5-2
「ゆ、床でごめんなさい。ブラダさん、陣痛は初めて?」
エレクトラがブラダの汗を拭った。毛布とクッションで急ごしらえした寝床へブラダは移されている。痛みを堪えるので限界のようだった。返事のできないブラダの代わりに、エレクトラはグランティを凝視する。グランティは頷いた。ブラダの陣痛は、これが最初だった。
エレクトラは、緊張を緩めるように、大きく息をついた。
玄関から、アルデンスとスミス親子が、両腕一杯にクッションを抱えて戻った。薄っすらと被った雪を、クッションからはたき落とす。外で放置されていた馬橇の積み荷である。
「もっと必要そうですか」アルデンスが問う。
「ブラダさん、楽な姿勢、作ってみてください」
エレクトラに促され、ブラダはやっとのところで身をよじる。身体と毛布の間にできた隙間にクッションを挟み、逐一「どう?」と確認し、最も落ち着く体位を模索していく。
浅く、短かったブラダの呼吸が、幾ばくかの穏やかさを取り戻す。
エレクトラは、ようやくアルデンスの方を仰ぎ見た。
「ありがとう。クッションはもう良いかも」
「衝立になるものは」
「陣痛、今のが初めてみたい」
まるで筋の通らない回答だが、アルデンスには通じるものがあったらしい。
「なら、しばらくは様子見ですね。アイラさん」
名前を呼ばれた途端、アイラは魂が戻ったように姿勢を正した。
「外に停めている馬を厩舎に繋ぎ直してやりたいのですが、お手伝いいただけますか」
「え、いや、でも」
アイラは戸惑った。
バックヤードから戻ってみれば、余所者二人が場を仕切っていた。村人に勝るとも劣らない、慣れを感じさせる手際。一瞬、祖母か女手が戻って来たかと錯覚したほどだ。
心底、助かったと思った。天佑神助に感謝が尽きなかった。
しかし、だからと言って、部外者に任せきりで、この場を外すのは、無力であっても退いてはいけない一線である。
「待って」
エレクトラが、アルデンスとアイラの会話の間に入る。
「念のため、この村の人には残っていてほしいの。もしものとき、間取りとか、物の置き場所とか、把握している人がいれば心強いわ。アイラさん、ここにいてくれませんか?」
「なら、馬の方は、わしと倅で行こう」
離れたところから状況を見守っていたスミス親子が、一歩前に出て名乗り出た。
「お嬢ちゃん。わしらでお宅の厩舎に入っても構わんな」
アイラ自身の意思が介在する余地なく、上手い方へ転がる状況を、アイラは追いかけるのに必死で、ふんふんと頷いてやっつけていく。
エレクトラも、この場をどんどんやっつけていった。
「クロウおじいさん、今沸かしているお湯は、ひとまず火から下ろさないでください。蒸気を空調代わりにします。一応、いつでもタライに移せる用意を。それと、空焚きに注意して差し水をしてください」
「あ、ルイーズちゃん、カーデュくん。吸い口ってわかる? 横になっている人に水を飲ませる、小さなポットみたいな物なんだけど」ルイーズが手を挙げる。「じゃあ、ルイーズちゃん、水を入れて持ってきて。カーデュくんは、クロウおじいさんに差し水を。厨房から借りてちょうだいね」
「アイラさん」
「は、はい」エレクトラの手際に見惚れていたところ、声をかけられて、現実へ引き戻された。
「上に産婆さんがいるんですよね。陣痛が引いたら、その時刻を産婆さんに伝えにいってください。それまで、私と一緒にブラダさんを看てくれませんか」
言われるまま、アイラはブラダの傍で膝を曲げた。
夫のグランティがブラダの手を握って励まし、もう片手でエレクトラは脈を測っている。
(私は……どうしたら……)
アイラは俯いて、悔しさに口を結んだ。状況に振り回されるだけで、どこにも手が出せない。
土地の開墾、収穫、採集、家事、手伝い。村の仕事に追われて、母親の担っていた役割を早くに代わって、毎日のように疲れ果てて眠って、毎日忙殺される半生だ。
妊婦のことは周りがちゃんと理解している。私は見習い。みんなの仕事から少しずつ盗んでいこう。
甘かった。
いつ自分の番になるのか、わかりっこなかったのに。いきなり苦しみに襲われて、喘ぐのも一人ではままならないブラダを前にして、足は動くのに、両手はどちらも空いているのに、何もしてやれることがない。思いつかない。もはやブラダの表情すら直視できなくなっていた。
目の前の人を助けられない歯がゆさが、こんなにも、自分に刺さることだったなんて。
(私、こんなことになっても、自分のことばかりだ)
最低だ。と思う。当事者のブラダの心配よりも、歯がゆさや至らなさばかりに意識が向く。
