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探偵は嗤わない

カンバスに宿るもの【探偵は嗤わない、第三話】

作者: 黒崎江治

探偵は嗤わない、第三話となります。

エピソードとしては独立していますが、前のエピソードにも言及する場面がありますので、第一話からお読みいただくことをお勧めいたします。

だんだんクトゥルフが関係なくなってきました。

 十月の連休前。都内にあるワンルームマンション。私、有羽詠子ありはねえいこは、自室のコーヒーテーブルの前で正座をしておりました。テーブルの上にあるのは、高校時代の友人から届いた絵ハガキです。海外旅行にでも行ったのかしら。と思いましたが、どうもそうではないようです。どうやら、個展を開くので、ぜひ友人を誘って来てください、という案内のようです。

 そういえば、彼女は美大に進学したのだったっけ、と私は当時を懐かしく思い出しておりました。ああ、懐かしき青春時代。私は陸上部のマネージャーとして、日々砂と汗にまみれた選手たちに混ざり、彼らの零コンマ一秒に一喜一憂したものです。

 そんな思い出を共有する高校時代の友人と一緒に、個展を開いた旧友を訪れるのも乙なものですが、私にはもっとよこしまな考えがありました。

 犬塚さんを、誘おうかしら。

 殿方をお誘いした経験などほぼ皆無な私は、それが「デート」というものの定義に該当するのかどうかで頭を悩ませておりました。犬塚さんをデートに誘う。考えただけで頭がくらくらします。

 しかし、普段の仕事の延長として、二人でちょっとしたプライベートな時間を過ごすという事であれば、なんだか私にもできそうな気がします。

 しかし、もし断られたら。尻の軽い女だと軽蔑されでもしたら。私は羞恥のあまり事務所にはいられないでしょう。この街から姿を消す覚悟も、おそらくは固めなければならなりません。

 できるのか、できないのか。やるのか、やらないのか。トゥービー、オアノットトゥービー。そんなこんなで葛藤しつつ、風呂に入るのも忘れて先ほどから逡巡しているのでした。落ち着きなさい、詠子。要素を一つ一つ検討していきましょう。

 まず興味について。犬塚さんはとことん無趣味な人間で、余暇には紅茶を飲むか肉体的な鍛錬をするかぐらいの乾いた私生活だったはずです。無名な画家の個展など、おそらくキュウリほどの興味しか持たないでしょう。

 しかし時間という観点から見れば、多少は希望が持てます。犬塚さんは無趣味な上に、友人も少ないので、休日に予定が入る可能性は限りなく低いからです。これは私が喫茶店に勤務していた時、仕事のない日の午前中には、必ず店を訪れていたことからも実証済みです。

 ここまでは五分です。問題となるのはおそらく。私への、興味。

うぐぐ、と私は頭を抱えます。その事実に向き合う勇気は私にはありません。であれば、なんらかの理由をねつ造するしかありません。犬塚さんを誘うのに不自然ではない、理由を。

いえ、ねつ造する必要は必ずしもないのです。もし、友人に何か深刻な悩みでもあれば、その相談に乗る、という体で犬塚さんを誘うことができます。完璧な案です。私は天才ではありますまいか。

件の友人にメールを打ちます。型通りのあいさつと、近況報告。探偵をやっているので、悩み事があれば何でも相談に乗る、とさりげなく付け加えます。メールを打ち終わったら風呂に入り、いつもより念入りに体を洗います。

三曲ほど鼻歌を歌い、風呂から上がると、友人からメールの返信が来ておりました。ひとしきり再会を喜ぶ文章。そして。

実は、少し相談したいこともあるの、と。

 やりました。目論見通りです。いや、友人が悩み事を抱えているというのに、それを喜ぶのはよくありません。しかし、これで犬塚さんを合法的に美術展に誘うことができます。もとより違法な勧誘というわけではありませんが。

 少し時間をかけて気合を入れてから、犬塚さんへのメールを作成します。推敲と一時保存を繰り返し、最終的にはどうにでもなれという気持ちで、私は送信ボタンを押しました。えいや。


