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お江戸お仙の千里眼  作者: ごびらっふ
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第三話 覚醒

 お藤が目を覚ました。大きな赤松の木の木陰に寝かされていて額には濡れた手拭いが置かれている。いつの間に来たのか、手代の佐吉が「お嬢さま! 気お気を確かに!」とお藤の肩を揺すっていた。利松はお藤の扇子で必死にお藤をあおいでいる。「佐吉、利松… 私は一体…」とお藤がつぶやくと、「暑さでお倒れになったようです。私は利松に頼まれた者が店まで知らせてくれて飛んで参りました」と佐吉が言うのを聞くと、お藤は「そうだったのね。ごめんなさい。皆に迷惑をかけました」と言いながらなんとか上体を起こした。

「とにかく水をお飲みください」佐吉がそう言ってお藤に水筒を持たせた上で、手を離さずにお藤が水を飲むのを手助けした。水がお藤の喉を降りていく。それとともにお藤は徐々に人心地を取り戻した。水筒の水を飲み干し空になった水筒を佐吉が利松に手渡し「そのへんでもっと水をもらって来い」と言うのを聞きながらお藤はふと目を上げた。その時、視界の隅に富士が入り、見るともなしにお藤はその富士をを見た。お藤以外には誰も分からないことであったが、その刹那、富士の頂きから赤く輝く糸状の物が頭頂付近に伸びて繋がったようにお藤は思った。

「千里眼…?」

なぜか「千里眼」との言葉が口からこぼれ出た。するとお藤の髪に白く輝く櫛が現れた。お藤の視界がみるみる変化し、周囲の全ての物や人やが現代で言うところのポリゴン様に見え、周囲の全ての三次元的座標が直覚的に把握される感覚が尻の辺りから頭頂に向けて一気に突き抜けるのを感じた。その衝撃はお藤の身体を強く痙攣させるほどであったがそれは決して不快なものではなく、むしろ深い感動と快感とを伴う強烈な衝撃であった。佐吉はお藤の具合がまた悪くなったのかと思い「お嬢さま! 気を確かに!」と叫んで肩を揺すったが、お藤は直ぐに我に帰って「佐吉、大丈夫。心配をかけてごめんなさい。でも、私はもう、大丈夫」と言ったのだった。

 ところで水をもらいに走り出そうとした利松は、口には出さなかったが、お藤の身体が痙攣した時に、お藤の髪に見慣れぬ白い(くし)が刺さってるのを目撃していた。目を瞬いて二、三度目を擦るとそれは見えなくなったので単なる気のせいだと思ったのだが、後に同じ物を何度も見ることになるなどとは、その時は夢にも思っていなかった。


………


 お芳が目を覚ました時、お芳は見知らぬ男の腕の中にいた。風体から男は飛脚のようである。どうやら堀に落ちた自分をたまたま通りかかったその飛脚が気づき助けてくれたようであった。お芳はちょうど堀岸の草の上に寝かされようとしていた。礼を言おうとして息を吸うと激しく咳き込んでしまった。まだ肺に水が入っていたのだ。飛脚は何も言わなかったが優しくお芳の背中を叩いてくれていた。実は飛脚の着ている法被の背中には「十七屋」の屋号が染め抜かれているのだがお芳からは見えるはずもない。ひとしきり咳き込み少し水を吐いてようやくそれが治まった時、お芳は自分が右手で何かを強く握っていることに気がついた。そっと手を広げてみるとそれは真っ白な鯉の根付けだった。

「これ… 千里眼の…」

不意にそう呟いた瞬間、百人以上の者が同時に楽器を鳴らすような大音声を聞いたと思うと強い衝撃が尻のあたりから身体を一気に駆け上がり頭頂にまで達っしてパンっと爆ぜ、それを境に周囲の人々の心の声がありありと聞こえるようになった。小さい頃からそういうことはよくあったが、それはこれまでとは明らかに違う鮮明な声であった。お芳は驚き周囲を見渡した。確かに周囲の人々の心の声が、お芳からの距離に合わせるような大きさで聞こえてくる。そうしてお芳を助けたと思しき飛脚がまだお芳の背中を優しくポンポンしてくれていることに改めて気づいた。だが不思議なことにその飛脚からだけは何の声も聞こえず、代わりにえも言われぬ優しく心地良い楽の音だけが鳴っているのだった。お芳はその飛脚の顔を見上げたが、背後の夏の日の逆光でよく見えなかった。そうして再びふーっと気が遠くなり、次に気がついた時には自分の家の部屋であった。母親が話すところによると、筆学所の生徒の一人が堀岸で一人の飛脚がずぶ濡れのお芳を介抱しているのを見つけて筆学所の師匠に報告し、師匠が飛脚からお芳を引き受けて背負って蔦屋まで来たとのことだった。暑い夏のことだったのでお芳は風邪をひくこともなく、どうやら肺に入った水も全て吐き出せたようで、あちこち擦りむいている以外、体の調子は平生と変わらなかった。両親から代わる代わるになぜ川に落ちたのか、そもそもなぜ筆学所を抜け出したのかと聞かれてそれに一々答えていたお芳であったが、やがてそれを遮って、自分を助けてくれた飛脚のことを筆学所の師匠は何か言っていなかったかと聞き返した。師匠はただ「飛脚」としか言っていなかったとのことであり、翌日筆学所で直接聞いてはみたが、お芳を引き受けた後、飛脚は何も言わずに立ち去ってしまい、その時は屋号の入っているであろう濡れた法被も脱いで手に持っていたのでどこの店の飛脚かも分からないとのことだった。お芳は自分の命を助けてくれた礼を言いたいのはもちろんであったが、他の人とはまるで違うものが聞こえたことの訳を知りたいという思いもあった。だがそれもこれも、何の手がかりもないのであってみれば、もうどうにも仕様がないことであった。


