2-1
人は誰しも、秘密がある。秘密を守るために、嘘をつく。
隠したい秘密が醜ければ醜いほど、それを隠す嘘は、美徳に似て崇高だ。
だったら、嘘だとして、誰が構うものか。
たとえ嘘でも、偽りでも、その秘密をひた隠す限り、その者もまた美徳に似て、崇高なのだから。
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黒い森で“ゼノン操水術”の気配がした。ミキ・ソーマは護律官証を握る。銀製の護律官証を磨いている途中だ。研磨剤のねっとりした手触りが広がった。
とても微かな気配だ。
(……気のせいね)
表情が険しくなっている。深呼吸して、ミキはリラックスに努めた。頑張らないとリラックスできないのは変だとミキ自身も思ったが、職業病なのだからどうしようもない。
機織り機と飛び杼の織りなすリズムに乗せて、小気味の良い唄が漏れ伝わった。酒場のバックヤードで、ベア婆さんが布を織っている。酒場の外で高鳴る木槌は、風車か水車か、雪解けに向けて歯車の傷みを直しているものだろう。
黒い森より東、大断崖の麓に位置するフロア開拓村の住民は、揃いも揃って、働く時間でも遊びを見出す。国民総趣味人。ジキニア公国連邦のお国柄でもあった。
働き者たちの楽の調べに誘われて、ミキは、銀のペンダントを磨く最中にメロディを口ずさむ。
この国の人々は、生粋の雪ん子揃いだ。生まれて間もない赤子ですら、親は乳母車に乗せて雪の中を連れ歩き、挙句、そのまま外で寝かしつけられる。幼い頃から寒さに慣れさせることで、病気に強い子に育つと信じられているのだ。
また、人々は太陽を愛していた。たとえ真冬の真っ最中であっても、晴れてさえいれば、ギョッとするほどの薄着で外を駆け回る。楽しさ本位、だが日光浴は、同時に体調管理にも役立っている。
冬籠りの備蓄が侘しくなる頃には、銃を担いで狩猟に出ることもあった。が、そこまで困窮することは稀で、食事を切り詰め始めると、体力の消耗を抑えるため、どうしても引きこもりがちになってしまった。
ミキの暮らすこの国は、一年の内、八ヶ月から九ヶ月にも渡って、長い冬に閉ざされる極寒の地だ。積雪、然る後に孤立するなど、村単位はおろか、家一軒単位でもざらに起こった。
雪が降れば隠れてしまうような小さな村ではその傾向が顕著で、冬の終わりは皆、家や酒場に閉じ籠りがちになる。何もない村ではその上、誰もが娯楽に飢えている。
凍える浮世に趣味の一つでもなければ、気が狂ってもおかしくない。クマの冬眠じゃあるまいし、食っちゃ寝ばかりでは済まない。退屈で息が詰まってしまう。
そのため、春が来るまでの退屈しのぎは、単調な生活にささやかな潤いをくれる、一種の清涼剤であった。
ミキ・ソーマの場合、そうした退屈しのぎの一つが、銀細工の手入れである。
村の酒場の卓を借りて、鼻歌混じりに工具箱から研磨道具一式を一つずつ取り出し、ズラッと並べる。銀細工――護律官の身分を証明するペンダントを外し、汚れ具合を測った。
サラサラになるまで挽いた骨粉と、石鹼を配合した、お手製の研磨剤。それを薬匙ですくい、細かな装飾に注意を払いつつ、溝に潜む僅かな黒ずみを見つけ、ぽんぽんと化粧を施すように叩き塗る。
然る後、ブラシの代わりに、端を噛んでほぐした小枝の柔らかな繊維で、小刻みに磨く。
汚れが浮いたら、革紐を垂らして、水を張った木椀にペンダントヘッドを浸ける。すると、瞬く間に研磨剤が水に溶け、銀が光沢を増す。
引き上げ、ミキがペンダントヘッドの正面で指を軽くクルクルと回すと、付着していた水滴が離れて宙に浮いた。
水滴はミキの指を追って楽し気に渦を作り、あらかた集まると一滴にまとまって、木椀にぽちゃんと滴った。
