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ヴァンパイア・イン・マタニティ  作者: ごっこまん
1.白い霧、紅い鼓動、黒い森
7/36

1-3

 馭者が馬に鞭をくれる。橇を牽く二頭の走りは荒ぶった。馭者は激を飛ばし、変則的に馬を蛇行させることはあったが、一寸先も不確かな暗闇が占める場では、進行をほとんど馬に任せた。馭者はただ、その全速力を引き出そうと、乱暴に鞭を捌いた。


 橇はときどき、雪に隠れた石へ乗り上げ、勢い良くジャンプした。その度に、女の身体も半ば宙に浮く。女の身体が、ボフン、ボフンと、ベッドではしゃぐ子どものように弾む。


 女は振り落とされないよう、馭者の言いつけを守って必死に縁にしがみついた。


 背後から地鳴りを連れて、馬群の駆け足が迫る。二人を追う一団は、豹紋に汚れた灰色の装束を纏っていた。雪と木立と、青く凍える闇と一体になる風合い。馬に跨り、共に疾駆する追手は、まるで凍てつく風の化身のようだった。


 追手の一人が、馬上で弓を構えた。矢を番え、弦を引き、揺れる馬上から狙い、放す。


 疾風の一矢が射られた。


 女の頭上で、矢が鋭くフードをかすめる。


 橇の着地時に姿勢が崩れていなければ、確実に頭を射抜かれていた。


 何が起きたか、遅れて理解した女の目が泳ぐ。瞳孔が開き、恐怖に呑まれかけたとき、立て続けに一本、二本、追われる男女を狙う矢を、風を受けてはためくマントが、辛うじて弾く。


 死が私たちを追っている。


 死を実感した途端に、想像の中で追い馬が何倍も強靭に思えてきた。振り返るなど、恐ろしい。橇を牽く自分たちの馬の必死さが、想像の中の追い馬を更に恐ろしくさせた。蹴ったそばから大地を崩し、二人を奈落の底に落とそうとする、馬の怪物に乗って、刺客が女を射殺そうとしている――。


 死にたくない。


 そのとき、女の手首で、淡い光が浮かんだ。右手首に巻いた古いミサンガが、女の恐れに呼応するように、瑞々しい光を宿してく。白髪交じりの人髪を編んだミサンガは、燐光を放つにつれて少しずつ色を失い、女の助けの声を待つかの如く、その内に力を蓄えていく。


 死にたくない――!


 女の悲鳴が、喉まで出かかった。


「今こそ淑女(レディ)になる練習(レッスン)ですよぉ!」


 馭者が声を荒げると同時に、ミサンガから、光が失せる。ほんの一瞬、女は、橇から温もりが立ち上った気がした。


 馭者の声の残響が耳に残る。大気が揺らぐほどの大声だった。馭者の甲高い声が森を染め、樹冠に積もる雪が垂れる。雪は馬上の射手の内、一人の手元に落ち、弓を叩き落とした。


 聞き間違いかと、女は疑った。悲鳴は引っこみ、代わって、理不尽に直面した怒りが湧いてくる。刺客に追われ、殺意に晒され、たった一人の道連れは妄言を吐く。


 訴えたいことが山ほど生まれ、女は胸が悪くなった。


「こ、こんなときに!? こんなときまで!? ふざけないで! 殺されかけているのに、幸せなんか探してられない!」


 三本目、四本目、馬橇が上手く矢をかわす。かわした矢が、曲道の先にある樹の幹に刺さる。


「殺されかけた、だあ? じゃあ、まだ殺されてねえんだよ!」


 態度も口調もころころ変えて、馭者は、変わらぬ高音でがなり立てる。血肉に渇いた矢に追われ、追い越され、風切り羽が音をつんざく。だが、馭者の方がよほど耳障りだった。


「まだ生きてる! まだ生きてんだろ! 頭の鈍いアマだな! 生きてるって叫んどけ!」


 馭者の気迫に女は怯む。馭者の理屈は覆しようもなく、まさに屁理屈だった。鬼気迫る背中に、女は何も言い返せない。


 背後に命の危機、前方に暴論。受け入れがたい状況の板挟みに、女は気がおかしくなりそうだった。


 五本目の矢が橇の後方に積んだ頭陀袋を裂いた。裂け目は広がり、中からマツの実が流れ出て、橇の進路を描いていく。


 追い馬の息遣いが近い。鋼が鞘を滑る音がする。追手が剣を抜いたのだ。


 死の訪れに、女の心が再び囚われた。周囲の音が遠ざかり、自分の呼吸と心音が耳を塞ぐほど騒がしい。それなのに、馭者はまるで女の弱気を見透かして、


「死ぬまで生きる以上の幸いなんて結局、この世のどこにもねえだろうが! 根暗ブスがよお!」


 閉ざされた五感を、馭者の怒鳴り声がこじ開けた。浅い呼吸で萎えた女の肺に、凍えた空気が染みる。現実に引き戻された感覚だった。


 根暗ブス……? ブス!?


 ……何よ……何なのよ……何様なのよ! 口先ばっかり!


