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泣き方をおしえて……  作者: 美瞳まゆみ
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第四章 マスターの過去


リュージュのマスターこと、藤原剣吾は、大阪の北河内地方に生まれた。


ごく平凡な家庭で、二つ違いの兄と三つ下の妹、役所勤めの両親というそれなりに不自由はない環境でのびのび育った。




中学生までは野球少年だったが、なぜか野球への興味はそこで途絶えた。


なので、高校ではたまたま知り合った気の合う友人の影響を受け、これまた未体験の音楽を始めた。


剣吾を誘った友人達のバンドは、ドラムとベース、ボーカル兼ギターという構成の三人だけのグループだったが、肝心のボーカルが抜け、新たなメンバー探しをしていたところに剣吾と知り合った。


剣吾のハスキーボイスはインパクトがあり、実はカラオケ好きだった彼の歌唱力もまずまずということで、いきなりボーカルを任された。


もちろん野球少年だった剣吾にはギターの経験どころか楽器そのものに触った経験も無かったが、生まれつき手先が器用ということと、凝り性な性格も手伝って、ギターの腕前も見る見るうちに上達した。




高2の学園祭で、初めて人前での演奏デビューを果たした。


それは、剣吾にとって生まれて初めて経験する、感動的な感情の爆発だった。


指先で奏でるメロディーに乗せて、その声に乗せて、内なる想いや感情を表現する……それを受け取った会場の人間がそのメロディーとリズムに共鳴して沸き立つ。


そこにはどんな言葉でも表現し尽くせないほどの、感動が存在することを剣吾は知った。




それを切っ掛けに、剣吾は音楽にとり憑かれた様にのめり込んでいった。


仲間と次から次へと曲を作り、大阪駅前や街中での路上ライブをひたすらやり続けた。


今でこそ、インディーズという世界があるが、その当時はようやくバンドブームが始まりつつあるといった中で、テレビでの素人バンドオーディションが流行った時代だった。


毎週のように二か所で続けた路上ライブは、3か月もたつ頃には結構なファンが付き、ボーカルの剣吾のハスキーボイスとルックス、ドラムのダイナミックさが人づてに噂を呼び、女の子はもちろん、若者層に相当な支持を得るようになった。




そんな活動を続けながら、当然のようにプロになることを真剣に目指し出した3人は、当時深夜番組にして、かなりの高視聴率だった素人バンドオーディション番組への出場を決めた。内容は、勝ち抜き制で5週勝ち抜いてチャンピオンになるとプロへの道が開けるというものだったが……まずは番組に出る為の予選自体がかなりの激戦で、本選に出場することだけでも相当高いレベルを要求されるものだった。


だがそんな難関の中、剣吾達のバンド『レイヤーズ』は、1年間の路上ライブの経験が生き、すんなりと本選出場を決めた。


そして……最初から群を抜いて実力差があった剣吾達は、本選でも見事5週を勝ち抜き、あっという間にプロデビューが決定したのだ。




元々が地元で結構なファンを持っていた剣吾達がデビューすることは、最初から有利な要素を持ち合わせているという事で、そこに目を付けたプロダクションは多く、所属事務所もレコード会社もあっという間に決まった。


高校卒業したその夏にデビュープランが立てられ、「超新星!大型新人バンド」という派手な宣伝を打ち出し、それまで経験したことも無いような忙しさの中で上京し、デビューを果たしたのだった。




