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二章 雪月花の夢

 レイシは、リフラクが飛び去った方へ向かって進んでいた。

彼に追いついて、どうしたいのか答えはレイシの中にはまだなかった。だが、行くしかなかった。

 今まで、不幸だったわけではない。確かに、人並みに幸せだと感じていた。それが、わからなくなったのはいつからだったのか、アシュデルに引き取られてグロウタースを転々とし、アクセサリーやら魔法薬やら、小物を作っては売っている工房の仕事を覚えたころから、考えるようになっていた。戦いとは無縁の、穏やかで温かい空気が、レイシの何かを確実に変えていった。

インリーとの思い出を思い出すと、そこにどんな感情があったのか、枯れた花の様に色をなくしていった。驚くほどに冷めていた。信じられない。ほんの少し前まで、確かに夫婦だったのに。どんなふうに触れて、何を話して笑っていたのか、思い出せないのだ。

確かなのは、アシュデルが毎晩、時間が近づくとどこかソワソワと、イリヨナが扉から顔を出すのを待っているときに醸している、甘い雰囲気はどう頑張っても作れないということだ。

『アッシュの鍵』で異世界の隔たりもないに等しいが、2人は異世界の距離を離れて暮らしている。アシュデルが女性に色目を使われるとわかるのか、イリヨナは嫉妬してよく怒っているが、それすらもアシュデルには可愛くてしかたないらしくデレデレしている。

インリーに同じ事をやられて、嬉しくなる自分は、残念ながら想像できなかった。

まだまだ新婚のアシュデルとイリヨナだが、レイシは2人と自分を重ね、あり得ないと思っている自分に戸惑っていた。

初めからなかったのか、なくなってしまったのか、それすらわからない。

 誰にも心を吐露できないまま、怒りと憎しみを滾らせたリフラクに、インリーは命を狙われてしまった。

あれほどリフラクを怒らせ、悲しませ、絶望させるとは、インリーはいったい彼に何をしたのだろうか。レイシの知っているインリーは、どんなに猛り狂う魔獣も大人しくさせてしまう、心優しい娘だった。思慮に欠ける所はあったが、悪人ではなかった。レイシの知るインリーは、愛されはしても嫌われることのない女の子だった。それなのに、レイシがここに来て変わっていくように、インリーも変わっていっていたのだろうか。

 レイシは、吹きすさぶ雪交じりの風に、息を切らして立ち止まっていた。見上げると、島の中心にシンボルのように聳える雪山が見えた。年に2度、短い春の始まりと長い冬の始まりに祭りがあると、ギンヨウが教えてくれた。祭りを体験することはできなかったが、あの山に、リフラクは行ったのだろうか。

ペオニサが好きだったような、レイシからすれば衝撃的な言葉を吐き、涙して飛び去った彼が、打ちのめされていたことだけはレイシにはわかった。そして、彼をあそこまで傷つけたのが、インリーであるということも。

そして、アシュデルが教えてくれた。

リフラクを生かす為、彼に酷い目に遭わされた全員が協力していたことを。

風の城はインリーを守らない。守られるのは、リフラクだということを。

「レイシ!」

再び走り出そうとしたレイシの前に、ゲートが開いた。レイシが身構えるよりも早く、その体がぶつかられるように抱きしめられていた。

「逢いたかったよ!」

甘さのない元気な声が、レイシの耳に響いた。

「インリー!?」

どうしてここに?どうしてこのタイミングで?

「ペオニサが許してくれたの!お兄ちゃんもアシュデルも意地悪なんだよ?」

ペオニサが?嘘だろ!?が、素直な意見だった。今、ここにはインリーの命を狙うあのリフラクがいる。

圧倒的な強さだった。風の城の主力の自負をへし折られた。さすが、インファを出し抜き、辛酸をなめさせた男だ。そんな彼がいるところへ、ペオニサが行けと言った?

レイシはゾッとした。この事態は、アシュデルの報告で、いや、リフラクが太陽の城を出た時点で風四天王が捜査する話になったはずだ。その話し合いの中で、ペオニサがインリーをこの島へ寄越したということは、それをリティルが許したということは!

レイシはインリーを引き離して叫んだ。

「インリー!今すぐ父さんに謝るんだ!」

信じがたいことだが、リティルはインリーを見捨てる選択をしたのだ。守るつもりがあるのなら、城から絶対に出さないだろうからだ。それなのに、インリーを寄越したと言うことは、リフラクに、殺されろと、そういうことだ。しかし、インリーは何もわかっていない様子だった。キョトンとして、言った。

「どうして?」

「ここには、君を殺そうとしてるリフラクがいるんだ!聞かなかったのか?」

必死なレイシに笑い、インリーは再び抱きついてきた。

「そんなの、レイシがいれば大丈夫だよ!」

レイシは、インリーを突き飛ばしていた。

「レイシ?」

「どうして?」と彼女の瞳が言っていた。

「……今の君を、守れない……」

初めてだった。インリーを、産まれて初めて拒絶した。

「どうして?レイシ……」

「どうして?君がわかろうとしないからだよ!」

初めてだった。彼女を鬱陶しいと思った。逃げたいと思った。この、何もわかっていない彼女を異常だと思った。

 気がつけばレイシは、吹雪の中を走っていた。

どこへ逃げようと、インリーのあの固有魔法・レイシの隣で、いつでも彼女はレイシのそばに来られる。あの固有魔法は、その名の通りレイシのそばにゲートを開く固有魔法なのだ。

逃げられない……。そのことに、ゾッとした。

「父さん……!父さんオレ……!」

父は、今度ばかりは助けてくれない。わかっている。あの、恐ろしく寛大な父を、堪忍袋の緒が切れるくらい何度も失望させてしまった。もう、父さんはオレを見てくれない!そのことを悟って、身が千切れそうなほどの痛みを感じた。

「父さん……!」

逃げられない。

レイシは、雪の中に膝をついていた。

――ボクの夢は、風一家に入って、戦う力を持たないペオニサ兄さんの専属護衛になることだったって言ったら、君は笑う?

