人の善意と道の先(1)
オレは弟より一足早く森を抜け、広い草原に出る。遮るもののない日の光がオレを照らし、取るに足らない鳥どもの鳴く声が聞こえてきた。
森から解放された気分を味わおうと大空に昇る。吹き抜ける風に、オレのいるべき場所を実感する。気の向くまま飛んでいきたいところだが、森を抜け出る弟の姿が見えた。
少しでも空に近い場所にいたいところだが、森に比べると木もまばらなため、枝にとまっている訳にもいかなくなった。仕方なく、弟と並ぶように草原に降りたつ。
ここから見えるのは地平線の先まで続く草原だけだ。なんとも悲しい光景じゃないか。
弟は大きく深呼吸をすると、またしても笑いながらくるくると回り始めた。
「風がすごく気持ちいい。外の世界はこんなに広くて明るくて、きらきらしているんだね!」
空から遠く離れたこんな場所で満足できるとは、羨ましい奴だ。
弟は笑顔のまま仰向けに倒れこんだ。風にそよぐ草がくすぐったいのか、目を細める。
遠く広い青空を眺めながら、弟はわずかに表情を暗くした。
「ぼく、本当にうれしいと思っているんだ。これも、お母さんに作られたものなのかな?」
ことあるごとにこんな風に落ち込むつもりだろうか。弟に余計なことを吹き込んだヤツに対する苛立ちを覚えながら、弟の手を軽くつつく。
「ごめん。お母さんに会えば、全部教えてくれるんだよね」
その通りだ。オレの自由を得るためにも、さっさとあの人と会わなければな。
弟が勢いよく立ち上がる。オレも弟を導くために空に舞い上がった。
「カラスさん、よろしくね!」
弟が大きく手を振る。頼まれるまでもない。黙ってついて来い。
だが、それからどれだけも歩かないうちに、弟は足を止めてオレを仰ぎ見た。
「カラスさん、ぼく、おなかが空いたみたい」
オレにはそのようなものが不要なせいで、弟が食事を必要としていることを失念していた。面倒極まりない。
弟が自分で食料を確保してくるなど期待は出来ないだろうし、オレが何とかしてやらなければならない。じきに日も暮れてしまうだろう。
幸いなことに、さほど離れていない場所に人間どもの畑があった。それなりの大きさの畑には収穫の時期を迎えたであろう作物が数多く実り、周囲には小さな家が一軒あるだけだ。実に好都合だ。オレが案内の声を上げると、弟はゆっくりと歩き出した。
日も沈み、辺りが暗くなり始めた頃、ようやく畑に着いた。オレは畑を囲む柵の上に降り立つ。弟は畑の作物を眺めるだけで動こうとしない。さっさと頂いてしまえ。
「カラスさんがぼくに何をさせたがっているのかはわかるけど、でもそれは、してはいけないことだよ?」
何を言っているんだか。お前が食料を得るなど、他に方法があるものか。
オレは声を上げた。人間どもが誰のものでもない土地を勝手に使って食料を作っているだけだ。さっさとしろ。
「カラスめ! アタシたちの畑から出ていけ!」
どこに隠れていたのか、人間の女が棒きれ片手にオレに向かってきた。
人間の緩慢な動作など問題にならないが、わざわざ追いかけられる気もない。柵を蹴って一気に空に昇る。
遥か上空を旋回するオレを、女は忌々しげに睨む。オレを攻撃しようとするなど、厳罰に値する愚行だが許してやろう。寛大なオレに感謝するがいい。
吐く息も荒く辺りを見回した女は弟に気付いたらしい。驚いたような表情を浮かべ、棒きれを放り捨てると、弟に駆け寄る。
「坊や、どうしたんだい? お父さんかお母さんはどこ?」
「ぼくが目をさました時には、いなくなっちゃってたんだ。今は、お母さんに会いに行くところだよ」
女は目を見開き、息をのんだ。
「アンタ! 来ておくれ!」
