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山の上のルサンチマン  作者: ネイサン
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山の上のルサンチマン

第一部



始めまして、私、天野涼と申します。

歳は21。

未婚です。

座右の銘は『人生万事、塞翁が馬』。

それなりに波乱に満ちた人生を歩んできたと思う今日此の頃なのですけど、折角ですのでその一つを描いてみようと思います。

そうは言っても、実はある人物に勧められてペンを取ったのですけど。

書くに当たって一番初めに浮かんだのは、彼らと私との出会い。

私の人生が動き出した出来事。

これを描こうと思います。

あの日、あの時、あの場所で。

出会って…いや、出遭ってしまった。

これは彼らの台詞。

『私に出遭いさえしなければ』

終わってみればそうも思えます。

そうも思えてしまった…が正しいのかな。

善し悪しは別にして。

いつも、ふとした時にその事を考えて来た様に思います。

折角の機会、彼らに話を聞いて、過去を、忘れてしまいたいと思っていた、あの忌まわしい記憶を蘇えらせようと思います。

これが誰かの目に留まるのかは分らないのだけど、読んでくださる方が居るのであれば、読んで楽しんで戴ければ嬉しく思います。

それだけでも意味があったのだから。

さて、前置きが長くなってしまいました。

そろそろ、奇妙な『趣味』を持つ彼らの話を始めようと思います。

関係者や担当者に聞いて回り、残された資料から当時の事を思い出しながら。

そして、自戒を篭めて。




とある山の上にあります、公園の端での御話で御座います。

その公園と言いますのは、展望が売りの小さな公園で御座いまして、聞けば更にその上には仏舎利を収めた祠なりがあるそうです。

公園と聞けば公共の場とお思いでしょうが、此処はあくまで私有地。

これが普通の公園との一番の違いでしょう。

山を所有する御仁が、私財で造ったものだそうです。

そんな公園の入り口辺りに不釣合いな民家が一つ。

今現在は管理事務所権住宅として稼動しているそこですが、元はその御仁の別荘だったのかもしれませんね。

管理事務所があるくらいで御座いますので、この公園は一般に公開されております。

しかしながら、こんな山の中まで態々来る御方というのは少ないものでして、日に十人も来れば多いほうでしょう。

社会貢献の一環のつもりだったのか、単にいらなかったのかは解りません。

そんな場所でも、週末の夜となれば無頼を気取る若人やら愛を誓い合う者達で賑わうものでして。

管理人の仕事は主にその時間帯の監視でして。

今週も週末が訪れ、管理人である叢雲進一(ムラクモシンイチ)は重い腰を上げました。

やれやれと呟きながら、管理事務所の窓から進一は目前の駐車場を覗きます。

おや、今日はまだ車は一台もおりません。

さて珍しいな、と思いながら進一は外に出て、駐車場の端に足を進めます。

木製の柵の向こうには光り輝く街が御座います。

昨今は夜も深まったというのに随分と明かりが多いもので。

一昔前では…と申しましても私なんぞの価値観で御座いますのでこの表現は的確では御座いませんが―。

その中、一際明るいエリアが御座います。

煌々と光を放ち、景色の一部を塗りつぶし―。

数秒間凝視して漸く、火事か、と進一は気がつきました。

火事が起こっているのであれば公園の人気の無さも納得がいきます。

何せ小さな街ですので、視線がそちらに集中しているので御座いましょう。

ぼうっと、煌々と闇夜を照らす炎を見つめながら、進一は煙草に火を灯します。

吸い終わるまでの間に見る見る炎は失せ、その代わりに黒煙が一部の景色を夜空よりも黒く塗りつぶします。

鎮火を見届け、街に背を向けた進一の眼に黒い塊が写ります。

上の祠に向かう石階段の中ほど辺り。

街を見下ろすには丁度良い辺り。

そこから闇に身を溶かし、黒い塊は街を見下ろしております。

―ありゃ、未成年かね。

直感的でしたが、進一はそう確信しておりました。

公園の管理人として、こんな時間に屯っている若人に対しての勘は鋭い。

鋭くなっておりました。

しかし―。

「危なっかしいねぇ…」

ふと口をついてそう言葉が出ます。

突然、黒い塊がすくりと立ち上がり―。

その瞬間、悪寒が走り、思わず『おい』、と進一は声を飛ばしていました。

チラリと、影は進一を見たように思えます。

しかし、それが気のせいか否か。

確認する前に、まるで舞うように石段を駆け上がる影に、進一は眼を奪われておりました。

「進ちゃん、どうしたの?」

呼ばれ、進一は、はと現実に立ち戻ります。

進一を呼びますのは杖を突いた女。

折角の女性ですので見た目も御説明致しましょうか。

細身で長身。

赤み掛かった亜麻色の髪。

仄かに漂う甘い香り。

常時、柔らかな笑みを浮かべておりますが、時折、憂いを含んだ儚げな表情を見せ。

しかしながらその眼光は誰よりも鋭く。

そうさな、月明かりの似合う女とでも言いましょうか―。

名を、八雲。華風八雲(ハナカゼヤクモ)

「こんな時間に。そんなところを見つめて―魔にでも魅入られたの?」

微かに嗤い、進一は振り返ります。

「魔か。そうかもしれないな」

「あら、とうとう気が触れたのかしら。大変ね。この辺りには藪と評判の精神科医しかいないけれど、仕方ないかしら。山のような処方箋を貰って帰ってくればいいわ。大丈夫、飲み残しや飲み忘れが無いように、ちゃんと私が管理してあげる」

「そこを妥協するな。仕方ないわけがない」

仕方ないのは貴方だったわね、と八雲嬢。

「真夜中の公園で何をしてるのよ。幾ら管理人でも、こんな時間に見回りするなんて仕事熱心にも程があるわ」

右手に持つ杖に体重をかけ、首を傾げるようにして八雲嬢は進一を見ております。

「…そんな眼で見るなよ」

あら、と言って八雲嬢は左手で自らの顔に触れます。

「それは失礼。でも、中々昔の癖というのは抜けないわ」

言葉を紡ぎ終えると、指の隙間から八雲嬢は進一にズバッと視線を注ぎます。

「回りくどい言い方だな。ああそうだよ、気になったんだよ。何せ、家出娘なんてのは珍しいんでな」

娘、と八雲嬢が繰り返しますと、ああ、と進一は頷きます。

「あの歩き方からして女には間違いない」

女は骨盤で歩く、という奴でしょうか。

女らしい歩き方というのは体の構造上、男には不可能という話は聞きますな。

「気持ち悪い発言ね。まあそこは置いておくとして、何で女って分るのよ?いや、貴方が女性に対して並外れた興味を持っているのは知っているわ。だからこそ、貴方は女性に熱烈な視線を注いでいるのだけれど、そんな貴方が見ているのはあくまで外見でしょう?そんな貴方に、そんな高等な観察眼があるとは思えないのだけれど…」

うん、と進一は適当に頷き、口を開きます。

「取り敢えず話を進めるな、悪いけれども。それで、ああなんだったか…そうだ、判断した材料は『雰囲気』だよ。月明かりの具合で薄ぼんやりと姿が見えたんだ」

この距離で?と言って八雲嬢は眼を細めます。

「私には見えないわね。視力だけは劣るのよね、身体的に。まぁいいわ。その彼女は何処に行ったのよ。あの上にあるのは仏舎利塔くらいでしょう?」

「最近、屋根付のベンチが出来たんだ。そこに、偶にだがホームレスが寝ている。俺個人としては構わんのだが、管理人としては捨て置けんのでね」

正確には本人も寝ているので言い辛い、というのが本音です。

「ベンチ?ああ、あそこは良い風が通る場所だものね」

「見晴らしも抜群だ。あそこで吸う煙草ほど旨いものは無い」

「矛盾した言葉ねぇ」

喫煙者にしか分らんさ、と言って進一は石段に向かって進み始めます。

「君は事務所に戻ってくれ。戸締りはちゃんとしてな」

「はいはい。貴方も気をつけて」

八雲嬢の言葉に頷き、進一は駆け出します。

「全く、変わらないわねェ…」

その後姿を見送ると、八雲嬢は踵を返します。

カツカツと、静かな闇の中で、八雲嬢の突く杖の音だけが響いておりました。




さて、公園が御座います山の麓には、新しい物が目立つ住宅地がありまして。

そこから二キロほど先に、先程火災が発生していた市街地、この辺りでは『街』と呼ばれる地域が御座いまして。

どんな街かと問われれば、ずばり、小都市で御座います。

とある県の、県庁所在地。

そこで御座います。

―はい。

皆さんが仰りたい事は分ります。

然しながら何分、学が御座いませんので御勘弁を願いたいところで。

さて、その県庁や県警本部など、県の中枢がありますその『街』に唯一ある探偵社。

『バウンダリー』と窓ガラスに赤いペンキでペイントされたビルでの御話で御座います。

時刻はそうですな、丁度、進一が闇に舞う少女を追いかけていた頃です。

バウンダリー探偵社の現所長である柳和馬氏は、通りに面した四枚の窓ガラスの内、一枚を開き、そこに腰掛けながら煙草に火を灯しておりました。

この『通り』と言いますのは、この県でも有数の観光スポットでして、イルミネーションで彩られた樹木や二色で統一されたレンガ調の遊歩道などが御座います。

週末や祝日となればそれなりに賑わいます。

この日も週末ですが、時刻はもう午前零時を過ぎております。

普通ならば静寂の満ちる頃合ですが、この日はまだ賑わいが御座います。

―ええ、件の火事です。

和馬氏の視線の先にもまだ黒煙が見えております。

何と無く、その黒煙を和馬氏は眼で追います。

やがて黒煙は闇に溶け―。

それを見届けると、ゆらりと視線を切り、切った視線を室内に向けます。

「結構な騒動ですねぇ。貴方はこんなところで時間を潰していて宜しいので?」

和馬氏の視線の先。

薄汚れた応接用ソファーには、これまた薄汚れた中年男性の姿が御座います。

「火事は消防の仕事。火災現場の捜査は俺の管轄外…」

そこまで言って男は大きな欠伸を一つ。

「だから俺には関係ないの。それに、何でも燃えているのは車らしくてな。人死にが出ているんなら更に俺は蚊帳の外だ」

やれやれといって男はソファーに寝転がります。

「寝るのなら家に帰って下さい。当の昔に店仕舞いなんですよ」

「そうもいかん。今、お前が何に首を突っ込んでいるのか知るまで俺は…ああ…眠い…」

「だから帰れよ―面倒くせぇなぁ―」

溜息を零し、和馬氏は窓を閉じます。

このソファーで半ば眠っている男、もうお分かりかもしれませんが、警察の方で御座います。

名を、綾川(アヤカワ)泰蔵(タイゾウ)

階級は警部補で、県警捜査二課の刑事さんで御座います。

「この業界じゃあ信用第一。守秘義務違反を犯しちゃやっていけねェよ」

「そう連れない事を言うなよ。俺とお前の仲じゃあないか…」

そういう泰蔵警部補、うとうとしております。

「良いんですかね、警部補殿が如何わしい探偵風情とつるんでいて」

「友達じゃあないか」

あっけらかんと泰蔵警部補は答えます。

この二人、友達と言えば確かに友人関係にあります。

高等学校からの、幼馴染なのですな。

そうは言いましても、この泰蔵警部補は柔道部のエースであり、男女問わず―どちらかといえば男子の方に―人気がある御仁でして。

その一方、和馬氏は、その…地味といいますか…暗いといいますか。

恐らく、彼を友人と呼ぶ人間はこの泰蔵警部補だけだったのではないでしょうか。

尤も、友人と認識し、呼んでいたのは泰蔵警部補だけでしたが。

何かしら、気に入るところがあったのでしょう。

それまで友人というものに縁遠かった和馬氏は、そんな泰蔵警部補にどう対処して良いのか分からず学生時代を過ごしました。

彼の放つ光を浴び、これまでに無い明るい学生時代を送った、と。

和馬氏が望んでその道に踏み込むことは終ぞありませんでしたが。

そんな人気者は警察官となり。

そんな捻くれ者は探偵となり。

両極とも言える二つの道を歩みながらも、未だにこの二人の道は交わっているようです。

さて、和馬氏は高校卒業後数年を経て探偵業に身を投じたわけですが、この泰蔵警部補は警察学校卒業後、派出所勤務、生活安全部―今は組織犯罪対策部ですかね―警備部を経て今は刑事部に行っております。

最も長く居りましたのは警備部公安課。

その次が現在の所属しております、刑事部捜査二課です。

此処は知能犯、商法違反などの捜査を扱うところで御座います。

「正直なところ、居心地が悪くてねぇ…あんまりどっちが良いとか、こう言う事は言いたくないが…昔の方が遣り易かったねぇ…」

泰蔵警部補の言う昔とは、公安時代の事です。その際に纏ってしまった匂いや、人脈が強すぎるらしく、二課では腫れ物に近い扱いを受けているのです。

「向き不向きの問題のようですね。それに、あの時に来られるより、今来られる方がこっちとしては気持ちの上では楽ですけど」

印象悪いねぇ、と泰蔵警部補は溜息を零します。

「そこまで皆様に嫌われる人達じゃないんだけどねぇ」

「その『皆様』は兎も角、此処の公安は特に嫌われていますからねぇ」

そう言って和馬氏は泰蔵警部補を見ます。

高校卒業後、初めて再会した時、和馬氏は探偵、泰蔵現警部補は公安の人間でした。

再会した時の泰蔵警部補には、学生時代に放っていた煌びやかな雰囲気は無く、その真逆の雰囲気を放っておりました。

人を、もしかすれば己すらも偽るような笑顔を貼り付けた顔を和馬氏は忘れられません。

公安を離れ、次第に昔に戻った旧友から視線を逸らし、和馬氏は珈琲マシンから冷め切った珈琲をカップに注ぎます。

「そんな嫌われ者が今回は何の御用ですか。幾ら村八分を食らっているにしても、こんな時間にまで出歩いているんだ、何かしらの情報を取りに来たんでしょう?」

聞こえが悪いな、と言って泰蔵警部補は身を起こします。

「苦労して入手したであろう情報を、国家権力を盾に搾取なんてしませんよ、俺は。特に和馬には。ただねぇ、そろそろ情報の一つも持って帰らんと立場がなくてねぇ…」

カップを片手に、和馬氏は小さな棚に背を預けます。

「はいはい…別に出し惜しむ程でもありませんし、それなりに世話にもなっていますからね…それで、どんなのが良いんですか?」

「収賄とか?」

そんなものがあれば週刊誌にでも売り込みます。

その前に―。

「んなネタ、場末の探偵が知っているわけがないでしょう。政治屋のセンセイからの依頼は極力受けていませんし」

和馬氏の言葉に、あからさまに泰蔵警部補は肩を落とします。

「そうだよなぁ…こんなとこに持ち込まんよなぁ」

何気に失礼な発言です。

「先代なら、その手の情報は持っていらしたと思いますがね。俺は、そっち系はさっぱりでして」

先代。

この事務所の前所長の事で御座います。

前所長に拾われ、和馬氏はこの家業に身を置き、そっくりそのまま事務所をも受け継ぎました。

「自分で言ってはなんですが、今のウチが行う仕事はもっと…下世話だ」

「卑下した言い方だ。俺から見れば大分、そう、ダーティだがね。それにしても先代ねぇ…話には聞くが実際に御眼に掛かった事はねぇんだよなぁ」

泰蔵警部補の言葉に、和馬氏は驚きます。

「そう…でしたね。こうやって事務所にいらっしゃるのも俺が事務所を引き継いでからですし…」

言われてみればそうだったと和馬氏は心の中で頷きます。

「正確には、尋ねることも出来なかったんだ。なにせ、先代殿はその筋では有名な御仁だったからな。おいそれと新米が首を突っ込める人ではなかった。確か名前は―」

―浮雲。

「大分、気にしてらっしゃいますよね」

ポツリと和馬氏がそう一言。

ふわりと嗤い、

「そうか?」

と、泰蔵警部補。

怪しげな笑みで隠す本心を見据え、和馬氏は先程まで腰掛けていた窓に眼をやります。

大分黒煙は薄まり、その向こうには黒い山が見えます。

件の公園が有ります、あの山で御座います。




肩で息をし、倒れこむように進一はベンチに腰を下ろします。

屋根のある、気持ちの良い風の通るベンチに。

「いい加減…止まりやがれ…この野郎…」

未だに進一はあの黒い影を追っておりました。

階段を駆け上がり、真っ黒い闇を見渡しては影を見つけ。

それを追いかけて更に階段を、山道を駆け上がって気がつけば山頂の一歩手前で御座います。

この進一、体力十分な若人とはとても言えぬ、運動不足の中年で御座いまして、幾度も諦めようと思いました。

思いましたがその度に、此方の様子を伺うように影が視界に入るのです。

その度に、待てこの野郎、と。

ムキになった。

只管追いかけた挙句、仕舞いにはベンチに倒れこんだ次第で御座います。

「随分、頑張るのね。私、もう疲れちゃった」

影が口を利きました。

「疲れたのはこっちだ馬鹿野郎…」

快活に話す影に対し、進一は息も絶え絶えで御座います。

「女の子に野郎は酷くない?」

微かに、笑っているようです。

姿かたちは見えぬものかと進一は眼を凝らしますが山の闇は深く、全く見えません。

「そりゃ申し訳ねぇな。良けりゃこっちに来ないか。茶ぐらいご馳走しよう。姿も見えずに会話なんてゾッとしないんだが?」

「こういうのもいいんじゃない?」

楽しんでいる―ようです。

息を整えながら進一は口を開きます。

「なら質問だ。君は誰かな?」

「私は天野。天野涼」

「涼?そうか、涼ちゃんか。申し訳ないが、この公園は21時以降の未成年者の立ち入りはご遠慮願っているんだよ。これに従わない場合は不法侵入で警察沙汰にする決まりになっている。それが嫌なら」

「だったらまた逃げるだけだし」

すっぱりと涼―まぁ、在りし日の私ですね―は言い切ります。

「何なら山に逃げ込むわ。それで捕まったのなら諦めもつくし」

勘弁してくれ、と進一は呟きます。

この山、公園のある場所は整備されておりますが、七割以上は野山なので御座います。

猪などの野生動物も居れば、崖などの危険な場所も多く有ります。

そんな中を少女が―恐らくですが―逃げ回れば怪我ではすまない可能性も多大に御座います。

「通報でも何でもしてよ。私は逃げるだけだし。それが嫌なら少しだけ放っておいて。朝になれば出て行くから」

そう言うと、涼は闇の中、また歩き出したようです。

この先にあるのは展望台と仏舎利塔。

展望台と仏舎利塔のある山頂付近には麓から道が通っておりまして。

それがこの屋根付のベンチ付近にまで有り、その下からが石段となっております。

その坂道を涼は進んでいるのでしょう。

「待てって…」

岩のように重く感じる身体を進一が起こすと、闇を切り裂く光が眼を貫きました。

次にバタンと扉を閉じる音が。

「さっきから聞いてりゃ…」

次に声が。

「ウダウダ言う子供は首根っこ捕まえれば良いのよ」

八雲嬢の声で御座います。

ハイブリッドカーのヘッドライトを背に、八雲嬢が坂の途中で仁王立ちしております。

その十メートル程前に涼らしき少女が居りました。

「文明人らしく道具を使いなさいよ、馬鹿じゃないの」

言葉を紡ぎながら杖を器用に使って足早に八雲嬢は涼に近づきます。

「その見慣れた馬鹿もそうなんだけど、そっちの見慣れない阿呆!」

カッと八雲嬢は杖の切っ先を涼に向けます

「アンタさ、さっきから聞いてりゃ好き勝手言って!山の中に逃げ込む?素人が夜の山に、それも遊歩道を外れて入るなんて自殺行為よ!死ぬんなら他で死になさいよ、管理人に責任が来るでしょうが!ひいては被害がこの私に来るでしょうが!」

