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各人が、生を享けた最初の瞬間の罰を受けている。――E.M.シオラン
霧深く、森に侵された廃墟の中に、一基のピエタがたたずんでいる。
辛うじて残った壁と柱が苔むして、在りし日の聖堂の威容を意地でも伝えるその廃墟は、屋根が崩れ、しかし青空を拝むときは来ない。風景が白く飛ぶほど濃い霧の下では、本当の空模様が何であれ、曇り、あるいは霧雨と何の違いもなかった。
ただ、無暗に近い崖と、地面に薄く張った水鏡の端々だけが、この廃聖堂の風景として、なびく霧に浮かんでは沈んでいる。
ピエタとは、聖母子像である。死せる神の子を、その母が抱く構図の美術全般を指す。
石膏でできたそのピエタは、長らく霧雨と隙間風に曝されて、風化していた。聖母の腕の中に、神の子の姿はない。空しく開かれた両腕に虚ろを乗せて、聖母は俯いていた。
片方の目元から頬にかけて走る亀裂は、血の涙の流れ。
この像を残した者をして、意図せぬ偶然であった。
亀裂の奥は鈍色の暗がり。真鍮とガラスの内で、血は夢と影とで交わって、眠れる鼓動を打っている。
「フレッド」
その人間は、かつて血の器だった者をそう呼んだ。器から引き継いだ血の記憶は、そのとき「レッドだ」と訂正したことを、夢に見る。
その人間は、腑に落ちない様子で一つ唸った。
「すまない。しかし、再三の弁明でうんざりすることだろうが、君はアルフレッドだろう。なら、愛称はフレッドが相応しくないかね。レッドと呼ぶのは、我々の慣習からすると、こう……奇妙なのだよ」
「再三の抗弁でうんざりだろうけどよ、奇妙でも何でも、オレはレッドだぜ」
「然様であるな」
人間の手元を、窓から差す月光と、蝋燭の灯りが照らす。その手に握られた銀のメスが、冷たい金属光沢を揺らしている。
「本当に良いのかね。レッド」
血の器は「ああ」と、半ば投げやりに、施術に同意した。
人間はメスを引く。血の器の腕を滑らかに切り、血が細く、受け皿に注がれた。
器から流出した血は、ほんの僅かな銀の微粒子に毒されて、このときを境に、昏々とまどろんだ。
器から離れる以前の懐古に、血が離れた後の器が焦がれた、数多の瞋恚に。
たとえ離れても、器と魂は断ち切り難く、血もまた器の瞋恚に炙られてゆく。
目が覚めたら、嫌と言うほど血を浴びてやる。
血は、まどろみの中で千年の飴を舐め溶かすように、邪欲を育んでいく。
飴が溶けきる目前のその日、女がピエタ像の頭上を目がけて、真っ逆さまに落ちてきた。
石膏と共に、ガラス玉も割れた。
◯ ◯ ◯
猟銃が解禁された森だと言う。
二人は言葉を失った。冒涜的な特例だ。
火は生活に欠かせない。しかし、今や公然と取り扱える代物ではなくなりつつあった。暗黙の禁忌と言おうか、裸でいることより場面は選ばないが、思わぬところで目にする嫌らしさは、それとは比類のないものだった。
ましてや、銃に火薬など。弓矢で間に合うというのに。
その森は、昼と夜の別もなく、針葉樹の暗闇に閉ざされて、奥まるにつれて静まっていくそうだ。その更に奥、狩猟特区に至っては、動くものの気配が皆無なあまりに、木立の影に襲われる不安を、本気で抱くのだという。
猟銃がスガン、ダン、バンと硝煙を噴く内に、透明な柵でも建ってしまったかのように、大型の鳥獣は狩猟特区に寄りつかなくなってしまったのだ。
そして特例はそのままに、家畜の餌場と変わり果て、今やその役目も満足に果たせなくなってきた。
「おっかねえよな、火薬なんざ。気持ちはわかる」
とは、森の近くにある宿場町、口から生まれたような露店の主の談である。
店主は品を包みながら、客二人の顔色から心情を酌んだのだろう。不安を慰めようと、言葉を選ぶ風だった。
「余所者なら、なおさら厭わしいこったろう。おっちゃんも正直、ぶるって小便ちびってら。ここだけの話、今日はおむつ二着目だ。あ? 歳のせいってか? やかましいわ。ダハハ!」
