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三章 兄弟

「ありがとう。止めに来てくれて。でも、譲れないんだ。ごめん」

そんな言葉を、信じられないボクだったらよかった

あなたを今でも怖いと思っているよ

ペオニサ兄さんを傷つけたままのあなたなら、ボクは気兼ねなく恐れていられた

「――デル!アシュ――」

でもね、しかたないんだ。あなたの悔しさが、よくわかってしまったから

花は、散るモノだ。だから、死が、恐ろしくないのが、少し厄介だ

「アシュデル!」

「――……兄……さん……?」

霊力を使い果たして、アシュデルの視界は闇の中にあった。それでも、この声だけは聞き間違えたりしない。

「気がついたか?よかった……おまえ……リフラクに1人で喧嘩売るって、なんでいきなりそんな熱血なの!?下手したら、死んでたよ!?」

「ははは……リフ兄に感謝しなくちゃね……」

「ホントだよ……心眼使ってるんだから、霊力の残量には気をつけろよ!」

視界は相変わらず闇だった。けれども、体を支えてくれるぬくもりはわかる。

「さすがに、8人は溶かせなかったね」

残ってしまった3人に襲われていたら、アシュデルは死んでいた。リフラクは霊力の枯渇したアシュデルの意識を奪い、眷属の攻撃対象から外したのだ。こんな真似されたら、諦められないじゃないか。と思う。まだ怖いけど、ギンヨウが一緒にいてくれたら、お茶くらい飲める仲になれるかもしれないし。ああ、ギンヨウは「克服は、ご自分でどうぞ」と嫌がりそうだが。

「当たり前だよ!インファが苦労してる相手なんだぞ!?」

ペオニサに烈火のごとく怒られた。

「オレより、アシュデルの方が戦えていますよ。オレに火は扱えませんから。しかし、ツェエーリュアは自らリフラクと行ったんですか?」

あの人は、何を考えているのかいまいちわからない人だったな。とアシュデルは、ツェエーリュアの印象を思い返していた。

アシュデルは腕を肩に担がれるのを感じた。どうやら移動するらしい。霊力が枯渇していて、魔法で防寒ができなくなっていた。一応、防寒していてもこんな薄着では凍えてしまう。

「うん……ツェエーリュア、リフラクに凄く同情してて、ペオニサのところに戻したいって言ってたんだ」

答えたのはレイシだ。

「え?オレのところって何?ツェエーリュアって味方なの?」

あからさまにペオニサは驚いた。

「敵じゃないよ!たぶん……」

すかさずレイシが噛みついた。

「確証のない事は発言しないでください。花の兄弟、彼女について、わかることはありませんか?」

インファの声が硬質だ。アシュデルがあまり聞いたことのない、風の副官のときの声だ。

「え?オレも?……親父の血、引いてるんだよね?だったら、味方じゃないかなぁ」

「ボクはそういうものは信じないけど、リフ兄の味方なのは本当だと思う。何をしたいのかよくわからないけど」

ドサリと、アシュデルは固い地面に下ろされた。刺すようだった空気が和らいでいた。

「オレ、行くよ。ツェエーリュアの力は雪なんだ。リフラクは花の精霊だから、この力に長く触れると凍死するって言ってた」

レイシは踵を返そうとしたようだ。

「レイシ、あなたは山を下りなさい」

インファの静かな言葉に、レイシの失望がアシュデルには感じられた。

「リフラクは、あなたを快く思っていません。戦闘になれば、彼の命を危険に晒してしまいます。風の城は、リフラクを守ります」

敵は誰なのか。インファは改めてレイシに伝えているようだった。

「インリーの為に行くんじゃないよ!話が、したいんだ」

「あなたは、繰り返すんですか?」

憤ったレイシに、インファが信じられないくらい冷たい声を発した。本当に珍しいなと、アシュデルは思ってしまった。

「え?」

「精霊王・シュレイクの時も、あなたは話がしたいと、セリアを巻き込み、無断で動いた挙げ句、父さんに傷を負わせ、力を暴走させました。繰り返すんですか?あなたの自己満足に、いつまでオレを振り回すんですか?」

インファの声は冷ややかで怒っているようだったが、その心に怒りが微塵もないことを、未だ視界を闇に閉ざされたままのアシュデルにはわかった。

初めてだったの?インファに突き放され、言葉を紡げないレイシの気配に、ずいぶん守られていたんだなとアシュデルは感じた。だからだ。だからインリーは堕ちてしまったのだろう。

 アシュデルが物心ついたとき、上の10人の兄弟達は皆、成人していた。長女の智の精霊・リャリスは婚姻を結び、すでに風の城に嫁いでいていなかった。

まだ導きを必要としていた幼少期のアシュデルの面倒を見てくれていたのは、当時放蕩息子と呼ばれていたペオニサだけだった。花の十兄妹の鼻つまみ者だけが、アシュデルを気にかけてくれていたのだ。

昼間は闇の城に行っていたといっても、夜には太陽の城に戻ってきていて、魔導にしか興味のないアシュデルもまた、兄弟達に遠巻きにされていた。当時のリフラクに、目をつけられていたペオニサと仲がよかったことも災いし、アシュデルは太陽の城で孤独だった。

たまに見掛けるリフラクの圧倒的な力。容赦のない優しさの欠片もない視線から、守ってくれる者はいなかった。

実家である太陽の城は、アシュデルの安らぎの場ではない。戦場のようなモノだった。

駆け出しの小説家として忙しかっただろうに、殆ど一緒にいてくれたペオニサ、生まれがほぼ一緒だからと、イリヨナに引き合わせてくれたリティルには感謝しかない。2人がいなければ、アシュデルは成人前に枯れていたかもしれない。それくらい過酷な場所だと、アシュデルは今でも思っている。

 対して風の城は、日だまりのような、春風の中にいるような城だ。

風の王・リティルとその王妃・シェラ、そして雷帝・インファに守られている。視力を失ったとき滞在したが、出ていきたくないなと思うほどに心地いい城だった。

しかし同時に、戦う組織としては生ぬるい。

中核を担う風の精霊、リティル達四天王を慕い居候している精霊達。皆、大人と呼べる年齢、精神だ。ちょっとやそっとでは堕ちない者ばかりだ。リティルは彼等の心が戦いに疲弊していかないように守るため、癒やしや安らぎに重きを置いている。

それが、十代の未熟な精神の者には毒となってしまった。強く厳しいノインだけでは、締まらない。しかもノインはやる気のない者には見向きもしないのだ。脱落者を拾い上げるシステムは、残念ながら風の城にはない。

花の十兄妹は、全員が精霊的年齢二十歳を超えている。そうなるように、ジュールが幼少期を育てたのだ。アシュデルが過酷と感じていたのは気のせいではない。陰りの女帝の王配にと望まれていたアシュデルは、父王によってわざと過酷な空気にさらされていたのだ。

太陽の城は明るく暖かいが、それは表向きでしかない。リティルやインファが訪れるときは、城主である夕暮れの太陽王・ルディル、居候だが実権を握っている花の王・ジュールが、全霊を賭けて取り繕っているにすぎないのだ。元風の王である2王は、現風の王・リティルの兄として、常に守ろうとしているのだから。

そして、副官の雷帝・インファ。

花の十兄妹もインファを兄だと認識するくらい、彼はお兄さん気質だ。

現に中年精霊となったアシュデルも、幼少期闇の城で面倒を見てもらっていた思い出のために、インファを”インファ兄”と呼んでしまう。彼は優しすぎた。十代の、未熟な精神の者が風一家は軍隊だとわからなくなってしまうくらいには。

「インファ!昔のことはいいよ!レイシには行く理由があるでしょ?ツェエーリュアちゃん口説いてるんでしょ?行かないとだよ!」

……この人が、あの太陽の城で微塵も負の感情を育てなかったのは、奇跡だとしか言いようがない。男色だと思われて、レイシに毛嫌いされていたのに、当然のように庇うペオニサが、アシュデルは心配だ。

 それにしても、なぜにこんなに恋愛脳なのか。レイシがツェエーリュアを口説いている?どこからそんな発想が出たのだろうか。とはいえインファの度肝は抜けたらしい。インファの心が乱れたのが感じられた。ああ、やっと視界が戻ってくる。