残っているかどうかという僅かな水気を古布で念入りに拭い、卓上ランプに護律官証を近づけ、角度を変えながら、磨き残しを探す。そうすると、段々と細かい箇所の汚れに注意が向くので、ブラシを爪楊枝に変えて、同様に再び磨いていく。
繰り返し、繰り返し。
その間の無心に浸る心地良さは、得も言われない。
自然と、鼻歌を口ずさむ。曲目は“クラリネットをこわしちゃった”。
村の酒場のテーブルで、村人たちの話をうなじに受けつつ、ゆとりの時間が漂っていく。
「元々、カカアはさる高貴なお方のお屋敷で奉公しとってな。そりゃあ、仕事捌きから一目でそれ一筋とわかる働き者、仕事に操を誓っとるようなもんじゃった……」
老人の昔ばなしに、つい頬が緩む。相槌も進んで打つ。
装飾を手掛けた職人の工夫に深く観察できるのも、静かな楽しみだ。
磨けば磨くほど、ペンダントに下げた護律官証はピカピカに輝く鏡面に仕上がっていく。ランプの揺らめく灯火の色に染まりながら、ペンダントヘッドは、つぶさに覗くミキの微笑みを、ぐにゃぐにゃに曲げて映している。
それが何だかおかしくて、ミキは笑いを堪えた。
「というのも、そのお家へ御用聞きなさる商家の旦那に連れてってもらっての……忘れもせんわい。わしが鼻っ垂れの若造の頃じゃ……」
まだ、満足のいく仕上がりには達していない。黙々とペンダントを磨きつつ、ミキは老人の話を真面目に聞いている風を装う。話と違うところで笑うなど、あってはいけないのだ。
「いわゆる、一目惚れ、ちゅうやつじゃ」
だから決して、老人の話し相手になることは、ミキの趣味ではない。
間もなく立夏。そろそろ雪も解け始める。トウヒの新芽で一杯やりたい季節が、すぐ傍に来ていた。
陽気に誘われてクロウ爺の弁舌も温まったのか、いつにも増して惚気に脂が乗っている。葉付きのカブを逆さにして干したような、ちょこんとした老人だったが、惚気る舌は村の若者に負けず劣らず瑞々しい。
「カカアはザクロに目が無えでの」とは何の話か知らずとも、おおよそ自分の妻を春の女神と結びつけているのだと見当がつく。
「目ん玉飛び出る贅沢品じゃけども、頬張るカカアは、めんこいったらないんじゃわ」
クロウ爺が口を開くといつもそんな調子なので、フロア開拓村の誰もが耳にタコをこしらえていた。誰もが長話にうんざりするものだから、自然とミキに白羽の矢が立つようになったが、ミキもミキでクロウの話には微塵も興味がない。
だが、ミキはこの平穏なひとときが存外気に入っていた。
「聞いちょるかね、司祭」
と、クロウ爺が相槌をねだったら、
「んー、げに素晴らしきかな、若かりし二人が青春の日々よ」
と、適当にそれっぽく返事をすれば良い。
「そう、そ、そ」クロウ爺が、かぁー! あんたぁわかっとる! とばかりに膝を打つ。「ほいでね……」
クロウ爺はたとえ生返事でも相槌さえ打っていれば満足する性質だったので、ミキはその時間を使って、銀製の護律官証を磨いて過ごすことにしていた。
そうして過ごしている内に、子どもたちがホールをちょこまか走る頃合いになっていた。
足音が、ミキの近くに集まってくる。
「お師匠さん」
それに混ざって、大人の靴の音が二組、ミキに近寄った。
磨く手を止め、ミキは顔を上げた。白地に青の刺繍が生える、護律協会の制服が初々しい女性が二人。一人は活発そうな短髪で、じゃれつく子どもたちを宥めながら、ミキへ気安く手を振っている。もう一人は大人しそうな猫毛ながら、いかにも気難し気に目をすがめ、籠一杯の教本を提げて、生真面目に姿勢を正していた。
子どもたちが「ソーマ先生、こんにちは」と元気に声を揃えて挨拶した。
「はーい、こんにちは」ミキは一人ひとりの目を見回して、挨拶に応えた。「ちゃんと勉強進んだかな?」
「はーい」
