森の終わりと旅の始まり
弟がようやく目を覚ましたようだ。床に腰を下ろしたまま、不安げに暗い部屋を見回す。まったく、オレがお守をする羽目になるとはな。あの人も随分な面倒を押し付けてくれたものだ。
部屋に積まれたガラクタの上に立つオレを弟が見つめる。
「カラスさん?」
オレをカラス呼ばわりするとは、ものを知らん奴だ。兄らしく寛大なオレだから、許してやるがな。
「お母さんはどこ?」
もちろんオレはその答えを知っているが、あいにくオレは弟と同じようには人間どもの言葉を話すことはできない。
お前がお母さんと呼ぶあの人は、お前が呑気に寝ている間に街の人間どもに連れていかれたよ。
何か悪いことをしたのかって?
さぁね。オレは人間どもの作った法のことは知っているが、人間どもの考える善悪のことなんか分からないからな。
弟は不安げなまま、再び辺りを見回している。弟とはいえ、オレよりはるかに立派なナリをしているんだから、もっとしっかりしてもらいたいものだ。
とにかく、オレも弟も、こんな場所でいつまでもこうしていても仕方がない。あの人に会いに行こうじゃないか。急がないと会えなくなるかもしれないしな。
オレは開きっぱなしだった扉から外に飛び立ち、木の枝にとまると、高らかに声を上げてやった。さっさと外に出ろ。
しばらく遅れて弟が家を出てきた。多少は兄の心が分かっているじゃないか。
弟は最初こそ恐る恐る辺りを見回していたが、すぐに笑顔を浮かべると、わずかに差し込む木漏れ日を浴びながらコマのようにその場を回り始めた。呑気な奴め。
「なんだかいいにおい。ぼく、初めて外に出たけれど、こんなにすてきな場所だったんだね」
弟の声が森に響く。この静かな森にこんなに気の抜けた声が現れるのは初めてのことだろう。見渡す限り木と苔に覆われ、せっかくの春だというのに満足に光も届かず湿ったこの森で、よくそんなに感動できるものだ。まぁ、こんな森でも、あの人にしか理解できない秩序で配置されたガラクタで満たされた、他の誰にとっても混沌でしかないあの家よりはマシか。
弟はようやく回転するのをやめると、オレを見上げる。
「カラスさんは、お母さんのいる場所を知っているの?」
声を上げてやる。オレに知らないことなどあるものか。
別の木の枝に飛び移り、もう一度声を上げる。
「ついて来いってこと? わかったよ」
オレの弟だけあって、少しは利口なようだ。まずはこんな陰鬱な森から出ないとな。こっちの気分まで滅入ってくる。
オレは森の出口に向かって次々と枝を渡る。
「カラスさん、速いよ」
弟は足元の木の根や泥を避けながらゆっくりと進む。なんだってあの人もわざわざ、空を飛ぶことも出来ない人間どもに似せたんだか。オレだけなら、こんな森はすぐに抜けられるんだがな。
行く先を見ると、弟の倍を遥かに超える巨大な泥人形が、森に作られた小さな畑でいつも通り農作業をしている。図体こそ立派だが、決められたことしかできない無害にして無能な奴だ。
「カラスさん、あれは何?」
弟も気付いたらしい。立ち止まり、恐怖のせいか強張った顔でオレを見上げる。仕方のない奴だな。
弟の肩に飛び移り、声を上げる。何もしない泥人形だ、気にせず進め。
弟は顔を強張らせたまま大きく頷くと、再び歩き出した。
泥人形はこちらに気付いているのかいないのか、腰を屈めて農作業を続けている。主人も居なくなったというのに、律儀なことだ。こいつの管理する畑が、この森では稀な、日差しの良い場所を占有しているのは腹が立つが、その律義さに免じて許してやろう。
オレたちが泥人形のすぐ後ろを通り抜けようとした時、泥人形が緩慢な動作で立ち上がった。オレたちに届く日の光はただでさえ少ないというのに、更に遮られる。弟はその無闇にでかい図体に驚いたのか、そのまま通り抜けてしまえばいいものを、立ち止まってしまった。
泥人形は振り返ることもなく、畑を気遣うようにゆっくりと歩くと、また腰を屈めて農作業に戻った。
それを見てもまだ、弟は動かないままだ。肩を軽くつついてやる。ようやく弟は歩き出した。
泥人形の見えない場所まで来ると、弟は安心したように大きく息をついた。オレは弟の肩から離れ、再び木の枝に飛ぶ。
「ありがとう。カラスさん」
笑顔の弟に声を上げる。偉大な兄に感謝を示すのは当然だが、その姿勢は褒めてやろうじゃないか。