リフラクの、自嘲気味に笑った声が聞こえた。絶望に泣くその声なき声を、レイシには聞くことができたはずだった。共感して手が取れるはずだった。

笑えないよ……笑えるわけない……。レイシは、リティルと敵対して討たれた精霊の息子だ。父だと慕う養父のリティルの為に生きたくて、風の王の懐刀とまで呼ばれる自分を手に入れたはずだった。

その誇りを、いつの間にか失っていた。

望んでも得られないと思い込んでいるリフラクに、望めよ!と言えるはずのレイシは、いつの間にかいなくなっていた。

かつて執拗に殺したペオニサを大事な人だとその想いを貫いて、リフラクは、インファの大事なペオニサを嫌うインリーを殺して、自分も死ぬつもりなのだと、レイシは唐突に悟った。

そんな格好いいこと、オレにはできないよ……。レイシは力なく笑うと瞳を閉じた。

もう、疲れ果てていた。眠りたかった。何も考えずに。


 歌を聴いた。

楽しそうに歌う、その歌声……

――心に 風を 魂に 歌を 祈ろう 祈ろう 続いていける 

――歌おう 歌おう 風の奏でる歌

――続いていけるよ 君が望むなら

――たとえ 世界が 否定しても 続いていけるよ

――心に 風を 魂に 歌を すべて 振るわせて 歌おう

――終わらせないで 諦めないで 打ち鳴らして

――続いていこう 歌声で 世界を 満たし続ける

――たった一つ 揺るがない わたしの願い――……

「風の――奏でる歌……」

レイシは、ボンヤリ瞳を開いた。ぼやける視界の中で、キラキラと光を返す何かの上に張り出した、白い何かの上に誰かがいた。

白い長い髪をゆったりとたゆたわせ、彼女は歌っていた。うつ伏せに寝転んだまま、レイシは歌う彼女を見つめていた。

彼女の背には、白いハクチョウの翼が生えていた。日の光を浴び、キラキラと煌めいて見えた。

「あ、目が覚めた?」

視線に気がついたのだろう。こちらを向いた彼女が笑った。金色の温かな瞳だった。

「雪の中に、倒れていたのよ?」

翼をはためかせ、池の上に張り出した岩の上から、彼女はレイシの前へ舞い降りた。

「君は……?」

レイシが呟くように問うと、彼女はまた笑った。

「わたしは、ツェエーリュア。白虎野島の守護神よ」

「……守護神?」

レイシは頭を振ると、体を起こした。

「この島と同化した、混血精霊なの。みんながまだわたしのことを覚えていてくれて、年に2度お祭りをしてくれていて、わたし達、神様になれたの」

「それって、死んだってこと!?」

思わず叫んでいた。ツェエーリュアはレイシの声に驚いて、後ろへひっくり返っていた。

「ああ、びっくりした……。そうよ?わたしは、お父様の死で、運命を共にしなければならなかったのだけれど、どうしても、この島に残してきた子達が心配で。だから、神様になることにしたの」

ひっくり返ったツェエーリュアは、座り直しながら、1点の曇りもなく言った。その選択に悔いはおろか、悲痛な想いもなく、むしろ喜ばしいことだと感じているようだった。

「父親の死?運命を共にって、無理矢理?」

「違うわ。お父様は、混血精霊が、導き手なくして生きていくことが困難だということを知っていたの。わたしも知っていたわ。わたしはこの島に、傷ついた混血精霊達と暮らしていたから」

「その、ここに一緒にいた混血精霊は?」

「8人がわたしと一緒に柱になったわね。あとのみんなはグロウタースの民になって、今でもこの島で命を繋いでくれているわ!」

誇らしげに、ツェエーリュアは笑った。

「グロウタースの民に?どうやって?」

「わたしのお姉様が研究していたの。それは、お父様も研究していたことだったけれど、お父様は死んでしまった。その研究を引き継いで、お姉様が完成させてくれたの。だって、死を強要なんてできないわ。わたしと一緒に柱になりたくない子には、グロウタースの民になってもらったの」

夢のような話だ。夢なのだろうか。ここには、雪がない。この白虎野島は短い春はあっても、雪がなくなることはない極寒の地だ。それなのに、ここには、凍っていない池があり、緑の大地があった。

「ここは……?」

「わたしだけの秘密の場所。この島で唯一、雪のない場所よ」

凄いでしょう?と彼女は無邪気にそう言った。

「どうしたの?あなたずっと、父さん、父さんって呼んでいたわ」

 ツェエーリュアは、努めて優しい笑みで問うてきた。

「……オレ……育ててくれた人を、裏切っちゃったんだ……」

「その人は、本当のお父さんじゃないのね?」

レイシは頷いた。

「生き方を、強要されていたの?」

「え?」

思わぬ事を問われ、レイシはたじろいだ。

「混血精霊の子はそんな子ばかり。育ててくれた恩から逃れられずに、言うなりで傷ついてる」

「君も、父親と一緒に死ぬべきだって、教え込まれてたんだろ?父さんは違う!」

「あら、わたしはプラッセ姉様と一緒に、この島で混血精霊がグロウタースの民になれる魔法ができるまで、生きていたわよ?プラッセ姉様はグロウシュラの民になったわよ?父様に有無を言わさず道連れにされたわけじゃないわ」

