小さな勇気
粗末な灯りに照らされた狼人がこちらを向いた。
表情のわからない狼の顔をしているにもかかわらず、私にはその狼がにやりと笑ったのがわかった。
「オソカッタなぁ」
狼の口で人の言葉を発するのはむずかしいのだろう、不明瞭な声で狼人は言った。
だらだらとよだれを垂らす狼人にもひるまず、少年は叫んだ。
「なあ、あんたの言う通りこのお姉さんを連れてきたんだ。お母さんとりかを返してくれよ」
「まダだ」
「何でだよ。ちゃんとこの人をつれてきただろ」
少年の言葉には答えず、狼人はベッドサイドに置かれていた花瓶を手に取ると、こちらに向かって投げつけてきた。
「きゃああ」
パリーン
すごい勢いで飛んでくる花瓶をよけることもできずに、悲鳴をあげて身をすくめる。
次の瞬間、握っていた護符から放たれた光が膜となって花瓶を防いでくれた。
膜に当たって粉々になった花瓶の破片を見下ろし、狼人は鼻を鳴らした。
「ソノ護符を女カラ奪え」
「え…」
ぽかんとしていた少年は私を見上げた。
「ソレがある限リ、俺ハ女に触レラれない。ソノ護符をとっタラ、お前ノ家族を離シてやル」
「わかった」
ごくりと息を飲むと、少年はポケットから小さなナイフを取り出した。
それを震える両手で握り、私に向かってつきつける。
「お姉さん、それを外してよ」
「え…」
「僕はお母さんとりかを守らなきゃいけないんだ!」
ぶるぶると震えながら少年は叫んだ。
そして私にだけ聞こえる小さな声でふたたび謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい…」
「女、お前ガ嫌なら逃げてモイイゾ」
少年の声にかぶせるように狼人が私をせせら笑った。
「そうしたら、俺ハコイツラを喰う」
「!」
「おかぁさあん! 怖いよう」
わざとらしく大きく口をひらき、ぐっと顔を近づけた狼人から守るように、母親は女の子を抱きしめた。
それでも狼人の姿に恐怖を抑えきれなかったのだろう、女の子は声をあげて泣きはじめる。
「はやくそれを渡してよっ!」
私をせかす少年の声はほとんど悲鳴のようになっていた。
護符を握りながら私は固まってしまう。
嫌だ、怖い。
これさえあれば私だけは助かる。
このまま目をつぶって耳をふさいで逃げてしまいたい。
でも、私が逃げたらこの人たちはどうなるの?
「…助けて、真帆さん」
真帆さんの名前を口にしたとたん、自分の中で小さな勇気が芽生えた。
だって私は選択した。
この世界の人間になると…真帆さんのそばにいるって決めたんだ。
真帆さんならこんなときどうする?
この人たちを見捨てて真帆さんのそばに立っていられる?
でも、死にたくない。
なら、考えなきゃ。どうすれば自分もこの子たちも助かることができる?
周囲にせわしく目をやりながら、私はできるだけゆっくりと護符を外した。
手にしたそれを少年に渡そうと手をのばすと、彼も手をのばしてくる。
ちらりと横目で見ると、狼人は私が護符をはずしたことに油断したのか、母娘から手を離してこちらに向かってくるところだった。
いまだ!
私は急に向きを変えると、魔道護符を狼人に向かって投げつけた。
「ガアアアア!」
ガシャン、バキバキバキ。
魔道護符は狼人に当たる直前に光を放ち、狼人を弾き飛ばしていた。
その勢いのまま狼人の身体が窓をつきやぶって飛び出していく。
「シャアアア!」
地面に転がった狼人に見慣れた影が襲いかかる。
「加羅!」
『コイツはボクがやっつけるから、ご主人は逃げて!』
「わかった、お願い!」
加羅のことも心配ではあるけれど、今はここから離れることが先決だ。
私はまだ唖然としている母娘のところへ駆け寄った。
近くで見ると母親の方はひどく痩せていて、何か病気を患っているようだった。
「逃げましょう!」
「あ、あの。あなたは」
「それは後で。きみも手伝って」
ひとりでは立つこともできなそうな母親に肩を貸し、私は少年にも言った。
少年はぼろぼろと涙をこぼしながら私に手を貸してくれる。
「お、お姉さん。僕は…。ごめんなさい」
「それも後で。今はここから逃げるのが先」
私がそう言うと、少年は歯を食いしばり頷いた。
涙はまだ彼の目から流れていたけれど、彼はそれ以上謝罪の言葉を口にはせず、しっかりと母親を支えた。
「りか、あの護符を拾って」
「うん」
彼の小さな妹も震えながらも少年の指示に従って、床に落ちていた魔道護符を拾ってくれる。
私はその護符を妹の首にかけた。
「お嬢ちゃん、お姉さんの代わりにそれをもっていてね。お母さんから離れちゃだめよ」
「うん」
私の言葉にも素直に従い、彼女は母親のスカートにすがりついた。
少し動きずらくはなってしまうけれど、彼女を真ん中においておけば魔道護符の守りは全員に届くだろう。
「ガアアア、ゴノ…!」
「シャアアア。アーウ!」
背後では加羅と狼人の戦う音が響いている。
振り返りたくなるのをこらえ、できるだけ早足で私たちはその場をあとにする。
「ごめんなさい。息子は、あいつに脅されて…。私が病気で動けなかったから…」
「ええ」
弱々しい声で母親が謝罪を繰り返す。
「これもすべて私のせいです。どうか、罰するなら私を…」
「それは、もういいんです」
泣きそうな彼女に私は精一杯の強がりを言った。
さっきまでは本当に怖かったけれど、とりあえず逃げられたのだからよしとしよう。
それにきっと真帆さんだったら彼らを許すだろう。
そう思ったら少しだけあったわだかまりも溶けていくような気がした。
小さく息を吐いて、私は笑顔をうかべた。
「大丈夫ですよ。もう終わったことです」
そう言うと、少年は袖でごしごしと涙を拭いてから私を見上げた。
「お姉さん。僕、もうこんなことはしない。これからは強くなるから」
「うん。信じてる」
少年の言葉にも素直に頷くことができる。
ちょっとだけこの世界の人間らしくなれたような気がして、私は気分がよかった。
しばらく歩いていると例の水色のベンチが見えてきた。
「あともう少しで地裂陣の方たちがいるところにつきますから、保護してもらいましょう」
そう母子に声をかけたところで、ベンチから立ち上がる人の姿が見えた。
背の高いひとのシャツの背中には裂けたあとと血のあとがあった。
けれどもそのひとの動きはなめらかで、傷なんてあるようには思えなかった。
そしてその人物がこちらを向いたとき、私は彼の名を口にしていた。
普通の人間でも勇気を出すことはできるんです




