趣味:人間観察と情報収集 特技:隠密、読唇術、会話誘導、時々王子の婚約者
この物語には、まともなヒロインはいません。
なんでも許せるぶっ飛んだ女が好きな人だけお通りください。
貴族の子女が通う名門校、リゼル学園。ここに通う学生は、社交界デビューに向けて、卒業までに貴族の名に恥じない教育を施される。
紳士と淑女を教育することを目的にしているとはいえ、多感な年頃の少年少女が集まるのだ。六年制の学生生活で、何も問題なく終わることはない。教師陣は大事な生徒を預かっている以上、キリキリする胃を抑えて教鞭をとっていた。
そんな教師達最大の胃痛の種は、中庭の四阿にいた。
「ディアナ、愛している……」
「ジャミル様ぁ~、私もですぅ~」
昼休みの最中、まだ学生が多く行き交う中庭で、抱きしめ合うのは、この国の第三王子のジャミルと男爵令嬢のディアナ・オーシーだ。
中庭は実習棟と本校舎を繋ぐ渡り廊下があるため、誰もが気まずそうに脇を通り過ぎる。
そんな中、ジャミルがディアナに唇を近づけようとして、彼女がやんわりと制した。
「ジャミル様ぁ~、皆さまが見ています。恥ずかしいですわ~!」
「何を言っている。私はお前との仲を見せつけたいんだ」
「ジャミル様ぁ~」
頬を赤らめたディアナへジャミルが再び顔を近づけた。
「はぁ~~~~~~~~~~~っ! すんばらしいです~!」
それを遠目で見ていたステイシー・グロウズは歓喜の声を上げた。
「王族と男爵令嬢の身分差恋愛! まるで恋物語のよう~!」
お手製のオペラグラスを片手に必死に手帳に書き込みながら、ステイシーは頬を染めた。
「越えられない壁に苦悩する男女が育む愛! まさかリゼル学園で直接浴びることができるなんて思いもしなかったです~! 学園、最高~~~~~~~~~!」
ステイシー・グロウズは、代々王家の影を務める伯爵家の生まれである。どこにでもいるブロンドの髪、緑色の瞳、平凡な顔立ちは一族誰もが称賛する凡庸な容姿だった。
そんなステイシーの趣味は、人間観察と情報収集である。そんな彼女にとって、多感な少年少女が集まるリゼル学園は、まさに楽園であった。
幼い頃から叩き込まれた気配遮断、会話誘導、読唇術、手練手管、速筆、変装術、全てを用いて野次馬し、人の話に聞き耳を立てて、ネタをかき集めていた。
「はぁ~、素晴らしい。私の価値観が養われますわ~」
ステイシーは一族の中でも変わり者だった。
グロウズ家は生まれた子の性質に合った影に育成する。しかし、彼女はあまり物事に関心がなかった。何かに興味関心があった方が熟達するものだが、彼女はそれなりに卒なくこなす。しかし、彼女にもできないことがあった。それは演技だ。
ステイシーは人に興味がない。それ故に姿形は似せられるが、その人物の行動を似せることができなかった。
そんな彼女に転機が訪れたのは、変装や演技の勉強の為に観劇に連れて行ってもらった時の事。
貴族の恋模様を描いた脚本、演出、役者の演技に感銘を受け、初めて人間というものに興味が出た。
彼女は演技や人の行動にも興味が出た故に、今まで培った技術を用いて人間観察するのが趣味となったのだった。
「はぁ~、満たされる……」
恍惚とした表情で野次馬を続けていると、横からオペラグラスをかすめ取られる。
「またやってるの、ステイシー?」
そこにいたのは、銀髪碧眼の美少年。この国の第四王子アレンだ。彼は第三王子ジャミルの双子の弟である。
二卵性双生児の為、野性味あふれる精悍な顔立ちのジャミルとは違い、儚げな美少年の風貌をしていた。
アレンとは、ステイシーが彼の護衛の任を付いてからの仲だ。
「あら、アレン殿下。ごきげんよう~。また護衛を撒いてきたんですか?」
「ごきげんよう。堅苦しいのは嫌いでね。君にも会いたかったし……」
喜色満面の笑みを浮かべるステイシーに、アレンは呆れながらもオペラグラスを覗き込んだ。
「まぁ~たジャミルの逢引きを盗み見してるの?」
「滅多に浴びられない身分差恋愛ですよ! 楽しまないと!」
これにはアレンも苦笑いだ。身内の恋愛事情など見たくないのかもしれない。
「楽しむって……何を?」
「それはもう、二人の内に秘めた想いや周囲の気まずさ、口さがない令嬢達の噂話、王族の奔放さに胃を痛める教師の気持ちを考えるだけで、私はバケット二本食べられます!」
「お腹壊すよ、ステイシー」
和やかな言葉を返すが、アレンの表情は良くない。ため息を漏らして、ステイシーの隣に腰を下ろすと、持っていた手の平サイズのノートを差し出した。
「はい。これ約束のヤツ」
「きゃあ~~~~~~~~~~っ! 待ってました! アレン先生の新作!」
アレンに手渡されたノートをステイシーは歓喜して受け取る。
「ずっと続編を楽しみにしていたんです!」
アレンが渡したノートは彼が書いた小説だった。観劇を見てから、彼女は人間観察や情報収集の他に小説や観劇も趣味になっていた。
幼い頃のアレンは病弱だったため、室内で読書をして過ごしていた。そのうち、自分で小説を書くようになり、ステイシーに読ませてくれるようになったのである。
今ではステイシーはすっかり彼のファンだ。
「それで、代わりにそれをくれる?」
アレンが指さしたのは、ステイシーの手帳だった。
学園に流れている噂や、実際にステイシーが見聞きしたあれこれが書かれているステイシーの宝物だ。
「今はダメです。あとで清書してお渡ししますので、それまでお待ちください」
「ダメだよ、ステイシー。ボクの小説を読ませる代わりに、できる限り創作のネタを提供してくれるっていう約束だろ? 変に厳選されたら困る」
「む~、仕方ないですね~」
ステイシーは渋々手帳を渡す。
手帳の中身はグロウズ家式速筆を応用したもの使っている為、二人以外の者には分からない。彼はその場で手帳をめくっていくと、小さく頷いた。
「これは見事に愚兄の話ばかりだね」
「そりゃ、もう。人前であんなにいちゃついてたら、嫌でも話の的にされますよ」
ここの所、ジャミルの恋愛事情が取り立てられている。それもそのはず、彼には生まれる前から決められた婚約者がおり、彼女を放置して別の女性に手を出しているのだ。
好き放題する兄のおかげで、アレンは、学園で肩身の狭い思いをしている。
──なぜ、アレン殿下は兄を咎めないのか。
──アレン殿下は気弱で自己主張の少ない。双子なのにこうも違うのか。
口さがない生徒達は不敬にもそう口にしていた。
しかし、アレンはその情報を得たとしても、誰も咎めない。そもそも咎めるのが無駄だと思っているようだ。
(アレン殿下は五人兄弟で第四王子だけど、王位継承権から最も離れているお方。ジャミル殿下を咎めないアレン殿下の評判も落ちがちですが、本人は王位には興味がないご様子。ジャミル殿下にいたっては、自由奔放過ぎて兄殿下達からはライバルとも思われていないみたいですし)
王位を争っている第一王子も第二王子は、アレンが土俵に上がってこない限り、手を出すつもりはないようだ。おかげでステイシーは護衛よりも情報収集に精を出していた。
「ねぇ、ステイシー? 君はジャミル達の恋を応援しているようだけど、ジャミルの婚約者であるリリーナのことはどう思ってるの?」
リリーナ・フレベル公爵令嬢は、アレンだけでなくステイシーとも付き合いが長い。全く情がないといえば嘘になるが、アレンに比肩するほどの仲でもない。
「お言葉ですが、アレン殿下。私は別にジャミル殿下とディアナ・オーシーを応援しているわけではありませんよ」
「おや、そうなの?」
意外だったのか、彼は少し驚いたように目を見開く。
「あんなに熱心に見ていた上に、彼らの恋愛事情に興奮していたようだから、てっきり応援しているものかと」
「そんなまさか」
確かに人の恋愛事情を見聞きするのは好きだ。相手の心情や周囲のことを考えると心が躍る。しかし、ステイシーの根底にあるのは違うのだ。
「私はジャミル殿下のクズな行いの末に訪れる末路に興味があるのであって、ジャミル殿下やディアナ・オーシーがどうなろうと構いません」
「ステイシー、それは君の悪いところだよ……」
そうステイシーはその人個人には興味がない。彼らが巻き起こす出来事や人の反応などはステイシーの感性や価値観、仕事に必要なコミュニケーション力を養う為に必要なのだ。
「じゃあ、リリーナは?」
「う~ん。知らない仲ではありませんけど、友好さではアレン殿下と比べられないし……あ、でもジャミル殿下に対する赤裸々な感情を一度でもいいからお聞きしたいです」