気分を害した様子なく、ツェエーリュアはそう言って笑った。

 レイシは改めてツェエーリュアを見た。

「君は、風の精霊……?」

「そう。5代目風の王・インラジュールの娘よ?」

凄いでしょう?ツェエーリュアは誇らしげに笑ったが、すぐに肩を落とした。

「歌うことしかできない、戦えない娘だったけど。でもでも、お父様はわたしが歌うと喜んでくれたわ!」

今でも父を愛している瞳で、彼女はポッカリあいた青空を見上げた。そんなことより!レイシは叫んでいた。

「インラジュール!?えっ!君、ジュールの娘!?」

「きゃあ!なになに?お父様を知っているの?もう死んじゃってるのに?」

ツェエーリュアはまた驚いてひっくり返った。しかしすぐに起きてきた。

「……話せば長くなるんだけど……よく知ってる……」

レイシは、今のイシュラースのことを話した。

「そう……お父様、花の王になったのね。11人って、また子沢山なのね!風の王は15代目……たくさん、死んでしまったのね……」

ツェエーリュアは両手の指を組むと、瞳を閉じた。冥福を祈っているらしい。

「でもレイシ、あなたも風の王の息子だなんて、とっても偶然ね!」

ツェエーリュアの瞳はキラキラしていて、今のレイシには直視しがたかった。

「養子だよ」

「それでもよ!でも、とっても優しいお父様なのでしょう?裏切ってしまったって、そう思っているのは、レイシだけではないの?」

「オレ……」

 どうして、彼女に全部話しているのだろうか。

気がつけば、レイシはインリーとの婚姻から離婚のことまですべて話していた。そして、彼女を疎ましく思って、逃げた事さえも話してしまった。

「うーん……その子……ちょっと強烈……」

ツェエーリュアは瞳を閉じると、腕を組んで空を見上げた。

「そう、かな?」

「そうよ!一心同体ゲートをレイシに無断で開いて、レイシの所にいつでも来られるゲートを開く固有魔法作るなんて、怖いわ。それに、心を操るなんて、無意識でもビックリ。離婚させられて当然だと思うわ。そもそも、よくリティルは許したわね」

固有魔法・一心同体ゲートは、花の姫の固有魔法だ。生涯たった1人の肉体に、自分と繋がるゲートを開き、離れていても命を守れるようにいつでも無限の癒やしの力を送ることができる。念話も可能だ。

リティルは、妻である花の姫・シェラとの間にこのゲートを持っていて、これまで幾度も命を救われている。この固有魔法は、生涯たった1人ということもあり、一心同体ゲートを持っているだけで、婚姻状態とみなされるほどのものだ。しかし、リティルはシェラに精霊の婚姻の証である、自身の霊力で作ったアクセサリーを贈っている。彼女の額にある、鳥の羽根の細工が見事な金のサークレットがそれだ。シェラもリティルに、黒いリボンを贈っている。

「おまえさん達、どんだけ主張しやがるんだ?」と太陽王・ルディルが揶揄っていたほど、2人は仲睦まじい

対して、インリーの一心同体ゲートは未熟で、とても、一心同体ゲートと呼べる代物ではない。かすり傷のようで、よっぽど注意して目を凝らさなければあることすらわからない。インリーはそれを、高めなかった。レイシには、インファやリティルの持っている、ある程度なら自身の生命力で傷が癒やせる、超回復能力がないのにもかかわらず。

つまりは無断で開いたあげく、まったく役に立たないゲートなのだ。しかし、婚姻だけは主張している。レイシとインリーを見る、殆どすべての者が、なんだかわからないが夫婦のような気がすると感じるのだ。しかも、そのゲートの存在に気がついたのは、婚姻を結んだ後だった。

「父さんは聞いたよ。おまえはどうしたい?って。母さんも心配してた」

レイシはゲートのせいでインリーを選んだわけではなかった。レイシはインリーを選ばざるを得なかったのだ。嫌いだったわけではない。無責任だが、愛していたわけでもない。ただ、ずっと力の覚醒しなかったレイシを守ってくれたインリーが、レイシが拒んだら壊れてしまうと思ったからだ。当時からインリーは、わたしの居場所はレイシの隣。だったのだから。そしてレイシも、それでいいと思っていた。

「そりゃそうでしょう?兄妹として育ってるんだし。それで、今更怖くなって逃げたの?」

「……うん……」

「アシュデルとグロウタースに暮らして、認識が変わったからではないかしら?いいんじゃない?精霊もグロウタースの民も心変わりするものよ」

ツェエーリュアは罪悪感を抱いていたレイシに、優しい言葉をかけてくれた。

「君は、恋したことある?」

「残念ながら、その機会がなかったわ。でも、恋愛自由だったわよ?兄弟達の中には、経験豊富な人もいたから」

寛大なはずだ。ジュール自身が、稀代の色欲魔だったのだから。風の王時代の彼の子は皆、母親が違うのだ。

花の王となった現在は、最愛の人と結ばれたこともあって、11人全員王妃との子だが。当時の父を知るツェエーリュアには、とても信じられないだろう。

「ねえ、ツェエーリュア、さっきのあの歌」

レイシはあの風の精霊が歌う力ある歌『風の奏でる歌』とは歌詞の異なる歌を、聞いたことがあった。滅んでしまったグロウタースの民が歌っていた歌だ。それがまた、聞けるとは思わなかった。

「ああ、ソラビトの歌?リャンシャン姉様が風の精霊でなくても歌えるようにと、子供達の為に作った歌詞なの!これならきっと、レイシも歌えるわよ?」

「ええ?でも、オレ、歌下手だからさ。ああ、笛でなら吹けるよ?」

「え?楽器ができるの?吹いて!」

ツェエーリュアは、ずっとここにいるとは思えないほど精神が安定していて明るかった。彼女の明るさと、戦いをまったく匂わせないこの場所に、レイシは癒やされていた。

「いいよ」

レイシは、水色をした魔水晶の小さな笛を取り出すと『風の奏でる歌』を吹き始めた。始めこそ、レイシの笛を大人しく聞いていたが、ツェエーリュアは歌っていた。楽しそうに。