「口説いているんですか?守護神を?」

戸惑いを浮かべたインファに、ペオニサは自信満々に言った。

「そうだよ!あのオカリナ、レイシの霊力だったよ?」

オカリナ?ああ、そういえば首から提げていたなと、アシュデルは素朴な面立ちの、真っ白な髪とハクチョウの翼が美しい女性を思い出していた。

「手が、早いですね……」

半ばぽかんとしながらも、インファは何とか言った。インファ兄にこんな顔をさせることができるのは、ペオニサ兄さんくらいだな。とアシュデルも唖然としていた。

「ち、違うよ!原初の風が、ツェエーリュアの所に行きたいって言うから!オカリナも原初の風のリクエストだよ!」

なんだそうか。元妻とのことも解決していないのに、別の女性と。なんてことになっていたら、さすがに彼を軽蔑したと、アシュデルはホッと胸をなで下ろした。ギンヨウが知ったら、いい笑顔で「女性の敵でやがりましたか」と言いそうだ。しかし、ペオニサはレイシの弁解を聞き入れなかった。なおも詰め寄った。

「原初の風は、受精させる力だったよね?レイシ、ホントに、微塵も、心がなかった?」「えっ!?そ、それは……その……」

ああ、いけない。止めないと。とアシュデルは苦笑した。

「兄さん誘導禁止だよ。あなたに言われると、始まってしまうから気をつけてね」

「え?いやいやいや、さすがのオレも無闇にやたらに縁結びしないよ。オレの言葉にそうだったのかって思うなら、あるってことだよ!」

この人は、このグロウタースで自分がなんて呼ばれているのかわかっていないようだ。縁結びの神は無自覚らしい。

「兄さん。少し黙ろっか?」

「ア、アシュデル?なんか、おまえ、怖い……」

ペオニサを威圧しておいて、アシュデルはレイシに顔を向けた。

「レイシ、ついてくるなら止めないよ。でも、ボクはリフ兄を優先する」

「アシュデル、オレはあなたを止めますよ?」

優しいんだよね。この人。間髪入れずに釘を刺してくるインファに、アシュデルは貫く困難さを感じる。もしものとき、この人を出し抜かなければならないのだ。まったくややこしい。ああ、ノイン、来てくれないかな?とか思ってしまう。あの人が手伝ってくれたら確実なのに、残念ながらアシュデルには動かす餌がない。

「好きにして。この中で、ツェエーリュアの魂をリフ兄から引き剥がせるのは、ボクだけだ。リフ兄を殺させない」

「おまえ……オレの為だって言うなら、ダメだぞ?おまえ、リフラクの事、未だに怖いだろ?」

ペオニサが気遣うようにアシュデルの腕を掴んだ。

「怖いよ。でも、あの人の哀しみがわかるんだ。一緒にいたい人と、一緒にいられない孤独……ボクは、知っているからね。諦めないでいいことを、わからせたいんだ」

「リフラクは、あなたを孤独にする発端に関わっています。それでも、命を賭けてまでわからせると言うんですか?」

「……リフ兄がボクを暗殺したとき、あの人は、ペオニサ兄さんしか見ていなかった。変わってないんだあの人。愛と憎しみは表裏一体の感情だよね?今、相思相愛じゃないか。嘆き自体が、馬鹿げているよ」

「相思相愛って……オレ、また誤解されるの?」

インファを友達だと言い張っても、多くが恋人にしか見てくれず、ペオニサは妻子のあるインファに引け目を感じている。そんな友人を、インファは「それが何か?」とまったく取り合わないで、当たり前のように共にいる。選ばれていることはわかっていても、後ろめたさはなくならないのだ。

今度はリフラクまで?と項垂れるペオニサに、インファは苦笑した。いつものように。

「縁結びの力が強いですからね。加えてあなたは華やかです。ですが、問題ありません。あなたがたのそれは、友愛であり家族愛です。部外者の事など放っておきましょう。少なくともオレ達は、わかっていますよ?」

慰めるインファに、アシュデルも頷いた。

「ボク達は花の精霊だよ。行きすぎって思われても構わない。縁結びはボク達の性分だ。兄さん、ボクは、あなたの幸せを願うくらいには、あなたのことが好きだ。リフ兄は、兄さんの幸せの一部でしょう?だから、守るよ」

アシュデルに言い切られたペオニサの顔は、見る間に赤くなった。照れを吹き飛ばすように、ペオニサは叫んでいた。

「あああああ!もお!だったらおまえも死ぬなよ?おまえは、どんな姿になったって、オレの可愛い弟なんだからな!」

化け物の姿でもなんでも。それをペオニサは、すでに口先だけでなく実行している。アシュデルは一時、化け物の姿となってしまったことがあった。その時もペオニサは、変わらず接してくれた。「おまえはオレの可愛い弟だ」と曇りなく。感謝している。心が化け物に変わらないように、笑顔で守ってくれた。

だから、リフラクを取り戻す。同じ兄を慕う、同じ弟として、彼にわからせる。あなたも、弟として、兄のペオニサに愛されているよ?と。

「インファ、ちょっと頭冷やしてくる。アシュデル、おまえも行くぞ」

ペオニサに促され、アシュデルはフフと微笑んでついて行った。


 浅い洞窟から外へ出て行く花の兄弟を見送り、インファは小さくため息をついた。

「気を使わせてしまいましたね」

インファの言葉の意味がわからないレイシは、どこかキョトンとしていた。そんなレイシに、インファはやれやれと温かく苦笑した。

「あなたと話す機会をくれたんですよ。2人は、羨ましいくらいに大人ですね」

困ったように笑うインファの、花の兄弟を信頼している瞳を見ているのが苦しくて、レイシは俯いた。

「オレと話すことなんて――」

「あなたにはなくとも、オレにはありますよ?レイシ、父さんに会ったんですか?」

今更、兄の信頼を失ったオレに、何の話があるのかと思っていたレイシは「父さん」と言う言葉に、ますます俯いた。

「声を、聞いただけだよ。インリーに会って、揉めて、父さんが助けてくれた。ねえ、兄貴、インリーの存在理由って、何?」

「風の王・リティルの哀しみを癒やす事です」

即答だった。そして、インファは今更ですか?と言いたげな顔をしていた。

「オレとインリーは、花の姫・シェラによって、風の王・リティルの助けとなるように産み出された精霊です。しかし、それをよしとしなかった父さんの力で、自由に生きる権利も同時に与えられています。それは、父さんの慈悲ですが、同時に精霊としては困難でもあります」

理由がわかるか?と問うような瞳をしたが、インファはレイシの答えを待たずに言葉を紡いだ。

「意志をなくしたとき、消滅の憂き目に遭うということです。それすらも、父さんは守ってしまいますから、厄介ですね」

「……インリーは、とっくに消滅してても、おかしくなかったってこと?」

「そうです。気がつかなかったのはオレの落ち度ですが、もう、妹にオレの声は届きません」

「意志って、何のこと?」

「どう生きるのか。ということですよ。オレは、副官として風の王・リティルを守り支えると決めています。同時に、自分自身も諦めません。父さんのおかげで、たくさんのモノを得ることができましたね」

インファは照れたように笑った。

「レイシ、あなたに問います。あなたは、どう生きるつもりですか?」

レイシは顔を上げた。

「アッシュとグロウタースに暮らし、あなたは何を得ましたか?」

「その為に、オレを?」

「もっと早くに手放すべきだったと、父さんも母さんも悔やんでいましたね。アッシュは、このままあなたを引き取りたいそうですよ?」

「――え?」

思わぬ言葉だった。なぜならアシュデルは、インリーがリフラクに過去を漏らしたと知って、本当に気分を害していたからだ。インリーの元夫であるレイシも、同じように怒りを買ったと思っていた。

「ギンヨウも、あなたをいい子だと言っていましたね。レイシ、もう、時間はあまり残されてはいませんが、心のままに選びなさい」

待ってくれている?ギンヨウも、アシュデルも?本当に?