「うんうん、元気でよろしい」制服の二人に向き直る。「ジョゼ、イリーナも、ご苦労様」
ミキに聞かせていた惚気話を遮られて、むっすりしたクロウ爺に、気安い雰囲気のままジョゼが、平手を顔の前に立てて頭を下げる。
「ご隠居、話ぶった切って悪い。すぐ済むから」
「教官殿、本日の“雲送リノ刻”ですが、いかがいたしましょう?」
生真面目そうな方のイリーナに、しかめっ面でミキは言い寄られた。
あれ、もうそんな時間? 銀の手入れの余韻にぼんやりしながら、ミキは窓の方を見た。窓は南向き、窓枠の形で床に落ちていた光が、真っ直ぐに床を照らしている。いくらなんでも、まだ夕方の儀式には早すぎるが、早めに声をかけてくれて助かったとも思った。
趣味に勤しんでいるのもその実、ミキにお呼びがかかるまでの暇潰しだ。ただ、仮にも地方護律官として護律協会の辞令を受けて赴任した身の上である。並行する業務の差配など、ミキの手を離れた仕事の進捗確認があるおかげで、暇があっても持て余すほどではない。
そのため、隙間の時間は活かし難い。一方で、ただ待っているだけだと、どうしても手持無沙汰になってしまうのだった。
にしても、近いわね、イリーナ。叱られているのかと気後れするほどのしかめっ面に、ミキは思わず身を引いた。鼻が頬にキスをしそうな距離だった。
「ま、また近くなってるわよ、イリーナ」とミキがたしなめると、イリーナは「あら」と平たい口調で呟き、再び背筋を正した。
「すみません。怒っている訳じゃないんです。目が……」
「知ってる。レンズを作れるようにならなきゃね」
こんな風に。と、ミキは木椀の水を指差すと、水は椀の形のまま浮かんだ。指をちょちょいと動かすと、水は号令に従うように形を変えて、波紋一つないレンズの形を作った。
子どもたちが歓声を上げる。
「イリーナ、聖印を握って」
ミキの企みを察したイリーナが、すかさず自分のペンダントを握り締める。護律官証、修律士証など、証明する身分によって呼び名は違うが、それらは俗に“聖印”と呼ばれていた。
間髪入れず「はいパス」とミキは水のレンズをイリーナの両眼目がけて飛ばす。イリーナが水のレンズを真っ向から睨み、聖印を強く握る。
ばしゃん! と、ミキの作った水のレンズは、イリーナの顔に命中してしまった。「あ」しまった、とミキは口の中で呟いた。
まさに水を打ったように、周囲の雰囲気が凍りつく。子どもたちがざわめいた。
「コシノヴァ先生……大丈夫?」
「ソーマ先生、いっけないんだー」
水を飛ばしたミキ当人をして、背筋がしんと冷えてしまった。ミキは慌てて、あわあわと手を動かし、椅子を倒さんばかりに立ち上がって、イリーナの前に護律官証を掲げた。
「やだ、ごめんなさい。今乾かすから」
まさか、もろに浴びせてしまうとは思わなかった。急いでミキは水を手招きで呼び寄せる。数滴がイリーナの顔を離れると、イリーナは平然とハンカチで顔を拭い始めた。
「いえ……顔を洗って出直します」
しかめっ面の色一つ変えず、水を滴らせるイリーナはどこか涼し気だった。一瞬の間を耐えたが、ミキと、ついでにジョゼも、つい笑いを零してしまった。
ぽかんと互いの顔を見合わせる子どもたちに「どっきり大成功」と、固い口調で、イリーナが気恥ずかしさを隠すようにフォローした。
「まだお勉強するには早いですけれどね、皆さん」教本の入った籠を置き、子どもの目線まで膝を曲げて、イリーナが先生の顔をした。「女の子は、護律協会で勉強すると、ソーマ護律官のように、お水を自由に操れるようになりますよ」
歓声が起こる。すごい、すごい、と子どもたちが沸いた。
「はいはーい、コシノヴァ先生。男の子は?」と、子どもの一人が質問する。
「……女の子より頑張れば、もっとすごい、こう、人類を救う使命と力を授かります」