 カッと血が頭に上るに任せて、女はおもむろにフードを脱いだ。指先は血の気が引いている。恐怖で手元が震えて仕方がない。フードの裾を摘まむのにも手間取るほど、感覚が失せていた。息も荒く、女は苛立ちに任せ、聞き分けのない自分の手を交互に殴り、無理矢理従えた。


 生地が裏返ろうが、ボタンが千切れようが知ったことか。


 フードを豪快に脱ぐと共に、その下に隠れていた青白い髪が解け、咲き乱れる。


「だけど、こっちだって! こっちだってね!」


 追手が馬上から剣を振りかざし、女にその影を落とす。


「鈍いなりに必死なんだからぁ!」


 露わになった女の相貌は、瞳に癇癪を滲ませる。


 破れかぶれだった。振り向きざまに女の絶叫は裏返り、追い馬の顔へ目がけて、投げ網のようにフードを投げ広げた。マント付きのそれは、馬の鼻面から顔面を覆い尽くした。


 馬はパニックに陥った。突然目が隠れ、気密に優れた生地が呼吸も塞ぐ。丁度、フードの部分が鼻面にかかったせいで、振り落とそうと暴れても、中々取れなかった。


 恐慌で馬は棹立ちでいなないた。鞍から振り落とされた騎手が、地面に叩きつけられる。


 乗り手を失った馬は暴れ、後続を妨害し、数騎が失速した。落馬し、地面にうずくまる追手のすぐ傍を、失態への制裁とばかりに蹄鉄が踏みしだいて行く。


「お、思ったより大変なことになっちゃった……」


 だが、追手と、逃げる橇の間に、僅かな距離が開いた。


「お見事! 十淑女(レディ)ポインツ!」


 似合わない荒事に青褪めた女は、馭者のふざけた声援に応えず、ただ腑抜けた心の内で「今のは絶対に淑女じゃない……」とだけ、ぼんやりと反論した。


「ぼんやりしない! どギツいの一発かますぞ! 掴まれやオラァ!」


 女が刺客に対峙する間、馭者は進路上に一本の樹を見つけていた。


 本来、この森の針葉樹は、空に向かって垂直に生えている。だが、その樹は、根元から斜めに傾いていた。見るからに倒木寸前だ。


 この森は、枝葉に遮られていながら、地面まで雪化粧に見舞われている。今季は豪雪だったのだろう。枝や幹に積もった雪の重みに、耐えられなかったのだ。


 馭者の前に、打開の筋道が開かれた。


 着火しておきながら出番のなかったランプを吊り鉤から外し、倒木に投げる。幹に命中したランプは粉々に砕け、燃料をぶちまけた。幹を流れる燃料に、灯火が燃え広がっていく。


 馬橇は減速せず、あと一押しで倒れそうな樹へ、一直線に駆けていく。


「待って、まさか」


「口を閉じてろ!」


 馭者の手綱捌きで、引馬たちは見事に息の合った横ッ跳びで樹を避けた。橇本体は急カーブに追いつけず、全速力で雪道を横滑りする。二頭の馬力と積み荷の重量を乗せ、橇の横ッ腹が樹に衝突した。


 橇が激しく揺らぐ。横転しかけながら、片側の台木で橇が滑走する。


 橇と衝突し、置き去りになった樹の根元で、みしみしと繊維が断裂していく。辛うじて樹を立たせていた均衡が瞬く間に崩れ、幹が破断する。木質の弾ける音とは裏腹に、樹はくつろぐように倒れていく。


 倒れるにつれ、枝葉のざわめきが驟雨の如く、追っ手たちの頭上へ降り注ぐ。


 樹皮に浅く纏った火の、空中に残光の尾を引く様が、先頭を切る追っ手の目を奪った。くぐれない。瞬きの間、逃げる標的までの距離を目測する。


 遠い。もう追跡は無理だった。忌々し気に目を細めた。


「下がれ! 下がれえ!」


 一声を皮切りに、追手は一斉に手綱を引いた。しかし、一頭がもたついて減速し損ね、自ら倒木に突っこんでいってしまう。騎手の悲鳴と馬のいななきが悲痛に混ざり、枝葉の中で同時に途絶えた。


 煙の向こう側、片側の台木で滑走する橇を、馭者は体当たりで、女は半狂乱で、だがぴたりと息の合った体重移動でねじ伏せる。反動で蛇行する橇を、二頭の引馬が力強く安定させた。無茶な走りをさせた馭者に、二頭は揃って尻尾を大きく振り、不満を伝える。