女の大声に、畑の隣に立つ家から人間の男が現れた。大した声量だ。弟など驚いたように身を震わせたぞ。
「どうした? 何かあったか?」
駆け寄ってきた男に女が耳打ちをする。弟はともかく、オレの耳には無意味だがな。
「この子、捨て子みたいなんだよ。こんなに可愛らしい子供をさ。信じられないだろ」
「事情はそれぞれだろう。それで? この子の親を捜そうって言うのか?」
女は大きく首を振った。
「どんな事情があったとしても、この子は一人で置いて行かれたんだ。そんな奴らに任せられるかい? それにほら、アタシたちには、さ」
男は女の言葉に驚いたように目を見開いた。炯眼たるオレにとってもさすがに驚きだがな。何とも人間らしい身勝手さだ。
「お前。まさか」
「もちろん母親が現れたら返すよ。それまでウチで面倒見るくらいなら、いいだろ?」
その時、弟の腹が盛大な音を鳴らした。面倒なことになりそうだというのに、呑気な奴め。
「坊や、お腹が空いてるのかい? それなら、まずは食事にしようか」
女は誰の返事も待たず、弟の手を引いて家に入っていった。
残された男は溜息をついた。お前がしっかりしていないからこうなるのだ、と遥か上空で声を上げたオレを、男は忌々しげに睨む。
男はもう一度溜息をつくと、家に入っていった。溜息をつきたいのはこちらの方だ。森を出て早々にこれか。
幸いと言って良いのか、その小さな家には窓が十分にあり、大方の場所は眺めることが出来そうだ。弟の見える窓枠にとまる。何でオレが人間どもの家を覗くような真似しなきゃいけないんだかな。
家のほとんどを占めているらしいその部屋の中央には、粗末な木の卓が一脚と、同じく粗末な木の椅子が幾つか置かれ、隅には雑多なものが収められた棚が置かれている。それ以外の調度品と言えば野花が多少飾られているくらいで、質素そのものと言ってよい。整然としている分、あの人の家よりは遥かにマシだが。
女は椅子の一つに弟を座らせると、調理台に向かった。食事の支度をしていたところだったのか、火に掛けられた鍋の中身は煮立っていて、弟は部屋に漂うその匂いをしきりに嗅いでいるようだ。卑しい奴め。
「今日はこんな物くらいしか用意できないけど、たんとお食べ」
弟の目の前に食事が並べられた。弟はしばらく女と食事を見比べていたが、空腹に耐えかねたと見えて、勢いよく食べ始めた。
「ぼく、はじめて食べるよ! こんなにおいしいんだね!」
「こんなものでそんなに喜んでくれるなんて、嬉しいね」
女は弟の言葉を都合よく解釈して笑った。隣に立つ男も感慨深そうな顔をしている。お前まで感化されてどうする。
「それじゃ、アタシたちも食事にしようか」
女は二人分の食事を追加し、男と並んで席に着いた。
それから食事を終えるまで、二人は自分の食事もそこそこに、微笑みながら弟を見守っていた。傍から見れば至って平和な光景だな。
弟が席を立ち、二人に頭を下げた。
「おいしい食事をありがとう。何もお返しできなくて、ごめんなさい」
「そんなことはいいんだよ」
女は外に繋がる扉の前に立ちながら、首を振る。
「それより、坊やのお母さんは私たちが捜してあげるから、その間、うちにいたらいいよ」
男もとりあえずは反対するつもりがなくなったらしく、静かに弟を眺めている。使えない奴め。
弟は困惑したように二人を見る。
「でも、ぼく急いでいるんだ。すぐに行かなくちゃいけないんだよ」
「分かったよ。でも、もう外も暗いんだ。せめて今日だけは、ここに泊って行っておくれ」
懇願するような女の言葉に、弟は頷いてしまった。不慣れな外の世界を歩き詰めではあるし無理もないが、一晩で済めばよいがな。
