8-2
ピエタ像の裏で、変わり果てた死体が、静波に洗われていた。谷合に挟まれた空を、恐れるかのような死に顔で仰いでいた。
ミキ・ソーマに悪寒が走る。
浅い水面を蹴り、ミキは死体へ駆け寄った。護律官証の留め金を外し、革紐を指に挟み、握る。斬首死体とはいえ、油断は禁物だった。
アルデンスではない。印象が違う。
かがんで、肌に護律官証を当てる。銀と反応しない。やはり死体だ。
死体の状態を大まかに検めた。胴体側の首筋に、穴が一つある。切断面を合わせると、咬傷、特に、異常発達した犬歯の痕が目立った。動脈に鋭く穿たれた穴からは一滴の血も流れておらず、乾いていた。身体は水を吸ってはいるが、肌の一部はミイラ化していた。間違っても白骨化ではない。自然に朽ちたにしては、遺体に張りがある。
水没の影響で変化しているが、嫌と言うほど目にしてきた死に様だった。
(吸血鬼の犠牲者、それも新しい……!)
繁殖を目的とせず、ただの餌食として血を吸い尽くされた残りカス。斬首は、万が一にでも被害者を吸血鬼にしないための作法だ。吸血衝動に支配された新参者に思いつける芸当ではない。
それに、血に飢えた若い個体であれば、吸血鬼の力を制御できない。摂食と同時に繁殖も行うはずだ。それに、首の断面は、惚れ惚れするほどの切れ味で斬られている。
繁殖欲を抑制するだけの、力のある個体が、ここにいた。
吸血鬼がその本能に逆らえるとすれば、それだけ血に満たされた者か、血に満たされた経験の豊富な者だけだ。
「アルデンス!」
呼び声は、廃墟に虚しく響いた。声が遠くに届くよう、出し抜けに立ち上がる。腹の底から、ミキはどこにいるかもわからないアルデンスへ、何度も呼びかけた。
「どこですか! 返事をしてください!」
風の静けさに、ミキの声が木魂する。
したくもない覚悟に、酸苦を噛み締めた。
やはり、手遅れかもしれない。事態は想像以上に緊迫している。
ペンダントを手に巻き、護律官証を前方に構える。ミキの思念に従い、遠浅の水場が引いて、強制的に道を作る。
焦燥が胸を苛む。廃聖堂を出て、アルデンスを呼びながら、崖沿いに廃墟を急ぐ。
ミキの心中に、目を背けたい可能性が、春の如く芽吹いた。吸血鬼を警戒し、息を潜めているなら最高だ。だが、もしも、廃聖堂の人を餌食にした吸血鬼の眷属にさせられているのなら。もしも今、ミキの血を狙い、隙を見せるのを待っているのなら。ミキ自身の手で駆除する他ない。
そうなると、気分が悪い。
エレクトラも、アルデンスも、どちらの旅人も、ミキにとっては噂に聞く善人でしかない。彼らの活躍のおかげで助かったのは確かだが、そう実感するほど思い入れのある人たちではなかった。そもそも、まともに顔を合わせてすらいないのだ。
だが、それでも、善良な人間を、不可抗力であってもこの手にかけるのは、気が引けて当たり前だ。助かって欲しいと思うのも、護律官である以前に、人間として当然の感情である。
いや、怪物になったアルデンスを倒して解決するならまだ良い。吸血鬼化直後なら、身内の情でエレクトラを見逃してくれたのだと予想できる。もっと悪いのは――。
焦りに背中を押されたときだった。
「……何?」
うららかな陽気が、後ろ髪を梳いた気がした。空気に差を感じた方角を向くと、廃墟の陰から淡い光が漏れて、崖肌を薄っすらと照らしていた。
足場を良くするために、水を割った波紋が、陰の向こうにまで伝わっている。
(慎重に行くも何もないわね)
ミキは護律官証を握り、自身の頭より二回りほど大きな水球を浮かべた。水球で渦を巻き、円錐状にする。危険なら、凍らせてこれを射出する。
一息に廃墟から距離を取り、大回りで、陰に隠れた部分が見える位置へ移動する。淡い光源の照射範囲に躍り出て、護律官証を構える。渦の回転を速め、射出態勢に入る。
それが、目に入った。
射出直前、構えていた渦を、解いた。“ゼノン”の力が去った渦は、遠心力に従って、八方に飛び散り、周囲に飛沫を打った。