大掛かりな宣伝と以前からのファンのお陰で、滑り出しは順調そのもの、デビュー曲はいきなりトップ20に入るほどの売れ行きを見せた。


放課後の学校の音楽室を借りながら練習と曲作りをして、週末には街中で演奏していた3人のただの音楽好きな青年達は、わずか19歳にして檜舞台へと躍り出た。


雑誌に登場し、テレビ番組にも出演し、ラジオにも呼ばれた。


3曲ほどのストック曲を持って、デビューライブも小さい場所ながら全国を回った。それまでの生活すべてが一変した。


3人にとっては見る物すべてが初めての芸能界という世界に、どっぷりとはまり込んだ。


取り分けボーカルだった剣吾は、そのルックスのお陰で誰よりも取り上げられ、もてはやされ、若い彼にとってそれは自惚れに取って変わった。




「へぇ!あたしの推理力も大したもんだわね!」


薫子は、マスター……すなわち、剣吾の淡々とした昔話に耳を傾けながら、はしゃいだ。


剣吾はそんなピント外れのコメントをした薫子に思わず苦笑する。


「なんや、一番の関心はそこかいな!ほんまに、変わった娘やな」


「じゃぁ……サインでもお願いしたら、満足?」


薫子は可笑しそうに首を傾げながら、生意気そうに顎を上げた。


「でも、かなり昔の話でしょ?あたしが幼稚園の頃の、じゃない?覚えても無いし、興味もないわ、悪いけど」


そのあまりにあっさりした答えに、剣吾は吹き出した。


「なんと、話がいのある娘やなぁ!これでも一応芸能人やったんやで?」


「そう?……それで、昔はそんなにもてはやされたスターさんが、どうしてバーのマスターなんてやってるわけ?」


剣吾は、彼女になら何を話しても同じテンションであっさり聞き流してくれるような気がして……その不思議な安心感に思わず微笑んだ。




デビュー曲は、売れた。話題にもなって、それなりに知名度も上げた。


だが、肝心なのは、セカンドシングルだった。


その話題性の高さから、デビューそのものはそれで成功だったのだが……本当の意味で売れるということの難しさを、その後、剣吾は嫌でも思い知らされることとなる。


俗に『一発屋』というアーティスト界ならではの言葉があるが、それはあくまでもミリオンヒットを持つ者限定の言葉で、デビュー曲が少しばかり売れたレイヤーズとは桁が違う。


同時に、所詮芸能界という世界は浮き沈みも激しく、いつまでも剣吾達を水面に留めていてはくれなかったのだ。


2曲目は、期待されていた割にパッとせず終わり、3曲目に関しては、完全に失速した。


慌てた事務所は、曲を有名どころに依頼し巻き返しを狙ったが……


その頃話題になり始めていた、俗にいう“ビジュアル系バンド”と呼ばれていた新人バンドが次々登場したかと思うと、あっという間に世間をブームに巻き込んだ。


こういう世界は常に新しいものが入れ替わり立ち替わり生まれる代りに、忘れ去られるもの達も、数知れなかった。


そうして、デビューしてわずか3年後には、剣吾達“レイヤーズ”に、もはや新曲を発表する場さえも与えられなかった。


一度、華やかな舞台を知ってしまった彼らには、デビュー前の只の音楽好きな青年に戻ることも出来ず、かといってもう一度チャンスを掴む術も気力も失くし……ただただ荒んでいくしかなかった。




その当時、剣吾には同棲していた恋人がいた。


彼女は剣吾より4つ年上で、デビュー準備の時から付いてくれていた事務所の専属マネージャーだった。


四六時中行動を共にすることで、右も左もわからないメンバーとの親密さも深まり、特に剣吾とは色々な面での考え方や間合いの様なものが一致した。


仕事もやり手、気遣いも一級品、だが、その仕事振りからは想像も出来ないほど愛くるしい笑顔の彼女に、剣吾が惚れ込んでしまうのに、さして時間は掛からなかった。


他のメンバーからは祝福されたが、事務所には絶対的に秘密、そんな状況下で恋に落ちた二人は、表沙汰に出来ない分を埋め合わせる様に、密かに一緒に住み始めたのだ。


初めのうちは良かった。必ずメジャーになること、いつの日か武道館でライブをすること……目指すもの、進む道、夢ですらも同じ二人だったのだから。


だが、“レイヤーズ”の大きなつまづきは二人の関係にとってもつまづきとなった。


曲が売れず、当然露出が減り、目に見えて仕事が無くなっていったことで、バンドのマネージャーであり、剣吾の恋人でもあった、麻美は他の新人タレントなども掛け持ちするようになった。それ自体はよくある話で、何ら問題は無かったのだが……


ある時、二人にとって全くの予想外な出来事が起こった。


麻美が、妊娠したのだ。


そして時を同じくして、妊娠とは関係なく、麻美は活動休止状態にあった剣吾達のマネージャーを外され、、話題の新人ビジュアルバンドのマネージャーに付かされた。


新人バンドのマネージャーほど多忙を極める業務は他に無く……全国を飛び回り、どんなに小さなレコード店でも頭を下げ、イベントをさせてもらう。剣吾達の時もそうだったように、四六時中一緒に行動するのだ。


