6-4
枯草を踏んでいた蹄鉄が、岩場に至って音を高くする。
一歩ごとの反動が、思ったほど強くない。天然の岩の道は表面が風化しており、馬が踏みしだいたところからガレ場に変わっていくようだった。
禁域の抜け道を、馭者と女がそれぞれ馬に揺られて行く。
崖の中の窪み。空気の流れは淀み、岩庇に足音が反響し、五感がここは異界だと、誤った認識を訴える。
崖下に、霧に沈む廃都市を望む。この道を進んでいると、確かに禁域を侵犯しているという自覚を、自らが異物であるということを、旅人二人は否応なしに思い知らされた。進むにつれて、理屈で語り尽すには途方もない感覚に囚われるのである。
冬場の、本当に緊急の時のみに、通行しても目を瞑られるという道。
目を瞑りながら通り過ぎるのを心待ちにするほどの雰囲気があった。
女の乗る馬の、蹄に当たった石ころが、崖際を飛び越えた。石ころは叫びもせず、身じろぎもせず、流線型に滑空するかの如く、ふわりと眼下一面の霧に消えていく。
谷風が地吹雪を伴って、崖肌を駆け上る。谷底で、悪魔が口を開けて餌食を待っているように、風が鳴いている。
「落ちたらひとたまりもないわね」
「悪いことを考えない」
弱音の一つすら許さない馭者。女はさすがにうんざりした。また例の幸せ探しを強要されているのだ。
ならばいっそ、嫌味なくらい言い連ねて、ノイローゼにしてやろうか。
崖道と、古城の尖塔が、肩を並べている。女は、その景色から、連想を始めた。
「お城のてっぺんと同じくらい高いのね、ここは。霧の海はまるで雲の上みたい。私たちは、楽園に近づいているわ。空と雲の間だもの。こんなところ、人間に来れるはずがない。だけど、私たちは来た――」
女が前、馭者が後ろを行く。麓の脇道に、何かが通った痕跡はなかった。追っ手が来るなら背後からだ。森のように動物を使って警戒はできない。馭者は警戒を絶やさず、女の幸せ探しを見守った。
「――こんなところまで来ちゃったのよ。もうダメかと思ったことは何度もあった。信じられる? 私たち、入っちゃいけないところまで来ちゃった。誰にも行けないところまで、楽園まで行くなんて、私たちなら、きっと――」
道が途切れていた。女は馬の脚を常歩に下げた。
道の様子を観察する。崖の道は、なだらかなカーブを描いていた。道が途中で切れたように見えたのは、曲がり道で視界から途切れただけだった。
曲がり道の先は、風鳴りも静かだ。
息を潜めて、じっと待つ何かの幻影を、女は想像してしまった。頭の中にあるだけの影に怯えて、女は馬を出せなかった。
「私が前に。少し様子を見てきます」
馬上で馭者は剣を抜き、上段に構えた。矢に狙われていないか目を光らせて、いつでも叩き落とせる態勢で、進路を検める。
曲がり角の先に出た。気流が乱れて、馭者の目が潰された。風をやりすごし、目を開く。
四人。
だから馭者には、谷風がその四人を連れて来たように見えたのだ。
延々と続く崖道を背負って、覆面が四人、それぞれ松明を煌々と掲げ、武器を抜いていた。
誘いこまれた――! 馭者の腹が熱くなり、思考が冷えていく。
人けのない秘密の抜け道……その点、人知れず二人を始末するには打ってつけだ。しかし、不可解だ。追手はこれまで、執拗に闇へ葬ることにこだわってきた。護律協会が特に目を光らせているこの禁域で、事を構えるだろうか。何よりこれまで、馭者と女の旅は風任せだった。待ち伏せなどできるはずが……。
まさか。
谷風が頬を撫で、馭者に天啓をもたらした。
馭者が下馬し、女に馬の手綱を預ける。
「下がってください」
心細げに手綱を任された女の手の甲を強く握る。勇気を分けるように微笑んで、声を潜めた。
「空に気をつけて」
腑に落ちない様子ながら、女が二頭の馬と共に下がる。曲がり角に消えたのを認めて、馭者は追手たちを見据えた。
待ち伏せの可能性は低い。だが、想定はしていた。追手はその想定よりも、わかりやすい手を打ってきた。それが気掛かりだ。
「諸君、やっと主賓のお出ましだ。まあ、主役は遅れてというやつだ。丁重に歓迎しようじゃない」
まるで緊張感のない軽口を、追手が叩く。
若干の胸騒ぎを抱えつつ。馭者が前に出る。剣の間合いまで六歩半。一人と四人が、谷の風鳴きの中で、対峙する。
「こんばんは。冷えますね」甲高く、声量に比例して、白い息がもうもうと流れる。
「やあ、こんばんは。全く、待ちくたびれちゃったよ。こういう日は、熱いスープが恋しいねえ」
会ったかどうかも知れない追手が、旧交を温めるかのように答えた。
「急いでいます。道を開けてもらえますか」と馭者。