「本当に、ステイシーは……」
彼は困ったように眉を下げると、ステイシーに手帳を返した。
「まあ、ジャミルと彼女が破談になっても別にいいけどね」
「いいんですか? ジャミル殿下の代わりにリリーナ様との婚約を押し付けられるかもしれませんよ?」
「無理だよ。ボクにはジェーンっていう愛しい婚約者がいるからね」
彼はステイシーの髪をすくい取り自分の指に絡めると、いたずらっ子のような笑みを向ける。
まるでステイシーを挑発するような言動に、ステイシーは敢えてアレンの手を取って自分の頬に触れさせる。
「そんな女、いないくせに」
彼は一瞬だけ目を見開いた後、愛おし気にステイシーを見つめた。
「そんな悲しいことを言わないで。今日も頼むよ、ボクの愛しいジェーン」
アレンにそんな表情を向けられると、胸の奥がざわついた。それは人間観察をしている時の感覚と似ているが、この胸の騒がしさにはなぜか慣れない。
「仕方ないですね~」
「やった」
ステイシーが渋々頷くと、アレンはこつんとステイシーの額に自分の額を合わせた。
◇
ステイシー・グロウズには、もう一つの顔がある。
それはジェーン・サイアンローズという実在しないアレン第四王子の婚約者だ。
幼い頃のアレンは身体が弱い上に、第四王子という中途半端な立場だった。すでに強い後ろ盾になりそうな貴族はすでに兄達と手を繋いでおり、新しく見繕うには難儀した。
そこでグロウズ家に依頼し、実在しない令嬢を作り上げた。それが、ステイシーが演じるジェーン・サイアンローズ。グロウズ家が彼女に演技を叩き込むことになった理由だった。
元々凡庸な顔立ちのため、化粧をすれば別人のようになれるし、体系も変えられる。染粉で髪の色を変え、口調や仕草を上流貴族らしくすれば、出来上がりだ。
サイアンローズ家は、大昔、グロウズ家が作り上げた王家の遠縁の貴族だ。サイアンローズ家の実情を知っているのは、王宮でも限られた者のみである。
時折、訳アリの王族なんかが与えられる家名でもあった。
ステイシーはリゼル学園で二重生活をしており、実はステイシーでいるよりジェーンとして過ごしている方が多かったりする。
「今日も素敵だね。ジェーン」
授業が終わり、ジェーンとなって王宮に足を運んだステイシーは、アレンに迎えられる。
「お褒めの言葉授かり光栄ですわ、アレン様」
上流貴族らしく上品に微笑むとアレンは満足気に腕を差し出した。
「では、行こうか」
「はい」
今日は、ジャミルとリリーナを交えてお茶会を行う予定だった。
これはジェーンとなった時から続いている月に一度の恒例行事となっている。
「ん?」
いつもの庭園にたどり着くと、そこにはジャミルの他にリリーナの席に座るディアナの姿があった。
まさかの事態に動揺したのか、アレンがステイシーへ視線を送る。
『どういうこと?』
『知りません』
ステイシーの仕事は情報収集と護衛だが、ジェーンとして二重生活をする上で補佐が付いている。その補佐からは何も連絡を受けていないので、ディアナがいることに大した問題はないということだけは分かった。
アレンがジャミルに声をかけようとすると、こちらの気配に気付いたディアナが振り向いた。
そして、大きな桃色の瞳を輝かせて立ち上がる。
「こんにちは、アレン様ぁ~! ディアナ、とてもお会いしたかったですぅ~!」
甘ったるく間延びした口調でアレンに声をかけた彼女は、どうやらステイシーを視界にも入れてないようだった。
(わ~~、気持ちいいほどのあからさまな無視は久しぶり~~)
一体、彼女は何を考え、どんな気持ちでそんなことをしているのか、ステイシーはとても興味がある。しかし、今のステイシーは公爵令嬢。相手にしないのが正解だろう。
アレンも彼女を華麗に流してジャミルに目を向ける。
「ジャミル、リリーナは?」
「アレン様ぁ~、無視しないでください~」
そう言って、アレンに触れようとしたディアナの手をステイシーは持っていた扇子で叩いた。骨組みが柔らかいので痛くないだろうが、とてもいい音がした。
「いったーいっ! 何するの!」
叩かれた手を大袈裟に庇うと、彼女は目に涙を浮かべてステイシーを睨む。
(ようやく目を向けましたか……)
個人に関心があまりないステイシーだが、今の自分はアレンの婚約者、ジェーン・サイアンローズ。上流貴族として許せないディアナの振る舞いに、ステイシーは自分の婚約者を守っただけだ。
「見てください、ジャミル様ぁ! そこの子に叩かれたんです!」
彼女はジャミルに泣きつくと、彼はステイシーを睨みつけた。
「おい、ジェーン。ディアナに何をするんだ。彼女の手に跡が残ったらどうする?」
「むしろ、何をしたのか見ていなかったのですか?」
「何?」
ステイシーは扇子を開き、口元を隠すとにっこりと微笑んだ。
「彼女はアレン殿下の許可も得ずに話しかけ、名前を呼び、あまつさえ触れようとした。幼子でも分かる不敬を犯したと言うのに、ジャミル殿下は咎めないどころか、理解出来ていなかったのですか?」
「なっ⁉」
みるみると怒りで顔を赤く染めるジャミルを無視して、ステイシーはディアナに目を向ける。すると、彼女は小さく震えていた。
「ご、ごめんなさい! ジャミル様の弟だって聞いて、親近感湧いて、私……」
しかし、その上目遣いはステイシーではなく、何故かアレンに向けられている。
(怒っているのは私なのに、なんでアレン殿下に媚び売ってるのかな~~? その媚びは婚約者のいない男に大安売りしてくださ~~い!)
ステイシーは興味がないと言わんばかりに視線を逸らし、無視を決め込む。
徹底した公爵令嬢演技にアレンは苦笑し、改めてジャミルに訊ねた。
「ジャミル。リリーナは?」
「おい、お前もディアナを無視する……」
「リリーナは?」
ジャミルの言葉にかぶせて訊ねると、彼は舌打ちをした。
「どいつもこいつもリリーナ、リリーナって……あいつは来ない。その代わりにディアナを呼んだんだ」
「そう……じゃあ、今日のお茶会は中止だね。ジェーン、悪いね。せっかく来てもらったのに」
「リリーナ様に会えなくて残念ですが、仕方がありません」
「お、おい! 何勝手に話を進めてるんだ!」
突然、ステイシー達が解散の空気を作ったことに、ジャミルが慌てる。
(何を慌ててるのかしら……?)
いつもはさっさと終わらせて欲しいという態度をとっていたのに、なぜか今日はお茶会をする気満々らしい。一体、何の心変わりだろうか。
アレンに視線を送ると、彼はため息を漏らした。
「この月一のお茶会は婚約者を交えて交流を図るためのものだろ? リリーナがいないなら中止するしかないじゃないか」
「だから、リリーナの代わりにディアナを連れてきただろ!」
「ジャミル、彼女は君の婚約者じゃない。彼女はリリーナの代わりにはならないよ。ボクやジェーンが同席を認めることで、対外的に知らせたいのだろうけど。彼女を婚約者にしたいなら、こんな姑息な手を使わずに父上に進言しなよ」
分かっていないステイシーとは違い、アレンはジャミルの考えを察していたらしい。
このお茶会にリリーナの代わりにディアナを出席させ、アレンとステイシーがジャミルの婚約者としてディアナを認めたことにさせたかったようだ。
(うわぁ~、姑息~)
彼女が国王に認められないと分かっていて、外堀を埋めようとしたのだろう。危うく巻き込まれるところだった。
「君が学園でどう過ごそうが勝手だけど、ボク達を巻き込まないで。それじゃあ、ボク達は別の場所でお茶をするから。行こう、ジェーン」
「はい、アレン様」
アレンの腕を取った時、ディアナと目が合う。
結局、アレンもステイシーも彼女の名前を一度も呼ぶことはなかった。これが上流階級の人間が作る身分の壁というやつだ。ステイシーがふっと鼻で笑ってやると、彼女が分かりやすく苛立ったのがよく分かった。
(あら、顔に出やすいところも同じで案外お似合いなのかも……)
彼女の新たな一面を発見し、ステイシーは内心でにんまりするのだった。
◇
その後、ジェーンとしてアレンとお茶をすることになった。アレンの要望で、常識的範囲で仲睦まじい様子を周囲に見せつけた。殊の外、彼は喜んでいるように見え、この恋人ごっこのような関係は少々こそばゆい。
一体、どんな気持ちでステイシーに頼んでいるのか、気になるところである。
王位に興味がないとはいえ、彼は王族。いずれは偽りの令嬢ではなく、本物の令嬢と婚約をしなければならない。
(そのうち、ジャミル殿下とリリーナ様の婚約が白紙になって、挿げ替えられるのではないかしら?)