「ああ、楽しかった……。お祭りではみんなで歌うけれど、年に2回だもの」

 笑っていたツェエーリュアは、突然真面目な顔になった。

「レイシ、リティルにちゃんと相談した方がいいわ。劣化版一心同体ゲートもどうにかしたほうがいい。わたし、お兄さんの意見に賛成よ。インリーの為にも離れたほうがいいわ」

「うん。オレもそう思う」

インリーとのすべてが間違っていたとは言わない。だが、今のインリーは更生が必要だ。もういい加減「どうして?」を卒業しなければならない。

あまり頭のよくない自覚のあるレイシにだってわかるのだ。インリーにだってわかるはずだ。いつからだろう。インリーが何もしなくなってしまったのは。レイシが、誇りを失ったのは。

父さんに相談……まだ、間に合うのだろうか?レイシは、魔水晶の小さな笛を見下ろした。これは、リティルがくれたものだ。『風の奏でる歌』をどうしても歌えなかったレイシに、たぶんこれでなら吹けるからと。

 笛を見下ろして黙ってしまったレイシの姿に、ツェエーリュアは明るい声で問うた。

「ねえ、レイシは何の精霊との混血なの?」

「太陽の……精霊……」

「太陽?太陽って、あの……」

自身を精霊王と称していた、傲慢な王。インラジュールはわかりやすく嫌っていた。喧嘩を売るのなら受けてやるぞ?と、そんな姿勢だった。幸いなことに、父と精霊王が争うことはなかった。

あの人――精霊王・シュレイクが子供を?ツェエーリュアはにわかには信じられなかった。インラジュールの話からは、誰かを愛せるような人ではなかったはずなのだ。

「オレを育ててくれた風の王・リティルは、オレが生きてることを知った精霊王と争いになって、それで精霊王を討ったんだ」

育ての親と産みの親が殺し合ったの!?それは思った以上に悲惨な状況だ。レイシはどうやら養父のリティルとわだかまりがありそうだが、その戦いが発端だろうか。だとするなら根深そうだ。

「父さんは、そのとき精霊王に、オレのせいで刺された。師匠が、初代風の王・ルディルがいなかったらきっと、殺されてた。オレ、この血が嫌で、風の王の本当の息子になりたくて……」

子供だ。ツェエーリュアも道を誤らなかった?と問われれば大いに疑問だが、父や兄弟達に顔向けできないようなことはしていないと思う。今代の風の王・リティルは、精霊的年齢19才だというし、導くには荷が重かったのだろう。賢魔王と呼ばれたインラジュールでさえ間違うのだ。十代の精神では……

「父さんは、血はやれないけどって、初代風の王から守護を任された精霊の至宝の4分の1を、オレにくれた。オレ、父さんに報いたくて、少し前まで風の城の主力だったんだ」

「え?しっかり導けてるじゃない!やるわね、リティル!」

ツェエーリュアの言葉に、レイシは力なく笑った。

「父さんは歴代1導くのが上手い風の王だよ。ジュールも認めてるんだ」

「お父様が誰かを気に入るなんて……!15代目風の王・リティル、会ってみたい……」

ツェエーリュアは、尊敬するような瞳で指を組むと思わず15代目風の王・リティルに想いを馳せてしまった。

「来ると思うよ?父さん。今、インリーが何かして、ジュールの息子のリフラクに殺されそうになってるから。結末を見届ける為に絶対に来る」

「え!?ちょっと、わたしの島で何を起こしているの?」

詳しく話して!とツェエーリュアはレイシに詰め寄った。

 知っていることを吐かされたレイシは、ますます項垂れていた。言葉にすればするほど、最低なのだ。

「状況はわかったわ。心情的にはあったこともない弟の手助けをしたいわね」

「インリーを殺す手伝い?そうだよね……オレ、リフラクの哀しみと怒りがわかるよ……」

「殺す手伝いなんてしないわよ?」

「え?だって」

ツェエーリュアは、何を言っているの?という目をした。

「わたし、戦えないのよ。そんな手伝いはできないわ。リフラクをお兄さんのところへ帰してあげたいのよ。でも、わたしには体がないから、ここからは出られないのよね……」

そうだ。彼女はすでに死者なのだ。ここは神域とか聖域とかいう場所なのだろう。ここ以外では、姿を見ることすらできないのだろう。

「それ、なんとかなるよ?」

「え?何ともならないわ。建物を支える柱は動かないでしょう?大柱のわたしは、本当に動けないのよ」

「オレが父さんから守護を任されてる精霊の至宝・原初の風が、君に仮初めの体を作ってくれるって」

「何?どういうこと?」

ツェエーリュアは首を傾げた。素直な反応が可愛いな。レイシはそんなことを思ってしまった。

「オレもよくわからないんだ。ただ、原初の風は、意思のある至宝なんだよね。君の手助けがしたいって」

レイシが胸の前に両手を、何かを受けるように差し出すと、彼の胸からポロリとキラキラ輝く涙型の宝石が手の中に落ちてきた。

原初の風の4分の1。この至宝は力を貸す者を自ら選ぶ。インリーと結ばれ、原初の風はホイッスルの姿となって、レイシに力を貸してくれていた。それが、いつの間にか元の姿に戻っていた。今思えば、ホイッスルの姿でなくなったとき、原初の風はインリーを見限っていたのだろう。今の今までレイシの中にいてくれた理由はわからないが、今、原初の風は新たな主人を定めたのだ。

レイシに引き留める気はなかった。彼の至宝に伝えられるがまま、レイシは魔水晶のオカリナを自らの霊力で作り出し、ツェエーリュアの手に押しつけたのだった。

「!?え!ええ!?本当に生身の体?うわあ……凄い……!」

レイシからオカリナを受け取ると途端に、確かな質感と気配が、ツェエーリュアに産まれていた。

「……そう、力を貸してくれるのね?ありがとう!レイシもありがとう!この子を貸してくれて」

ツェエーリュアは、オカリナを首にかけ、両手でそれを受けると自然に言葉をかけていた。順応性の高さに、原初の風に選ばれるだけのことはあるなと感心した。ああ、神様だったと思い直した。