   ◇


 休日の朝。都内のマンションの一室。俺は起床してジョギングを済ませ、朝食後の紅茶を飲んでいた。ソファーに腰かけながら、なんとなくつけっぱなしにしているテレビに目を遣る。十月の三連休はどうやら快晴のようで、行楽地には多くの人が訪れているらしい。時刻は午前八時。詠子君との待ち合わせは十時だから、まだ家を出るまでには余裕がある。

 俺は仕事人間というほどでないが、特に趣味を持たない。だから余暇ができると、ついそれを持て余しがちになる。職場に顔を出すのも悔しいので、大抵は家で本などを読んでいる。

 詠子君からの誘いは正直助かった。そういえば、仕事の外で顔を合わすのは初めてだろうか。もし彼女からの誘いがなければ、退屈のあまり、事務所の所長を飲みに誘っていたところだった。気の迷いというほかない。

 少し早めに家を出る。今日は天気がいいので、待ち合わせの駅まで、一駅分ほど歩いていくことにする。少し前に比べてずいぶん気温も下がり、過ごしやすい季節になった。休日の外出とはいえ、服装は普段と同じ、ワイシャツとスラックスである。基本的に、服は仕事着と礼服と部屋着ぐらいしか持っていない。多少めかしこんでいった方がいいのかもしれないが、相手が詠子君ならばそれほど気を使う必要もなかろう。

 上野駅で降りて御徒町駅まで歩く。休日だけあって人出が多い。この人々のほとんどすべてが、この世界の悍ましい真実を知らずに過ごしている。羨ましいことだ。大人が無垢な子供に戻れぬように、俺もまた戻ることのできない領域に足を踏み入れてしまった。

「犬塚さん、待ちました?」

 俺が陰気な考えに浸りながら駅で待っていると、詠子君が目の前にいた。普段あげている髪を下ろし、いつもより明るい色調の服を着ている。派手というほどではないが、やはり普段より華やかに見える。

「いつもとは少し印象が違うな」

「犬塚さんは同じすぎます」

「服はこれしか持っていない」

「今度見繕ってあげましょうか?」

 それもいいな、と思いつつ、我々は駅にほど近いギャラリーへ向かう。たしか詠子君の高校時代の友人が開いているのだったか。その友人とは当然面識がないし、芸術にもそれほど詳しいわけではない。友人の相談に一緒に乗ってほしい、と詠子君は言っていたが、それすらも俺が必要なものかどうか。ただそれらは外出の口実に過ぎない。俺を外に連れ出してくれた詠子君には、ひとまず感謝しなくては。

 人ごみをすり抜けながら、我々は例の個展が開かれているというギャラリーへの道を歩く。駅から五分ほど、小奇麗な建物の二階にそのギャラリーは在った。階段を上ると小さな受付があり、一人の女性が座っていた。

「ああ、詠子じゃない! 久しぶり」

「久しぶり。変わってないわね」

 一通りのあいさつを済ますと、詠子君は友人に俺を紹介した。友人は芦名優子あしなゆうこという名前で、都市は詠子君と同じ二十四歳。茶髪のソバージュに派手な色のメガネをかけた女性である。彼女はまじまじと俺を観察すると

「ギリシャ彫刻みたいね。渋いわぁ」

と評した。一応褒め言葉なのだろう。

それから、芦名の案内でギャラリーを回る。といっても、小さな建物のワンフロアを借りているだけなので、作品の数は二十に満たない。彼女はその一つ一つを丁寧に解説しながら、時折詠子君との思い出話に花を咲かせている。高校時代の詠子君は、中々活発な女性だったらしい。浮いた話が無いことを除けば、中々充実した青春を送っていたようだ。

話をしているだけなのも失礼なので、時折作品に目を遣る。美術には疎いが、油絵ではないこと、抽象画だということは辛うじてわかる。テーマを聞くと、「生きづらさ」だということだ。絵の内容を言語で伝えるのは困難を極めるが、もし俺が目の前の絵画に題名をつけるとしたら、「タコ足配線」という感じになるだろうか。

