1-2
今のところ、幸いにもオオカミなどには出くわしていない。宿場町の店主の話は確かのようだ。
それどころか、森は聞きしに勝る静けさだ。
銃に狙われないと学んだのか、小さな生き物たちは、図太く、しかし、森の陰でじっと息を潜めている。
枝垂れ雪の落ちる音が、木立に吸いこまれた。
その影の静けさを、馬たちの蹄が揺るがして行く。
青暗い森の小道――雪が何度も踏み固められた小道を、影が急ぐ。影は二頭立ての馬橇である。わざわざランプを遮光布で覆ってまで、森の落とす影に紛れ、雪煙を残して駆けて行く。
橇の乗り手は二人。毛皮のフードを目深に被った男女である。
男の方は手綱を握り、ウマに鞭をやる馭者。女の方は荷台に山ほど積んだクッションへ腰かけ、馬橇の行き先をぼんやりと眺めていた。
影がそのまま立ったかのような黒い樹が、鬱蒼とたたずみ、空気がしんと青霞む。樹々が貴重な日光を争って、濃い色の枝葉を伸ばし、地上にまで光が届かないのだ。
寒々しい風景に反して、森の中は、外より暖かかった。森が深まるにつれ、木立が寒風を遮ってくれる。それに、樹々は生きている。それ自体が生きている限り、温度を保つ。その温もりが薄っすらと森に漂うおかげで、暖かいのだ。
それでも森は、白く、青い、氷のような闇が降りている。単調な景色が、果てなく広がるかのようだった。
心細そうな女の、その吐息が白く、頬を撫でて尾を引いていく。
「この森が暗くて良かった」
女が囁いた。女自身に言い聞かせるような口調だった。幸せ探し。馭者から教えてもらった遊びだった。
「きっと影に紛れていられるし、それに樹が音を遮ってくれる」
そう、森の助けも借りている。私たちは上手く立ち回れている。追手を上手く撒いているはずだ。
心の中で、女は言い聞かせた。手袋越しに、右手首を所在なげに撫でる。
危うい旅をこなしてきた。隊商や遊牧民の道連れとなって、集団の威を借りてやっとの、厳しい旅路である。
しかし一方で、誰彼構わず、雪だるま式に旅の道連れを増やし、ぞろぞろと肥大化する寄り合い所帯の世話になるのも都合が悪い。みすみす追手が紛れこむ隙を晒す集団は、避けるべきだった。
そのため、二人はこれまで、身内で固めた小規模な一団をとっかえひっかえして、旅を続けてきた。
運良く一団と意気投合することもあった。だが、ふとしたきっかけで別のグループが合流する際、元のグループの者がその身元を保証できなければ、別れを惜しみつつも、それきり離脱する他なかった。
そして、次の縁を求めて方々を駆けずり回り、妥協を捨てて吟味を重ね、条件の合った集団に渡りをつけ、新たな縁にする。
そのような行き当たりばったりが長続きする道理もなく。この森に入る直前に立ち寄った宿場町で、二人はとうとう旅の道連れを失う憂き目に遭った。
それでも、二人と二頭。充分に賑やかだ。だが、寂しい森だった。
一際大きな雪煙を一つ、馬が蹴り上げた。
女は思案から覚めて、背後を窺った。馬橇の通った轍が、雪の小道をずっと追って来るかのように伸びている。
雪に引かれた痕跡は、まるで引き綱だった。犬の首輪と、飼い主の手を結んでいる。あるいは犬小屋の傍の杭と、だろうか。
女の背中に、冷たいものがじわりと広がった。
「目印が残るのは、どうにかならなかったのかな……」
女の不安を察したのか、馭者が首を上げ、左右に並ぶ樹冠に首を巡らせた。
綿帽子雪が綺麗に残っている。おかげで森は一層暗いが、雪の重さで枝が折れた箇所など、道の上空には、枝葉に隙間がある。その隙間から、眩い太陽の光が、微かな帳となって降りていた。光の帳は、地面に仄かな光の糸を落とし、導くかのように紡いでいる。
馭者が口を開いた。
「森の入り口、覚えてますか。足跡一つない衾雪だったでしょう」
その声は不自然に甲高く、しかし、自然体の語りであった。
