人の善意と道の先(3)
扉をくぐり建物に入る。入ってすぐは酒場になっているらしく、夜だというのに煌々と明るく、酒や料理の載った卓が並び、赤ら顔の客がひしめき、喚きあっている。会話をしているのか喧嘩をしているのか分かったものではない。昼間の店が至って上品なものに思えてきた。
弟は楽しさでなく恐怖を覚えたらしく、表情を硬くしながら、男の後ろに隠れるように辺りを見回している。その様子に気付いたらしい男は弟を安心させるように笑った。
「怖い場所ではない、とは言い切れんが、そう緊張しなくても大丈夫だ」
男はそのまま弟を後ろにして歩き、隅の暗がりで一人座っている男に声をかけた。
「オヤジさん。部屋、使わせてもらうよ」
どうやらここの店主らしい。店主は無言のまま鍵を差し出し、それを受け取りながら男は笑った。
「相変わらずだな。もう少し愛想よくしてもいいんじゃないか?」
店主はさっさと行け、と言わんばかりに顎をしゃくり上げた。男の後ろに隠れるように立つ弟にも気付いているだろうが、気にする様子もない。
男は苦笑して店主の横にある階段を上っていき、弟も離れることなくついていく。
二階には扉が幾つも並んでいる。男はそのうちの一つの前に立つと、鍵を開けて中に入り、灯りを点けた。
「俺が借りている部屋だ。好きにしてくれていいぞ」
言葉の通り、よく使っている部屋なのだろう。小さな窓が一つのみの狭い部屋には寝台と机だけが置かれ、わずかに残る床面にも紙やら衣服やら、商品だか商売道具だかが散乱して、何もない場所と言えば寝台の上くらいなものだ。更には下階の喧騒も聞こえてくる。
散々な部屋ではあるが、弟は安心したのか眠気を覚えているらしい。一つしかない寝台をしばらく眺めてから、不安げに男を見上げた。
「眠くなっちまったか? 俺のことは気にせずに使ってくれ」
「ありがとう」
弟は半分眠りながら答え、寝台に腰を下ろした。
「俺は下に行っているが、鍵は掛けていく。もし誰か来ても何もしなくていいからな。灯りはこのままでいいか?」
弟が頷くと、男は部屋を出ていった。
ようやくオレも狭い鞄から解放された。劣悪な場所だが翼を広げられるだけマシだ。弟はすでに目を閉じて横になっている。起こす必要もないだろう。
暇つぶしに床や机に散乱している紙の類を眺める。文字というものは人間にしては良い発明だ。人間にしか理解できないと考えているのは傲慢にして無知だがな。
幾つかを読んでみたが、さほど面白いものはない。ほとんどが取引の内容を表わしているものらしく、それ以外には、持って回った表現によって文字は多いが内容は少ない手紙くらいのものだ。人間どもの取引が適正かどうかなど知ったことではないが、冗長な手紙からは、男がそれなりに信頼と評価を得ている人間であるらしいことが分かった。
オレという兄を持つことといい、弟は幸運に恵まれているらしい。もっとも、男に関しては恐らく商売相手からのものであろう手紙の内容を過信するわけにはいかないが。
その後も部屋中に散乱する紙を読み続け、粗方目を通してしまった。特に面白いことはなかったが、男の身内らしい人間からの、時には怒っているように、時には懇願するように、男の帰りを望むと結ぶ手紙は、他と比べれば幾らか目立っていた。
酔客どもの喧騒も収まっているようだ。下階から戻ってくる男の足音が聞こえてきた。多少普段の歩調とは違うようだが、判別に問題はない。気は進まないが狭い鞄の中に戻るとしよう。
足音は部屋の前で止まった。音を立てないためかゆっくりと扉が開かれ、男が部屋に入ってくる。その顔はわずかながら赤くなっているようだ。男は呑気に眠り続ける弟をしばらく眺め、微笑して息を吐くと、辺りに散らばる衣服を床に敷いてその上に寝転がり、すぐに寝息を立て始めた。
日が昇り始めてからしばらく経っても二人が起きる気配はない。鞄の中から首だけを出してつついてやると、弟は体を起こした。
「おはよう」
誰に対しての挨拶なのかはともかく、その声で目を覚ましたらしい男がゆっくりと立ち上がった。
「おはよう。よく眠れたか?」
弟は頷いた。男の寝心地は良くなかったと見えて、しきりに体を捻ったり伸ばしたりしている。
「ねる場所をとってしまってごめんなさい」
「気にするな。子供はしっかり寝るもんだ」
男は笑って首を振ったが、痛みでもあったのかわずかに顔をしかめた。愉快な奴だな。
「朝飯を食べたらすぐに出ようか」
弟は頷いて寝台から立ち上がると、男と並んで部屋を後にし、階を下る。
昨夜の喧騒とは打って変わって、下階は静まり返り、わずかな数の客が食事をしているだけだ。
男は弟を座らせ、どこかから簡素な食事を持って来ると、卓上に並べた。
「ありがとう」
笑顔の弟に頷くと、二人は食事を始めた。
早々に食事を済ませた男は食事を続ける弟を眺めていたが、無言のまま現れた店主がやはり無言のまま、男に宛てられたものらしい封筒を置いていった。
「どうも、オヤジさん」
