現れた黒幕
「ボルグさん?」
いきなり現れたボルグさんに私は驚愕を隠すことができないのに、彼はすこしも驚きもせずに会釈してくる。
「こんばんは、亜香里さん」
穏やかな声で、表情で挨拶をするボルグさんに背筋がぞっとする。
だってボルグさんはどこまでも穏やかすぎた。
少し離れた場所から聞こえる戦闘の音、人気のない町。
こんな中で彼はまるで平和な夜の散歩にでも出てきたような顔でほほ笑んでいた。
「いい夜ですね」
響きのいい声で話しかけられても、私には返事をすることができなかった。
彼の異様さに気押されたのか、肩を貸している母親が小さく息を飲んだのが耳元で聞こえた。
そして母親の怯えに影響された女の子も身を固くしてしがみついてくる。
「ぼ、ボルグさん。何でここに?」
「あなたを追ってきたんですよ」
「私を?」
「あなたが岩敷邸を出るから、心配で探しに来たんですよ」
「どうして…」
私がボルグさんと別れたのは太陽の塔の近くだったはずなのに、どうしてボルグさんは私が岩敷邸を出たことを知っているの?
そもそも、どうやって私の居場所を知ることができたの?
何もかもが信じられなくて、そして何よりも彼の笑顔が怖くて私は肩を震わせた。
「亜香里さん、皆さんが心配していますよ。戻りましょう」
「こっちに来るな!」
ボルグさんがこちらに足を踏み出したとたん、私たちの前に少年が立ちはだかった。
「和人!」
「だめ。もどって」
和人くんと呼ばれた少年はポケットに入れていたナイフを両手で握って構えた。
「お姉さんに近づくな」
「おや、ずいぶんかわいらしいナイトを侍らしておいでですね」
和人くんの威嚇など意に介さず、ボルグさんはくすくすと笑った。
「どうやってこの少年を味方にしたんです? それにあなたはこんなに行動的じゃなかったでしょう?」
額にかかる前髪を払い、ボルグさんは不思議そうに言った。
軽く瞬きを繰り返す目。
いつもは気にかからない、左目の下にある小さな傷が今日はやけに気になってしまう。
「今までのあなただったら岩敷陣将に家にいろと言われたら大人しく待っていたはずだ。それなのにいきなりあの大猫とともに走り回って、いったい何があったんです?」
そう問いかけるボルグさんの声は穏やかだったけれど、どこかでいらだちを含んでいるように感じた。
「あと、あの大猫ともいつの間に契約を結んだんです? おかげで追いかけるのが大変でしたよ」
「何を言ってるんですか」
「おや、とぼけますか? まあ、当初の予定とはずいぶん狂ってしまったが、いいでしょう。さあ、行きますよ。亜香里さん」
「こ、こないでください」
手を差し伸べるボルグさんに私は一歩後ずさった。
本当に、ボルグさんの言うことは何一つ理解できなかった。
ただわかるのは、この人に捕まってはいけないということだけだった。
「亜香里さん。わがままを言わないでください」
「こっち来るなって言ってるだろ!」
「和人! やめなさい」
「和人くん、さがって」
無造作に近づいてくるボルグさんに、和人くんが叫んだ。
その叫びに彼がいることを思い出したかのようにボルグさんはそちらを向く。
「うるさいな」
「和人!」
「は、はなせよっ!」
ボルグさんは一瞬で和人くんの前まで来ると襟首をつかんで持ち上げてしまった。
「やめて! さっきから私を探していたとかいっしょに行くとか、あなたは何がしたいの!」
「何がしたい、ですか」
ことさらゆっくりと言い、ボルグさんは横目で私を見た。
普段であれば壮絶な色気を感じるであろう流し目に、私は息を飲んだ。
「その、目は…」
ボルグさんの目が金色に輝いていた。
「もう、わかったでしょう?」
その言葉が合図のように彼の肩がむくりと、一回り大きくなった。
「ひっ…」
