3-2
ラライと別れ、更に道なりに行くと、道が険しくなっていく。
先へ進むと、まずミキたちの共同生活の場である護律会堂に突き当たる。裏庭に回って囲いの裏口を解錠し、更に奥へ行くと、更に道は険しさを増していった。
人の気配が薄れ、自然が深まる。一方で、川の両岸に朽ちた石垣の跡が見られた。
かつてこの川は、人々が行き交う道だった。途切れ途切れに伸びている石垣が、その痕跡を今に伝えるのだ。
足場の悪さにしばらく耐えると、断崖の麓。数ある断崖の裂け目の一つに入りこむ。渓谷に至り、川の源流に辿り着く。
そこには、朽ちかけた石造りの城壁が立ち塞がっていた。
壁面を枯れた蔦が這い、厳重に封鎖された城門の下の隙間から、逆巻くほどに溢れた水が、凍ったまま時を止めて、川の流れへ続いている。
ジョゼとイリーナは門楼から階段を上り、屋上へと踊り出た。
風鳴りの只中で、立ちすくむ。階段を登り切った一息が、二人の口から白く広がった。
城壁の向こうは、一面の雲海だった。
二枚の崖と一対の城壁、四方を囲まれた空間を、白い霧が満たしている。壁内には廃都市が広がっていると聞くが、その全容を隠すかのように厚い霧は、風と戯れて、さざ波のリズムで押しては引き、ジョゼとイリーナの足元を洗う。ただ、尖塔や鐘楼が僅かに霧から頭を出し、中央にぽつんと朽ちかけた古城が濡れそぼって、島嶼のように浮かぶばかりであった。
渓谷の荒岩が風を切り、悲嘆の如き音は途切れることがない。
発展と滅亡。文明と自然。ジョゼとイリーナ、二人の修律官は、この遺構を前にする度、畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
感慨に浸る中、日の入り時の渓谷へ、にわかに馴鹿呼び唄が木魂した。ラライの歌声だった。
遊牧民の澄んだ声が、霧の立ちこめる廃墟を悼むかのように響く。放牧したトナカイたちを呼び戻す唄は、悲鳴に似ながらしんと鋭利に、だが響きをたわませて、無音よりなお静謐を深めていく。
「始めましょう」
いつの間にか準備を進めていたイリーナに遅れて、ジョゼも準備にかかった。
冷たく潤う空気を肺に満たし、二人は腰に下げた瓶を抜き、大きく一振り、二振りで、中の水を全て壁の向こう側に撒く。水は、廃都市を満たす霧の中へ落ち、浸透していった。
粛々と、“雲送リノ刻”を始める。
屋上に新設した祭壇の前で膝をつき、祈り手を組む中に修律官証を握る。
祭壇も証も、どちらも水の巡りを表したレリーフが施されていた。雲より雨、川と流れ海、昇りて雲、その循環。
それは、護律協会の精神の表現。人類史上初にして、恐らく現状唯一の、魔法の意匠である。
「聖マトゥリの名の下に――」
護律の聖女の名を借りて、ジョゼとイリーナは目を閉じ、神経を研ぎ澄ます。手の中の聖印を通し、壁内の霧と心を繋いだ。
「――母なる御星に褥を奉る」
二人の祈りに応えて、霧が糸を紡ぐように、空へ昇り始めた。
魔法とされる力の名を、“ゼノン操水術”。教本の言葉を借りれば、かつて聖マトゥリが水に“ゼノン”なるものを加え、自在に操ってみせたことが起源とされている。
本来、この力は聖マトゥリの縁者にのみ扱えるものだという。ただし、マトゥリと同性、つまり女であれば、彼女の聖骸の一部、あるいはその聖遺物――聖印などを用いることで、訓練を経て同じ力を使えるようになった。
そうしてマトゥリの子孫を中心に“ゼノン操水術”を継承してきたのが、護律協会の興りである。
力の継承と組織化による発展。人類は諸々の苦難と折り合いをつけて、何とか生き延びることができた。
夕方に雲を作るのも、そうした生存戦略の一つである。
この世界は今、急速に寒冷化が進んでいる。太陽活動は正常だが、それだけでは光も熱も全く足りない。更に夜になると、日中に溜めたなけなしの熱も、放射冷却で宇宙に逃げてしまう。
気温は下がる一方。それでも人は生き残るだろう。しかし、このままでは、この星は一塊の雪玉と化す。人口を支える生産力は根底から凍りつき、文明が崩壊する。気候の安定は、人類文明の興亡を左右する問題だ。
そこで人は、凍える滅びに対抗する術を、“ゼノン操水術”に見出した。
水を操れるのであれば、雲にも手が届くのではないか。その目論見は、見事に的中する。