「酷い……」
血の気が引いた。
人が――人と呼んで良いのだろうか。確かに、辛うじて人の形だった。旅装はグランティの話と一致する。
肉塊が、壁にもたれかかっていた。
崖肌の角岩に何度も急所を打ちながら滑落した、成れの果てに見えた。弾け、零れ、折れ曲がり、見るも無残なこの死に様を、人の辿りえる結末と認めることを、心が拒んだ。
霊に誘われるかのような足取りで、しかし意識をしっかり保つように、ミキは死体へ近寄った。凄惨な現場には慣れっこだったミキをして、酒が戻りそうな損壊だった。
密かに嗚咽する口に、手を当てる。足は止めない。
仮にも、この地を預かる地方護律官である以上、生理的嫌悪を理由に捨て置く訳にはいかなかった。
光と温もりが引いていく。その残滓を追うと、その肉塊は、白髪と金具を編んだ装飾品を、折れ曲がった手指に握っていた。
(これ、どこかで……)
死者の手から遺品を回収する。遺体の状態を確かめた。
銀に反応しない。服装は、アルデンスの物だと思われる。人相からは、判別不可能。
特に酷い頭部の損傷を調べる。しっとりと乾き、塩漬けのように締まった肉質は、やはり吸血された遺体の特徴に見える。もう一方の遺体と違って咬傷が見当たらない。噛んで出血を促す必要がなかったのだ。
(さっきの遺体と、状態が違いすぎる。まるで、別人の手で……)
二体以上の吸血鬼がいる疑惑に、ミキは眉間にしわを寄せた。
難しく考えすぎている。だが、あり得ないと断定するのは危険だ。
念のため、吸血鬼のしわざだと仮定しよう。だが、それにしては、この死体は様子が変だ。吸血鬼が血を吸い尽くす際には、通常、身体の傷は最小限に抑える。傷が多ければ多いほど、また深ければ深いほど、無駄に血が流失するためだ。
それゆえに、斬首のみが、食事の作法として吸血鬼に浸透している。
血に飢えた怪物とはいえ、彼らは気高い。これではまるで無作法だ。
あるいは、無作法を好む、特殊な性的趣向を持った個体かもしれない。吸血後、血が昂り、勢い余って死体を弄んだ可能性がある。
だが、出血痕から見ても、吸血後に負わせた外傷でもなさそうだ。衣服のあちこちに、凝固した血痕がある。ミキは加虐性趣向を理解できないが、無知なりにも、外傷自体からは、趣向を趣向たらしめる美意識を見いだせなかった。打撲、裂傷、各種骨折……むしろ、無作為に負った傷だとすれば腑に落ちる。それこそ、狂乱した野獣に遭ったか、崖を転げ落ちたような。
獣なら、血だけを平らげたりしない。
やはり、冷静に考えて、崖から滑落した後、吸血されたと見るべきだろう。
(――二人とも、崖から落ちた)
エレクトラも、この遺体のようにボロボロだった。が、それは衣服だけで、身体は比較にならないほど綺麗なものだった。同じ過程をなぞって、ここまで結果に差が出るのは、一体どういう理屈だ。
(アルデンスが庇った? いえ、それだけじゃ、アルデンスとエレクトラの位置関係に説明がつかない。崖を滑落する途中で離ればなれになったのなら、エレクトラの怪我が軽すぎるわ。大体、さっきの遺体は、どこの誰なの)
混迷する謎に苛立ちながら、ミキは自然と数少ない手がかりを思い起こしていた。救助したエレクトラは、どんな様子だっただろう。中々体温が戻らない反面、正常な呼吸……気絶していたのに、何故か傷を洗った途端に嫌がっていた……。
数少ない事実から、考えないようにしていた危惧に、現実味が帯びてくる。
おもむろに、ミキは推定アルデンスの遺体を抱き上げた。廃聖堂に急いで立ち寄り、身元不明の遺体も回収する。二人の遺体を楯に乗せ、護律会館まで移送する。
エレクトラは、吸血鬼かもしれない。
自分で疑っていながら、にわかには信じ難い。禁域を満たす水に倒れたエレクトラの姿が蘇る。本当に吸血鬼であれば、水に浸かるのは自殺行為だ。だが、そのおかげで、ミキが気を許したのもまた、事実であった。
わずかでも湧いた疑念は、納得するまで持ち続けなければならない。昔に叩きこまれ、埃を被っていた護律官の心得を、記憶から呼び覚ます。