「オレ……」

「アシュデルは、もう一家でなくともオレ達を頼らせてくれています。レイシ、風の城にいなくとも、オレ達は、繋がっていけますよ?」

「……」

言葉をなくしたレイシに、インファは優しく笑いかけてくれた。しかし、その笑みが冷える。

「インリーの事は、もう、切り捨ててください。それは、堕ちたからではありません。今だから言えることですが、あなた方の婚姻は、間違いだったのだとオレは確信しています」

「!」

「レイシ、妹を返してもらいます。もう、あなたには指1本触れさせません」

「あ――にき……」

「ペオニサは……強いですね。オレは……押しつぶされそうですよ。あの人が、リフラクを救った時、オレも、決断できそうです」

力なく笑ったインファは、縋るように洞窟の外へ目を向けた。そんな兄の腕を、レイシは掴んでいた。わかったのだ。存在理由を与えられて生み出されたインリーが、リティルの与えた自由で自ら作りだした存在理由が何なのか。

「兄貴!オレの……オレのせいなの?そうなんだろ?インリーの存在理由は、オレなんだろ!オレが!」

インリーと離婚となっただけならよかったのだ。レイシの心がインリーから離れてしまったから、彼女は堕ちたのだ。インリーを殺してしまったのは、誰でもない。レイシだったのだ。

「レイシ、愛せなかったことは罪ではありません。縁がなかっただけのことです。インリーは、あなたの心を、勝ち取れなかっただけです」

「オレは――」

「あなたの願いは何ですか?選べなかった願いが、あるのではありませんか?いつまで囚われているつもりですか?”レイシ”という存在が渇望する願いが何なのか、本当はわかっていますよね?それが、風の姫巫女・インリーを、愛し守ることではないということもです」

今更、なんでそんなこと言うの?レイシの愕然とした瞳の奥に、そんな責めるような感情が生まれていた。

 レイシの絶望を目の当たりにしたインファは、自分が間違ったことを改めて突きつけられていた。

間違ったのはインリーだ。200年間、グロウタースの民のようで精霊の力の発現しなかったレイシを、守ってきたインリーには、打算があった。

インファは、物心ついたときから、風の王・リティルの為に生きるのだと揺るがなかった。あまりに頑なに想いすぎて、道を踏み外し、両親には多大な迷惑と心労をかけた。

そんな危機迫る勢いで風の王の副官を、成人前から遂行する兄の姿を見せられ、生まれが2年しか違わないインリーは、劣等感を抱いたのだ。

彼女がリフラクだったなら、追従するように自分を高める方向へ行く。

ペオニサだったなら、我が道を行き、歩みは遅くともコツコツ進んでいった。

アシュデルだったなら、あの人があっちなら、ボクはこっちと、己が信じる道を驀進した。

わたしには何もないと早々に諦めたインリーは、か弱くすぐに死んでしまいそうなレイシに逃げたのだ。

なまじ力があったことも災いした。風の王として飛ばねばならないリティルには、始終そばで護ってやることはできない。インリーは、自然とレイシを守るナイトを気取るようになった。

それは、一見愚かしくも、精進を怠らなければ、その先に開けるモノもある道だ。

現にインリーは、あの広大な城を物理的にすっぽりと覆えるくらいの障壁を展開でき、治癒の力も操ることができるようになったのだ。

 最初の間違いは、力を手に入れ、十分独り立ちできるだけの力を手に入れたレイシを、手放せなかったことだ。

そして、レイシも間違った。レイシは自身に流れる血を憎み、インリーのそばにいれば、この滾るような力が恩人のインリーをいつか傷つけるかもしれないと、距離を置こうとした。しかしインファは、それは表向きだったのでは?と思っている。

子供っぽく可愛らしいインリー。レイシはリティルに「インリーを妹だと思ったこと、ないよ?」と宣言したらしいが、だからといって愛しているわけではなかったと思う。

レイシの好みは、容姿的にもインリーではないのだから。

その後、夫婦生活は順調そうだったために、一緒にいて育まれる絆もあると、インファは納得しただけだった。成長が見られないのは、2人が十代の精神だからこんなものか?と思って放置してしまった。ノインが見向きもしないのだ。もっと、重く考えるべきだった。

 風の仕事は複雑だ。

善悪が明確ならばことはなしやすいが、リティルは時に、風の城に敵対した者の願いまで叶えようとする。慈愛の王と呼ばれる所以がそこにある。

今までは、成したくても手が届かなかったことが、夕暮れの太陽王・ルディルと花の王・ジュールという、偉大な初代と知略に長けた5代目の元風の王がリティルのその願いに手を届かせてくれるようになってしまった。

リティルはこれまで、王妃に手を出した者まで救っている。シェラはそんな夫の優しさに寄り添い、守り、慰めている。

レイシの名ばかりのナイトを、レイシがインリーが壊れてしまうと本能的に恐れて提供してくれた妻の座に何となく納まり、学びと心の鍛錬を怠っていたインリーは、リティルのその慈愛に満ちた決断を理解できず、取り残されていった。

レイシは、1度は反発するものの、それでもリティルの決断やインファの姿勢を見て、救おうとされている者を見て、受け入れてくれていた。レイシは、精霊的年齢19才のリティル同様、見た目以上に大人だ。あの姿でなければ、違う未来があっただろう。

インリーは焦ったのだ。レイシに置いて行かれると。とっくにレイシは、先へ行っているというのに、そのことから目を背け続けた。そして、このままではいけないと、奮起することはなかった。

レイシのように理解する方向へ行けばまだ救いはあった。だがインリーは、レイシを道連れに堕ちる道を選んだ。そして、一家が集い作戦会議する応接間にすら、あまりいなくなった。

 インファは、気がつくのが遅すぎた。

私生活の混乱や、仕事の苛烈さで、弟妹達の堕落に気がつかなかった。中核が四天王と呼ばれるようになり、あまりに盤石で頼りになりすぎて、綻びは人知れずノインが潰してしまい、インファの目は守られるばかりのインリーから完全に外れてしまっていた。

気がついていたのは、母親のシェラだけだった。シェラはインリーに働きかけていたが、自身も体を失ったり、一時別の精霊の力を奪い、その精霊の代わりをしていたりして、風の城から離れざるを得なかった。

そしてインリーは、レイシを道連れに孤立を深めた。

 レイシが夫で居続けてくれたから、インリーは墜落を免れていたのだということは、インファも理解している。

だが、これまでだ。

末妹のイリヨナとアシュデルの婚姻の騒動。一時、太陽の城と決裂する事態になった。そのことは、思いの外インファを痛めつけた。太陽の城の2王、ルディルとジュールを、インファは頼りにしていたのだ。その2人の信頼が潰えたのだと、大事にしていた絆だっただけに、インファは足下が崩れた心持ちだった。

「おまえさんをフォローしてやれなくて、すまんかった」と、ジュールの策で彼には珍しい沈黙を選んでいたルディルは、結婚式までやっと漕ぎ着けたとき、すっ飛んできてくれた。

「もう、背負うのはよさねぇか。おまえさんはもっと甘えていい」よほど酷い顔をしていたのか、ペオニサ、アシュデルに並ぶ巨体の大男は、そんなことしてきたことはないのにインファを抱きしめてきた。素直に泣けた。安堵だった。疲れ果てていた。弟妹に突きつけた決断は、インファの心に多大な負荷をかけていた。

「インファ、手を引け。あの者達からな!」そう言ってきたのは、ルディルとともに来ていたジュールだった。ジュールが彼と共に来ていることすら、声をかけられるまで気がつかなかった。そんな、副官にあるまじき精神状態だった。

「おまえも、選ばねばならん。誰の手を取るのかをな」

「ジュール……オレの落ち度だとしてもですか?止めることができたはずです!それを……オレは……」

ジュールは厳しい顔で言った。

「それが、選択ということだ」

隣に座ってきたジュールは「酷い顔だ」と、労るように、あの射るようだった瞳が嘘のように優しかった。

「おまえは大局を誤れない場面で、常に最善を尽くしてきた。答えなかったのは、裏切り続けたのはレイシとインリーだ。離婚と放逐。おまえが下せるとは思わなかったぞ?お兄ちゃん」