昼は青空、夜は曇り空にする。昼は太陽光を余すことなく取り入れつつ、夜は雲が蓋をすることで、放射冷却は最小限に留められる。星の半分は常に晴れ、もう半分は常に曇り。日没に合わせた“雲送リノ刻”と、夜明け前の“雲降ロシノ刻”は、連綿と受け継がれてきた世界事業である。
その結果、ジョゼやイリーナたちは、今こうして生きていられる。そう思えば、“雲送リノ儀”は、壮大な人類の歩みに加わるも同然で、感慨深い。
月夜と星の瞬きを代償に、空を雲で覆い、気温の低下は、辛うじて食い止められてきた。
この儀式は迷信ではない。全世界の人命を預かるという、重責を伴った使命なのだ。
だからこそ、気が抜けない。
“雲送リノ刻”は湯沸しに喩えられるが、そう単純な芸当ではない。闇雲に大量の水を蒸発させるだけでは、雲の成長が速すぎて、積乱雲へ発達し、酷ければ雷を伴う嵐にまで発展してしまう。だからと言って慎重になりすぎても具合が悪い。蒸発に慎重になりすぎても雲が薄く、まばらになってしまい、雲は熱を保つ蓋まで成長せず、散ってしまう。
慌てず、たゆまず、欲張らず、しかし怯えず。眠れる幼子が安らかなまま、そっと毛布をかけてあげるように。地上の水を、霧を、吹けば飛ぶ綿胞子だと思って、空に届ける。
“雲送リノ刻”は、雲を構成する無数の水の粒子一つ一つにまで神経を裂かなければいけない。極めて繊細な業なのだ。
壁内の霧は螺旋を描いて、浅い地鳴りのような音を上げながら、空を覆っていく。東の空から流れてきた、誰とも知れない同志たちの作ったであろう雲に合流していく。
「オー・マイ・マトゥリ。今日はバカにお利口だねえ、ゼノンちゃん」
調子に乗るジョゼにぴしゃりと「集中」の一言を浴びせるイリーナ。
「仕方ないだろ。少しはっちゃけないと、こんな量の水、送れないんだよう」
「こっちは集中しないと、細かい操作ができないんです」
「お互い、鼻ほじりながらでもできるようになりてえな」
「ジョゼ下品」
「独り言」
昇る雲の奥で、地鳴りに似た音が渦巻いている。一つ一つは目に見えないほど小さな水の粒子が、お互いと、空気や塵などとこすれ合う音だ。この摩擦が蓄積すると、雷の原因となり、降水の引き金になってしまう。
まだ許容範囲。丁寧にやれている。自分たちの仕事に手応えを覚える二人。その姿を、昇る雲を抜けて見つめる瞳があった。
二人の背後に、影が翼を広げて降りてくる。
「道を尋ねたいが!」
谷間に木魂するほどの胴間声だった。聞き慣れない声をいきなり背骨に食らい、ジョゼは悲鳴を上げて前のめりに倒れる。イリーナは声もなくビクンと跳ねる。
二人の集中が乱されたと同時に、雲は噴火の勢いで昇り、城塞都市一帯が爆発的に霧に包まれた。雲はゴロゴロと不吉に喉を鳴らし、黒みを深くしながら、沈みゆく夕陽を追って、天球を覆っていく。
露に濡れそぼったジョゼとイリーナは、白い霧の中で事態に置き去りにされながらも、失敗を悟って、渋い顔でお互いを見合わせた。首が錆びたように、振り返る。
そこには、人間大のフクロウが立っていた。翼人の彼は、同じく露に濡れそぼった身体で、きょとんとした丸い目で、二人を見比べる。ぶるるっ、と身震いで羽の水を落とすや、ジョゼとイリーナはそれを顔から浴びてしまった。
「ホッホウ、驚かせてすまんね!」フクロウ男が胴間声を張る。「ローヤルマドラス飛脚の者だ! フロア開拓村はここかね! 霧が濃くてよくわからなくなったのだよ!」
ホッホッホウと笑う飛脚を前にして、唖然とするジョゼとイリーナが、死んだ目を配せ合った。
遠くから、ラライの良く通る声で、「やっぱ雪だー!」という嘆きが届く。
「焼き鳥……」
「止しなって」
人間の表情に疎いフクロウ男は、イリーナの剣幕に目を丸くして、首を傾げた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
作中に登場する馴鹿呼び唄は、実在する発声法です。一時期、SNSでも話題になったので、ご存知の方もいらっしゃることでしょう。
参考に、こちらの動画でご視聴いただけます。動画ではトナカイではなく牛を呼んでいますが。
ジョゼとイリーナは、こんな感じの歌を聞きながら、儀式に臨んでいたのでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=KvtT3UyhibQ
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