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泣き方をおしえて……  作者: 美瞳まゆみ
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第三章 藤原剣吾という男



「その節は、どうも!はい、これお土産よ」


新婚旅行から帰ってきて、10日振りに出社してきた朱音が、昼休みに食堂でトレイを手に隣に座ってニッコリ笑った。


自分のトレイに入れられた小さな紙に包まれた物体をまじまじと見つめてから、薫子は眉を上げる。


「なんでお酒じゃないの?まさか、キーホルダーなんかじゃないわよねぇ?」


相変わらずの薫子節に、朱音はクスクス笑い出す。


「お酒もちゃんとあるわよ、今渡すわけにいかないから帰りにロッカーでね。これは、ギリシャの御守りなの、なかなか渋くて模様編みが素敵だったから、私も買っちゃった」


「その御守りは、いったいあたしを何から守ってくれるわけ?」


「どんなことからも、じゃない?ギリシャは神々の国だから」


澄ました顔で、そう言った朱音に薫子は吹き出した。


「ありがとう!これであたしも百人力だわね、何でも来い!だわ」


「それは、今までもでしょう?」


朱音は呆れ顔で笑うと、何かを思い出した顔つきになった。


「あ、そうそう!リュージュのマスターから伝言があったわよ?お釣りを渡し忘れたから、店に顔を出して欲しいって。薫子、一人で行ったの?」


リュージュ……と聞いて、薫子の表情は一変した。


「……お釣りなんていらないって、言っておいて。もう二度と行くつもりもないし」


その不愉快極まりない表情と声色に、朱音は目を丸くした。


「どうしたの?マスターと何か……あったの?」


「別に、何もないわ。気紛れに朱音達の結婚式の後行ってみたけど、あの関西弁のくどい中年マスターとは合わないって思っただけよ」


顔には笑みこそ浮かべてはいたが、その毒のある言葉に朱音は尚更驚いた。


だが、これ以上の事情は言わないだろうという空気も読み取れた。


「……そう。今日ね、優と一緒にお土産持っていくつもりなんだけど、私達とでも一緒に行く気には……ならない?」


「悪いけど、行かないわ。田島さんによろしく」


それは有無を言わさぬほどきっぱりとした即答だった。


せっかく忘れていた嫌な場面と、あの時の怒りを思い出してしまった薫子は、内心口をへの字に曲げた。


いっそのこと、朱音に全てをぶちまけてしまった方がスッとはすると思ったが、まさかあの時のマスターとの会話を言える訳も無く……結局は呑み込んだ。




「そんなことより、ギリシャはどうだったの?」


「私が立てたプランに抜かりはないわ、最高の旅行だったわよ」


いつになく朱音が得意げに答えたのを見て、薫子は可笑しそうに肩をすくめた。


「そりゃぁ、そうよね。ましてや最愛の人と一緒なら、聞くだけ野暮か!」


「そうね、野暮よ。あなたらしくない質問だわ」


冗談めかしながらも、そう言い切った朱音は、本当に穏やかで輝いて見える。


去年の今頃の彼女とは、まるで別人のようだと、薫子は思った。


もちろん、一年前はこんな風に喋る仲でもなかったが。


ただ、女性社員としては初めての大口契約を結んで、それなりに話題に上っていたというのに、当の本人は何かに耐え忍んでいるかのような印象を受けた。


本来なら、他人のことなど気にも掛けない性分だったが、当時やはり亮介とのことで複雑な感情をくすぶらせていたせいもあって、ふと朱音に声を掛けて飲みに行ったのが親しくなる切っ掛けだったのだ。