「貸したわけじゃないんだけど。まあ、いいや。どこに行くの?オレも一緒に行かせてほしいんだ」

レイシの言葉に、ツェエーリュアは瞳を曇らせた。

「わたし、インリーとは相容れないわよ?」

「いいよ。オレ、できるならリフラクと話をしてみたいんだ。誰の邪魔もしないよ」

「……あなたはリティルと話をした方がいいと思うわ。そんな終わった顔してないで!生きてるのよ?何度でもやり直せるわ」

レイシは、ツェエーリュアの前向きな言葉に、小さく笑った。

やり直し……いったい何をやり直せばいいのか。インリーと?風の王の次男?もう、何もやり直せるとは思えなかった。


 ツェエーリュアは、とても行動派だった。

とても、今まで祭りの時しか出られない、そんなひきこもり生活をしていたとは思われないくらいだった。

「あら?どうして山の麓に出るの!?おかしいわ。争いが起こってるだけじゃなくて、何かが起こってるのね……」

「いつもはどこに出るの?」

レイシが問うと、ツェエーリュアは吹雪に包まれて、まるで綿飴のような山の頂上を指さした。

「あそこに祭壇があるの。そこに出られるはずだったのだけれど――」

「うわっ!?って、インリー!」

「ふーん」とツェエーリュアに並んで山の頂を見上げたレイシは、体にぶつかってきた衝撃で転びそうになった。

「レイシ!急にどこかに行っちゃうんだから!」

抱きついてきたインリーは、レイシに拒絶されたことなど忘れてしまっているかのようだった。拗ねたように頬を膨らませていた。

「ああ、これは厄介ね。ねえ、もし?わたし、行ってもいいかしら?」

「待って!ツェエーリュアが一緒じゃないと、あの山登れる気がしないよ!」

呆れたツェエーリュアの冷たい視線を受けながら、レイシはインリーを引き剥がそうと藻掻いていた。いつも以上に子供っぽいインリーが、レイシにはこの上なく鬱陶しく感じられていた。

「わたしにあなたは必要じゃないわ」

原初の風を貸してくれた恩はあるが、知的の欠片もない状態の者と雪山登山したくない。これは、日常だったのだろうか。だとするなら、これを見せつけられていた風の王夫妻に同情する。そして、兄が離婚させ物理的にも引き離した理由がよくわかる。とか思われていそうな視線をツェエーリュアから感じていた。平たく言えば絶対零度に冷え切った視線だった。

「わかってる!待ってよ、ツェエーリュア!」

レイシはやっとインリーの腕を捕まえて、引き剥がすことに成功した。

「インリーやめろって!」

レイシに怒鳴られて、インリーはやっと動きを止めた。その目が傷ついて「どうして?」と言っていた。

この目に苛立ちを感じた。彼女は、こんな人だっただろうか。1度鬱陶しく感じてしまうと、こんなに腹立たしいものなんだなと、レイシは苛立ちの中に悲しさと空しさを感じた。

――続いていくにはな、努力が必要なんだ。一方が想っててもダメなんだ。2人で想って守るものなんだ

リティルの声が蘇った。風の王夫妻は、イシュラース1仲睦まじい夫婦だ。

リティルは、デスクワークに疲れたーと王妃・シェラの肩に寄りかかり、紅茶を手渡してくれる手をわざと握ったりして、2人で楽しそうに笑っていた。皆がいる手前、2人健全な空気で、殆どが風の王夫妻より年上の一家の皆は微笑ましいと和んでいた。

主君がそんな行動を取る城だ。婚姻を結んでいる一家の者達は、自然とあの広い応接間で夫婦セットでいることが多かった。リティルは、戦い続ける宿命の為に、いつ死に別れるかしれないと、絆を結んだ者たちが気兼ねなく一緒にいられる空気を作ってくれているのだ。

「インリー、オレ達はリフラクに会いに行くんだ。君は狙われてるだろ?連れて行けないよ」

しかしインリーは小首を傾げた。

「どうして?わたしも一緒に行くよ?」

「だから!」

どうすればいい?何を言っても、通じない気がする。レイシが音を上げて同行を許可しなければ「どうして?」と繰り返すばかりだろう。

「レイシ!じゃあ、こうしましょう!」

ツェエーリュアの叫びが聞こえ、レイシとインリーは彼女を見た。インリーはやっと彼女を認識したようだった。インリーの「誰?」という問いをツェエーリュアは吹き飛ばして更に叫んだ。

「選んで!わたしか、その子か」

選べと言われ、レイシは戸惑った。腕を組んだツェエーリュアは、付き合いきれないと言いたげな顔をしていた。

「君だよ!ツェエーリュア!」

インリーの声を聞きたくなくて、レイシは咄嗟に叫んでいた。そんなことすら、初めてだった。レイシは、自分の叫んだ名に戸惑った。言ってしまったのに、その先が続かない。

「どうして?レイシ」

レイシは、インリーの傷ついた声に彼女の顔を見られなかった。そんなレイシに、インリーが手を伸ばした。掴まれる!嫌だとレイシは嫌悪して彼女手を恐れ戦いた。こんなに怯えるのは久しぶりのことすぎて、身体が動かなかった。

「わからねーのかよ!いい加減、現実見ろ!バカ娘!」

 レイシはどうするのかしら?ツェエーリュアは自分の上げた声と葛藤しているようなレイシの様子に、焦れていた。そんなときだった。強風が落ちてきて、レイシとインリーは引き離されていた。