わかったような、わからないような顔をしながら、一時間ほどかけてギャラリーを回ったのち、三人で一緒に食事でも、という話になった。友人同士水入らずの方が良いのでは、と辞去しようとしたが、一緒に相談に乗ってほしい、ということで、俺も同席することになった。


   ◇


 昼食を摂る場所として選んだのは、ギャラリーにほど近い喫茶店でした。以前私が勤めていた喫茶店に似た内装のお店です。アンティーク風の調度はぴかぴかに磨き上げられ、程よい明るさの店内には趣味の良いジャズがかかっています。私と犬塚さんはこの店の名物であるらしいカツサンドなどを食べながら、友人の優子が本題を切り出すのを待っていました。飲み物は二人して紅茶です。

私と優子が相対し、私の隣に犬塚さんが座る形で食事は和やかに進みます。優子は美術家としてそれなりに順調なキャリアを歩んでいるようで、美大を卒業した後、絵画教室の講師をしながらいくつかのコンテストに応募し、受賞。個展を開くまでになった、とのことです。

犬塚さんは興味を失っていないか気になりましたが、彼も表面上は興味深げに話を聴いています。オフの日だからといって最低限の礼儀を欠かさない姿勢には改めて好感が持てます。

「それで、相談なんだけど」

 と、優子が切り出しました。いつも明朗な雰囲気を振りまいている彼女の表情が、少しだけ陰ります。

「私の、恋人について」

 それから、ぽつりぽつりと、彼女はここ最近の恋人の様子を語り始めます。

 その恋人の名前は、佐多大利さたたいりといいました。年齢は二十八歳。優子と同じ画家をしており、その界隈では比較的有名な新人とのことでした。彼は都内のアパートで優子と同棲をしており、二室借りたうちの一室をアトリエとして使用しつつ、日々活動しているそうです。

「その恋人が、どうかしたのか?」

 犬塚さんが紅茶のカップを口に運びながら話の先を促します。なるほど、確かに言われてみれば、ギリシャ彫刻に見えないこともありません。

「ここ何週間か、様子がおかしいの」

 彼女によれば、恋人の佐多さんは、ここ数週間、寝食を忘れて創作活動に没頭しているらしいのです。彼は比較的バランス感覚のある人間で、普段は家事の手伝いや優子とのコミュニケーションも欠かさないのだそうです。しかし、ここ最近はそれすらもほとんどなく、性格も全くの別人になってしまったかのようだ、と優子は言いました。

「似たようなことは、過去にはなかったのか?」

 犬塚さんが訊くと、優子は暗い顔をしてかぶりを振りました。

「私は二年間彼と付き合っていますが、そういったことは、ありませんでした」

 性格が変わったというよりも、全く別の人間になってしまったようだ、と優子は語ります。自分を見る目にさえ、何やら無機物を見るような冷たさを感じるのだ、と。

「なにか薬物や、宗教にハマった、ということは考えられないか?」

「考えづらいです。そもそも彼は変わって以降、ほとんど外出していないので」

 薬物や宗教にハマったとしても、寝食を忘れて創作活動に熱中する理由が不明です。そういうわけで優子にも対処がわからず途方に暮れ、私達に相談を持ちかけてきたのでした。

「彼に精神疾患の既往歴は?」

「ないと思います」

「失業、あるいはその他の挫折」

「心当たりがありません」

 何やら雲行きが怪しくなってきました。思ったよりも問題は深刻なようです。始めはせいぜい浮気か何かかと思っていましたが、どうやらそういう事でもなさそうです。私はちらりと犬塚さんを見遣ります。

……これはいけません。犬塚さんの眼が完全に仕事モードになっています。私が深刻な相談にのる分にはやぶさかではないのですが、犬塚さんの休日を消費してしまうのは少し気が引けます。いくら本人ですら持て余し気味の休日とはいえ、です。

「やっぱり、本人と一度話してみたら? 私、一緒に行くよ?」

 優子に訊いてもわからないのであれば、佐多さん本人と話をするしかありません。私はあまり機転が利く方ではないので、色々と勘繰るよりも、そういう愚直な方法しか思い浮かばないのです。

