我らが田中の犯罪
ʕ•̫͡•ʔ
「診てください先生、これ……」
そう言って彼は自分の上着を恥ずかしそうに脱いだ。恐らく長らく陽の光に当たっていないであろう、不健康そうな真っ白な肌。
「ヒッ……!?」
その表面に張り付いていた腫瘍を見て、私は思わず悲鳴を上げた。
「怖がらないでくださいよ先生。僕だって気持ち悪いんですから……」
「そ、そうね……ごめんなさい……」
私が引いてしまったことで、診察に来た高校生・田中弘文君は傷ついた”顔”を見せた。だが私は、ショックを隠せずにいる思春期の男の子の顔なんかよりも、肩に張り付いた”腫瘍”に釘付けだった。
その”腫瘍”は、あろうことか彼の肩に小さな穴を数ヶ所開けてしまっていて、生々しいピンクの肉の色が外気にさらけ出されてしまっていた。何よりその”腫瘍”の形が、今まで診たどんな患者のそれよりも奇妙に……”人の顔”の形をしていたのだ。どう見ても顔にしか見えない彼の肩口を、私は唾を飲み込みながら恐る恐る覗き込んだ。
「危ない! 先生!」
「きゃっ!?」
その途端、私は仰け反った。”肩”についた顔が嚙みつこうとしてきたのだ。心臓の音が張り裂けそうなほど鼓膜の奥で脈打った。田中君が咄嗟に身をよじっていなかったら、今頃私の鼻はもぎ取られていただろう。
「気をつけた方がいいですよ。”こいつ”は、絆創膏だって魚の骨だって、飲み込んでバリバリ噛み砕いちゃうんですから……」
「…………」
彼の肩についた顔が、まるで飢えた野犬のように低い唸り声を上げながら笑みを浮かべていた。その表情に、私は思わず体を震わせた。田中君の頭についた方の顔が、不安げに私を見上げた。
「一体、これはなんなんでしょう? 先生……」
「…………」
……そんなもの、私が知りたいわよ。
喉から出そうになったそんな悪態を飲み込んで、とりあえず私は彼をレーザー治療用のブースへと案内した。”人面痕”だなんて、今まで何年も皮膚科にいて、見たことも聞いたこともない……まるで漫画のような症状が、目の前の高校生に現れている。
「……ぃ丈夫ですか? 先生?」
「……大丈夫よ……ちょっと目眩がしただけ……」
遠くの方で、田中君の声が聞こえる。私は片手で頭を押さえた。
「……ァアアアアアア!!!」
赤いレーザーを照射すると、肩の顔は断末魔の叫びを上げて苦悶の表情を浮かべた。小さな診察室に、小さな悲鳴が所狭しと木霊した。やがて治療が終わる頃には、腫瘍は消えたが、代わりにデスマスクのようなおぞましい表情が田中君の肩に浮かび上がっていた。
「う……」
私は思わず目をそらした。案外呆気なく治療は成功した。だが、終わってみると人一人殺してしまったかのような、奇妙な罪悪感が私の胸を締め付けていた。無事治ったことを知った田中君は、嬉しそうに飛び跳ねると、何度も何度もお礼を言って病院を飛び出して行った。
何だか、酷い夢を見ていたような気分だ。
家に帰り、鏡に映る自分の疲れた顔を覗き込み、私は頭を振った。毎晩楽しみにしていた仕事終わりのブランデーも、今日は全く味が楽しめない。食欲も、さっぱりどこかに置き忘れてきたようだった。
それにしても、”人面痕”だなんて、一体何故彼にあんな症状が出てしまったのだろう。何か悪いものに取り憑かれているとしか思えない。医者というよりも、祈祷師か呪い師にでもかかった方が良さそうだ。
早く忘れなければと思い、私は一気にグラスを空にした。
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「武田先生、これ……」
「ギャッ!!」
田中君が私の元を再び訪れたのは、それから一週間以上経ってからのことだった。Tシャツをペロっとめくった先の腹に、巨大な人の顔が浮かび上がっていて、二つのぎょろりとした目が私を覗き込んでいた。私は思わず椅子からひっくり返りそうになった。
「それから先生、ここにも……」
「う……!」
そう言って田中君は顎を上げてみせた。
喉仏の上の方、顎の下辺りに、更なる顔が出来上がっていた。お腹の二つ目の”顔”は、一つ目より年配で、顎の下の三つ目の顔は逆に若々しかった。私は流石に気分が悪くなって患者から目をそらした。腫瘍の中に描かれた目の模様が私の顔を追うように動いた気がして、背筋の震えが止まらなかった。
「……ギィィィィィィイ!!!」
断末魔のような悪魔の叫び声が、またしても診察室に木霊する。
二回目のレーザー治療は、残念ながら失敗に終わった。顎の方の小さい顔は何とかデスマスクになったものの、お腹に陣取る大きな中年顔がしぶとく、どうしても除去できなかった。赤く腫れ上がった腹に、螺旋状に歪んだ顔だった”何か”がピクピクと蠢いている。
私はひたすらそれを見ないように心がけた。死にかけた男のその表情は苦悶に満ちていて、何よりまだ”死にきれていない”……所々生きているかのように、田中君の腹の動きに合わせて”動いて”いる。【渦巻き顔】とでも名付けるべきだろうか。
その模様は、凡そ何の価値があるのかさっぱり分からない、前衛的な絵画のようだ。若しくは洗濯機に巻き込まれてしまった哀れな顔の妖怪。
「先生……何だかお腹が……」
田中君が苦しそうにシャツの上からお腹を押さえた。
「……明日、またレーザーを当てましょう。あまりやりすぎると田中君の体に負担が掛かるわ」
「分かりました。先生、これ……治りますよね?」
「…………」
もちろんよ。
確かに人の顔のように見えるけれど、こんなものはただの腫瘍よ。
”パレイドリア”って知ってるかしら?
