第一話
「死にたくない、死にたくない」
薄暗い森の奥深く、鬱蒼と生い茂る蔦に囲まれた城で、一人の女が死の淵に立っていた。
暗い部屋で、看取る者もなくベットに横たわるのは、痩せこけた老婆。
皺だらけの手をわななかせ、白濁した目から涙を零す老婆の口から流れるのは怨嗟の声。
「許さない、許さない。あの女のせいだ、白蛇の姫!
あの女が邪魔をした! あたしの邪魔をした! あの女の犬がいたせいで、あたしがこんなに目に合うんだ! あの犬! 何が愛し子だ、ただの呪い返しの道具じゃないか!」
枯れ枝のような老婆はその体の何処にそんな力が残っていたのか、狂ったように言葉を吐き捨てる。
「あいつが産まれたせいであたしの計画が狂ったんだ。
あいつがいなければあたしは愛しい人と一緒になれたのに、幸せになれたのに!」
老婆はカッと目を見開く。
その血走った目にはもう何も見えていない。
しかし老婆はその白濁した目をギョロギョロと動かし、何かを必死に探していた。
「ああ、ヘルムフリート。あたしのヘルム。何処にいるの?
寒いのよ。昔の様に抱きしめて」
老婆は枝のように細くなった手を宙に伸ばす。
何かを掴もうとして震える手を伸ばすが、そこには何もない。
「なぜ、なぜなの、ヘルム。なぜ、他の女を抱くの? あたしの事を好きだって言ったのに。
なぜ、あたし以外の女を見るの? あたしは騙されたの? あたしを裏切ったの?」
老婆の手が、何も掴めずパタリとベットに落ちる。
老婆はその手に筋を浮かびあがらせ、シーツをきつく握り締める。
「許さない、許さない! ヘルムも王妃も王子達も! みんな居なくなればいい!
あたしを嘲笑う奴らなど、みんな消えてしまえばいい。
死にたくない。死ねるもんか。あいつらに思い知らせてやるんだ!
呪いを台無しにしたあの王太子に思い知らせてやる。
愛し子などと呼ばれていい気になってるお綺麗な王太子を醜く穢れた世界に引きずり落としてやる」
老婆の呪詛はとどまる事を知らず部屋に撒かれる。
しかしそれは力なき呪詛。最早何の力もない老婆の呪詛は誰にも届かず、老婆の命の灯とともに消えゆくのみ。
「嫌だ、嫌だ」
老婆は涙を流す。もう体を動かす事も出来なくなっていた老婆は荒い呼吸を繰り返していたが、ふと部屋に闇がわだかまっているのに気づいた。
「誰、だ」
声に応える様に部屋にかすかな衣擦れの音が響く。
影は少しずつ老婆に近づき、ベットに横たわる老婆を見下ろした。
「力を貸してやろうか、魔女」
影は低く響く男の声を出した。
魔女と呼ばれた老婆はそちらに顔を向ける。そこには背の高い影があった。
「何が目的だ? 魔の者。あたしに何をして欲しい?