「……うん」

 優子が不安げに頷きます。佐多さんは今日もおそらくアトリエに詰めているだろう、ということで、早速二人のアパートへ向かうことにしました。犬塚さんは当然のように付いてきます。いえ、私としては嬉しいし心強いのですが。


 件のアパートは、ギャラリーからそう遠くないところにありました。2Kの部屋を二つ借り、一つを居住スペースとして、もう一つをアトリエとして使っているようです。

 まず私達は、居住スペースとして借りている部屋の方に通されます。画家の部屋というからには、どんな混沌としたインテリアで飾られているのだろう、と思いましたが、意外にもそんなことは無く、適度な生活感にあふれた快適そうな部屋でした。バランス感覚あふれる人間、という佐多さんの評価が思い起こされます。

ここには現在私達しかおらず、佐多さんはおそらく隣のアトリエに詰めているのだろうと思われました。

「一応、たまに食事は届けるんだけど……。なんだか最近は、一人暮らしをしているみたい」

 と、優子が寂しげに呟きます。友人として、このような状態を放っておくわけにはいきません。とりあえず犬塚さんはここで待機をしてもらうことにして、私と優子は、佐多さんと話をすべく、隣のアトリエに向かいました。

 アトリエとして使われている部屋は、もう一つの部屋に比べ、圧倒的に雑然としておりました。玄関から見える優子の占有スペースは、画材やキャンバスなどが散乱しており、入ってみると、絵具や塗料の化学的な臭いが鼻を突きます。

佐多さんの部屋は、優子の部屋の隣にありました。耳を澄ますと、何やら作業をしているらしき音がわずかに聞こえてきます。優子は少しだけ逡巡した後、ドアを二回ノックしました。

「大利さん。ちょっといい?」

 部屋の内部でしていた物音が止みます。それからたっぷり二十秒は待ったでしょうか。ゆっくりとアトリエのドアが開き、長身の男性が姿を現しました。

「何だ」

 佐多大利さんは、メガネを掛けた、やや神経質そうな風貌をした方でした。身長は百八十センチ弱というところでしょうか。地味な色のカーディガンにチノパンという服装は、二十八という年齢以上に、彼を大人びて見せています。しかし私に何よりも強い印象を与えたのは、その瞳でした。無機物を見るような目、と優子は評しましたが、まさにその通り。優子はおろか、見知らぬ人であるはずの私にさえ、路傍の石ほどの興味を示したようには見えません。しかしその瞳の奥には、確かな知性と強固な意志が宿っているように見えました。生活の乱れにより若干憔悴しているような様子はありますが、精神の混乱はあまり見られないようです。

「最近の大利さん。やっぱり変だよ。私友達に相談したんだ。一度、話をしましょう?」

「何を言っている? 俺は正常だ」

 その声は苛立ちも怒りも含まず、まるで現在の時刻を告げるような、厳然たる平静さを保っています。ある意味、とりつく島がありません。

「最近、ずっとこもりっきりで何を描いているの? 食事もちゃんと摂ってないじゃない」

「俺は画家だから、絵を描いている。食事は最低限摂っている」

 全くの他人でも、もう少し情のこもったやり取りをするのではないでしょうか、あまりに無機質な言葉に、私は口を挟むこともできずに傍観するのみです。

「ではお望み通り、食事に行ってくる」

 しばしの沈黙の後、佐多さんは私達を押しのけるように部屋を出て、玄関へ向かいます。

「大利さん」

 優子はその背に声を掛けましたが、彼は一顧だにしません。優子はそのままうつむいてしまいました。私はそんな友人を、ただ見つめることしかできませんでした。

 

   ◇


「なるほど。話もできないのでは困ったな」

 部屋で待つことしばし。暇を持て余し、置いてあった昆虫図鑑など眺めていると、詠子君達が肩を落として戻ってきた。事の次第を訊くと、やはり話はできなかったらしい。詠子君によれば、佐多という人物に関しても、なにやら妙な印象を持ったとのことだ。

