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ヴァンパイア・イン・マタニティ  作者: ごっこまん
6.神の子無きピエタ
22/36

6-5

 落馬のショックが残っていた。女は痺れる身体を、やっとのことで肘で起こす。女の肩に激痛が走った。冷や汗が滲む。歯の根が合わない。頭がくらくらする。無理を押して、女は何とか爆心地の方に目を遣った。


 爆煙が晴れる。崖道は酷い有様だ。完全崩落。には遠い。爆発で崖道の風化していた部分が吹き飛ばされ、ガレ場に変わった。岩が崩れ、瓦礫が転がり落ちる中、道は谷側へ傾斜し、急いで行くには危険極まりない状態だ。


 女は、馭者から分断された。


「そんな……」


 血の気が引いた。落馬の衝撃で、まだ目が回る。どうしよう。どうしよう。どうしよう。空の手の平に残るのは、手綱がすり抜けた手応えばかり。何も、誰も、助けてくれない。


「ねえ……ねえ!」


 誰も女に応えない。谷風が遠い。耳が遠くなっている。


 危機感が、走馬燈のように記憶を呼んだ。もしも、直前に立ち寄っただけの村で、成り行きで妊婦を介助しなければ。もしも、馭者が出産中の妊婦に気を回さなければ。もしも、アイラが、どこかの夫婦と勘違いして、私たちを招き入れなければ……。


 もしも、もっと早く、村を発っていれば。


 後悔ばかりが浮かんで、助かる手立てが見つからない。視界が、涙でにじむ。ガレ場に涙が滴って、岩を濡らしていく。


「だから、余裕ないって、言ったのにぃ……!」


 悔しさが、泣き声を潰した。何が“子宝村”よ。アイラみたいな役立たずがいるのに、私の時間を奪っておいて、気取ってんじゃないわよ。嫌い。嫌い、嫌い……。


「本っ当に、ありがとう!」


 だが、ブラダを助けた感謝の声が、女の耳に蘇る。


 どうしても、アイラの屈託のない笑顔を、嫌いにはなれなかった。何も残っていないかに思えたこの手は、アイラの全身全霊の感謝と、屈託のない笑顔を、ちゃんと覚えている。あんな良い子を、別れてすぐに忘れられるはずがない。


 恨み言一つ、満足に口にできない。


「どうしたら良いのぉ……⁉ 教えてよぉ……!」


 パニックが鳥影に化身して、うずくまる女を襲った。


 廃都市上空を旋回し、戻ってきた翼人(ハーピィ)だ。


 翼人(ハーピィ)は倒れた女へ一直線に滑降し、仔牛なら易々と掴めそうな鋭い鉤爪で、その細い胴を鷲掴みにする。体格の割に軽いとはいえ、翼人(ハーピィ)の全体重を乗せた滑降を腹に受けた女は、喉が裏返りそうなほど嗚咽した。肋骨がみしみしと悲鳴を上げる。


 獲物を獲った翼人(ハーピィ)は、その勢いのまま身を翻し、崖道を蹴って飛ぶ。


 喉を裂かんばかりの女の悲鳴が、崖から遠ざかる。


 その様子を、満身創痍の馭者は、血の味を噛み締めて、ただ見ているだけしかできなかった。


 鼓膜は破裂し、目は霞み、剣を杖にし身体を預け、そうまでして膝立ちがやっとだ。悔しさに歯噛みする。


「エリー……!」


 甲高く、肺が萎縮したような声だった。


「あーあー、まあ、君はよくやったよ」追手の隊長格が、耳の孔をほじりながら馭者を労う。「我々の追跡をかわして、よくもこんな辺境くんだりまで逃げおおせたものだよね、本当。……幸い、君は標的じゃないし。これ以上はもう追わんよ。今までご苦労さん。……ああそれとも、どうだろう。君の才覚なら……あるいは、丁重に歓迎するけど?」


 追手の隊長格が握手を求めた。


 馭者の鼓膜は破れていて、相手の話は()()()としか聞こえなかった。ただ、のこのこと間合いに入った一瞬を捉え、乱暴に剣を振る。姿勢も構えも無茶苦茶な、癇癪坊主のような剣捌きだった。