「ここに来て良かった」
エレクトラが呟いた。ここに到着したときに呟いた、不思議なおまじないと同じ響きの声だった。
「これなら、少しは役に立てる。苦痛はブラダの問題。私たちとは無関係。けれど、私たちの旅路に意味をくれる。その果てがどうなってしまっても、ここでブラダを助けることは、絶対に意味がある」
懸命にブラダを介助するエレクトラが眩しかった。今日、自宅に幸運が舞いこんだことに心が騒ぐ一方で、より己の惨めさが際立った。
「アイラさん」
再びエレクトラに呼ばれて、自信がボロボロのアイラは、ためらいながら顔を向けた。
「ブラダさんのお腹に、手を当ててみてください。ブラダさん、構いませんか」
ブラダがエレクトラに頷いた。最初の痛がり方を思えば、意思表示がはっきりしてきた。
押しちゃダメです。手の温もりだけを、お腹に移すように。アイラは、たったそれだけで何が変わるのか、自分の手の平をじっと見つめて、怪しんだ。
「良いから、さあ」
踏ん切りのつかないアイラを見かねて、エレクトラが構わず手首を掴んで、ブラダの腹に導いた。
丸く突き出た腹に、アイラの手が乗る。服の上からでも、張りがわかる。ブラダの呼吸のリズム、苦しむ声、身をよじる度に動く筋肉、その全てが伝わった。
「――!」
今、動いたような。赤ちゃんが。
「不思議な話だけれど」と、エレクトラは前置きする。「“手当て”って言うでしょ。本当に手を当ててもらうだけでも、結構違う気がしてくるの。ね、ブラダさん」
“手当て”をするアイラの手に、ブラダの冷たい手が重なった。しかし、手の甲に伝わるのは、激痛に強張る硬さではない。緩く汗ばんで、手当てを返す手の平だった。
疲れ果てた微笑み。ブラダの息遣いは、落ち着きつつあった。
「アイラ、ありがとう。だいぶ、落ち着いてきた……エレクトラも、あなたも」
「……俺は、最後かよ」
グランティは、男泣きを誤魔化すように、普段通りの調子で文句を垂れた。
その場に居合わせた全員の方から力が抜けた。一旦の安堵に包まれる。アイラは、痛みを抜けて儚さを帯びたブラダの手を取り、両手で包んで、額につけた。
「ごめんね、ごめんなさい、ブラダ。私、もっと、ちゃんと、できるようにするから。ちゃんと妊婦さん、助けられるようになるから」
涙を悟られたくなかったが、しゃくり上げてしまって、目論見が外れてしまった。
涙を拭き、任された仕事を思い出し、柱時計の時刻を覚える。直ちに立って二階のミキ先生へ報告に向かう。
「もう少しですよ、バニスターさん!」
入室と同じくして、ミキの激励が迎えた。妊婦の悲鳴を上塗りする声量だった。
分娩室では、湯が球となって、宙を漂っていた。止まった湯の供給を、ミキが肩代わりしていた。
“ゼノン操水術”で使用済みの湯を浄化し、煮沸して、場を繋いでいたのだ。
ミキはその行為を指して「本当は横着すると良くないのよね」とへらへら笑って誤魔化している。「いつでも使えるものだけで乗り越えないと、技を受け継ぐことはできないもん」
しかし、人手不足の今は人命優先。残る手段を腐らせておく理由などない。その点を履き違えないのが、ミキの“取り上げ神官”たる所以であった。
湯気を上げて漂う湯球を避けつつ、アイラはミキの傍に寄り、酒場の状況を伝えた。分娩台でバニスター夫人は、血が毛穴からにじませるように、顔を真っ赤にしている。ミキの手元を見ると、バニスター夫人の局部から、新しい命が頭を覗かせている。
あと少しだ。アイラはその光景に釘づけとなった。
「ご苦労様、アイラさん」ミキが言う。「十分後……いえ、十五分後までは、そのまま安静にするよう伝えてください。でも、どうかな。もうすぐ終わ……今! いきんで!」
豹変するミキを間近で目にして、アイラは思わず肩で跳ねて驚いた。同時にバニスター夫人が、喉から大蛇を引きずり出すかのように絶叫する。
仰け反る背、踏ん張る両足の間から、ぬる、ぐぐん、と小さな命が滑り落ち、肩まで露わになった。
峠を越え、安堵に満たされた妊婦の喘鳴。ミキは胎脂と羊水にまみれたその子へ慈しみをこめ、両手で包んで迎える。クモの巣を一本の糸に戻すのに似た繊細な手つきで、その子を、この世界に導く。
村の全てが、赤子自身も含めて、その瞬間を静観しているかのような間があった。
にわかに、胸に詰まった羊水を吐いて、元気な産声が上がる。
地平線に日が没する頃だった。雪夜一色の村の中で、分娩室から愛おしい温もりを伴って、赤ちゃんの声が、村長宅に広がっていく。バニスター氏が感極まって夫人を労うのを肌に受けながら、ミキは新生児のへその緒を切り、産湯に浸からせて、おくるみに包む。
