あなたは私の唯一の…
秀一さんは顔をもどすと歩き始めた。
「あ、あの。秀一さん?」
「…何だ?」
「そろそろ下ろしてもらってもいいですか」
「ああ。…忘れていた」
人間ひとりを抱えていて忘れるってありえる?
ものすごく突っ込みをいれたかったけれど、秀一さんの耳が赤くなっていたので空気を読んで発言は慎むことにした。
ゆっくり足から下ろしてもらった私は、そのまますとんと地面にへたりこんでしまう。
「え、あれ?」
「どうした、亜香里」
慌てた秀一さんの手を借りて立とうとするけれど、足に力が入らない。
これはもしかしていわゆる腰がぬけたという状態なのではないだろうか。
それになんだか肩とか手とかも震えている。
「なんかその…今さら怖くなってきたみたいです…はは」
「そうか」
情けなくへらりと笑うと、秀一さんは仕方がないというような顔で背中を撫でてくれる。
「亜香里っ!」
『ご主人!』
そんな私たちのところに大きな獣に乗った人物が駆け寄ってくる。
「どうした、どこか痛むのか?」
真帆さんはへたりこんでいる私を見ると加羅から飛び降りてしゃがみこむ。
「ちょっと腰がぬけてしまって」
「それだけか? 他にケガとかしていないか?」
同じ目線になった真帆さんは私の肩や腕などに触れながらあちこちを調べる。
首の傷に触れるときだけ、真帆さんは痛そうな顔をした。
「大丈夫ですよ」
「本当か?」
「はい」
心配する真帆さんにそう言って私は微笑んでみせた。
私のことばかり心配しているけれど、さっきまでの戦闘で真帆さんの身体は傷だらけだった。
私もあちこちが痛かったし首の傷も痛い。
けれど秀一さんや真帆さんの負っている傷にくらべれば私の痛みや傷なんて無傷といっしょだろう。
「本当に大丈夫です」
「わかった」
私が繰り返すと真帆さんはしぶしぶだけれども納得してくれた。
それから彼女は表情を改めて立ち上がる。
「私はまだやることがあるから、亜香里が先に…いや、ここで加羅たちと待っていてくれ」
そう言って再び狼人になった人たちを救うために真帆さんが戦いの場に戻ろうとしたとき、そばに立っていた秀一さんのペンダント型通信機が鳴った。
「どうした?」
『青龍将軍、副官の青葉です。王宮で拘束されていた狼人たちが…』
通信の声が周囲から沸き上がった歓声にかき消される。
「狼人が人間に戻ったぞ!」
「金田ぁ!」
「よかった、よかった!」
「陣将! 仲間たちがーっ」
叫ぶ戦士たちの言葉で、狼人に帰られていた人たちが人間に戻ったことを知る。
秀一さんを見上げれば、彼も同じ報告を受けたらしかった。
「俺は城の状況を確認するために戻る」
「秀一さん、ケガの手当てをしてください」
「これでいい」
通信機をしまって歩き始めた秀一さんに慌てて声をかける。
ボルグの爪でつけられた傷からはまだ血が流れている。
秀一さんはそれを懐から出した布を簡単に巻いて抑えてしまう。
顔を斜めに覆う布はちょっと眼帯っぽくて、秀一さんにワイルドな魅力を与えていた。
でもそんな止血じゃ不十分だし、衛生面でも問題がありそうだ。
「それじゃだめです。お城に戻ったらすぐに消毒してくださいね」
「了解した」
重ねて言うと秀一さんは少しだけ笑って片手をあげた。
その手が何かを指し示す。
「俺は行くが、そいつを頼んだ」
「そいつ?」
秀一さんの示す方向に目をやって、私は息を飲んだ。
立ちつくしていた真帆さんが、大粒の涙を流していた。
「真帆さん?」
私が声をかけると、真帆さんはおもむろに抱き着いてきた。
「わっ」
地面に座っていたおかげで倒れることなく私は真帆さんを受け止めることができる。
「亜香里ぃ…」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら真帆さんは私の名前を呼ぶ。
「終わったんだよな? 全部これで終わったんだよな?」
「…はい、終わりました」
懇願するように聞く真帆さんの背を撫でながら、私はできるだけ穏やかに返事をした。