「そんな感じで、お話は中々できそうにないです」

 詠子君の友人の芦名も、すっかり肩を落としてしまっている。

「ふむ。本人から聴取ができないならば」

 聞くところによると、彼は今昼食のため外出しているそうだ、三十分は戻ってこないだろう。

「物的証拠を探すとしよう」

 俺はソファーから立ち上がり、すたすたと玄関へ向かった。


 画家のアトリエというものに入るのは初めてなので、俺はごく抽象的なイメージしか持っていなかった、しかし佐多氏のアトリエは、明らかに異様な雰囲気を放っていた。

 散乱した画材、キャンバス。このあたりはよい、それから描きかけては打ち捨てられた絵画、これ自体も、不自然ではない。異彩を放っていたのは、その絵に描かれていたもの。

 あえて形容するならば、肉の渦。あるいは、沸き立つ臓物。その悍ましいモチーフから、無数の、太い肉の触手が生えている。以前に廃墟で遭遇した、あの蛆の塊を思い起こさせるような、生理的嫌悪を感じる。しかし何より俺を動揺させたのは、それが、あろうことか、ある種の神々しさを放っているという事だった。この絵のモチーフを崇め、讃えるような筆づかい。美術の素人に対してですら、直観的に理解させるような圧倒的メッセージ。

「これは……」

 俺はあたりを見回す。その醜い腫瘍のようなモチーフが描かれた絵画が、あちこちに散乱していた。試行錯誤を繰り返し、完全を目指すように、何度も何度も同じモチーフが描かれている。

「気持ち悪い……」

 詠子君も思わず口に出してしまっている。趣味が悪いという次元ではない。こんなものは、断じて美術作品とは思いたくはなかった。

「彼の作風はこんなんじゃないんです。今までの作品とは、似ても似つかない。ここ最近はこんな絵ばかりを描いて……」

 芦名は自らを抱くように腕を組み、吐き捨てるように呟いた。この絵が、恋人を変えた元凶だ、とでも言うように。

 俺は改めて、部屋の中を見回す。打ち捨てられた無数の絵画、その中に一つ、イーゼルに立てかけられたものがあった。こちらはまだ完成していないようだ。モチーフは相変わらず同じ。サイズは縦四十センチ強、横四十センチ弱。人が両手で抱えられるくらいである。描かれている肉の渦をまじまじと見ると、気分が悪くなってくる。思わず、手近な椅子か何かで打ち壊してしまいたい衝動に駆られる。

「あ、この絵……」

 未完成の絵画の前でもやもやしていると、詠子君が何かに気づいたようだ。部屋の隅に立てかけられた一枚の絵画をしげしげと観察している。

「この絵も佐多さんが?」

「いえ、この絵は確か、臼井先生からもらった絵のはずです」

 と、芦名は答えた。佐多氏は以前、臼井という美大の教授に師事していたことがあり、現在も交流を続けているのだという。詠子君が見た絵は、その臼井教授から数週間前に送られたものだそうだ。

「数週間前というと、佐多さんの様子が変になったのと同時期?」

 訊きながら、俺は詠子君が見つけた絵画をしげしげと眺める。モチーフはほぼ同一のようだが、微妙にタッチが異なっている。禍々しい印象を受けるのは、佐多氏の絵画と変わりない。

「そういえば、そうかもしれません」

 佐多氏が変わったのと同時期に送られた絵、そして以前から関係の合った美大の教授。その人物が何かを知っているかもしれない。どのみち、これ以上部屋に長居しては佐多氏と鉢合わせる危険が高いだろう。我々は一旦隣室に戻り、今後の方針を探ることにした。


「臼井先生、というのは?」

 我々はアトリエから隣室に戻り、ソファーに腰かけて話をしていた。数週間前、佐多氏に絵を贈ったという臼井という人物について話を訊くためである。

「臼井先生は、大利さんと私が通っていた美大の教授さんです。美術界ではかなり有名で、私も面識はあります。年は六十過ぎ、感じのいい方です」

「その教授さんは、よく佐多さんに絵を贈っていたの?」

 詠子君が訊く。仮に画家同士で絵を贈ることがあったとしても、あんな悍ましい絵を他人に送る神経は俺には分からない。

「いいえ。多分、今回が初めてだったんじゃないかしら」

 で、あれば。やはり絵を贈られたのと同じタイミングで、何かあったと考える方が自然だろう。絵自体がきっかけだったのか。それとも絵を贈る際に、教授から何らかの接触があったのか。