「でも、よくこんなハードな仕事続けることにしたわね?ツアーに出れば家を空けることもしょっちゅうになるじゃない。田島さんは反対しなかったの?」


「それがね、私もそう思って言ったんだけど、続けた方がいいって強く勧めたのは彼の方なのよ。せっかくここまでやってきたんだから、もう少しお互いに頑張ってみようって」


「田島さんらしい意見よね」


「まぁ、彼も一人暮らしは長かったから自炊はお手の物だしね。最終的には、子供が出来たらこの仕事も引退かなぁ、と思ってるの」


「子供!」


薫子は、意外な言葉を聞いたような反応を示した。


「結婚の次には、出産がくるのよねぇ?そっかぁ、そうよね……」


「何よ?薫子は子供産まない主義なの?」


朱音に不思議そうに聞かれて、薫子は言葉に詰まった。


正直、考えたことがなかったのだ。自分が結婚して、出産して、人の親になるなどと……想像もつかないし、出来ない。




「ねぇ……立ち入ったこと聞いてもいい?」


朱音がちょっと迷いながらそう聞いた。


「ん?いいわよ、朱音なら遠慮は無用よ」


「ずっと前に、言ってたじゃない?特定の人はいるけど、自分だけの特定じゃないって……その人とは、今も続いてるの?」


薫子は、一瞬の間を空けてから僅かに微笑んだ。


「……続いてるわよ。それに、今も尚、あたしだけのものにはならないままだけどね」


その予想通りの答えに、朱音は溜息をついた。


「正直なこと言うとね、もう終わっていたらいいなって思ってたの。だって、あなた、ちっとも幸せそうじゃないんだもの。余計な……お世話だけど」


「ありがと、心配してくれて」


薫子は、少し照れくさそうに朱音を見て続ける。


「そうやって、あたしのこと見ていてくれる人がいるのって……ちょっと嬉しいかも」


「そう?ほんとに?なら、薫子が道に迷わないように、監視しててあげる!」


朱音の言葉は冗談めかしたものだったが、きっと本心だろうと思えた。





それから二日後、珍しく真面目に残業をこなして退社しようとしていた薫子を、思いがけない人物が待っていた。




「よう!お疲れさんやな!」


会社の社員通用口を出たところの舗道のガードレールに腰かけて、腕組みしながら待っていたのはリュージュのマスターだった。


薫子は予想外の出来ごとに一瞬息を呑んだが、すぐに目を眇めて彼を見た。


「……そんなところで、何しているの?」


「あんたを待ってたんや。この前のお釣り預かったままやったからな」


「そんなことの為に来たの?店はどうしたのよ?」


「今日は、定休日や。知らんかったんか?」


そんなことには興味が無い、と言わんばかりに無視した薫子は、違う質問を口にした。


「お釣りはいらないって、朱音に伝えた筈だけど?聞かなかったの?」


マスターは腰を上げて立つと、ニッコリ笑った。


「それは、あかん。俺の流儀に反するんや。うちはぼったくりバーじゃないんでな」


「ぼった……くり?」


聞きなれない言葉に、薫子は首を傾げた。


「あ……と、これは関西固有の言葉やったな!つまりは、法外な値段で客から金を巻き上げる店ってことやな。ほら、たまに聞くやろ?座ってビール一杯頼んだだけで一万円、とか取りよる店」