狼人や野犬たちを操っていたボルグが死んだことで、彼らは人間に戻ることができたのだろう。
「これもすべて、真帆さんがボルグを倒してくれたからですよ」
「私じゃない」
真帆さんは私の肩口に顔をうずめたまま首を振った。
「ありがとう亜香里。わ、私が、高村を救えたのは、亜香里のおかげだ」
「いいえ、真帆さんを救ったのは貴子さんや姫です。あと、真帆さんの強さです」
私が貴子さんのところから鬼切丸たちを受けることができたのも、瑠璃姫の『奇跡』を得ることができたのも、すべて真帆さんが彼女たちと信頼を築いていたからだ。
それに高村さんを切って救うことができたのも、真帆さんが戦士として鍛錬を怠らなかったから。
そう告げると、真帆さんはまた鼻をすすった。
「私は弱いよ。ずっと怖かった。高村を殺したくなかった。でもあいつを殺せるのは私しかいなかった。でも嫌だったんだ」
「真帆さん」
「だけど、亜香里があいつを…みんなを助ける方法を見つけてくれた。私は…高村を…」
「真帆さん」
あとは言葉にならなかった。
真帆さんは私に抱き着きながら涙を流し、私も彼女の背を撫でながら泣いた。
そうしていたら頭の上から何か布が被せられる。
「えっ」
びっくりしていると布の端がめくられ、先細りの長い指をもった手が差し込まれてくる。
その手がやはり驚いている真帆さんの頭をやわら書く撫でた。
「五分だけ時間をあげるから、五分したら戻っておいで」
囁くような優しい声は孝明さんのものだった。
手がひっこみ、しばらくした後でよく通る声が響く
「風吼陣! 地裂陣! 状況を報告しろ!」
私たちに掛けられた布には水色の地に黒い模様が刺繍されていた。
多分これは孝明さんのマントだろう。
陣将である真帆さんの泣いている姿を隠すために、彼はこのマントをかけてくれたのだった。
「孝明の野郎…。復活するのに五分もいるか」
孝明さんの好意に小さく悪態をつくと、真帆さんはずっと鼻をすすった。
そして顔を孝明さんのマントの端で拭うと、それを持って立ち上がる。
立ち上がった真帆さんの顔は、もう地烈陣陣将のものに戻っていた。
「私はもう行く。亜香里は加羅と家に戻っていてくれ」
そう言うと、真帆さんは私に手を差し出した。
「立てるか?」
「真帆さん」
真帆さんの手を両手で握り、私は彼女の名を呼んだ。
どきどきと胸が鳴る。
「亜香里?」
なかなか話し出さない私に、真帆さんが不思議そうな顔をする。
その顔を見つめながら、私は覚悟を決めた。
「私はこの世界の人間ではないんです」
「…うん」
頭がおかしいと言われても不思議ではない発言を真帆さんはただ静かに受け止めてくれた。
「どうやってこの世界に来ることができたのかはわかりません。そして多分、私は私の世界に帰れなくなったみたいです」
「そうか」
「だから。私が真帆さんの生涯の参謀なのかはわかりませんが。ずっとあなたのそばにいさせてくれませんか」
「それは、願ってもない話だけれど…」
そこまで言いかけて真帆さんは何かを考えるように言葉を止めた。
その目にきらりと光が宿る。
真帆さんは一度私の手を離すと、腰から焔丸を引き抜いた。
今夜は一度も振るわれることのなかった刃を抜きは放つと、私の肩にぴたりとあてる。
まるで騎士の任命のような動作に、私は自然と頭を下げた。
「林亜香里。お前は私に忠誠を誓うか?」
「はい、誓います」
「ならばお前を、私の参謀に任命する」
そう言って真帆さんは刀の峰で私の右肩を二度打ち、次いで左肩を二度打った。
「常に私の友であり、喜びも苦しみも共にわかちあう者であれ」
それから真帆さんは焔丸を鞘に納めると私に手渡してきた。
簡略化されてはいるが正式な主従契約。
思いのほかずっしりとした重量の焔丸とともに私はそれを受け取る。
「岩敷真帆さま。あなたは私の唯一の主です」
こうして私は真帆さんの参謀となった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
主な話はここで区切りを迎えますが、あと少し話は続きます。