インファは、風の城の兄貴分だ。多くの精霊が、彼を兄と慕う。「頑張ったな」というジュールの言葉に、インファの瞳から再び涙が流れ落ちた。

「ペオニサを選んでくれたこと、今更だが礼を言う。インファ。あのバカは、おまえには強烈だっただろう?」

ジュールの綺麗な手が、見た目よりも無骨なインファの手を握った。

「ええ……そうですよ。オレに対するには最悪な言動です。ですが……あの人が、オレには必要なんです……!」

ペオニサの軽薄な言動が、インリーとレイシに、受け入れられていないことには気がついていた。しかし、インファは明るく心に踏み込んでくるペオニサを、遠ざけることなどできなかった。私生活でも、弟妹以上に大切な人と、ペオニサはなってしまったのだ。

「かー!あの変態、天下の雷帝・インファ様を完全に絆しちまいやがって!まあ、わかっちまうがな。今日オレ達をここへ寄越したのは、その変態小説家だ」

「はい?」と瞳を瞬いたインファに、偉大な2王は笑った。そう言えば、いつもはそばにいてくれるペオニサが、怖い顔をして「すぐ戻ってくるから、待ってて!」と言って出て行ったなと思い出した。

「インファを傷つけるなと、あいつには珍しい剣幕だった。おまえは繊細だから、欺くようなことはしてくれるなとな」

「謝らねぇなら、リティルに掛け合って、オレ達を出禁にするとまで言いやがって。騒ぎを聞きつけたアシュデルとイリヨナに、宥められていやがったわ。まあ、なんだ、インファ、あいつに言われなくても、おまえさんに弁解はするつもりだったんだわ。これでも」

ルディルは参ったと、首の後ろを擦りながらため息をついた。

「悠長にしていたこと、謝ろう。それから、おまえをこれほどまでに追い詰めてしまった。すまんな」

ルディルとジュールの言葉に、涙が止まらず、インファは俯いた。

「……あなた方の信用を、失ったかと……思いました」

「バカヤロウが。んなことあるか!何百年見ていると思っていやがる!クソ三男の口車に乗ったこと、後悔したわ!」

「そこでわたしに罪をなすりつけるな!長兄。わたしも後悔している」

ジュールはフイと視線をそらすと、呟くように言った。

「今回は末弟も意地悪だったわ!インファなら応接間にいるけど、どうする?って笑っていやがったわ!」

「安定の鼻持ちならん次男だったな。おまえに許されなかったら出禁確定だとな。許してくれるか?インファ」

末弟は現風の王・リティル、次男は14代目風の王・インから願いを託されてここにいる、力の精霊・ノインだ。風の王兄弟と自分達を呼ぶ4人に、インファは見守られていた。

彼等と弟妹を天秤にかけて、インファには、返してくれない弟妹を選んでやることなどできなかった。暖かく、大丈夫だ。ここにいる!と言ってくれる彼等としか、生きていけない。

「許してほしいのは、オレの方です。ジュール、ルディル、来てくれて、ありがとうございます」

安堵したように、2王は笑ってくれた。

彼等に選ばれ続けたい。インファに選ばれ続けようと、インファの所に来てくれる彼等に。

 もう、守らない。だが、問いかけることはやめない。最後まで。

「選びなさい、レイシ。あなた自身の望みか、あなたが恩人だというインリーかを!その選択を、オレ達は尊重します」

願わくば、オレの天秤を揺らす存在になっくれることを。

インファは、洞窟を後にした。


 リフラクは、困っていた。

「あんたは、なぜ肉体があるんだい?」

あの場からすぐに退かなければならず、彼女の状態などに気を配ってはいられなかったのだ。リフラクは、項垂れるように理路整然とならんだ石と石の間に座り込んでいた。

「そんなことより、眷属の指揮権をわたしに返しなさい。死ぬわよ?」

ずいぶん上からの物言いだが、ツェエーリュアは心配そうに、その金色の瞳で座り込んだリフラクを見下ろしていた。リフラクは、そんなツェエーリュアを見上げてフフと笑った。

「死なんてね、怖くないねぇ」

「そうでしょうね。死んでしまえば、何もわからなくなるもの。残された者がどうなろうが、知らないわよね?」

ツェエーリュアは怒っているようだった。

「含みのある言い方だねぇ」

「あなたのこと、聞いたもの。指揮権を返しなさい。あなたの思うとおりにしてあげるから」

ツェエーリュアは座り込んで立てないリフラクの前に、しゃがみ込んできた。

「信じると思う?あの混血精霊と婚姻を結んだ、おまえのことなんてねぇ」

リフラクの蔑むような視線に、ツェエーリュアは眉根を潜めた。何のことを言っているのかわからないと言いたげな様子に、リフラクは苛立った。

「しらばっくれても無駄だよ。そのオカリナが誰の霊力か、わからないほど耄碌してないからねぇ」

「ああ、これ?原初の風を貸してくれたのよ。助かったわ。仮初めでも肉体があれば、自由に動けるもの」

「騙したのかい?悪い女だねぇ。さすが、魔王の娘だ」

「人聞きの悪い。あなたも同じ血が流れてるでしょう?」

「ああ、半分はねぇ……だからわかるよぉ?目的のためなら、なんだってできる。違うかい?混血精霊を手玉にとるくらい、わけないってねぇ!」

叫んだリフラクの氷のように青白い左の顔面に、氷の結晶のような痣が水がゆっくり凍り付くようにジワジワと現れた。肌が引きつるように痛んだ。ツェエーリュアの表情が険しい。どうやら、あまりいい状態ではないらしい。

「ねえ、ペオニサの為なの?」

彼女はなぜこんなに案じた瞳をするのだろうか?こちらは利用しようとしか考えていない。同情されるいわれはないのに。

「忌々しいねぇ……殺しておくんだったよ……あの混血精霊……」

「帰りたいんでしょう?」

「帰れない……」

「帰れるわ」

「帰れるわけが、ないだろうが!聞いたんだろう?ボクのことを!兄弟にした所業を!あれを知って、兄さんに……なんて言えばいいのか、わからない……。償えるとするなら、あの女……道連れにしてやることしか、ボクにはもう、残されてない」

知りたくなかった。知らなければよかった。でもわかった。今、恐ろしいと思っていることを、きっとリフラクはできる。それが一番恐ろしい。

「ペオニサは知ってて、それでもあなたに優しくしてくれてたんでしょう?」

「兄さんが1番大事なのは、雷帝・インファだ」

苛立って思わず言ってしまった。本当にそうだとしても、ペオニサがくれた愛情は本物だった。それは、リフラクにもわかっている。

「その人の為に、監視してたってそう言いたいの?それがわかってて、それでも命を賭けるの?」

リフラクは力なく笑って、ツェエーリュアに視線を向けた。説明する気もない。リフラクは自分の世界が狭すぎることを知っている。世界の事を知識として知っていても、体験した世界は太陽の城内部しかないのだから。数えられる人数の者としか交流がなく、その中で一番構ってくれた人に、依存している。あの人が想ってくれなくても構わない。ただ、この命の意味を、ここで潰える命に意味がほしいだけだ。息子の晴れ舞台を、父王・ジュールは用意してくれただけだ。

「それでも一向に構わないねぇ。理解はいらない。さあ、その耳障りな口、閉じてくれる?眠いんだ……」

ガクリと意識を失ったリフラクに、5人の巫女達が案ずるように顔を覗き込んだ。3人は山を登ってくる者を牽制するため外に出ていて、ここにはいない。

「みんな、リフラクの味方なのね?妬けるわよ!わたしも仲間に入れて!」

5人のツェエーリュアの巫女達は、首を横に振った。

「もお!本当に妬けるわ!わたしがリフラクのモノになったら、取り殺してしまうからよね?……本当に、兄弟の為にインリーを殺そうとしているのね?」

巫女達はうなずいた。巫女達はツェエーリュアのもと、親は違えど姉妹のように育ち、肩を寄せ合って生きてきた。リフラクの想いに同調していることは、ツェエーリュアには痛いほど感じられた。彼女達は、運命をリフラクとともにすることになっても、彼を裏切らないだろう。

「ねえ、ペオニサは来ているの?」

巫女達は頷いたそして、その唇がある名を紡いだ。

「インファも?彼はインリーの兄だったわね?リフラクを殺しに?」

考え込んだツェエーリュアに、巫女達はただ首を横に振った。

「違うの?レイシと離れたのは、失敗だったかも。あっちの状況がわからないわね……」

ザワッと巫女達が反応し、4人が祭壇上空へ飛び出した。1人はその場に留まった。リフラクを守ろうというのだ。

 ツェエーリュアが振り仰ぐと、そこには、金色の翼を持った小柄な侵入者がいた。彼の姿に、ツェエーリュアの瞳は釘付けとなっていた。声をかけるのも忘れて、彼の翼に見入ってしまった。

彼の、金色のオオタカの翼に!