あらあら?いったい誰?と事の成り行きを傍観していると、若い男の声が叫んだ。ツェエーリュアを名指しで。

「行け!レイシ。ツェエーリュア、リフラクは君の魂を狙ってるぜ?会うなら気をつけろよ?」

上から吹き下ろされた風が雪を巻き上げ、あたりは白く煙ってしまったが、ツェエーリュアには見える。ツェエーリュアは声に従って、レイシの腕を掴んで走った。

「レイシ!」

「行かせるかよ!」

この声が風の王・リティル。この声がそうなのだと思いながら、なんだ、まだちゃんと見ていてくれてるじゃないのと思った。

「なんだよ?」

思わず笑ってしまって、ツェエーリュアは輝くばかりに白いハクチョウの翼を開いて、わざと雪を巻き上げるように羽ばたいた。レイシも、空の青を溶かしたかのようなガラスのような作り物の翼を広げて、引っ張られるままに飛んだ。

「信じてるのね?お父様のこと」

インリーには、固有魔法・レイシの隣がある。それを使われたらレイシは逃げることはできないはずなのに、彼はインリーがこないと確信して見えた。

「な!……来てくれるなんて、思わなかった」

「ウフフ。あなた、戻れるわよ?望む場所に」

ツェエーリュアは躊躇わずに、吹雪の中に身を躍らせた。レイシは寒さを覚悟して、身を強ばらせたが、刺すような冷たさは襲ってこないだろう。雪の上に降り立つと、2人の周りだけ、吹雪は避けていた。ツェエーリュアはこの大地の神なのだ。これくらい、造作もない。

「そ、そんなことより、さっきの父さんの警告」

「ああ、リフラクがわたしの魂を狙ってるとかいう?他の巫女達の気配がないわ。リフラクは、わたし以外の巫女達を掌握したみたいね」

「大丈夫なのか?それ」

「大丈夫よ。でも、急いだ方がいいわね。この吹雪の中じゃ花の精霊は生きていけないわ」

「!」

言葉を詰まらせたレイシに、ツェエーリュアはニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。

「時間を稼げば、インリーは守れるわよ?放っておいても、リフラクは凍死する運命よ。わたし達の力は吹雪。雪女なんだから」

ツェエーリュアの白い髪から、キラキラ輝く雪の結晶が舞った。

「巫女達から引き離せば、リフラクは助かるのか?」

「あら、助けたいの?意外」

「オレだって、誰が被害者かくらいわかるよ!」

「ごめん、ごめん。意地悪だったわ。わたしなら、リフラクを助けられるわ。凍る前にたどり着ければね。あと、気になるのは、あの子ね」

ツェエーリュアはずいぶんお節介な神様らしい。

「あの子って?」

「インリーよ。ねえ、あの子の存在理由は何?どうやらそれを、失ってるみたいね」

存在理由。精霊が精霊でいるためには絶対に必要なものだ。混血精霊はそれがなくても生きていける。だから危険なのだ。簡単に生きている意味を見失えるから。そうなれば、自分の感情に周りを巻き込んで天変地異を引き起こす。それが、混血精霊の最後だ。

「……精霊のそれってさ、なくなれるの?」

「なくなるわよ?そうなると消える運命ね。精霊は力の司だもの、役割のために生かされているの。世界に不要とみなされれば死ぬわ。でも、消滅していないわね……何かが辛うじて守っている?ちょっとおかしな状態よ」

「オレの知ってるインリーは、優しい女の子だったんだ。兄貴と比べると、頭のいいほうじゃなかったけど、あんな、話が通じないなんてことなかった」

「ふーん?まあ、あんな子とよく結婚したわね?って、あれでも風の王の娘なの?って疑うレベルだったけど、違ったのね?」

あれは、天変地異を引き起こす直前の混血精霊のようだ。昔、父が言っていた。「混血精霊が最後を迎える時、どうも、幼児返りのような状態になる」と。

レイシは俯いたまま頷いた。インリーには何かありそうだが、おそらく手遅れだ。本当は消滅しているはずなのに、何かが、誰かがなのかもしれない。無理矢理生かされているような気がする。惨いことを。とツェエーリュアは思った。生きられるようにできないから、そんなこと、するべきじゃない。あれでは、魂ごと消滅してしまう。この世で死ねば、風の精霊が輪廻の輪へ導いてくれ、始まりと終わりの地へ還れる。還れたら、また再び生まれることができるのに、魂が消滅してしまったらそれすらもできないというのに。

「レイシ、わたしはリフラクを優先するわ。わたしでなければ助けられないから」

「オレも行くよ!父さんが行けって言ってくれた。オレは父さんの言葉に従う」

「恨んじゃダメよ?」

「恨まないよ!行こう!」

子供ね。恨んでもいいと、あの声の主は言うのだろう。彼に、甘えた結果が今なのではないの?ツェエーリュアは、先へ数歩歩いたレイシの後を追った。

――お父様、わたし達も甘えていたわね。だから、あなたは連れて逝ってくれた

嫌いなモノは嫌いと、ハッキリしていたツェエーリュアの父は、切り捨てたモノには容赦なかった。しかし、どんなに利用価値がなくとも、子供達を犠牲にしたことはなかった。

戦う力を持たなかったツェエーリュアの歌を褒めて、綺麗な声だと言ってくれた。

――あなたは、今神となったわたしを、誇ってくれる?リフラクを守れたら、喜んでくれる?