もしそうなったとしても、ステイシーの役目は変わらない。彼の影として働くだけだ。
一応、リリーナがお茶会に現れなかった理由を知るべく、情報を得ると、恐るべき事態が発覚した。ステイシーは翌日、ジェーンとしてアレンとの昼食の席で報告する。
「アレン様、実は昨日、リリーナ様は制服を汚されて欠席したらしいですわ」
「はい……?」
アレンは目をぱちくりさせて、ステイシーを見つめる。今なら彼の気持ちがよく分かる。ステイシーもなぜ彼女がそんなことになっているのか訳が分からなかった。
「どういうこと? 彼女にも影はついているだろ?」
ジャミルにディアナという少女がつき纏うようになって、王家はジャミル、ディアナ、リリーナにそれぞれ影を付けさせた。
まずはジャミルとディアナの動向を探る為、そして二人が逢引きすることでリリーナが不貞に走らないか調べるためである。言い換えれば、これは彼女の潔白を証明する行いであり、彼女にこれ以上の瑕疵を付けさせないためだった。
「ええ、もちろん。話を聞いたら、ジャミル殿下に突き飛ばされて出来た汚れらしいです」
リリーナ付きの影が言うには、昨日のお茶会にディアナを連れて行くとジャミルは言ってきかなかったらしい。
それに対して、リリーナがジャミルとディアナをまとめて叱責し、ジャミルに逆上されたようだ。そして、水たまりに突き飛ばされたというわけである。
汚れたなら着替えて出直せばいいと思うが、彼女はそのまま屋敷に閉じ籠ってしまったらしい。
「報告ではだいぶ落ち込んでしまっていたようです。はぁ~……なんてお労しいリリーナ様……私も彼女の悲しみを浴びたかった」
「ジェーン?」
幸い、二人が食事をしている場所は王族とその婚約者、そして公爵家だけが使える個室だ。護衛は部屋の外で待機しているので、ステイシーの本音はアレンにしか聞こえていない。
ステイシーは一度咳払いして話を続ける。
「一応、今日は登校しているようですが、あまり顔色はよろしくなかったですね」
「もしかしたら、フレベル公爵に咎められたのかもね。王族とはいえ、婚約者を諫められず、男爵令嬢に出し抜かれたとは何事かって」
「言いそうですね……どうします? 本当に婚約者を挿げ替えられるかもですよ?」
「ジェーン?」
咎めるように再び名前を呼ぶと、不機嫌そうな声とは裏腹ににっこりと笑顔を浮かべた。
「ボクを怒らせたいの? それとも……ボクを試してる?」
こちらに向けられた瞳はとても綺麗なのに、彼はじっとりとした視線をステイシーに向けてくる。それはまるで獲物を捉えた獣のような目。しかし、殺意とは違う恐怖心を煽り、背筋がぞくぞくする。手練れの暗殺者だってそんな目を向けてこないだろう。
「君がその気なら、ボクは構わないよ? 君には全部降りてもらおうかな?」
「ぜ、全部降りるとは?」
「その通りさ。婚約者の座も、護衛も、諜報も、私の読者も、全部」
(なんだって~~~~~~~~~~~~っ⁉)
婚約者の座は降りてもかまわない。しかし、護衛も、諜報も任から外されたら、ステイシーは最悪この学園を辞めさせられる可能性があった。彼の影でいるからこそ、ステイシーは人間観察も諜報も補佐付きでゆるーく活動ができるのだ。おまけに彼の小説が読めないのはかなりの痛手だ。
「で、殿下~……私、殿下とはまだまだ婚約者でいたいです~」
「アレン」
「あ、アレン様ぁ……」
すがるように両手を合わせると、ぶっと彼は大きく失笑した。
「くくくっ……冗談だよ。ボクも君がいないと困るしね」
アレンの言葉にステイシーがほっと胸を撫で下ろした時だった。
個室のドアが開き、現れたのはリリーナ・フレベル公爵令嬢だった。眩しく輝くハニーブロンドの髪、目が覚めるような青い瞳は少しだけつり上がっている。化粧のせいか大人びていて勝気な印象を与えるが、今日はどこか浮かない表情をしていた。
「リリーナ?」
アレンが声をかけると、ハッとした様子で顔を上げる。
どうやら、こちらに気付いていなかったようだ。
「ご、ごきげんよう、アレン殿下。ジェーン様」
「ごきげんよう。君も食事?」
「はい。昨日はお茶会を無断で欠席してしまい、申し訳ございません。ちょっと急用ができたもので」
彼女は本当の理由も告げずに、平静を装っていたが、その声は少しだけ震えている。
「ジャミルから聞いた時は驚いたけど、用事ができたのなら、仕方がないよ」
「わたくし、リリーナ様にお会いできず、とても残念だったのですよ。良ければ、お昼をご一緒しませんか?」
彼女の悲しみをこの身で浴びたいステイシーはそう提案すると、アレンはその考えを察したのだろう。一瞬呆れた目を向けた後、アレンは頷いた。
「それがいい。どうだろう?」
「え……はい。ご迷惑でなければ」
リリーナも同じテーブルに着き、食事を始めた。
悲しみを浴びたいと言っても、さすがに食事は和やかに過ごしたい。アレンも同じことを考えているようで、今日の授業のことや、本の話など、なるべくジャミルが話題に出ないように会話の流れを作る。一見穏やかな食事の光景に見えるが、リリーナの表情が硬く、いつもより周囲が薄暗く感じた。
デザートも終わり、食後のドリンクを口にしていると、リリーナが戸惑うように口を開く。
「あ、あの……昨日は……ジャミル殿下は他の女性を連れていきませんでしたか?」
二人があれ以上訊ねてこなかったことに疑問を覚えたのだろう。それに対して、アレンが肩を竦める。
「ああ、いたね? 名前を覚えてるかい、ジェーン?」
「嫌ですわ、アレン様ったら。紹介も受けていない相手の名前なんて知るはずもございません」
社交界には社交界のルールがある。顔を繋ぎ、知人となる為には、共通の知人から紹介を受けなければならない。
学園内であれば、授業で自然と顔と名前を覚えるが、交友関係の構築の仕方は社交界に則っている。
本来であれば、ジャミルは昨日の場でディアナを紹介したかっただろうが、アレンがリリーナの所在を訊ね、お茶の席を拒否したことでそれを阻止したのだ。
「アレン殿下、ジェーン様、この場では社交の作法抜きでご意見を頂きたいですわ」
リリーナの言葉に、ステイシーはアレンに判断を仰ぐ。
「ディアナ・オーシーのことかな?」
「そんな名前でしたね。礼儀作法も出来ないどころか身分も弁えない方でしたが」
まさか婚約者同士のお茶会に、ジャミルが彼女を連れてくるとは思わなかった。彼女が少しでも礼儀を弁えているのなら、ジェーンとしての自分の心象も変わっていただろう。
「わたくしがアレン様の隣にいるというのに、彼女はアレン様に触れようとしたのですよ。その場で叩き落して差し上げましたが」
ステイシーは護衛も兼ねている。そうやすやすと彼を触れさせるわけにはいかない。そもそも、みだりに身体に触れることはマナー違反なのだ。
ステイシーの言葉にリリーナが驚いたように息を呑んだ。普段のジェーンは誰かに敵意を向けるどころか、手を上げるようなことはしない。そもそも王族に馴れ馴れしく触れようとする不敬者がいるのがおかしいのだ。
「あのジェーン様が自ら手を?」
「ええ、まるでお菓子をくすねる幼子を叱った気分でしたわ」
茶目っ気を出してステイシーが答えると、彼女は少しだけ顔色が戻る。
「で、でも、ジャミル殿下は何も咎めませんでしたか?」
「咎められたという程ではございませんわ。むしろ、ジャミル殿下はディアナ・オーシーの言動を見ていなかったようなので、ご報告させていただいたまでです」
あの時のことを思い出したのか。隣にいたアレンも声を抑えて笑う。
「その後、すぐに解散になって、ボク達もすぐにあの場を離れたからね」
「解散に……?」
「ああ。婚約者同士の交流の場だろ? 君がいないのに別の誰かを同席させるわけにはいかないからね?」
アレンがそう答えると、リリーナは黙って小さく俯いてしまう。
「リリーナ様?」
「羨ましい……」
彼女がぽつりと言葉を漏らした時、テーブルクロスの上に雫が零れ落ちた。
「わたくし、お二人が羨ましいですわ……」
「リ、リリーナ様⁉」
いつも気丈に振舞っている彼女が涙を流し、ステイシーは慌ててハンカチを差し出す。これにはアレンも驚いたようで、目を見開いて彼女を見つめていた。
「どうしましたか? 何かあったのですが?」