先に仕掛けた巫女の1人が、鋭い金色の風に一文字に胴を斬られ、吹雪となって消え失せた。2本のショートソードを操り、善戦するが、さすがに3人相手は分が悪そうだ。

「はっ!みんなやめて!その人は、風の王よ!」

「はは、助かったぜ?ツェエーリュア」

途端に巫女は攻撃をやめていた。氷の刃を突きつけられ、リティルは苦笑いしていた。よ、よかった……思わず見入ってしまって声を上げ損なってしまった。

「無謀ね。王様」

「よく言われるぜ?でもな、来なくちゃ、ならなかったんだよ」

両手の剣を風に返し、リティルは舞い降りてきた。

「……リフラク、生きてるか?」

童顔に浮かべた笑みを収め、リティルは、石に寄りかかって瞳を閉じているリフラクの様子を窺った。

「辛うじて。これじゃ、犬死にね。インリーはどうしたの?」

「固有魔法を封じて説教して置いてきた」

それじゃダメだ。彼女は助からない。だが、助ける方法がないことも確かだ。

「……ねえ、インリーをここへ呼び寄せること、できる?」

「オレに、娘を殺す手伝いをさせるのかよ?ジュールの娘だなー」

リティルは意地悪に笑った。ツェエーリュアは絶句してしまった。

「冗談だよ。インリーなんて放っておけよ。それより、ペオニサを攻撃するのはやめてくれ。リフラクがどんな選択をするにしても、ペオニサと会ってから決めさせてやってくれ。あいつはインファとアシュデルと、リフラクを取り戻しに来てるんだ」

「インファは、リフラクの為に来るの?」

彼はすべての人の事情を知っていそうだ。ツェエーリュアはリフラクを助けたいわけで、誰が敵なのか知っておきたかった。

「ペオニサの為だな」

「インリーを殺させない為じゃなくて?」

「インリーに拘るな?なんだよ?レイシが何か言ってたのかよ?」

念を押すように問うたツェエーリュアに、リティルは訝しそうに腕を組んだ。

「兄弟なんでしょう?」

「ああ、兄妹だな」

「見捨てたの?」

「切り捨てろって命令したのはオレだ。いいだろ?そんなことは。ツェエーリュア、白虎野の巫女、今すぐペオニサへの攻撃をやめろ。嫌だと言うのなら、オレが平らげる」

リティルがショートソードを両手に構えた。巫女達が身構える。

「……どうしてそこまで?リフラクは、あなたの息子にも危害を加えたのでしょう?」

「うちの治癒師が――ペオニサが、救ってみせるって言ったからだ。ペオニサの信じたリフラクを、インファとアシュデルも信じた。オレはあいつらの主君として、ペオニサの道を開いてやる義務があるんだよ」

ジリッとリティルが足を踏み出す。ツェエーリュアの後ろで、眠るリフラクの回りにいた5人の巫女がザワリと殺気立った。

「オレは、戦う事しか能がねーんだ」

ツェエーリュアは小さく息を吐いた。風の王の殺気なんて、真っ正面から受けるモノではない。ツェエーリュアは、巫女達を手で制して言った。

「わたしに戦う意志はないわ。リティル、リフラクから眷属の指揮権を奪いたいの。手伝ってくれる?」

「何を考えてるんだよ?」

「わたし、そんな危険人物に見えるの?アシュデルにも、リフラクにも警戒されてしまって、まともに話もしてもらえなかったわ」

ツェエーリュアは傷ついたと呟いて、拗ねて見せた。

「アシュデルが敵視したヤツと話なんて、ゾッとしねーな?」

そう言いながらも、リティルは剣を風に返して笑ってくれた。そんな彼の様子に、ツェエーリュアはホッと胸をなで下ろした。

「このオカリナのせいみたいね。レイシ、そんなに嫌われてるの?」

「………………原初の風?なんだよ?おまえってホントに突拍子もねーな」

ツェエーリュアが片手の平に置いて持ち上げたオカリナを、ジッと凝視していたリティルは、オカリナの中にいる力が何なのかわかったようだ。

「その体はそういうわけか。守護神は、そんなこともできるんだなって思っちゃったぜ」

「さすがに無理よ。わたし死んでいるもの。ねえ、ペオニサは、リフラクを説得できる?」

「できるぜ?あいつはそういうヤツだ。リフラクが助かるなら、こいつの身柄はオレが預かってやるぜ?」

リティルは明るく笑った。

「なんだ……レイシの言ったとおり、居場所、ちゃんとあるじゃない……。眷属の指揮権を奪い取れば、氷の侵食を止められるわ。ペオニサは治癒師よね?傷はあえて残しておくから、癒してもらえばいいわ」

「わかった。君を信じるぜ?」

ツェエーリュアがリティルに道を空けると、巫女達は眠るリフラクの後ろへ控えた。それを見たリティルは、哀しそうに微笑んだ。巫女達が、掌握されているばかりではなく、リフラクを助けてくれという感情をヒシヒシと感じたからだ。

「リフラクの想いも、本物なんだな?ごめんな……オレのバカ娘が、おまえの想いを踏みにじっちまって」

「!ちょっと」

ツェエーリュアが制止するのも聞かず、リティルはリフラクの頬に触れた。氷に触れたような冷たさを感じ、熱を拒絶するかのように、リティルの指先から徐々に氷の結晶が育つように皮膚が青白く変色した。

「おまえが怒ってるのは、オレに対してか?インリーとレイシをのさばらせたオレに、復讐してーのか?それとも、ペオニサを選んだって言いながら、あいつらを御しきれなかったインファにか?」

リティルは、自嘲気味に低く笑った。

「両方にだよな。ツェエーリュア、手を貸せよ」

氷の浸食は、リティルの右腕全体にまで及んでいた。それでも、リティルは穏やかに笑って、ツェエーリュアに手を差し出していた。そんなリティルに気圧されて、ツェエーリュアは震える手をリティルのまだぬくもりのある左手に重ねた。

「生きることを諦めるなよ、リフラク。ペオニサに、チャンスをやってくれ」

ツェエーリュアは、力が流れ込んでくるのを感じた。巫女達の心と、何か別の――暖かく、懐かしさを感じる力……

「リティル!王の風は無闇に使ってはいけないわ!」

穏やかに微笑むリティルの顔に、雪の結晶の痣が咲いて咲いて、彼の肌を塗りつぶしていく。

「インリーをここへ呼びてー君にも、想いがあるんだろ?オレにはもう、手が出せねーんだ。やりてーようにやってくれ」

「リティル!」

意識のないリフラクの体が、淡く金色に輝いていた。そして、ツェエーリュアの体も。

後ろへグラリと体を揺らしたリティルの背で、金色の翼が弾けるように散ってしまった。リティルの小さな体を受け止めたツェエーリュアのハクチョウの翼が、金色に染まっていった。慌ててリティルを受け止めたツェエーリュアに彼は言った。それはまるで、懺悔のようだった。

「ジュールは……オレを責めねーんだ。インファも、誰も……。オレを許し続けるあいつらに、許す価値のあるオレでいてーんだ。ツェエーリュア、インリーの心はもう戻らねーんだ。レイシを道連れにするのは忍びねーからな、守りを……解いた」

ツェエーリュアは、ずっと以前からインリーが手遅れだったことを知った。それを、リティルは先延ばしにしていたのだ。そして、その優しさがリフラクを傷つけ、せっかく救った命を脅かした。リティルはそれでも救おうとした?なんて、愚かな人だろうか。精霊といえども寿命がある。それが、存在理由の消失だ。存在理由を失うことは、本人の問題だ。輪廻の輪の守り手である風の王が、死を拒むなんてしてはいけないことだ。だが、正論では片付けられないこともある。死を前にしたのが、自分の血を分けた娘だったなら、冷酷で誇り高いインラジュールでも決断できたかどうかわからない。あの人も、愛のある父親だったから。