とにかく、すぐにイリーナのところに戻らなければ。
楯に乗せた遺体は、波に煽られて、度々落水した。
ミキは気が急いた。放置は許されない。この禁域は、同時に村の主要な水源でもある。そんな場所に遺体を捨て置けば、腐敗が進み、病原になる。そうなったら、被害を考えるのも恐ろしい。
遺体もこの二人だけとは限らない。ジョゼやイリーナに助けてもらって、全域を捜索しなければ。
事態は一刻を争う。問題も山積み。ミキ一人ならすぐにでも護律会堂に戻れる。だが、遺体を置いていく訳にもいかないのが、もどかしかった。
律儀に、遺体を楯に乗せる。慎重さとスピード感のバランスは、手探りで覚えしかなかった。
楯から遺体が滑り落ちて、ミキは舌打ちした。
〇 〇 〇
放牧は、トナカイの食欲任せである。放牧に出たラライを捕まえるのは、難しかった。
グランティは、昨晩の協力のささやかな礼として、狗人たち一族にキャベツの酢漬けやジャガイモを手土産にした。
なのに、幕舎でラライの家族から早速お礼返しを受けて、今の今まで断りきれず、ずるずると居座っている。歓迎の圧がすごかった。
「あの、そろそろ、ラライを探しに」
「仲間向かわせた。村の人、ごゆるりと」
ラライの母ママシュの、のんびりした口調に「しかし」と渋るグランティ。
「娘、すぐに帰る。待たれよ。毛皮ない、厳しい、寒い。行く、止めない」ママシュが胸に手を当てる。「名折れ。ごゆるりと」
押し売り紛いに、トナカイの塩茹でがドンと供される。持って来たイモも一緒に茹でられていた。
グランティは増々断り辛くなる。本来、狗人は、肉を冷凍できる冬に、わざわざ貴重な燃料を消費してまで調理などしない。温かい料理は異民族への最上級の歓待であり、無下に断れば、対立の火種になりかねなかった。
「狗人、人、違う。助け合うこと、くれた。感謝。さあ、サー、召されよ」
ママシュの言葉を整理する。
種族が違うだけでも、対立の原因になるのは、歴史が証明している。特に、歴史が浅い少数民族である狗人を始めとした亜人種は、異種族間対立の際に息が続かず、結局折れて不利益を被りがちだった。
そのため、善良な亜人種は、民族の有益性を、人類に対して積極的に示そうとする。
人間に貸しを作るのは、切実な生存戦略であった。
そうした営みを仲介するのは一般的に護律協会の仕事なのだが、騎士という身分でその機会を提供したグランティは、まさにラライの一族を越えて、狗人全体の恩人なのである。
また、騎士として、フロア開拓村の人間たちに目を光らせている様子など、トナカイの放牧に出ている仲間の姿と重なるおかげで、親近感を覚えたことも、ママシュたちの態度を軟化させた要因だろう。
その上、グランティに恩着せがましいところは一切なく、それどころか、協力してくれた礼として、遊牧民には貴重な農作物まで持ってきてくれた。
ダメ押しにもう一つ、出産間近の奥方がいる。
もはや貴賓である。
何ならグランティは恰幅の良い御仁なので、良く食べることだろう。
持て成さなければ、種族の沽券にかかわってしまう。
そんな深い事情までは、さすがのグランティも知らなかった。まじまじと、料理の山と向き合う。湯気で肉が見えなくなるほど、熱々だ。幕舎の遮熱性が優れているとはいえ、熱の維持も難しい屋外で、よく作れたものである。
心尽くしの一皿だが、グランティの目には山盛りの威圧も同然だ。
おどれ、わしの飯が食えんっちゅうんか。
狗人の目の数だけ、幻聴が聞こえる気がした。
「……い、ただきます」
熱々のを頬張ると、過熟したトナカイ肉の発酵臭が口一杯に広がる。かと思いきや、ジャガイモが程よく臭いと調和していた。食べ進めるにつれて、癖っぽさに病みつきになっていく。
太陽が雲間を渡る。少し寒いが、穏やかな午後だった。
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