涼、八雲嬢の剣幕に唖然としております。

ええ、進一も唖然としておりましたが、直ぐに正気に戻り、二人の下に駆け寄ります。

「おいおい、そう言ってやるなよ。子供のした事じゃねぇか…」

眼を見開き、口を半開きに八雲嬢は顔を進一の方に向けます。

「アンタはどっちの味方なのよ」

矛先が自分に向き、進一は言葉に詰まります。

その瞬間、視線の外れた涼が目の前に居る八雲嬢に向かって突進しました。

なぜそんな事をしたのか。

逃げるのなら後ろに。

それを正面に突き進んだのは、ひとえに空想の産物です。

横をすれ違って逃げられるのならそれもよし。

阻まれ、手なんか掴まれたのなら…それもよし。

そんな不幸のヒロインぶった行動でした。

その結果は―。

あわや激突の刹那、ふわりと八雲嬢は身体の外側に突いた杖を支点に身を翻し。

そして、身体を半回転させた勢いをそのまま空振りし、そのまま駆け抜けようとした涼の頭を杖で一撃。

カン!と良い音が山に響きました。

その後に響きましたのは「いったーい!」という涼の叫び。

次は「あ、ごめん」という八雲嬢の言葉。

涙目の少女と半笑いの相方。

溜息を零し、二人を連れて進一は車に乗り込みます。

所変わりまして管理事務所で御座います。

車で此処まで帰ってまいりました。

さてこの管理事務所、名前こそ管理事務所で御座いますが、中は一軒家と大差御座いません。

ただ、一階の一角に事務所兼仕事場の部屋があるだけでございます。

その隣に御座います、居間に二人は涼を通しました。

「警察は呼ばないの?」

不貞腐れております。

頭を摩りながら不貞腐れております。

「その前に事情くらい話してもよかろう?」

「事情なんて無いもん」

片手にトレイを持ち、杖を突きながら隣にある台所から八雲嬢がやってきます。

「事情も無く夜の公園に、それも山の上にある公園に来るかしら。若者が有り余っているのは性欲と時間だけだと思っていたわ」

そう言って八雲嬢は片手で持ったトレイを器用にテーブルに置きます。

トレイの上には珈琲の入ったカップが三つ御座います。

「まぁ、くつろいでくれ」

言うのが早いか手が早いか、既に進一は煙草に火を灯しております。

パチパチと音を立て、ガラムの甘い香りが室内に広がります。

「変な匂い」

「臭いわよねぇ。この人、煙草の趣味も悪いのよ」

そう言って八雲嬢はカップに口をつけ、テレビのリモコンに手を伸ばします。

「おいおい、これからこの子の話を聞くんだからテレビはだな…」

「別に良いでしょう。話そうが話すまいが警察に突き出すつもりなんてないんでしょう、貴方」

それまで所在無さげに視線を手元に落としていた涼の眼が八雲嬢に向きます。

「そういう人なのよ。面倒事を背負い込む事が趣味なの。通報するんなら自分で追いかけずにさっさと通報しているわ」

そりゃそうでしょう。

此処はあくまで私有地なので御座います。

昼間は一般に開放しておりますが、未成年者は21時、それ以外も0時から朝の7時までは侵入不可と規則で決められ、看板にもキチンと表示してあります。

これに違反するのなら、それは不法侵入となります。八雲嬢の言葉の通り、それを見つけた場合は通報するのが本来の管理人の仕事なので御座います。

「だから、子供のした事にだな…」

進一、急に煙草が苦くなった気が致します。

はいはい、と八雲嬢は適当に頷きながらチャンネルを変えます。

「私も進んで通報はしないわ。家出娘だろうが、孤独志望の餓鬼だろうが知ったこっちゃないもの。それと一緒で、動機にも大して興味ないの」

酷い言い草で御座います。

しかし、返す言葉が見つからず、進一は涼に視線を向けます。

少女は泣きそうな顔で下を向いておりました。

「ああその、言いたくなかったら無理には良いんだがな。理由があるんなら何かしらの助言くらいは出来るかもしれん。これも何かの縁だ、話してみないか」

「お人よし。病的と言うのが良く似合う」

五月蝿いな、と八雲嬢に進一は言葉を返すと、再度少女に視線を向け、口を開きます。

「理由は兎も角、出来れば親御さんの連絡先だけでも教えてはくれんか。此処に泊まるのは構わんが、出来ることなら連絡を入れておきたい。心配してらっしゃると思うぞ?」

「してないと思う」

下を向いたままポツリと少女はそう言いました。

耳ざとくそれを聞き、意地悪そうな顔で八雲嬢は少女に顔を向けます。

「だって、私…親がいないんだもん…」

しかし、八雲嬢が口を開く前に紡がれた少女の言葉が八雲嬢を黙らせました。

「どういう意味だ?」

進一が問うと、少女は顔を上げ進一の顔を見ます。

覚悟を決めたような顔で。

「お父さんとお母さん…」

―いなくなっちゃった。

「居なくなっちゃったって…それ…」

薄らと涙を浮かべた少女を一瞥し、八雲嬢は進一を見ます。

「居なくなった、居なくなっちゃったか。ふむ、そうか。詳しくは明日聞こう。今日は休みなよ。八雲、すまんが風呂と寝床を頼むな。ああ、飯はどうだ?」

少女は首を横に振ります。

「そう。じゃあこっちおいで」

少女を連れ、八雲嬢は奥にある浴室に向かいます。

二人の姿が消えると、進一は煙草を片手に事務所兼仕事場である隣の部屋の明かりをつけます。

四つあるデスクと二つのPC。

ファイルの多く陳列された壁際の書類棚。

PCのあるデスクに腰を下ろし、手元の引き出しを開けるとそこには多くのUSBが御座います。

その中から一つ取り出し、PCに差し込み、煙草を傍にある灰皿に放ると、

「仕舞いにはこれと来たか…全く…」

―世も末だねぇ。

呟き、進一はディスプレイを睨みます。

USBに記されたタイトルは『child poor』。

現在、進一が抱える案件のタイトルで御座います。




事件の序章を語り終わった辺りで御座いますが、此処で暫し御時間を。

まだ一人、重要な人物の紹介を致しておりません故―。

さて、また場面は変わります。

今度は『街』に在ります、とある警備会社で御座います。

名を『イージス』。

海外に御座います、民間の軍事警備会社の日本支店。

幾つかイージス系列の日本支店は御座いますが、この『街』にありますのはその中でも二号店。

日本支店の二号店で御座います。

今現在、『イージス』はこの国に数店しか御座いませんが、提携している警備会社の数は相当数御座います。

この辺りを詳しく御話しますとまた長くなりますので割愛させて頂きますが―。

問題は、語るべきはその二号店の支部長様。

名を鳴海、八木鳴海。

鳴海女史と私は敬称致しております。

彼女が支店長職―正確には日本第二支部長ですが―に就いたのは和馬氏が探偵社の代表になった頃と同じで御座います。

―ええ。

この二人は顔見知り。

それも、この二人、元は同じ事務所で働いていたので御座います。

当時の代表が職を辞した際に和馬氏はそのまま事務所を引き継いで探偵社とし、鳴海女史は日本に進出したイージスで職を得ました。

―はいはい。

どうしてそこでイージス、と。

そう仰りたいので御座いましょう。

当時、和馬氏と鳴海女史が所属していた事務所と言いますのは『探偵業』と『警備業』の二つを―正確にはそれに類似したモノ、ですが―生業としていたところでして、その代表を務めていた二人がそれぞれ探偵業と警備業を取り仕切っておりました。

その警備業を取り仕切っていた御仁が『イージス』と繋がっていたのですな。

言わばその後継者が鳴海女史なのです。

後継者といえば和馬氏もそうなのですが、この二つには決定的な違いが御座いまして。

鳴海女史が『イージス』という後ろ盾までも譲り受けているのとは違い、和馬氏は後ろ盾と言えるものを何一つ譲り受けてはおりません。

否、譲り受けられるようなものではなかったというのが本当のところですが…。

ともあれ、この違いは古ぼけたビルのテナントで事務所を構える和馬氏に対し、鳴海女史は真新しいビルに居を構え、県を跨いでまでテリトリーを広げているという経済的格差を生んでおります。

大体、鳴海女史に関してはこの位でしょうか。

―今の二人の関係?

これだけの差が出来ているのなら妬みなり嫉妬、或は、蔑みなんぞは無いのかと?

無い…と言いますより、テリトリーも違えば規模も違いますので妬みも蔑みも御座いません。

もっと言わせて頂ければ、和馬氏は場末の探偵社の代表であるのに対し、現在の鳴海女史は世界的企業と呼ぶべき会社の幹部でして、住む世界が違うのですな。

―しかし、世界は違うのですが。

同じ、後継者同士。

立場は同じ―。

そんな二人が集う場所が一つ。

『街』にある探偵社と警備会社の間にあるとある場所。

とある建物。

マンションの一室の扉を和馬氏は開きます。

此処はその昔、二人がまだ同僚であった頃から事務所が所有していたセーフハウス。

今現在の所有者は鳴海女史です。

彼女の所有するマンションの一つ。

「大分遅かったわね」

リビングでグラスを傾けながらスーツ姿の女―鳴海女史は言葉を紡ぎます。

「すまない。例の警部補が中々帰らなくてね」

「ああ、あの幼馴染の。公安の」

元公安ですな。

しかし、こちら側では公安時代の泰蔵警部補の印象が強く、今なおそう呼ばれております。

「現在は組対だ」

ソファーに身を転がせ、鳴海女史はカラカラと笑います。

「余計に性質が悪いわねぇ。目障りな友人から天敵にランクアップしてるじゃない」

彼は友人だ、と言葉を紡ぐと、和馬氏は寝転がったままである鳴海女史の手からグラスを取り、それを傍のテーブルに置きます。

「あっちも純粋にそう思ってくれているといいわね」

気だるそうに、軽く頭を傾けながら鳴海女史は身を起こします。

「頼まれていた資料は一式用意出来たわ」

そう言うと、背もたれにかけていたジャケットの内ポケットからUSBを取り出し、和馬氏に向かって放ります。

「すまないな。調査はこっちの領分なのに」

「構わないわ。人海戦術ならこっちの領分」

一人きりで行動している和馬氏にしてみれば羨ましい話で御座います。

「それで、どう動くの?」

さて、と言葉を零しながら和馬氏はテーブルに置かれている開封された酒瓶に手を伸ばします。

ラム酒ですな。

これを鳴海女史はロックで呑んでいたようで。

「探偵の出る幕は無い事案だが…放っておいては先代に顔向け出来んからな」

「依頼がなけりゃ動きようもないものね。しかし、浮雲…か。あの人達の名前を出されちゃこっちは弱いわよね」

そういうことだ、と言って和馬氏は酒瓶を置きます。

「あまり呑み過ぎるなよ」

立ち去ろうとする和馬氏の背を見つめ、

「他に手助けは必要ないの?」

鳴海女史は言葉を投げ掛けます。

「今回は大丈夫だ。手が必要な時には遠慮なく呼ぶよ、鳴海」

片手を上げ、和馬氏は部屋を後にします。

「鳴海…ね」

一人きりになった部屋の中で、酒瓶を片手にまた鳴海女史はソファーに寝転がります。




さて、此処で時間は翌朝まで進みます。

場所は公園管理事務所。

その事務室の扉を八雲嬢は少し手で開けると、続いて勢い良く杖で薙いで開きます。

「進ちゃん!彼女、起きたわよ…って…」

事務室内のPCの前で進一、キーボードを器用に避けて机に頭をつけて眠っております。

何やら学生時代を思い出す光景ですな。

「全く、体力無いんだから徹夜なんて止めなさいよ」

ねぇ、と進一の脇腹辺りを八雲嬢は杖で突きます。

うわぁっと声を上げて文字通り進一は飛び起きますな。

「お前…もっと起こし方あっただろう…」

「残念だけど氷水も熱湯も今は無いのよ」

「無くて本当に良かったよ…」

選択肢が液体だけで良かった、と進一が胸を撫で下ろしていたのは此処だけの秘密です。

起こすといえば、と八雲嬢。

「針で刺すのと火で炙るのではどちらが先に起きるのかしら」

「刺すとか炙るとか、そういう発想も止めなさい」

椅子に再度腰を下ろすと、進一は頭を抱えます。

「ああ具合が悪い。だるい。頭が痛い胃が痛い…脇も痛い…そうだ、例の子―涼だったか、彼女の体調はどうだ?」

「多少発熱しているようだけど、寝起きのアンタよりはマシよ。もう朝食も済ませてる。貴方待ちよ、ダーリン」

「それは申し訳ないな…」

言葉を紡ぎ終えると十分に間を置いて進一は、気だるそうに、大層難儀そうに立ち上がります。

朝食を済ませ、人心地ついた天野涼は軒先で空を見上げておりました。

さながら、日向で眠りにつこうとする猫のように穏やかな表情で御座います。

しかしながら八雲嬢の言う通り、顔色が青白く、体調が悪いようです。

「あっ…おはよう…御座います」

此方を見ている視線に気がつき、振り返ると気恥ずかしそうに涼は挨拶をすると、立ち上がろうとしましたが、

「いや、そのままでいいよ」

そう言って進一の方から近づき、涼の隣に腰を下ろします。

他愛も無い会話を交わす二人の後ろに、珈琲と紅茶を運んで来た八雲嬢が座ると、ポツリポツリと涼は語り始めました。

名は『北条涼』。

父の名は『良臣』母の名は『久実』。

彼女の生まれた街は此処から200キロも離れた港町だそうです。

家族三人で暮らしていたその街を離れたのは一月ほど前。

昔から金回りの悪い家だったそうですが、とうとう夜逃げしてこの街に流れ着いたそうです。

そこまで話すと、涼は言葉に詰まります。

「…此処にまで流れ着き、そこで御両親と別れたのか?」

涼は首を横に振ります。

「待ってよ。その前にさ、何でこの街に来たんだろう。普通、都会とかに行くんじゃないの?別に、こっちに知人が居たわけじゃなかったんでしょう?」

八雲嬢の言葉。

二人の視線が涼に向きますが、涼は視線を下に伏せます。

「…良く分かんない。分かんないけど…」

ううん、と眼を伏せたまま涼は首を横に振ります。

「違う。分かんないじゃない。もう何も考えてなかった。だって、どうしようも無いじゃない?」

此方を見ずに言葉を紡ぐ少女の口調が少し激しくなっています。

「お父さんもお母さんも、白々しいくらいそう言う事には触れなくてさ。だから、私も触れちゃいけないのかなって。それでいいのかなって。そう思ってからずっと寝てたように思う。もう、何も考えたくなかったんだなって今は思うけど…」

二人とも何も言葉を挟まず、八雲嬢の運んできた紅茶と珈琲に口をつけます。

そんな空気に押し潰されそうな自分の背を押すように涼も珈琲を口に運びます。

―その後。

雫を零すように進一が言葉を紡ぎます。

「その後、君達はある施設に流れ着いた。違うかい?」

涼は答えません。

「此処までは予想出来た。問題はその先だ。どうして君はその施設に居ないのだろう。これまでのケースなら、君もその施設に放り込まれている。家族諸共ね」

「これまでのケース?」

八雲嬢の言葉に進一は頷き、手元の、地獄のように熱く口付けのように甘い液体に視線を落とします。

「こういうケースが最近この街で増えているんだ。此処数ヶ月で急増している。そこの名前は―」

―希望の家。

そう涼は、搾り出すような声で言葉を吐き出しました。




『希望の家』。

それは、街の外れにあります集団ホームの名称で御座います。

その昔は孤児院だったそうですが、その孤児院が転移した後、地元の水道関係の会社が買い上げ、ホームとしました。

ざっと二年前の話です。

院の外見は殆ど変わっておりませんが、中は改装され、孤児院の頃の面影は御座いません。

元は、その名の通り、『希望』を与える家でした。住む場すら無くした者達に羽を休める場でした。

「それが今や、だ」

煙草に火を灯すと、見るからに浮浪者の形をした男は美味そうに白煙を吐き出しました。

「最初はな、俺らみたいなのを集めて施設にぶち込んでたんだ。だが、俺らの中で悪い噂が立ち始めると、今度は外から集めだしたんだよ」

流行の貧困ビジネスだよ、と男は苦々しそうに言います。

「そりゃ、俺らは金に困ってるよ。小銭でも欲しいよ。衣食住がありゃ良いと思うよ?だがよ、そういうのは違うだろう」

『そういうの』。

実に抽象的な言い回しです。

「それで、警察には話したのか?」

笑い、男は首を横に振ります。

「あいつらも同じだ。俺らを物としか見てない。話したところで、物が言う事を信じる奴はいないよ」

随分な物言いだな、と和馬氏。

そうでもねぇさ、と浮浪者風の男。

「何処の世界にもルールはあるのさ、坊や。これは、警察が大っぴらに関わって良い事案じゃねぇんだよ。治安を護るのは警察だろうが、ルールを破った者を罰するのは、不快に思うのは警察だけじゃねぇんだよ」

浮雲か、と和馬氏。

そうとも限らんさ、と浮浪者風の男。

「それに、それを言う時点で、俺らが求める者はアンタじゃねぇんだよ。その上、昨日の火事騒ぎときた。おっかなくて俺ァ何も言えねぇな」

昨晩の火事。

車が燃えたという件の火事です。

「俺には手を貸さないと?」

「元々、貸す程の余力はねぇよ。見ての通りの浮浪者なんでな」

のらりくらりと指摘をかわす男は見つめ、和馬氏は懐から煙草を取り出します。

「それならそれで結構だ。別にあの人と同じ道を歩もうとは思わない。俺は俺だ」

煙草を箱ごと男に放り、和馬氏は鳴海女史の時と同じように男に背を向けて歩き出します。

その後姿を何と無しに見ている浮浪者風の男の胸中にモヤモヤとしたものが沸きあがりました。

「―分かった、分かったよ。どうしてそう生真面目なんだ、お前は…」

立ち止まり、少しだけ和馬氏は振り返ります。

「この一件には大っぴらに暴力団は絡んでない。そこに繋がりがある夫婦が主犯だ」

言葉を聞き、僅かの間考えて和馬氏は口を開きます。

「多少は絡んでいるとして、相手の心証は?」

「よろしくないねぇ。特に周りの心証は最悪だ。彼等は遣り過ぎだ」

そうですか、と呟くと和馬氏は歩を進め始めました。

「それと、何でも『浮雲』はモラルハザードだとかスティグマだとか言っていたぞ」

その背に言葉を投げ、相変わらずの寂しささえも漂わせる背を見送り、浮浪者風の男は近くの寝床に戻りました。




―やっかいね。

事務所に戻り、デスクの前に腰を下ろした進一に向かって呟くように八雲嬢はそう言葉を零しました。

「この手のってのはとにかく厄介よね。明確な解決方法もないし…」

事務所の入り口に背を任せ、八雲嬢は髪を掻き揚げます。

「…殺気立ってるねぇ、君らしくも無い」

PCの電源を入れる進一を八雲嬢は睨みつけます。

「胸糞悪いのよ、こういうのは」

顔の造詣の整った女人が睨み、言葉を吐き捨てる様は恐ろしいもので御座います。

元から面相が恐い方が凄むのとは違う恐ろしさがありますな。

「それには概ね同意しよう」

少し―違う。

遠まわしな否定。

更に八雲嬢の視線に鋭さが増します。

「こうなるからあんまり仕事を遣りたくなかったんだけど?」

「悪かった。今のは俺が悪い」

顔を挙げ、進一は八雲嬢に困ったように微笑みかけます。

八雲嬢の表情は変わりません。

「詫びと言っては何だが、これを見てみろよ。少しは気も晴れるだろう」

進一がPCを半回転させると、八雲嬢の視線がそこに向きます。

画面には人名と土地の名前が二つ―。

「人物名は言わずとも被害者、ホームの『入居者』の名前だ。偽名の可能性も多大にあるがね。次の住所は、恐らくは斡旋された仕事だろう。これも隠語だろうが…」

潜ったの、と八雲嬢。

それが得意な知り合いがいてね、と進一。

「持つべきは有能な友人だ。だが、少しばかり賢い奴らでな、明確な情報はネットに繋がった端末には無い」

「紙媒体ってこと?」

どうだろうなと言って進一はキーボードを叩きます。

「ネットの繋がっていないPCにでも保存している可能性はある。俺ならそうする。紙媒体は持ち運びに不便だからな。このIOTの進むご時勢に珍しい事だけどね。恐らくネットに繋がった方は『報告』用のデータだろう」