ただの木目の模様や壁のシミが、何だか人の顔に見えてしまうことってない?
それって結局ストレスによるものらしいの。
強い不安や悩み事があると、丸が二つ並んでるだけで人の目に見えてきちゃったりね。
案外幽霊の正体とか、そんなものなのかも知れないわ。
田中君の症状もそれ。
なーんにも気にすることない。
そう、気にすることない気にすることない気にすることない……。
……などと適当にあしらって、私は田中君を病室から追い出した。とにかくもう、気になって気になって、これ以上たくさんの”顔”に見つめられるのが耐えられなくなってしまったのだ。その日、念のため田中君に精神科の先生を紹介して、私は体調不良ということで午前中で退勤させてもらうことにした。
それから私は、こっそり彼の通う学校に問い合わせてみた。
どうも田中君は、決して”お行儀のいい”生徒ではなかったようだ。サボり癖、遅刻癖……すぐ暴力に走るヤンキーのようなタイプではなかったが、根暗で、放課後こっそり小動物を捉えては解剖したりしていた……。なんて、本当かどうかも分からない噂が経っていたくらいで、彼が長期間高校を休むことになっても誰も心配するような素振りも見せなかった。
私はベッドの中で、彼の診察室での態度を思い出していた。
確かに活発な感じではなかったし、不安げな表情ではあったものの、決して心に闇を抱えているようには見えなかったが……。或いは今回のこの”症状”も、そんな彼の普段の生活態度と何らかの関係があるのだろうか。次に彼が顔を増やして訪れてくる時は、いよいよ祈祷師の出番かも知れない。そんなことを考えながら、私は限られた時間の中で出来るだけ深く眠りについた。
そして次の日。田中君は結局私の元へ現れなかった。
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「すいません。こちらに田中弘文君はいらっしゃいますでしょうか……?」
「ヒロ君なら、今体を壊して休んでますけど……あなたは?」
「申し遅れました。私××医院の武田と申します」
そう言って私は名刺を差し出した。インターホンに応じてくれたのは、恐らく母親だろう、四十過ぎの中年女性だった。病院の医者が直々に息子を訪ねてきたとあって、向こうは慌てふためきながら私を出迎えてくれた。
「息子が何か……?」
不安げな表情を浮かべる母親に、私は曖昧に笑みを返した。
あれから一週間。
二つ目の”顔”の除去に失敗してから、田中君は約束の治療を放ったらかしたままだった。あんな不自然極まりない顔が、まさかあのまま自然治癒したとも考えにくい。彼の携帯に連絡を入れても、一向に返事はない。増えたあの顔は、あれから一体どうなってしまったのだろう……まさか……。私の心に一抹の不安が過ぎった。散々悩んだ末に、とうとう私は彼の元を訪れることにした。
田中君は十四階建てのマンションの一角に住んでいた。
「ここ一週間くらいずっと部屋の中に引きこもっていて……。恥ずかしい話、食べ物だけ夜中に起きて漁ってるみたいで、全然私達に顔を見せようともしないんですよ」
母親が不安げに私を見上げた。彼の部屋のドアの前で、私は神妙な顔をして頷いた。
「……田中君?」
木製のドアをノックしながら、私は恐る恐るドアに声をかけた。だが、返事はない。「ヒロ君、病院の先生がいらっしゃったわよ」彼の母親がそう言ってドアノブを回した。すると……。
キィ……。
……と静かな音がして、ドアはあっけなく開いた。私は母親と顔を見合わせた。今日に限って、鍵をかけていなかったのだろうか。いや……きっと彼の携帯に残した留守電から、私が今日ここにやってくるのは知っていたはずだ。わざと開けていたに違いない。
私はドアの隙間から覗く暗闇に目を戻した。気がつくと、私は生唾を飲み込んでいた。
”この部屋に入ってはいけない”
