第六話
本日二話目。
ジークムントを迎えに来たのはアレクの兄だった。
紺を基調とした近衛隊の隊服を着ているアレクの4歳上の兄ーークレメンス。
今年22歳のクレメンスは栗色の短い髪に青緑色の瞳、その鋭い眼差しをさらに細めている。
クレメンスは近衛隊に属しており、アレクが王太子だった頃はアレクの護衛だった。
ジークムントと肩を並べられるほど腕が立ち、真面目で職務に忠実な彼は今は王の護衛を務めている。
クレメンスはジークムントの目の前までくると、胸に手を当て、礼をとった。
「殿下」
「なんだ」
「陛下がお呼びです。中にお戻り下さい」
「そうか、分かった」
素っ気なく答えると、ジークムントはアレクに向き直った。
「アリーセ、本当に陛下に挨拶に行かないのか?」
「はい、ご遠慮させていただきます」
クレメンスの手前、アレクは言葉使いを直した。
ジークムントは切なそうに眉根を下げた。
「出来ればカールにおめでとうと言ってあげてくれないだろうか?
あいつも兄上が亡くなって、落ち込んでるから」
「でも今のわたくしがお祝いの言葉を述べても意味はないでしょう」
「気持ちは伝わる。
カールだけでなく俺も他の弟妹もあなたが誕生日におめでとうと言って手を握ってくれるのを楽しみにしていたんだ。
今年からそれがないことは弟妹達にとって、とても寂しいことだ」
「うーん」
今の自分がカールハインツの手を握れるわけではないが、確かに毎年言っていたのだ。
出来るなら今年も言ってやりたい。
せっかくそばまで来ているのだから乗りかかった船かと思い直した。
「わかりました。エルマーが帰ってきたら参ります」
「エルマーならそこにいる」
ジークムントが広間への扉を指し示す。そこにはニヤニヤ笑っているエルマーがいた。
「本当だ。いつの間に。じゃあ折を見て参ります」
「ああ、カールも喜ぶ」
ジークムントはクレメンスを従えて去って行く。
代わりにエルマーがやって来た。
「エルマー。どこに行っていたんだ。ジークが来たらいなくなって」
「ちょっとな。それよりどうしたんだよ。
ジーク様と仲良くダンスなんて。僕が居ないうちに何があった?
ジーク様の求婚を受けたのか」
「そんなわけないだろう。まったく、どこから見ていたんだよ」
「どこでもいいじゃないか。いいよなあ、熱々の二人。絡まる視線」
「エルマー。頭、大丈夫か?」
アレクは呆れを込めて言ってやった。
しかし頭の軽いこの兄は堪えなかったようでニヤニヤ笑っている。
「照れるなよ」
「照れてない」
「ジーク様は今夜は眠れないだろうな。愛する女とダンスで密着。幸せで羨ましい」
下世話な事を言うエルマーに、アレクは本気で侮蔑の視線を送る。
「馬鹿なことを言うな」
「本当のことだ」
口元に手を当て、ニマニマ笑うエルマー。
幸せそうな頭の中身を、何処かに放り捨てたい衝動に駆られたが、なんとかそれを抑える。
「それはエルマーの思い違いだ。
ジークの求婚は断ったし、ジークもそれを了承している」
「ジーク様は諦めないと思うぞ」
「諦める諦めない以前の問題だ。
ジークはただ責任を感じているだけなんだと思う。
自分の所為で、僕が女性として生きてこれなかったという事を悔やんでいるんだと思う。
だから責任を取って結婚しようとか思ってるんだよ」
「いや、それは違うと思うぞ」
エルマーは頬を引きつらせて答える。
アレクはエルマーに呆れた視線を送る。
「なら聞くけど。
エルマーはクレメンス兄さまが実は他人で女性だったとしたら、すぐに好きになれる?
結婚しようとか思えるのか?」
エルマーはつい先ほども見た兄の姿を思い浮かべた。
自分よりがっしりとした体格。
鋭い眼差しで自分を虫けらのように見下ろす兄。
あの兄が女性?