「金の流れとか追える?」

「目ぼしい物は無かった。帳簿でも見つかれば話は早かったんだが…大分レトロな人間らしいが、その辺りはきっちりしている。入れ知恵をした奴がいそうな雰囲気だな」

そう言う進一の口の端が歪みます。

「だが、面白い物は見つけた」

文章を表示していた画面が切り替わり、映像が代わりに表示されます。

「希望ホームのライブ画像だ」

監視カメラの画像のようですな。

画面の右上に記されている数字に八雲嬢の目が行くと、彼女は眼を見開きます。

「ちょっと待って、一体、幾つカメラがあるのよ…」

ざっと五十だな、と進一。

「正気の沙汰じゃないわね…でも、その割に従業員の数が少ないわね。三人って」

「各個部屋に一つずつで四十。集団で利用する部屋に八。後は職員の利用する部屋に二つ。見取り図には後、トイレと職員用更衣室があるな。そこには流石にカメラが無い。人手に関しては、昨晩の火事が影響しているようだ。普段は10人ばかりが詰めている」

外は、と八雲嬢。

その八雲嬢は壁際から離れて画面に釘付けになっております。

「ああ、後は表と裏に一つずつあるな」

となれば、合計五十二ですな。

「もはや病的ね」

「まあ疾しい事をしているからな。しかし、やっぱり気になるなぁ。数は兎も角として、設置の仕方に素人臭さが無い」

近くにあった椅子に腰掛け、八雲嬢は画面を進一の正面に戻します。

「どうすんのよ、今のアンタに手駒はあるの?その魔法の小箱ではもう探れないんでしょう?」

自らの方に向いた画面の端に、見知った男の姿が見え、

「手駒ねぇ…」

そう呟くと、進一は傍にあるノートPCに手を伸ばします。

「別に俺は誰も使う気は無いよ。昔からね」

そう、と言うと、八雲嬢は杖を突いて立ち上がりました。

視線を其方に向け、進一は口を開きます。

「君は動くなよ」

吐き捨てるように、分かってるわよ、と言いますと、八雲嬢は部屋を後にします。

その際に閉められた部屋の扉は、家を揺るがすほど激しいもので御座いました。




「大分、警備が厳しいな。本当に潜り込むのか?」

車の中で、運転席の男がそう言い。

「出来れば潜り込みたい。無理なら別の方法を考えるが…」

助手席の男はそう答えます。

こちら側の男というのは和馬氏で御座います。

そして、二人の視線の先には白を基調とした一階建ての建物が。

これこそが例の『希望ホーム』で御座います。

大きなガラス張りの入り口に、その正面には海外の豪邸を思わせる、巨大化した仙人掌のような植物が。

その周りをなぞるように道が有り、そこだけが希望ホームへの入り口のようです。

駐車場は裏手でしょうか。

此処からは見えません。

運転席の男は顎を掻きながら口を開きます。

「無理じゃあねぇが…少し荒っぽくなるぞ」

「君に協力を申し出ている時点でその辺りは諦めているよ」

そりゃ結構と言って男は笑います。

「手は勿論有る。大事なことだが、忍び込むのは今回だけだな?また潜り込みたいとか言い出さないよな?」

疑問符を浮かべながら、ああ、と和馬氏は頷きます。

「了解だ。それなら単純にカメラを一時的に無効化するかね…。後は出た所勝負になるぜ。見取り図は用意したが、どの部屋をどういう風に利用しているのかは解らん」

「十分だ。少し探し物をするだけだから」

そう即答した和馬氏を見て、男は厭らしく笑います。

「少しねぇ…まぁ頑張れよ。此処の事はこっちの世界でも話題でね」

「話題というと…?」

怪訝そうな表情で和馬氏は問います。

この怪訝そうな顔は、男の厭らしそうな表情に対する反応ではなく、男の言葉に対する反応で御座います。

一応の補足で。

「少しばかり遣り過ぎなんだよ。言っては何だが、貧困ビジネスなんざ―黒か灰かの区別は兎も角として―一括りに見れば地域毎にあるもんだ。今のご時勢はな。だが、こいつ等はそこかしこから人を集めていてなぁ。快く思っていない人間は多い。この見取り図もそういう奴らから貰ったんだ。何なら資金援助も申し出てみるか、多分、得られるぞ」

少しばかり考えていましたが、直ぐに和馬氏は施設に視線を戻します。

「結構だ。今回はこっちの事情で首を突っ込んでいる。自己満足だけで十分だ」

「難儀な男だ…」

何だって、と和馬氏。

「酔狂だって言ったんだよ。まぁいいや、開始するぞ。っと、その前に質問はないかい?」

それまでの会話を切り上げるように男は話題を先に進ませます。

「何処までやれる?」

内心、違和感を感じながらも、和馬氏もそれに乗っかります。

大分、相手の男の事を煩わしく和馬氏は思っているのですな。

「カメラの無効化。火災報知機の誤作動。後、通報だな」

「俺が入ったら直ぐにカメラを無効化してくれ。俺が訪れたという映像を残したくない。その後、そうだな、15分後に通報を」

「カメラの件は大丈夫だが…」

通報か?と男。

ああ、と和馬氏。

「通報ね…」

ちらりと男はホームから十数メートル先に視線を向けます。

そこには黒く焦げた地面がありました。

「まぁいい。お手並み拝見と行こうじゃないか。問題が無ければカウントを開始したいが?」

頷いた和馬氏を見て、男は手元のスマートフォンに視線を落とします。

「三・二・一…行け」

見取り図を片手に、和馬氏は車を降りました。




―さて。

此処から和馬氏の『ドキドキ!潜入大作戦!』が始まるのですが、一つ問題がありまして。

作戦の実行者、街の探偵・和馬氏なのですが、口を割らない。

幾ら聞いても話さない。

子供に話す事ではないと、そう言うのです。

確かに犯罪でしょうけど。

昔の冒険譚を語るのが男だと思っていましたが、彼に関しては例に漏れるようで。

―こうなれば、仕方ありません。

真に遺憾ですが、当事者ではありませんが知っていそうな方にお話を聞きました。

ええ、進一さんに。

そう、進一さんに聞いたのですが…。

しかし…何と言いますか…その…。

―胡散臭い…。

いや、兎にも角にも読んで頂きましょう。

私も彼の語った通りに記します故―。

見取り図を片手に車を降りた和馬氏ですが、真っ直ぐに入り口に向かいます。

忍び込むのですが、下手にオドオドとしていれば怪しいことこの上ない。

故に、さも当然の如く和馬氏は施設に踏み入ったのだそうです。

そこに一つ目の関所。

「おい、何のようだ!」

入り口に程近い受付らしいところからの言葉で御座います。

とてもではありませんが、来客に対する対応では御座いませんな。

それ相応の身なりの男性だと思って頂ければ宜しいかと。

「随分な態度だな…」

溜息交じりにそう言うと、和馬氏はズカズカと男の前まで進み、睨みつけます。

「その度胸は結構だ。此処の兄さんらに殺されたくなけりゃあだが」

あ?と威嚇しながら顔を覗き込もうとする男のこめかみを、和馬氏は眼にも留まらぬ速度で掴みますと、これまた一拍の間も無くその手に力を篭めます。

これは―大層痛いそうです。

男は呻き声を上げます。

存外、この和馬氏は暴力的なのですな。

「この痛みを忘れるな。そうすりゃ痛い目をこれ以上見ずに済む。尤も、これ以上、無駄な会話で俺の足止めをするってんなら本当に殺されるぞお前。上はカンカンなんだよ、テメェらがドジ踏みやがったからな…」

立ち上がろうとする男の肩を押して椅子に押し倒すと、和馬氏は頭から手を離します。

「良いか、此処で俺に協力するってんなら見逃してやる。だから、俺の質問に答えろ」

殆どパニック状態の男は、わけも解らず頷きます。

「まず一つ。此処の管理者…ああ、名前はなんだったか…まぁいい、些細な事だ。そいつが使っている部屋は何処だ」

「一番奥です…ですけど…」

少しばかり男は怯えているようですが、そんな事、和馬氏には関係がありませんな。

「余計な事は言うな。次の質問だ。此処の職員は今何人いる?」

「三人です」

随分と少ないな、と和馬氏が問うと男は眼を逸らします。

「本当は十人体制で居るんですが…その」

「要はサボっているわけか、若い衆に任せて…全く、どうしようもねぇな。まぁいい、残りの面々にも逃げるように伝えとけ」

「逃げるって…!?」

手入れだよ、と言葉を投げ掛けると、和馬氏は奥へと歩を進め始めます。

その背を見た途端、男は携帯電話に手を伸ばしております。

さて、ちなみに此処は一階建てで御座います。

見取り図によれば大樹のような大きな道があり、その時々に枝のように数多の部屋が在ります。

扉同士の幅は二メートル余り。

まるで独房ですな。

角は直角に曲がり、それがぐるりと建物を一周しておりますので通路は四角形に沿ってあるのですな。

その受付の逆側。

裏口でもありそうなところに目的の部屋が御座いました。

ちなみに、職員の詰め所はその隣。

四角形の入り口側の逆側の反対側は、半分がその二つに裂かれているようです。

独房のような部屋の五倍の広さですな。

その対面には食堂や浴室が御座います。

此処で第二の関所。

恐らくは受付の無頼君が連絡を入れたのでしょう、職員詰め所から二人の男が飛び出してきました。

それなりに歳の行った御仁と、受付の無頼君と同じくらいの青年ですな。

この青年ですが、受付の無頼君に比べれば大分好青年風です。

一方の御仁は、何といいますか、貫禄があります。

目付きが悪いわけでは在りませんが、鋭い。

「アンタ、何者だ」

開口一番、鋭い視線を注ぎながら男は言います。

若い方の方は携帯電話を片手に険しい表情を浮かべております。

「もう受付から連絡が行っていると思うが…?」

言葉を紡ぎながら和馬氏は若い方の男に視線を注ぎます。

どうも場違いな方だ、というのが率直な感想で御座いました。

もう片方の方は予想通りの御仁ですが。

暴力で道を切り開かんとする類の方のようです。

受付の方はその見習いといったところ。

差し詰め、目の前で和馬氏を威嚇している御仁は此処の『管理職』の方のようです。

ずい、と管理職風の男は前に出ます。

「ウチは何処の世話にもなってねぇんだよ。だから、アンタが言う様な事はねぇんだよ!」

随分と抽象的な物言いで御座います。

それも仕方ありません。

今のご時勢、明確にその辺りの事を口にするのは憚られます。

憚られるというより、明確に口にしますと、下手をすると捕まりますな。

「そりゃ結構だ。だが、君の雇い主はどうかね。大分、あこぎな商売やってるじゃないか。色んなトコから反発を食らってるぜ」

微かに管理職風の男の顔色が変わります。

「見たところ、アンタがそっち系の担当みたいだな。なら解るだろう、そろそろ限界なんだよ」

だからどうした、と管理職風の男。

解らないかねぇ、と和馬氏。

「俺が来たのは最後通牒みたいなもんさ。別に俺は誰かに肩入れするつもりも、ましてや正義だの悪だのを語るつもりも無い。ただ、少しばかり曰くのある人間が絡んでいてね。それで態々、出向いたんだよ。気に入らんというのなら立ち去ろう。それならそれで構わんしな。此処の末路が、此処に居る連中の末路がそれで変わるわけでもない。ただ俺は、一矢報いたいだけなんだよ」

此処の連中の末路、という辺りで若い男の顔色が変わります。

どうやらこの男が、この施設の運営に関して入れ知恵をした者のようです。

「全く…そうさな。精々、飲まれたケースワーカーつったところかね…気持ちは解らんでもないが、反吐が出る」

和馬氏が呟くと二人とも眼を見開きます。

どうやら秘め事だったようです。

随分と簡単に露見してしまいましたが…。

「世も末だねぇ、人を助ける者が逆に足を掬うとは。ま、始めは知らなかったんだろうが。そうだろう、小田芳樹君」

名を呼ばれ、若者は肩を震わせます。

「少し調べただけで直ぐに解ってしまった、遣り甲斐の欠片もない。この手の案件でまず疑われるのは君等だ。他のケースワーカーにとってはいい迷惑だろうが、仕方あるまい。こういうケースもあるのだから。しかし、疚しい事をやってんなら、もう少し工夫をして欲しいところだな。どちらにせよ、もう長くなかったと言う事かね…」

後半部分は和馬氏の独り言です。

正味、和馬氏の目に目の前の二人は大して映っておりません。

興味が無いと言っても良いでしょう。

彼の興味を引き、此処まで足を運ばせた理由は―。

相手の出方なぞ気にも掛けず、和馬氏は所長室の扉のドアノブの辺りにしゃがみ込みます。

てめぇ、と食って掛かろうとする男を煩わしそうに和馬氏は見ます。

「さっきも言っただろう、時間の問題だったと。既に通報した。さっさと逃げろ。証拠は出来るだけ隠滅しといてやる」

とっとと行けと言わんばかりに片手を振り、和馬氏は鍵穴に眼を戻します。

「セキュリティも甘いねぇ…」

呟き、和馬氏は得意げにピッキングツールを取り出し、手早く開錠します。

何者だ?

そういう男なので御座います。

言ってはなんですが、此処に居る誰よりも犯罪者側の人間なので御座います。

唯一の違いは前科が無い事だけ。

「さて、お宝拝見と」

扉を開き、するりと和馬氏は室内に足を踏み入れます。

図書館が爆発したような光景で御座います。

それほど物が散乱しております。

五分ほど散策し、和馬氏は手ぶらで部屋を出ます。

その頃、遠くからサイレンの音が聞こえてきました。



10


時は翌日。場は『バウンダリー』。

何時もの如く和馬氏は窓を開け、その淵に腰掛けながら煙草に火を灯しております。

何時かと同じようにソファーには泰蔵警部補の姿が御座います。

「全く…勘弁してくれよ。揉消すのも一苦労だ」

そう言い、泰蔵警部補は冷め切った紅茶に口をつけます。

「何の話ですかね」

「とぼけるんならそれでいい。こっちも単に鎌をかけただけだ」

底意地の悪い方で御座います。

「それで、何の御用で?」

煙草を深く吸い込む和馬氏を一瞥し、

「いや、昨日な、とある施設を摘発したんだよ」

さらりと泰蔵警部補は言葉を紡ぎます。

この摘発に関しては朝刊にも載っていない、今のところは秘め事なのですが…。

「そりゃ一大事でしたね。差し支えなければ名前を聞いても?」

「希望ホーム…いや、ホーム・希望だったかな」

これまたサラリと言います。

警察が秘匿しているにはそれなりの理由があるのですが…。

「聞き覚えのある名前ですね。確か、貧困者救済を目的とした集団ホームだとか」

そう言い、和馬氏は煙草の灰を落としました。

あくまでもその視線は外へと向いております。

「流石は探偵さんだな。匿名の通報があってね。何でも刃物を持った男が建物に入って行くのを見たと。到着した警官が、警報装置が作動しているのを確認し、事情を聞こうと中に入るとそこは無人と来た」

「それで中を調べた?越権行為ギリギリでしょう」

「それで処分された巡査殿は横に置き」

仕事熱心であるが故に罰せられるとは可哀想な方で御座います。

「彼は中々興味深いものを発見した。監禁とも取れる手法で入居者を扱っていたんだ」

ほう、と和馬氏は外を見たまま言葉を零します。

「そりゃえげつない。是非、取り締まって頂きたい」

「だが、何故か従業員が居なくてねぇ…。執務室らしいところも荒らされ、何も残っていない。足跡が無いんだ」

「それが本題ですか…」

手元にある灰皿に煙草を放り、和馬氏は漸く泰蔵警部補に視線を向けますと、その眼を真っ直ぐに向け、口を開きます。

「あそこはとある暴力団に繋がりがある夫婦が取り仕切っていました。繋がりと言っても実に薄いものです。精々、レクチャーを受けていた程度でしょうかね。しかし、マル暴の方にでも聞けば手掛かりがあるでしょう」

語るべき事は終わったとばかりに言葉を紡ぎ終えると、和馬氏はまた外に視線を向け、煙草に火を灯します。

―なぁ。

「俺は通報者と侵入者は共犯だと睨んでいる。あまりにタイミングが良すぎるんでな。だが、何でだと思う?」

「質問の意味が解りませんね」

不敵な笑みを和馬氏の背中に送り、泰蔵警部補は口を開きます。

「警官が到着した時点で従業員も侵入者も居なかった。居たのは半監禁された者のみ。そして、情報を漁ってあった。恐らく、漁った上で隠滅して行ったのだろう」

流石に自分が漁ったとは言えませんな。

「潰したい者…でしょうかね…」

歯切れ悪く和馬氏はそう言います。

「だが、結果として施設の閉鎖に留まった」

「それが目的でしょうかねぇ」

誰が。

何の為に。

「俺には違うように思えるが?」

お互いがそれには触れず、この会話は此処で終わりました。

もう一つ二つ雑談を交わすと、泰蔵警部補は席を立ちました。

「それで、入居者はどうなりますか?」

去り際の、扉を開いた泰蔵警部補の背に向かって和馬氏はそう言葉を投げ掛けます。

少しばかり泰蔵警部補は振り返り、

「個別に取り調べを行っている最中だから何とも言い難いが…ケースワーカーに引き渡す事になるだろうな。その辺りが気になるんなら決定次第連絡しよう」

言葉を紡ぎ終えると泰蔵警部補は扉を閉じます。

少しばかりバツが悪そうに見えたのは和馬氏の錯覚でしょうか。

「それ以上は警察の管轄外か…」

否。

バツが悪く感じているのは彼自身のようです。


さて、今回のお話は此処まで。

続く、という奴で御座います。

中途半端?

ええ、ええ。

しかし、故に第一幕で御座います。

何分、長い御話で御座いますので。

そう、人の生き筋を変えてします程の―。




第二幕 流れ語り


どうも、八雲です。

二幕の初めは私、と。

え、これでいいの?

一人で話してるだけなんだけど…。

ああ、後から字に起こすのね。

そう。

それで?

ああ、希望の一件を振り返ってのコメントね。

でも、コメントって言ってもねぇ。

何時だっけ、五年前?

態々、進一やら和馬やらに話を聞いてるから何事かとは思ってたけど、まさかこれをねぇ。

だって、これってアンタにとっちゃあ黒歴史でしょう。トラウマでしょう。

―ああ。

だから今、向き合おうと。

進一にも勧められた、と。

それは…殊勝な心がけね。それで何が変わるとも、何が出来るとも思えないけど。

良いんじゃない?

少なくともこういうのは私、好きだしね。

経過も含めた、仔細な報告書って奴。

まさか物語り仕立てだとは思ってなかったけどね。

そう言う事ならコメントの一つや二つはあげたくなったわ。

でも、先に言っておくけど、その『希望』の案件に私は大して関わってないのよ。

大概、家に居たし。

話も又聞きぐらいだし。

それを踏まえて聞いてもらいたいけど、胸糞の悪くなる話よね。

全体的に。

子を犠牲に、自らの困窮によって不幸に殉じさせている親とか。

それを、仕方が無いことって納得しようとしている子供とか。

そういうのを食い物にしている輩とかね。

あれ、これで登場人物の全てをカバーするんじゃない?

そりゃ胸糞悪いわよね。

ああ、後、それらを上の方から傍観してる奴ってのも居たわね。

私みたいな。

言い訳させてもらえるなら、進一に動くのを止められたんだけどね。

何が出来たとも思えないけど。

私のコメントとしてはそんなモンじゃない?

見方次第ってのもあるわ。

私はこうだけど、鳴海は思うところがあったみたいだしね。

和馬なんかも結構、思うところがあったんじゃない?

進一に至ってはね。

思うところどころか、何かやったんじゃないの。そういう奴よ、アイツって。

ただ、和馬やら進一は、鳴海とは違って加害者側に興味があるみたいだけど。

こんなとこで良い?

そう。

じゃあ次は二幕だっけ。

頑張ってね。

ああそうだ、最後に一つ。

何でそういう口調なの?