当然、誰よりも剣吾が猛反対をした。自分の子供をお腹に宿し、自分から離れて全国を飛び回るなどという無茶をさせるわけにはいかない。


麻美に……しいてはお腹の子供に何かがあってからでは遅いのだと、剣吾は遮二無二なって仕事を辞める様に説得した。


『今、私が仕事を辞めて、私達に何が残るの?……子供?じゃぁ、その子供を誰が食べさせるのよ?あなた?仕事も無いのに?第一、私達はこの先どうするの?結婚でもする?子供が出来たから?……で、やっぱり生活はどうするのよ?』


麻美の厳しい言葉の数々は、あまりにも現実過ぎて、剣吾は絶句した。


もちろん、先のことを考えていないわけではなかったし、子供の事も含めて結婚を前提にしての説得だった。


まずは、麻美の身体を守ることが何よりも最優先事項だと思ったのだ。


ただ……こうして麻美本人から直面すべき現実を突き付けられると、全ては当り前の事なのに、自分の甘さだけが浮き彫りになる。


子供が出来たから、先の見えない夢を捨てて生活する事を選ぶのか?子供が出来たから、麻美と結婚する決心を持てたのか?


じゃぁ、逆に、子供が出来なければ、やっぱり夢にしがみつき続けるのか?


子供さえ出来なければ、麻美との結婚を今すぐ考えなかったのか?


いったい、自分の本当の望みはどこにあるのか?





「……ほんと、痛い話ね。」


汗をかいたグラスを両手でもてあそびながら、薫子はポツリと呟いた。


「今なら、もう少しましな答えも出せるんやけどなぁ……なんせ、22やそこらのアホ餓鬼やったから、何一つ正解も出せずに結局はあいつを止められんかった」


そう言った剣吾の顔は、その後の二人の悲惨だった結末を思い浮かべて、なんとも言えない苦痛に歪んだ。





麻美はバンドのプロモーションへと走り回り、剣吾はアルバイト生活に追われ、二人が顔を合わすのは一週間に一度あればいいほうだった。


もちろん、剣吾は音楽への道を諦めたわけではなかったから、時間を割いては曲作りを続けていたが、忙しさとつわりや体調の変化の辛さに、麻美が彼に興味を示すことは無かった。


そんなすれ違いの生活が二ヶ月近くも続いた頃、剣吾は麻美にあらためて提案をした……結婚してすぐにでも、籍を入れようと。


だが、麻美は首を縦には振らなかった。


『なんでやねん!?もうすぐお腹も膨らんでくるし、おまえの両親にもちゃんと話さなあかんし、けじめはつけなあかんやろ?俺かってちゃんと考えてるんやで?』


必死の形相でそう訴える剣吾に、麻美はなぜか哀しげに首を振った。


『もう……いいのよ、剣吾。けじめなんて必要ないし、両親に会う事も……結婚もね。』


『……何、言ってるんや?意味がわからん!』


麻美は、今にも泣き出しそうな顔で剣吾を見つめると、自分のお腹を小さく叩いた。


『ここには……もう、何もいないのよ。』




彼女が何を言わんとしているかが、ピンとこない剣吾だった。


ただ、目の前でどんどん歪んでいく麻美の顔をぼんやりと眺めた。


『黙ってたのは、悪いと思うけど……剣吾はその時そばに居なかったし……相談する余裕も無かったし……助かるかどうかもわからなかったから……』


『……だから、おまえは一体何の話をしてるんや?助かるかわからんかったって……何がや?』


訝しげに目を細める剣吾に、麻美は俯きながら目を閉じた。


『だからね!もう、いないのよ……赤ちゃん!』


その一言で、剣吾がショックでゴクリと唾を呑むのがわかった。


だが、彼が何かを言う前に、麻美は下を向いたまま、一気に喋り出した。


『流産しかけてたの、仙台にいた時だった。出血が止まらなくてお腹も痛かったから、キャンペーンを終えてから飛び込みで病院に行ったの。お医者さんは、このままだとかなり危ないって言ったわ。二週間は安静にしていないと流れちゃうって、だから入院しろって。でも、私にはそんな時間は無かったし……だって、事務所には剣吾とのことも、ましてや妊娠なんて言える訳ないし!』