「レイシが……わたしを選んだから……?」

バカバカしくて、関わり合いになりたくなくて、ツェエーリュアは「わたしかインリーか選べ!」とレイシに言ってしまった。その言葉、選択を聞かれたことは、その直後乱入してきたリティルの行動で明白だ。

「あいつが……君を選ぶとは思わなかった。あいつはインリーの事をどう思ってるのか、オレに言ったことねーからな。あのバカ娘を嫁にできて幸せだって言ったって聞いて、安心しちまった。問題は、レイシじゃなくて、インリーなんだって知ってたはずなのに……!」

リティルの瞳が、正体を失っていく。ツェエーリュアはそれを、オロオロと見ていることしかできなかった。

「インファを……誤解しないでやってくれ。あいつは、インリーとレイシを助けてくれってオレに言った。どっちも選びたかったんだ。兄弟も、友達もな。それを、オレ達は寄って集って、諦めさせた……。インファの……心の悲鳴が……聞こえる……ペオニサ……インファを、守って――やってくれ……」

 もう、うわごとだった。ツェエーリュアはリティルの冷たくなった体を抱き上げると、ツェエーリュアの像の足下に寝かせた。ここは、祭壇の一番高い場所だ。祭りを行ってくれる守人達も、掃除の時以外は立ち入らない聖域だ。

リフラクは、ただ力尽きただけだたのかもしれないが、眷属達を掌握したのに、この場所に――守護神の座に立ち入らなかった。リフラクは、神になりたくてツェエーリュアを欲したのではないのだ。眷属を掌握していることすら、後ろめたいのかもしれない。

誰に対して?

――心ある者は、体のどの部位を失おうとも、その存在でいるために、失ってはならないものがあるのだ!わたしは!風の王として、生きる者を脅かさぬよう死を守る!ハハハハ!見ろ世界よ!これがわたし、5代目風の王・インラジュールの生き様だ!

生きている者、生み出せる者が大好きだったツェエーリュアの父は、命を生み出せない風の王という自分を嫌っていた。そして、信念のままに生きて、そして死んだ。

今、何があったのか経緯はわからないが、花の王となり、11人もの子供を魔法なしに産みだした父は、幸せだろう。リフラクのことだって、愛していないわけがない。

ツェエーリュアは、霊力を使い果たして眠っているリティルの傍らに座り込んで、その顔を見下ろしていた。

インラジュールを救ってくれたのは、彼だ。15代目風の王・リティル。

父の断末魔の叫びを、ツェエーリュアは覚えている。もっと生きていたかったはずのインラジュールは、自らの命を犠牲に、脅かされた死を守って死んだ。花の王・ジュールとして今を生きる父が、我が子に実験してまで守ろうとしているのだ。恩を感じていることは間違いない。

「何をした……?」

 憎悪の籠もった声に、ハッとしてツェエーリュアは慌てて振り返った。階下を見下ろせば、石碑に縋って立ったリフラクがいた。意識が戻っても、力が戻ろうはずもない。だが、彼は切れた息を吸うと巨大な虫ピンを手に床を蹴った。

「リティル様に何をした!ツェエーリュア!」

リフラクを止めようと、巫女達が動いた。立ちはだかった巫女の手を弾き、リフラクの虫ピンが彼女の首を貫いていた。

一撃で仕留めたリフラクの姿を凝視しながら、ツェエーリュアは、神の力なんていらないじゃない。と思った。

「っ……あ……!」

体と霊力を氷の魔力に侵されているリフラクは、腕を襲った砕けるような激痛に、空中で蹌踉めき、巫女達に捕獲されて、ツェエーリュアの前に下ろされた。

「そこまで動けるなら大丈夫ね。リティルに感謝しなさいよ?あなたをペオニサに会わせてやってくれって、王の風をくれたんだから!」

「な!リティル様!?」

ツェエーリュアを睨み上げていたリフラクは絶句して、彼女の後ろで仰向けに寝かされているリティルを見た。

「ねえ、リフラク、あなた、リティルに顔向けできないと思って、こんなことしでかしたの?」

体の中で、命を守るように吹く風を感じたのだろう。ガクリと項垂れたリフラクは、ぽつりぽつりと言った。

「記憶を見たボクが、再び凶花を咲かせたと思わせれば、腐った風を殺しても哀しみは一時で済むと思った。凶花が殺したんだと、花が氷の力に手を出した報いだと、それで終われると思った。風の城があの女を生かしていたのは、リティル様の娘だからだ!慈悲深いリティル様に、家族思いのインファに手が下せるはずがない!」

リフラクは巫女達から手を放させると、這うようにしてリティルに近づいた。

「花の王・ジュールは、ボクに心のまま生きろと言った。弟達とインファに敵対したボクにできる贖罪は何なのか、考えろということだ。皆が思っていたんだ。なくした記憶を知れば、ボクが、凶花になるってねぇ!でもボクはならなかった。好機だと思った。この命をくれたリティル様を裏切ることになっても、誰も手が出せないあの女を殺せる!だのに!だのに……あなたはこんなボクを、信じたのかい?」

ツェエーリュアは、憐れむような瞳をリティルの前に項垂れるリフラクに向けた。

「リティルだけではないのよ。ここへ向かってる、ペオニサも、アシュデルもインファも、あなたに敵対しにくるのではないの。あなたを取り戻そうとしているのよ?それでも、インリーに拘るの?」

「あんな女、初めから眼中にないねぇ。関わるだけ時間の無駄だ。一思いに殺してやる」

「だったら、一思いにする前に、ペオニサと話をしましょう?」

「……会えないよぉ……」

そんなに強烈な過去なのね?やった方がこれでは、やられた方は許す許さないのレベルにないことは確かだ。リフラクはそういう思いが拭い去れなくて、ペオニサに会うことが怖いのだなとツェエーリュアは感じた。だが、心配することではないのでは?と思う。リティルは「ペオニサにチャンスをやってくれ」と言ったのだ。

「リフラク、来て。来るのよ!」

ツェエーリュアの言葉で動いてくれる彼ではない。ツェエーリュアは、眷属に命じ、リフラクを祭壇の外へ、洞窟の外へと連行したのだった。


 レイシ、レイシ……どこ?

「レイシはもう、振り返らないわ。インリー、なぜなのか、わかっているでしょう?」

やっと見つけたレイシから、リティルに引き離され「目を覚ませ!バカ娘!」と罵られた。なぜ、邪魔をされるのかわからなくて、「どうして?」と問うていると、母親のシェラが来て、リティルはどこかへ飛んで行ってしまった。

件の言葉は、その母から言われたのだ。

「レイシにはもう、あなたの守りは必要ではないのよ?未だにあの子のナイトをきどっているのなら、解放すべきよ。あの子はすでに、中核でも通用する力をとっくに持っているのよ?なぜそれを見ようとしないの?」

「どうしてレイシを奪おうとするの?どうして?」

シェラの瞳が、哀しげに微笑んだ。

「わかろうとしないのね?あの子に、突きつけられても、まだわかろうとしないの?」

「お母さん?」

「レイシは、あの人、ツェエーリュアを選んで、あなたを置いていったのよ?それがどういうことか、これでもわからないというの?」

ツェエーリュア?レイシが何度かその名を呼んでいた。真っ白な輝くハクチョウの翼を生やした人。

「!どうして……?レイシ……!」

わたしは、レイシに、捨てられた……?

「その事実を、受け入れなさい!インリー!」

必死なシェラの声。なぜ、受け入れなければならないのか、わからなかった。

「どうして?レイシを取り戻せばいいよね?お母さん……」

失望と哀しみの入り交じった瞳で、シェラはインリーを見据えた。

「それがあなたの選択なのね?」

シェラが飛び退いた。

「お母さん……?」

インリーの見開いた瞳の中のシェラは、戦姫の瞳で白い弓に矢をつがえていた。

「誰も、あなたの命で傷つけさせないわ!インリナス!」

どうして?インリーは泣いているシェラを見ていた。矢が放たれる。

「どうして?お母さん!」

インリーから白い風が放たれていた。風はシェラの放った白い光の矢を切り裂き、シェラを、切り刻んでいた。

「――イン……リー……!」

血を滴らせ、それでもシェラはインリーを睨み、矢をつがえた。

どうして?わたしからレイシを奪おうとするの?