「ジェーン様……実はジャミル殿下が昨日のお茶の席にわたくしではなく、ディアナ・オーシーを伴うと言ったのです。もちろん、わたくしは反対しましたわ。ジャミル殿下の婚約者はわたくしであって、彼女ではありません。いくら友人とはいえ、適切な距離感も分からないような方を王宮へ招くわけにはいかないとジャミル殿下を諫めました」
彼女の言い分は分かる。ディアナは驚くほどの常識の無さだった。天真爛漫といえば、聞こえがいいが、無知であることを上塗りしているだけである。
「それで、ジャミル殿下はなんと……?」
「殿下はお怒りになり、『オレの交友関係に口を出すとは、なんて傲慢な女だ。前々からお前の命令口調にはイライラしていたんだ。お前はオレの婚約者にふさわしくない』と……それで……驚いてよろけてしまい、制服を汚してしまいましたの」
彼女はあえて濁したが、実際は水溜りに突き飛ばされたのだろう。
婚約者にそのような扱いを受けて、ショックだっただろう。
傷つくリリーナを見て、ディアナが勝ち誇った笑みを浮かべる姿が容易に想像つく。
「言葉で言えば簡単ですが、わたくし、ジャミル殿下の婚約者に恥じない努力を重ねたつもりです。未来の国母になれずとも、彼の伴侶として支えるべく、王宮での厳しい教育にも耐え、互いに交流して仲を深めていたと思っていました。それなのに……それなのに……」
ステイシーもリリーナと同じように王子妃教育を受けてきたので、その辛さをよく知っている。特に彼女は生まれながら王子の婚約者として運命付けられていたのだ。家の為、ジャミルの為に人生を捧げてきたと言っても過言ではない。
「わたくし、互いに尊重し合い、支え合う、アレン殿下とジェーン様が羨ましいですわ。わたくしもお二人のように仲睦まじくできていたのなら……」
(いやいや、仲睦まじいと言っても、ビジネスな部分もあるのですが……)
しかし、そんなことを彼女に言うわけにもいかない。リリーナはステイシーから受け取ったハンカチで涙を拭い、彼女は深呼吸し、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「王宮のお茶会に参加しなかったことをお父様に知られ、説明を要求されました。とてもご立腹な様子で王家に抗議すると。そして、殿下を諫めきれなかったわたくしもお叱りになりましたわ。男爵令嬢ごときに遅れを取るとは情けないと……」
(ああ、予想通りか……)
ステイシーはアレンと視線を合わせ、互いに頷き合った。
「最後には、婚約者を変えるとも言い出しました。王家と交わした契約では、必ずしもジャミル殿下である必要はないと。さらにお父様はアレン様でも構わないと言い出したのです!」
(おっと~、まさかの挿げ替えが実行されちゃう⁉)
とはいえ、ジェーン・サイアンローズは実在しない令嬢である。婚約者の挿げ替えは容易いだろう。
一応、アレンの下にも弟がいるが、彼は飄々としていて掴みどころがない。ジャミルや弟と比べると、まともで扱いやすそうなアレンに目が留まるのも頷ける。
隣のアレンを見れば、彼の顔から表情が抜け落ちている。驚いているのか、それとも怒っているのか、長い付き合いのステイシーすら判別がつかない。
「わたくし、アレン殿下とジェーン様の仲を引き裂くなんてできません! それに、もし例えジャミル殿下との婚約を続行したとしても……わたくし、彼を支える自信がございません」
一度引っ込んだ涙が再び目からあふれ出した。ステイシーはリリーナの隣へ移動する。
個人への興味関心が薄くて、つい昨日まで『身分差恋愛、最高!』と歓喜していたステイシーだったが、その状況に応じてかける言葉くらい理解している。
「リリーナ様……とても、お辛かったですね。ずっと見ているだけで、手も差し伸べることもせず、申し訳ありません」
ステイシーがそう口にすれば、リリーナは自分が公爵令嬢であることも忘れ、ステイシーに抱き着いた。
「ジェーン様ぁ……!」
(ごめんなさい、リリーナ様……私、あなたの悲しみと葛藤をこの一身に浴びることができて、とても幸せです)
全ては自分の感性と価値観を養う為、ステイシーは心痛な表情を作りながらも、内心ほくほくした気持ちでリリーナを抱きしめ返した。
ふと、目の前から「参ったな……」というアレンの声が聞こえ、ステイシーは顔を上げた。
「どうしましたか、アレン様?」
「いや、リリーナに捨てられたら、ジャミルはどんな顔をするんだろうと思ってさ」
「わたくし、グスッ……顔も見たくもありませんわ」
鼻をすすりながらリリーナが答え、ステイシーは彼女の背を優しく擦りながらこう思う。
(私は絶望で顔を歪めてくれると嬉しいです。ディアナ・オーシーと一緒に)
「とにかく、今回の件は父上達にお任せしよう。リリーナ、愚兄のことで辛い思いをさせて悪かったね」
「いえ……アレン殿下がジャミル殿下を陰ながら諫めてくださっていたのは存じております。わたくしを守ってくださっていたことも……」
(え、何それ? 聞いていませんが?)
アレンに問い詰めるような視線を送るも、彼は華麗に無視して、リリーナへにっこりと微笑んだ。
「何のことかな? さて、そろそろ午後の授業が始まる。リリーナはもう少し落ち着いてから出ておいで」
「次は刺繍の授業ですから、先生には伝えておきますわ」
「ありがとうございます……」
アレンと共に個室を出ると、待機していた護衛と合流し、教室へ向かう。
そんな中、ステイシーは恨みがましくアレンに視線を送る。
(一体何をしたんですか~? 私が知らないということは、お父様とお兄様を頼りましたね~? なんで私を介してくれなかったんですか~)
無言の圧を掛けると、アレンは嬉しそうに口元を持ち上げた。
「妬いちゃった?」
アレンの茶化した物言いに、ステイシーは胸の奥で苛立ちにも似た感情が湧き上がる。
しかし、その感情を上手く言葉にできないステイシーは、護衛がすぐそこに控えているにも関わらず、公爵令嬢ジェーン・サイアンローズの仮面を一瞬だけ外してしまった。
「わかりません……」
そう、自分の感情がいまいち分からない。楽しいこと、面白いこと、嬉しいこと、嫌いなことはその場その場で理解ができる。しかし、それ以外のことになると途端に分からなくなってしまう。
人の感情は、直接伝えられる観劇や小説とは違って、分かりにくいものだ。しかし、長年の人間観察のおかげで、他者の表情や言動から感情を少しずつ読み取ることができるようになった。
しかし、未だに自分に対して鈍感なままだ。
ステイシーはハッとして再びジェーンの仮面をつけ直す。
「ごほん。ジャミル殿下の婚約者様ですもの。アレン様が心配するのも無理はありませんわ」
「なーんだ。ちょっと残念」
アレンは苦笑し、ステイシーの手を引いて教室まで歩き出す。
(でも、お父様やお兄様の手を借りたことは、ちょっと納得できませんからね~~?)
「午後は男女で科目が分かれていたね? また帰りにね?」
アレンと別れたステイシーは、実習室へ足を向けると渡り廊下でジャミルに出くわした。男子生徒は座学のはずだ。それなのに彼がここにいると言うことは、授業をサボるつもりなのだろう。彼の側にはディアナの姿もない。
ステイシーは失礼のない程度に挨拶をすると、ジャミルがステイシーの肩に触れた。
「おい、ジェーン。昨日はよくもオレに恥をかかせたな?」
「なんのこと仰っているのか分かりかねます」
自分達は当然なことをしたのだ。ジャミルが恥をかいたところでステイシーの失態ではない。
「っ!」
ステイシーの肩を掴んでいたジャミルが、不意に力を込めた。危うく反撃しかけたが、相手は王族だ。ぐっとこらえる。
「お前も公爵令嬢だ。地位や血筋の価値が分からない女ではないだろう?」
(何を言ってるの、この人?)
訝し気な目を向けると、ジャミルは不敵な笑みを浮かべた。
「アイツは第四王子で、幼い頃に病弱だったせいで王位継承権は最下位。アイツの元にいても、権力もろくに得られず、子をもうけてもアイツに似て病弱な子が生まれもしたら、サイアンローズ家には何も旨味はないだろう?」
「一体、何を……」
「ここのところ、リリーナが扱いづらくてな。もしお前が、アレンからオレに乗り換えて、リリーナを黙らせるのに手を貸すというのならサイアンローズ家にもお前にもいい思いをさせてやれるぞ。どうだ?」
(本当にこの人は何を言っているの?)