麻美は泣きじゃくり出した。だが、けっして顔を上げることなく、泣きながら喋り続ける。


『ずっと、考えてはいたの。このままで……いいわけないって!仕事は辞めたくないし、でも妊娠しちゃったし、今の剣吾とは結婚なんて出来るわけないし、でもお腹は少しづつ膨らんでくるし、親にはなんて説明していいかわからないし、……だからといってシングルマザーになるほどの覚悟なんて私には無いし……だから……だから……どうせ、このままなら助からないんなら……って、思ったのよ。』


麻美は、そこでようやくゆっくりと顔を上げて、真っ赤に泣きはらした目で剣吾を見た。


『……堕ろしたの……赤ちゃん……』




剣吾は青ざめた顔で、瞬きも忘れ、喰い入るように麻美の顔を見つめた。


頭の中が真っ白で、何の言葉も浮かんでこない。


顔にはまるで全身の血液が集まってくるかのように、どんどん熱くなっていくのを感じるのに、手足は凍りつくように冷たく思える。その奇妙な温度差に吐き気がした。


果てしなく長い時間が過ぎたように思えた時、剣吾はようやく口を開いた。




『……なんでや……なんでやねん……なんでやねん!!』


冷静になる間も、考える間も、無かった。頭で考えるよりも先に、感情が爆発した。


気が付いた時には、力いっぱい麻美の頬を殴っていた。


麻美はその手加減なしの力に身体ごと飛ばされ、壁際のタンスに背中からぶつかって倒れた。


『おまえだけの子供やないやろが!!なに勝手な事してんねん!!おまえは俺に断りも無く、勝手に子供殺したんやぞ!?わかってんのか!?麻美!!』


剣吾の怒鳴り声は、狭い部屋いっぱいに響き渡った。


麻美は、気丈に身体を起こし、タンスにもたれながら仁王立ちで怒り狂う剣吾を睨みかえした。


『殴って気が済むんなら……殴ればいいわ。私がどれだけ苦しんで、どれだけ辛かったかなんて……男のあなたには死んでもわからないんだから!!痛い目に遭うのはいつだって女じゃない!妊娠も、中絶も、こうして自分より力の強い人に殴られる時もね!!』


『黙れ!!それでも!勝手に殺していい理由にはならんやろが!!』


鬼の形相で怒鳴りつける剣吾だったが、麻美も負けてはいなかった。


『さっきから、殺した殺したって連呼するけど!!私だって望んで堕ろしたわけがないでしょう!?どうしようもなかったのよ!何の見通しも無かったのよ?不安しかなかったのよ?あなたは夢にしがみついていじけてたし、事務所には一切言えなかったし、お腹は痛いし、入院しなきゃ流産してたし!こんな不安しかない中で仮に生まれて来たって幸せになんかなれるわけないじゃない!!……生きるってことは、そんな……綺麗ごとじゃないのよ……』