第二幕 



風の通る、山の上の公園。

その更に上。

公園から山頂へと向かう石段の中程に御座います、屋根のあるベンチに涼は腰を下ろしておりました。

もう陽が沈む…いや、これは陽が昇る頃ですな。

肌寒い風に身を縮めながら、涼はぼうっと街を見下ろしておりました。

別段、意味があってやっている事ではありません。

こんな朝早く―今は午前五時前ですな―こんな山の上で、彼女はこれといった目的も無く『下界』を眺めておりました。

理由があるとすれば、眠れない、眠りが浅いからでしょうか。

眠っても三時間程で眼が覚め、仕方なく朝の散歩に出ているのです。

これの理由はハッキリとしています。

それは―。

「不安…なのよね」

誰に聞かせるでもない言葉を涼は口にし、街から足元に視線を移します。

そう思う涼の目には、やけに自らの立つ場すらも脆く見えてしまいます。

さて、何が不安かと申しますと、一幕でも触れましたが、彼女はご両親に『捨てられた』のです。

いや、施設から彼女が逃げ出したのだろう?

いやいや、彼女自身はそうなんですが、その施設が摘発された以後―もう一月程が経ちますが―未だに彼女の御両親は姿を見せておりません。

確かに、彼女は公園管理事務所で自ら進一達に話したとおり、『捨てられた』と認識はしていました。

しかし、そこには微かな希望が。

『何れは元に戻る』のだと。

普通に暮らせる日が来るのだと。

しかし、進一から施設が摘発され、御両親の身元はケースワーカーに委ねられて以後、消息不明だと聞かされた時、涼は自らの足元が崩れる感覚に見舞われました。

それからです。

彼女が不眠に悩まされるようになったのは。

そんな彼女に対し、八雲嬢は励ましこそはしませんが、気には掛けているようでした。

進一は―。

初めからこの状況を、事態を予測していたらしい男は。

涼に両親の消息不明を伝えた頃から、姿を消していました。

時折、深夜に帰って来てはいるようですが、顔を合わせる機会はありませんな。

溜息を零し、涼はベンチに寝転がります。

―さて、どうしたものだろう。

蜘蛛の巣の張った天井を見つめ、涼は考えます。

何時までもあそこに居るわけにはいかない。でも、行く場所は無い。

普通なら親戚の家とかになるのだろうか。

でも、生まれてこの方、親戚というものに会った覚えが無い。

両親共に、親も居ないなんて事はないのだろうけど、少なくとも仲は悪いようだ。

それなら、施設…?

涼は首を傾げます。

良く『施設』なんて言う風に聞くけど、そこにはどうやって入って、幾つになったら出て行くのだろう。

出て行った後は?

そして、果たして何のバックアップも無く突然、社会に出て生活を出来るのだろうか。

考えれば考えるほど、涙が出そうになります。

―恐い。

率直な感想はそれでしょう。

解らないから―怖い。

両手で眼を覆い、涼は身体の力を抜きます。

「もう…」

―やだなぁ。

微かな声で呟き、涼は瞳を閉じます。

ふと頬の辺りに温もりを感じます。

陽が昇り始めたようです。




『街』に御座います、とあるビル。

街並みに不釣合いなその真新しいビルは、イージスの持ちビルで御座います。

その内、上の三階がイージスの日本支部となっております。

ええ、例の鳴海女史の。

その三つのフロアの内、一般人が入れますのは一つ。一番下のフロアのみ。

真ん中が一般社員。

一番上、ビルの最上階に入れるのは『幹部』クラスのみで御座います。

「ようこそ、先生」

その最上階から眼下の街を見下ろす進一に、鳴海女史はそう声を掛けます。

此処は応接室のようです。

その隣は所長室ですな。

「まさか貴方が御出でになるとは…御用の際は呼びつけて頂ければ…」

そうもいかんだろう、と言って進一は視線を鳴海女史に向けます。

ピッと鳴海女史は視線を向けられた瞬間に姿勢を正します。

「今や君は此処の幹部だ。おいそれと呼びつけるなんて真似は出来んさ。『御嬢』と呼んでいた頃が懐かしい」

「止めてください。もうそんな歳でもありませんし…呼ばれていた頃もですけど」

どうか御掛け下さい、と声を掛け、鳴海女史はソファーに腰を下ろします。

「それで…本日は何の御用でしょうか?」

「人探しを頼みたい」

人捜しですか、と鳴海女史。

そうだ、と進一。

「随分と…拍子抜けな御話ですね。別に人探しなら私なんかを頼らなくても…」

鳴海女史が言葉を濁らせると、隣の扉が開き、秘書らしい女性がお茶を運んで参りました。

どうやら隣でタイミングを見計らい、言葉が途絶えた瞬間を狙っていたようですが、少しばかりしくじったようですな。

来客に構わず進一は会話を続けます。

「何かとは言うじゃないか。今や君達の情報収集能力はこの辺りでは随一だ。ルートを頼る人間も多かろう」

ええまぁ、と言葉を返しながら鳴海女史はトレイを自ら受け取りました。

この会社では、さっさと消えろというサインで御座います。

そそくさと場を後にする秘書の背を見送り、鳴海女史は口を開きます。

「あまり大きな声で言わないで下さい。ウチはあくまでも警備会社なんですから」

「人を護るには情報収集は必須だ。まぁ…」

用途は他にもあるが、と言葉を続け、進一は出された冷茶に口をつけます。

「いちいち棘のある言葉ですね。何があったんですか、随分とご機嫌が悪いようですが」

「例の希望ホームの事は聞いているか?」

ええまぁ、と鳴海女史は頷きます。

「何でも警察に摘発されたとか」

ジッと言葉を紡ぐ鳴海女史の眼を見つめながら、薄らと笑みを浮かべると進一は口を開きます。

「流石だ。ならばそこが『何故』摘発されたかの説明は省こう。問題は、そこの入居者の子供が今現在、ウチに居るという事だ」

眉を潜め、鳴海女史は首を傾げます。

ああ、とハッとしたように進一はそれを見て言葉を零しました。

「その子供ってのは『涼』と言ってな。女の子だ。見てくれは良い。頭の程は…そこまで良くはないが、物を考えないタイプではないな。それが災いして…災いか幸運かは微妙なところだが…とにかく、彼女は施設に両親と共に入るが、脱走した…らしい。もしかしたら、その前に逃げ出したのかもしれないが…そうなら…いや、どちらにせよ、幸か不幸かは微妙だな」

ぽかんとして鳴海女史は饒舌になりつつある進一を見ております。

そして次に。

―参ったわね。

と心の内で鳴海女史は思いました。

こうなってしまえば滔々と進一は語り続けるだろう。それはまあ良い。

問題は、彼が、自分が知っている事はこっちも知っていると前提しているところ―。

「…それで彼女の処遇をどうしたものかと思ってなぁ。やはり親が居るならそっちに戻した方が良いとも思う。だが、実際に子を捨てる親もいるだろう?」

「え?ええ…」

突然問われ、思わず鳴海女史は頷きました。

「そうだろう。だから、取り敢えずその親を見つけることにしたんだ。だが、そういうのは俺の領分ではない。だから…」

「その親探しを私に…?」

ああ、と進一は頷き、鳴海女史は胸を撫で下ろします。勿論、心の内で。

「先生に頼まれればそれは勿論、無条件で引き受けますが…しかし、何故ですか?」

今度は進一が首を傾けます。

「質問の意味が良く解らないが…」

「いや、その…涼ですか、その子を手助けしてどうなるんですか」

ああ、と進一は頷きます。

「そうか、報酬の話か。良し、今回は奮発しようじゃないか。金が要らんのなら特別に券をあげよう。何時でも最優先で手を貸すという優待券だ」

そういう話ではないのですが…。

本当にそう思っているのか、或は話したくないのか―。

「それは素晴らしい報酬ですわね」

そのどちらとも判断できず、鳴海女史はそう会話を締めくくりました。




人探し。

探偵業務の中では多い方の仕事で御座います。

他には浮気調査や、家出したペットの捜索なんかもありますな。

少しばかり厭らしい話をしますと、一番儲けが大きいのは『ノイローゼ』が関連した事案です。

盗聴や、盗撮。

それをされていると感じている方からの調査依頼です。

ノイローゼというのは、幾ら調査をしてもまた調査を頼むものでして、ですから―言葉は悪いですが―食い物に出来るのですな。

それらを専門に、好んで受けるのは悪徳探偵という奴で御座います。

無論、和馬氏はそれではありません。

それ故に貧しい。

助手の一人も雇えない程、貧困に喘いでいるわけですが、探せばそういう人種も居るものでして。

探偵と名乗っているわけではありませんが、似たような事を生業にしている者が街の外れに一人。

名をJ。

外人か?

いえ、完全完璧、見紛うことも出来ない日本人男性で御座います。

そう名乗り、それで通しております。

和馬氏や鳴海女史のような二代目というわけではないようですが―。

詳しいことは、尋ねた和馬氏も知りません。

その男の住む古ぼけた民家を訪ねるのは久しぶりで御座いました。

少なくとも二代目を継いでからは―。

「おや、おや、おや、おや…」

気だるそうに男は引き戸を開きます。

古ぼけた民家には似つかわしい、監視カメラ群のから和馬氏の姿を見たのでしょう。

「誰かと思えば我らが和馬君じゃないか。こんな如何わしい場所に何用かい?」

芝居がかった口調で男―Jはそう言葉を続けました。

「随分な挨拶だな…」

開いた戸に背を預けて男は笑みを浮かべます。

「おいおい、随分と憔悴しているな。どうした、浮世の果てにでも行ってきたのかい?」

何も答える気になれず、民家の庭である部分に大量に放置されている粗大ゴミの一つに和馬氏は腰を下ろします。

「何だ、御喋りくらいしようぜ。こちとら暇で死にそうなんだ」

友達が少ないからな君は、と和馬氏。

お前ほどじゃないさ親友、とJ。

「冗談は兎も角として用はなんだ。あの悪徳ホームを潰した自慢をしに来たわけじゃあるまい?」

横たわった冷蔵庫に腰を下ろしてJはそう問います。

「どうしてあのホームの話がこんなに広まっているんだ…」

そりゃ有名だからな、と言ってJは煙草に火を灯します。

「割と上手い事やっていたからな。親戚付合いの薄い、或は天涯孤独、音信不通の人間ばかりか、音信を取りたくない人間なんかをターゲットにしていたな。一時期公共事業なんかが盛り上がったのを覚えているか?そんなタイミングで委託会社に安い従業員として派遣していたりな…まぁ、悪徳で違法だ。ついでに言えば、意地悪だ」

くっくっと男は底意地の悪い、笑い声を上げます。

「しかしながら、俺としてはもう少し観察していたい対象だったんだがなァ。しかし、この街の正義の味方、和馬君が出張ったのでは文句のつけようもあるまい。おまけに依頼者も居ないボランティアと来たもんだ。本当に、頭を垂れるしかない行いだな」

そう言ってJは紳士風に頭を垂れました。

「厭味ったらしいな、全く…。そりゃ俺も出来ればお前らと相談して遣りたかったよ。だが、時間が無くてな。それに動いたのは俺だけじゃないよ」

ヒュっとJは頭を上げます。

その顔には厭らしい笑みが浮かんでおりますな。

「成程。それなりに大きな組織が相手だ、君が単独で相手にするには大きすぎるほどのね。しかし、動いたのが君だけじゃないとなれば得心がいったよ。棲み分けは大事だぜ、親友。まぁ、お前の都合と言うものも尊重しよう。そうなれば一枚噛むのもやぶさかではない。用があるんだろう。何だ、話してみろ」

少しばかり思巡し―。

「人捜しだ」

視線を逸らしながら和馬氏はそう言います。

「何だ、含みがあるように感じるのは俺の性根が腐っているからか?それともお前に会話のセンスが無いからか?」

「含みと言うか…その…」

―これも…依頼者の居ない案件だ…。

何処か気まずそうに言葉を紡いだ和馬氏を尻目に、Jは深く溜息を零しまして、

「お前、探偵の仕事を誤解しちゃあいないかい?」

そう言いました。




柔らかな日差しが顔に挿し、涼は目を開きます。

知らぬうちに眠ってしまったようですな。

「寒い…」

そりゃそうです。

幾ら日差しが暖かいと言いましても風は冷たい季節で御座いますので。

その背後で溜息が一つ―。

「―アンタはあれね」

八雲嬢の言葉。

呆れた表情で八雲嬢は涼に視線を注いでおりました。

「公園の徘徊の時も思ったけど、どうしようもないくらい危機感がないわね。何だろう、探しただけ馬鹿を見たような気分だわ」

杖を突き、八雲嬢は涼の寝転んでいる物の対面にあるベンチに腰を下ろします。

「―いや、少し違うわね…何かしら、自分が獲物だと認識していない生物を見ている気分なのよね…」

本気で悩んでいるようです。

まぁいいか、と直ぐに八雲嬢は思考を止めると、キッと涼を睨みます。

「言わないと解らないようだけど、幾ら人気の無い公園つっても、若い女が一人で寝られるほど安全じゃあねぇよ?」

ぐうの音も出ず、涼は視線を落とします。

そんな姿を八雲嬢は鼻で笑います。

「その年頃の子ってもう少し警戒心があるもんじゃないのかしら。アンタ、諦めているように見えるわよ?」

諦める。

その言葉に涼は首を傾げます。

「別に諦めてなんか…」

「じゃあ、何を望むのよ?」

困惑。

それが涼の状態を示すのに一番適切な言葉でしょう。

「そんなに難しい質問かしらねぇ。いや、これが高校生に将来への展望を聞いてんなら沈黙を選ぶのも解るわ。夢も希望も無い時代だもの、仕方ない。でも、アンタの場合は違うわよね。普通の人間が送る生活自体が望みの一端になる。普通に生きたいというのが希望になる。だけど、それが出来ない事をアンタは知っている」

『お前は普通には生きられない。』

心を抉る一言で御座いました。

「だから…難しいんじゃないですか」

声を絞り出してそう応えますと、微かに、八雲嬢の顔に笑みが浮かんだように涼には見えました。

「難しいと言えば難しいのかしら。何せ、普通の方々はその状況の人間が何を選べるのかを知らないから。同様に何を諦めざるをえないのかも知らない。生まれ、学び、学歴を得て職に就き、家庭を持ち、次代を育て、そして終わる。単純明快に人の一生を語ればそれで済む。アンタはその『学ぶ』で躓いた。それも、外からの要因で躓いた。運が悪かったの一言で済ます人間も世の中には居るのよね、驚くことに。アンタもその口かしら?」

「…そうじゃないと言える?」

見る見る内に涼の表情が曇ります。

傍から見れば苛めているようですな。

勿論、そんなものは意に介さずに八雲嬢は口を開きます。

「ううん、不運よ。どうしようもなく、紛う事なく不運で、薄幸よ。でも残念ながら、この国では決して珍しい話じゃないのよねぇ。生まれながらに不運な子供はこの日本でも多く居るのよ。パーセンテージなんかは進一にでも聞きなさい。異常に詳しいから。不運…と言うと曖昧ね。選択肢を多く奪われた子供は多い…かな」

そこで一度言葉を区切ると八雲嬢は眼下の街並みに視線を落とします。

「―まぁ、考えようによっちゃ最悪よね。選択肢の多い群れの中に点々と選択肢の少ない者達が居る。幸運を信じて生きるほど心にゆとりは持てず、絶望に浸れる程立ち止まる時間は無い。いっぺんしくじれば奈落の底に落ちる…」

ちょっと横道にそれたわね、と八雲嬢。

「ま、別に不安を煽るのは私の趣味じゃないし―」

…それはどうでしょうな。

寧ろ、それを楽しんでいるようにも見えますが…。

趣味じゃないし、ともう一度八雲嬢は繰り返します。

「何よりも、その辺りは言わずとも実感するだろうから良いんだけどさ。問題は、今のアンタには特別な選択肢がある。選択肢が生まれてしまった」

一度、杖で八雲嬢は床を突きます。

「先日、アンタは浮雲に『助け』を求めた。故に、アンタは『助かる』。でも、その結果、失う物もある。それを見て、次にどの方向に進むのか決めねばならない」

何を言っているのか解らない。

それが涼の率直な感想で御座いました。

そうで御座いましたが―八雲嬢の発する気配が、気迫のようなものが涼の心をざわつかせます。

『助かる』。

聞きなれぬ、いや、望みはしていたけど、もはや自ら忘却の彼方に追いやってしまっていた言葉。

困惑した表情を浮かべ、吐き出す言葉を捜す涼を見つめ、八雲嬢は口を開きます。

「何を言っているのか解らないって顔ね。そりゃそうよ。人間なんてそんなモンよ。だから私は究極のところ、助言なんてよっぽど賢い相手でない限り無意味だって思ってるのよね。それでも彼はそれを止めない。彼が止めない以上、私がやめるわけにはいかない」

そうね、と言って八雲嬢は立ち上がります。

「壊れたリズムで踊らされていたのが今までのアンタなのよ。そのリズムを全うに戻してはやれるけど、それで踊るかどうかはアンタ次第。勿論、努力は必須。壊れたリズムで踊るほうが楽しい事もあるし、そのリズムが身体に染み込んで抜けないケースも多い。でも、未来を見据えれば―いや、それは…」

個人の自由よね、きっと。

何処か冷たくそう言葉を続けると八雲嬢は涼の肩を叩きます。

「幸い、もう少し時間はあるわ。だから、考えなさい。考えて、悩んで、苦しみなさい。それが納得に繋がるわ」

少しばかり八雲嬢が微笑んだように見え、思わず涼も微笑み返します。

小さく頷き、

「暗くならないうちに戻りなさいよ」

そう言葉を残して八雲嬢は場を去ります。

一人残され、また涼は眼下の街を望んでおりました。




Jと鳴海女史。

探索を頼まれた両者ですが、先に発見したのはJサイドで御座いました。

その差は両者の探索方法の差でしょうな。

この両者の探索方法と言いますのは…いや、この話はまたの機会に―。

報告を受けた和馬氏は街の外れへ。

その昔は商店街として機能していた地域。

今や山の麓辺りの地域―街と呼ばれる地域ですな―に建てられた大型ショッピングモールとその周りに生えた有象無象にとって代わられ、シャッター街と化しております。

この辺りはJの縄張りでして、面白いもので、そういう輩がこぞってこの辺りに根を下ろしておりまして。

その頭目がJでして。

昨今の流行り言葉で言えば『半グレ』という奴でしょうか。

本人達がどう言うかは解りませんが、周りはそう言っておりますな。

「和馬さん!ひっさしぶりですねぇ!」

民家兼不動産屋の扉を開きますと、光景が眼に入るよりも先にそう陽気な調子の声が飛んでまいりました。

「いやいやいや、驚きましたよ。まさか新規の店子の一人をお探しとはね。それはそうと今、ステーキを焼いていたんですがどうですか?」

矢継ぎ早に若い店主は言葉を紡ぎます。

どちらかと言えば後者のほうが本題のような口ぶりで御座います。

男の名は不動。

その名の通り、身長200センチ体重143キロと巨漢で御座います。

「いや、ステーキは…それよりも、その店子ってのを教えてくれるかな?」

ええ、と腹を不動は叩きます。

絵本の狸以外では見ない仕草ですな。

「少々お待ちを」

そう言ってガスコンロに火をかけたまま不動は奥に引っ込みます。

「…ったく」

コンロに掛けられた鉄板のようなフライパン。

その中には500グラムはあろう肉の塊。

溜息を零し、肉を引っ繰り返し、一分もしないまま傍にあった皿に肉を移します。

ちなみに、その皿には既に四枚ばかり肉が在ります。

合計2キロ。

「ああ!すいません!」

駆けて…というか、地響きがしそうな歩法ですが、それで不動は和馬氏―というよりも肉の前に滑り込みます。

おお、と不動は言葉を零します。

「素晴らしい!何て魅力的な…ステーキ…」

何も言わずに和馬氏は不動が右手に持っていたファイルをぶんどり、ファイルに眼を落とします。

え?不動?