「ぼったくりの説明は、わかったわ。でも、今回は客が釣りはいらないって言ってるんだから、それは違う話でしょ?」


薫子は冷やかな笑みを浮かべて背の高い彼を見上げた。


「俺が店主である以上は、それはお断りや。余分な代金を貰ういわれが無いからな」


「立派な、経営方針ね。じゃぁ、こうしましょう?クリーニング代として払うわ」


薫子はあの、彼にグラスの中身をぶちまけた時の爽快感を思い出しながら、鼻先で笑ってみせた。


「ちょっとしたアクシデントで、マスターの服を汚してしまったはずだから。それで帳消しってことにしましょ?じゃぁ、これで」


相手に有無を言わせない会話の切り方は得意だ。


薫子は踵を返すように背を向けて歩き出そうと一歩踏み出したが、強い力で肘を掴まれた。




「……なっ!?離してよ!!」


薫子はキッと睨みつけたが、マスターの力強い両腕であっという間に身体の向きを変えられ、両肩を抑えられながら満面の笑みで顔を覗きこまれた。


「相変わらずの無礼振りやなぁ!ええか、あんたも一人前の社会人なら、人の話は最後まで聞くもんや。俺の話は終わってないで、勝手に終わらさんといてくれるか?」


今度は薫子が言葉を失った。こんな風に盾突かれたのは初めてだった。


マスターは、睨みつけたまま黙り込んだ薫子に満足気に頷く。


「まず、お釣りはお釣り、クリーニング代は、クリーニング代や。相殺は無しや」


そう言うなり、皮のジャケットのポケットから白い封筒を取り出すと薫子の手に握らせた。


「よし!これで、お釣りは渡したで、ええな?次に、クリーニング代やけどな、現金で貰うのはやめとくわ。実際、自分で洗濯したから計算も出来ひんしな」


薫子はここぞとばかりに、睨みつけた。


「じゃぁ、手を退けて貰える?話は済んだでしょう?こうして無理矢理でも、お釣りは受け取ったんだから!」


「まぁまぁ、そう慌てなさんな!誰もクリーニング代は要らん、とは言ってないで?現金では貰わんって言っただけや」


そのわざと噛み砕いたような言い方が、薫子の神経を逆なでした。




「あぁ!もう!!何なのよ!?一体、あたしにどうしろって言うの?」


「そうやなぁ……俺に飯を奢るっていうのはどうや?」


「はぁっ!?」


薫子は目をむいて彼の呑気な顔をまじまじと見つめた。


このオヤジ、何を言い出すの!?


「な、なんであたしがあなたにご飯奢らなくっちゃいけないわけ!?クリーニング代払った方がよっぽど安いじゃないの!頭おかしいんじゃない!?」


ひどい剣幕の薫子を、さも面白そうに眺めてからマスターは肩をすくめた。




「いや、いたってまともやから、そう噛みつきなさんな!まぁ、この前は微妙に行き違いがあったみたいやからな、いわゆる歩み寄りってやつや。仲直りせえへんか?」


薫子は呆れ顔で大きく息を吐き出した。歩み寄りに、仲直り!?笑っちゃう!


「仲直りっていうのは、元々仲が良かった者同士が喧嘩した時の話よねぇ?なら、あたしにはあなたと仲直りする謂われがないわ、友人でもなんでもないんだから。むしろ、あたしはあなたみたいな人、大嫌いなの」


たいがいの男なら、ここで引くことを経験上薫子は知っていた。


軽蔑するような冷たい目差しで、けっして逸らすことなく真っすぐ見つめながら、こうもはっきりと言えば、引き下がらない奴はいない。


だが、次の瞬間に聞こえてきたのは、豪快な大笑いだった。薫子はギョッとした。


目の前で上を向いて大笑いしている男をポカンと見つめる。




「いやぁ~!おもろい!ほんまに、あんたおもろいわ。この十年で出会った女の中でも一番やな!」


あたしが……おもしろい?それも、十年間の中で一番?


やっぱりこの男は、頭が変だ。


「あんた、この前言うたよな?退屈しのぎに付き合ってあげてもいいって。なら、なにも俺と寝てくれなんて言わへんから、飯くらい付き合ってくれへんか?」


一瞬、その言葉を解読するかのように首を傾げてから、今度は薫子がわざとらしく声をたてて笑った。


「なんだ!そういうこと!つまりは、あたしをナンパしてるってこと?あたしに付き合って欲しいってこと?」


マスターは高飛車な薫子の口調に、肯定も否定もせずに黙って眉を上げた。


薫子は益々偉そうに腰に手を当てる。


「お釣りがどうとか、クリーニング代がどうとか、回りくどい男ね。そうならそうとストレートに言えばいいじゃない!でも、あたしは売約済みだとも、この前言ったはずよ?」


「まぁ、若干の履き違いはあるものの……」


マスターは、苦笑いを浮かべながら一旦口を噤んだが、すぐさま思い直すように微笑んだ。


「……とにかく、何も力尽くでどうこうしようとは思ってないんやから、まぁ、飯ぐらい食いに行こうや!な?」


薫子はすぐには答えずに、目の前の自分よりは顔一つ分背の高い男をジッと見つめた。


こうしてあらためて正面から眺めてみると……顔立ちは、面長でなかなかの男前だと思う。鼻筋は通っているし、くっきりとした二重の目はキリッとしている。唇は薄めだが、分厚いよりはいい。


実年齢よりは5歳は若く見えるが、その見事なグレーの髪の色だけが特異だった。


白髪ではなく、銀髪だ。おそらくは肩ぐらいまである長さを革紐のような物で無造作にくくっている。


さっきまでの怒りのボルテージもいつの間にか治まり、なんだか抵抗するのも馬鹿らしくなってきた薫子は、諦め半分に笑った。




「……もういいわ。あたしもお腹ぺこぺこでこれ以上の押し問答はごめんだから、奢ってあげる。そのかわり、リクエストは受け付けないわよ。あたしの行きつけの店に行くから」