「おおっとお」


 馭者のなまくらを、隊長格はおどけ混じりに、よろけるように避け、よろけた仕草を乗せて、その鼻面に蹴りを見舞った。


 馭者の鼻から血が噴き、弧を描いて卒倒する。地に伏せた馭者から、どっと呼吸が漏れた。


「傷つくなあ、そう邪険にされちゃあ。こっちが頭悩ませて、その命を拾わせてやったんだから。大事にしてちょうだいよ」


 うずくまる馭者に似て、雲の低く垂れこめる夜空に、フクロウがホッホウと喉を鳴らす。往生際の悪い女の肌に、鉤爪が食いこむ。


 女の右手首で、髪を編んだミサンガが、淡い光を帯びていた。


「あまり動かないでくれるかな! ここで始末したくなくてね! 拝露教徒(ゼノニアン)にうるさく言われたくないんだ!」


 翼人(ハーピィ)が握力を増すにつれ、女の悲鳴が濁っていく。高所の浮遊感と、爪の鋭い痛みが、女が常に忘れようとしていた憔悴と絶望を呼び覚ます。


「ああ、君、良いね! 活きの良いのは、やはり昂る! 食べてしまいたいよ!」


 恐怖に呼応し、ミサンガの光が、次第に瑞々しさを増していく。


「嫌だ、やだ! 食べるの嫌! やだ! しっ……死にっ……! 死にたく、ない! 死にたくないぃ!」


 みすぼらしく、女は足掻く。


 無理に探した幸せも、天国のような村も、楽園への道も、全部、全部嘘だ。女は滅びゆく悪鬼の如く顔を歪め、聞くに堪えない悲鳴で空気を切り裂かんばかりに、無駄だとわかっても、必死にもがいた。


 ミサンガの光が溢れ、翼人(ハーピィ)が異変に気づくほど、眩く放たれる。


「何だ?」


 その身をもって、翼人(ハーピィ)は思い知った。


 光が、空中を舞う雪を呼び寄せる。一つ一つは極小の雪の結晶が、やけにまとわりついてくると翼人(ハーピィ)が思うや否や、目、鼻腔、口を塞ぎ、翼に雪玉を作るほどに、一挙に押し寄せた。


 異変は崖際の者たちにも知れるところとなる。雪の夜空に、青白い光の一点が浮かぶ。雪の結晶にむせて、飛行はおろか呼吸もままならなくなる中、翼人(ハーピィ)は察した。


「“ゼノン操水術”!」


 翼が、気流を掴めなくなりつつあった。このままでは、女諸共、翼人(ハーピィ)も墜落を免れない。


 翼人(ハーピィ)は忌々し気に、女を宙に放した。


 突如として解放された女には、一瞬、何が起こったかわからなかった。


 落ちる――断末魔が直滑降する。女は本能的に空を掴もうと、無駄に足掻く。視界の端にちらつくミサンガは今も光り続けているが、黒毛と白髪の割合が逆転していた。


 女の落ちる直線上に、水の幕が何重にも形成される。女は幕に衝突するたびに、盛大な水飛沫を撒き散らし、細氷の煌めきの中で、その落下速度はわずかに減衰した。だが、ミサンガは力を消耗するにつれて、みるみる白髪を増やしていく。


「落とすな! 追え!」


 隊長格の無茶に、フクロウ翼人(ハーピィ)は内心、肩をすくめた。無理だね。タカでもワシでも。


 その瞬間にも女は落ちる――女の腕のミサンガが、総白髪となった瞬間、その髪は一息の間に年老いて、輪が断裂した。


 水の幕が揺らぐ。ミサンガの力が失せ、浮力も形も失った水は、その場で直ちに降雨と化す。女を受け止めていた障壁がなくなり、加速度的に女は墜落する。


 悲鳴。悲鳴だ。悲鳴ばかりだ。口に出すか心で叫ぶか、悲鳴ばかりを上げる、女の人生だった。


 星影もない闇夜に、切れたミサンガの残光を受け、標のように細雪がきらめいていた。


 細雪の声なき悲鳴が、耳を聾した馭者の目に、確かに届いた。


 聞きたくもない悲鳴ばかりが、馭者の半生だった。行き倒れを食らう人々を横目に、前へ進んだ荒れ野で聞いた。壁を向く悪夢の中で聞いた。裏切り者の声で聞いた。心身の末端を奪われて殺した。女たちのさめざめを聞いた。