幾千人の生贄が必要か? なんでもする! だからあたしに力を!」
影は笑ったようだった。
「わざわざ生贄は必要ない。お前がしたいようにすればいい。俺は勝手に利益を得る」
影は屈み込むように魔女に近づき、鎖骨の下あたりに冷たい何かを乗せる。
しかし、それが冷たかったのは一瞬だけで、すぐに熱い奔流が魔女の体を支配した。
「あ、あ、ああああぁぁぁぁ!」
熱さは魔女の体を駆け巡り、耐え難い苦痛を与える。
魔女が苦しみに喉を掻きむしっているうちに変化は起こった。
老婆の痩せて枯れ枝のようだった体に肉がつき、次第に豊満で魅力的な体と浅黒い美しい肌になる。
髪は艶を取り戻し、癖のある黒髪がベットに広がる。
大きな瞳は薄茶色に戻り、皺だらけだった顔もかつての目鼻立ちのはっきりとした美しい顔に戻った。
「っ、はあ、はあ、はあ」
魔女は荒い呼吸を繰り返す。
視界の端で何かが動いたので、そちらを見ると、黒いローブを羽織った大柄な男がいた。
男だと思ったのは大柄な体と先程の声からの事で、顔はフードの影になってほとんど見えない。
形のいい顎と薄い唇が見えるのみだ。
魔女はフードを剥いでやろうと体に力を入れたが、ほとんど動かせなかった。
「まだ動けないだろう? それが馴染むまで時間がかかる」
男は屈み込み、魔女の鎖骨の下あたりにあった何かを取り上げた。
途端に息が苦しくなってきて魔女はまた呼吸を荒げる。
男の手には、大きな黒い石のついたネックレスがあった。
「これがお前の新しい命だ。これが馴染むまで動けないし、これを無くせば、お前は死ぬ」
「あ、たしにどうしろと?」
ネックレスが遠く離れれば離れるほど、息が苦しくなる。
男の話は本当なのだろう。しかしそれでも構わない。元々なくなる命だった。そのぐらいの枷は関係ない。
「別に指示はない。お前の好きにすればいい。先程も言ったように利益は勝手に得る」
男は言いながらネックレスを魔女に戻した。息が楽になり、魔女はひと心地つく。
「だが、忘れるな」
男の冷たい声が安堵に弛緩した体を再び固まらせる。
「お前の行く先に光はない。誰もお前を救いはしない。
お前が行く先にあるものは永劫の闇だということを覚えておけ」
男の低く冷たい声が部屋に響く。心臓を凍らせるような冷たい声だが、魔女はそれに嘲笑を返した。
「ふっ、ふふっ、あははは! 今更言われなくても分かっているわ!
あたしは魔女よ。人から蔑まれ、疎まれるのは慣れている。
光ですって? そんなものは必要ないわ! あたしに必要なのは力よ」
「それならば与えた。お前は前以上の力を得ただろう」
「そう、ならその力を使って憎い奴らを絡め取り、お前の言う永劫の闇とやらへの道連れにしてやる」
男を睨みつけ言ってやると、男は口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「それは楽しみだ」
低く笑い、男は闇が晴れるように薄くなり消えた。
魔女は力の入っていた体を緩ませ、天井を見上げる。
「再び力を得た。今度こそ破滅に追いやってやる。
もうヘルムフリートの愛も優しい言葉もいらない。代わりに欲しいのは後悔と嘆き。
奴の大事なものは全て奪ってやる。国も人も、全てだ。
ふ、ふふふふ、あーはっはっはっ」
魔女は狂ったように笑う。
愛と憎しみに狂った魔女の森はこれからの事に怯えるように、不気味に静かだった。
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「兄上に求婚しました」
「ぶふっ」
王宮の奥、こじんまりした庭は王妃マクダレーナのお気に入り。
限られた人間しか立ち入ることが許されず、静かでゆったりとした時間が流れる。
そんな庭でーーマクダレーナは息子の発言に紅茶を吹き出し、激しく咳き込んでいた。
遠くにいた数人の侍女が直ぐに飛んで来る。
マクダレーナの背をさすり、零れた紅茶を拭き、乱れた茶器を整える。
一人が鏡をかざしたのでそれを見ると、結い上げた金髪にブルーグレーの瞳、穏やかに年を重ねた婦人が、赤い顔で目に涙を溜めていた。
涙を拭い深呼吸して息を整える。
その間にテーブルの上には新たな紅茶が用意され、何事もなかったかのように親子の茶会が再開された。
「大丈夫ですか? 母上」
母が咳き込んでいるというのに、悠然と向かいの椅子に座っている息子はすました顔をしている。
「わざとでしょう」
「なんのことだか」
マクダレーナが紅茶を飲むタイミングで、衝撃発言をしたに違いない息子。
(全く食えない子なんだから)
マクダレーナは心の中で嘆息した。