「もちろんや!そこまで贅沢は言わんよ。どこでもついて行くで!」


どこまでもハイテンションな男だと、思わず苦笑いが浮かぶ。


だが、ここまではっきりと言いたいことを言っても、あからさまに突き放しても、ダメージすら受けずに、引き下がらない男も初めてだと思った。




薫子が連れていったのは、自社から程近い商店街の裏通りにある定食屋だった。


行きつけの者でなければけっして入らないような、驚くほど古く寂びれた店構えは、破れた暖簾が辛うじて掛かっており、薫子はなんの躊躇もなく、建付けの悪い引き戸を開けた。




「おじさん、久しぶり!来たわよ!まだ食べれる?」


誰も居ない店内を見回しながら大きな声でカウンターに向かって言うと、奥から初老の店主が出てきた。


「おー!カオっちゃん久しぶりだなぁ!もう閉めようかと思ってたんだが、カオっちゃんならオッケーだ。何が食べたい?」


薫子はテーブル席にストンと座ると、嬉しそうに笑った。


「よかった!あたしは久しぶりにスペシャル定が食べたいなぁ、出来る?」


「おうよ!わしに出来るか、なんて聞いちゃぁいかんよ?……で、もう一人の御仁は何にするかね?」


薫子の向かいに座り、楽しそうに店内を眺めていたマスターは、ニッコリ微笑んだ。


「大将、遅くにすんませんな!俺も同じものお願いできますか?」


「もちろんさ。スぺ定二つね!」




「なかなか凄い店知ってるんやなぁ!」


マスターが感心してもう一度店内を見渡した。


「まだ食べてもないのに、凄いってわかるの?それとも、この店のイメージから?」


「こういう店は、美味いって決まっとる。そうやろ?せやから連れて来てくれたんやろ?」


「あなたに美味しいものを食べさせようなんて、これっぽっちも思ってないわ。あたしが美味しいもの食べたかっただけよ」


「俺に飯を奢ってくれると了承したんやから、同じことや」


薫子の皮肉は取り合わずに、マスターはニンマリ笑った。


癇に障るような男に、あえて気取る必要も感じなかったからここに連れて来たのだが、どうやらそれすら楽しんでいるように見える。やっぱり、普通じゃない。




「ねぇ、まだ名前聞いてないわ。まさか、“マスター”が本名じゃないでしょ?」


料理が出来るまでの間、手持ち無沙汰に薫子が尋ねると、ほんの僅かだが、彼の表情に迷いのようなものが過ぎったような気がした。


「……“マスター”が本名じゃ、あかんか?」


「ふぅん……別に、何が何でも知りたいわけでもないから、いいけどね。名乗れないっていうのも、うさん臭そうだし」


マスターは少し困ったように、ハッハッと笑った。


「ほんまに口の減らんお嬢さんやなぁ!うさん臭いなんて言われたのは初めてやで。その馬鹿正直な毒舌で、よく今まで生きてこられたなぁ!」


薫子も負けじと、ケラケラと笑った。


「だって、みんなとっとと逃げだしていったもの!いいわよ、あなたも手に追えなかったら怪我をする前に逃げてくれて!」


「おいおい、見くびってもらったら困る!俺は、もうちょっと骨太やで。あんたのような小娘の毒舌くらい、痛くも痒くもないわ」


薫子は“小娘”呼ばわりされたことに、なぜか苛立ちではなく、妙な心地よさを感じて思わず笑った。


「そりゃぁ、そうよね。厄年男があたしなんかにやっつけられたら、立つ瀬ないもんね」


「厄年、厄年って言うな!御払いも何にも行ってないんやから」


「それは、失礼!年寄りはそういうこと気にするってこと忘れてた。以後、気をつけるわ」


少しも悪びれずにそう言って舌を出した薫子に、マスターはげんこつを振りかざしながらも、堪え切れずに吹き出した。


「このじゃじゃ馬娘が!!」




大衆食堂ならではの山盛スペシャルを銘々好き勝手な感想を発しながら二人でパクつき、約束通りに薫子が精算してから店を出たところで、あっさりとマスターに別れを告げた。




「さぁ、これで貸し借りは無しよ!もう待ち伏せたりしないでよね」


「なんや、もうおしまいか?一杯付き合わんか?今度は俺が奢るで」


薫子は、“一杯”という単語にちょっと魅かれたが、苦笑いで首を振った。


「あたし、これでも一応添乗員なの。明日から四国へ飛ぶのよ、だからやめとくわ」


マスターは意外そうな顔で腕を組み、微笑んだ。


「ほぉ!初めて、あんたの口からまともな事聞いたわ。そうか、そりゃ早よう帰らんとあかんな。そういう理由なら引き留めへんで」