「怖いか?」
小さく悲鳴をあげた私にボルグさ…ボルグは楽しそうに聞いた。
その口元が蠢いている。
「あ、あなたは誰なの」
「ただの商人ですよ」
次第に変わっていきながら、ボルグはあざけるように言った。
「ただし、闇魔導師でもありますがね」
くすくすと笑う口元から大きな牙がのぞく。
「でもあなたとはもっと別の場所で会っていますね。青樹の森で…この姿で」
そう言ったときには、ボルグの姿は完全に人狼のものに変わっていた。
青みを帯びた灰色の毛皮を身に纏うその姿は、私がはじめてこの世界に来た時に青樹の森で出会った人狼そのものだった。
「何であなたがここに」
「お前を追ってきた」
他の狼人たちとは違って、ボルグの発音は明瞭だった。
「私を?」
「お前は最初に俺が見つけた。俺の獲物だ」
鋭い目で射抜かれて、あの時の恐怖がよみがえる。
あの時、人狼は確かに私を喰おうとしていた。
その時と同じ満月を見上げ、ボルグは口を開いた。
「アオオオオーン」
どこまでも響く遠吠えに呼応するようにあちこちから何かの鳴き声が響く。
吠え終えたボルグは持っていた和人くんを頭上へと掲げた。
「ゴホッ」
襟首をつかまれているせいで息がつまった和人くんが咳をする。
「和人! 和人を離してください。私が代わりになります」
「お兄ちゃん」
今にも投げ飛ばされそうな和人くんに両手を差し出し、母親が懇願した。
自分の命すら投げ出そうとする彼女をボルグはせせら笑った。
「お前などいらない。俺が欲しいのは亜香里だけだ」
ボルグはそう言うと、私にむけて空いた方の手を差し伸べた。
「さあ亜香里。こっちへ来い。来なければこいつを殺す」
「…っ」
「和人…ああああ」
ひるむ私にボルグのもとへ行ってほしいと願うこともできない母親は絶望の声をあげた。
その声に、私の中の良心が刺激される。
ボルグに捕まったらきっと殺されてしまうだろう。
でも、私の命とひきかえに和人くんは助かる?
そう思った瞬間、私は一歩前に進んでいた。
自分の中に自己犠牲なんて精神があるとは知らなかった。
でもその時、私はそれでもかまわないと思った。
恐怖はまだあったけれど、こんなに悲しんでいる人を見捨てることはできなかった。
「わかったわ」
「いい子だ」
母親と妹をその場に残し、私はボルグの方へ歩き出した。
あと数歩でボルグの手が届く距離に来た時、捕らわれていた和人くんが身をよじる。
「お姉さんに触るなっ!」
「グアっ」
唐突に叫んだボルグが和人くんを投げ飛ばした。
「ぐっ」
「和人!」
「お兄ちゃん!」
地面に激突して動かなくなった和人くんに母親と妹が駆けよる。
彼女らを尻目にボルグは腕に刺さったナイフを忌々しそうに抜き取っていた。
人狼の大きな手にすっぽりと収まってしまうサイズのそれは、和人君がずっと握っていたものだった。
その刃の部分からぽたりと血が落ちる。
「魔道鋼か…」
カラン。
ナイフを地面に投げ捨て、ボルグは傷口を舐めた。
和人くんがつけた小さな傷は月光を浴びて見る間にふさがっていく。
「生意気なガキだ」
「ひっ」
ボルグの視線をうけ、和人くんを抱き上げていた母親が声をあげる。
それでも彼女は子供たちだけでも助けようと、ボルグに背を向け、妹と和人君を自分の身体で守るように抱き込んだ。
「ボルグ!」
その姿を見た瞬間、私は叫んでいた。
「こっちよ!」
そして私は彼らとは逆の方向へと走り出した。
【闇魔導師】
魔導師ギルドに所属しない魔導師のなかでも主に殺害や呪いなどに特化した魔導師のことを言う。
正確な数は把握されていないが、有名な家系がいくつか確認されている。
中には人狼や吸血鬼などの人型の魔物と交配して力を得ていると言われる一族もいる。
ボルグの望みはなんなのでしょう