ステイシーは困惑した。
ジャミルの地位はフレベル公爵家の後ろ盾があって成立している。
まるで自分に権力があるように振舞う意味が分からなかった。彼女を蔑ろにするようなことがあれば、ステイシーの首は簡単に飛んでいくだろう。
「ジェーン?」
不意に名前を呼ばれ、ステイシーは声のした方へ顔を向けると、そこには笑みを浮かべたアレンがいた。
「それにジャミルまで。二人で何をしてるの?」
アレンはステイシーの肩を掴んでいたジャミルの手を払うと、ステイシーを抱き寄せた。
「あ、アレン様?」
「君に話し忘れていたことがあってね。探しに来たんだ……それで、ジャミルは彼女に何の用だったの?」
がっつり腰に手を回されて引き寄せられたせいで、彼の顔が見られない。腰に回された腕が、じりじりと力を込めているのを見るに、怒っているのだろうか。
「すごい親し気に見えたけど……気のせいかな?」
「た、ただの世間話だ。じゃあな!」
ジャミルが舌打ちし、そさくさと退散していく。
ジャミルの姿が見えなくなると、アレンは脱力したようにため息をつき、ステイシーを抱きしめていた腕を緩めた。
「はぁ~~~~~~……良かった。ボクの可愛いジェーンが危うく穢されるところだったよ」
「大袈裟ですよ。一体何の用ですか?」
「君がジャミルと一緒にいたのが見えて慌てて追いかけてきたんだよ……」
護衛がいるからか、甘えるふりをして頭を寄せたアレンはステイシーにこっそり耳打ちをする。
「それで、何を言われたの?」
「アレン様のお耳に入れるほどのものではありませんわ」
「ふーん。…………ふーん」
アレンは不満げな声が聞こえたが、ステイシーに聞き流すことにした。
◇
リリーナ・フレベル。フレベル公爵家の長女で、ジャミル第三王子の婚約者だ。
王族との婚約は、リリーナが生まれる前から決められていた。王家に女児が生まれた時は、公爵家に降嫁させ、フレベル家に女児が生まれたら、王族に嫁がせるというもの。
王家もフレベル家も男児続きだったため、リリーナが生まれた時は喜ばれた。ちょうど同い年に双子の王子も生まれている。アレンは病弱だったためにリリーナはジャミルと婚約することになった。
最初は、ジャミルと勉強したり、アレンとその婚約者のジェーンも交えてお茶をしたりして、互いの仲を深めていた。婚約者として申し分ない令嬢になれたと思っていたが、リゼル学園に入学して、ジャミルは変わってしまった。
王族という肩書で周囲に持て囃されるようになり、言葉を悪く言えば、調子に乗るようになったのである。
そして、四年生になって、ジャミルはディアナという男爵令嬢を侍らせるようになり、しまいには恒例のアレンとジェーン達とのお茶会にディアナを連れて行くと言い始めた。結局、ジャミルを諫めきれず、父親にも叱責され、淑女として再教育を言い渡されることになった。
アレンとジェーンに弱音を吐いた日から数日後。
友人達はリリーナが落ち込んでいると察したらしく、流行やお菓子などいつも以上に明るい話題を投げてくれるようになった。どうやらリリーナの視界にジャミルが入らないように、気にかけてくれているらしい。おかげで少しだけ気が楽になったが、リリーナを悲しませる元凶は自分の足でやって来た。
「きゃあ!」
廊下で友人達に囲まれたリリーナがディアナとすれ違うと、ディアナが大袈裟に声を上げて転んだのだ。
周囲が嘲笑交じりに「どんくさい」「大袈裟な」を口々に囀る。
「なんてことをするんですか、リリーナ様!」
「え?」
一瞬、何を言われているのか分からず、リリーナが戸惑っていると、友人達がリリーナを守るべく前に出た。
「ディアナ・オーシー。公爵令嬢であるリリーナ様に一体、どういうつもりで声をかけているのかしら?」
友人の筆頭格であるバーバラ・ランドール伯爵令嬢がディアナを睨みつける。
「どういうつもりって……リリーナ様が私に足をひっかけてきたんです!」
「リリーナ様は私達に阻まれる形ですれ違ったのよ。貴方に足を掛けられるわけがありません」
「じゃあ、貴方達の誰かが私に足を引っかけてきたんだわ。もしかして、リリーナ様が命令したの? 私がジャミル様に愛されるのに嫉妬して!」
「貴方ねぇ!」
バーバラの顔が怒気に染まった時だった。
「何をしている!」
「ジャミル殿下……」
なんてタイミングだろうか。騒ぎに駆けつけたジャミルがディアナとリリーナの存在に気付き、眉間に皺を寄せた。
「ディアナ、一体何が?」
「ジャミル様ぁ~、リリーナ様達が私をいじめるんですぅ~」
泣き真似をしながらジャミルに縋りつく。そんな彼女の言葉を真に受けて、リリーナへ厳しい目を向けた。
「リリーナ! 公爵令嬢として恥ずかしくないのか!」
叱責するジャミルに、慌ててバーバラが前に出た。
「殿下、誤解でございます! リリーナ様は……」
「伯爵令嬢ごときが口を挟むな、この無礼者!」
ジャミルがそう怒鳴りつけると、気の強いバーバラも委縮してしまう。
その様子を見たジャミルは鼻を鳴らした。
「目下の者も躾けられないとは嘆かわしい。ディアナに対する態度といい、お前には心底がっかりした」
「じゃ、ジャミル殿下……?」
「この件については、父上に報告させてもらう!」
ジャミルはそう言い放つと、ディアナの腰に腕を回して歩き出した。立ち去り際に、目を瞠り、言葉も出なかったリリーナをディアナが鼻で笑ったのが見えた。
(悔しい……)
婚約者が自分ではなくディアナを庇い、そしてディアナが勝ち誇ったように笑ったのが、悔しくてたまらなかった。
息が詰まるような思いに、リリーナは小さく拳を握りしめた。
友人達に促されて、リリーナは逃げるようにしてその場を離れる。
「リリーナ様、次の授業はお休みしませんか? 中庭の温室に綺麗な花が咲いたそうなので、休憩しに……」
「ごめんなさい……しばらく一人にしてくれるかしら?」
誘ってくれた友人達にそう告げると、リリーナはサロンに引きこもった。
疲れ切ってしまったリリーナは侍女にも席を外させる。
「どうしてこうなってしまったのかしら……」
そんな言葉が出る時、いつも仲睦まじく並ぶアレンとジェーンの姿を思い浮かべる。
幼い頃に病弱だったせいで王位継承順位を下げられた第四王子アレン。そんな彼を支えるのはサイアンローズ家ジェーンだ。
リリーナと初めて会った時から、彼らは仲が良く、リリーナは二人の関係に憧れを抱いた。
(わたくしも、あんな風になれたら良かったのに……)
授業が始まる鐘が鳴り、リリーナはため息を漏らした。
最近、授業も欠席しがちだ。授業中でも口さがない者達が、ジャミル達について話しているのをよく耳にしていた。
特に刺繍や詩の授業では、会話も交えて行うせいか、リリーナの耳にも届いた。友人達が聞こえないように気を遣っているのも知っている。
屋敷に帰れば、再教育として、新たに雇った家庭教師に勉強を叩き込まれた。休日は王宮にも呼び出され、王子妃教育だ。
今のリリーナに心が休まる時間はなく、気を抜けば涙がこぼれそうだった。
こんっと窓が小さく叩かれたような音がした。
虫が窓にでもぶつかったのだろうかと目を向けると、友人が話していた温室が目に入る。
(……ここに閉じ籠っても仕方がないし、見に行ってみようかしら)
もう授業中だ。温室には誰もいないだろう。
リリーナはサロンを出て温室へ足を運ぶと、彩とりどりの花々がリリーナを迎えた。
「綺麗……」
「あれ? リリーナ嬢?」
誰もいないと思っていた温室で声をかけられ、リリーナの肩が小さく飛び跳ねた。
「あ、やっぱりリリーナ嬢だ。ごきげんよう」
現れたのは、まだ声変わりの済んでいない少年だった。少し青みを帯びた銀髪に青紫色の瞳の少年に、リリーナは見覚えがある。
「マクシミリアン殿下?」
ジャミルとアレンの弟、マクシミリアン第五王子。末弟ではあるが、王位継承順位は兄のアレンを抑えて四位だ。確か彼は中等部に所属しているはずだった。
「どうして殿下がこちらへ?」
「ちょっと探検してみたくなって。同じ敷地内で出入りは自由だし、高等部の庭ってどんな感じなのかなってさ。時々こうして遊びに来てるんだ」
確かに出入りは自由なので彼を咎める理由はないが、中等部も今は授業中ではないだろうか。
「あ、授業をサボってるのはお兄様達には内緒だよ?」
茶目っ気たっぷりに笑ったマクシミリアンが微笑ましく、リリーナは思わず笑みが零れた。
「そうですね。実はわたくしも授業をわざと欠席したんです。お互い秘密にしましょうね」
「えへへ。じゃあ、秘密のサボり仲間だ。リリーナ嬢はお菓子好き? オレ、いつもこっそり持ち歩いてるんだ。一緒に食べよう」
マクシミリアンに温室内のベンチまで案内され、リリーナはどこかほっとした気持ちでマクシミリアンと過ごしたのだった。
◇
ジャミルとディアナのロマンス劇は人目も憚らず繰り返され、新たな波乱を呼ぶことになった。
ディアナが一人きりになったのを見計らい、令嬢達が嫌がらせをするようになったのである。
ぱしゃりと水を浴びせかける音が裏庭に響いたと同時にディアナの悲鳴が上がった。
「何をするの!」
水は上から降って来た。ディアナが顔を上げると、その犯人の姿は見えず、笑い声だけが聞こえてくる。
「最悪。こんな姿じゃジャミル様とお会いできない……」
(とか言いながら、ジャミル殿下にお会いするんですよね? 知ってます!)