 レイシとは、物心ついたときから一緒にいた。弱々しいレイシを守ることが、インリーの仕事だった。

レイシはわたしのもの

しかしレイシは、力を手に入れて、インリーが気後れして近づきがたい者にも平気で近づいて、笑うようになった。

最初は、兄のインファに選ばれ、雷帝妃となったセリア。セリアは気さくで話しやすかったが、宝石の母という証を持つ、宝石の精霊の頂点に立つ精霊だった。女嫌いで、近寄りがたい兄のインファの隣にいて、光り輝く宝石。美しく、明るく、インリーは徐々に気後れしていった。

そして生まれたインファとセリアの息子である、煌帝・インジュ。臆病でなかなか力を発揮しなかった彼も、今や四天王の1人だ。

皆、インリーを追い抜き、まばゆい光を放つ風の王・リティルのもとへ行ってしまう。

レイシは彼等を見ていた。不良息子と呼ばれながら、憧れを失わず、皆と同じように瞳に光を宿して風の王・リティルを見ていた。

行かないで!わたしだけを見て!と思ってしまったのは、いつだったか覚えていない。そして、行こうとしたレイシを引き留めてしまった。

 インリーは、気がつけば上空にいた。

目の前に聳える、真っ白な山。ツェエーリュアの翼を思わせるその山に向かって、飛んでいた。金色のハクチョウの翼をはためかせて。

まだ間に合う。

レイシは風の王の血がほしいのだ。白い翼のツェエーリュアにはない。

まだレイシは、わたしを選んでくれる!

山の頂は、吹雪いておらず晴れていた。

「ツェエーリュア!」

レイシの声がして、インリーは咄嗟に雪をかぶった岩陰に隠れていた。

「あら、レイシ?」

呼び声に振り返った、白い輝く髪のツェエーリュアの背にある翼は、金色をしていた。


 ツェエーリュアに祭壇のある洞窟から連れ出されたリフラクは、顔に感じる冷気と目を眩ませるほどの日の光に目を細めた。

「ほら、綺麗でしょう!守護神・ツェエーリュア、イチオシの景色よ!」

ツェエーリュアは、踊るような足取りで、洞窟の前に開かれた雪原に走り出た。山を削ったのか、山の頂にしては変な形をした地形だ。広場の周りには、岩々が意味ありげに雪をかぶっていた。そして、山道に続くその先は、空だった。

「……」

言葉を失った。青い空と水平線。形を変える雲と、日の光に輝く海がリフラクの目に飛び込んできた。

「ペオニサは、グロウタースのあちこちに出入りしているのでしょう?見てみたいと思わない?」

見てみたかった。本の中でしか知らない世界を、いつか兄さんと見られたらと夢見ていた。

「兄さん……」

一緒に見たいと、言えなかった。言ったら困らせるような気がして、言えなかった。言わなくてよかったと思った。一緒に見たいと言って、一緒に見ようと言われていたら、叶わない約束をさせてしまうところだったのだから。

「兄さん……!」

あの、華やかで明るい笑顔を消したいと思ったらしい過去が、未だに信じられない。

名を呼んで笑ってくれること。そんな些細なことが、どれほど救いだったか。

閉ざされた太陽の城の中で、自分がどんな存在なのかを見失い、正体をなくしそうだった。数ある花の中から選ぶように、名を呼んでくれるペオニサが、リフラクをリフラクでいさせてくれた。

戦えないペオニサの護衛になる。

そんなちっぽけな夢が、リフラクに存在をくれた。失いたくなかった。

「ツェエーリュア!」

ボンヤリしていたリフラクは、その声に我に返った。

「あら、レイシ?」

待ってたのは、あなたじゃないんだけど?そんな心の声が聞こえてきそうな様子で、ツェエーリュアは振り返った。そんなお呼びではない彼の後ろを、おぼつかない足取りで、だらしなく肩で息をしながら上がってくる者がいた。

ペオニサだった。

「兄さん!」と叫ぼうとしたその声は、視界を染めた赤に遮られていた。

目の前にいたツェエーリュアの背中から、金色の羽根が散り、飛び散った血の赤が雪原を鮮やかに染めた。

「待ってレイシ!リフラクじゃ――」

何が起こったのかわからなかったリフラクは、雪原に膝と手をついたツェエーリュアの向こう、怒りを宿した瞳でこちらを睨むレイシと、そんな彼を後ろから引き留めるペオニサの姿を、ただ呆然と瞳に映していた。

「放せ!放せよ!ツェエーリュア!」

藻掻くレイシを必死に止めていたペオニサが、一瞬驚いたように瞳を見開くのがリフラクには見えていた。

「い……!あ……?」

異変に気がついたレイシが振り返る。そして、倒れてくるペオニサの巨体を受け止めようとして雪に足を取られ、彼諸共雪原に倒れた。

「ペオニサ?ペオニサ!」

ペオニサの下から這いだしたレイシは、彼の背にあった、赤色が美しいミイロタテハの羽根が、切り裂かれてなくなっているのを見た。肩を揺すると、ペオニサは顔をしかめた。背中も斬られて、流れ出た血が雪原を染め始めていた。

「兄さん!」

リフラクの悲鳴に近い叫びに、レイシとペオニサは同時に顔を上げた。

「リフラ――ク!」

ペオニサが手を伸ばす。その先で、リフラクも横から襲ってきた見えない刃に切り裂かれ、雪原に倒れていた。手を伸ばしたペオニサが、言葉にならない叫び声を上げた。

「兄……さん!」

 顔を上げたリフラクは、何とか立ち上がっていた。その姿にレイシはホッとしたが、そんな彼に、再度白い風が襲いかかるのを見た。

白い風……あの風を操れる精霊を、レイシは1人だけ知っていた。レイシは、震える瞳で彼女を捜していた。攻撃を受けて者達はペオニサ、リフラク、ツェエーリュア、みんな彼女が快く思っていない者達だ。

「やめろ!インリー!」

レイシは、リフラクに走っていた。彼を殺させるわけにはいかない!

オレが、ツェエーリュアを選んで、君を置いて行ったから?だから君は、こんなことを?信じたくなかった。優しい女の子だった。レイシが知っているインリーは、人を傷つける人ではなかった。なかったのに!レイシの目の前で、リフラクに再度白い風が襲いかかっていた。

間に合わない……!レイシは、切り裂かれるリフラクを想像して絶望した。

「あー……レイシの元奥さん、最悪……」

「ツェエーリュア……」

「いいから、ペオニサの所に行って、リフラク」

間に合わなかったレイシの代わりに、リフラクを庇い立ったツェエーリュアは、体の前面を斬られていた。それでも気丈に立つ彼女に、リフラクは頷き、倒れて動けないペオニサのもとへ向かった。

「ツェエーリュア!」

リフラクの盾となったツェエーリュアは、力尽きてフラリと体を揺らした。そんな彼女を受け止め、レイシは雪原に座り込んでいた。痛みに乱れた息を吐きながら、ツェエーリュアは力なくレイシを見上げた。

「どうしたい?レイシ」

――おまえはどうしたい?