「先回りされていたら、雪が踏み荒らされているから一目でわかります。待ち伏せの線も、我々の行き先を知らなきゃ難しい。ですが、それは無理。私どもだって知らないことを、追手が知る術なんてありません。となれば、追うしかなくなる。追うのは良いですが、私どもの手掛かりと言えば背格好くらいです。宿場町で服を交換したでしょう。追っ手のやつら、今頃赤の他人を捕まえて、ほぞを噛んでいますよ」
女は、馭者と自分の格好を見比べた。
直前の宿場町まで行動を共にした隊商。そこの商人や護衛と、二人は上着を交換していた。二人の上着は旅を重ねた分だけ汚れていたが、物は上等だった。その上、汚れの分の穴埋めに、売り物にならなくなった輸送品を定価で買うと申し出ると、商人は快く交換に応じてくれたのだった。
着替えて、二手に分かれた。傍目には、隊商から遣いが出され、本隊に旅人が付き添ったように見えることだろう。
(良い手ではあるんだろうけどさ)
交換した防寒着は、裾合わせをする暇もなく、他人の癖や臭いが染みて、何だか妙な着心地だ。
「とは言え、猟犬に臭跡を追わせているかもしれません。用心に越したことはありませんよ」
せっかく安心しかけたところに、馭者が水を差されてしまった女は、少し不機嫌になった。
「人の服を着ているのに、臭いは誤魔化せないの?」
「誤魔化す? そうですねえ……。体感、九割か、八割――」女はホッとした。「――バレますね」
「何それ⁉」女が蒼褪め、絶句する。
「当たり前ですよ。本人と、他人から借りた服と比べて、どっちの体臭が濃いかなんて」
「犬に追われたら一発じゃない!」
「まあまあ、だとしても、まだ追手の影も見えていません。宿場町の方は、吸血鬼は出ないと言っていましたが、私どもの旅には何の慰みにもなりませんでしょう。なのに、こうして、鬼の影を踏んでいない。その幸運に感謝しましょう。そんなことより、さ、幸せだけを探してご覧なさい」
女は、消え入りそうな声で、相槌を打った。
探しても探しても、見つかるのは幸せとは名ばかりの、ささやかな気休めだけ。それなのに、そんな取るに足らない幸せを、執拗に奪おうとする人たちに追われている。
失うとわかりきった幸福に、どれだけの意味があるのだろう。
馭者が沈黙を割った。
「それに、来るなら後ろからグサリ、です」
「ちょこちょこ、碌でもないこと言うよね」
「ズドンよりましじゃありません? まあ、剣よりも毒矢の方が合理的ですがね」
女が自嘲気に、鼻で笑った。
「どう殺されたって、嫌に決まってるでしょ。……私が何をしたって言うの」
奥まるにつれ、鬱蒼と暗くなりゆく森が、女の心にも忍び寄った。
逃げるしかないのは理解できる。女はずっと追われてきた。だが、女にはやましいところがない。これか、というきっかけこそ思い当たったが、あれのどこがやましいのか、理解に苦しんでいた。人目を忍んだ逃避行に追いやられても、仕方がないと割り切れるきっかけとは、とても思えなかった。
どういう目的で、誰に追われているか、さっぱり理解できない。
追いつかれる前に、理不尽が募って、死んでしまいそうだ。
「貴女は悪くない」馭者がきっぱりと言う。「橇、揺れてませんか? 大丈夫?」
慰みは社交辞令である。その実馭者は、女の辛気臭さを鬱陶しがっており、話題を逸らしたのだ。
森の道はなだらかで、時々石に乗り上げる感覚はあったが、クッションに囲まれて、女は快適に乗れていた。が、馭者に指摘されると、今まで気にも留めていなかった揺れが気になってくる。
下腹辺りを、両手で覆った。
馭者が、話の手綱を取り返す。
「いずれにせよ、追手は背後から来ます。来る方角がわかっていれば、対処は簡単です」
「わあ頼もしい。銃が打ち放題の森で余裕なんだ?」
「銃は目立つ上に、今時扱える人材なんて一握りの物好きか、話に聞いた猟師の方々くらいです。それに、辺りを見回してご覧なさい。道は蛇行していて、弓は相当な使い手でもない限り命中しません。それに、この雪の積もりよう。こんなに厚く積もった中を、馬は満足に走れません。我々を追うなら、道なりに走って来るしかないんです」
