火神少女 第九話「火神のゆえん」
私は本性が幻想にて、つけたり消したりを繰り返している。
その幻想、火なる性質にて、つけるも消すも自由自在である。ついている時、燃やし尽くす気でいても、消した時にはもう冷めている。
燃える心をもって、燃やし尽くすという事は、幻想を取り換え可能な消費物扱いしている事である。
だから、冷めている方がただしい。
であるなら、愛は幻想ではないのである。幻想の定義は曖昧である事だが、「神は愛なり。」と言われている様に、はっきり、人格的な存在なのだという事が言えるだろう、
愛は熱情であり、没頭である。対して、幻想は、燃えと冷めである。両面あり、太陽や月の方角の様に絶えず変化しているものである。この幻想を語る為に、「日月神示」があったのだが、もはや、新しき価値観というテーマになるので、「第三の聖典」に委任してしまっている形である。
まさに、日月神示とはそのものから沸き上がる幻想を頼りに描いてしまっている物だから、幻想という羅針盤を頼りにしている物なのである。
火神のゆえん、すなわち、人間が人間たるゆえん、きっかけこそが火神のゆえんである。
きっかけ、すなわち、燃える為のもの、幕を閉じる、すなわち、これもきっかけである。冷めるのも燃えるのも、きっかけ次第なのである。
きっかけ、機会である。
いい機会を得て、いい素材を燃やすならば、冷めるのもいい機会であるし、冷ますのも、余韻を楽しめる素材であろう。
であるならば、火神たるゆえんはその機会と素材であると言える。火神は称号でもあるが、同時に巡り合わせでもある。
ここで、想い出してみよう。火にまつわる者、火付くの神を。いわば、神はこの方すなわち、クニノトコタチノカミを筆頭として、集団となっている者である。火付くの神とは、火神に付く更なる神である。
「聖書」の「創世記」にて、エロヒームと呼ばれるこの方々は、世の元の大神と一緒であり、世の元の大神と別である。幽界神でありながら、世の始めにて、顔を見せた方々である。
火神すなわち、火を根拠とする神とは、人間ではない方である。
すなわち、イエス・キリストの家系を簡略化して、その中から選ばれた者である。
火神が火神たるゆえんは、この機会を生かす事である。明らかに幻想の神を顕す上でこの上もないチャンスにも関わらず、これを生かさない事は「火神少女」の名折れである。
ゆえに、言うが、逃げるという選択肢、幻想が害毒、いわば、目ざわりなのである。
主のヴァーレットというのは、事前の選択を選ぶ事が最良なのである。
いわば、人よりも早く動くというのが、ヴァーレットである。
結局の所、幻想とは、燃え続けるものでありながら、それを見逃しやすいものである。視てからではなく、感じたその時から、逃げるという幻想以外を選び取るのが、ヴァーレットの十八番である。
常に、幻想というものを追い求め、せっかく点いた火を消し去る事なく、勤勉に学び続ける意志こそが幻想にまつわる主の一部であるヴァーレットの役目であろう。
ヴァーレットというものは、常に第四に照準を合わせ、監視する者である。(第四とは、自分以外のものを認め、自己愛をもってではなく、他者愛をもって相手を認める事である。)
ゆえに、点いた火というもの、幻想そのものを認めて、認識から放さないものなのである。
「火神少女」とは、末端であるヴァーレットでさえ、知る事をやめない集団であるとも言えるし、個人であるとも言える。少女集団である、主のヴァーレットは、いわば、知る事をやめないという事、「火神少女」の末端、すなわち、知る人間であると言える。人間たる事は集団であると言える。
人間という集団、主のヴァーレットという集団、「火神少女」という集団。それぞれの集団が知識を教えるものであるし、教師であると言える。
すなわち、火神のゆえんは知る事にある。その教師が「火神少女」という集団である。知る事をやめない。すなわち、「火神少女」なのである。
私は男だが、本質的に少女であるから、知る事をやめない未熟な人間なのである。知る事をやめてしまったのなら、少女ではないのである。すなわち、知る事をやめないのだから、少女なのであるし、知る事を欲するから、火神なのである。火神は可燃物ならどんなものにでも乗り移る性質がある。ならば、知れる事は知る事が出来るのだ。
すなわち、火神の火は知れる事を知る事に、その本質があるのである。