最後の言葉は、殆ど泣き叫んでいた麻美だった。


剣吾は、その叫びの様な麻美の訴えに、何一つ言い返せずに……アパートを飛び出した。あのままあの場に留まれば、彼女に何をするかわかったものじゃなかった。


怒りの様な激しい感情が次から次へと溢れ出し、止めようがなかったのだ。


それが、麻美に向けたものなのか、情けない自分に向けたものなのかもわからずに、剣吾は一晩中東京の街中を彷徨い歩いた。


すれ違いざまに、肩がぶつかったとかなんとか言い掛かりをつけては、いきなり殴りかかり、怒りを撒き散らした。


相手など誰でもかまわなかったし、選びもしなかった。




そんな理不尽なことを一晩中繰り返せば、当然報いを受けることになる。


剣吾は明け方近くに、通報を受けた警察官により捕まった。


2件の被害届が提出され、暴行傷害未遂で逮捕、のちに書類送検された。


当然事務所は解雇、もちろんレイヤーズは解散に追い込まれた。





薫子は、黙って剣吾の空になっていたグラスに氷を入れて水割りを作ると、そっと彼の前に差し出した。


昔の話をする声や言葉は、あまりにも淡々としていて、何かの物語でも読み上げるようなものだったが、その横顔は苦痛に歪んでいる。


これが、陽気な関西人の仮面をかぶった彼の本当の姿なのかと思うと……薫子の胸に謂れのない痛みが走った。




「ずいぶんと、神妙やな?さすがの薫子様も俺のパンドラの箱には、言葉を失ったか?」


顔中の苦痛をかき消すようにして笑い、剣吾はからかうように尋ねた。


「……馬鹿みたい、無理して笑わなくていいから。誰にカッコつけてるのよ?」


薫子は苦笑いを浮かべて、小さく首を振った。


「ははは……それもそうやな」


いつもは自分の方が誰かに言ってる言葉を、今こうして薫子に言われて……剣吾は思いのほか心が軽くなった気がした。


「で?その物語に結末はあるの?」


相変わらずのあっけらかんとした薫子の口調に、剣吾はフッと微笑む。


「そうやなぁ、……その後、一人の大馬鹿野郎が全てを失いました、っていうのが結末かなぁ?」


「で、バーのマスターになったの?大阪には帰らなかったの?」


「いや、名古屋に降り立ったのは偶然や。釈放されて、事務所を放りだされて、麻美の元には帰らずにそのまま東京を後にした。持ち金叩いて来れたのが名古屋までだったって話や。北行きに乗ってたら、今頃は宮城辺りにおったかもしれんな」


剣吾は、そう言って笑うと、薫子の作ってくれた水割りを一気に飲み干した。




何もかも放り出して、逃げ出すように名古屋へ辿り着いた剣吾は、取りあえず食う為に我武者羅に働くしか生きる術が無かった。


住むところも頼るところも無かったから、住み込みで食事付きの土方仕事に身を寄せた。昼間は土木現場を転々とし、夜はガードマンやコンビニ、アルミ缶回収の仕事までやってのけた。


大阪に帰ることが、筋だったとは思う。


書類送検で済んだとはいえ、親兄妹には迷惑も心配も掛けたのは、間違いない。


意気揚々とデビューを掲げて大阪を後にしたものの、二年で失速、挙句の果てに事件を起こして破滅した放蕩息子。


それでも父も、母も、兄も妹も、大阪へ帰って来いと言ってくれた。


もう一度大阪でやり直せばいいと、まだまだやり直しの効く若さだと言ってくれた。


剣吾は、その電話口で泣き崩れた。こんな最低息子に手を差し伸べてくれる家族の懐の深さに、どうしようもなく泣けた。


だからこそ、剣吾は帰れなかった。沢山の人間を巻き込んで、沢山の人間の人生を滅茶苦茶にした自分が、自分だけが、ぬくぬくとした家族の元へ帰れる筈が無かった。


どんな形であっても、必ずいつの日か、償いはしなくてはならないのだから。





「それからもう20年近くかぁ、正確には18年?長かったわね。……あなたの決めた償いは出来たの?」


薫子の問いかけに、剣吾は眉間にしわを寄せた。


「何をもって償いというかは、人それぞれやからなぁ……。まぁ、自分なりのけじめはつけさせて貰ったつもりではおるんやけどな」


「例えば?」


「ここへきて三年目に、一度東京へ戻って事務所には頭を下げに行った。メンバーの二人もバンドは解散したけど、幸い事務所に残って音楽に携わる仕事は続けさせて貰ってたから、二人の前で土下座したわ。逆にえらい心配されてしもたけどな!」


肝心な名前は口にしないまま、ハッハッと笑った剣吾に薫子は、あえて尋ねはしなかった。一番痛みの残っている部分だろうことは、察しが付く。


だが次の瞬間、その名前は剣吾の口からあっさりと出た。


「……麻美には、いまだに会ってないんや。誰よりも一番先に頭下げるべき人間なのは、わかっていたんやけどな……元メンバーの話では、あの後1年ぐらいして、同じ事務所の奴と結婚したらしい。最終的には、二人の子供に恵まれて、仕事も辞めて幸せに暮らしているらしいって聞いたんや」