ドレスを着て、髪を結い上げ、自分に向かってニッコリと笑う・・・。
「おえええええええ」
エルマーはたまらずに吐きそうになった。
自分の想像力の豊かさが憎い。
「ほら見ろ。
そうなるだろ!」
「アホか、お前とクレメンスじゃ全く違う!」
「同じだよ。ずっと兄だと思っていた人だよ」
「違う! お前は本当に女だろうが!
ドレス姿も違和感なく、ちゃんと似合っている。
それに比べて、クレメンスのドレス姿なんて、見れたもんじゃない!
目に毒だ」
「えー、そう?
結構可愛いと思うんだけど」
「可愛くない!」
断言すると、アレクは少し考え、
「じゃあ、シュテファン兄さまは?
シュテファン兄さまが女性だったら」
長兄のシュテファンは、背はそれほど高くなく男にしては華奢である。
顔も男らしさはないので、これならいけるかと考えてみる。
ドレスを着て髪を結い上げる。
後ろ姿は女性にしては多少がっしりしていたが、まあまあいけた。
しかし振り返った兄はーー
笑顔で剣を振り下ろす。
その迷いのない太刀筋は背筋を凍らせるには充分だった。
「ぎええええええ」
エルマーは両手で自分の腕をさすった。
シュテファンの怖いところはそれだけではない。
陰険で執念深いところがとっても怖い。
自分を愚弄したものは、ねちねちねちねち追い詰める。
自分が今想像したことをシュテファンに知られたらと思うと、鳥肌がおさまらない。
「ほら見ろ。
やっぱり兄相手では無理だろう?」
アレクは勝ち誇った顔で言う。
自分がどれほど危ない提案をしたのか分かっていない。
いや、シュテファンはアレクには甘いので、危ない目にあうのはエルマーだけだった。
「アレク、僕が悪かった。
今の話題は忘れよう」
「そう? 分かってくれたならいいけど」
「だから頼むから、今話していたことは口外しないでくれ。
僕の命に関わる」
「? よく分からないけど、分かったよ」
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
アレクとエルマーは広間に戻ってきていた。
眼鏡をかけ、扇を広げ、また顔を隠す。
眼鏡越しに見える広間はぼんやりしていて、色がチラチラとちらついている。
アレクは顔を、エルマーに向けた。
「さっきジークと話していて、カールに挨拶に行くことになったんだ」
「挨拶に行くのか? そうすると眼鏡は取らないとならないぞ」
「だよねえ。だから化粧直しをしてこようと思うんだ。
白粉を分厚く塗って、紅を顔中に散らせば、ばれないと思うんだけど」
「眼鏡の次は化粧お化けか。おまえ、嫁に行けないぞ」
「余計なお世話」
アレクは眼鏡を下げ、エルマーを睨みつける。エルマーは軽く肩を竦めた。
「さっさとジーク様に貰ってもらえ」
「だからジークはそういうつもりで僕を見てないって」
エルマーはなにか言いたそうに口を開く。
が、アレクはそれを無視してサッと眼鏡をあげ、こちらへ寄ってくる人物へ体を向けた。
誰かが近づいてくるのが横目に見えたのだ。
「あ、お久しぶりですね。アーデルハイド」
「久しぶりだね、エルマー。元気だったかい?」
エルマーの声に応えるのは、穏やかな男の声だ。聞き覚えがある。
王弟メービウス公爵の嫡男、アーデルハイドはアレク達にとってはとこだ。
アレク達の母方の祖母は前国王の妹だったため、血の繋がりがある。
アーデルハイドは二十一歳、薄茶色の長い髪に青い目の優しい顔立ちの男だ。
物腰柔らかく、理知的で優秀な男。
そしてその隣、同じく薄茶色の髪に青い大きな目の黄色いドレスの少女。
十五歳のその少女は色彩こそアーデルハイドと同じだが、釣り目でツンと上げた顎は気が強そうだ。
アーデルハイドとエルマーが話している隙に眼鏡を少し下げて見てみたら、アレクを無遠慮にジロジロと見ている。
アレクはそっと眼鏡を戻した。
「こちらは?」
アーデルハイドの声がアレクに向く。