目の前の息子はマクダレーナが産んだ三人目の息子ジークムント。第四王子で、現王太子。
彼の兄である第一王子、第二王子は幼くして亡くなった。
そしてつい先日、マクダレーナの子ではない第三王子ーージークムントのひと月違いの兄アレクシスも、18歳の誕生日を迎えてひと月ほど経った日に儚い人となった。
第三王子アレクシスは、王家の守り神である白蛇の姫の愛し子として、王と王の愛人の間に産まれた。
神の子の証である雪の様に白い髪と美しい姿の子だったが、病弱で王宮の奥に篭っていた。
白蛇の姫の愛し子は王家に、国に祝福を与える。
そんな王太子が亡くなった事は国にとって衝撃だったが、直ぐに次の王太子ジークムントへの期待に国は沸いた。
なにせジークムントは背が高く、剣を扱う鍛えられた体は覇気に溢れる美丈夫。
癖のある焦げ茶色の髪に薄い青の瞳、精悍で整った顔立ちは賢王と誉高い現国王ヘルムフリートによく似ており、勇猛果敢で視察先に現れた魔獣を一人で倒したのはジークムントを語る上では欠かせない武勇伝だ。
そのように若干18歳ながら英傑として国内外に名を馳せている自慢の息子なのだが、どうも性格がひん曲がっているような気がしてならない。
「それで? あの子に求婚したと言ったわね。結果は?」
「断られました。弟とは結婚出来ないと言われて」
ジークムントは不満そうに顔を顰める。
いい返事を期待したマクダレーナもがっかりしたが、冷静に考えれば当たり前の返事だ。
「それはそうでしょうね。
18年兄弟として過ごしたのだもの。そう言われて当然だわ」
「当然ですか。私は納得しかねますね。
兄上はご自分が王の子ではないと、私が本当の弟ではないとだいぶ前から知っていたのでしょう?」
「ええ、アレクシスは知っていたわ。あなたはいつ気が付いたの?」
「兄上が亡くなった後ですよ。亡くなったことが茶番ではないかと気付いてからです。
確信を得たのは直接兄上に会ってからですが」
「で、その場で求婚したの」
「はい」
「随分急ね」
マクダレーナは息子のあまりの猪っぷりに嘆息した。
ジークムントはそれを否定ととったのか、薄く笑う。
「あなたも私が言っていることはあり得ないことだと思いますか?
つい先程まで兄だと思っていた人に求婚するのはおかしなことだと」
「それはどうでもいいわ」
きっぱり言うと、ジークムントは軽く目を見張った。
「あなたの言うことが他の人に変に聞こえるのでも、あなたが実際に変態でもそれはどうでもいいわ。
私が聞きたいのは求婚の意図よ。それは義務や恩返しなの? それともーー」
「私は兄上を愛しいと思っています。
これからの生涯、共にありたいと思ったから求婚したのです」
「そう、ならいいわ。私はあなたに協力するわよ」
「兄上が生きていたことを隠していた人の言葉とは思えませんね」
ジークムントは呆れたような、非難するような目を向けてくる。マクダレーナは肩を竦めた。
「仕方ないわ。あの子の望んだことだから。
でも私も陛下も折りを見て、あなたに言おうと思っていたのよ」
「一刻も早く言って欲しかったですね」
「自分で気付いたのだからいいじゃない」
「もし気付かないで、兄上が他の誰かと結婚してしまっていたらどうしてくれる気だったのですか」
言いながらだんだん目が据わってきたジークムントは、魔獣を倒すに足る凶悪な顔つきになっている。
母から見ても恐ろしいジークムントの視線を払うように、マクダレーナは扇をバサリと広げた。
「よくって、ジークムント。
私はあなたのことを応援するし、協力もするけど、一番大事なのはあの子の幸せよ。
あの子が他にいい人を見つけて、幸せになれるのならそれでもいいわ」
ジークムントは苦虫を潰した様な嫌な顔をした。
「私は嫌ですね。そんな事、想像したくもないですよ」
「あなたが嫌でもそうなったら祝福してあげなさい。
でも出来れば、あの子とまた親子として過ごしたいし、あなたの恋も実って欲しいから、あなたを最大限に応援するわ。
あの子の心をなんとか射止めなさい」
「言われなくとも」
ジークムントはニヤリと口の端を上げた。
マクダレーナの胸に一抹の不安がよぎる。
ジークムントは傍若無人で弟のカールハインツはよく泣かされているらしい。
(なにをする気かしら。ジークムントはあの子に恩があるのだから、変な真似はしないと思うけど)
今晩、王ーーヘルムフリートにその事について相談してみようと思うマクダレーナだった。
お読みいただきありがとうございます。
二年越しの続きというか本編というか。
書き終わったところまでは手直しをしつつ順次。
その後は超ゆっくり更新となります。




