日常日記……その⑥
狭い、とっても狭いすすきれた畳敷き四畳一間にトイレは共同汲み取り式、洗面所や風呂場などと言う高尚かつハイテクなものなど時代に取り残されたクラシック&アンビリーバボーすぎるこのアパートには存在しない。
その分、家賃もクラシック&アンビリーバボーな値段なのだが……。
さて僕は深刻に悩んでいた。
髪の毛や頭皮がそれ以上悩んじゃうと抜けちゃうんだからね! とツンデレ風に言ってくるほど深刻な事態なのです。
その深刻な事態に対応するための絶対防衛戦……中央のちゃぶ台の上に置かれて陶器のブタ貯金箱と正面から睨めっこをしている。
僕は震える左手を豚の貯金箱に添えてがっしり絡みつくタコの吸盤のようにその姿勢のまま運命の選択……そう、家賃を払うためになけなしの蓄えを放出するかどうかで懊悩状態だ。
嫌がらせとバッシングでバイトをクビになり食うも食われぬ生活。
公園の水飲み場でしっぽりと水を飲み、商店街のパン屋さんの特売品30円で売られているお徳用パンの耳をぼそぼそと食べながら生きながらえている。
しかし……運命の日は毎月やってくるのだ! つ、ついに現金が、それも3500円と言うゴージャスすぎる大金を大家という冷血っぽい取立て人に上納しなければならない。
僕の財産といえば押入れにはある、せんべいのように硬い布団とちゃぶ台……そして、バイト時代にくすねたおでんの味噌だれパックと唯一の食器であるマグカップ。
そんな貧相な財産ではテレビのCMで有名な某質屋に駆け込んでも、門前払いされてパンの耳代もてにはいらないだろう。
「はぁ、なんで僕なんだよ……貧乏って、貧乏ってやだなぁ」
もう悔しすぎて涙が出てくる……僕が何をしたの! 記憶喪失になって、それでも懸命に、歯を食いしばって頑張って生きているのに。
学園の同級生のように自動販売機でジュースを買ったり、学食の定食を食べたりするような贅沢もしていないし、どんなに貧乏で笑われても、悔しさをバネに真っ直ぐに生きてきたのに……神様はまだ、僕に試練を与えるのですか。
「兄っちゃんの困った顔もす・て・き……グフフ」
突然、背後に黒い、いや真っ黒い気配を感じた瞬間、緋影さんがひよりの背後から腕を首にまわして、無垢から溢れ出る照れくささがほっぺを朱に染めて薄くひかれたリップを纏う唇から気色の悪い笑い声をあげて囁くように声をかけてくる。
「ひ、緋影さん? なんでここに? それよりも玄関は鍵がかかっているのにどうやって部屋に入ってきたのですか!?」
「兄っちゃんに寄り添って生きる……あたしのしゅ・く・め・い」
ひよりは突然の来襲にかなり焦ったように声を大きくしてしまったが緋影はどこ吹く風、まるで意を返さぬようにしれぇ~とした雰囲気で『天上天我唯我独尊ーっ』と叫びだしそうな瞳の色を浮かべている。
「大好きな兄っちゃんに良い話を持ってきてあげたよ……はじめに『バ』がついて最後に『ト』がつく良い話」
「緋影さんーっ! も、もしかして困窮極まった僕に『バイト』を紹介してくれるの」
「『バイト』? 兄っちゃん、違う……『バージンもらっちゃおうかな緋影ちゃん記録ノート』のこと」
「なんやねん! その怪しすぎるノートは!!」
「えへへ……兄っちゃんとあたしの性的な意味合いで結婚する想像妊娠日記全5巻」
「もう、おウチに帰りなさい!」
「兄っちゃんの背中があたしのおウチ……ムフフ」
じろりと存在感のある眼力で僕の顔を覗きつつも女性特有の柔らかな香りを振りまく緋影さん、僕の懇願に近い言葉に耳を傾けようともせずにうっそりとした笑顔を向けてくる。
なまじっか美少女すぎる緋影さんの性格を知らなければコロリと騙されてしまいそうなほど可愛いではないですか、こりゃ、見かけに騙されているファンの皆様方の気持ちも理解できる。
「これ……受け取って」
息もかからんばかりの至近距離で囁く緋影さんの青白い肌……そう、ほっぺたが僕のほっぺたと触れ合い体温が直接伝わってくる。
ちゃぶ台の上に置かれた一枚の茶色の封筒……だけど僕の視線はやや下。
無意識に視線をおとしてしまうと緋影さんの儚げな鎖骨から少女の膨らみまでがチラリと見えてしまう……って何故そんなに大きめのТシャツをきているのですかーっ!?
色々な意味で早鐘のように胸が鳴っていることは密着した服越しに緋影さんへ伝わっているだろうな。
無口で大人しそうな外見からは想像もできないマッドサイエンティストな自称・妹様の置いてくれた茶色の封筒を手に取る。
中には諭吉様が5枚……って諭吉様ですってー!?
諭吉様一枚で家賃払っても、残り金額で主食のパンの耳が216日分も買えるうえに20円もおつりが来てしまう埋蔵金クラスのお札ではないですか!