皮肉になびかない馭者が、ますます女の気に障る。
馭者がちらり、と荷台の女の様子を窺った。女は俯きがちに、所在なさげに手首をさすっている。女の右手首には古いミサンガが結われていた。白髪交じりの、黒い人髪を編んだ物。
女の家族が、唯一残してくれた物。女は、そう言っていた。
いや――馭者は自分自身への反論を、口内で止めた。
この積雪をものともせず、馬を駆って自分たちを追える集団は、いる。確か、銃を使う物好きも抱えていると、風の噂に聞いたことがある。
「……そろそろ、ミューズリーを撒き始めてください」
今更、考えるべきことではない。馭者は、言葉を継いで、杞憂を振り払う。
「理屈はわかったけど、本当に効き目、あるのかな」
「口じゃなく、手を動かしなさい。生き残るためなら、何でも片っ端から試す。安いものでしょう」
「そうよね。傷んだミューズリーが定価って、安い買い物よね。得しちゃったわ」
「いいから」
馭者の声に棘が見えて、不承不承、女は頷いた。
懐から小さな革袋を出す。口紐を緩めて、中身の押し麦や干し果物を混ぜたミューズリーを握る。商人から買い取ったそれを、せめて轍を隠すように、小分けにして撒いていく。
「幸運ついでに、もう一つ良い知らせです」と馭者はつけ加える。「雪解けでぬかるんだ道だと、跡が残る上に泥が跳ねちゃいます」
だから何なの。「……雪なんて嫌い」
「けれど?」
不貞腐れた女にピシャリと、その続きを促す意味合いを含んだ短い一言だった。
少しくらい弱気になっても良いじゃない。しかし、きっと馭者は有無を言わせない。女は唇をキュッと結び、「けれど」とぎこちなく引き受けて、やけくそ気味に口角を上げた。
「この暗い森でも、私たちの進むべき道を、白く浮かべてくれているんだわ」
女は再びミューズリーを撒いた。馭者は、静かな満足を噛み締め、手綱を握り直した。
「でも、ごめんなさい。雪は、やっぱり、好きになれないかも」
苦笑する女に「良い方法がありますよ」と、馭者は甲高く告げた。
「連想していくんです。雪は、暗い道を導く標。その標をたどれば、どこへ着くと思いますか?」
「そんなの……」
「お好きに思い描いてご覧なさい。空想の中で、人は真に自由ですから」
「それも素敵な淑女になるための練習?」
「さ、どうぞ」
四の五の言わせない、きっぱりした物言いだった。しばらく女はためらっていたが、やがて「笑わない?」「勿論」とテンポ良く問答を済ませると、一言ごとに噛み締めて、馭者の助言をなぞっていった。
「雪の標は白い標。白は雲の白。きっとここは、雲の上の楽園に続いている。空に一番近い場所なの。だから見て、空気がほんのり青いもの。それで、それでね、その楽園に辿り着くと――」
にわかに鳥の羽ばたきが空気を弾き、鳴き騒いで女の言葉を遮った。馬橇の後方、小動物が厚い雪を蹴る音が散る。頭上では鳥の警戒する声が、波紋のように広がっていく。
撒いたミューズリーに集まった鳥、ウサギなどの小動物。そして、それらを狙ったキツネかヤマネコが、何かから逃げたのだ。
旅人たちの後方で、二回目に撒いたミューズリーから、既に多くの生き物は逃げおおせていた。食い意地の張った鳥が嬉々として餌を独占しているところに、騎馬の集団が襲来する。
逃げ遅れた鳥が、無数の蹄鉄に蹴散らされ、みぞれと泥に混ざっていく。
追手の襲撃――戦慄が、二人を襲う。
「飛ばすぞ! しっかり掴まってな!」
馭者が嫌に甲高い声で、女に言いつける。女の心臓がキュッと縮まる。強張りながらも、女は「はい!」と意を決して身を低くし、橇の縁に掴まった。
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