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「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」――ルカによる福音書 1章28節
何が起きた。誰が、いや、何がこれをやった。
仲間の異常な死を目撃し、寡黙な護衛の内で、臆病風が吹き荒れた。
嫌な予感がする。予感に従い、剣を捻って逆さに構える。気配を探るのに徹し、壁際まで下がり、背をつけ、貧相な礼拝堂の隅々にまで注視した。
奥の教壇に、惨状が山積している。死体が二つ、内一人は、彼らの仲間で間違いない。彼らに決まった装束はない。だが、その死体は、ドレスコードに沿った格好をしている。
加えてもう一人分、護衛の目の前で輪切りになった人体と、床一面に広がりつつある鮮血。直前まで、護衛に軽口を叩いていた仲間が、首で振り向いた拍子に、糸で切った茹で卵のようになってしまった。
死んだ彼は、今回の任務では見習い役であったが、護衛にとっては良い先達だった。生意気で近寄りづらかったが、経験の浅い護衛に手本を示してくれた人だった。
そんな人の最期か、これが。
たとえ日の目を見ない仕事であっても、これじゃあ、あんまりじゃないか。
護衛の理解が追いつかない。だが、闘争本能が助けとなって、まるで手がかりのないこの窮地を解釈していった。糸で切られたという一方的な印象だけで、糸に巻かれても刃と急所の間に隙間ができるよう、護衛は剣の構えを変えていた。
それでも所詮は本能寄りの閃きである。護衛当人の理解力を超えた事態の前には、力不足であった。非常事態に頼れる人は、この場から一人、減ってしまった。
狭い礼拝堂が、妙に寒々しく、広く見えた。
悔やむのは後にしろ。護衛は自身に言い聞かせる。
(何でも良い。手がかりを拾え。目を逸らすな。全部見ろ)
仲間の輪切り肉と、おびただしい血。目を背けたくなる惨禍に抱かれるようにして、抹殺対象の女が、恐怖の表情に固まって、気絶している。
(何故、女は無事だったんだ。今のは女の仕業なのか。ならば何故、気絶した)
戦いの勘が、護衛に問いかける。女が生き残ると、誰にとって、どのような得がある。
言うまでもなく、女自身は生き残りたいと望んでいる。だが、だから何だ。女と今の攻撃は、無関係と見るべきだ。あのような芸当ができるなら、こんな辺鄙な場所まで逃亡するのではなく、初手から反抗するに決まっている。
ならば、追手たちをおびき寄せる餌として、女は何者かに生かされているのではないか。
だが、だとすれば、誰が、何のために。
追手たちに何を求めているのか。
結局、わからない。ただ、迂闊に近寄るのは危険だという、当初の見立てに立ち返る。
わかりきったことではある。だが、危険である理由を分析できただけでも前進である。今、この壁際から絶対に離れず、標的を仕留める。と、護衛は心に決めた。
近寄らずに、確実に仕留める手段なら、ある。
護衛は剣を片手持ちに変え、ポーチに空き手を忍ばせた。ポーチの構造や中身は各員の役目によって多少調整されていたが、状況によって柔軟に対応でき得る獲物は、共通で装備していた。
吹き矢筒を探り当てる。背後に手を回たまま、密かに、しかし急いで筒に吹き矢を詰める。今度は麻酔ではない。猛毒の針だ。
どんな仕掛けがあろうと、防ぐ間も与えない。
深呼吸に見せかけて、息を溜める。後は、針を装填した筒を、口に当てると同時に、一息に――
「効かねえよ」
軽薄な、男の声だった。
――吹いた矢が、薄衣の女の胸に刺さる。
護衛は筒を落とした。本能的に耳に手を当てた。たっぷりと嘲弄を込めた声が、耳元で確かに囁いていた。壁際にもかかわらず、確かに背後から。耳朶に、背筋を凍らせた、その感触が残っている。生温かい息のぬるさが、口唇や舌の動きで離接した粘膜の湿りが。