「妹のアリーセです。アリーセ、こちらはメービウス公のご嫡男、アーデルハイド殿だ」
「お初にお目にかかります。アリーセと申します」
アレクはドレスの裾を摘まんで、令嬢として挨拶した。
物凄くむず痒いが仕方が無い。
「よろしく、アリーセ嬢、私はアーデルハイド。これは妹のマルディナだ」
「マルディナですわ」
マルディナの硬い声にアレクは内心、おや? と声をあげた。
いつものマルディナは少し高慢だが、礼儀正しい少女だ。
しかし、アレクに対する挨拶は素っ気なく、声も低い。どうも機嫌がよろしくないようだ。
「アリーセ嬢の事は聞いているよ。社交界に出られるくらい元気になったのだね。よかった」
アーデルハイドは穏やかな声をアリーセに向ける。
妹の不機嫌は気にしていないらしい。
「昔から心配してたんだ。
君は僕の妹の一人と同い年でね。そんな君が病弱で、遠くの療養地に一人でいるっていうから、何度か見舞いに行こうかと思っていたのだよ」
「そうなのですか」
アレクは少し驚いた。
今まで王宮で話題にも上がらなかったアリーセを心配し、見舞いに来ようとしていた人がいたなんて。
見舞いに来られてもその当時、その地にアリーセはいなかった。
見舞いを打診されて、父であるバークリー侯爵はだいぶ焦っただろう。
「ありがとうございます。お気持ち、とても嬉しく思います」
「実際には行けなかったから、お礼を言われると心苦しいよ。
もう体の方は大丈夫なのかい?」
「ええ、順調に回復しておりますわ」
「そうか、それはよかった。ーーあ、そうだ、エルマー」
アーデルハイドは何かを思い出したようで、急に話の矛先を変えた。
「さっきドーリス嬢が君を探してたよ。大丈夫かい?
彼女、だいぶ鼻息荒かったけど」
「げっ」
エルマーはくぐもった声を出してから会場内をキョロキョロと見回す。
アレクはエルマーに胡乱な目を向けた。
「なにをなさったの? お兄さま」
「違うっ、僕はなにもしていない。彼女のほうが勝手に僕に熱を上げてるんだ」
「ここ何回か、エルマーはドーリス嬢と踊っていたから勘違いしちゃったかもな」
「そう、そうです。そういうことだぞ、アリーセ。僕にやましい事はない」
その割りには慌てて弁明しているエルマー。
「そうは見えませんけれど」
「僕は無実だ。正直に言えば、彼女の手紙攻撃にうんざりしているんだ。出来れば会いたくない」
「おや、噂をすればドーリス嬢だ」
アーデルハイドがある方向を見る。
そこには黄色いドレスを着た大柄な女性が険しい表情で会場を見回していた。
「やばいっ、アーデルハイド! 少しの間、妹を頼みます!」
「は? なに言ってるの、お兄さま」
「彼女に会ったらどんなことになるか分からない。
僕はしばらく身を隠すから! シュテファンを見つけて来てもらうから安心しろ」
「大丈夫だよ、エルマー。アリーセ嬢の事は任せて、早く行け。ドーリス嬢が来るぞ」
ドーリスはエルマーを見つけたようで、ドレスの裾を上げて、駆け出した。
「ひっ」
エルマーは変な声を上げて、逆方向に逃げ出す。
少しして、ドーリスもアレクたちの前を通り過ぎた。通り際、睨まれたような気がする。
ドーリスはエルマーよりだいぶ年上に見えた。
「ええと?」
睨まれた視線は恐ろしく鋭く、憎々し気だった。
どういうことだか分からないが、屋敷に帰ってから問い詰めよう。
場合によっては兄たちに報告、あの軽い頭に中身を詰めてもらうことにする。
アレクはアーデルハイドとマルディナに向き直る。
エルマーはアーデルハイドに自分を頼んでいたが、いつ来るか分からないシュテファンを待って二人を引き留めるわけにはいかない。
その旨伝えようとしたが、マルディナの不機嫌な声の方が早かった。
「アリーセ様、先ほどから思っていましたのだけど。
あなた、そのみっともない眼鏡を外したらいかが?」
「・・いえ、わたくしこれがないと全く見えないものですから」
「だとしてもですわ。あなた、恥ずかしくないの?
