田中鮫
長い長い廊下を、女性の悲鳴が駆け抜けていく。始めにそれに気がついた男が弾かれたように椅子から立ち上がると、乱暴に食堂の扉を開け叫び声の方へ走って行った。ディナーを楽しんでいた他の面々も、慌てて彼の後を追って席を立った。
「何事……!?」
「分からないわ……。さっきの悲鳴は……」
「二階からだ!」
階段を駆け上る足音が、夜の闇に包まれた館の中に何重にも響いた。悲鳴は途絶えることなく、ずっと奥から聞こえ続けていた。先頭を走っていた男は二階の一番端の客室まで辿り着くと、勢いよく扉を開けた。
「おい! 大丈夫か!?」
「何があった!?」
「……ぁあああああ……!!」
部屋の扉が開け放たれても、悲鳴は止まなかった。
部屋の中央で、声の主が長い髪を振り乱し尻餅を着いている。彼の後を追って、次々と人々が部屋に雪崩れ込んで来た。
「ひっ……!」
部屋の中を覗き込んだ瞬間、誰もが息を飲んだ。彼女の視線の先にあったのは、何者かによって命を絶たれた、変わり果てた宿泊客の”死体”だった。
□□□
「なるほど……シアン化物ですね。所謂”青酸カリ”ですよ」
「青酸カリって……」
「ええ。ミステリーにもよく出てくる、あれ。アーモンドや煙草、りんごの種にも含まれる超身近な毒物です」
男はそう言って、死体から顔を上げた。
彼はとある大学に務める教授であり、化学者だった。皺一つない正装に身を包み、丸眼鏡を光らせて、化学者は近くにいたひょろ長の男に話しかけた。
「具体的にはシアン化合物は、炭素原子の横に窒素原子が三つ結合し、自身のミトコンドリアの中にあるたんぱく質を閉じ込め……」
「なるほどね。私もたった今そう言おうと思ってました」
そう返事したのは、鳳凰院凰鳳堂。明らかに偽名である。人を信用してなさそうな腫れぼったい目つき。パーマ頭に、無精髭。ヨレヨレのTシャツに破けたジーンズという、見た目も明らかに安っぽくて怪しさ満点だ。
「鳳凰院さん。被害者は昨日の夜、ロビーにあるソファで酒を飲んでいたみたいですね。全員に事情聴取しました。アリバイがないのは泊まっていた客二十三名中、四名です」
またある少女が、鳳凰院の元へと近寄って来てそう小声で耳打ちした。
彼女は探偵志望の、極々”普通”の女子高生である。頭脳明晰で、そのルックスと若さで今ネットを中心に若者の間で話題になっているのだという。サラリと艶のある黒髪を靡かせながら、彼女は凛とした顔を上げ鳳凰院を一瞥した。
「なるほどね。私もたった今調べようと思ってました」
そう言って鳳凰院が頷いた。
「鳳凰院。凶器は毒物みたいだが、身体中に打撲の跡があるな。被害者の早苗さんは、何処からか突き落とされた可能性が高い。宿の外に崖があったろ。彼処かもな……」
とある男性が部屋の窓から外の景色を覗きながら、鳳凰院にそう呟いた。
「なるほどね。私もたった今そうだろうなって思ってました」
「鳳凰院、証拠を見つけたぞ。犯人が残したと思われる手帳が、崖の上に落ちていた。慌てて逃げた時、残されていたんだろうな。犯人の名前は……」
「なるほどね。私もたった今……ちょっと、ちょっと待ってください!」
「どうした?」
部屋に集まっていた関係者達が、動きを止めキョトンとした目で探偵を見つめた。
「皆さん……ちょっと”優秀すぎ”やしませんか!?」
「?」
関係者の前で、鳳凰院が焦った顔で唾を飛ばした。
「早すぎる……! いくら何でも、これじゃあもう、すぐ事件解決しちゃうじゃないですか!? 順序ってもんがあるでしょう」
「しかし、証拠は見つかったわけだからな……」