「あたしはいつでも、ま、と、も、ですから!あなたと一緒にしないでよ」


薫子のつんけんした口調に、マスターは笑いを堪えながらも、頷いた。


「よしよし、わかったわかった。……気をつけて行って来るんやで?」


最後の言葉が、意外なほど優しい口調だったことに、薫子はプイっと顔をそむけた。




「帰ってきたら、店に顔出しや?今日の御礼に奢るで」


「さぁ?……気が向いたらね。じゃぁ、帰るわ」


薫子は、言い終わるなり片手を上げながらくるりと背を向けた。


だが、一歩踏み出したところですぐに呼び止められた。




「おい!忘れものやで!」


「……なぁに?何も忘れてなんかないわよ?」


薫子が首を捻りながら振り返ると、マスターはニンマリ笑った。


「俺の、名前や。俺は……藤原剣吾ふじわらけんごっていうねん」


「……へぇ……そう。藤原剣吾、ね」


薫子は少し驚きながら、復唱した。なぜ教える気になったのだろう?


「ええか?これはトップシークレットやからな!胸にしまっとけよ」


本気か冗談かわからないセリフに、薫子は意地悪い笑みを浮かべた。


「はい、はい。おやすみなさい、剣吾おじさま!」


再び背を向けて歩き出した薫子の背中で、剣吾の大笑いが響いた。





二泊三日の四国巡りを無事終えて帰ってきた薫子は、その日のうちに、迷うことなくリュージュへ足を運んだ。


本来、接客業が好きでこの世界に入ったし、人扱いはお手のものだった。


だが、今回の旅行は霊場を廻るコースも含まれていたから、物静かな年配者の夫婦が殆どで、その手腕を発揮することもなく大人しく過ごした。


仕事とはいえ三日間の大人しい愛想笑いは、ほとほと疲れた。




マスターは、自分が素直に店に顔を出したことをどう思うだろうか?


ほらやっぱりや!と、得意満面な顔をされたら、それはそれでちょっとムカつくな……そんな事を考えながら、勢いよくドアを開けたとたん、薫子はここへ来たことを後悔した。


なぜなら、カウンターには先客として朱音と田島が夫婦揃って来ていたのだ。


べつに二人に会うのが嫌なわけではなく、むしろ嬉しい位なのだが……今日ここでは会いたくなかった。


ほんの何日か前に、朱音に対して「リュウージュには二度と行くつもりはない」と言い切ったことが最大の理由だった。




「薫子!どうして……?」


案の定、朱音は予想通りの反応をした。


どうして、と聞かれても返答に困るなぁ……と、薫子はばつが悪そうに無言でマスターに助けを求めた。


「朱音ちゃん、そこは聞いたらあかんとこやで!俺に会いに来た、なんてここでは言えんやろ?なぁ、カオっちゃん?」


いつもと何ら変わらぬ独特のノリで、マスターはニンマリと笑う。


「……カオっちゃん!?」


田島夫婦は、同時に声を上げた。さすがは新婚、息は合っている。


薫子は朱音の隣にストンと座ると、あからさまにマスターを睨みつけた。


「あたしをそう呼んでいいのは、ヨシヤ食堂のおじさんだけよ!いつあなたに許可したのよ、厚かましい人ね!」


「えらい、冷たいなぁ!先週は機嫌よう晩飯、奢ってくれたやないか」


「機嫌良くなんかじゃないから!」


即答で否定した。


「え?そうなの?でも……」


二人のやりとりに目を丸くして不思議そうにこちらを見た朱音に、薫子は苦笑するしかなかった。


「ちょっとばかり、状況が変わったのよ。成り行きで一緒にご飯食べただけ、それも“ヨシヤ”でね」


「あの、“ヨシヤ”に連れていったの?マスターを?」


朱音の目は、ますます丸くなった。会社の近くだったから、その年季の入った店構えは彼女も知っていたらしかった。


「そうよ、それもスペシャル定食奢ったんだから!」


「おぉ!あれは、最高に美味かったなぁ!」


薫子に水割りを差し出しながら、マスターは大袈裟に頷いて見せたが、薫子はあえて無視すると、朱音の向こうに座る田島に向かってグラスを持ち上げた。




「田島さん、お久しぶり!結婚式以来ですよね?」


「そうですね、その節は、ありがとう。相変わらず、お元気そうだ」


田島はにこやかに微笑んで、グラスを持ち上げた。


朱音の旦那様である田島 優は、昨年仕事先の責任者として朱音から紹介されて知り合った。タイプかタイプでないかは別にして、なかなかの男前さとスマートさにはかなりの好印象を受けたのを覚えている。