淑女が夜会でそんな野暮ったい眼鏡など掛けて。
あなただけでなく、お家の恥になりますのよ。即刻外すべきですわ」
マルディナの不機嫌の元はアレクの眼鏡らしい。
王族として生きる彼女は無作法なアレクの眼鏡が許せないのだろう。
少女らしく生真面目に真っ直ぐに詰め寄ってくる。
微笑ましいが、今はそれに応えてあげるわけにはいかない。
「お見苦しい真似をしてしまい、申し訳ありません。
ですが先ほども申しましたようにこれがないと見えないのですわ。
わたくしは端に控えますからお目こぼし下さいませ」
「そんなことを言っているのではありません!」
マルディナは憤慨したようで声を荒げた。
「端に行く必要などありません! その眼鏡を外しなさいと言っているのです。
外して見えなくなるのが不安ならお兄さまをお貸ししますわ! 存分にお使いなさい!
お兄さまの腕に張り付いていればよろしいわ!」
あまりの言い様にアレクは呆気に取られた。貼り付けって・・。
「それにあなた、先ほどエルマー様と視線を合わせていたではありませんか。
全く見えないとは思えませんわ!」
「そうだね。それにさっき見えたけど、君の瞳もアレクシス殿下と同じ、鮮やかな緑だね」
それまで黙っていたアーデルハイドが口を挟む。
「母君から受け継いだのかな? 王家の至宝の瞳。
君も譲り受けているなら、眼鏡で隠しているなど勿体無いよ。みんなに見せてあげるべきだ」
兄の援護射撃にマルディナは、そうですわ、と勝ち誇ったように言う。
確かにアレクの緑の瞳は王家から受け継いだ色だが、そんなに見たいのなら、ルードヴィッヒも受け継いでいるからそっちを見とけと言いたい。
さらに言うと、メービウス公と娘の一人も受け継いでいるからあなた達は見飽きているだろうに、と言いたい。
(気分が悪いとでも行って、二人を置いて控え室に行くかな。
マルディナは納得しなさそうだけど。・・・ダメなら走って逃げよう)
マルディナがアレクの心を読めたら、さらに怒り狂いそうな事を考えるアレク。
しかしそれは口にすることはなかった。
唐突に、ガシャーンという硝子が割れるような甲高い音と、悲鳴と怒号が広間に響き渡る。
「!!」
アレクは咄嗟に声のした広間の奥を見る。
だが、眼鏡が邪魔だ。顔を隠している眼鏡だが、この悲鳴、ただ事ではない。
眼鏡を下げ、騒ぎの方を見る。
見えたのは、黒い羽を持つ大きな熊ようなものの背中だった。
「魔獣か」
魔獣は山や深い森に住む。そこに魔獣の好む瘴気があるからだと言われている。
街道や村に現れて人に害なすものはいるが、こんな警備の厚い城の広間に現れるなど、迷い込むにしてもあり得ない。なにか明確な意思でもない限り。
そこまで考えた時、アレクは走り出した。
魔獣がいるのはここに来る意思があるからだ。しかし魔獣は知能が低い。
ここに来る事など思いつかないだろう。ならば、答えはひとつ。
魔獣を使役出来る何者かがその側にいる。
「どいてくれ」
アレクが人を掻き分け進むと、人が途切れた。目の前の光景に目を見張る。
そこには、狂暴な顔をした熊のような猿のような大きな黒い魔獣。腕に水色のドレスの女性を抱えている。
そしてその横にいるのは、横顔からでも美しいと言える妖艶な美女。
豊満で魅力的な体を真っ赤なドレスで包み、浅黒い美しい肌に波打つ黒髪。
その大きな茶色の目は王一家に向けられている。
(あれは、まさか・・)
アリーセは知らず手を堅く握り締める。
そこにいるのは人ではない。禍々しいこの気配。これはーー
「何の用だ? 西の火の魔女。また我が王国に災いを振りまきに来たか」
王の声が広間に重く響く。
西の火の魔女。
それはこの国の王太子が十八歳になるまでに死ぬという呪いをかけた魔女の呼び名だった。
お読みいただきありがとうございます。
若い女性が眼鏡で華やかな場所に出るのは良くないというのは、この物語の世界観、という事でご了承下さい。