間違ってはいないが、お茶を濁しすぎて、もはや茶渋の塊だ。
面倒になったのね、イリーナ。と、ミキは内心で同情する。今いる男の子たちは、世の中の仕組みを理解するのは難しい。むしろ、彼らが理解できるくらいに簡潔であれば良いと思ってしまうのは、大人の我が儘だろうか。
しかし、何やらわからないがスケールの大きな未来があると知った男の子たちは「すげー!」と勝手に盛り上がって、満足したようだった。
「ですから、推薦を受けられるよう」しっかり勉強を――イリーナの話は途中で無視された。水を操る魔法に魅せられ、目を輝かせた子どもたちに、ミキは囲まれた。
「ソーマ先生、ひょっとして雪も作れる?」
「雪ぃ? 雪なんて作らなくても、お外にたっくさんあるわよ?」
「なら、作れるんだ」
「ふふん。お湯だって出せるわよ」ボイラーの方が便利だけれど。
ちやほやされて、ミキは気を良くする。
にしても、子どもって良いわあ。こういうのに無邪気に憧れて、可愛いなあ。
「あ、なら今度雪下ろし手伝って」「おい天才かよ」「お肉を美味しく解凍できんの?」「まさかお野菜、生で保存できる……?」「また出た天才」「ピューって、畑の水やりできる?」「お洗濯も……一瞬?」「天才ばっかかよ」「サウナ」「おまえそれ最高じゃん」
あれ、何か、可愛くない。歳の割に現金すぎるんじゃない? 私、便利な道具だと思われてない?
口々に投げられる慎ましい欲望に、ミキは目を回しかけた。元気で可愛い子どもも、数が集まれば地吹雪のようだ。
「ねー、お願い。悪い吸血鬼をやっつける技、見せてよ」
騒ぎの中から飛び出た一言が、ミキの思考に一瞬の空白を生んだ。
微笑みが陰る寸前に、柔らかなまま固くなる。
「吸血鬼狩りって必殺技あんの」「知ってるよ。奥義って言うんでしょ」「それって、コシノヴァ先生が言ってた、人類を救う力ってやつなの?」
「やかましい! 話ができないだろ!」
辛抱の限界がきたらしく、ジョゼが物真似混じりの剣幕で「静かにできないクソガキは……怖~い吸血鬼に食わせっちまおうかー! ウガー!」と怒鳴り散らすと、子どもたちがきゃあきゃあと楽し気に追い払われていく。
「逃げろー!」「食べられるー!」「角ジョゼ牙ジョゼ狼女ー!」
「ンだらぁ誰だ! 今、狼女っつったのは!」
煽られた通りの形相で今にも襲いかかろうとするジョゼ。その襟を、イリーナが犬の首輪のように引いた。「ぐえ」イリーナは慣れた調子で「ステイ、ステイ、グッガール」とジョゼを労うように肩を叩く。
(ジョゼに助けられちゃったなあ、私、お師匠さんなのに)
ミキの胸中のこわばりが、じわりとほぐれていく。ジョゼにミキを助けるつもりはなかっただろうが、それでも、今のように仕事に気を配ってくれる弟子の姿に、ミキはしみじみ成長を感じた。
「話を戻しますが」
またイリーナの顔が迫る。しみじみしていられる場合ではなかった。ミキはやんわりと下がらせる。
「教官殿、“雲送リノ刻”はいかがいたしましょう。バニスター夫人のお腹が張っていらっしゃるようですから、これからご多用ですよね。儀式は、私とジョゼで執り行ってしまおうかと考えたのですが、お任せくださいますか」
「そうねえ」
と、まだ青さの残る弟子二人を見比べる。修律士の使命感でキリッと締まった表情が初々しくも、頼もしい。ならば、考えるまでもないことだった。
「それじゃ」ミキは指示を口にしかけた。
「ソーマ先生!」酒場の二階から、慌ただしく村の女性が降りてくる。
「バニスターさん、産気づく前に破水したよ!」
瞬時に、酒場のホールが一つの緊張感でまとまるのを、ミキは肌で感じた。
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