その光景を盗み見していたステイシーは、彼女の奇怪な言動を大喜びして手帳に書き記す。
ここのところ、勃発しているディアナへの嫌がらせは、一見リリーナが関わっていると思われたが、彼女の派閥とはまったく関係のないところで起きていた。そもそもの原因は、ディアナへの嫉妬が一割、ディアナの言動にイラつくのが一割、ディアナの自作自演が八割である。ディアナに嫌がらせする二割の生徒はリリーナとディアナの仲が悪いことにかこつけて行っているのだ。
それを受けてリリーナ派閥の令嬢は、ディアナに関わることなくリリーナを守ることに徹している。どうやら、リリーナに付いている影達が率先して動いているようだ。
先日、フレベル公爵が動いたと連絡が来たので、王家の影達も胃をキリキリさせて働いていることだろう。
なんたって、このディアナ・オーシーは想定よりも面の皮が厚く、大胆で、強かな女だった。
彼女は濡れた制服を見るなり、低く唸った。
「思ったより濡れてない……」
おそらく、彼女達は小さな花瓶程度の水を上から落としたのだろう。肩口からスカートの裾に向かって細い線のように濡れている。
「どうせなら、バケツで水を掛けてくれたらよかったのに……追加しよ」
そう言って彼女は裏庭にあった池の水を自分にかけると、嬉々としてその場を離れて行った。
「はぁ~、ディアナ・オーシーは本当に観察し甲斐がありますね~」
「ステイシー?」
オペラグラスを取り上げられ、ステイシーが顔をあげると、不機嫌な顔のアレンが隣に座っていた。
「ボクが隣にいるのに、なんでディアナ・オーシーばかり見てるの?」
「殿下こそ、今日の私は婚約者じゃないので、わざわざ一緒に過ごさなくていいんですよ?」
今日はジェーンではなく、ステイシーとして過ごしている。そして、非番なので護衛は他の影に任せてステイシーはのびのびとしていた。
アレンは不機嫌そうに目を細めると、小さくため息をついた。
「ジェーンじゃない君とも一緒に過ごしたいに決まってるだろ? 君はボクの護衛で婚約者なんだから、ボクのことを見ててくれないと。ね?」
アレンはあざとく小首を傾げるが、ステイシーはにこやかに返した。
「護衛の私も婚約者の私も、今日は非番です!」
「ずるい。王子のボクにも非番が欲しい。そうだ、今日がその非番にする」
アレンは勝手なことを言って、ぴったりステイシーにくっつく。なんというか、大型犬に寄り添われている気分だった。
(なんか、今日はやけに甘えん坊ですね……)
軽く寄りかかられ、押し返すように態勢を整える。
「殿下~、護衛はどうしたんですか~?」
「殿下のボクは非番だから、護衛はいないよ」
(また撒いてきましたね)
仕方ない王子様だと呆れつつも、彼が疲れているようにも見えた。
王位継承争いから外れているとはいえ、王子である彼は常に誰かに見られている立場だ。王子にも非番があってもいいだろう。ステイシーが彼の頭をそっと撫でると、不意に身体が軽くなったかと思えば、アレンが体重をかけ始めた。
(重っ!)
一応鍛えているとはいえ、完全に油断していた。そのまま押し倒されて、アレンがステイシーに覆いかぶさる。しかも、ステイシーの両手首を掴み、スカートを膝で抑え、完全に押さえ込まれた状態だ。
アレンは上機嫌でステイシーを見下ろす。
「ステイシー、捕まえちゃった」
「なんでそんなニコニコなんですか?」
「なんでだろうね? そうだな、当ててごらん? ステイシーが大好きな人間観察だよ」
「人間観察って言われても……うーん」
恋愛小説で男性が女性を押し倒す時は、ヒロインを庇ったり、キスシーンだったりする。
しかし、アレンとステイシーはそんな甘い関係ではないので除外する。
ずっと答えが出ないステイシーに、なんのイタズラか、アレンはぐっと身体を近づけてくる。
「?」
徐々に徐々に二人の距離が縮まっていき、互いの額が合わさった。
「はい、時間切れ~」
「え~」
アレンは身を起こしてステイシーを解放すると、不貞腐れたように唇を尖らせた。
「もう、ステイシーは少し無防備だよ? 本当に影なの?」
「アレン殿下が相手じゃなければ、油断はしませんよ」
「え?」
アレンが豆鉄砲を食らった鳩のような顔をして固まる。
「どうかしましたか?」
「あ、ああ。なんでもない……ところで、なんで非番なのにディアナ・オーシーを観察してるのさ?」
「アレン殿下の婚約者をお守りするためですよ?」
「ジェーンを?」
「はい。どうやら、ディアナ・オーシーは一連のいじめをリリーナ様とジェーン様に押し付けようとしているらしいです。リリーナ様は守ってくれるご友人がいますが、ジェーン様は違いますからね」
本当に肝の太い女である。上流貴族に濡れ衣を着させようとするなんて。
しかし、王家の守りは固い。そして、ジェーンが無実である証拠も自分できちんと押さえていた。
「最近では自作自演でいじめられたと主張しています。本当によくやりますよ」
「恐れ知らずだね……」
「ところで、リリーナ様のことでお父様とお兄様に何をお願いしたんですか?」
先日、リリーナがアレンに礼を述べていたことに対して、ステイシーは彼に言及できていなかった。
(私を通さず二人に頼るなんて~)
恨みがましく睨んでやれば、彼はきょとんとした顔をする。
「え? 何のこと?」
「リリーナ様にお礼を言われていたじゃないですか。リリーナ様を守るためにお父様とお兄様に頼ったんじゃないですか?」
「ステイシー、もしかしてリリーナに妬いちゃった? それとも父兄にお仕事を取られたと思った?」
「ちーがーいーまーす~。殿下の担当は私です。私を介さずに担当外に頼んだら、私の信用問題になるんですよ」
「ああ……そういうこと?」
どうやら、そこまで考えが至らなかったらしい。彼は手をぽんと叩くと、ステイシーの頭を撫でた。
「大丈夫だよ。ボクの可愛いステイシー。ボクはキミを手放すつもりはない。それにリリーナについてのことだけど、僕が渡した情報を基に、君の父兄が彼女の守りを強化しただけだよ」
「なぜ殿下が?」
「この間、陛下を通じて君の父兄に情報提供を求められたんだ。『うちの子が独自に持っている情報を私達に教えて欲しい』って。ステイシー、情報提供を拒否したんだって? ダメじゃないか」
「……提供した情報ってもしかして、小説のネタ用のアレ⁉」
アレンは静かに頷いた。
(な、なんてことを!)
そもそもあれはアレンの新作を読みたいがために、恋愛から政治的なあれこれまで一通りかき集めたものだ。
「きょ、拒否したんじゃありません! 情報を精査して必要なものをお渡ししたんです!」
根も葉もない噂も入っているというのに、それを仕事として提出するのは憚られた。アレンにそのまま渡せることができたのは、小説のネタに使えるという理由だけだ。
(殿下が私の情報を横流しするなんて~)
内心でむくれていると、アレンがつんとステイシーの頬を突いた。
「ねぇ、ステイシー? ボク、ちょっと困っていることがあるんだけど、助けてくれない?」
「命令でなければ応じかねます。今日は非番ですし」
ぷいっと顔を逸らすと、彼はクスクス笑いながら、ステイシーの頬に手を伸ばす。
「意地悪なこと言わないで。ステイシーにも悪くない話だと思うよ?」
「悪くない話……ですか?」
アレンはステイシーの髪を耳に欠けると、そのまま耳元で甘く囁いた。
「ねぇ、ステイシー? 特等席で人が不幸になる瞬間を見たくない?」
「……!」
「絶望で顔を歪める男女の姿を見たくない?」
「ううっ……!」
「自らの手で自分の子どもに罰を与える親の苦悩を浴びたくない?」
「んぐぅ……」
すぐに「はい」とは返事ができなかった。
自分の趣味と喜びが道徳的に反していることは分かっている。分かっているからこそ、簡単に返事をしてはいけなかった。
もう一声! そんな意味を込めて、一本指を立てるとアレンの笑みが深まった。
「有力な後ろ盾が見つからず、その上優秀な兄達が目立つおかげで王位継承争いの土俵にも上がれず、おまけに好きな女性が苦しむ姿を見ることしかできなかった男が、好きな女性も後ろ盾も手に入れて、ようやく日の目を浴びる瞬間を見たくない?」
「見たいです!」
人の不幸を浴びるのも好きだが、人の幸せを浴びるのはもーっと大好きなステイシーは、すぐさま答えるのだった。
◇
「さあ、ジェーン。行こうか?」
「はい、アレン様」
アレンと共に国王に呼び出されたステイシーは、ジェーンとして王宮に足を運んだ。
これから何が起こるか事前に分かっているステイシーは、内心うきうきした心持ちで、アレンに手を引かれていた。
向かった謁見の間には、すでにアレンの両親である国王と王妃の他にフレベル公爵とリリーナが待機していた。おそらく、今日のことについて話を先に話をしていたのだろう。
「陛下、第四王子、アレン。サイアンローズ公爵令嬢を伴い、参上いたしました」
アレンと共に礼をすると、国王は頷いた。
「ご苦労。ジェーン・サイアンローズ公爵令嬢、準備は?」