元気な泣き声に、ミキが目を潤ませて、無上の幸せを噛み締めたように破顔する。
生まれて初めておめかししてもらった赤ちゃんと、夫婦の対面だ。
「おめでとうございます。元気な男の子です」
疲労の極みであろうイヴリン・バニスターは横になったままだが、進んで我が子を胸に迎えた。自分の一部だった温もりが、一個の体温となって、しわくちゃの赤ら顔で、張り裂けそうに声を上げている。
「可愛い」イヴリンが感無量だった。感無量以外に、言い表せない、母の表情だった。「初めまして。これから、よろしくね」
「お父さんも、指で初めましての握手、どうですか」
ミキに促され、「あなた」と妻にも勧められて、バニスター氏は恐る恐る、我が子に小指を近づけた。
柔らかなのに、存外強く握り返された。命一杯の握力だ。親指も覆えないような小さな手で、存外力強い。バニスター氏は泣きながら笑った。
「名前、あなたがつけて。約束したでしょ」
「……ああ、もう、決めているよ。この子は……ハンク。ハンクだ」
家族の誕生を、これまでアイラは何度も目にしてきた。感動的で、いつ見ても感慨深い光景だ。しかし、これまではおいしいところだけを摘まみ食いするも同然の立場だったことを改めて心に刻み、助産の知識を少しでも蓄えようと誓ったのだった。
今から、この子の誕生を最後に、甘えた立場から卒業しよう。
「あの、ミキ先生」
ミキが産後の過ごし方を説明する前に、アイラは呼び止めた。新しい命の産声を聞いて舞い上がっていたのだろう。知らず顔を上気させ、目を輝かせていたアイラを一瞥すると、再びバニスター一家の幸せを眺めた。
「赤ちゃんって、すごいわよね」ミキがしみじみと感嘆する。「赤ちゃんのためなら、私、命だって差し出せる気がする」
バニスター一家の輪を見て同意しつつ、アイラは本題に戻した。
「その、すみません。ご休憩をとらなくて大丈夫ですか。この後、ブラダの番が待っているので、何か私にできることがあれば……」
「え、特別なことはないけど」
いっそ冷たくも見える態度に、アイラは頭が真っ白になった。何でもないとばかりにミキは言う。
「いつも通り、時々、様子を見てあげて」
「……冗談、ですよね? だって、あんなに苦しんで、今にも産まれそうで」
アイラの様子から意思の齟齬を察知し、ミキは苦笑交じりにアイラに諭す。
「そっか。アイラさん、独りで頑張らなきゃいけないって思ってたんでしょ。なら、相当プレッシャーだったでしょう。陣痛って壮絶だから、何とかしなきゃって思っても仕方ないわよね」
「……あの、どういう意味ですか?」
「あのね、実は陣痛って、よーいドンの合図とは限らないのよ」
意味がわからず、アイラは難しい顔で小首を傾げた。
「いくら痛くても、最初の一回じゃ出産の合図かどうか、誰にもわかんないの。最初に痛くなってから、本陣痛――本当に生まれるときの陣痛が来るまでは、個人差があってね。すぐの人もいれば、長いと二回目が来るまでに一週間かかる人だっているくらいなの」
「いっしゅうかん」まだ何分も経っていない。
「そう。どのくらい痛いかとか、おしるしとか、破水とか、表れた兆候を色々考慮しなきゃいけないけど……まあ、一時間の内に十分か五分間隔で痛みが繰り返すのが、目安かしらね」
「いちじか、……ええ?」まだ何分も経っていない。
「そう。本陣痛かわからない内は、旦那さんに見守ってもらうか、余裕があるなら自己申告してもらうようにしてるのよ。知らなかった?」
「しらない……」
ブラダ・スペイバーン。感受性豊かな彼女は、苦痛も人一倍感じやすい。
その伴侶、グランティ・スペイバーン。客室での予行演習は完璧だったが、融通の利かない堅物が、酒場という想定外のシチュエーションで事態に直面したが故の、狼狽であった。
アイラ・バーレイ。独り相撲。以上。
アイラは腰を抜かしそうになって、何とか踏みとどまった。ミキのフォローが耳から遠のいていく。
「でも、急な痛みで倒れたり、下手に耐えて無理な姿勢になると危ないのよね。ファインプレーだったわよ。ブラダさんを看てくれてありがとう、アイラさん。例のお客さんにお礼を伝えて……アイラさん?」
「ブラダの様子、見に行きます……」
ミキに心配させるほど覚束なく歩くアイラは、ぬるりと分娩室を後にした。
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