再び森の出口に向かう。しばらくすると、川のせせらぎに混じって木と布の擦れる無粋な音が聞こえてきた。目を向けると、この森唯一の美点と言える澄んだ川と、こちらに背を向けて洗濯をする木偶の姿が見える。家の近くにいないと思ったら、ここにいたのか。
「お母さん?」
弟も木偶に気付いたらしく、表情も明るく駆け寄っていく。あの人の服装をしていることもあって、屈んだ後ろ姿だけでは判断できないのだろう。自分の服を着せるために同じような背格好にしたのだと笑うあの人を思い出した。あの人の感性は今もって分からない。
「お母さんなの?」
木偶のすぐ後ろに駆け寄った弟が声をかけるが、木偶は振り返ることなく洗濯を続けている。今や洗濯が必要なのは、こいつ自身の分だけだろう。泥人形よりも無意味な仕事に勤しんでいると言える。ご苦労なことだ。
ようやく洗濯を終えたらしい木偶が、かごを手に立ち上がった。
木偶が振り返り、弟もそれがお母さんでないことが分かったのだろう。落胆の表情を浮かべたが、泥人形相手とは違い恐怖はないらしい。あいつとの違いと言えば大きさくらいだろうに。
「あの、ぼくのお母さんを探しているんだけれど、知りませんか?」
泥人形よりは出来ることが多いとは言え、結局は決められたことしか出来ない木偶は、質問に答えるどころか弟に目を向けることもなく歩き出した。弟も追いかけることなく、木偶がオレたちの来た道を歩いていくのを見送っている。あの蒙昧な木偶は、いつも通りあの家の掃除でも始めるつもりなのだろう。いつまでもあの混沌を保ったままなのは器用なことだが。
脇目も振らずに歩き続ける木偶の姿がゆっくりと遠ざかっていく。泥人形の作った野菜でも回収していくのかもしれない。もはや本来の目的を失ってしまった家や畑の手入れを続けるあいつらを、憐れむべきだろうか。それとも。
「カラスさん?」
弟がオレを見上げている。オレとしたことが、つまらないことに気を取られてしまった。
オレは対岸の枝に飛ぶ。弟は川を渡る簡素な橋の上で立ち止まると、木漏れ日を反射しながら穏やかに流れる川を見下ろして顔を綻ばせた。
「きらきらして、すごくきれいだね。この森の外にも、きれいなものがたくさんあるんだよね」
こんな小さな森よりはあるだろうさ。同じくらい、醜いものもあるだろうがな。
よほど川が気になったのか、弟は橋の上にしゃがみ込むと、川の流れに手を浸した。
「ひんやりして気持ちいい」
弟は笑いながら、川をかき混ぜ始めた。何が楽しいんだか。いくら呑気な奴でも注意が必要だな。こうも道草を食われてはたまったものではない。
弟をつつくために近付いたオレに、弟は無礼にも水を掛けようとした。そんなものに当たるわけはないが。いい加減にしろ、と声を上げる。
「ごめんなさい」
言葉の割に、弟は笑顔のままだ。反省の色が見られない。まったく。
ようやく満足したのか、弟は立ち上がって歩き出した。そろそろ森の終わりも近い。陰鬱な森の雰囲気も多少は和らいだ。
少しは気分が良くなったのも束の間、いかなる時でも最も会いたくないヤツが宙を漂うように近付いてくるのが見えた。ヤツに会うことと比べれば、森の陰鬱さに耐える方が遥かにマシだ。
既にオレたちに気付いているのだろう。ヤツはまっすぐとこちらに向かって来る。
弟もヤツに目を向けて立ち止まる。オレは弟の肩に飛び移った。
「久しぶりだね、カラス君。その人間みたいなものとは、初めましてだね」
ヤツは芝居がかった気障で大げさな挨拶をした。いつも通り、軽薄な笑みを浮かべている。
「人間みたいといえば、お前も変わらないがな。人間にコウモリのような翼とネズミのようなシッポが付いただけだろう。そんな物で優越しているつもりか?」
そう声を上げると、ヤツは耳障りな笑い声を上げた。
「見た目で判断するなんて、君こそ随分人間らしいじゃないか。僕は人間ほど無知でも無力でもないさ」
「そうかい。そりゃよかったな。人間らしいオレたちは時間に追われているんだ。じゃあな」
弟の肩をつつくが、歩き出そうとしない。たとえ急いでいなくとも、こんなヤツには一秒たりとも付き合いたくないのだが。
「あの人に会いに行くんだろ? 人間なのが惜しいくらい見どころがあったんだけど、人間の中でも最も人間らしい奴らに連れていかれたみたいだね」