「はい。万事抜かりなく」
そう言って微笑むと、アレンと共に国王の後ろへ移動する。
最後に謁見の間に入室したのは、問題の二人。
ジャミルと一緒に並ぶのは、必要以上に着飾ったディアナだ。まるで彼女がパーティーの主役かのように現れ、フレベル公爵が顔をしかめたのが分かった。
「陛下、第三王子、ジャミル参上いたしました」
「オーシー男爵けの……」
「此度、集まってもらったのは、他でもない。先日そなたが進言したフレベル公爵令嬢の醜聞についてだ」
ディアナの言葉を遮り、国王が口を開いたことで謁見の間に重たい空気が流れた。
挨拶もろくにさせてもらえないとは思わなかったらしく、ディアナは呆けた顔をしていた。
「今回の件について、公平な判断を下すため、当事者の他に同学年のアレンとサイアンローズ公爵令嬢にも同席してもらう」
アレンと共にステイシーは頭を下げ、階下にいるジャミル達を見下ろした。
「まずは結論から述べよう。此度を以って、第三王子ジャミルとフレベル公爵令嬢リリーナとの婚約を解消する」
その言葉を聞いて、ジャミルとディアナの顔に笑みが浮かんだ。うっとりとした様子で見つめ合う二人に、国王はさらに告げた。
「それに伴い、第三王子ジャミルは王家の権威を著しく損なわせたことにより、王位継承権を剥奪する」
「…………は?」
まさか自分の王位継承権が剥奪されるとは思ってもいなかったのだろう。ジャミルの顔から表情が抜け落ちた。
「へ、陛下、どういうことですか⁉」
「フレベル公爵家との婚姻は、我が父である先王が取り決めたもの。それを反故する行いは、王家の権威を損なわせる。よって、第五王子、マクシミリアンとフレベル公爵令嬢が婚約を結ぶ。マクシミリアン。入りなさい」
「はい」
袖に待機していた第五王子、マクシミリアンが現れ、リリーナの隣に移動する。
そして恭しく彼女の手を取り、アレンとステイシーの隣に並んだ。
「第三王子、ジャミルの王位継承権剥奪に際して、第五王子、マクシミリアンが王位継承第三位、第四王子アレンを第四位に繰り上げとする」
「納得がいきません! なぜ私が王位継承権を剥奪されるのですか! リリーナは私の友人であるディアナに嫉妬し、目下の者を使ってディアナに嫌がらせを繰り返していたのです」
「それについてはすでに調べはついている。アレン、サイアンローズ公爵令嬢」
「はい、陛下」
アレンと共に一歩前へ出て、頭を下げる。
「まず、第三王子ジャミルの進言の他に、フレベル公爵の依頼により学園内でのジャミル、フレベル公爵令嬢の素行調査を秘密裏に行わせていただきました」
アレンがそう口にすると、ジャミルが顔色を変えてアレンを睨みつけた。
「お前、いつの間にそんなことを……!」
「とはいえ、私の権限ではできることが限られるため、我が婚約者ジェーンの生家に協力してもらいました」
アレンにバトンを渡され、ステイシーはにっこりと微笑んだ。
「此度の依頼を受けて、我がサイアンローズ家は学園に広がる噂を元に調査をさせていただきました」
正確にはグロウズ家だが、そこは大きな問題ではないだろう。
「噂だと?」
「大きく分けて、三つの噂を解説いたします。まずはジャミル第三王子が特定の女子生徒を侍らせ、フレベル公爵令嬢を蔑ろにしている件について」
「は⁉」
ステイシーはジャミルを無視して報告を続ける。
「まず、ジャミル殿下の交友関係についてですが、一日を通して、男子生徒のご友人よりも特定の女子生徒との逢瀬を重点的に行っておりました。一日における交流の平均時間、四時間。そして、とても親密な仲をお過ごしだったようです。交流内容については、別紙にてお渡しいたします。さらにはジャミル殿下がフレベル公爵令嬢を貶める発言をしている場面を複数の生徒だけでなく教師、用務員からも確認が取れました」
学園でなら国王の目に届かないと思っていたのだろう。残念ながら学園には、王家の息がかかっている者が多く潜んでおり、生徒達の動向を常に探っているのだ。
顔を青くするジャミルを見ていると、ステイシーのうきうきは止まらなかった。
「それから、フレベル公爵令嬢による特定の女子生徒への嫌がらせの件ですが、実行犯はフレベル公爵令嬢でもそのご友人方でもございません。その以前からフレベル公爵令嬢に監視を付けておりましたが、ご友人方が優秀な方ばかりで、噂の的になっている女子生徒への接触を避けるように行動していました。さすがです」
フレベル公爵からの抗議を受けて、影達が積極的に動いていた結果だ。彼らは上手く彼女達を誘導し、接触を控えさせたのだ。
「そして肝心の実行犯ですが、三名の中流貴族の女子生徒を捕らえました」
「なんだと! なら、そいつをこの場に引っ張り出せ! きっとそいつがリリーナに罪を被せたのだろ!」
ここぞとばかりに声を荒げたジャミルに、ステイシーは微笑む。
「残念ながら殿下。彼女達はフレベル公爵令嬢に罪を被せていたわけではありません」
「なんだと?」
「三つ目の噂を解説させていただきます。ディアナ・オーシ―が自作自演をして、リリーナ・フレベルへ濡れ衣を着させているという噂です」
ステイシーが手を叩くと、グロウズ家の使用人達が嫌がらせを受けたであろう汚れた教科書や壊された筆記用具などを持って現れた。
「実行犯として捕らえ女子生徒に事情聴取をしたところ、ディアナ・オーシーが受けている嫌がらせの数と彼女らが実行した数は明らかに違っていました。そこでディアナ・オーシーが被害を受けた品々を拝借させていただき、指紋を取らせていただきました。実行犯の女子生徒だけでなく、参考にフレベル公爵令嬢、その友人方の者も検証の為にサンプルを頂いております。しかし、不思議なことにどなたの指紋とも一致しませんでした」
ステイシーは使用人達に目配せして、直近で紛失した彼女の私物と指紋を採取する道具を用意させ、ディアナ・オーシーに向かって微笑んだ。
「ディアナ・オーシー。貴方の指紋を頂いてもよろしいかしら?」
「そ、そんなの! そんなの直接触らなければいいじゃないですか! バカバカしい! それに私は実際に水を掛けられたんですよ!」
ディアナが大声で叫ぶと、ステイシーは内心で嬉々として見つめる。
「ええ、そうね? 水を軽くかけられた後、大袈裟にしようと裏庭の池で水浴びをしていたのをわたくしとアレン様が目撃しましたわ」
これにはディアナだけでなく、その場にいた皆がぎょっと目を剥いた。
「わたくしの報告は以上となります。国王陛下」
「よ、よく調べてくれた。フレベル公爵、今回の件について、申したいことがあれば、発言を許す」
「恐れ入ります」
フレベル公爵が前に出ると、彼はジャミルとディアナを睨みつけた。
「まず我が娘、リリーナの尊厳、名誉を傷つけたことに対して、第三王子ジャミル殿下とディアナ・オーシーに慰謝料を請求いたします」
「後日、オーシー男爵家に通達し、また王家の資産ではなく、ジャミル本人の資産で支払うよう手続きを行う」
「へ、陛下!」
絶望した表情を浮かべるジャミルに、国王がため息を漏らした。
「ジャミル。王族とはいえ、然るべき行いをし、責任を果たさなければ、民は付いてこないと何度も教えていたはずだ。それをお前は婚約者であるリリーナを蔑ろにしたことで、王族の責任を放棄し、フレベル公爵家の心が離れて行ったのだ。私は国王として責任を果たし、お前を廃嫡とする」
「そんな……」
その場に立ち尽くすジャミルから目を離し、国王はアレン達に目を向けた。
「アレン、サイアンローズ公爵令嬢、ご苦労だった。マクシミリアンとフレベル公爵令嬢も退室を許可する」
「それでは御前を失礼させていただきます」
ステイシーはアレンの手を取り、謁見の間を後にする。
(眼福でした……)
ステイシーは内心で静かに合掌するのだった。
◇
王家の中庭にある温室に、マクシミリアンはリリーナを連れて訪れていた。
「今回の件は大変だったね。リリーナ嬢」
温室内にあるベンチに腰を下ろすと、マクシミリアンはそう口を開いた。
「マクシミリアン殿下こそ、この度は大変ご迷惑をおかけいたしました」
「気にしないで。オレ、リリーナ嬢が傷ついている姿を見るのがとても歯がゆかったんだ」
「え……?」
マクシミリアンの言葉にリリーナは目を見開いて驚いていた。
「実はその……小さい頃からリリーナ嬢に憧れていたんだ。当時勉強嫌いだったオレと違って、王子妃教育でダンスや礼儀作法を一生懸命に学ぶ姿勢が、とても格好良くって、オレも頑張ろうと思えた。それにどんどん綺麗になっていくリリーナ嬢の隣にいるジャミル兄上がとても羨ましかった」
一番目と二番目の兄は殊更優秀だったが、四番目の兄、アレンも勉強ができる方だった。そんな兄達に囲まれていたマクシミリアンに周囲は期待して教育を施したが、マクシミリアンはやる気を失ってしまったのだ。
そんな時、マクシミリアンは王子妃教育に励むリリーナの姿を見かけた。