そんな警告が、私の頭の中を瞬時に駆け巡った。理性では説明のつかない、本能的な警戒感。この先は危険だと、直感が訴えている。
キィ……。
「!」
もう一度、小さく音がしてドアがさらにこちら側に開いた。向こうから、誰かがドアを押したのだ。思わず私が後ずさりした、その瞬間ー…。
「ぎゃああああああああ!!」
ドアが向こう側から勢いよく開かれ、耳をつんざくような悲鳴が部屋の前で響き渡った。隣に立っていた母親が絶叫したのだと、気がつくまでに数秒かかった。何せ私の目は、中から現れた”部屋主”に釘付けになっていたのだ。
「先生……タスケテ……!」
「ひっ……!」
目の前の顔が、悲しそうに私を見つめてそう呟いた。目の前だけじゃない。手から、足から……身体中にびっしりと浮かび上がった”顔”達が、泣いたり笑ったり、思い思いの表情で私を見つめている。暗がりの向こうから、散らかって荒れ放題になった机やらベッドが覗いていた。どれもこれも、まるで何度も噛みつかれたみたいに歯型に破壊されていて、原型を留めていない。
「何なの……!?」
よろよろと近づいてきた田中君……いや田中君だった全身顔だらけの何かが、私に手を伸ばした。その手のひらにも、指の先一つ一つにも、小さな顔が出来上がっていた。
私は叫び声を上げることもできずその場に尻餅をついた。足元で気絶していた彼の母親に躓いたのだ。私の見ている前で、彼の体についた顔達が一斉にパクパクと口を開けた。その姿に、私は全身の毛が逆立つのを感じた。
「怖い……助けて……先生……」
「タスケテ……」
「寒い……先生……!」
「からだじゅう穴が空いたみたいに……口から風が吹き抜けちゃうんだ……先生……」
「!」
彼の膝のところにある顔が、悲しそうに私を見下ろしながらそう呟いた。まるで蝉の大合唱を聞いているかのようだった。耳を塞ぎたくても、体が震えて動かない。穴のように彼の表面で開かれた無数の唇の向こうには、暗い暗闇が広がっている。
「ひぃっ……!」
「逃げないデ……先生……」
「タスケテ……」
「いや……来ないで……!」
私はできる限り目の前の化け物から離れようと、震える後ろ手で必死に藻搔いた。
「それに……足りないんだ……」
「いやあ!」
「一人分じゃ……全然……タリナイ」
だが彼はあっという間に私の上に覆いかぶさってくると、そのまま私を押し倒し抱きついてきた。
「……オナカスイタ」
私が聞き取れたのは、そこまでだった。彼のほっぺたが、私の耳を引きちぎったのだ。それから何度も何度も身体中に歯を突き立てられ、肉を引きちぎられる痛みで私は絶叫した。
ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ
……どれくらい経っただろう。
目を覚ますと、私は宙を漂っていた。ゆらゆらと世界が左右に揺れ、視点が定まらない。いつもの景色とは違う、何とも奇妙なアングルだった。一体私はどうなってしまったのか、ここはどこなのか……起き上がろうにも、生憎体をどこかに忘れてしまったかのように、指一本動く気配もない。仕方なくあたりに目を凝らすと、前方に何やら肉片が飛び散っているのが見えた。
”それ”は、私だった。
全身顔だらけになった田中君に食いちぎられた、かつて私だった何かが床に転がっていた。
私はそれを、彼の小指の先から見ていた。彼に全身を食べられた私もまた、彼の顔の一つとして、小指の先に取り込まれてしまったようだ。
それに気づいた瞬間。
私にこみ上げてきたのは恐怖でも絶望でもなく……只管底の知れない、渇ききった……空腹……だった。
田中君自身は今、自分の母親を全身で貪り喰うのに夢中になっているようだった。私は目の前の肉の塊から目が離せなくなった。
「……オナカスイタ」
やがて私もまた彼と同じように大きく口を開け……私だった何かに舌を伸ばし噛り付いた。