ただ、知り合った時からこの二人の間に流れる特別な空気は感じ取れたし、何よりも彼の目には、朱音しか映っていなかった……というのも、感じた。


その当時の二人の辛そうなすれ違いや、やりとりを、一歩離れたところで見ていた自分からしてみれば、ようやく納まる所に納まった二人、という感じだ。




「新婚生活は、どうですか?天にも昇るような感じなのかしら?」


薫子が茶化すと、田島は残念そうに首を振った。


「ここは、思いっきりノロケたいところだけど、あまり一緒に居れなくてね。薫子さんを喜ばせるようなネタも無いのが現状かな」


「あ、そっか!朱音も今日まで金沢行ってたんだっけ?」


田島の言葉を受けて、思い出したように朱音を見た。


「そう、帰ってきて直接待ち合わせて食事して、ここに寄ったってわけなの。薫子も四国だったのよね?今、帰りなの?」


「まあね。この前の食事の御礼に、ただで飲ませるって言われてたの思い出して寄ったんだけど……」


薫子は、マスターに確認するようにわざとらしく口元だけで笑いかけた。


「おう、確かに言うた言うた!遠慮なしに浴びるほど飲んでくれていいで」


「マスター!駄目よ、そんなこと言ったら。彼女の酒豪ぶりは知らないでしょ?中途半端じゃないんだからね!」


朱音の大袈裟な言い方に、薫子は口を尖がらせたが、事実でもあったから抗議はしなかった。実際、飲み過ぎて朱音に迷惑を掛けたこともあったのだから。




今回のお互いのツアーについて、薫子は愚痴を、朱音は面白エピソードを、交換しながら盛り上がり、田島はそんな二人の話に穏やかな笑みで耳を傾け、マスターは他の二組の客の相手をしながら、あっという間に時間は過ぎた。




「さて、そろそろ帰らないか?もう12時過ぎたよ」


田島が話の合間を上手く狙って、そう言った。


「え!?ほんと、もうそんな時間なのね。薫子も一緒に帰る?」


朱音に聞かれてふと腕時計に目をやると、確かに12時半近くだった。


他に居た客もいつの間にか居なくなっていた。いつ帰ったのだろうか?


