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傷と血


 背後にボルグの気配を感じながら私は全力で走っていた。

 向かったのはさっきまで真帆さんたちが戦っていた噴水。

 真帆さんたちはまだそこから遠くには行っていないはずだ。


「真帆さんっ。真帆さん!」


 走りながら真帆さんの名前を呼ぶ。

 あの時はただ声をあげて逃げていた。

 誰でもいいから助けてほしいと願っていた。

 でも今私が助けを求めるのはたったひとり、私の主人公で最強のヒロイン、真帆さんだ。

 真帆さんなら絶対に助けてくれる。

 その希望が私に力を与えてくれていた。

 噴水のそばを駆け抜け、広場の向こうの角を曲がる。

 かなり向こうの方で戦う戦士たちが見えた。その中心に真帆さんがいる。


「真帆さ…っ」

「捕まえた」


 真帆さんの名を呼ぼうとした瞬間、大きな手に腕をつかまれる。


「痛っ…」


 のびた爪が腕に突き刺さって痛い。

 ただ腕をつかまれただけなのに、そこから一歩も動けなくなってしまう。


「せっかく逃げたようだが残念だったな」


 くくく。と、ボルグが低い笑い声をあげた。

 生温かい息が首筋にかかり、絶望感に包まれる。


「…ああ、いい匂いだ」


 震える私に気をよくしたのか、ボルグは首すじに顔を近づけて鼻を鳴らした。


「ひっ」

「やっぱりお前の体臭にはバラの香りがよく似合う。風に乗って届くこの香りを感じるたびに、空腹を抑えるのが大変だった」

「う…あ…」


 ごくりと唾液を飲みこむ音がして、体の震えが抑えられない。

 声を出したくても舌が顎に貼り付いてしまったように動かなくて、喉から息がもれるだけだった。

 そんな私の様子に笑い、ボルグは私の肩を抱くようにひきよせる。


「どれだけお前を犯して、喰らいたかったか…」

「は、離して…」


 あと少しなのに、あと少しで真帆さんたちのところにたどり着いたのに。

 狼人たちと戦うことに集中している戦士たちは、離れた場所にいる私には誰も気づいていない。

 我慢していた涙が流れ出す。

 毛むくじゃらな手が顔の前に出され、涙でゆがむ視界の向こうの戦士たちの姿を隠してしまう。


「これ以上騒がれるのは面倒なんでね」

「真帆、さん…」


 口をふさがれる直前に私はうめくような声で真帆さんの名を呼んだ。

 その声はほとんど音になっていなくて、戦っている戦士たちの誰にも届かなかった。


 ――なのに。


 なのに、真帆さんがふいにこちらを振り返った。

 眼前の敵の相手をすることに集中している戦士たちの中、真帆さんだけが私に気づいてくれた。

 彼女はボルグに捕らわれている私の姿を見とめたとたん、その表情を変えた。


「てめぇっ! 亜香里に何しやがるっ!」

「亜香里嬢?」

「亜香里さんっ?」


 憤怒の表情で叫んだ真帆さんにつられて、孝明さんや高村さんも私に気づく。


「亜香里を助ける! 何人かついてこい!」

「風吼陣! 道を開けろ! 他のものは狼人の動きを抑えろ」


 真帆さんが地裂陣の何人かを連れて駆けてくる。

 その中に人間に戻った高村さんの姿を見て、ボルグは舌打ちをした。


「つながりが切れたから死んだかと思っていたが、人に戻っていたとはな」


 それからボルグは私の顔と真帆さんの持つ鬼切丸を見比べ、ぽつりとつぶやいた。



「…お前か」

 声音と視線に含まれた冷たさにぞっとする。


「やはりすぐ喰っておくべきだったな。だが…」


 そこで言葉をとめてボルグは空を見上げた。


「ウオオオオーン」

「ワン! ワン」

「ガルルッ」

「くそっ!」

「なんだ!」


 ボルグが遠吠えをすると、どこからともなく野犬の群れが現れて真帆さんたちに襲いかかる。



「亜香里!」

 一匹の犬を切り捨て、真帆さんは私を呼んだ。

 口をふさがれている私は彼女に答えることができない。

 せめて動く方の腕をのばそうとするけれど、ボルグがさらに私の肩を抑えてそれすら許してくれない。


「亜香里を離せっ!」

「はははは」


 犬たちをなぎ払いながらこちらに向かう真帆さんの必死な姿に、ボルグは笑い声をあげた。


「やはり、お前を簡単に殺してしまっていたら、あの女の絶望する顔が見られなかったからよしとしよう」

「!」


 笑いながらボルグは私の首筋を爪でなぞった。

 痛みと共に生温かいものが首筋をつたい、そこに傷がつけられたことを知る。


「亜香里っ!」


 私の肌を汚す血に、真帆さんは悲鳴のような声をあげた。


「ぐあっ!」