「誰だ! 姿を見せろ!」
護衛が威勢良く言い放つ。吹き矢が命中したのなら、標的はじきに死ぬ。今、警戒すべきものは、標的の女ではない。覗き見野郎だ。
平穏を汝らが光へ。不穏を我らが闇へ。護衛は標語を黙唱する。
標的はもとより、目撃者も、必ず闇に葬らねばならない。我々は呪い――存在しないのだ。委縮した肝っ玉を、彼ら追手の矜持をもって、護衛は奮い立たせた。
何としてでも、声の主の居場所をつきとめる。
上下左右。護衛は視線を巡らせたが、動くものは何一つとしてない。
その臆病なまでの警戒が滑稽だったのか、礼拝堂に似つかわしくない邪悪な嘲笑が、どこからともなく響き渡った。
「節穴かよ。最初からオレは逃げてもねえし、隠れてもねえ。こっちはさっきっからテメエの視線がグサグサ刺さって、たまんねえんだけど」
「仲間を殺ったのは貴様か!」
「この女どもを殺ろうってのか、テメエら?」
ふざけた態度が一変し、居丈高だが冷徹な声が返る。質問は許さないと言外に威圧され、護衛は身の程を思い知らされた。現に護衛は、声の主を始末する手立てはおろか、襲撃に対抗する手立てすらない。
護律官に追い出された仲間を思う。戻るまで時間を稼げば、活路が開くと信じた。
「き、貴様と何の関係がある!」
「あっれえ? ひょっとしてビビッちゃったあ?」
笑い方が、護衛の癇に障った。いつまでも姿を見せない相手に、図星を突かれるのは屈辱だ。
「答えろ!」
護衛が声を発すると同時に相手はピタリと口を閉じた。護衛の届かない声だけが、礼拝堂に反響する。静けさより一層空しい残響が、耳鳴りのように遠ざかった。
沈黙に、意思疎通の断裂が滲む。
易々と、護衛は不安を煽られた。口だけの相手の、手玉に取られている。
本当の屈辱の何たるか。それを護衛に充分なだけ噛み締めさせると見たのか、声はやっと口を開いた。
「別に、関係ねえな。言われてみりゃ、余計なお世話だったかもなあ。だって、テメエらがどれだけ殺そうが、オレの知ったこっちゃねえもん」
声は、改めてよくよく立場を考え直すように、独り言つ。
「けどよ、聞いておきたくなるのが人情だろ?」声が嘲りを深める。「テメエらは今、ここで死ぬんだからよ」
明らかに、死んだ仲間の口調を真似ている――一部始終を見られていた。
「なあ、教えてくれよ。どうしてこの女を殺そうとしたんだ?」
殺そうとした、ではなく、殺したのだ。だが、今の護衛にとっては、確実に殺した標的よりも、挑発を繰り返す目撃者の処分こそが最重要であった。
「教えて欲しけりゃ、出てこい! それともビビッて出てこれないか! 口だけ野郎!」
声の主が、感心げに唸り、心底愉快そうに嗤う。
「口だけ野郎ときたか! そりゃいい! 傑作だ!」
「笑うな! 正々堂々、姿を見せろ!」
威勢だけの護衛の剣は、切っ先が迷っていた。自身が何と口走ったかもわからない。正々堂々とは、彼らにこそ最も不相応な言葉である。平穏を汝らが光へ。不穏を我らが闇へ。闇から闇に葬る彼らに、それを言える義理はないはずだった。
見透かすまでもない護衛の醜態に、声がけたたましく笑った。
「余裕でお断りだっての。だってよ、俺も、テメエらも、もう悪いことしちまったもんなあ」
嘲笑が、礼拝堂に氾濫した。
一人と思いきや、二人、三人……。床を、壁を、天井を、縦横無尽に口が駆けずり回るかのように、数の不確かな声が、護衛を幻惑する。
「何だ? 緊張してんのか? こういうのは初めてか?」
剣が迷う。標的が、定められない。どこから来るか、わからない。
声を追う内に、護衛は惑い、狩られる側に降っていた。