 最後に聞いた彼女の悲鳴も、丁度、今のように頭に響いて仕方がなかったのだと、馭者は今になって気がついた。鼓膜が破れていても、腹が立つほど頭に響いたのだ。


 予想だにしていなかった光景を前に立ち尽くす追手たち。


 その脇で、身一つに無数の傷を抱き、決死の雄叫びが駆け抜けた。


 武器を捨て、馭者は残った全力を振り絞り、崖へ向かって全速力で走る。痛みを忘れ、無我夢中に、向こう見ずに。


 助走をつけ、崖の縁に足をかけ、落ちてくる女を目がけて、大股で蹴りきって、奈落の底へ跳ぶ。


 馭者の伸ばした腕より、女の方が僅かに落ちるのが、早かった。すれ違う腕を、がむしゃらに空気を掴むのに挑み続けた女の手が、偶然掴んだ。


 空中を転がるように、二人はもつれ合う。馭者が下、女が上。馭者は女の頭を庇い、女は馭者の胸の中で丸くなる。どちらもほとんど、咄嗟の動きであった。


 岩肌に触れた瞬間、コーン……と木のボウルを落としたような音が、谷間に響き渡った。馭者は頭蓋を砕きながらも女を離さず、二人は谷の荒岩に揉まれながら、霧で隠れた廃都市へ落ちていった。


 崖上から、追手たちが底を覗く。もはや標的の陰も形も、霧煙る先に消えていた。


「あちゃー。やってくれたねえ」


 崖際でしゃがみ、霧の底を眺めながら、隊長格がぼやく。頭巾の上から頭を掻いた。


「おらぁ、鳥頭ぁ、こっち来ぉい」


 一部始終を見ていて最も慌てた追手が、空の仲間へ苛立った。フクロウ翼人(ハーピィ)は羽ばたきも小刻みに、一仕事終えた気怠さへしな垂れるように崖道へ止まる。


「何かな。少々手違いはあったが、標的を始末できたんだ。君らにとっちゃ結構なことじゃないか」


「カメの甲羅割るのたぁ、訳が違ぇだろがぁ。こちとらぁ、ここで決めようってんでぇ、派手な手段に出たとこだろがぁ。護律協会が出張るに決まってんだろぉ。後処理面倒だろがぁ。どうすんだぁ。死体をよぉ、どうにかしねぇとよぉ、帰らんねぇぞぉ」