 休暇は限られている。行動は早い方がいい。佐多氏との共通の知人であるというその教授に、早速芦名からアポイントを取ってもらった。一時間後に教授の自宅で会う約束を取り付けた我々は、しばし物思いに耽ってからアパートを出立した。


   ◇


 優子のアパートから電車で二十分ほど、私達は世田谷区の一軒家にやってきました。ここが佐多氏に絵を贈ったという、臼井教授の自宅だそうです。美大の教授らしく非常に個性的なお住まい、というわけでもなく、ごくごく一般的な、やや広めの二階建て住宅です。クリーム色の外壁や小さな庭はよく手入れされ、花壇には薄紫色のコスモスが上品な花をつけています。

 インターホンを押し、教授を待ちます。返事があった後しばらくして、玄関のドアが開きました。

「ああ、芦名君か。いらっしゃい」

 臼井教授は感じのいい方、という話を優子はしていました。ただ、私の感覚だけで申し上げるならば、目の前の老画家の見た目から、感じのいい印象を受ける人は少ないでしょう。

 頬はこけ、土気色の肌には白色の混じった無精ひげが生えています。落ちくぼんだ眼窩の底では、濁った瞳が猜疑の光を放っており、見る人間に威圧感を与えます。しかしそれ以上にこの老画家は、精神的に摩耗しているように感じられました。

「あの、私達は……」

 自己紹介をしようとしますが、臼井教授はそれを遮ります。

「芦名君から聞いている。なんでも探偵の方だとか」

 そう言いながら、臼井教授は私達を中へと促します。話してみると、それほど悪い方ではなさそうです。失礼します、と声をかけてから、私は室内に上がり、案内されるまま応接室へと向かいます。

「芦名さんより聞き及んでいるかとは思いますが、私ども、こういうものです」

 犬塚さんが臼井教授に名刺を差し出します。私もお財布に一枚だけ入っていた名刺を教授に差し出しました。臼井教授は胸ポケットに入れていた銀縁メガネを掛け、二枚の名刺をしげしげと眺めてから、私達をソファーに促します。

「さて、佐多君の事でしたな」

 促されるまま腰かけた私達に相対した教授は、名刺を机の上に置いて穏やかな声で切り出しました。

「はい。ここ数週間。ここの優子の……、いえ、芦名さんの恋人である佐多さんの様子がおかしいことは、聞き及んでいますでしょうか」

 中々話し出せない優子の代わりに、私が口火を切ります。臼井教授ははっとした表情をしたのち、顎に手を当ててしばし考え込みます。

「いや、聞いていない、が」

「が?」

 煮え切らない答え方に、犬塚さんが身を乗り出します。声のトーンが犯人を詰問するときのそれです。犬塚さん、少し抑えて。

「……もしや、寝食を忘れて絵を描いているとか?」

「なにか知っているんですかッ?」

 今度は優子が身を乗り出します。無理もありません。事情を知らないはずの臼井教授が、恋人の様子を言い当てたのですから。様子を聞き及んでいないというのは嘘なのでありましょうか? いえ、それにしては杜撰すぎます。嘘をつくメリットもあるとは思えません。

 優子の反応に、事情をおおよそ察したのでしょう。両手で顔を覆い、しばし悩むようなそぶりを見せた後、おもむろにこう切り出しました。

「……君たちは、呪いというものを信じるかね」

 犬塚さんと私はびくり、と肩を震わせます。『またか』と。

「呪い、ですか?」

 片や優子はきょとん、とした顔で言葉を繰り返します。呪いの手紙、呪いのビデオ。そういったくだらない都市伝説でしか聞かないような単語を、どうしてこの場で聞くことになるのか。そんな声の調子です。