「きゃあっ」

 殺される。


 と思った瞬間、なぜか口を抑えていた手が離され、代わりにたたきつけられるような衝撃がきた。


「ぐうう」

「その手を離せ」


 至近距離でボルグの苦悶の声と、低い男性の声が重なる。

 とっさにつぶってしまった目を開けると、目の前には青い色の鎧が見えた。


「秀一さん」


 秀一さんがボルグの左の二の腕あたりに剣を突き刺していた。


「亜香里を離せ」

「青龍…将軍か」


 鋭い目で見据える秀一さんに、ボルグは痛みに顔を歪めながらも笑って見せた。


「将軍までたらしこむとは、想像以上の女だったようだな」


 くくくくと笑う振動が背中に伝わってくる。

 そして腕から流れた血が肩にかかって気持ちが悪い。

 絶体絶命のはずなのにボルグにはまだ余裕があった。

 彼は自分の腕に刺さったままの剣を見た。


「この剣はまだ魔道鋼のままだな」

「!」

 ボルグの言い

たいことがわかって私は息を飲んだ。


『第一撃は魔道鋼で傷をつけ、第二撃で表面に銀を浮かび上がらせて再び同じ場所を切り傷をふさがらなくさせるんです』


 いつかの貴子さんの言葉がよみがえってくる。

 気づけばボルグの腕の血はすでに止まっていた。

 秀一さんが剣を抜いていないからまだ傷は完全にふさがってはいないけれど。驚異的なスピードで回復している。

 それを止めるには一度剣を抜いて銀の剣で切りつけなければいけない。


「貴様が二撃目を加える前に俺はこの女を連れて逃げおおせるぞ」

「…っ」


 ぐっと、肩をつかむボルグの手に力が入って、私は奥歯をかみしめて声をおさえる。

 ここで悲鳴をあげることは、ボルグに負けるようで嫌だった。

 ちっぽけな私のちっぽけなプライドをかけたやせ我慢をしたまま顔をあげると、見下ろしてくる秀一さんと目が合う。

 冷たい光を放っていた彼の瞳が、ほんのわずかな間だけ穏やかな色を帯びる。


「待っていろ」


 小さな声でそう言うと、秀一さんはふたたびボルグを睨んだ。


「銀など関係ない」

「がああああ!」

「貴様ごときに二撃もいるか」


 剣を握る秀一さんの手にさらに力が入り、ボルグの身体ごと後ろに押し込まれる。


 ガン!


「ぐはっ」


 衝撃とともに動きが止まり、ボルグの腕は建物の壁に剣で縫い留められていた。

 秀一さんはその腕力だけで魔道鋼のままの魔断剣でボルグの腕を貫き、建物の壁に押し込んだのだった。


「な…んという剛力か」


 苦し気にうめくボルグは痛みで動けないようだった。

 貫かれた腕はもちろん、私を拘束していた腕の力が緩み、体が自由になる。


「亜香里を返してもらうぞ」


 ボルグを縫い留めた剣から手を離し、秀一さんは私に向かって手をのばしてくる。

 私も彼に向かって手をのばそうとした。


「させるかぁっ!」


 ごきり、ぶちぶちぶち。


「ぐっ」

「きゃあ!」


 嫌な音が聞こえた次の瞬間、秀一さんが顔を抑えて体制をくずした。

 そして再び私の身体は力強い腕に抱え込まれる。


「貴様っ」

「秀一さん! 顔が!」


 すぐに手を離した秀一さんの顔を見て、私は叫んでいた。

 秀一さんの左の目から頬にかけて血にまみれていた。


「は、ははは。あともう少しだったな」


 耳元でささやかれる声はあざけりと苦痛に満ちていた。

 恐る恐る顔をあげると、ボルグの左腕が二の腕のあたりからなくなっている。


「抜けぬのならば、こんな腕などいるものか」


 狼の口を笑いの形にゆがめてボルグは言った。

 そして私を肩に担ぐと背後の壁に足をかけた。


「秀一さんっ!」

「亜香里っ」


 建物は三階程度の高さがあったけれど、ボルグはほぼ垂直の壁を足だけで登り切ってしまう。

 そのスピードに秀一さんも追いつくことができなかった。


「くそっ! 待てっ」


 秀一さんは壁の魔断剣を抜こうとしたが、深く突き立てらていたそれは途中で折れてしまった。

 建物の屋上にたどりついたところで、ボルグは足を止めて北側を向いた。

 少し離れた場所に王都の城壁が見える。

 その城壁に向かってボルグは一際大きな雄たけびをあげた。


「アオオオオオーン」


 ボルグの遠吠えには血の匂いが混じっていた。


【人狼の嗅覚】

 人狼の嗅覚は犬のそれを凌駕する。

 一度覚えた匂いであれば黒曜の都程度の広さであればその行動を匂いのみで追跡できる。





痛い表現が続いていますが大丈夫でしょうか。

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