「そうかい! それじゃ、奥の部屋で休んでおくれ」
女は満面に笑みを浮かべた。
「ありがとう。おやすみなさい」
弟は頭を下げて奥に向かおうとしたが、その背中に女が声をかけた。
「そうだ。坊やの名前を聞き忘れてたね。何て言うんだい?」
「ぼく、自分の名前を知らないんだ。だから、それもお母さんに聞きに行くんだよ」
二人は困惑したような表情を浮かべてわずかの間顔を見合わせたが、女はすぐに気を取り直したように明るい声を上げた。
「そうかい。今日はゆっくりお休み」
弟はもう一度頭を下げると奥の部屋に入っていったが、今は弟よりこの人間どもを見ておかなければな。
二人は家を出ると、声を潜めて話し合う。夜の静寂のお蔭で、先程よりもよく聞こえるくらいだが。
「アンタ、どう思う?」
「名前を知らないっていうのは、どうにもな」
「孤児じゃないのかい? 母親がどこか近くにいるって、きっと悪い奴に吹き込まれたんだよ」
「それにしては、着てる物も上等のように見えるが」
女が何か考える素振りを見せた。
「ひょっとして、どこかに売られちまう途中だったんじゃないかい?」
下手の考えは寝ているのと変わらないそうだが、寝ている分には誰の害にもならないのだから、まだまだ下手を甘く見た言い方だったようだな。
「そうかも知れんな」
「あれだけ可愛らしいんだ。きっとそうだよ」
想像の逞しい連中だ。オレからすればこの女の目的も大差ない。むしろ、良かれと思っているだけに性質が悪い。
「それで、あの子をどうするんだ?」
「やっぱり、何とかして、うちに居てもらわなきゃ」
男は小さく唸ると、やがてゆっくりと頷いた。女は笑顔で男に抱き着き、苦笑を浮かべた男と共に家の中に戻っていった。
なんとも面倒なことになってしまった。弟が上手くやってくれるといいが、期待は出来ないだろうな。
弟の様子を見ると、ごく小さな部屋に、それだけが置かれた簡素な寝台の上で寝息を立てていた。兄の苦労も知らず、呑気な奴だ。
女は部屋に入ってくると、弟の隣に横になり、静かに弟の顔を眺めている。何が楽しいんだか。
しばらくすると女も眠りに落ちたらしい。いつまでもやって来ない男の様子が気になったオレがその姿を探すと、男は先程食事した部屋の床に粗末な布切れを敷いて眠っていた。弟に本来の寝床を譲ったせいだろう。哀れな奴だ。
やがて日が昇り始めた。男は畑に出てくると農作業を始める。家の中を覗くと弟はまだ眠っているようだが、女は早くも食事の支度を始めている。何とも勤勉なことだ。森の人形どもと大差ないな。
男が作業を続けているうちに、食事の支度を終えたらしい女が窓に近付いてくる。わざわざ人間どもの気を引く必要もない。見つからないようにするとしよう。
「アンタ、朝食の用意が出来たよ!」
窓から顔を出した女の、あまりの声量に思わず飛び立ちそうになってしまった。朝から大したものだ。
男は頷き、農具を柵に立てかけると家に向かって歩き出した。
「おはよう」
弟の声に、家の中に視線を戻す。まだ眠り足りない様子だ。怠惰な奴だな。
「おはよう。起こしちゃったかい?」
女が笑う。あれで起きないのは耳の聞こえない奴だけだろう。
「朝食だよ。外で手と顔を洗っておいで」
笑顔の女に、弟はやや困惑したような表情で頷いて家を出る。
外では男が水の張られた大きな木桶の前で農作業の汚れを落としていた。隣に立った弟に気付いたらしく、微笑して弟を見る。
「おはよう。ちょっと待ってくれ」
しばらくして男が場所を譲った。そのまま家に戻ればよいものを、男は手や顔を洗う弟を眺めている。
弟が顔を上げると、男は家に入るのを促すように頷いた。