勿論、和馬氏が調理を半分ほど手伝ったステーキに夢中で何も聞いておりません。

さて―。

ファイルによれば、その店子というのは『天野夫妻』。

夫妻としか書いてありません。

保証人もいない。

よくもそんな人間に住居を提供したものです。

しかし、裏を返せばあの不動という男は、そういう相手に物件を貸す人種なのですな。

そして―言うなればですが―あのJなる人物は、そういう職種を表の人間と繋ぐ仲人の役割も果たしているのでしょう。

此処に来て漸く店主の存在を和馬氏は思い出しました。

「―ああそうか、思い出した。『土地の不動』か。そうだそうだ、思い出したぞ。確か三つばかり後輩か」

Jと同じような笑みを浮かべ、不動は和馬氏を見ます。

「悲しいですねぇ。こっちは忘れられない名前なのに。和馬。柳和馬。あのJが認め、傍らに立つ事を認めた男。高校から一緒になった貴方には解りませんかねェ。あの人は特別なんですよ。そんな人が認めた男。それこそが貴方だ、和馬さん」

そう言って不動はフォークで和馬氏を指します。

少しばかり不愉快ですな。

「別に俺はアイツの隣に立つ気は無いよ。もっと言えば、友人とも思っちゃいない。単なる腐れ縁だ。こんな仕事を選んでなけりゃあもう切れている」

己を友と呼ぶ男。

和馬氏にしてみれば泰蔵氏と同じ、そういう認識で御座います。

「それでもあの人と密に関係のあるアンタの頼みを俺らは断れない。好む好まざるは別にしてね…」

浸るように巨漢の男、不動はそう言います。

―気持ち悪いな、コイツ。

それに対する和馬氏の感想です。

「ああ…と、そうか…うん」

何と返して良いのか解らず、一人頷くと仕切りなおすように和馬氏は口を開きます。

「それで、この天野夫妻ってのはどんな人物なんだ?」

流しましたね…、と少しばかり悲しそうに不動は言いますが、視線をステーキに落として口を開きます。

「天野ってのは…そうだ、一番最近の客だ。本人にゃ会ってませんが、ちゃんとした身元の客ですよ」

取り敢えず二点。

まず、保証人が居ない点と、本人と会っていないという点。

「いや、多いもんですよ。何せ、ウチの家業が家業ですから。言っちゃあなんですが、そういう需要もあるんですよ。まぁ、住所がなけりゃ働けもしませんし。で、仕事が見つかったら出て行く。その際に少しばかりの礼金も頂きますがね」

疑問には答えているのでしょうが、質問の答えにはなっていませんな。

「ああ、その天野夫妻の場合は紹介があったんですよ。その、仔細は流石に話せませんけど、その」

「解っているよ。続けてくれ」

和馬氏が助け舟を出しますと、ええと不動は頷きます。

「紹介したところから先に頭金を戴きましてね。その物件自体も紹介したところが数年前に買い取った場所でして、そこの管理をウチが受け持っています。ですから、『ちゃんとした客』です」

成程、と和馬氏は頷くとファイルを片手に立ち上がります。

「すまんがこのファイルは借りても良いか?」

「そりゃ構いませんが、面倒は困りますよ」

こっちも信用で喰ってんだから、と不動。

そりゃこっちも同じだ、と和馬氏。

「単純に好奇心だ。俺は探偵であっても警官ではないからな」

肉にフォークを突き刺し、

「それなら結構ですが、あんまり面白いモンでもなさそうですよ?」

そう言いますと、不動は肉を頬張ります。




とある民家の対面にあるコンビニの駐車場。

「相変わらず妙な物を引き当てますね」

黒のハイエースの運転席で、そう鳴海女史が一言。

少しばかりバツが悪そうに進一は口を開きます。

「…態々、君が出向かなくても良かったんだが…」

「そうは言っても、貴方に万に一の事があれば、八雲さんにどんな目に合わされるか解ったものではありませんし…」

いや、そうは言ってもだな、と呟きながら進一は後部に目を向けます。

後ろは座席を取り外し、なにやら怪しげな機器やら様々な『装備』が置かれております。

会社の備品なのでしょう。

公私混同もいいところです。

「大分、彼女も大人しくはなっているんだがね」

それはどうだろう、と視線で訴えかけてくる鳴海女史。

ふっと、進一は視線を正面に向けます。

ちなみに目の前は壁で御座います。

監視対象の民家は、ミラー越しに監視しております。

「しかし、世の中どうなっているんですかねぇ。弱肉強食というか、何と言うか…」

苦虫でも噛み潰したような顔で鳴海女史は言葉を紡ぎます。

そんな弟子を尻目に、進一はミラー越しに民家を見ます。

「何処が絡んでいるか解るかな?」

「それなりに有名な暴力団ですね。この辺りには居ませんので油断していました」

『この辺りには居ない』。

この街に本拠地を置く、世界でも有数の民間軍事会社の幹部の言葉。

それ相応の根拠があるのでしょう。

「流石に、その息の掛かった人間にまでは目を配れんか」

「お恥ずかしい話ですが…しかし、調べれば直ぐに襤褸が出ました」

「ほう、事務所に出入りでもしていたのかい?」

いや、と言って鳴海女史は言いよどみます。

「出入りといいますか、あの夫妻が借り入れをしていた業者が繋がっていましてね、その繋がりでこの街に流れ着いたのでは…と」

憶測。

「しかし、希望の家を標的にするとは…よりにもよってと言うか、さもあらんと言うべきか…やっぱり管理はこっちが受け持つべきでしたかね…」

今更だな、と進一。

「弱者は食われる定めと言ってしまえばそれまでだが、関わった以上、見過ごすのも後味が悪かろうよ」

「その辺りは貴方次第ですね。正味、私としては放っといても構いませんし。第一、手入れがあった時点で終いな話でしょう?」

いや、と進一。

「それは逆だな。手入れがなければ関わらなかっただろう。手入れを受けたからこそ、俺は動かざるを得なくなった」

鳴海女史が憶測で物を言っているのであるのなら、進一は物を隠して言葉を紡いでいるようです。

「―相変わらず裏で動かれているようで」

「聞こえが悪いねぇ。俺は隠居した人間だ。亡霊が歩き回っていても生者には見えんよ」

はは、と鳴海女史は引き攣った顔で乾いた笑いを零します。

「随分と存在感のある亡霊で…」

「それはそうと、警察の動きは解るかな。今までの会話から察すると、そっち方面には余り顔が利かないようだが」

「おっしゃる通り、あんまり私個人が仲良くしている人は居ません。会社との繋がりは有りますが、車は使えてもその辺りは勝手に使えませんので…でも、手入れがあったくらいですから『希望の家』に対する情報はあったんでしょう?なら、何で天野夫妻を出したんでしょう?」

知らなかったんですかね、と鳴海女史が言葉を続けますと、進一は苦笑を零します。

「そこまで警察が無能だとは思えんが…」

「警察と言えば、和馬君のとこにも一人出入りしてましたよ。ほら、元公安の彼」

「ああ、確か泰蔵君とか言ったかな。彼は有能な人間だよ」

へぇ、と言葉を零し、鳴海女史は進一の横顔に目を向けます。

飄々としている男の横顔に視線を注ぎながら鳴海女史は口を開きます。

「貴方が褒めるなんて珍しい。でも、あんまり身内受けは良くないみたいですけどね」

「あはは、組織には向かんタイプだろうよ。だから―っと」

そこまで言うと、視線に応えるように進一は鳴海女史の方を向きます。

「それよりも用件を済まそう」

ええ、と頷く鳴海女史に相槌を返しますと颯爽と進一は車を降ります。

そして―。

「ちょ、ちょっと。何を…」

民家に向かって歩き出そうとする進一を、自らも車を降り、鳴海女史は呼び止めます。

「いや、だから。涼ちゃんの事をどうするかを聞きに行くんだ」

驚いた表情をしている進一の顔を鳴海女史は覗き込み、

「―うん?」

首を傾げます。

「だからな、俺の依頼者は天野涼なんだよ。彼女の理想としては、家族で幸せに暮らす事だ。その為に両親は必要だろう?だから彼女の事をどう考えているのかを聞きに行くんだ」

「ええと…でも、天野夫妻は失踪しているんですよね。それが全てでは?」

それよりもあの夫妻は―と言葉を続けそうになるのを鳴海女史は堪えます。

どうやら目の前の男の目的は『それ』ではないようで。

不敵に進一は笑います。

「まぁね。でもねぇ、言ってはなんだが、それだけじゃあ弱いんだよ」

鳴海女史の肩を叩き、再度民家の方を向いた進一の眼に、民家を見上げる男の姿が映ります。

「おや、先を越されたか」

「和馬君…どうして此処に…?」

進一の肩越しに男の姿を確かめた鳴海女史がそう言葉を零すと、進一は踵を返します。

「単純な好奇心だろうな。お手並み拝見といきたいところだけども…どうだろうなぁ。アイツに『目的』があるのかねぇ」

流れるように車に乗り込んだ進一を追い、鳴海女史が車に乗り込むと、物思いに耽るように進一はそう言葉を紡ぎました。

同意を求めているように感じ、言葉を紡ごうとしましたが、進一の視線がミラーに映る男を捕らえて離さないのを見て、また鳴海女史は言葉を飲み込みました。




天野夫妻。

夫、良臣。妻、久美。

―恐らくは詐欺師であり…そして同時に…。

民家を見上げた和馬氏は少しばかり眉を顰めますと、携帯電話を取り出しました。

「ああ、俺だ。今大丈夫か?」

構わんよ、と電話の向こうの男―泰蔵警部補ですな―は応えます。

「お前の方から電話とは珍しいな。どうした?」

「用件は二つ」

言葉を紡ぎながら和馬氏はするりと門扉を通り抜けますと民家の裏手に忍び足で進みます。

「一つは情報提供の礼を。御陰様で目星がつけられた」

情報?と泰蔵氏は怪訝そうに言葉を返します。

「あん?そんなモン渡したか?」

例の施設の、と和馬氏。

あれか、と泰蔵氏。

「そういやそんな事もあったな。あんなモン何の役に立ったんだ?人捜しの依頼か?」

「まぁ似たようなもんですね。問題は依頼者が居ない点ですが…」

またか、と泰蔵氏。

五月蝿いな、と和馬氏。

「そりゃ趣味じゃねぇのかな。まぁいい。それで、もう一つの用件は?」

すっと窓から室内の様子を伺いつつ和馬氏は会話を続けます。

人気がありません。

「どうも面倒事を引き当てましてね。探偵風情の手には余りそうですので、お手を貸して頂きたいと」

「面倒事というと?」

「件の施設の管理者。そう、逃走した首謀者連中。どうもそれを見つけたらしい」

ブゥっと電話の向こうで泰蔵氏は液体でも噴出したような音を出します。

液体でも、というより、本当に液体を噴出したのでしょう。

「見つけたらしいって…証拠は?」

「まず、この街の金融機関ではありませんけど、夕凪金融ってのがありましてね。そこと繋がりのある暴力団が居る点が一点目。次に、その金融機関が希望ホームの実質的な所有者である事が二点目。そこで金を借りた人間が件の施設に居た事が三点目」

ふむ、と泰蔵警部補は電話の向こうで唸ります。

「まぁ怪しいが…証拠にはならんな」

「証拠を見つけ、固めるのは探偵の仕事ではありませんので。あくまでも疑いがあると、善意でお伝えしている次第です」

善意ね、と呟きますと泰蔵氏は溜息を一つ。

「言いたいことはあるが…此処は有難く受け取っておこうか。マル暴の知人にでも当たってみよう。場合によってはそっちに回すが構わんか?」

「一向に構いませんが…」

ぐるりと回り、裏庭にある大きな窓の脇で和馬氏は立ち止まります。

「急いで頂いた方がよさそうだ…」

そこまで言いますと和馬氏は通話を終了します。

和馬氏の隣にあります窓は少しだけ開き、そこから鋭利な金属の切っ先が見えまして。

「随分物騒な方ですね」

そう語りかけますと、バンと一気に窓が開きます。

「ああああ貴方は誰ですか!」

女性。恐らくは天野久美でしょう。

その手には万能包丁があります。

「誰と言われれば困りますが…まぁ、この街の探偵です」

一瞬、天野妻の顔が曇ります。

なんだろうと思い、それを問おうとした和馬氏の耳に衣擦れの音が。

機敏に振り返った和馬氏の眼には決死の形相の男の姿が。

次に平たい物が映ります。

それがシャベルだと気がついたのは、それが自らの即頭部を殴り飛ばした瞬間でした。




さて、少し話は反れますが、『塹壕』というものをご存知でしょうか。

ええ、戦争映画などで見かける、戦場で相対する兵士達が潜む、堀のような。

そこに隠れ、銃撃戦を行う姿を映画などでは見かけますな。

その塹壕ですが、勿論、狭い空間で御座います。

そんな塹壕内での戦闘で役に立った武器は、聞けば「シャベル」であったそうで。

刃先が重い代物でありますので、少しの遠心力で絶大な威力を発揮するようで。

この、シャベルを戦闘に使用するというのは思いの他、有名な手法であるらしく、旧ソ連の特殊部隊『スペツナズ』などでもそういう使用方法を指導していたと言われております。

―ええ。どうでもいい話で御座います。

そんなどうでもいい話を考えるくらいしか今の和馬氏に出来る事はないのですな。

ぬるりとした液体が片方の目を伝い、思わず手で拭おうとしますが、結束バンドで後ろ手に拘束された和馬氏には難しい話。

平たい部分で殴られたのではありましょうが、少しばかり皮膚が切れたのでしょう。

瞼辺りの皮膚は薄いわりに、派手な出血を致しますので。

しかしながら、出血よりも治まる気配のない頭痛の方が心配ですが、それよりも―。

「だから言ったじゃない!逃げましょうよ!」

「何処に逃げるんだよ!逃げても追ってくるぞ!」

「だからって…!私は…!」

そこで言葉が詰まると天野妻は涙を零し、それを見た天野夫は怒りに拳を震わせ―。

そんな様を見せ付けられている和馬氏は溜息を零します。

和馬氏が目を覚ました頃からずっと天野夫妻はこういう言い争いを続けておりました。

その余りの剣幕に和馬氏は傍観しか選択肢がなかったのですが…。

―まさか、とっ捕まった挙句、目の前で夫婦喧嘩を見せ付けられるとは…。

鳴海には見せられん姿だな、と呟きますと、何の気無しに和馬氏の眼が、口論を続ける夫婦の向こうにあります窓に向きます。

途端、和馬氏は眼を見開きます。

手をヒラヒラと振り、顔には毀れんばかりの笑みを携え。

「なっ…」

―鳴海!?

思わずそう言葉を吐き出しそうになるのを和馬氏は必死に堪えます。

―噂をすれば何とやらだが…。

掻き乱された思考を必死に和馬氏は立て直します。

―アイツが此処に来たと言う事は、まさか偶然でもあるまいし、元相棒の窮地を聞きつけてなんて事も万に一つもあるまいし…。

ならば―。

一度、舌打ちを。

そして視線を伏せると和馬氏は口を開きます。

「おい、悪党」

機敏に夫妻の目が和馬氏に向きます。

「随分と手荒い歓迎だな。血を流したのは久しぶりだ。手当ての代わりに拘束とは恐れ入った」

「お前は何者だ」

凄みながら、震えて天野夫は問います。

器用な男だな、と内心笑いながら和馬氏は口を開きます。

「探偵と名乗った筈だが?」

「依頼者は何処だ!」

ほう、と和馬氏は言葉を零します。

「何処とは妙な問い方だな。そこは誰だ、何者だ、が普通だと思うがね…」

「答えろ!」

今度はちゃんと凄んでおります。

どうやら本気で恐れているようで。

しかし、そんな姿すら和馬氏は鼻で笑います。

「答えたところで今更どうなる。たかが探偵が見つけたぐらいだ、どちら様に追われているのかは知らんが、もう時間は無いぜ」

和馬氏が言葉を紡いだ途端、天野妻の顔から色が失せ、天野夫も同様に、いや、見ようによっては殊更動揺しているようです。

「…っつ」

動揺どころか絶句しております。

「あんまり人を追い詰めるもんじゃあないと教えていた筈だがねぇ」

男の声。

「あら、そっくりですよ」

女の声。

何時の間にやら室内に忍び込んでいる男女を和馬氏は一瞥します。

「ふざけた事を言ってくれるじゃねぇか」

あはは、と女―鳴海女史は笑います。

「ふざけた事はこっちの台詞よ。この街随一の探偵が何てザマ」

鳴海女史、愉快で仕方ないご様子。

「あんまり意地悪を言うものじゃないよ、鳴海。さて―」

ゆるりと男―進一の眼が天野夫妻に向きます。

突然の来客に驚き―というよりも怯えているようですが―二人は進一が一歩近づけば一歩退きます。

「随分と静かですが、どうされたのでしょうか。聞くべく事は数多あるように私には思えますが…例えば、此方が何者か、とか。何用か、とか」

「意地悪なのはどっちです」

溜息を零し、鳴海女史は二人に近づいている進一に歩み寄ります。

「彼らは困惑して混乱して、ついでに自暴自棄になっているんですから」

「人が運命の苛烈さに打ちひしがれた時、最も始めに無くすものは未来を予見する力―」

詠う様にそう言葉を紡ぐと、少しばかり間を置いて、進一は夫妻に背を向けて鳴海女史に視線を送ります。

「結局こうなりますか…もしかして私の参加は織り込み済みでした?」

「うん。いや、八雲に歳を考えろと叱られてね。悩んではいたんだが…首を突っ込んできたから、まぁついでに」

「俺も…まぁ、首を突っ込んだか…つい昔の癖で…」

項垂れる和馬氏。

「マジうける。その上、怪我とかしてるし」

そんな和馬氏を見て笑う鳴海女史から、すっと進一は視線を夫妻に向けます。

―さて。

「条件は揃ったらしい。まさか人員まで揃うとは思っていなかったが、それは『幸い』と言っておこうか」

おずおずと天野妻が夫の影から顔を出します。

「あの…あなた方は…」

「どうも、助け屋です」

「は?」

さらりと自らの怪しげな身分を言ってのけた進一に、思わず天野妻はそう言葉を返しておりました。




日も落ちた時分。

もう夕食時で御座います。

そろそろ公園の閉園時間。

正確に言えば未成年者以外には夜間も解放しているのですが、それはあくまでも管理している人間が進一であった場合でして。

八雲嬢しか居ない場合は、日が暮れれば閉園で御座います。

ガラガラと門扉を閉じている八雲嬢の目に、一台の車が映ります。

何時の間にか、駐車場に車があります。

丁度、管理事務所からは見えない、死角に上手いこと駐車してありますな。

―面倒ねぇ…。

いっそ追い返してやろうかしら、と車に視線を注ぐ八雲嬢。

そんな視線に答えるように、運転席の扉が開きます。

車から降りた人物は一礼し―。

「ご無沙汰しております、八雲さん」

鳴海女史。

きょとんとして八雲嬢は首を傾げます。

「あら…久しぶり」

ええと、と言葉を選びながら八雲嬢は閉じかけだった門扉を勢い良く閉じます。

「聞きたいことは色々とあるんだけど…そうね、取り敢えず、どうして私が此処に居ることを知っているのかしら?」

「進一さんに聞きまして…」

畏まり、鳴海女史はそう答えます。

「ははぁ、漸く協力を申し出たわけ。結構結構。それで、何か用?」

「護衛ですよ。どうもきな臭い連中が絡んできそうでして…」

くすりと八雲嬢は笑みを零します。

「大会社の幹部様が直々に護衛?」

逆じゃない?と八雲嬢は笑います。

「元は貴女の役職でしょう」

「今は単なる無職の三十路よ。ついでに言えば、足も悪い」

そう言うと八雲嬢は杖で地面を突きます。

「足?それは初耳ですが…」

言って無いものね、と言って八雲嬢は管理事務所へと鳴海女史を誘導します。

「だから進一は八雲ちゃんを寄越したんでしょうよ。でも護衛するなら私じゃなくてあの子」

管理事務所の机で所在無さげにしている涼を、窓越しに八雲嬢は杖で指します。

少しばかり鳴海女史の表情が曇ります。

「あれが今回の面倒事の根源、『涼』ですか」

随分な言われようですな…。

「進ちゃんに聞いたんだ」

「ええ、名前だけはなんども」

「そう。だったら手間が省けていいわ」

聞き返そうと八雲嬢の方を向いた鳴海女史ですが、杖を突いているとは思えない速さで八雲嬢は室内へと踏み入っておりました。

追いかけ、その背に追いついた時には既に、八雲嬢は涼を呼びつけ、

「此方、八木鳴海さん。私の古い知り合い。貴女の境遇を改善してくれる人よ」

そう紹介しておりました。

えっ、という顔で鳴海女史は八雲嬢を見ますが、八雲嬢はそ知らぬ顔です。

それどころか用は済んだと言わんばかり近場の椅子に腰を下ろしております。

ああ、そう言う事、と納得し、鳴海女史は『涼』と向かい合います。

「随分、大層な紹介で…。そうね…そうだ、歳を教えてもらっていいかしら?」

「今年で17歳です。高校は中退しました」

『高校は中退』の辺りで涼の顔が明らかに曇ります。

それを、恥じている、と鳴海女史は解釈しました。

高校中退と言いますと、そうですな、だらしのない、だとか、好き勝手に生きているとか、そういうイメージを持たれる方も多いでしょうが、高校を辞めるというのは存外大変なもので御座いまして。