人好きのする笑い方の店主だった。
「ただ、まあ、そう杓子定規で捉えなさんな。手短に言うと、土地柄さ。諸々の事情でそうせざるを得ないだけなんだよ」
その事情を尋ねると、店主は辺りを窺って二人を手招きし、「大昔のご領主様絡みでな。まあ、複雑で」と耳打ちした。
深刻ぶった表情を緩め、店主は商いの色に戻る。
「ま、土地は厄介でも、あそこの猟師連中に、やましいこたぁ何もない。むしろ村中どこ向いたって気の良い連中ばかりさ。特にあそこの護律官の嬢ちゃんは別嬪ったらねえで……」
客の片割れが、引き攣ったように咳払いする。
「ああ、でだ」店主が話を戻す。「だからおたくら、あの森を抜けるなら、ひとまず奥に入るまでは、気をつけておきな。ごろつき、はぐれの亜人、吸血鬼なんぞが出たって話は聞かねえけどよ、オオカミはばっちりうろついてっからな。まあ、連中、飢えてるだろうが、奥にさえ入っちまえば、鉄砲にビビッて追ってきやしねえ。逆におたくらが鉄砲にビビることもねえ。今の時季、獣なんてどれも痩せっぽちだ。毛並みも最悪さ。狩るなら何たって、肥えてからでなきゃあな。のこのこ狩場に入っちまったところで、間違ってもズドン、の心配は要らねえよ」
あっけらかんと「多分」の一言までオマケしてくれた。
客は駄賃を握らせようとしたが、店主は「ああ、いやいや、常識に値はつかんよ」と、カラッと笑って「ま、この依頼の釣り銭ってことで、納得してくれや」と、封蝋の新しい手紙を何通か、顔の横に広げた。
「飛脚は、こっちで見繕っとこう。おたくら、おっちゃんに任せて正解だよ。だって、ほれ」
店主が商品棚から身を乗り出し、庇から空を指した。空には人間大の怪鳥――翼人たちが飛び交い、各々鞄を下げて我先にと速さを競い合って、空路を塞ぐ邪魔者同士でピーチクパーチクと口汚く騒いでいる。
交通の要衝にある宿場町では、人も亜人も違いを忘れて、肩を並べていた。
「一口に飛脚っつっても、ピンキリだ。ご用命の通り、別々のとこに預けるよ。はい、お買い上げどうも」
包み終えた荷を受け取り、客は会釈を残して去る。店主は二人を見送った。
直後、ふと店主は真顔で呼び止めた。
「お客さん。おたくらまさか、二人だけで森を越えようって腹じゃ、ねえよな?」
「まさか。迂回しますよ。あてもあります。そんな道だとは思ってもみませんでした」
二人は曖昧な笑顔を返して、露店を後にした。
人は誰しも、秘密がある。秘密を守るために、嘘をつく。
例えばそれは、品物を売りたい店主の、「そこな美人さん」という客寄せ。例えばそれは、自意識を慰めたい老女が、その嘘に乗ること。
例えばそれは、未熟な作物や肉、魚を「初物」と飾ること。例えばそれは、粋な生き様にこだわる男が、気風の良さを誇示すること。
例えばそれは、下心ある下男が、勝手に商品をオマケすること。例えばそれは、ケチな町娘が、「オマケしてくれるのはあなただけ」と、誰にでも色目を遣うこと。
人は誰しも、嘘をつく。捨てられ、救われ、裏切られ、寄る辺は掌を返し、信頼を置いた善良さに牙を剥かれた。
二人にとってそれは、紛れもない事実で、全てを疑うには充分な理由だったのだ。
女は秘密に、命を狙われた。男は嘘を嗅ぎ分ける。不信が二人を頑なにし、嘘を嘘で塗り固めさせた。
嘘を貨幣に騙し騙され、それは百も承知とばかりの人々で活気づく宿場町。春目前の賑わいを後にして、二人は、人知れず黒い森へと向かった。
命を守るために、世の秘密となり果てた二人。彼女と彼が何者か知っているのは、秘密だけ。
二人ぼっちの逃避行だった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
吸血鬼が妊婦の身体に入って代理出産する話の始まり始まり。
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