「僕たちは、タクシーで帰るから一緒にどう?送っていくよ」


「う……ん、そうしようかなぁ?明日は休みだし、家でもう少し飲めるし」


田島が精算をして、続いて薫子が財布を出すと、マスターが手の平をこちらに立てて断った。


「あんたは今日は無料や。言うたやろ?奢りやって」


自分が飲んだ量がわからない程は酔っていないから、頭の中でざっと計算してみると結構な値段になる。


だが、薫子は軽く肩をすくめて財布をカバンになおし、代りに小さな包み紙を取りだした。


「じゃぁ、遠慮なくごちそうさま。……あと、これあげるわ、要らなかったら捨てて」


そう言ってカウンターにその包みを置き、業務用のブレザーを羽おると朱音達が待つドア口へ足を運ぶ。


マスターが、不思議そうな顔で包みを開くと、中からは厄除けの御守が出てきた。




「……おい!ちょっと待ってや!」


薫子が怪訝そうに振り向くと、


「もう少し飲んでいかんか?どうせ帰って飲むんやろ?俺もちょっと飲もうと思ってるから……一人より二人の方がええやろ」


薫子は、朱音達の方を見て、もう一度マスターに顔を向け、


「……いいわよ。付き合ってあげる」


そう言うと、ドア口まで行き、朱音達にそう伝えた。


朱音は、一瞬不思議そうな顔でマスターへ視線を送ったが、すぐに手を振って田島とドアから出ていった。




「よし、今日はもう店じまいや!ちょっと待っとってや、外灯消すから」


薫子が再びブレザーを脱いで腰を下ろすと、マスターはカウンターから出て店じまいを始めた。


その間、薫子はあらためてじっくりと店内を見回した。


こうして中に居ると、ここがマンションの一室だとは思えないような作りになっている。


天井もそこそこ高いし、床はダークブラウンの板張りになっていた。カウンターの中の壁には、一面ボトルとグラスが綺麗に並べられている。


ふと、カウンターの中の隅の方に立てかけられている古いギターに目が留まった。


それは年季の入ったフォークギターだった。もちろん、マスターの物に違いない。




「あれって、マスターのよねぇ?」


「ん?何がや?」


マスターは店内のフロアの照明を落とすと、カウンターまで戻ってきた。


「あの、フォークギター」


「そうやで、……おっさんのちょっとした暇つぶしの趣味や」


再びカウンターの中へ入り、あらためて二人分のグラスと氷とボトルを用意しながら、マスターはギターには目もくれずにそう答えた。


「へぇ……ねぇ、何か聴かせてよ」


だが、マスターは笑い飛ばしてカウンターから出て薫子の隣に座った。


「アホ!俺は飲みたいねん。なんでおまえの為にコンサート開かなあかんねん?」


手際良く水割りを二つ作って、マスターは薫子にニッコリと微笑んだ。


「そんなことより、おまえ案外優しいんやな。まさか、厄除け御守り貰えるとは思わんかったわ。俺が厄払いもなんも受けてないって言ったの覚えててくれたんやろう?」


「べつに、覚えてたんじゃないわ。たまたま今回のツアーが霊場巡りでお客がそんな人ばっかりだったから、思い出したってだけよ。そうそう、厄年で厄払いし忘れてるおじさんが一人いたなぁ……ってね」


その薫子の言い方がよっぽど面白かったのか、マスターは堪え切れずにクックッと笑うとグラスを持ち上げて一人乾杯をした。


「俺は、こういう意表を突いた優しさに弱いんやなぁ……ありがとさんな」


薫子はストレートに御礼を言われて、逆に居心地が悪かった。


「おっ!いっちょまえに照れとるな?おまえみたいな娘は、褒められたり有り難がられることに慣れてないから、戸惑うんやろな」


「ちょっと!」


薫子は、図星だったことを隠す為に、息巻いた。


「さっきから、おまえ、おまえって!あたしには名前があるのよ?」


「おう!そうやな……じゃぁ、薫子、でええな?」


「なんで、朱音は“朱音ちゃん”で、あたしは呼び捨てなわけ?格付けされてるみたいじゃないの!」


薫子は、口を尖らせて抗議した。


「カオっちゃん、っていうのはあのオンボロ食堂のオヤジさんしか駄目なんやろ?でも、どう考えても“薫子ちゃん”ってイメージじゃないやろうが?」


たしかに、マスターの言う通りではあった。


自分で考えても“薫子ちゃん”というのは性に合わない。でも、なぜかこの人にはいちいち歯向いたくなる。


普段なら簡単に受け流せることも、彼が言うと、妙に癪に障る。


関西弁が嫌いなわけでもないのに。




「……じゃぁ、あたしもあなたのこと“剣吾”って呼ぶわ。“マスター”なんて、ありふれ過ぎて面白くないじゃない?いいでしょ?」


「それは、また……」


マスターは目を瞬いて、やはり面白そうに口を歪めた。


「俺はかまわへんけど、周りに要らん憶測されるかもしれへんで?それでもいいんか?」


「要らん……憶測?なんで?」


「前にも言うたと思うけど、俺の本名を知ってる客は殆どおらへん。朱音ちゃんですら教えた覚えが無いくらいや。それを、おまえ……薫子が俺を本名で呼べば、俺等の関係を勘ぐられることになる、違うか?」


「あぁ、……そういうことね。それって、まずいこと?」


薫子はグラスの中の氷をカラカラと回しながら、聞き返した。


「う……ん、正直、俺にとってはまずいかもしれんな」


少し困ったように笑ったマスターに、薫子はフンッと鼻で笑った。


「そうよね、朱音に変な勘ぐりなんてされたくはないわよね!」


「まだそこにこだわってるんか?しつこいやっちゃなぁ!」


マスターは呆れ顔で腕を組む。


「どうして俺が朱音ちゃんに惚れてたことにしたがるんや?そんなわけないやろが。あの娘はここへ来た時から、ずうっと田島君への想いみたいなものを抱えてたんや。俺はそれを黙って見てきたから、あの娘には幸せになって欲しかっただけや。しいて言うなら……そうやなぁ、歳の離れた妹みたいに見てたんかもしれんな」


