転機
「ば、バケモノ!く、来るな!」
お前はバケモノだ。刀を握った左手に伝わる冷たい血が問いかける。だが、何度もしてきたこと。今更、問いても意味はない。
「や、やめろ!」
僕は刀を振り上げた。ギトギトしたハゲ顔が宙を舞う。僕は刀を振って、笑った。これで99。僕は頬が緩むのを必死に止めようとしたがぎこちなく口が開いた。
「指令。次はマトリート家だよ。」
いつものように、王都の外れの小さな酒場のカウンターに腰掛けると、マスターから指令書を受け取った。
「マスター。あと1人、あと1人殺せば、母を解放していただけるのですよね?」
マスターは朗らかに顔を崩し、
「そうだよ。今までよく頑張ったね。クリストファー伯爵に取り次いでおくよ。さ、その前に仕事。はい、いつもの。頑張ってきてね。」
僕はホットミルクを飲み込んで、一息ついて、闇夜へ駆け出した。
「マトリート家。アルケミア王国、宰相の家系。罪状は…潔白か。あらかたどこかの貴族の依頼ってところか。」
屋根を飛び越え、刀を握った。マトリート家の豪邸は王都中心部。隣接する建物はなく、ここからは地に降りなくてはならない。僕は夜目を効かせて、警備兵の数を調べた。60人弱の影が映った。
「ま、関係ないけど…」
僕は人のいない庭の外れに侵入し、サーチの魔法陣を展開した。水色の魔法陣の淡い光が辺りを照らし、背丈の低い草木の影を揺らした。警備兵の位置を再度確認し、彼らの頭上に陣を展開した。
「君たちに罪はないけど、ちょっとだけ静かにしててね。」
僕は氷魔法を展開させ、60の氷像を作った。サーチで、それを確認し背を低めて屋敷へ駆けた。
「来たか。しかし、この年の子にこんな事を…。クリストファー伯爵も酷い事をする。」
月に照らされた影を見る2人の人影。マトリート家当主、サラミス・マトリートとその妻、エレナ・マトリート。2人は静かに影を追いながらワインを楽しんでいた。
「ねえ、あなた。衛兵がみんな凍らされたわ。なかなかの才能の持ち主ね。」
「そうだね。しかし、甘いところもある。あんなことができるなら殺してしまうことも訳ないのに…」
「そうね。あ、屋敷に入ってきたわ。そろそろ来るわね。ふふふ。ねえ、あなた。この子をどうします?騎士に突き出しますか?」
サラミスは軽く首を振り、微笑んだ。
「いや。この子をうちの子にしよう。調べによるとこの子はどうやら騙されていたらしい。それに…」
「それに?」
「彼は誰も殺してないからね。」
エレナは頬を緩めた。
「そうね。」
ガタン。ギギ、ギー。
扉が開くと月に照らされた小さな少年が刀を構え、立っていた。
「やあ、待っていたよ。」
30代くらいの美形の男が後ろ向きでワインを振るった。その隣には20代くらいの女性が笑みを浮かべている。
「さて。僕らを殺せとの命令かな?」
「ふふふ。可愛い子ね。レナにぴったりだわ。」
何なんだこの人たちは?僕は疑問を押し込めて、刀に手をかけた。
「物騒だなぁ。ねえ、君。話をしないか?」
男性が朗らかな顔を浮かべて僕の手首に手刀を打ち込み、刀を飛ばした。
「⁈!」
僕は声にならない声を上げて、わなわな震えた。
「さて、話をしよう。はじめまして。僕はサラミス・マトリート。隣は妻のエレナ・マトリート。この国の公爵を任じられているものだ。よろしくね。」
僕は2歩、3歩、下がり、部屋を出ようとしたが、
「ふふ、逃がさないわ!」
ギュっ!
バタバタ、バタバタ振り回してもビクとも動かない。露滴るハリ肌、雲わた玉が背を襲う。
「⁈!」
何年振りか。懐かしく甘い、感覚。僕は顔を上にあげ、一息ついて、元に戻した。
「さて。これで逃げられなくなったね。」
窓の月を眺めた。僕はまた、深い息を吐いて、ダラリと手足を垂らした。ゴクン。溢れる動機を抑えようと必死に飲み込んだ。
「観念しました。どうぞ、殺してください。ただ1つ、おこがましくもお願いがあります。ぼ、僕の家族を救って…」
「残念だが、それは無理だ。」
男性の言葉は深く深く、心臓を貫いた。視界が真っ白に、嗚咽が溢れ、僕は崩れた。
「残念ながら、君の家族はすでに…。君は騙されていたようだ。」
「ぞ、ぞんな…」
僕は女性の手を跳ね除けて窓から飛び出した。だが、
「危ないわ。ダメよ、死のうとしちゃ。」
女性は柔らかく微笑み、僕を撫でた。僕は叫んだ。喉が裂けるくらい、思いっきり。
「僕なんか、なんの価値もない、ただの犯罪者。生きる意味も、拠り所も、何もない。騙され、人を怖がらせ、化け物と呼ばれ…」
「なら、家族になりましょう。君、名前は?」
「僕は…いや、やっぱり殺してください。または、衛兵に突き出してください。僕は殺人者ですよ。人殺し、鬼ですよ!」
男性が僕の肩に手を乗せた。
「いや、君は殺人鬼でも化け物でもない。君は、標的を気絶させて、自らの魔法で標的そっくりの像を作って、いかにも殺したように見せかけただけだ。」
「いや、そんな…」
「ついさっき、確認が取れたよ。君の標的はみんな、領地に戻っているようだ。多分、脅迫したんだろうね。実際に君の標的はことごとく、王都の鬼に震えていたよ。全く、おかしな話だ。そうだよね、可愛い小鬼さん。いいかい。君は1人じゃないよ。君は鬼じゃないんだからさ、1人じゃ生きられない。それに、君が死ぬことを君のお母さんが望むと思うのかい?君は生きるんだ。生きて、生きて、生き抜く。それこそが君の親孝行じゃないかな。さて、もう一度聞くよ。君の名前は?」
「コ、コルン。」
「そうか。じゃあ、君は今日からコルンはマトリート家の執事だ。今日からよろしくね。」
こうして僕は暗殺者をやめ、執事となった。雲が退いて、純白の月が僕を温かく眺めていた。