。

破壊の力が、創造の力を上回ったとき、滅びが訪れるのは、物理的なモノだけでなく、人の心も同じだ。

インリーは、愛を知っている女の子だった。

愛という感情に、インファは否定的だった。それは、その感情に邪魔をされて、正常な判断を下せなくなることを危惧してのことだった。

インファは、自分の脆さがそこにあることを知っていた。オレは冷酷非情な風の副官ですと、装っていた。

インリーは、そんな兄の脆さを、助けることができたはずだった。そう思えるだけに、インジュは悔しい。

妹は、インリーは死んだのだ。

インファがそう吹っ切るのを、インジュはただ見つめていた。


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