「お母さんや春菜姉っちゃんの野望は阻止する……」
「野望?」
『野望』などと某世界統一ゲームみたいなことを言ったので僕は素っ頓狂な声で反芻したが緋影さんは急に真面目な顔をしてコクコクと頷く。
「だから家賃払って、残りのお金で……あたしと逃避行するの……フフフ」
その『野望』と『逃避行』言うキーワードが僕の更なる悲劇の始まりだとはこの時は微塵にも思っていなかった。
それの逸品の製造場所はメイドインポポンガ共和国。
合成皮で安価かつ頑丈で長持ちする旅行かばん……大きくて、大きくてなんでも入る四次元ポケットみたいだなぁーと無邪気な子供達はおもうだろう。
ううーん頭がクラクラする……好きな人に振られたうえに路地裏でカツアゲされて泣き喚いた翌日の一年A組の一寸法師の助君みたいに腫れ上がった重い瞼をあけた世界。
――真っ暗な旅行カバンの中でした――
普段はあまり意識していなかったがカバンの内側ってうちのせんべい布団よりも柔らかく心地よい肌触りかも……ってここは一体!?
状況が把握できずに心臓がバクバクしすぎて夢喰いバクさんの生産工場になりつつあるほどの鼓動の高鳴りを感じる。
ペタリンコと腰をどっぷりと落とした僕の二つに割れている尻肉はカバンの底にセクハラしすぎるほどの密着して座りこんでいる。
全身を忍法金縛りの術が執行されたほどの硬直感まんさい、瞳をバタフライ級に泳がせて、この予測不可能すぎる展開的状況を整理してみようと試みる……確か。
『ぐふふ……兄っちゃん、お腹がグーグーと合唱して鳴りやがっていますね……羅生門の乞食ほどにお腹がすいているよね……これ食べて……愛情の塊……ぐひひ』
と渡されたサンドイッチ風な怪しげな食べ物……この展開は毒りんごを渡された白雪姫状態っぽいが、誘惑が……脳内シナプスで綱渡りしている食欲と言う悪魔が『食べちまえよ!』と囁く、そして、天使は『感謝しながらおたべなさい』とまくし立てる。
そんなに勧められたら……数日ぶりの炭水化物の魅力に勝てず、食べてしまったあとの記憶がない……って緋影さーん、完全に確信犯じゃないのですかーっ!?
この悲壮な状況……耳をすませば「ガッタンゴットン」と聞きなれた音が聞こえる。
チャックを開けて、こっそりとカバンの隙間から外界を覗いてみると。
なんじゃこりゃー! 隙間からはみかんやいちじくなどのフルーツ箱が見えるのはともかくとして、ピシッと丁寧に平積みされている荷物にドクロ&バイオハザードのマークに怪しげな御札まだ貼ってある……ってとんでもなーい危険物だらけの車両? ではないですかーっ!?
良く良く見れば僕がすっぽり入っている旅行かばんに隣接するように透明の大型ケースにテレビの特番で多岐にわたりよく見ることがあるエイリアンの姿をした化物が壁際で三角座りしていじけているぞ!
驚きのあまりふっと強く息を吐いて自分の頬を親指と人差し指で摘む……これは夢なんだ、そう夢なんだよねーっ!
もう絶望と苦悶で蹲っていじけたい気持ちを必至に立て直しつつも疲れてぼんやりしてしまった反動でおしりの辺りにあった謎のボタンを押してしまった。
「このボタンは音声ガイダンス機能です……今から兄っちゃんに質問します」
この声は間違いなく緋影さんだ、今の僕の気持ちを察していない一方的な声は緋影さんだ。
「このまま終着駅、あたしがネジと鉄パイプを巻いて作り上げた怪人博士の秘密基地駅まで行ってあたしのことを死ぬまで近親相姦風loveでいられるように怪人に改造されたい時は1のボタンを、それ以外なら2のボタンをどうぞ」
僕はすぐさま2のボタンを……っていうかボタン一つしかないやんけーっ!?
「タイムアップです……強制的に1になりました」
「なんでやねーん!」
理不尽すぎておもわず声を出してしまった僕は眉間の皺をほぐしながら気持ちを落ち着かせる。
その昔、記憶を失ってコンクリの河原沿いの橋の下でポツリと一人で佇んでひもじい思いをしていた頃に比べればへっちゃらなはずだ……頑張れ、僕!
「さて、続きまして……今夜、あたしのショートパンツの留め金を外して、愛らしい丸みをおびたお・し・りを触りたい放題の蜜月初夜タイムを過ごされたい時は1のボタンを……です」
「二つ目の選択はないのかいーっ!」
「ない……のです、ぐふふ」
「ひ、緋影さーん、この声はリアルタイムなのですかーっ!?」
「だって……あたしは兄っちゃんのことが心配……春菜姉っちゃんに連れさらわれたり、千明お母っさまに拉致られたり……その車両の隅っこに絆いであるあたしの造った欠陥作品、人造人間ゾンビールにたべられちゃったり……とってもし・ん・ぱ・い……ぐふふ」
「ゾンビールってあのフランケンシュタインの標本みたいな奴ですかーっ!」
「げへへ……兄っちゃんが心配したらダメだから……な・い・しょ」
「内緒になってないわーっ! リアルで怖いですよ!」
「兄っちゃん……根拠はないけど大丈夫、可愛い妹のあたしのために終着駅まで生き延びて……オシベとメシベがぐふふ」
妙に悩ましげな緋影の嬌声にいろいろな意味合いで心臓が跳ね上がってしまう。
「兄っちゃんとデート……楽しい……」
僕は浅はかでした……僕に対する執着心(愛着)が最年少の緋影さんでこの破天荒な愛着ぶりなのだから……あの二人の本気度すぎる愛着ぶりを身をもって知ることになるのが怖い。