弟は不安げに辺りを見回す。さっさとその家を離れろ、と声を上げてやる。弟は安心したようだったが、そのまま男と共に家に入ってしまった。まったく。
朝食の内容は弟が昨日食べたものと変わらないように見えたが、弟は喜んで平らげた。昨夜と同じく、二人は微笑みを浮かべて食事をする弟を眺めていた。
「食事や、ねる場所を本当にありがとう。お母さんに会えたら、きっとお礼をします」
弟の言葉に、女の表情は真剣なものになった。
「それなんだけど、やっぱり坊やのお母さんは私たちが捜すよ。だから、坊やはここでゆっくりと待ってるといいよ」
昨夜の話を聞く限り、どこまで真剣に捜すだろうか、そもそも捜そうとするかも怪しいものだ。
「でも、やっぱり、ぼくがさがさなくちゃいけないと思うんだ」
そう言って弟が立ち上がると、男が無言のまま扉の前に立った。今や男も完全に女に同調しているらしい。
困惑した様子で二人を見る弟の前に女が立つ。
「坊やみたいな小さな子だけじゃ、危ない目にあっちまうよ。悪いことは言わないから、私たちに任せておくれ」
弟は何も言わず立ち尽くしたままだ。急いでいるというのに、このままでは埒が明かないな。肉体労働などオレの仕事ではないが、仕方ないか。
オレは窓から家の中に飛び込み、男の頭上で大げさに羽ばたく。
全員の視線がオレに集まり、男がオレを追い払おうと扉から離れた。
さっさと逃げろ、と声を上げる。
ようやくオレの意図が伝わったのか、弟が家を飛び出した。
「ごめんなさい!」
「坊や!」
弟を追おうとする女の目の前で羽ばたく。ある程度時間を稼いでやらなければ、すぐに追いつかれてしまうだろう。
男の手がオレの近くを通った。それで不意を突いたつもりか?
「さっさと出ていけ!」
「アンタ、それより坊やを!」
オレを振り払おうとしながら女が叫ぶが、男は女が心配なのか、この場を離れる気はないらしい。好都合だ。
そのまま女の周りを飛び回ってやる。鈍重な人間どもの攻撃など何の脅威にもならない。自分たちの家だというのにそこかしこでぶつかりそうになっているコイツらの愚鈍は驚異かもしれないが。
二人に疲労の色が現れるほどに時間を稼いでやり、家を飛び出してそのまま大空に昇る。弟は充分に離れた場所にいる。あの家からでは姿を見ることも出来ないだろう。
オレに遅れて二人が家を飛び出してきた。
「坊や!」
必死の形相で叫びながら辺りを駆け回っている。コイツらにオレの半分でも思慮ってものが備わっていれば、もう少しマシな別れもあっただろうがな。
大空を駆け、弟の肩に降りる。あの二人の叫ぶ声が聞こえていたのかは分からないが、明るい空の下だというのに弟の顔は暗い。
「ひどいよ、カラスさん」
ああでもしなければお前はあの場を離れられなかっただろう。礼どころか非難してくれるとはな。
「もっとちゃんと話し合えば、二人はきっとぼくを見送ってくれたはずだよ」
どうだかな。あの様子では、期待は出来そうになかったがな。
「あんなにぼくのことを心配してくれたのに」
地獄への道は善意が敷かれているそうだ。人間が考えたにしては随分気の利いた言葉じゃないか。
弟は俯き、しばらく黙り込んでいたが、呟くように声を出した。
「ごめんなさい。ぼくがしっかり言えばよかったんだよね」
それが分かっていればよいだろう。弟の成長を助けるのも兄の務めだ。
「お母さんに会えたら、いっしょにおわびとお礼に行こうね」
お人好しめ。好きにするがいい。もっとも、その時にはオレはお前のお守からは解放されているがな。
オレを見る弟を背後に、大空に飛び立つ。
未だ弟を探しているらしい二人の姿が小さく見えた。