「見つかっても、見て見ぬふりをしていて下さい」
「そんな無茶な……」
呆れ返る関係者を尻目に、鳳凰院は証拠を男の手から奪い取り、窓から投げ捨てた。
「ああっ!? 何てことするんだ!」
「とにかく、証拠はまだ早いです。今から私が推理するんで、回収するのはある程度時間が経ってからにして下さい」
「まだ早い証拠って何だよ?」
「そんな悠長なこと言ってていいのか?」
人々の戸惑いを無視して、鳳凰院は大げさに両手を広げ被害者の元へと近づいていった。
「まず死因ですが……フゥン、この肌の色。これは、まさか……」
「だから”青酸カリ”だって」
「言わないで下さいよ」
右手を口に当て、被害者の顔を覗き込んでいた鳳凰院が、唇を尖らせた。
「この感じ、どうやら”青酸カリ”のようですね。長年の私のカンがそう言っています」
「さっき言っただろ」
「いちいち言い直さなくてもいいよ」
「さて、次に調べなきゃいけないのは、アリバイです」
鳳凰院が何か言い出す前に、探偵志望の少女が出て来て先手を打った。
「昨日の夜。アリバイが無かったのは奇しくもここにいる四名です」
「一体誰にアリバイが無かったのか。それを調べれば、事件はグッと解決に近づきます」
「人の話を聞けよ」
「後は証拠ですね……ああっあんなところに! 手帳が落ちている!」
「…………」
「行ってみましょう! さあ!」
「…………」
「何だこの茶番」
走り出す鳳凰院の背中を冷めた目で見つめながら、関係者達はぞろぞろと館の外へと歩き出した。
□□□
「この手帳……もうボロボロだ……」
中庭に植えられたブナの木が風で揺れる。全員が集まるのをわざわざ待ってから、鳳凰院は仰々しく手帳を取り上げた。
「貸せ」
「ああっ!」
客の一人が探偵から手帳を奪い取り、さっさと頁を捲り始めた。
「名前が書いてあるな。何々? 『鳳凰い……」
「ちょっと! ちょっと待って下さい!」
「何だよ?」
鳳凰院が慌てて客から手帳をもぎ取ろうとした。鳳凰院が縋るような目で客を見上げた。
「それは私の役目です」
「別に誰がやったって同じだろ。ただ名前を読み上げるだけなんだから。ええと、持ち主の名は『鳳凰院凰鳳ど……」
「うおおおおお!」
「!?」
突然鳳凰院は大声を上げたかと思うと、客から無理やり手帳を奪い取り、そのまま隣の崖の方へと走り出した。
「鳳凰院!?」
「何やってんだあいつは?」
怪訝な顔をしながらも、人々は仕方なく鳳凰院の後を追った。
「うおおおおおおお……!」
「!?」
すると鳳凰院は、奇声を発したまま勢いよく崖から飛び降りた。青い空の背景に一瞬だけ彼の体が放り出されたかと思うと、そのシルエットは一瞬にして人々の視界から消えて行った。
「鳳凰院!!」
「頭は大丈夫か!?」
「…ふふ……ふふふ……!」
高さ数メートルの崖の下で、ひしゃげたアルミ缶みたいな格好をした鳳凰院から不気味な笑い声が上がった。
「ふふ……証拠が、何処かへ行ってしまいました……。これで事件は、振り出しに戻りました、ね……」
「何笑ってんだ」
「何で?」
「お前が何処かへやったんだろ」
捻れた洗濯物みたいになった鳳凰院に、冷たい声が降り注いだ。
「とにかく、まだ犯人は分からな……」
「いや、名前の欄ならここにあるぞ」
「?」
そう言って客の一人が手帳の切れ端を取り出して見せた。どうやら鳳凰院が先ほど無理やり奪った際に、名前欄のその頁だけ破けてしまったらしい。客はそこに書かれた名前を読み上げた。
「手帳の持ち主は……『鳳凰院凰鳳堂』」