 駈け足、馭者は背後を窺う。動く影はなく、煙の一筋も漂わない、青白い闇が広がっている。追っ手を撒いたと確かめて、速足に落とす。


 馬の呼吸に負けないくらい、橇の二人の息も上がっていた。


「ど、どうやら撒いたみてえ……ンン、みたいですね」


「死ぬかと思った!」


 今すぐにでも口汚く罵りたいという本心を、女は口調で強調し、馭者に泣き言を訴える。


「矢が当たった! 寒い! 危険運転! 放火犯! 玉無し! 竿無し! 考えなし!」


「うーわ口悪う……今に始まったことじゃないでしょうが」


 それに、違うでしょう? と、馭者は豹変の名残を弾ませながら口角を上げて、女の方へ振り返る。馭者は自分のフードを脱ぎ、女の方へ雑に投げた。


 白く立ち昇る熱気を、森の静けさに洗い落とす。冷たく澄んだ空気を肺に満たし、枝の隙間に見える空へ向かって、妙に甲高い鬨の声を上げる。


「よっしゃあ! 生きてっぞー! ザマァ見やがれー!」


 ほら、あなたも。死地を切り抜けたばかりとは思えないほど闊達な馭者に、女は呆気に取られた。「生きてっぞー!」再び鬨の声が上がる。


 人の気も知らないで……。わなわなと肩を震わせて、女は腕の中のローブを、くしゃくしゃに抱き絞った。馭者ときたら、変なことを口走って、断りもなく無茶に巻きこんで、それでも彼なしじゃ今の私はなくて、今に限らず何度も私を助けてくれたのは事実で、たった今放火に手を染めた大罪人で……。


 理不尽も山積みになれば、心は平気になったフリをする。


 女はやぶれかぶれで叫んだ。


「生きてるぞー!」


 頭の中を掻き乱す思念の嵐を腹の底に溜めて、女は遠くまで吠えて追い払う。涙目の理由を知らない馭者は、生き残った者の権利を謳歌して、やけくその勝鬨に合わせて叫んだ。


 追手の指笛と、二人の生の証明は、森を越えて、その向こうにそびえ立つ断崖にまで届いた。


  〇 〇 〇


 樹は道なりに倒れた。枝と、鋭く尖った葉が、傘のように広がって道を塞いだ。湿気た樹皮に火は燻って、煙がもうもうと立ちはだかる。道は深い雪に挟まれており、容易には迂回できそうもない。


 火花の弾ける音に紛れて、煙に遮られて姿も見えない橇は、引く音も残さず消えていた。


 屈辱か、マスクの上から頭を掻きむしる者もいた。


「小癪な!」


「国賊どもめ……」


 追手たちが忌々し気に吐き捨てる中、一際風格のある者は「だが、鬼ごっこはこれまでだ」の一声で、一同の溜飲を下げさせた。しくじりの口惜しさはある。()()に借りを作るのも忌々しい。しかし、逃亡者たちはまだ、彼らの描いた地図の上を走っているに過ぎなかった。


 指笛を、暗い樹冠に吹き鳴らす。


「馬を休める。動ける者は手分けして負傷者の救助、それと消火に当たるぞ。休息し、夜を待つ。信号灯の準備を忘れるな」


 追手たちの間に、変わらず北風が吹いていた。


 決して、人は、風から逃れられない。


「……どうした。ノミかシラミか?」


 頭を掻いていた者が、いつの間にか全身の痒みと格闘していた。手袋を脱ぎ、外套の合わせを外し、傍若無人に地肌をボリボリと掻いている。


 ノミやダニの時季には早かったが、確かに春は目前だった。この者にだけ、北風ではなく春一番が吹いているのだろう。


「ああ痒い痒い……。クソッ! この駄馬が、移しやがって!」


 馬に一発かましてやる素振りを見せるが、痒みでそれどころではなく、滑稽な脅しにしかならなかった。馬は落ち着いたもので、身体や鼻から濛々と蒸気を発している。


 近くの追手仲間がぼやいた。


「まあ、こんなところまで追跡のお達しが来ること自体、珍しい。どうせ装束を手入れしていなかったんだろう」


 痒みに悶絶する顔に反論が色めいたが、やはり痒くてそれどころではなく、男は気のすむまで肌を掻いた。


 爪が垢や皮膚を削り、人知れず、血のように真っ赤なダニをボロボロと弾き落とした。


 男から落ちたダニたちは、血をたっぷり吸った鈍重なダニとは思えない身のこなしで跳び、空中で飛沫化した。ある飛沫は針葉樹の樹皮へ浸透し、ある飛沫は男へとんぼ返りして、ダニに戻り、口吻で皮膚を貫いて血にありつき、ある不幸な飛沫などは、木漏れ日に焼かれて塵に還るか、みぞれに落ちて溶けてしまった。


 血飛沫の一滴一滴が、一瞬に生命を得ていたかのようだった。


 ふと、血に誘われるように、雪解けの滴がひとりでに浮いた。浮いた滴は、樹皮に逃げた血を追って、血を取りこみ、苦しむ血を容赦なく溶かす。やがて、血の濁りは透明に還り、同時に滴は役目を終えたかのように、樹皮を伝い落ちた。


 小さな攻防戦を、旅人も、追手たちも知らない。


 だが、フロア開拓村の護律官は、微かなその気配を感じていた。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。


いいね・ブクマ・評価、どれかポチッとしてもらえると嬉しいです。

ご感想・その他コメント、いつでもお待ちしています。「良かった」とかの一言でも、顔文字とかでも歓迎です。


次回をお楽しみにお待ちください。


SNSとか所属しているボドゲ製作サークルとか

X:@nantoka_gokker

  @gojinomi

booth:https://gojinomi.booth.pm/

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