どこで知ったのか。相変わらず気味の悪いヤツだ。恐らく今現れたのも、弟が目を覚ましたことを知ったからだろう。
「あなたは誰? カラスさんのお友達? お母さんを知っているの?」
「こんなヤツとお友達であってなるものか。弟だとしても、言って良いことと悪いことがある」
ヤツはまた笑い声を上げる。コイツほど不快な笑い声を持つ者も少ないだろう。
「なんだい、君? 彼の言葉も分からないのかい? ますますただの人間みたいじゃないか」
「ぼくは人間じゃないの?」
「コイツに質問するだけムダだ。マトモな答えなど返ってくるものか」
ヤツを追い払うため弟の肩から飛び立とうとした瞬間、ヤツは軽薄な笑みを一変させ、冷たい表情でオレを睨みつけてきた。
「うるさいカラス君だね。僕はこの人間もどきに興味が湧いたんだ。今は彼と話しているんだから、邪魔をしないで貰えるかな」
体が動かない。声を上げようとしてもダメだ。何かされたらしい。ふざけた存在がふざけた能力を持っていることほど厄介なことはない。
ヤツは満足げな笑みを浮かべると、弟と向き合う。
「君が人間じゃないかって? そうさ。君は人間じゃないよ」
「じゃあ、ぼくはなんなの?」
「さあ? 人間そっくりに作られた人形みたいなものじゃないかな? 泥人形や木偶を見たろ? アイツらよりは良く出来ているけど、それでも人間よりはアイツらに近いね」
「人間とぼくとは何がちがうの?」
「君には、人間にとって一番大事なものがないんだよ」
「大事なもの? それは何?」
「心ってやつさ」
ヤツはさも楽し気に口を歪ませ、嘲るような声で弟に告げた。
「ぼく、心を知っているし、きっとそれを持っているよ。家から出てうれしくなったし、怖くなって足が動かなくなったり、お母さんじゃなくてがっかりもしたよ」
「へぇ。やっぱり君のお母さんはすごいね。だけど、それは心じゃないよ」
「そうなの? 心じゃないっていうなら、どうちがうのかな?」
「君、人間どもの作る辞書って物を知っているかい?」
「うん。言葉と、言葉の意味が書かれている本でしょう?」
「君はそれと同じだよ。こう聞かれたらこう答えなさい、こうなったらこうしなさいって、君のお母さんが作った通りに動いているだけさ」
「そうなのかな。それなら、どうすれば心が持てるの?」
ヤツはわざとらしく溜息をつくと、大げさに首を振った。一々芝居がかっていて鬱陶しい。
「僕も知りたいくらいだよ。君のお母さんに聞けば教えてくれるかもね」
「お母さんはどこにいるの?」
「きっとそこのカラス君が知っているよ。彼についていけばいいさ。急いだ方がいいだろうけどね」
「わかったよ。色々なことを教えてくれて、どうもありがとう」
「こちらこそ。楽しいお話だったよ」
弟が笑顔で頭を下げると、ヤツは嘲笑を浮かべて気障な礼を返した。こんなヤツに礼など言うんじゃない。
「そうだ。楽しませてくれたお礼に、君の名前を聞いておかないとね。僕に名前を覚えてもらえるなんて、光栄なことだよ?」
「ぼく、自分の名前を知らないんだ」
ヤツは心底楽しげに声を上げて笑った。不快極まりない。
「君に足りていない大事なものが、もう一つあったみたいだね。だったらなおさら、お母さんに会わなきゃ」
ようやくオレの体が動くようになった。弟の肩を蹴り、ヤツに飛び掛かる。
「君らのことは、見ているからね。精々僕を楽しませてくれよ?」
オレのクチバシが届く寸前、ヤツは笑い声を残して煙のように消えていった。せめてヤツのいた空気だけでも追い払おうと、翼を羽ばたかせる。
「ぼくには心も名前もないんだ。ぼくは自分を人間だと思っていたんだけれど、そうじゃないのかな」
弟はヤツの言葉を信じ込んでしまったらしい。そうやってうなだれる姿は人間にしか見えないんだがな。
ヤツの言うことは全部デタラメだ、と声を上げるが、弟は俯いたままだ。
「でも、お母さんに会えば、きっと、全部教えてくれるよね」
弟は顔を上げた。弟の言う通りだ。あの人に会えば全て解決して、オレも弟のお守から解放される。ヤツの言葉を信じ込んだ弟に不安は残るが、先に進むしかない。
オレはまた弟を導くために飛ぶ。
ようやく、この陰鬱な森の終わりが見えてきた。
弟にも森の外の明るい光が見えたのか、目を輝かせて走り出した。