ツェエーリュアから、風の王・リティルの声が聞こえた気がした。眠りに落ちそうな瞳で見上げてくるツェエーリュアの体は、流れ出た血に染まり、ペオニサかシェラでなければ助けられない傷であることが、レイシにもわかった。

「わたし、神様なの。だから、大丈夫よ?」

この体は仮初めだ。事が終われば、未練なく捨てるモノだ。そう聞こえた気がした。

「ありがとう。ツェエーリュア……」

レイシはツェエーリュアを抱きしめた。そんなレイシにツェエーリュアは、フフと微笑んだ。

「ごめんインリー!オレ、ツェエーリュアが好きなんだ!」

レイシの叫びに、岩の影からやっとインリーが姿を現した。その顔は蒼白で、紅茶色と金色の瞳が、壊れそうなほど揺れていた。そんなインリーの姿に、レイシの胸はズキリと痛んだ。

「どうして?どうしてレイシ!」

「そんな君だからだよ。わかろうとしない。見ようとしない君だからだよ!ツェエーリュアは、オレを見てくれた。知ってくれた。願いを叶えろって背中を押してくれた!オレが選ぶのは君じゃないんだ。インリー!」

叫んだレイシは、ツェエーリュアに頬に触れられ彼女を見た。

――ご褒美

笑った彼女は、レイシの唇を塞いでいた。瞳を閉じたレイシの腕は、しっかりとツェエーリュアの傷ついた背を抱いていた。

 2人の姿を、レイシの作り物の翼から迸った炎が包んだ。悲鳴を上げ、炎に包まれた2人に駆け寄ろうとしたインリーは、8人の巫女達に阻まれていた。

「どうして、どうして邪魔するの!?」

白い風に巫女達は切り刻まれたが、吹雪に揺らめくだけで、その姿が消え失せることはなかった。

「インリー、まだ見ようとしないの?」

泣きながら風を操っていたインリーは、背後からかけられたシェラの声に振り向いた。

「お母さん……!レイシが、レイシが!」

「ええ、そうね。あなたは、レイシを殺してしまったのよ」

「助けて」とインリーが言葉を紡ぐ前に、シェラは静かに言った。彼女の瞳は冷えて、何の感情も浮かんではいなかった。

「レイシは、あなたの執着を断ち切り、救おうとした。でも、伝わらなかったわね。インリー」

カタカタと震えるインリーの見開いた瞳から、正気が失われていく。光は、蘇る兆しはなかった。シェラは、インリーを抱きしめた。

「さようなら、愛しいわたしの娘」

インリーの背に、押し当てられたシェラの手を中心に、インリーの体が黒く変色していった。

――いいのですの?母様

イリヨナの哀しそうな、罪悪感を隠せない瞳が、シェラの脳裏に蘇った。

――ええ。あなたを巻き込んでごめんなさい

イリヨナは首を横に振った。末娘は、そうすることしかできないから、首を横に振ったにすぎない。彼女にとってインリーは、疫病神のようなモノだ。産まれてこの方、1度たりとも面と向かったことのない、最低な姉。それでもイリヨナは、姉だからと、愛そうとした。アシュデルのプライドを、治療と称して粉々にした、いつまで経っても子供だった姉を、イリヨナは許した。

イリヨナは確かに、容姿は幼いが精霊的年齢27才だ。だとしても、17才のインリーだって、自分で考え、自分で歩ける年だった。間違いを犯しやすい年齢だとしても、こんな結末はあまりにも、悔しい。

 この魔法は、今まで傷つけた者の痛みを闇に変換して返す。闇とは無だ。闇に飲まれれば、そのままその存在は消え去る。ツェエーリュアと結託して心中をでっち上げたとはいえ、レイシは死んだ。この魔法『痛みの闇』はインリーの存在を確実に消し去るだろう。

シェラは闇に飲まれていくインリーから手を放した。そして、未だ燃える炎の前へと歩みを進めた。振り返らずに。


 雪原に遅れて到着したアシュデルとインファは、雪の上に残る血痕と、何を原料にしたらこんな場所であれだけ燃え盛れるのかわからない炎を見た。

「イ――ン、ファ……」

ペオニサの声に、インファとアシュデルは弾かれたように反応していた。

「誰にやられたの?レイシが一緒だったよね?」

ペオニサの怪我は深刻だった。ペオニサはなぜか自分の治療は得意ではないのだ。死なないように頑張っていたが、リフラクの治療を優先しようとして揉めたようだった。

アシュデルは魔導書を開くと、すぐさま治療を始めた。

「……インリーだよぉ。ボク達とツェエーリュアを斬った」

肩で息をするリフラクの傷も深かった。雪の上に座り込んだ彼の脇腹からは未だに血が流れ落ち、雪を溶かす勢いだった。

「どうしてあの()がって、レイシがいたから?レイシとツェエーリュアがいないってことは、3人でどこかへ行ったの?」

アシュデルの言葉に、リフラクとペオニサは黙ってしまった。

「…………」

「インファ兄?」

沈黙した2人に問おうとしたアシュデルだったが、インファが炎を凝視していることに気がついた。

「レイシ……」

インファが炎を見つめたまま呟いた。

「レイシは、ツェエーリュアとあの炎の中だよぉ」

「え!?どういう状況!?早く消火しないと!」

「手遅れです」

「でも!」

「あのまま、逝かせてやってください。もう……自由に……」

泣かないインファの瞳が、悔しそうに歪んだ。それでも瞳をそらさないインファの、雪を握りしめた拳をペオニサは掴んだ。

「弟は、インリーから逃れるためには、死しかないと、思ってしまったんです。オレは……選ぶべきでした。どちらも選べず、どちらかを選べば助かったかもしれません」

「インファ……!オレがここにいたよ!オレのせいだよ!インファのせいじゃないよ!」

インファの拳にかぶせられた、普段頑なに触れてこないペオニサの手には、力がまるで入っていなかった。この怪我では、何もできなかった。インファは、泣きそうな顔に微笑みを浮かべ、ペオニサにゆっくりと首を横に振った。

「母さんがここにいるということは、インリーも、死んだんですね」

「え――?」

立ちはだかった8人の巫女達の影で、ペオニサからはインリーの姿が見えなかった。リフラクは、拳を雪に叩きつけていた。母親に、我が子を殺させてしまったことを、悔いているようだった。

「あなた方のせいではありません。リフラク、悔やんでいるのなら、生きてください。風の城は、あなたを歓迎しますよ?」

「インファ……ボクは……」

微笑みを浮かべるインファから、リフラクは視線をそらした。様々なことがその心に渦巻いているようだ。

「考えておいてください。オレはあなたが、怖くはありませんから」

ハッとしてリフラクは顔を上げた。驚いたように瞳を見開いたリフラクに、インファは穏やかに笑っていた。

「――よかったわね。もう、過去に囚われるのはやめなさいよ!」

明るくはしゃぐような声が、とてもそばで聞こえた。

この声は?と顔を上げた皆の前で、雪原の上で燃え盛っていた炎が、金色の風に弾き飛ばされていた。

「ウフフフ。やっと説得に成功したの!この子もなかなか頑なで、根負けしてたら、リティルに顔向けできないところだったわね」

薄らと、向こう側が透けて見える白いハクチョウの翼を持った女神が、自分だけの風の中に浮かんでいた。

「ツェエーリュア?」

あら、面白い顔。ポカンとこちらを見上げるリフラクに、ツェエーリュアは満面の笑みを浮かべて答えた。

「なぁに?幽霊でも見るような顔をして。わたしは神様よ?こんなことでは消滅しないわよ!レイシが、インリーの目を覚まさせるには、拒絶するしかないっていうから、相思相愛のフリをしたの。まあ、無理だとは思ったけど、レイシも納得できないでしょう?」

「それで、どうして2人で炎に巻かれる羽目になったの?本当にレイシは無事なの?」

問うアシュデルに微笑み、フワリと、ツェエーリュアは4人の前に舞い降りてきた。

「命は助けたわ。でも、偽装心中で死のうとしたことは確かなの。以前のあの子ではない。とだけ言っておくわ。だからインファ、もう1度導いてあげてくれる?」

「オレに、その資格は、ありません」

真っ直ぐに拒否してくるのね?面白いわね。こんなはっきりした人だから、レイシが認められたいと思ったのかと、ツェエーリュアは納得した。

そして、劣等感を抱いたインリーが、レイシに選ばれる可能性はないに等しかったことも悟った。インリーは知っていた。そして諦めてしまった。だからこうなった。ツェエーリュアは、インファに同情した。努力を重ねてきたこの人は、復讐されるいわれなどないのだから。

「あの子が選んだのよ?自分の望みを見つけて生きたいって。ねえ、叶えてあげて。言わせるの、苦労したのよ?インリーの事、後悔しまくりで。間違いがあったとすれば、もっと早く、別れてあげればよかったのにということだけよ」

「ははは。救いがないね」

アシュデルは、笑いはしたが俯いて、静かに呟いた。

アシュデルにも劣等感があったのだろうか。とても、そんなふうには見えない。ああ、克服して自ら立つことを選んだ猛者なのだと、ツェエーリュアは1人納得した。

「あら、そうでもないわよ?確証はないけど、12年後あなた達はまた、わたしに会いに来ることになるでしょうね」

ツェエーリュアはそう言って、冷たい風の吹きすさぶ、青く晴れた空を眩しそうに仰ぎ見た。


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