「力抜けよ童貞。口だけ野郎が、優しくしゃぶってやるよ。それから――」
上から来る。確信に乗せられ、護衛は刃を天井に定めた。ズン、と剣身に重い手応えが落ちた。
血糊の塊が、天井から降ってきたのだ。
「――蕩ける接吻をくれてやる」
血糊が裂け、浮かんだ口だけが、悦楽で歪む。
扉が乱暴に開け放たれた。反射的に護衛は剣の切っ先を向けた。
「俺だ。どうした」
レンプの鼻先を、切っ先がかすめる。レンプは冷静に剣筋の死角へ潜り、護衛の手首を掴む。
状況を聞く暇もなく、レンプの目が、護衛の背後に釘づけになった。言葉を失う。護衛は気づいていない。
「仲間が――」
護衛の声は、血反吐の絶句となった。
護衛の胸から、真っ赤に染まった細腕が、生えていた。胸腔を貫いた威力で、手刀を成した指はあらぬ方向にねじくれ、手首は開放骨折し、骨の槍と化している。
レンプが血飛沫を被る。護衛の手から、血を吸った剣がまろび落ちた。
護衛の背後から、標的の女が、そのか細い腕で、胸当てごと護衛を刺し貫いていた。
「ア゙ッ――カッ……」
喉の詰まる断末魔だった。
「どうした口だけ野郎? 痛えのは最初だけだ。すぐに好くしてやる」
女の声が耳をくすぐる。命の残り火が護衛を動かす。震える両手で、胸から生えた細腕を掴んだ。女は宣言通り、壊れていながら優しい指遣いで、護衛の手と戯れ、絡み合った。
「まだ逝くなよ」
熱っぽい囁き。死にゆく者の綺麗な手と、生を冒涜する者の瀕死の手との、逢瀬。
だが、逢瀬は長くは続かず、護衛が最期に大きく仰け反り、痙攣した後、その手は虚しく血糊を拭っただけで、だらりと滑り落ちてしまった。
「あーあ逝っちまったなあ。童貞卒業おめ……」ふと、女が考え直す。「あちゃあ、これじゃあ奪ったの、処女の方だよな。悪り」
女は息絶えた護衛を抱き寄せ、空いている手でその顎を掴み、口を開閉させて弄ぶ。
「アァ~ン。コンナノ初メテ~。アンアンア~ン」
「なぁんだ。悦んでんならそう言えよ。ギャハ」
清廉に生きた婦女の魂を抜き、唾棄すべき悪意を移し替えたかのような声調であった。女が貫通させた腕を乱暴にピストンさせ、死体で腹話術遊びをする内に、貫いた腕は時を逆行するように、傷を修復してゆく。
教壇に積まれた死肉の山、床に落ちた剣、護衛の足元に広がりゆく血溜まりから、血が女に波寄せて、その素足から吸収されていく。
その悪い夢のような一部始終を、レンプは唖然として傍観していた。冗談めかした所業に、思考も、情動も、負荷の限界を振り切っていた。
腕のピストンにポンプされた血飛沫が、レンプの頬にかかった。
血で顔を洗い、僅かに遅れて、理解が追いつく。護衛役は死んだ。見習い役の姿もない。残りはレンプと、外で待機させた翼人のみ。
レンプから、やっと血の気が引いた。
逃げ腰で、レンプは後ずさった。
反射的ではあった。だが、引き際を見誤った感覚からは、逃れようがない。それでも逃げる以外にない。
レンプの靴裏の泥が落ちた音と共に、壊れたように、標的の女の悪意が嘲笑う。性行為に見立てた悪ふざけが熱を帯びる。
頂点に達したように、女が、死体を抜き捨てる。
死体が床を跳ねて転がり、壁にぶつかる。華奢な女のどこにそんな力があるのか。レンプに考える余裕も与えず、エクスタシーの余波へ身を任せた女が襲いかかる。狂ったような哄笑。次の獲物に気が逸り、動きがついてこれていないような、無茶苦茶な足捌きと腕捌きであった。
咄嗟に身を引いて、外に逃れるレンプ。勢い余って女は落石のように転がり、燭台やポールハンガーなどを薙ぎ倒しながら、壁に衝突する。
呻き声のほん束の間だけ、狂い笑いが途絶えた。
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