「はぁ……でも、あー、そっかあ。こうなった以上は仕方がないね」


 隊長格が立ち、小言をまくし立てる部下の肩を叩く。


「君、見てきて」


「あ、はぁ……へ、俺すかぁ!? 俺ぇ!? 鳥野郎の失敗でしょうよぉ!」


「失敗が許されない任務だからね。一度ヘマした子には任せたくないじゃない」


「だからって何で俺……」


 不平だと騒ぐのを、隊長格は抱擁して黙らせた。いや、駄々っ子の動きを封じるように拘束するのが、抱擁のように見えたのだ。


 すかさず隊長格は身体を密着させると同時に短剣を抜き、そいつの脇腹、腎臓のある辺りへ三回、ドスドスドスと一息に刺す。


 隊長格を除く全員が、固唾を呑んだ。


「寝言を言う暇あるなら、行きなよ。君の松明だけ、叩き落とされたろう」


 隊長格の、耳打ちにもなっていない、いつも通りの声に寒風が含んでいるようだった。刺された男の不平感が、その寒風に吹き消され、燃えカスとなって散り散りになった。


 よろよろと、二人が離れる。刺された側が、ぼんやりと脇腹の鈍痛に触れる。何もない。血はおろか、切り口も。唖然としたように見れば、隊長格は短剣を逆手で握っている。


 刃ではなく、柄頭の方を叩きこんだのだ。刃物があれば、大量出血で死は免れなかっただろう。


「サプラーイズ。ハッハハッハー。たまげたろ」


 隊長格は声音は変えず、仕草だけがひょうきんだった。


「……息抜きできたよね? さ、ここからまた仕事ってことでね、一つ」


 隊長格は短剣を納めるでもなく、無造作に順手に握り直し、ぶらぶらと遊ばせた。


「お国のために頼むよ、ねえ」


 部下の背筋が凍える。脇腹の打突の余韻が冷めやらず、生々しい。刃物なんかよりも、よっぽど切れ味があった。


 己の冷汗にも気づかず、命を受けた男は、腰の道具鞄から楔と鉄鎚、命綱を出し、崖下りに踏み出した。


 人は誰しも、秘密がある。秘密を守るために、嘘をつく。


 沈黙もまた、嘘の一つ。


 水面下で人知れず、秘密に気づかれない内に、始末する。これで、もう嘘はつかなくて良い。それが彼らの仕事であった。


  〇 〇 〇


 女と馭者は急斜面を転落する。


 岩肌と衝突した時点で、二人は意識を失っていた。


 馭者の腕が解けて、女が投げ出された。馭者の姿が、霧に消える。


 岩肌を転がる内に、女は頭から真っ逆さまになる。全身を打ち、もはや一片の力も残されていない女は、痛打にまみれ朦朧としながら、落ちるに身を任せるしかなかった。


 崖を抜け、地上の廃墟へ。


 霧深く、森に侵されたその廃墟の中に、一基のピエタがたたずんでいる。


 廃墟の屋根は、とっくの昔に抜けてしまっていた。女は頭から、聖母の石膏像の頭部に衝突した。くすんだ石膏の白に、弾ける形の血痕が付着する。骨が破裂し、肉が挽かれ、組織が飛び散る音を同時に立てる。女は激しく錐揉み、聖母像の空の腕の中へ墜落した。


 女は動いていた。しかし、それは生ある者の動きではなく、脊髄反射にすぎない。びくん、びくんと、肉体は苦痛から逃れるように、活き活きと痙攣する。何をも唱えない、無呼吸の喘ぎ。頬は引き攣り、白目を剥いたところへ、頭部の裂け目から流れた血が満ちていく。


 ただ古いだけの石膏像に、悲しみはおろか、心などあるべくもない。


 しかし、腕の中で冷たくなりゆく子に、聖母は、血の涙を流していた。


 女が衝突し、血痕がべったりついた箇所から石膏が崩れ、中からガラス玉が露出する。


 真鍮の蔦細工で補強されたその玉の中には、深紅の血が満ちている。


 ガラス玉の中でどれほどの歳月を経たのか、その血は眠れる鼓動を打ち、確かに生きている。


 衝撃でガラスにひびが入る。僅かなひびから血は流出し、あたかも聖母が、女の死を嘆くかのような、滂沱の血涙となって、頬を伝い、顎から流れ落ち、血飛沫を上げて、女の胸に注がれたのだ。


 胸にびたびたと注がれる血が、服に染みていく。


 にわかに、血の染みがさざめいた。血は芽吹くが如く、血の糸を方々に伸ばし、女の肢体をまさぐり、検めていく。擦過傷、出血、内出血、解放骨折、剥離した爪、吐血……血の臭い立つ場所に、血の糸は強く惹かれた。


 やがて血は、特に濃密な血の臭いを嗅ぎとった。


 割れた頭から止めどなく流失する血液。糸は女の頭に群がって、傷の中へ侵入する。流れかけていた血をも絡めとり、女の頭脳に己を満たしていった。


 内側から縫い閉じるように、血の糸が頭の割れ目を塞ぐ。傷の合わせ目に爛熟した血液が満ち、女の体内を巡り始め、やがて、向いた白目がぐるりと瞳を取り戻す。


 いつしか、女の痙攣は止み、聖母像に血の一滴も見られなくなっていた。


 夜明けまでは、まだ遠い。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。


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次回をお楽しみにお待ちください。


SNSとか所属しているボドゲ製作サークルとか

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