男は去っていく背中に声をかけたが、店主は何の反応を返すこともなかった。昨夜から随分と徹底した態度だ。あらゆる面倒に関わりたくないという意思の表れなのかもしれない。
男は苦笑しながら封筒を開く。中から一枚の紙を取り出して読み始めると、すぐにその表情は別人のように硬く真剣なものになった。
「悪いが、今から出よう」
手紙を読み終えたのか立ち上がった男の、これまで聞いたことのない硬い声に、弟も顔を強張らせ、食べかけの食事もそのままに立ち上がった。
無言のまま足早に歩く男の後ろについて弟は半ば駆けるように外に出たが、男はそのまま歩き続け、簡素な馬小屋から手早く馬を出した。
男は弟を抱きかかえるように馬車も繋がれていない馬に跨り、無言のままに走らせて宿を離れた。オレが鞄から出る隙も無い。
どうやら相当に急いでいるらしく、かなりの速度で馬を走らせている。街に向かってはいるようだが。
弟も何に対してのものか恐怖を感じているように顔を強張らせたままだ。何があったのか説明くらいはしてもらいたいが、男は余程集中しているのか口を固く結んだまま前を向いている。少しの休みをとることもなく馬を走らせ、まだ日も高いうちに街のすぐ近くに辿り着いた。
男は一軒の大きな建物の前に馬を停めると、弟の手を引きながら、やはり足早にその中に入っていった。
どうやら宿屋らしい。一階部分が酒場らしいのは今朝出てきた場所と変わらないが、更に広く大きく、入口には簡素ながらも受付が設けられ、清潔さが感じられる。この時間には客も少ないのか、喧騒とは程遠い静寂に満ちている。
「しばらく借りたいんだが、空いている部屋はあるか?」
男は息を荒らげながら受付に尋ねるが、受付は動揺した様子を見せることもなく、弟を見下ろしながら首を振った。
「悪いが貸せる部屋はないな」
男は返事をすることもなく、わずかの間受付を睨むと、弟の手を引いて足早にその宿を出る。
外に出た男は、苛立ったようにしばらく空を睨んでいたが、やがて大きく息を吐いて弟と目線を合わせるように膝を曲げた。
「本当にすまない。もう少しお前と一緒にいてやりたかったが、どうしても行かなければならない用事が出来てしまった。信頼できる相手にでも預けられれば良かったんだが」
表情こそ硬いままだが、声は多少柔らかいものになっている。下手な相手に預けられても動きづらくなるだけだ。むしろ都合がよい。
弟は大きく首を振り、笑顔を見せる。
「ここまで連れてきてくれて、本当に、本当に、ありがとう。すごく楽しかったし、すごく勉強になったよ」
男は短く息を吐くと、表情を和らげた。
「俺も楽しかったぞ。お母さんが見つかることを祈っている」
「ぼくも、おじさんが楽しくすごせるように、いのるよ」
真剣な表情で見つめる弟から顔を背けるように男は懐を探り、何かを取り出すと弟の手に握らせた。弟が手を開くと、何枚かの硬貨が置かれている。人間どもの経済などに興味はないが、それなりの額になるだろう。
「少なくて悪いが、この先必要になるかもしれん。大事に使うんだぞ」
弟が硬貨を握り直して大きく頷くと、男は立ち上がり、勢いよく馬に跨る。名残を惜しむように見上げる弟を、男はしばらくの間見つめて微笑した。
「どんな訳があるか知らんが、鞄の中の奴にもよろしくな」
そう言うと、男は弟の反応も待たず馬を走らせた。気付いていたのか。目聡い奴だ。
「ありがとう!」
弟が大きく手を振る。男は振り返ることなく、片手を挙げて去っていった。
周囲には誰の姿もない。穏やかな風に弟の髪がそよいだ。街の喧騒がかすかに聞こえる。
「なんだか、すごくしずかになった気がする。さびしいね」
淋しく感じるのはお前だけだが、あの男がいなくなって静かになったのは確かだな。
「あんなにも楽しくて、あんなにもいい人なんだから、きっと、ずっと、楽しくすごせるよね」
さぁな。どんな奴にどんな事が起こるかなど、分かったものではない。あの男の言葉を借りれば、騙され続けることになる奴も、持ち続けることになる奴もいるだろう。因果など、頼るに値しない。
弟はしばらく手の中の硬貨を眺めていたが、やがて大きく息を吐くと、顔を上げて街を見つめる。
「カラスさんはあの街にぼくをつれてきたかったんだよね? お母さんはあそこにいるの?」
声を上げる。その通りだ。
弟が大きく頷いた。
「もう少しで、会えるんだよね。ぼく、がんばるよ」
言うじゃないか。今まで通りオレが導いてやるが、お前が動かなければどうにもならないからな。
オレは鞄から飛び立つ。空いた鞄に、弟は大事なものを扱うように硬貨を収めた。
大空から街を見下ろす。これまでに弟の訪れた場所とは比較にならないほどに広く、人も建物も多く、雑然としている。弟にとっての危険も多いだろう。これまで以上に面倒だが、もう少しでオレも自由を得られるのだ。楽しみじゃないか。
楽しみか。弟だけでなくオレにもあの男の考えが伝染してしまったのかもしれない。人間に影響されるなどあってはならないことだ。
オレは気の迷いを振り払うように大きく羽ばたいた。