………


 気を失っているお仙を見つけたのは五兵衛であった。持って来るはずの団子をいつまでも持ってこないので勝手を見に行き倒れているお仙を見つけた。「お仙! どうしたっ! しっかりしろ! お仙!」肩を抱き上げて揺すりながら五兵衛は叫んだ。ちょうどそのその時、鍵屋の店先をこの辺りの地主である旗本の倉地(くらち)政之助(せいのすけ)が通りかかった。役目柄、ただならぬ気配に敏感であり、五兵衛が騒いでる勝手の裏口を開けて「いがが致した?」と五兵衛に声をかけた。「あ、倉地様! 訳は分かりませんがお仙が倒れておりました!」と五兵衛は血相を変えて叫んだ。政之助は「お前の娘か。見せろ」と言うとお仙の左胸に手を当てついで口元に顔を寄せると「いかん。心の臓は動いているが息をしておらぬ」そう言って周囲を一瞥して辺りのにおいを嗅いだ。「恐らく竈門の煙を吸ったのであろう。五兵衛、すぐに医者を呼べ」そう言うと、お仙の背中に手を回して水木結びの帯を大きく緩めた。五兵衛は「へい!」と返事すると表に飛び出した。ちょうどそこへお仙の幼馴染で火消・わ組の見習いである千太郎が通りかかった。

「千太郎! ちょうどよいところへ! お仙が煙を吸って息が止まっちまった! 医者を呼んできてくれ! 俺も探すから!」

と叫んだ。千太郎は面食らいながらも

「お仙が煙を吸って大変なんだな! 分かった! 医者を呼んで来る!」

と言うと浅草の方に走り出した。

 千太郎は身体が丈夫で生まれてこの方医者と無縁だったのでどこに医者がいるかなど見当もつかなかった。だからとりあえず人の多い浅草方面に向かった。人がいれば医者だっているだろうと単純に考えた。浅草寺に近づいた時、向こうの往来をわ組の頭の辰治郎(たつじろう)が他の者と歩いているのが見えた。辰治郎なら顔が広いから近くの医者の居所など造作もなく分かるだろう。千太郎は辰治郎に走り寄ると「お頭! 医者が必要なんです! どこに医者がいるか… 教えておくんなさい!」と叫んだ。辰治郎は「なんだ、千太郎か。血相変えてどうした」と聞いた。「俺の幼馴染が… 煙を吸って… 大変なんです! 早く医者を連れて行かないと… どこかに医者はいませんか?!」走って乱れる息の間で辛うじてそう言った。すると辰治郎は「医者か。医者ならここにいるぞ」と言って後ろを振り返った。そこにはわ組若頭の大助と共に、いかにも医者然とした者が立っていた。それは火事が起きた時の怪我人の対処について、わ組の組員に指導をする催しの内容を話し合うために落ち合った町医者の杉田玄白であった。玄白は一歩前に進み出ると「煙を吸ったんですね? 心の臓は動いていますか? 息はしていますか?」と千太郎に聞いた。「心の臓は… 分かりません! でも息はしてないって… 五兵衛さんが言っていました… どうかすぐに来てください!」と乱れる息のまま深々と頭を下げた。医者は辰治郎に目をやると二人は前後して頷いた。

「大助ぇ!」と辰治郎。

「へぇぃ!」

「玄白先生を背負って走れぃ!」

「がってん承知いたしやした! 千太郎、患者の所へ案内しろ! 遅れるんじゃねぇぞ!」

大助はわ組一の怪力で喧嘩が強く、足も速かった。「ごめんなすって!」と言うが早いか多少戸惑っている玄白をもう背負っている。千太郎は「お願いしやす! こっちです!」と言って駆け出すと、大助がそれに続いた。千太郎も脚は速かったが大助の速さはとても人を一人背負っているとは思えない。ともすれば千太郎の前に出そうにさえなるのだった。