ダンスも、礼儀作法も綺麗で、教師への受け答えもはっきりとしている。それに加え、彼女は王族ではない。そんな彼女の厳しい教育に向かう姿が格好良く見えたのだ。
彼女に憧れを抱くようになってマクシミリアンは王宮での勉強を頑張った。それこそ、リゼル学園の教育内容を予習し、のんびり過ごすことができるくらいには。
しかし、自分がいくら努力しても、自分の隣には彼女はいない。いつかリリーナと結婚する兄が羨ましかったし、正直妬ましかった。
リゼル学園に入学してから兄がリリーナを蔑ろにしていると聞いて、憤りを感じたのを今でも覚えている。
手助けしたくても、下手に首を突っ込めば、王位継承争いだの痴情のもつれだのと騒ぎ立てる輩が現れてしまう。それは国王である父だけでなく、彼女にも迷惑をかけることになる。
「兄の身勝手な行動で傷つくリリーナ嬢を手助けできず、学園の温室でもお菓子を食べながら世間話しかできない自分がとても情けなかった。でも、こうして婚約者として貴方を守る立場が得られて、オレはその……」
長い間、片思いをこじらせていたせいか、なかなか次の言葉が出てこない。だんだん、頬が熱くなっていくのを感じていると、不意に手を取られた。
驚くまま彼女の方を見ると、リリーナはマクシミリアンに優しく微笑んでいた。
「マクシミリアン殿下は、お菓子を食べながら世間話しかできないご自分が情けないと仰っていましたが、それだけでもわたくしはとても救われました。それにジャミル殿下を諫めきれず、後悔ばかりするわたくしに、思いを振り切るきっかけを下さったことに感謝しています」
何度か温室で逢瀬を重ね、マクシミリアンはリリーナに思い切って『兄上を捨てて自分と婚約して欲しい』と伝えた。
自分なら彼女をこんなに悲しませない。彼女が人よりも努力したように、自分も彼女の為に努力する。なんなら兄も蹴落とすと覚悟を決めた。
「……リリーナ嬢。あの時、オレの告白に頷いてくれてありがとう。オレは一生かけて貴方を幸せにする努力をする」
「はい。わたくしも……末永く貴方にお仕えいたします」
「いいぞ~~~~~~~~~っ! もっと私に二人の幸せを浴びさせろ~~~~っ!」
「ステイシー……」
オペラグラスを片手に歓喜の雄叫びを上げるステイシーの横で、アレンが呆れた声を漏らしていた。
しかし、そんなアレンのことなど気にせず、不敬にも彼の肩をバシバシと叩いた。
「見てください! アレン殿下! 最高のハッピーエンドじゃないですか! 小説のネタに使えますよね! これ! アレン先生の次回作に決定ですよね!」
「こーら、ステイシー。落ち着きなさい」
今、ステイシーはジェーンの姿を解いて、王宮の中庭にあるツリーハウスの中にて、リリーナとマクシミリアンの様子を見守っていた。手汗握る初々しい二人のやり取りにステイシーはわくわくうきうきが止まらない。
アレンに協力を頼まれてから、ステイシーはアレンの脚本を元にマクシミリアンとリリーナをくっつけるべく行動を起こした。
グロウズ家への協力依頼し影を総動員させ、自身も駆けずり回り、噂や会話誘導などを用いてマクシミリアンをせっついたり、リリーナと二人きりになる機会を作ったりした。それに加えて証拠集めや指紋採取なども行っていたので自分の身体が後三つほど欲しかったほどである。
ジャミルは、リゼル学園から監視の目が行き届いた他国の学校へ留学が決まっている。卒業後は手ごろな家へ婿入りさせることになるだろう。ディアナはすでに彼女の父親と話がついており、自主退学という形でリゼル学園を離れ、修道院へ入る手続きを行った。
これにて、一件落着である。
「はあ、幸せです。良かったですね、リリーナ様……」
「もう、ステイシー。あまりジロジロ見るのははしたないよ」
オペラグラスを取り上げられ、ステイシーは「あ」と声を上げる。
「殿下~! 返してください~! これは私のご褒美なんですから~!」
「だーめ。いくらなんでもこれ以上は、ボクの良心が痛むよ。マクシミリアンだって頑張ったんだから、二人だけの思い出にしてあげよう?」
「でもでも! マクシミリアン殿下やリリーナ様だけでなく、アレン様のお願いの為に私はもーっと頑張りました! 労いの意味も込めて、二人の幸せをもっと浴びてもいいはずですー!」
オペラグラスを取り返そうと、必死に手を伸ばす。互いに座っているとはいえ、アレンは自分よりも手足が長く、ステイシーがただ手を伸ばすだけでは届かない。
かくなる上は、アレンの肩に手を置き、彼の身体を跨ぐようにして膝立ちをする。もう少しで手が届くと思った時、ステイシーの身体がぐらりと大きく傾いた。
「だーめ」
「きゃっ」
そのままアレンに覆いかぶさるようにして倒れ込み、アレンはステイシーの背中に腕を回した。
「労いならボクがしてあげるからさ。ほら、ステイシー。頑張ったねー」
彼はオペラグラスを手が届かないところに放り、その空いた手で頭を撫でる。
(この労いはちょっと違うといいますか、なんと言いますか……)
そう思いながらも抵抗する気も起きず、ステイシーはアレンに身体を預けて彼の労いを享受した。
耳元で聞こえるアレンの心音に心地よさを覚え始めた頃、アレンは頭を撫でるのを止めて、ステイシーの髪を弄び始める。
「ねぇ、ステイシー? どうして君は人間観察が好きなの? なんというか、まるで小説を読んで楽しむみたいに」
「前にも言ったじゃないですか。個人への興味関心が薄い私が自分の価値観や感性を養うためです」
「きっかけはなんだったの?」
「アレン殿下ですよ」
「え?」
ステイシーは何事にも淡々と、粛々と影として教育を受けてきた。そして、それなりに上手くいっていたのだ。正直、兄よりも覚えが早かったと父親から聞いている。
ただ、あまりの興味関心の薄さに、周囲から浮いてしまわないか父は心配だったようだ。そんな時、ステイシーに病弱な第四王子の話し相手兼護衛の任を与えられた。
「アレン殿下と初めて顔を合わせた時、なんかこう落ち着かなかったんですよね。一緒にお茶をして、話ししたり、遊んだりする度に胸がざわつくような感覚がしたんです」
今でもよく覚えている。あの頃のアレンは病弱で、ステイシーはよく彼の話し相手になった。ステイシーがアレンの為に何かする度に彼は喜んでくれた。それが嬉しいという感情だと今のステイシーは分かるが、あの頃は何も分からなかったのだ。
「ずっとその答えがでなくて悩んでいた時、お父様が観劇に連れていってくれました。現実の大人達と違って、役者は表情豊かなに感情を表現するじゃないですか。それで私はようやく自分の感情を知れたんです。アレン殿下と一緒にいた時の感情は嬉しいっていうことなんだって。だから私は、今も自分の感情を知るために人を観察しているんですよ」
しばらくして、彼の仮初めの婚約者として役目を与えられ、自分が知らない感情がたくさん現れるようになった。
自分ではなく父や兄を頼ったのではないかという不満や、こうして抱きしめられている時の安心感も、なぜ自分がそう感じているのか分からない。
「殿下と一緒にいると、分からない感情がいっぱい出てきますが、少しずつ分かるようになって私はとても嬉しいんです」
「……今、ボクがこうしているのは嫌?」
「いいえ」
「そう……」
彼はゆっくり体を起こし、ステイシーは彼の膝に乗るような形で落ち着く、そのうち、彼が顔を近づけてきた。
(ああ、また額をくっつけるのかな?)
そう思って少しだけ顔をあげると、アレンの唇と自分の唇が重なる。
「……………………?」
触れるだけの口付けだったが、ステイシーの頭の中は一瞬で真っ白になった。
一体、どのくらい唇を重ねていただろうか。彼の顔が離れた時もステイシーは身動きもできなかった。
(一体、今私の身に何が起きたの? え? ええ?)
「ステイシー?」
彼は嬉しそうにして、自分の指にステイシーの髪を絡めた。
「今、どう思った?」
「え? え? ええっと……わかりません。頭の中が真っ白です」
「そう。じゃあ、ステイシーが大好きな人間観察だよ? どうしてボクは君にそんなことをしたと思う?」
「え、わかりません……セクハラですか?」
「違うよ」
アレンはそう苦笑すると、ステイシーを再び抱き寄せた。
「あのね、ステイシー。君はいつかボクとの婚約を解消させられて、ボクが他のお嫁さんをもらうと思っているみたいだけど、君はボクと結婚するんだからね?」
「で、でも、サイアンローズ家は実在しない公爵家で……」
「そろそろ本物の主を用意しておかないと怪しまれるから、ボクが婿入りって形で継ぐと助かるんだって。ステイシーはグロウズ家の子だし、当時のボクは病弱だったからね。人柱にはちょうどよかったんだって」
そんな話は聞いていないぞ。
アレンに抱きしめられながら、一人むくれていると、ぽんぽんとあやすように背中を撫でられる。
「だからね。今度は婚約者のフリじゃなくて、本当の婚約者として末永くよろしく頼むよ。ボクの可愛いジェーン」
「……はーい」
不満げに返事をしつつも、アレンの背中に自分の腕を回したのだった。