「ふぅん。……まぁ、べつにどうでもいいんだけどね。あたしには関係ないし」


あえて無関心な返事をした薫子に、マスターは大袈裟に驚いた。


「おい、おい、おい!今更それは無いやろ!?それが原因でぶち切れて、俺にウイスキーぶちまけたのは、どこの誰や?」


「はぁ!?何、それ!?」


今度は薫子が大きく目を剥いた。


「あたしが切れたのは朱音のことなんかじゃないわよ?あなたが勝手にあたしを弱虫呼ばわりした上に、口の利き方が悪いとか何とか言って頬っぺたつねったからでしょう!?」


「え?朱音ちゃんにやきもち焼いて切れたんとちゃうんか?だから、あんなに喰って掛かったんやろ?」


その言葉が冗談なのか、真面目なのかを見極める様に薫子は目を細めて彼を見た。


「どうして、あたしが朱音にやきもちを焼かなくちゃいけないわけ?それじゃぁ、あたしがあなたに気があるみたいじゃないの。言ったでしょ?あたしは売約済みだって」


「そうか、じゃぁ全部俺の勘違いやな!悪かった、悪かった、昔から早合点が悪い癖でな……まぁ、許したってくれ」


マスターはきっぱりとそう言うなり、満面の笑みで薫子を見た。


なんだか無理矢理、話の着地点を決められてしまったような気がして、薫子は訝しげな表情のまま何食わぬ顔で水割りを仰ぐ彼を見つめた。


……が、これ以上この話を蒸し返しても誰の得にもならないことを悟って口をつぐんだ。




水割りのおかわりを作ろうと、カウンターに視線を戻した時、その向こう側の隅に立てかけられたままのギターに、再び目が留まった。


暇つぶしの趣味のギター、なぜか誰にも教えていない名前、疑いようのない関西出身の言葉、……グラスに氷を一つづつ放りこみながら、ふと首を傾げた。




「ねぇ、マスター、手相見てあげよっか?手、貸して」


突然、何かを思いついたように薫子がマスターの手を取った。


「ほう、手相なんて見れるんか?」


だが、薫子が見たかったのは手相ではなかった。


細い指先で、その大きな意外と骨太で長い彼の指先を、確かめる様にそっと触れた。


「ん?なんや?指紋相も見れるんか?」


マスターの問いかけに、薫子は悪びれることなく笑った。


「嘘よ、手相なんて見れないわ。ちょっと調べたかっただけ」


「何を、や?」


「マスターの指先って……趣味でギターやってるって感じじゃないわよね?その硬さって、そうとう年季入ってるでしょ?昔ミュージシャンでもやってた?」


薫子の質問は、一瞬だけマスターの表情をこわばらせた様にも見えたが、それは本当に僅かな変化だった。


「何を言い出すかと思ったら……薫子は、ほんまに直球投げてくるなぁ!」


「え!?当たったの?ほんとに?」


聞いた薫子が、驚いた。


「あたしって、こう見えて推理小説好きなのよね。謎解きとか推理するのって得意なの!前にミュージシャン崩れみたいな人と付き合ったことがあって、その人、ギタリストだったから、異常に指先が硬かったの覚えてたの。それに、本名を隠してるっぽいし、どうみても関西人なのに、こんなところでバーなんてやってるし、ね?」


得意気に自説を指折り並べる薫子に、マスターは苦笑しながら煙草に火をつけた。




「ねぇ、バンドやってたの?大阪で?プロは目指さなかったの?」


薫子の矢継ぎ早な質問に、マスターの視線はギターに向いた。


だが、その横顔が不自然なほど無表情なのに気付いた薫子は、質問を取り下げた。


「……ごめん、今のは忘れて、答えなくていいから。パンドラの箱は開けちゃ駄目よね」


「パンドラの箱ねぇ……上手いこと言うな。そうやな、箱の中にはこの世の魔物や悪魔や怪物が入っているんかもしれん」


薫子は、小さくクスッと笑う。


「でも、パンドラの箱には最後に何が入っていたか知ってる?」


「……知ってるで。希望、やろ?そうでもしなきゃ、物語が虚し過ぎるわな……」


そう言ってギターからグラスに視線を戻した彼の瞳こそが、虚ろだった。

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