まず、そう簡単に辞める事が出来ない。

それにはそれなりの理由が勿論ありまして。

何せ、それまで『高校生』という社会的信用を得ていたのが、ゼロどころかマイナスになる。それが高校中退で御座います。

高校中退の子供達を賢くないと切り捨てる方は多いようですが、少なくとも高校生ともなれば、甘くはあろうが、世間を見る視点と言うものはあるものです。

無くとも高校を辞めたいと教師なりに相談した時に説かれることで御座います。

説かない方もいらっしゃるようですが、それは教師としてどうかと、私なんぞは思ってしまいますな。

まあ、それはそれとして―。

それでも辞めると決断する。

これが如何に大変な労力を要するものかは想像に難くないのではないのでしょうか。

「そう、勉強は苦手だった?」

「そこまで苦手では…得意でもありませんでしたけど」

―眼を逸らし、しかし、度々眼を見て。

多分、この娘は学校を辞めたくは無かった。

辞めざるを得なく、それも自ら以外の理由で辞めざるを得なかった。

それがヒシヒシと伝わり、少しばかり鳴海女史の言葉を詰まらせました。

「―そう。それならいい場所があるわ。ウチの会社も出資しているボランティアの学習会があるのよ。中学生から高校生を対象にしててね」

へぇ、と八雲嬢が言葉を零します。

「そんなんあるんだ」

ええ、と鳴海女史は頷きます。

「こういう会は日本の各地にあるそうですよ。学習クラブってやつですね。正直、この国では勉強をするのにも金が掛かる。一人親世帯なんかでは難しい。だったらこの際、地域貢献の一環として、会社でそういう場を提供しようと、ウチの会社の場合はそういう流れでしたね。ちなみに主体はウチですけど、県やNPOとも共催の形を取っています」

「へぇ、便利ね」

「確かに便利では在るのでしょうけど、学習支援に関してはその辺りが限界でしてね。お恥ずかしい話、中学生の学力は向上しましたが、高校の中退率はそこまで減っていません。もっと、包括的なサポート体制が…」

そこまで言いますとハッとして鳴海女史は涼に視線を戻します。

「ああ、ごめんなさい。とにかく、あそこなら高校に入りなおす学力も、高卒認定を取る学力も得られると思うわ。ちなみに、近隣には定時制の高校や通信制の高校もあるわ」

「住むトコは?」

八雲嬢の問い。

「住むところですか…確か、施設が…」

「施設って児童養護施設とか?」

いやその辺りには細かな規定が…と言おうかとも思いましたが、鳴海女史は目の前の涼が不安そうな顔をしているのを見て止めます。

「いえ、彼女の年齢を考えればグループホームのようなものが良いでしょう。その場合、収入が問題ですが…」

「金。次々重い問題がでるわねェ」

元が重い話ですので仕方の無い事ですな。

「グループホームと言っても月に4万くらいは取られますから…最低でも6万弱は…」

「この辺って最低賃金幾らだっけ?」

頭痛でもし始めたように、鳴海女史は片手で額の辺りに触れます。

「ああ…流石にこればかりは直ぐに手を回せませんね…あんまりいい手とは言えませんけど、ウチでバイトしてみる?」

「え…?良いんですか?」

フッと、少しだけ暗い涼の顔に光が戻ったように鳴海女史には見えました。

「別に労働基準法には触れてないわ」

社会的信用が無ければアルバイトといえども見つけ難い。

その上、17歳。

職業経験も無いであろう人間を好んで雇う者は多くない。

止めは住所不定―。

車でこの街まで来たと言っていたが、その後部座席でこの娘は何を考えて、思っていたのだろうと鳴海女史は思います。

それは、絶望という言葉でも余りあるものではなかろうか―。

「そういう感じで話を進めても良いかしら?勿論、ケースワーカーとか、こういう問題に関係のある人たちにも相談してみるわ。後は貴女の言葉だけ」

言葉、と涼。

そうよ、と鳴海女史。

「人は人に助けを求めて良い。この世に信用するに値しない人間は多くいるけど、信用できる人間も多くいる。そして、貴女には貴女の未来がある。未来を望む権利がある。その権利が外からの要因で潰される事はあってはならない。貧しい家庭に生まれた者が権利無く生きねばならない道理は無い」

外からの要因―その外に置くべきは、彼女の場合には―。

咽喉の渇きを感じながら鳴海女史は言葉を続けます。

「その為には、私達は手助けをするわ。何せ私達は『助け屋』だもの」

「助け屋さん?」

改めてそう言われると流石の鳴海女史にも、シリアスな場面の鳴海女史にでも恥ずかしいものがありますな。

ちなみに八雲嬢は、顔を隠して肩を震わせております。

「そう。私達はあくまでもそれを生業にしている輩。だから依頼がなければ動けない」

―だから。一言。

「助けて―下さい」

か細い少女の言葉。

「有り難う。これで動けるわ」

そう言葉を返し、鳴海女史は少しだけ震えている涼の頭を優しく撫でます。

その一方で八雲嬢はそんな二人を一瞥し、席を立ちます。

向かう先は公園の駐車場。

柵の向こうに広がる世界を、八雲嬢は静かに睨んでおりました。

何時ぞや進一が見ていた辺りを。




終幕 


どうも、鳴海です。

漸く終幕。

これで仕舞いですね。

これまでに、涼ちゃん八雲さんと二つ、当事者だった者のコメントが冒頭にあるのですが、どちらもこれといって物語の説明や前振りではありませんね。

それに習って私もそうしようと思うのですが、さて何を話したものか。

そうですね、今回の一件に対する皆のスタンスの違いなどにしましょうか。

この一件、涼が公園を訪れ、その際に言った『親が居ない』という言葉。

その次の希望ホームの件から物語が始まると言っていいのですが、読む限り、進一さんは既にそのホームの存在どころか、その背後に潜む者まで特定しつつあったようです。

進一さんはある程度は把握し、さてどうしようかな、と様子を伺っていた。

対する八雲さん。

彼女は涼の存在を目の当たりにし、嫌悪感が先に出たようです。

一応、補足しておきますと、八雲さんは進一さんのように情報を持っていませんでした。

次に和馬ですね。

彼の場合は丸っきり知りませんでした。

一つ気に掛かる事は、あの警部補でしょう。

和馬が腰を上げた初めの理由は、あの警部補だったように私には思えます。

仮に彼が居なかったのであれば、あの火事の夜に、窓枠に腰掛けて終わっていたように思えます。

ああ、彼の名誉の為に言いますと、そうであっても和馬は動いたでしょう。

其処まで腑抜けてもいませんし。

そこは、一応は街の探偵ですし。

正し、その場合は事後だったでしょうが。

これが三者の関わり方、立ち方の差と言えるでしょう。

ここでもう一つ。

何故、此処まで違うのかというのを、別の側面から見てみましょうか。

そうですね、なんにしましょうか。

色々とあるのですが…。

そうだ、学歴。

少しばかり涼の学歴に本編で触れていましたので、それで行きましょうか。

高校を中退し、今は通信制の高校に通う彼女に習って学歴で見てみましょうか。

まず進一さんですが、彼の学歴は不明です。

誰も知らない。自らも語らない。

あの人の過去を知る者なんてそうそう居ない。

探ろうとも思わない。

此処だけの話しですが、彼には師と呼んだ人物が居たようです。

極偶にそういう雰囲気が出ますが、明確には分りません。

次に八雲さんですが、彼女は生まれが特殊でして、なんでも海上のコンテナ船で生を受けたそうです。

そして日本に腰を下ろしたのが21歳辺りだそうですが、勿論、義務教育など受けておらず、全てが独学の御仁です。

―まぁ…此処まで言えば語るまでも無いと思いますが…。

この方も過去が不詳―というか、聞いてはいけないような雰囲気でして、知っている事といえば、六ヶ国語を話し、八ヶ国語を読める程、語学堪能ということです。

生きる上で必要だったと彼女は語っていましたね…。

最後に和馬ですが、彼が一番、普通です。

義務教育を受けた後に普通高校に進み、そのまま四年制の大学へ。

その大学時代にアルバイトをしていた会社で探偵としてのスキルを得て今に至ります。

見事に三者三様。

言葉にするほどの事ではないのかもしれませんが、人なんてものは『違う』もので御座います。

生まれが違えば育ちも違う。

育ちが違えば価値観も違う。

そして何より、知っている事が違う。

人は己の知ることしか知らぬなんて言いますが、それがこの案件に関わった皆のスタンスの差となったようです。

さて、随分と長い前置き、もといコメントとなってしまいました。

この辺りも頭の片隅に置かれて読まれれば更に楽しめる事と存じます。

では、失礼。

ああ、最後に一つ。

私個人の案件に対する感想を。

『こんなの、良くある話よね。』




さて、時は鳴海女史が山の上の公園に来る少し前に遡ります。

場所は、天野夫妻が潜伏していた借家―。

「助けるって…」

ふむ、と言葉を零して進一は唖然としている夫妻から鳴海・和馬両氏に視線を向けます。

「そんなに怪しいかね?」

素直な問い。

いや、それを問うのもどうかとは思いますが―。

「私なら怪しみますね」

慣れたもので、直ぐに鳴海女史は答えます。

「いや、普通怪しむだろう。はいそうですかと話を進める奴のほうが異常だ」

同様に和馬氏も。

即答した二人を見つめ、

―ふむ。

と改めて進一は言葉を零します。

「それは…ふむ、そう言うものなのか。いや、こっちとしては善意なのだが」

「善意って、言うに事欠いてその言葉を選ぶかよ」

「偽善よねぇ、やだやだ」

片方は鼻で笑い、もう片方は肩を竦めておりますな。

「しかし…偽善ってのも少し違うよな…何だろう。この人は…なんだろう?」

あら、と言いながら鳴海女史は和馬氏に顔を向けます。

「そうかしら。私はその色合いが強いと思うけど」

いや、だからよ、と和馬氏は会話を広げます。

「偽善ってのは、言うなれば高度な嘘じゃねぇか。だが、あの進一氏は、少なくともこういう場合に嘘は吐かない」

「じゃあ本当に善だって思ってるって?」

「そうじゃねぇのかなぁ。だけど、あの男の思う、或は知る『善』ってのは、あんまり俺等とは相容れないそれなんじゃないか?」

「ははぁ、その辺りが不仲な理由?」

少しばかり嬉しそうに鳴海女史は言います。

「否定はしないが、何だろうな。やっぱり根本的なところで、目的が違うんだろう」

「目的ねぇ…」

失笑を零す鳴海女史の方に進一が視線を向けます。

何時の間にやら進一は夫妻と会話を交わしていたようで、それを終え、つかつかと二人の方に歩を進めてきました。

「愛しの後輩諸君。井戸端会議はその辺りにして頂けるだろうか」

「…そっちの話は済んだみたいだな…」

進一の肩の向こうから見える夫妻の表情は驚く程沈んでおります。

「どうやったらほんの数分であそこまで人を絶望の淵に落とせるのかしら…」

青ざめ、微かに震え。

妻の方は度々夫に視線を送っておりますが、夫のほうはそんな視線に気がつける状態でさえないようです。

ふわりと進一は片手を広げます。

「このお二方はちゃんと理解し、選択して頂いた。故に、この方々は直ぐに街を出る」

―いやいや。

「故にじゃねぇよ」

夫妻を一瞥し、和馬氏は溜息を零します。

あの状態の人間を見て理解をしているとは言えないでしょう。

「だが、早く動かさねば恐い方々に捕まってしまうぞ?」

「金銭とか、住居はどうするの?」

「離れた街に知り合いが居る。その辺りから再出発して頂こうか。ちなみに、そこは本当の貧困者救済ホームだ」

一瞬、和馬氏と鳴海女史は顔を見合わせますな。

「えっと…それじゃあ…私達は後始末…かしら」

言葉を選んだ鳴海女史を見て、

「そうだね。こういっては何だが、君達も内心穏やかではないだろう?」

爽やかな笑顔を進一は浮かべます。

「自らの住む街で、好き放題する輩というのは」

そりゃ…お前ではないのかい?というのを堪え、和馬氏が口を開きます。

「善意が聞いて呆れるな…」

「独裁者ってこういう人なのかしらねぇ」

「じゃあ止めるかい?」

和馬氏の言葉を、鳴海女史は鼻で笑います。

「冗談。私達も、ああいや、私はこの一派なんだし」

そう言って鳴海女史は進一の隣に立ちます。

「厭味な奴ばっかりだ」

二人に視線を注がれ、思わずそう和馬氏は言葉を零します。

すると、嘘くさい笑顔を塗りつぶすように、進一は破顔しました。




毎度申し訳有りませんが、また時間は飛び、今度は鳴海女史が八雲嬢の下を訪れた辺りになります。

ええ。

あの、八雲嬢が鳴海女史に全てを丸投げした頃ですな。

その頃、和馬氏は進一に連れられて―詳細な場所は伏せますが―街中に御座います、とある借家に来ていました。

其処についてまず想像したのは不動でした。

恐らくはあの男が手配した住居なのでしょう。

そして次に思ったのは進一の本気具合。

「―此処がどうしたんですか?」

家を見上げてそう問うと、前に立ち、玄関に手を掛けていた進一は振り返りました。

「なに、少し紹介したい人が居てね」

妙に芝居染みて、その上、大げさに言う進一を見て和馬氏は厭な予感がします。

程なくその予感は的中するのですが―。

―時に和馬よ。

そう言って進一は扉を開きます。

「君は何かを探る際、そして、とある人物がその手掛かりを持っていると思う際にはどんな手段を取るか?」

取るか?

妙な問い方じゃないか、それは。

いや、其処も気になるが…。

「思う際ってのが判断を渋らせますね…。まぁ、他に手が無けりゃ荒々しい方法を選ぶかもしれませんね。あくまでも想像の話ですけど」

ふむ、と進一は言葉を零しながら二階へと進みます。

「普通ならばそうするね。それが一番簡単だしな。しかしその場合、相手に探っているという情報が渡る。それは致命的なダメージを被りかねない。それより何より、品が無い」

最後の一言が本音ですな。

この進一という男はそういう男なのです。

だがしかし―。

それもそうだな、と頷いた和馬氏の眼に信じられない光景が映ります。

「それは兎も角、さて御覧頂こう」

芝居がかった口調で、進一は言葉を続けます。

「建前は建前として、面倒だからとっ捕まえられた某組織の構成員A氏だ」

冗談だろう。

「えっと…すいません、よく理解できてないのですけど…」

いや、前振りだと誰が思うよ…。

和馬氏は頭を抱えます。

遮光カーテンで光さえ差さない部屋の真ん中で、後ろ手に拘束された男は椅子に座らされ、その上目隠しまでされております。

「え?暴力団員を監禁したんですか?」

和馬氏の見たところ、監禁して一日二日ぐらいでは無いくらい男は衰弱しております。

「いや、返事は結構です。確認してみただけですから…」

男の脇に有る、空の点滴パックを手に取りながら和馬氏は溜息を零します。

―こういう男なのだ、そうだった…。

改めてそう認識して、和馬氏は諦めながら顔を上げます。

「おいおい、俺はこういう荒い手は滅多にやらないぞ。人聞きの悪い」

…心を読まないで欲しいな。

それはさておき、と和馬氏は口を開きます。

「色々と聞きたい事はあるのですが、まず一つ。そのA氏ってのはどういう関係者なんでしょうか?」

「中核的な人物だ」

さらりと進一はそう言います。

そう言われても和馬氏は困りますな。

いや、確かに問い方にも問題があったかもしれませんが、この答えは…。

黙る和馬氏を一瞥し、近くの椅子に進一は腰を下ろします。

「ふむ…悪いな。こういう性分なんだ。ええと、どの辺りから話せばいいのかな?」

「出来れば初めから…」

―いや。

頭を一度振り、和馬氏は進一を見据えて口を開きます。

「こっちから質問をしても?」

「構わないよ。少しばかり俺もクールダウンした方が良さそうだしね」

そう言ってチラリと進一は椅子に括り付けられている男を見ます。

「其処に関してはまた後から…取り敢えず、今、この街で何が起きているのかを教えて頂けますか?」

別にあの男が気にならないわけではありませんが、物事には順序というものが御座います。

「ふむ…てっきり知っているから首を突っ込んで来ていると思っていたんだが…。そうさな、事の発端は半年ほど前。昨今話題の『希望ホーム』が開設された頃だ」

―そうだったか?

職業柄、街の様子には詳しい和馬氏ですが、初耳でした。

そんな和馬氏の様子を興味深げに眺めながら進一は言葉を続けます。

「ふむ、元からそこにその手の施設はあったが、半年前に改名された、というのが正確だな。元はどういう施設だったのかは知っているかな?」

「貧困者救済を目的としたホーム?」

ほぼ山勘です。

そんなのを聞いたことがあるなぁ、ぐらいの。

「そう。物凄く聞こえは良いけども目的や対象が具体的に見えないそれだ」

「…嫌いなんですか?そういうの」

「嫌いというかね、不透明なモノが苦手なんだ。扱いに困るからね」

―扱いに困る、か。

今度は和馬氏が値踏みをするような眼で進一を見ます。

「そこまで不透明ですかね。その、ホームレスを支援したりしていたんでしょう?」

「うん?そっちの話をするのか?まぁいいや。当時のホームの活動の一つにはホームレスを対象にした炊き出しや、職業斡旋・生活保護などの公的支援の紹介・補助も確かにあったが、それよりも孤児に対する支援が主だったな。所謂、孤児院だ。まぁ、現代においてはこの名称ではないのだが…」

「いや、その辺りは構いませんけど」

話が脱線する雰囲気が出始め、慌てて和馬氏は口を挟みます。

詰まらなそうに、そして、少しばかり驚いたような表情で進一は口を開きます。

「興味を持つことは大切だぞ。兎も角、当時の『孤児院』の運営者はウチの公園の創設者と同じなんだが、紆余曲折あって施設を手放す事になったんだ。その後釜に座ったのがA氏の団体なのだ」