いけない、いけない。ツェエーリュアはレイシに感化されてしまったわねと、首を横に振った。父に褒められたくて、弟を助けに行くのではない。未来を失って、絶望しているあの子に教えたいのだ。思い出さなければならないことが、あるでしょう?と。

それにしてもひどい吹雪だ。急がなければ、リフラクは本当に凍ってしまうなと思った。

「ツェエーリュア!何か来る!」

ツェエーリュアの前に立ちはだかったレイシは、炎を纏う大剣を抜いた。

「ちょっと!雪女だって言ったのにそんなもの抜くの?」

「あ、ごめん……」

「ウフフ。冗談よ。そんなか弱くないから、存分に振り回してわたしを守ってね!」

「よろしく」とレイシに笑って、ツェエーリュアは、風を操って吹雪を避ける範囲を広げた。

「あらあら、巫女の1人よ?ユキノだわ」

吹雪の止んだ中に現れたのは、白い女だった。細部まで細かく作られた雪像のようだった。具現化すると、こんな感じなんだとツェエーリュアはマジマジと眷属を見つめてしまった。

「話、通じる?」

「うーん。無理そうね。完全に掌握されてるわ。神の眷属は滅せられることはないわ。レイシ、手加減はいらないわよ?」

「そう?なら、よかった」

 大剣を構えたレイシが仕掛けるのと、ユキノが仕掛けたのは同時だった。

彼女の手にした武器はナイフのような透明な氷だったが、レイシの剣に触れても溶けることはなかった。速い!風の精霊を相手にしてるみたいだな。とレイシは片手で軽々と大剣を操りながら、攻撃を見ていた。アシュデルのところにきて数ヶ月。戦いとは無縁の日々を送ってた。

リフラクには歯が立たなかったが、彼の殺気はレイシに戦いの日々を思い出させてくれた。

戦える。レイシは、風の王の懐刀と呼ばれていたときだってあるのだ。

いつからだろう?イライラして、何も考えられなくなってしまったのは。父の下す決断を、忠実にこなす兄に従えなくなってしまったのは。

リティルは、そんなレイシに何も言わなかった。そして徐々に、レイシは中核から遠ざかった。そのことに気がつかないまま。

深い雪に足が取られる。片膝をついてしまったレイシの頭上から、ユキノは氷の刃を振り下ろしていた。レイシは彼女の刃を、大剣で受け止めた。リフラクに操られているらしい彼女は、ただの人形だ。信念も何もなく、ただ、この山に入ったという理由だけで襲ってきている。こういう存在を、レイシは見下していた。だが、今のレイシは、オレは彼女以下だなと感じていた。

戦えないペオニサを守護する役目は、レイシが風の王の懐刀だったなら、レイシの役目だった。だがレイシは、軽薄な言動でインファを一時悩ませていたペオニサを、拒否してしまった。ペオニサがインファを想い、インファも想ってくれる彼を大事にしていたのに、兄の変化を知っていたのに、レイシは拒否した。今まで受け入れられたことが、受け入れがたかった。

リティルは、インリーに操られていたせいだと言った。だが、無意識のそんな魔法、インファやリティルなら自ら破るか、そもそもかからなかったはずだ。かかってしまったのは、レイシ自身の心の問題だと自覚している。

 この地に、インファとペオニサは来ているのだろうか。

来ているのなら、何を成すためにここに立っているのだろうか。

ユキノの手に力が込められた。競っているレイシの炎の大剣が凍り付き始めていた。

ただ、操られているだけだというのに、彼女は純粋に強かった。

「きゃ!」

抵抗の力を徐々に奪われていたレイシは、ツェエーリュアの悲鳴でハッと我に返った。何か熱い力が近づいてきていることを、やっと気がついた。

獣の息づかいが聞こえ、ユキノは真横から襲いかかってきた力に押し倒され、レイシの目の前で喉笛を噛み千切られて吹雪となって消え失せた。ユキノを一瞬で屠った強襲者は、炎のオオカミだった。オオカミはレイシを見たが、なぜか襲いかかってはこない。

「レイシ?」

 ざくっと雪を踏みしめて吹雪のない空間へ入ってきたのは、アシュデルだった。防寒はしているが、袋状の長い袖のローブ姿はそのままで、雪の上に、裾の先にある玉飾りが筋を描いていた。

「アッシュ……?このオオカミ、あんたの?」

左手に『魔書・デルバータ』を開いたまま、盲目の大魔導はレイシとツェエーリュアの顔を交互に見た。

「あなたが元凶かな?」

瞳を閉じたままのアシュデルは、顔から表情を読みにくい。穏やかに聞こえる彼の声に反応して、炎のオオカミは四肢を張り低く唸り声を上げた。

「アッシュ!違う!ツェエーリュアはリフラクを止めようとしてるんだ!」

「リフラク兄を殺すの?」

いつも穏やかなアシュデルの声が、冷ややかに変わった。レイシは、彼に警戒されている事を知った。リフラクに仇なすと思われているのだ。

「そうだと言ったら?」

「ツェエーリュア!?」

ツェエーリュアは薄らと笑みを浮かべていた。

「決まってる。あなたを従わせて、兄さんを説得する」

炎のオオカミが駆け出した。レイシは咄嗟にオオカミを背後から斬っていた。

「話を聞いてよ!アッシュ!」

オオカミは火の粉となって消え失せたが、アシュデルは左手に開いた魔導書を閉じなかった。

「手短にね」

「ツェエーリュアは、インラジュールの娘なんだ。リフラクのことを話したら、同情してくれて、それで、止めに行くんだ!」

アシュデルなら、話を聞いてくれる!そう思っていた。なぜならアシュデルは、ギンヨウと2人レイシの何も否定した事がなかったからだ。

「ボク達は、兄弟で殺し合うような、そんな絆しかない」

アシュデルの、こんな硬質で冷ややかな声は初めて聞いた。ギンヨウに毒舌で責められ、他の弟子達と笑っている穏やかで和やかなアシュデルしか知らなかった。

「アッシュ!?」

「そんなふうに作った父さんを、ボクは、信用してない」

この雪のように冷たい声だった。翳りの女帝・イリヨナの、癒やしであるだけでないことを、レイシはやっと知った。そうだ。アシュデルは、イリヨナの腹心にも信頼されている。ただの平和ボケしたおっさんを、癒やしだというだけで王配になどする人ではない。