「おいおい、そりゃないよ。ご覧の通り、こっちは馬無しの大所帯だよ? 君らが引き返しなよ。手間じゃないだろ?」
「丁重にご歓迎くださるのでは?」
「だから、もっと広い場所に変えない? ね?」
待ち伏せの一人が、ゆったり両腕を広げておどける。
「スープが恋しいと言いましたね。なら、道を開けなさい。この機を逃せば、二度と飲めませんよ」
はったりではない。事実、馭者には勝機があった。
全員、得物は剣。地勢は崖で、馭者の利き手側が開けている。追手たちも、一見すると馭者と同じ右利き揃いだ。修羅場としては、決して広くはない道幅。背後に抜かせない限り、相手は剣筋を岩庇に遮られる。思うように戦えるのは、精々二人同時にだろう。
地の利が味方した。四人なら、何とか切り抜けられる。
「ええ? スープがお預け? 楽しみにしてたのに。……君、意地悪だね」
追手の、柄を握る手に力が入った。
馭者が踏み込むのと同時に、四人の追手が松明を投げた。狙いが甘い。馭者は剣で一本払うだけで、他の三本は頭上を越えて背後に落ちる。
追手たちは動かない。どういう腹積もりだ。馭者は怪しむ。構えもせず待つ敵を前に、深謀を垣間見る思いに囚われかけた。だが、瞬く間に覚悟を固め、踏みこむ。
たとえ、無抵抗でも斬り殺す。女を守ると決めたが最後だ。
だが、四人は一斉に剣を鞘に納めた。
どういうことだ。
馭者の背後へ、女の警告が、崖肌にくぐもって届いた。
「主役は遅れて、というやつだよ。伊達男」
馭者が虚を突かれた瞬間、一人が指笛を吹いた。
同時に、背後でどさっ、と何かが落ちる音。直後、視界の端を巨大な鳥影が射す。
その巨鳥は、崖に急接近後、岩壁を蹴るように離れ、馭者の真横をよぎって、廃都市上空を旋回した。
あの羽色は、村で見た。
フクロウの翼人だ。
翼に遅れて風が逆巻き、馭者の延髄に吹きつけた。きな臭い。比喩ではなく、実際に何か、松明以外のものが燃えている。
「君が勇敢で嬉しいよ」追手の隊長格らしき男が言う。「おかげであの毒婦だけ、始末できる」
四人は覆面の下で大口を開け、両耳を塞ぎ、馭者に背中を見せたかと思うと、べったりと地に伏せた。
空気が粘って感じるほど、ゆっくりと流れる時の中で、馭者は突撃の勢いを殺して振り向いた。松明が落ちている場所には見慣れない荷袋が落ちており、既に松明の火が燃え移っていた。
ジジッ、と袋の中身が火花を上げた。
馭者の時が、吹き飛んだ。
閃光、爆発。落雷が荷袋を直撃したかのような光、音、火炎が一挙に轟く。咄嗟に頭を庇った馭者に爆風が直撃し、伏せた追手を越えて吹き飛ばされた。
爆心地を挟んで向こう側では、爆発に驚いた二頭の馬が暴れる。同じく驚き、混乱する女に、馬を御するだけの余裕はない。竿立ちする馬の背から女は振り落とされ、咄嗟に腹を庇ったが、代わりに全身を強かに打つ。
二頭の馬が、来た道を引き返し、全力で逃げていった。
〇 〇 〇
「何だ今の」
麓の護律会堂へ、爆音が谷を反響して伝わった。暖炉の前で毛布にくるまり、身を小さくしていたジョゼは、熱い茶のなみなみ注いだカップを、危うく落としそうになった。
湯も、葉も、茶請けもたっぷり用意した。一滴残らず堪能したい。
「雪崩、崖崩れ……?」同じように過ごすイリーナが、音の方角に首を向ける。「いえ、火薬でしょうか。禁域の向こう……サラディン村の方からですよね」
「クマでも狩ってんのかよ。こんな夜更けに」
「何にせよ、何が起きたか確かめるなら、明日ですね」
「ああ、明日だ明日。あんなでかい音、どこで雪崩が起きてもおかしくねえもん。自分らの身の安全が最優先」
「お茶も冷めちゃいますし」
「あ、ほら、やっぱり」
ジョゼの耳が一早く地響きを拾い、顎を上げた。遠く、何かが崩落する音のもたらす厄気に身震いし、二人は湯気の立つ茶をすする。心細さに温もりが染みわたる。しかし、心の隅では何よりも、村への道が寸断されないかという、気掛かりが居座っている。
「コケモモ食う?」
不安を忘れるように、ジョゼはイリーナに皿ごと差し出した。
「いただきます。……ん、やはり当たり年でしたね」
「わかんの?」
「いえ、別に」
「結構いい加減だよな、イリーナって。ほら」
ジョゼはもっと食べろと、コケモモを盛った皿をイリーナに寄せる。頼んでもいないお茶請けをジョゼに見せびらかしつつ、イリーナ。
「そう言うジョゼは、親戚の子に食べ物をあげるおばさんみたいですよね」
「うるせえ。生まれたら絶対お姉ちゃんって呼ばすんだ」
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