 その頃、鍵屋の勝手では、政之助が応急処置をしていた。政之助は怪我人や病人の対処を一通り知っている。煙を吸った者は肺に多くの空気を入れなければならない。もたもたすれば手遅れになる。政之助はまず戸と障子とを全て開け放ち勝手になるべく新鮮な空気が入るようにした。そうしてお仙の鼻をつまむと躊躇なく自らの口をお仙の口に当てて思い切り息を吹き込んだ。幸い心の臓は動いている。息さえ戻れば助かるはずだ。政之助は二度・三度と大きくお仙の肺に息を吹き込んだ。するとお仙が小さく咳をしてわずかだが息をし始めた。政之助は再びお仙の胸に手を当て心の臓がさっきより強く脈打つのを確認して小さく「よし」と言った。お仙の呼吸に併せて、さらに数回、お仙の肺に息を入れた。そうこうするところに千太郎が玄白を連れてきた。医者は政之助に代わりお仙の顔に自分の耳を寄せてお仙が息をしていることを確かめた。苦しそうではあるが、空気は身体に入っている。今度はお仙の首に手を当てて脈を数えた。だいぶ早い脈だが命に関わる状態は脱している。そこに結局医者が見つからずに半泣きになっている五兵衛が戻って来て「お仙!」と叫んだが、千太郎がいて見るからに医者然とした者がお仙を診ているので「お医者さまですか?!」と誰にともなく聞くと、玄白が五兵衛の方へちらと振り返り「いかにも医者です。父親ですか? 安心しなさい。娘さんは助かりそうです」と言って、お仙を上から下まで観察した後、周囲を見渡した。開け放たれた障子や戸。緩められた帯。赤くなった鼻は、口移しで息をさせた時に息が漏れないようにと鼻をつまんだ証拠である。「いや、応急処置が完璧でした。お見事と言う他ない」と言った。五兵衛はその場に膝をついて玄白に何度も礼を言ってからお仙の手をとって「お仙! 良かった… 本当にドジなやつだ」と言って泣いた。妻に先立たれた五兵衛にとっては、お仙は人生の全てであった。自らの命に代えてもどうしても守らねばならぬ唯一のものだった。千太郎は小さい頃からそんな五兵衛を見知っていたので抑えることができずに一緒に泣いた。

 一方、政之助はもう大丈夫そうだと見て取ると、ふぅと小さく息を吐いて自宅へと帰っていった。その日はたまの非番の日であり、ゆっくり書など読もうと思っていたのだということを思い出していた。笠森稲荷隣の自宅の門前まで来た政之助はふと立ち止まって鍵屋の方を振り返り、少し微笑んでから中に入っていった。

 ところでお仙は、五色の花々に溢れた不思議な世界でお藤・お芳に会い、強い力に引かれて別れ別れになった後、ふと気がつくと鍵屋の勝手に戻っていた。妙に天井が近いと思ったら自分は宙に浮いている。下では五兵衛と旗本の政之助が何やら騒いでいて、やがて五兵衛が外に飛び出していった。見れば政之助の腕の中に女が一人いる。降りて行ってよく見るとそれば自分だった。そうして政之助が自分の胸に手を置いて心の臓が動いていることを確かめ、帯を緩めて口移しで止まった息を戻している様子を全て見ていた。なぜか慌てたり恐怖を感じたりすることは一切なかった。むしろ深い安らぎの中にいた。そうして医者が来て五兵衛が戻り、政之助がそっとその場を離れた時、お仙も政之助に引かれるようにすーっと壁を通り抜けてその後に付いて行ってしまった。そうして倉地家の門前で政之助が微笑むのを見て、つられて口元がゆるみ泣きたくなるような幸せを感じた時に、また得体の知れない力に強く引かれたかと思うと自分の布団の中で目を覚ましたのである。しばらくの間は頭が混乱して何が何やら分からなかったが、五兵衛や千太郎と話をするうちに段々と状況が分かってきた。煙を吸って自分は死にかけた。その時にあの花畑に行っていたのだろうと思った。いや待て、あれは夢だったのかも知れないと一瞬思ってもみたが、それにしては揺れる花々や鳥の声、それにお藤・お芳と話したことを細部の細部に至るまで明確に覚えていた。それは夜ごとに見る夢とは明らかに違っていた。

 この出来事以降、まだ範囲も広くなく不安定さも残りはしたが、お藤とお芳とはおおよそ意のままにそれぞれの千里眼を使うことができるようになった。お仙のそれだけは相も変わらず全くの制御不能ではあったが、それとは別に、お仙の心の中にはお仙しか知らない強い想いがこの時に確かに生まれたのであった。

 数日して、お藤は身体の調子がすっかり戻ると、すぐに仲見世の蔦屋にお芳を訪ねた。そうしてまず二人が花畑の道で会い、お仙も加えて三人で歩いて石の祠でお参りをしたことを確認した。それは本当の体験であった。そうして二人相談してお仙に会いに行く計画を立てたのである。

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