「なのだって…」

違うキャラになっているじゃないか。

「そろそろ彼の出番なのだが、どうだろう、彼に直接話して頂こうか」

そう言うが早いか手のほうが早いか、進一はするりと目隠しを取ります。

やれやれ、と呟き、和馬氏は腹を括ります。

何せ、暴力団の人間を―いや、この場合は誰でも同じかもしれませんが―拉致監禁しているのですから、それなりの覚悟は必要でしょう。

「勝手に共犯者にするのは構いませんけど、それは必要な行為なんですか?」

「それはどうだろう。彼次第かな」

呆気らかんとそう言い、進一は目隠しを解かれた男を見ます。

男は沈黙を保ち、視線も下に―ではなく、瞳は閉じたままですな。

何やら大物の立ち振る舞いです。

「大分ご機嫌斜めのようですねぇ。いい加減に色好いご返事を頂きたいものです」

進一の問いかけ。

その問いに対しても男は無言で答えます。

「ああ、そうだ。紹介がまだでしたね。此方は和馬君。この街の探偵です。そして和馬、此方は某暴力団の若頭、鬼島慶二さんだ」

絶句。

にこやかな表情で紹介を終えた進一とは対照的に、まさに和馬氏は絶句。

絶句して男に視線を向けます。

男―鬼島慶二氏はゆっくりとした仕草で和馬氏を見ます。

その視線が優しく暖かく柔らかなものではなかったのは、語るまでもないでしょう。




「若頭の鬼島つったら…」

眼下の男に視線を注ぎながら、一歩和馬氏は後ずさります。

「イケイケで有名なあそこの?アンタそりゃないぜ…」

にこやかな表情のままで答えない進一を一瞥し、和馬氏は空いている椅子に倒れこむように腰を下ろしました。

腰を下ろして頭を抱えております。

ふと顔を上げれば眼の前には鬼島氏の顔。

もう一度、和馬氏は顔を伏せますな。

一応補足しますと、和馬氏の言うイケイケと言うのは、『武闘派』というのを意味します。

暴力に躊躇いの無い危険な一派と、極めて簡略に説明すればそうなります。

その若頭と言えば、そうですな、ナンバー2とでも思っていただければ結構です。

ナンバー2と言っても、それは組織内でおいての序列であって、その武闘派の中ではナンバー1です。

探偵という職業柄、バッティングする可能性が御座いますので、顔役くらいはこの街に限らず把握する和馬氏。

そりゃ頭も抱えます。

うん、と鬼島氏はそんな和馬氏を見て頷きます。

「普通、そうだよな。幾ら俺らがこの街に根を張ってないとは言え、知ってりゃそういう反応だよな」

顔に似合わず、冷静な口調で鬼島氏はそう言いますと、ゆらりと進一に顔を向けます。

「だが、そこのクソ野郎は知ったうえでこんな真似をしでかしやがった…ハッハー、これはこれで面白い」

―おや。

何やら思った展開と違うぞと、和馬氏は顔を上げます。

二人の男は読めぬ顔色で向かい合っておりました。

「よしよし、少しばかり興味が湧いた。それに、最近は役職なんて衣が煩わしくも思えていたんだ。一時でもそれを脱げた礼だ。聞いてやる。俺に何の用だ」

視線は相変わらず厳しく、それでいて口調だけは砕け、気さく。

もはや和馬氏には情緒不安定か何かにしか見えませんな。

しかし、それをいうなら―。

「いやいや、大した御用ではありません。ただね、ウチの街で面倒事を起こしている御仁がおりまして、どうもそれがそちらの方だったようでして…」

相手をしている進一も似たようなもの。

つまりは慣れた相手だ、と自分に和馬氏は言い聞かせます。

「回りくどいぜ。簡潔に言え」

そう言って鬼島氏は傍観を決め込んでいた和馬氏に視線を向けます。

「そこの。解け。それと煙草だ」

人に命令することに、躊躇いの欠片も無い口調ですな。

さながら鎖に繋がれた猛獣。

「良いよ、解いて差し上げて」

その鎖を解けと。

それも、巻き込まれた俺に…。

半ばやけくそで近くにあったナイフで和馬氏は結束バンドを切ります。

途端、自由になった手で鬼島氏は和馬氏の胸ぐらを掴み、

「おい、煙草は」

凄みます。

え―。

解いたのに―。

今、解いたのに―。

固まる和馬氏を見てケタケタと進一は笑っております。

「煙草はポケットだよ。右の」

おお、と言葉を零し、鬼島氏は手を離してその手をポケットへ。

その際にスーツの胸の辺りに黒い鉄の何かが見えます。

―武装解除ぐらいしててよ…。

頭を軽く振り、やはり倒れこむようにもと居た椅子に和馬氏は腰を下ろします。

「いや、流石に携帯は抜いているよ。邪魔が入ると困る」

だから、心を読むな。

「おいおい、定時連絡なしならもう探索が出てるぞ。携帯を壊してないだろうな、穏便に済ますにも、それなら面倒なんだが」

そう言って鬼島氏は白煙を噴出します。

「その辺りは大丈夫です」

「ハッハー、そうかそうか」

それなら結構、と言って鬼島氏は周囲を見渡します。

「何だ、ドリンクの一つも無いのか此処は。客には茶の一つくらい出すもんだぜ」

「それは失礼。しかしながら急な訪問でしたので缶コーヒーくらいしか御用意出来ていませんが…」

「それで良いよ。タリーズなら尚更」

ひょいと何処に持っていたのか、進一は缶コーヒーを放ります。

ちゃんとタリーズの。

そこも驚きですが、何より、これを『訪問』と二人とも納得している様子が、もはや和馬氏には気持ち悪く見えますな。

口にも、表情にも出しませんが。

「ハッハー。俺は少しだけ君の事を気に入ってきた」

片手で封を開け咽喉を潤すと、鬼島氏は見据えるように進一を見ます。

「おい、名前」

「叢雲進一と申します」

「うん?叢雲?…ああ、浮雲の。となると目的は情報提供だけではあるまい?」

少しだけ進一の顔に本当の笑みが浮かびます。

「情報提供もですが、それ以上の協力体制を」

ふむ、と唸り、一気に珈琲を飲み干すと鬼島氏は缶をその辺りに放ります。

「俺の旨みは」

「ライバル…というより、目障りな人間の失脚」

「ふん、あの銭ゲバか。しくじったのか?」

すっと進一は指を立てます。

「それが一つ。それと単純に、気に食わない」

ハッハー、と鬼島氏は笑い声を上げます。

「気に食わないか。それで消されちゃ世話ねぇ。笑い話だよ、最早」

「私も個人の感情だけではね、面倒事は引き込まない。しかしながら丁度依頼もありましたので…」

「ふん、話半分に信じよう…しかし、何にせよ、旨味は確かにあるな。俺に何を望む?」

「唯一つ、静観を」

すっと進一は指を畳みます。

「了解だ。その代わり、これは貸しだ」

「ええ。何時でも御用命を」

「しかし、徒歩で帰宅とは格好がつかんな」

―いえ。

立ち上がり、進一は鬼島氏からスマートフォンに視線を移します。

メールや着信を確認するというより、時間を見ているようです。

「恐らくはもう御迎えがいらしていますよ」

「何処にだ。見当たらんようだが?」

「ウチにですかね。携帯はそこですから」

さらりと言葉を紡ぐ進一と、ハッハーと笑う鬼島氏。

そして、和馬氏、また絶句。




ここからは回想です。

「はぁ?拉致監禁?それはそれは…」

「え?それってさっきチラッて聞いた奴?」

「いいえ、それは和馬ですね。アイツ、素人に一発やられた上に監禁されましてね…」

「え―マジか。だっせぇ―」

「まぁ、その御陰で話が幾分早く進んだようにも思えますけど」

「計っていたって?進一なら遣りかねないわよねぇ」

―それで。

「この状況は?もうドア、持たないけど」

「いや、言いませんでしたけど、やけに頑丈ですね。驚きなんですけど…」

「見た目は襤褸家だけどね。窓は防弾、ドアは鉄板入り」

「ウチとも契約して、おまけに壁も厚いと」

「一階だけね。それにしても五月蝿いわね。激しいわね。警察でも呼ぶべきかしら」

「ウチの人間が既に向かってますけど」

「それなら下手に御巡りさんを呼ぶのも気が引けるわねぇ。しっかし、丈夫な奴らねぇ」

「鉄板入りっていってもドアには代わりはありませんしね。あ、ヤバイ」

「あーあ。いらっしゃ―い」

以上、回想終わり。

ドアをぶち破って侵入した三人の男を見上げる形で、二人は事務所の椅子に座らされました。

そして、少しばかり問答した後、後ろ手に結束バンドで拘束され、男達は室内の探索を開始します。

「―ええと?何、私達捕まった系?」

「そうでしょう。刃物とか持ってますし」

家捜しをする男達を眺めながら、二人はそんな会話をしています。

拘束し、安心したのか監視すらしていない事を確認すると、するりと鳴海女史はバンドから手を抜き、八雲嬢は隠し持っていたナイフでバンドを切ります。

「全く。此処最近は千客万来ね。数日で数ヵ月分くらいの来客よ。今回は何の用よ」

愚痴る八雲嬢を余所に、ああ、と声を上げ、鳴海女史はバックに手を伸ばし、携帯電話を取り出します。

「え?未だにガラケー?」

「私のじゃないですよ。進一さんが持って行けとおっしゃって。多分、これが原因じゃないですか?」

「誰の?あ、いいや。聞いてないでしょう?多分、話の流れ的にその監禁してる人のでしょうし。GPSは便利よね」

黙って鳴海女史は頷きます。

そんな中、三人いた男の一人が二階へと。

すると直ぐに、

「ちょっと!何ですか!」

悲鳴とも取れる声が響きました。

部屋から引きずり出され、そこで叫んでいるようです。

「成程。狙いは涼か」

「ふぅん。意外と気の強い反応ですね。結構結構。一応聞きますけど、他に心当たりがありますか?」

鳴海女史の問いに、八雲嬢は小首を傾げます。

「どうだろう。私自体を狙うってのも今更いないでしょう。社会的地位ならアンタの方が狙われやすそうよね」

「一昔前なら兎も角、今更、民間軍事会社に関わりのある人間を襲いますかね」

失笑を零しながら鳴海女史は立ち上がります。

「おい!動く…」

流石にそこまでしたら監視をしていないにしても気がつきますな。

近くに居た男の一人が近づくと、すかさず鳴海女史は傍にあった八雲嬢の杖で男の咽喉を突きます。

そして悶絶する男の横っ面にもう一発。

非常に鈍い音がします。

「何ですかこれ!?鉄製!?」

持った瞬間に感じた杖の重さでそれには気がついてはいましたが、加減するわけにも行かず、結果として男は床に倒れることになりまして。

床に倒れ、血が広がっております。

「ちょっと、やめてよ。杖が汚れるじゃない。一点ものなのよ?」

いやいやいや。

それを言うならば、倒れた彼の歯も一点ものでしょうが…。

「あいたぁ…こりゃ奥歯が砕けたわね…此処までやるつもりはありませんでしたけど…」

しゃがみ込み、男の脈を取っている鳴海女史を尻目に、八雲嬢は杖で床を突きます。

まるで周りの注目を集めるように。

「おい、うるせぇぞ。静かに…どうした!?」

倒れた味方を見て男の一人が叫びます。

「御免ね。ちゃんと保険には入ってる?」

そちらを向き、もう一度八雲嬢は杖で床を一突き。

途端、男は駆け、殴りかかります。

それを後ろに一歩引いて避ける八雲嬢。

恐らく、この殴りかかってきた男は格闘技経験者なのでしょう。

スウェーで避ける八雲嬢のアクションを読みきり、狙いを澄ましたように、杖を足で払います。

「あら、これは手厳しいわね」

杖を払われ、後ろに倒れこむ八雲嬢。

倒れこみながらも八雲嬢の顔には挑発的な笑みが。

野獣のように地に押し倒さんばかりに覆いかぶさる男。

あわやと思われた刹那―。

その男の股間に思い切り、八雲嬢の爪先がめり込まんばかりの勢いで叩き込まれます。

蹴り上げた瞬間に杖を突き、身体を半回転させ、八雲嬢は元の姿勢に戻りました。

「うわぁ…」

悶絶し、蹲っている男を見て鳴海女史はそう言葉を零します。

「酷いですね…相変わらず…」

「女には分らない痛みだもの。その分、加減もしないわ」

「いや、普通はすると思いますよ?」

「普通の人は金的をする機会はそんな無いと思いますよ?」

笑い、すっと視線を正面に向けた八雲嬢の目に、涼の手を引き、此方を見てフリーズしている男が映ります。

「で、アンタどうする?相手して欲しい?」

倒れている二人を交互に見て、男は涼を掴んでいた手を離し、両手を上に―。

「冗談。か弱い女を怯えさせて無事に済むわけがないじゃない」

両手が上がりきる前に八雲嬢は言葉と共に杖で庇っていた筈の片足を力強く前に踏み出し、槍投げのように杖を男の腹部に向かって放っておりました。




「おいおいおい、何をやっているんだよ、君達は。良い様に踊らされてこんなところを襲撃して。あまつさえ、見目麗しいご婦人に返り討ちにあうなんざ…」

滔々と、少し離れたところで鬼島氏は襲撃者に説教をしております。

場所は山の上の公園。

状況を説明致しますと―。

進一に連れられて来た此処で、襲撃された跡を目撃し、呆れ果てながら鬼島氏は家から引き摺りだして―かろうじて意識のある一人を―説教タイムに突入しているところで。

「ちょっと、私は進一の嫁ではないわよ?」

「ハッハー、字が違うなぁ」

婦人と夫人。

言わなければ分らんモンですな。

そんな二人を遠巻きに見ている一団が一つ。

「…おっかねぇ二人組みだ」

引いた様子で鬼島氏と八雲嬢に視線を注いでいる和馬氏の横で進一が笑います。

「まさか、ヤクザ者と同類扱いされているとは思いもしないだろうねぇ」

「似た人種なんですかね…」

「さて。違うと言えば違うのだろうが…」

そんな会話をしている二人の下に、すっと鳴海女史が。

「お騒がせしました。珍客三人の内、二人は搬送しました」

二人の視線が―幾分か申し訳なさそうにしている―鳴海女史に向きます。

「やあ鳴海。ご苦労様。それにしても随分と酷い有様だったね。加減を忘れたかい?」

「ええまぁ…」

曖昧。

「それで、あの連中は鬼島さんの?」

話題を摩り替えるように鳴海女史はそう問いました。

「ハッハー、面白い冗談だ」

そう答えたのは鬼島氏。

妙な笑い声を上げながら鬼島氏と八雲嬢は一団に加わります。

ちなみに説教をされていた襲撃者はそのままです。

アスファルトの上で正座しております。

「俺の手下にあんな間抜けはいない。しかし、間抜けは居ないが内通者は居たようだ」

「あら、依頼人?」

「ハッハー。話を混ぜっ返さないでくれるかな、ご婦人」

また鬼島氏は笑います。

そして、家の縁側で此方を眺めている涼を見て楽しそうに口を開きます。

「あれがその御嬢ちゃんか。可愛らしいじゃあないか」

「…これで涼はお役御免ですか」

和馬氏の言葉。

「あの娘は、囮だったんでしょう?」

言葉を紡ぎながら、和馬氏は進一に視線を注ぎます。

しかし、何も言わない進一を見て、鬼島氏が口を開きます。

「ハッハー、誰かを見つけるのにその身内を使うってのはスタンダードな方法だからねぇ。進一君は大分初めの辺りからウチに目をつけていたようだ。だが、ウチもそれなりに大所帯。故に…」

「一派を特定した?」

和馬氏の言葉に鬼島氏は嬉しそうに頷きます。

「その上、俺を嗾けるとはねぇ。ハッハー、策士だねぇ」

「そうなん?」

尋ねる八雲嬢を見て進一は不敵に笑って頷く―というより、単に下を見ます。

「コメントは控えよう」

「勘弁してくれ…どっちが悪党だよ…」

頭を抱える和馬氏を見て、やはり進一は笑います。

「人聞きが悪いな。これでも俺は数名を通常の世界に帰還させる後押しをしたのに」

ジロリと鳴海女史は横目で進一を見ます。

「あくまでも後押しだけですけどね」

「おや、未成年者にはフォローを入れているつもりだが…」

―何が不服かね?

いや別に、と鳴海女史は言葉を濁します。

「ハッハー、見たところそのフォローをしていたのはご婦人二人のようだな。愉快な連中だなぁ」

「一緒にして欲しくないわ。ところでアンタ誰さんよ?」

今更な質問をしているのは八雲嬢です。

「俺は鬼島というモンだ。以後お見知りおきを」

「鬼島?ああ、噂はかねがね…こう見えても今は正義の味方だからねぇ。あんまり仲良く出来そうにないわ」

肩を竦める八雲嬢を見て鬼島氏は口を開きます。

「そうかい?進一は仲良くしてくれるらしいぜ?どうだろうか、今度食事でも」

「あら嬉しい。でも御免なさい、意外とその『仲良し』な進一は嫉妬深いのよ」

ねぇ、と同意を求めるために視線を向けた先の進一は、鳴海女史と会話をしておりました。

「てっめぇちったあ聞けよ!」

笑い、鬼島氏は進一の近くに歩み寄ります。

「それで、その涼って子はどうなるんだ?何ならウチで預かるぜ」

ぐいっと鳴海女史が会話に割り込みます。

「この子はウチで働く事になりましたのでお構いなく」

「御宅はどちらさん?」

「名乗る程の者では…」

「イージスの幹部様よ」

八雲嬢の言葉を聞いて鬼島氏は目を見開きます。

「あそこの幹部だと!?ハッハー。本当に面白い連中だな」

「貴方も大概面白いわね。それはそうと、進一さん宜しいですか」

うん、と最早自分には全く関係が無いと言わんばかりに煙草を吹かしていた進一が一団に視線を向けます。

「お車の準備が整いました」

「ああ…そういえば…有り難う鳴海。鬼島さん、車の用意が出来たそうです」

携帯灰皿に煙草を入れ、颯爽と進一は鬼島氏に歩み寄ります。

「おう、悪いな。搬送した連中もこっちが引き取る。病院だけ教えてくれ」

「いえ、搬送先がウチのお抱えですので、此方から鬼島様の事務所にでも送り届けます」

取り付く島も無い口調です。

「なんだよ、連れないな。それにあんなモン事務所に送られても困るんだがなァ。ほら、ウチって血気盛んな奴が多いからよ。そうだ、今回の対価として、そいつらから内通者を探っちゃくれないかい?」

もはや嫌悪感を隠さない鳴海女史とは対照的なほどにこやかに進一は口を開きます。

「受諾致しました。三日後には良いご連絡が出来るかと」

ハッハー、と鬼島氏は笑います。

「素晴らしいな。しかし―」

すっと鬼島氏の目に光が宿ります。

「それ故に恐ろしくもあるな。今回は喜んで静観させてもらおう。お手並み拝見だ。しかし、そうは言っても―」

一度言葉を切り、進一を直視し、

「最早、手並みの後だろうがな」

そう言った鬼島氏の目に、先程の妖しい光はありません。

じゃあねぇ、と言って鬼島氏はさっさと公園の入り口に停車している車に向かい、これまたさっさと車を発車させました。

そんな男を見送り、

「ふぅん、中々の男。和馬とは段違いね」

言葉を紡いだ鳴海女史を見て、けらけらと八雲嬢は笑います。

「あはは、鳴海の好きそうなタイプよね。職業を除けばだけど。最も、私は全てを含めて嫌いなタイプだけど」

言葉を紡ぎ終えると、八雲嬢はすっと管理事務所兼自宅に足を向けます。

八雲、と呼ぶ進一をチラリと見て、

「もう私はお役御免でしょう?涼の事は頼んだわよ」

片手を振って八雲嬢は室内へと姿を消します。

その際に縁側に居る涼をチラリと見たようです。

「あの方も少し変わられましたね」

「変わらんものなんぞ無いさ」

そうですね、と言って鳴海女史は足元に視線を落とします。

―では。

顔を上げ、鳴海女史は縁側の涼に視線を向けます。

「では、私もこれで失礼します。涼ちゃんの件は御任せを。そうですね、明日の昼ごろには準備が整うでしょう」

「そう。涼には話してあるのかな?」

「ええ。納得をしているかは分りませんが、理解はしてくれているようです」

そう言って鳴海女史は一礼しますと足早にその場を後にします。

車に乗り込むその前には既にスマートフォンを片手に業務を行っているようでした。

忙しい御仁なのでしょう。

「…そして残ったのは男二人、と。毎度の事だけど、何だろう、男と女ってのは本当に違う生き物だと感じるよ」

「呑みにでも行きます?」

「いや、君は病院に行くべきだろう。血、垂れてるぜ?」

え、と言葉を零して和馬氏は額の辺りを拭いますと血がべっとり。

「いやいやいや。こんだけ出てたら誰か何か言いましょうよ!」

「八雲も鳴海も怪我してたのは知っていたからねぇ。それに時間が大して無くて応急処置しかしてないのも知っていたわけだから…」

「当然の状態だと?」

うん、と進一は頷きます。

「…勘弁して下さいよ…」

「あはは。そのまま帰ったら流血沙汰で通報されそうだね。包帯ぐらいウチにもある。寄って行きな。多分、八雲も準備してくれてると思うよ」

「…助かります」

そう言ってつかつかと事務所権住宅へ。

近づくにつれ縁側から此方を見ていた涼の顔が曇ります。

「キャー!」

そりゃ結構な量を、それも頭から出血している男を見れば、うら若き女の子は引くなり叫ぶなりしますな。

それを見て一頻り笑いますと進一は再度煙草に火を灯し、駐車場の端にあります木製の手摺に向かいます。

その下は断崖絶壁。

その向こうは営みの光。

「これで一件落着?」

自らそう言いますと、進一は不敵に笑います。

その視線の先。

営みの光に溢れる街の一角。

始まりの灯が上がった辺りを進一は見つめておりました。




「で、終わり…っておい!」

報告書を読み終えてると、和馬氏は報告書をデスクに叩きつけます。

「オチは何処行った。話も終わってねぇじゃねぇか!」

「だって私は此処までしか知らないんだもん」

吼える和馬氏の前には湯飲みを後生大事そうに抱える涼が。

あちち、と言いながら涼は茶を啜ります。

「じゃあ調べろよ。聞けよ、進一さんとかに」

それがねぇ、と言葉を紡ぎながら涼は湯飲みをテーブルに置きます。

その際に積み上げられていた書類を横にどけまして。

ええ、此処は探偵事務所『バウンダリー』。

鳴海女史の元で働く彼女なのですが、その鳴海女史の使いとして度々ここを訪れているのですな。

今回もその使い。

その際に、書きあげた報告書を和馬氏に見せていた次第で御座います。

「どうにもその辺りは話してくんないのよ、進一さん。それに、これに関しては鳴海さんも八雲さんも御存知無いみたいでさ」

「おや、俺にも敬語を使っていいのだよ?」

和馬氏の言葉を無視して涼は言葉を続けます。

「多分、私が知れば不利益を被るとか、そういう理由で黙っているのだと思うんだけどさ。ほら、私も今となってはそれなりに立場があるしね」

へっ、と和馬氏は鼻で笑います。

「立場ね。場末の探偵には悩みようも無い事だ」

そう言いながらも和馬氏、少しばかり嫌な予感がして参りました。

「だが、その直感は正しいよ。あの人はとてもじゃないが善人とは言えねぇ。寧ろ、悪党の類だ。何の因果か関わりを持っちまってはいるが、極力避けて通ったほうが人生には平穏が保てる」