「だから、今更、自分が出ていっても揉める元だ、って思ったの?いっそのこと、2度と会わない方が彼女の幸せの為、とか?」


「ご名答、や。さすが推理小説愛好家やな!」


「全然難しい答えじゃないから!あたしがマスターでもそうするわよ」


「おっ!薫子先生に、正解の花マル貰った気分やな」


わざとらしくおどけて見せた剣吾だったが、すぐさま無表情に戻り、空になったグラスに視線を落とした。


「なぁ、薫子……ひとつ、聞いてもいいか?」


ちょっとためらいがちなその質問が、どういったものかは、すぐにピンときた。


薫子は、少しだけ姿勢を正して、顔を剣吾の方へしっかり向ける。


「その質問、本当に答えを聞きたい?あたしは、あくまでもあたしよ。麻美さんじゃないのよ?性格も考え方も、違うわ。それでも、あたしが麻美さんならどうして欲しかった?……って聞きたい?」


剣吾はその的を得た問いかけに、一瞬ハッとなった。


「それでもいいなら……答えるわよ?」


薫子の駄目押しに、今度は苦笑して首を振った。


「おまえの言う通りや……いや、どうかしてたわ。今のは、忘れてくれ」


「了解、じゃぁ何も言わない」


薫子のさりげない気遣いに、剣吾は微笑んだ。


「悪かったな、気、遣わせて。……ありがとな、」


「どういたしまして。こう見えて察しは良い方ですから!」


薫子の得意な生意気な言い方に、剣吾は陽気に笑うと、大きな手で薫子の頭をクシャクシャっと撫でた。


「薫子は、ええ子やな!おまえの優しさは飾り気が無い分、沁みるわ」


またも、突然褒められて、薫子は不覚にも赤くなってしまった。


頭を撫でられるなんてことも、幼稚園だか小学生だかの時に、一度か二度あったぐらいだ。とっさに何かを言い返そうとしたが、上手く言葉が出てこない。


「おぉ!いっちょまえに照れとるな?可愛いとこあるやないか」


「うるさいわね!中年のオジサンに褒められたって嬉しくもないわよ」


赤くなった顔で、そう返すのが精一杯の薫子だった。




リュージュを出てマンションに帰り着いたのは、真夜中もとうに過ぎた午前3時だった。


添乗先から直接リュージュへ行き、大方6時間も飲んでいたことになる。


さすがにクタクタの薫子は、堅苦しいスーツを剥ぎ取る様に脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだ。本当はシャワーも浴びたいし、せめて化粧だけでも落とさないと、明日の朝は酷いことになるとわかっていたが、その気力が無い。


だが、不思議と酔ってはいなかった。むしろ、頭の中はハッキリしている。


思いのほか、マスターの昔話に心が反応した感じだ。


ドロドロとした人間ドラマを目の前で見せられたようなしんどさが残っている。


あの時は、答えなかったが……自分がその麻美という女性の立場なら、どう考えただろうかと想像してみた。


同じ女性の立場で考えれば、当時の彼女の行動や苦しみは十分理解できる。


綺麗ごとでは、生きてはいけない……それにも同感だ。


だが、きっと彼女は剣吾を恨んではいないだろうと思う。


少なくとも自分なら、恨みはしない。


生きていく中で、どうしようもないことっていうのは、あるものだ。


誰が悪いのでもなく、なるべくしてなってしまうことは、あるのだと思う。


あのまま彼女が子供を堕ろさなくても、おそらくは流産していただろう。


その当時の二人は、どう頑張っても別れざるを得ない環境に身を置いていた二人だったのかもしれないし、変えられる事があったとしても……もう少し、穏やかな別れ方が出来たんじゃないか、ということぐらいだろう。


ただ、本当は、剣吾は彼女に会いに行くべきだったとは、思う。


許すとか許さないの問題ではなく、逃げる様に東京から姿を消した剣吾が、違う街であれ元気にやり直しているということは、伝えてあげるべきだった。


傷を負ったという次元でなら、二人は同等だ。


ならば、きっと彼女は剣吾のその後を心配した筈だ。自分だけが幸せになったのではないだろうかと、思ったかもしれない。




「やっぱり……マスターは、麻美さんに会うべきだったのよ……」


枕に顔を埋めながら、そう呟くと、薫子は深い眠りに取り込まれていった。

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