あしあと
気が付いたのは何時だったかな。
目の前の男が独り言のように溢した。その目線は僕越しに向かいのドアに向かっている。
「あの日も窓が曇ってたから、ちょうど去年の今頃だったかも」
「取り敢えず拭いたらどうですか先輩」
電車に向かって傘もささずに走ってきたせいで、先輩も僕もすっかり濡れ鼠だ。
ゆっくりと電車が停止し、先輩の見ていた方のドアが開く。外は真っ暗闇だが、雨が車窓に叩き付けられる音がしている。ここ数日なかなか降り止まない。じっとり湿った空気は車内の人いきれで温められ、今日も窓には結露がびっしり浮かんでいる。
がたん、と。揺れと共に電車が再び走り始める。たっぷり時間を置いてから、男は少し声を落として呟いた。
「窓に足跡がついてたんだよね。しかも1つだけじゃなくていくつも。最初は誰かの悪戯かと思ったんだけど、日を置くごとにどんどん増えてきてさ」
「えぇ~怖い話ですか? 僕そんなに得意じゃないんですけど」
まぁ聞けって。先輩はハンカチで水滴を拭いながら笑った。
「しかもな、その足跡、子供……いや赤ん坊の足跡かってくらい小さかったんだよ」
思わず後ろの車窓を振り返るが、もちろんそんな足跡はない。僕はため息交じりに大きく息を吐いた。
「そのうち窓も曇らなくなったから気にしなくなったんだけど、今ふと思い出してさ」
「先輩、それ簡単に作れるんですよ」
片方の手を握り、もう片方の指の腹を揃えて見せる。この握った方の手を小指の方を下にしてスタンプのように押して、あとはもう片方の指をバランスよく見えるようにして配置するだけ。そのことを身振り手振りを交えて説明すると、先輩はさっきの僕と同じように大きく息を吐いた。
「なんだ、そうなのか」
最初は先輩が僕をからかうために作った話だと思ったが、先輩が誰かのいたずらに引っ掛かった実話だったらしい。先輩の話し方がいかにもおどろおどろしくて、僕まで引っ掛かるところだった。
電車が停止し、僕の背後のドアが開く。先程の気味の悪い気分が妙に残って、僕は後ろのドアを確認するように振り返った。ぽっかりと開いたドアの先は無人駅で、電灯も離れた改札にぽつりと灯るだけだ。
「……じゃあ、小さい手形も作れるのか?」
唐突に、先輩が口を開いた。
「え?」
「足跡が作れるなら、手形も作れるんだろ?」
「いや、手形の作り方は聞いたことないですね」
「お前が聞いたことがないだけで、本当はあるんじゃないか?」
「そうかもしれないですね」
「……」
「先輩?」
変ですよ。言うと同時に、落ち着きなく動いていた目や手がぴたりと停止した。僕の背後のドアからは、変わらず雨音が響いてくる。
「さっきの話の続き。窓には足跡だけじゃなくて、手形も付いててさ」
先輩の額から、滴が落ちる。奇妙に固まった表情から、目が離せない。
「なぁ、俺の後ろ、どうなってる?」
先輩が背を向けていた方のドアに付いていた結露が、水滴になって車窓に伝うのを、僕はただ目で追った。