「その人生に平穏を与えてくれたのは紛れも無く彼なのだけれどね…」

そう言うと少しばかり悲しそうに涼は視線を伏せます。

彼女も歳を経るごとに、そして、鳴海女史の元で働き社会を知り、そして叢雲進一と呼ばれる男を知るにつれ、思うことがあったのでしょう。

「何故、彼がそうしたのかは今も分らない。分らないけれど、平穏な、言うなれば普通を望めるところまで、私の日常を引き戻してくれる切欠をくれたのはやっぱり彼なのよね。あくまでも切欠だけなのだけれど…」

「それがあの人の遣り口なんだよ」

深く椅子に腰掛けますと、和馬氏は背後の窓を開きます。

「あの人は善にしろ悪しきにしろ、人の生き筋に関わる事を避ける」

「でも、私の両親には…」

「選択肢を与えなかった、か?」

和馬氏の問いに、涼は真っ直ぐな視線を和馬氏に注ぎます。

「それは違うさ。彼等は既に選んでいたんだよ。言っちゃあ何だが、彼らには幾らでも引き返す道も、分岐もあった。しかし、彼等は悪党の手先になることを『選んだ』んだよ。彼等がこの街で悪事を働けば不利益を被る者が発生する。故に、排除された」

「―進一さんの被った不利益って…?」

煙草に火を灯し、和馬氏は開いた窓の向こうに視線を流します。

「文字通り、気分を害した、だろうな」

「そんな…」

身勝手な、と言葉を続けようとしましたが、涼はそれを飲み込みます。

彼を身勝手というのであれば、自らの生活や安全の為に他人を利用していたのは排除された両親も同じなのですから。

「触らぬ神に祟り無しなんて言うが、あの人はまさにそれだ。山の上に住むあの人を喩えるには洒落にもなっていないが」

そう、と言葉を零しますと、涼は席を立ちます。

「時間を割いてもらって御免ね。鳴海さんからのメッセージは書類にしてるから、手が空いた時に読んで。そう急ぐ案件でもないみたいだしね」

すっと涼は頭を垂れると和馬氏に背を向けます。

「おい、この報告書は?」

さっきの話だけど―。

和馬氏の問いに、涼はそう言葉を零します。

「確かに神は祟るわ。触らぬ神に祟りなしって言うのは、あの人を現すのに適していると私も思う。でも、あの人に進んで『触った者』が居たと私は思ってる。そして、あの人は『触り』が無ければ、如何なる形であっても動かないと私は思ってる」

「…何が言いたい」

浅く吐息を零し―。

「いえ…別に。それはまた後日取りに来るわ」

そう言葉を続けますと、涼はバウンダリーを後にしました。

残された報告書を見つめ、煙草を銜えますと、和馬氏はペンを取ります。




エピソードエンド



「いい度胸しているわね」

ペンを走らせようとしていた和馬氏を見据えて、隣の部屋から姿を見せた女は厳しい様子でそう言い、歩を進めながら更に口を開きます。

「小娘に同情でもして口を開いたのなら愚かとしか言いようがないわよ?」

そんなんじゃありませんよ、と言って和馬氏はペンを机に転がします。

「当たり障りの無いモンを書いて渡すつもりですよ。それで彼女が納得するのであれば皆幸せでしょう?」

和馬氏の言葉を女は鼻で笑います。

「適当な嘘ねェ。それを吐くには相手が悪い。何せ、イージスに勤めているんでしょう?彼女がその気になれば直ぐにばれる」

そう言うのは小柄な女。

百五十も無いでしょうか。

小柄であり華奢。

可愛らしい顔立ちで御座います。

外見からは年のころが分らない、そんな女で御座います。

名を円。

片足の円と呼ばれる女で御座います。

「進一さんは何故、話されないと思いますか?」

また鼻で笑い、円はどかりとソファーに腰を下ろします。

「何故も何も、話せるわけがないでしょう。あの火事の夜、既に事件の根幹は解決していただなんて」

和馬氏の表情が曇ります。

「あの案件、一番の面倒事は裏に潜んでいた連中にどう引かせるか。だから私は実力を行使して撤退させた。詳細に言えば、見張っていた連中に警告し、脅迫し、暴行し、仕舞いに住居を焼き払った」

件の火事。

その顛末。

勿論その事は―。

「それは…知ってはいますが…」

それどころか、その面倒な連中の居場所を特定したのは和馬氏で御座います。

あの夜、泰蔵警部補が聞きだそうとしていた事はまさにこの行動に関してでした。

「私の仕事は裏方。見えないからこそ裏なのよ」

裏方。

進一の行動の裏側を行う女。

「これは私達の基本方針なんだけどね、何事も過程があってこそ結果がある。そして、私達の言う『結果』とは、表に物事が出た事を指すのよ」

「では…その後の顛末は無駄だったと?」

聞こえが悪いわね、と言って円は笑います。

「無駄ではないわ。実際、片割れが微調整を行っていたでしょう?自らの望む結末の為にね。でも、断言しておくけど、別に誰も動かなかったところであのホームの結末は変わらないわよ。相当眼を引いていたしね。それでもあえて言うのなら、変わったのは―」

「涼とその両親ですか」

ええ、と円は頷きます。

「涼は路頭に迷い、不幸を再生産するような生き方でもしたでしょう。あの小悪党な両親は逮捕され、余生の御先は真っ暗だったでしょう。そうでなくとも組織からペナルティから課されたのは間違いない」

「だから進一さんは『助けた』?」

あはは、と円は愉快そうに笑います。

「助けた?彼がそう言ったの?まぁそうでしょうね。でも実際は、胸糞が悪いから片方は遠くにやって、もう片方は見れるようにしたのよ。自己満足もいいところよね」

「自己満足…ね。希望ホームで家捜しをしたのも貴女ですか?」

嗚呼、と言葉を零しながら感慨深そうに円は天を仰ぎます。

「アンタが踏み込む半日前だったかしらね。あれには驚いたわ。多分、進一も想定していなかったんじゃないかしら」

「あそこには何が?」

「一番の収穫はデータね。どこぞのテロ組織よろしく、ステガノグラフィに仕込んでたわ。それも結構、精密・緻密なヤツ。解析に時間と金が掛かった」

「そりゃ…」

騙し絵、隠し絵。

画像にデータを隠す手法ですな。

「流石にアンタは察するわよねぇ。そう、空気を入れた奴がいるってわけ」

「広域暴力団だけが相手ではない、と」

苦々しそうに和馬氏はそう言葉を紡ぎますと、そんな和馬氏を横目に、円は困ったような表情で首を少しだけ傾げます。

「その可能性が全く無いとは言わないけどさ、ありゃ図面師が居るわね」

どくん、と和馬氏の鼓動が大きくなります。

「進一さんの癇に障ったのはそれですか」

「癇に障ったわけじゃないわ。進一は応えたのよ」

それはつまり―。

「進一さんの参入も初めから絵図面に描かれていたと?」

会話をしている間も鼓動は激しくなっている―ように和馬氏には思えていました。

無論、それは心の見せる幻想。

己が脳裏にこびり付いた恐怖と不安―。

―或は。

「或は初めから進一も噛んでたかね。正直、そうでもなければ、こんな田舎町でお眼に掛かれるレベルの絵図面じゃないのよ。目的は対象の弱体化ってところかしらね。結果だけど、あの事件の後、広域暴力団は手入れを食らって勢力は半減したし」

絵図面、それはつまり物事の設計図。

図面引き

それが浮雲の字を持つ者の生業。

そして、その図面に基づいての水先案内人。

それが片足の字を持つ者の行い。

天から見下ろし、何者にも囚われずに脚本を描き、片足で、危うい足取りで演者を導く。

それが浮雲と片足。

「鬼島さんも反旗を翻しましたしね」

スッと円の表情が変わります。

「鬼島…ああ、あの男ね。恐らく、あの男は絵図面に描かれていなかった…」

今となってはどうでもいいけど、と円は言葉を続けます。

「後の祭りですね」

そうそう、と言って円は和馬氏の手元にある報告書に眼を落とします。

―それにしても。

「悪趣味な事やってるわねェ。まさか当事者の、それも被害者側の人間に報告書を書かせるかね。あんたらも止めなさいよ、可哀想じゃない」

それは和馬氏も重々承知しております。

「いやね、そりゃ書いてるのを一番初めに俺が知ったんなら止めましたがね、残念ながら御鉢が回って来たのが最後なんですよ」

執筆の際に度々、話を聞きには来ていましたが、八雲嬢や鳴海女史のように物語の始まりを任せられる事はありませんでした。

呆れたように円は和馬氏を見ます。

「おい探偵よ。勘弁しなさいよ。仕事をしなさいよ。そういうのを一番最初に嗅ぎ取るのが領分でしょうよ」

そりゃね、と言って和馬氏は言葉を濁します。

「いや、一応言っておきますけど、彼女が探っているのは勿論知っていましたよ。しかし、それをやらせた火元が進一さんでは…」

口出しが出来るわけが無いですな。

その辺りは円も承知はしていますが、納得をしていないのは二人の性分の違いでしょう。

「そういや、この裏話を知ってるのって私等だけなんだっけ?鳴海ちゃんとかは知らないんかな?」

「役割が違いますから。つうか、鳴海ちゃんとか言ってますけど、円さん、鳴海とは面識無いでしょう?」

「あっちは知ってるかもしれないけどね」

おや、と和馬氏は言葉を零します。

「まだイージスにいらっしゃるので?」

円は右手をヒラヒラと振ります。

「イージスにはこっちの立上げの時だけよ。その後は『ぺルナ』」

「本国勤務ですか。では何故、まだこの国に?」

「御家事情かな。それに、本国勤務って言っても、元々私の管轄は極東アジアだから。その辺をブラブラしてるんだけどさ」

割とスケールの大きい方なのですな。

彼女のやっている内容は伏せますが―。

「イージスって、各支店に本店管理の班があってさ。あの娘が支店長になった頃から私は特別班付きなのよ。日本第二支店のね。そこの、要は指導員かな」

「名目上?」

御名答、と円は和馬氏を指差します。

「名目上っちゃ名目上よね。教官つっても、実際は奴隷のような扱いしてるし」

「もしかして、噂に聞くあの班を連れてきたんですか?」

少しばかり和馬氏の顔が曇ります。

「またも御名答。噂の直轄部隊よ。いやぁ、歳は取りたくないわねぇ。流石に一人でやるのは疲れてさぁ。それに、育成の楽しみってのもそれなりに分ってきたし…」

「はぁ、大変ですねぇ。貴女も…彼らも。いや、何の話してるんでしょうね、俺ら…」

「裏話もいいところよね」

けらけらと、円はそう言って笑いますな。

一方の和馬氏の表情は曇ります。

「触らぬ神…ね。全く、妙に合う喩えだ」

そんな和馬氏を鼻で笑い、円は視線を逸らしながら口を開きます。

「そんな上等なモンじゃないわよ。精々が道化師。笑わせ泣かせる道化師よ」

「確かに笑わせもしますし、泣かせもしますね。舞台は他人の人生ですか」

「そう考えたら、あはは、ロクな人間じゃあないわよね」

それはお互い様。

何せ、彼女と彼は一心同体と言っても過言ではないのですから。

「―『覚悟もなく人の生き筋を変えてはいけないよ』」

思いつめたように和馬氏がそう言葉を口にしますと、円はそれを聞きながら瞳を閉じます。

「アイツの口癖ね」

求められた答えを口にしつつも、やはり円の眼は閉じられたまま。

「―あの人にはその覚悟があられるんですか?」

さてね、と言って円は席を立ちます。

「覚悟云々は知らないけど、少なくとも私の相方は好んで人の生き筋を変えないわね。その恐ろしさ、虚しさ、罪深さを、その身を持って知っているから」

ハッ、と円は自嘲するように声を零し、和馬氏に背を向けます。

「だから一線を退いてこんな田舎町で隠居してんのよ。それでも、食うためにか知らないけど、偶に仕事はしているみたいだけどね。それでも、昔みたいな絵図面を書かなくなってもう十年近いわね…まぁ」

世の為にはいい事だけど、と円は言葉を続けました。

「ええと、つまり…今の彼女の状況は、彼女の努力によるもの、だと」

ふと眼を離すと直ぐに話が横道に逸れますな。

一度首を横に振り、円は天を仰いで瞳を開きます。

「その一件で一番、アイツが気を使ったのはそこじゃない?如何に、あの涼ちゃんを蝕んでいた歪んだ観念や、或は貧困者特有のと言っても良い思考や意識を取り除けるか。取り除けたのであれば、どの程度の手助けで『普通』の人生を送れるのか。それを個人で試した。気を使っていたといっても片手間でやっていたようだけど」

「―スティグマ」

あの路上生活者の言葉。

「それの、変換、かしらね」

スティグマの変換。

彼女が言うのであれば、それこそが、進一が口にした正確なものなのでしょう。

しかしそれは―。

「法人として貧困者救済活動を行っている鳴海に対するあてつけですかね…」

「酷い言い草ね、気持ちは分るけど。これは私の願望にも近い見解だけど、アイツは手本を示して、サンプルを提供したんでしょう。和馬、アンタに対しても、あの一件は似たようなもんよ」

「警告ですか」

背を向けたまま、首だけを傾げて円は視線を和馬氏に注ぎます。

「素人さんにとっ捕まるようじゃあねぇ」

「…精進します」

「精進よりも分別が必要よねー」

しゅんと首を元の位置に戻しますと、

「じゃあ、それの処理宜しく。またね」

片手をヒラヒラと振り、円は退場。

―やっぱり。

「やっぱり、進一さんの差し金かねぇ。そうとなれば…」

書くか書かぬか。

―つまりは。

こちら側に引き込むか否か―。

「厭味な奴らだよ、全く…」

そう言って和馬氏はペンを置き、煙草に火を灯します。

そして、窓を開け、そのレールの上に腰を下ろし。

何時もと変わらぬ街並みを見つめ、和馬氏は白煙を吐き出します。

そして、いつかと同じように戸を叩く音が。

その向こうに居りますのは昔からの友。

「よう、何かいい話は無いかい?」

鼻で笑い、

「良い話はとんと聞かねぇかな」

和馬氏はそう言って笑いました。


                 End




―いやいや終われない。

そんな訳ない。

だって、和馬、主人公じゃないし―。




付けていたヘッドフォンを助手席に投げ、涼は深く運転席に腰掛けます。

ちなみに件のイージスのバン。

今は涼の私用車と化している車で御座います。

なんでしょうな、社用車の一つを私用に使うのは慣わしか何かなのでしょうな。

無論、所長である鳴海女史の直属の配下である、という点があっての事ですが。

それはそれとして―。

「やっぱそうよねぇ」

盗聴した結果の発言はそれ。

警備業を生業とするイージスの大事な仕事の一つに情報部がありまして。

徹底的な情報の収集行う部署ですな。

既に広域情報網を構築しているイージスですが、これを使えるのは幹部以上。

所長直轄である涼もおいそれとは使えませんが、情報は収集よりもそれを用いた解析が重要と言えましょう。

それが出来ねば宝の持ち腐れ。

それに必要なのは、広い視野と広範囲な知識、それと柔軟な思考でしょうか。

他にも粘り強さなどもありますが、前提条件は先に述べたものだとイージスでは定義しており、これに適したのは『若者』だともしております。

つまり、鳴海女史は自らの直轄の解析官として涼を育てていたのですな。

そして、この報告書の作成は―。

「あ、鳴海さん?」

スマートフォンを片手に涼はもう一冊ある報告書の最後辺りを開きます。

「やっぱ間違い無いみたい。うん、その先代の円さんだっけ、彼女も絡んでる。不足情報は無いと判断するけど」

お疲れ様、と電話の向こうの鳴海女史は応えます。

「何分、過去の事だからもう少し誤差が出るかとも思ったけど大したものね。報告書は何処に保管しているの?」

「完全版はセーフハウスに。表の報告書は和馬のとこ。表の予備は手元にある。どうしよう、進一さんには完全版を持っていくべき?」

いいえ、と鳴海女史は答えます。

「進一さんには不要でしょう。多分、もう忘れているわ。これは互いの関係性の維持の為に必要なのよ。何せ、引退しているとはいえ、危険性は高いと本国は判断しているから…」

「嫌な立場ですね。同情します」

「だから貴女に任せてないのよ」

小さく涼は笑います。

それで―。

「それで、どう?後悔していない?」

優しげな声。

「…全く後悔してないとは言えないかな。私にしてみれば過去の話だし…」

「嫌な記憶?」

ふっと涼は視線を外に向けます。

窓の淵に腰掛、室内の誰かと会話をしている和馬の姿が見えます。

「嫌な記憶…には違いないけど…一番嫌だったのは…それが…」

―他人事にしか思えなかった事。

「私って冷たいのかな」

そう、と言って電話の向こうの彼女は小さく

、日差しのような笑い声を零します。

「親代わりとしては嬉しい言葉に聞こえたわ。私こそ冷たいのかもね」

「じゃあ私はそれに似たのかな」

クスリと涼は笑みを零しました。

「今日はそのまま直帰していいわ。私は山の上に寄って帰るから」

何時の間にか窓に和馬の姿がありません。

「また面倒事?」

「かもね。意見を聞きに行くの」

階段を降りた和馬の姿が涼の眼に映ります。

「私も行こうかな。ついでに探偵さんも拾って行く」

手元の報告書を後部座席に放り、涼はエンジンをかけます。

「うん。また後でね」

通話を切り、車を発車させますと涼は俯いて歩いている和馬の横にまで行って徐行します。

そして窓を開き、

「お兄さん、乗ってく?」

涼が声を掛けると和馬氏は顔を上げます。

暗い表情です。

「…何だ。もう窓を眺めるのは飽きたのか」

「覗きはアンタの趣味じゃないっけ?」

ふん、と鼻で笑い、和馬氏は助手席に乗り込みます。

「お前も呼ばれたのか?」

「何か鳴海さん発信の案件みたいだから、直轄の解析官としては同席しないとね」

「仕事熱心で結構だな」

そう言うと、不機嫌そうに和馬氏は黙り込みます。

そんな姿を口元だけで笑うと、涼は町外れにある坂道へと進路をとります。

山へと登る急な勾配の一本道。

少し離れた此処からは小さな公園が見えます。

そこから街を見下ろす男が一人。

男は踵を返し、管理事務所兼自宅へ。

入って直ぐの事務所には杖を突いた女の姿が。

「どうやら仕事らしい」

「あら、どんな仕事かしら」

決まってるさ、といって男は。

図面引きと呼ばれる男は。

浮雲と称される男は。

道化師と嘯かれる男は。

叢雲進一と名乗る男は。

「さて、今回は誰を助けて誰に泣いてもらおうかな?」

事務所の椅子に腰掛け、そう言いました。



                 end


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