「……わたしを信用できないということ?」

「同じ血を引いてるからって、信じる要素にはならないってことだよ」

「あなたは、リフラクに殺されかけたのでしょう?なぜ助けようとしているの?」

「ペオニサ兄さんが、助けようとしているから。理解はいらない」

冷ややかに会話を終わらせたアシュデルの手にした魔導書のページが、独りでに繰れる。アシュデルと争わなければならない?レイシは奥歯を噛んで、息を詰めた。

レイシは、穏やかなアシュデルしか知らなかった。

戦いとは無縁の場所にいた。ということもあったが、彼が努めて見せないようにしてくれていたことを知った。

アシュデルが陰りの女帝の王配になる前、風一家に入ったのはペオニサの為だ。インファのそばにいて、彼が壊れないか心配したからだ。そして、ペオニサが大事なアシュデルは、躊躇いなく命を奪える人だ。そうでなければ、グロウタースに拠点を持っているという理由だけで、リティルが一時でも一家に入れるわけがない。風の城は戦う宿命を背負っている。長年飛んでいるリティルは、グロウタースを広く浅く知っている。今更ブレーンとして非戦闘員を抱える意味はないのだから。レイシは、彼が魔法を使う姿を1度だけ見た事がある。その時アシュデルは、立ちはだかった一家の全員を出し抜いた。視力を失っても、大魔導の名は伊達じゃない。

やるしか、ないのか?レイシはツェエーリュアを庇い立って大剣を構えた。

 一触即発というところで、大きな気配が近づいてきたのをツェエーリュアは感じた。

「仲間割れかい?ボクも、混ぜてほしいねぇ」

突如、吹雪が晴れた。毒を孕んだ可愛らしい声に、皆は一斉に空を仰いでいた。

空には、赤が映えるミイロタテハの羽根を生やした、少女のような可憐さを持つ男が浮かんでいた。レイシが名を呼ぶ。

「リフラク……」

彼の肌は、青白く変わり果て、明るい緑色だった瞳は、極寒のアイスブルーに凍り付いていた。彼に従うように8人の雪女が現れた。

「あの人が、リフラク……」

感情を殺しているが、ツェエーリュアには彼の決意が見えるようだった。この瞳は、笑顔だった父とは表情は異なるが、同じだ。

――親子なのね?

アシュデルは父を否定するようなことを口にしたが、本心はどうかわからない。彼の声色からも、決意を感じた。付け入る隙のない話し口調で、取り付く島のないところが、父とソックリだった。

――あなたの精神は、今も子供達に受け継がれているのね?お父様

「レイシ!どいて!」

落ち着いた緑と青にオレンジ色が映える、ミイロタテハの羽根をはためかせ、アシュデルが上空のリフラクに仕掛けていた。

ええ!?あれに仕掛けるの!?1人で!?戦えないツェエーリュアでも、これが分の悪い戦いだとわかる。わかるのに、アシュデルは行くというのか?かつて、自分を殺した兄を救うために?

「アッシュ!」

レイシが悲痛に叫ぶ。9人の圧倒的な敵を前に1人で飛べるアシュデルにも、5代目風の王・インラジュールの血が流れているのだ。兄弟。ツェエーリュアは、胸の高鳴りを感じていた。凝視する瞳に、アシュデルの魔導書から数匹の炎の龍が解き放たれるのが映った。


 勝負など、初めから決まっていた。アシュデルが大魔導であろうと、無限に湧いてくる雪女達を従えたリフラクに勝ち目などないのだ。

「兄――さ、ん……いけ、な――」

魔力切れを起こして、意識が朦朧としているのが丸わかりのアシュデルが、リフラクの目の前にいる。それでも、アシュデルはリフラクの肩を掴んできた。「兄さん」なんて、本当は呼びたくないだろうに。君を殺したこんな奴、助けたくないだろうに。

「バカだねぇ……昔のボクなら、君、死んでたよぉ?」

リフラクは、弟の腹に拳を叩き込んでいた。戦意消失を知らしめなければ、雪女達が彼を殺してしまう。そんなこと、許せるはずがない。アシュデルは、ペオニサが1番可愛がっている弟なのだから。

「ありがとう。止めに来てくれて。でも、譲れないんだ。ごめん」

聞こえているかはわからない。だが、言わずにはいられなかった。これで、もうお別れだろうから。トンッと、リフラクはアシュデルの巨体を地上へ落とした。

さて。地上を見据えたリフラクの背後で、アシュデルの魔法で溶かされた5人の眷属が、吹雪を纏い戻ってきた。

「女神・ツェエーリュア、ボクの復讐のための礎になれ」

リフラクは、白い翼の女性に向かって手を差し出した。石像よりも本物のほうが美しいじゃないか。そんな感想しか浮かばなかった。

「あ、ええと……」

 ツェエーリュアは半ば呆けていた。美少女のようでいて燃えるような意志を宿したその瞳はきちんと男性のモノで、言葉さえ聞いていなければこれは求婚みたいではないだろうか?ああ、勿体ない。兄弟でなかったら、お嫁にもらってください!と言いたかった。

「誰が!」

レイシの声で、フワフワとしていたツェエーリュアは我に返った。

アシュデルを倒され、怒っているらしいレイシに、リフラクは冷ややかな笑みを投げてきた。圧倒的なリフラクを前に、レイシが申し訳ないが小者に見える。

あら、レイシのことは嫌いみたいね。眷属を使えばいいのに、自らアシュデルを討ったリフラクに、ツェエーリュアは愛を感じた。あの人は、兄弟を愛している。そして、アシュデルも。ツェエーリュアはウズウズとして、地を蹴っていた。

「ツェエーリュア!?」

レイシにはわからないだろう。兄弟で肩を寄せ合い生きてきた記憶のない彼には、きっとわからない。ツェエーリュアはリフラクの手を取っていた。

「あなたの願いを叶えてあげる。お姉ちゃんのわたしが」

手を握られたリフラクは「は?」と眉根を潜めたが、ツェエーリュアは笑い飛ばした。


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