「呪い、というのは正確ではない。おそらくはもっと、生命に近いもの」

 臼井教授の瞳が奇妙な熱を帯び始めます。

「に、二か月ほど前、米国の友人から荷物が届いた。一枚の絵画だ」

 臼井教授は私達の反応などお構いなしに続けます。今まで隠していた、誰にも言えなかった秘密を打ち明けるように。

「その絵を見た瞬間。私は天啓を受けたと思った。強烈なインスピレーションを受けて呆然自失となったのだと。だが違った。その(・・)瞬間(・・)()は(・)乗っ取られた(・・・・・・)の(・)だ(・)」

 老画家の瞳は、話す内容も相まって、すでに狂気すら帯びているように感じられました。隣の優子などは教授の事を完全に狂人だと思っているでしょう。

ですが私達は直感的に感じました。私達は、おそらく教授と同種の経験をしたことがあるのです。人知を超えた経験。正気の埒外、悍ましい領域での出来事。

「乗っ取られた、ですか」

 私が打った相槌も聞いているのかいないのか、教授は熱に浮かされたように話を続けます。

「そこからの記憶がはっきりしないのだ。ただ、描いて、描いて、描き続けたことだけは覚えている。送られてきた絵画は素晴らしかったが、同時にどこか不完全なような気もして、それを完璧なものにするために、私は、私は……」

 そこまで話して息が切れたのか、臼井教授は浮かせた腰をすとんと落として、深く息を突きました。

「わ、私、お茶を入れてきます」

 優子が席を立つと、応接間に私達と教授が残されました。臼井教授はソファーに深く腰掛けて、私の眼をまっすぐ見据えて無言で問います。君は私を狂人だと思うかね? と。

 しばしの沈黙。犬塚さんはこういう雰囲気に慣れているのでしょう。落ち着き払っています。私などはそわそわして、手を揉んだり擦ったりしておりました。

 そのうちに、優子が茶を入れたカップを持って戻ってきました。各人の前にことりことりと置いて、再びソファーに座ります。臼井教授は一口茶を飲んでのどを潤すと、再び話し始めました。

 「そう、そしてその数週間後、私はその絵を完成させた。あれは、私の生涯の内で、最高の傑作と言っていい。それから、誰かにこれを見せなくては、と強く思った。凡百の評論家ではない。この芸術を見抜ける、この素晴らしい絵を理解できるような誰かに。真っ先に思い付いたのは、かつての教え子の、佐多君だった」

「それで、佐多さんに絵を見せた?」

 私はカップから茶を一口飲んでから尋ねました。香りのよい日本茶でした。

「そう、その辺りは少しはっきり覚えている。喜び勇んで彼に絵を見せに行った。直接ね」

「それから?」

 犬塚さんが鋭い目で訊きます

「それから、この通りさ」

 臼井教授は力なく肩を竦めました。話を終えた彼は、出会った時よりもさらに老け込んだように見えました。

「気が抜けたようになってしまった。医者に言ったら、うつ状態だと言われたよ」

「そう、ですか……」

 優子はすっかり圧倒されてしまったようです。恋人が変わった原因を教えてもらえると思ったのに、荒唐無稽な話を聞かされて、すっかり困り果てている様子がうかがえます。

「そして、呪いが佐多さんに移った……」

 今までの話を聞く限り、そういう趣旨のように思えます。私がそう言って臼井教授の方を窺うと、彼は重々しく頷きました。

「芦名君の話を聞く限り、そのように思える。私に絵を贈ってよこした友人も、今はアメリカの州立病院に入院しているようだし、似たような状態だったのかも知れん……信じるかね?」

 呪いなんてものが実際に存在し、ましてそれが絵を介して他人に伝染する。以前の私ならとても信じなかったでしょう。くだらない都市伝説か、気のふれた老人の戯言として一笑に付したでしょう。ですが、今の私にはそれができません。

 ちらりと犬塚さんを横目で見ます。彼もまた神妙な顔で教授と相対していました。

「もう一度、確認させてほしい」

 犬塚さんが口を開きました。

「『乗っ取られた』のは、絵を見た瞬間?」

「そうだ」

「その間、記憶はあったんですね?」

「ああ、だが、ぼんやりとしたものだった。まるで別の人格が体を動かしているような」

「それが解けたのはいつです」

「絵をかき上げた瞬間……。いや、完全に我に返ったのは、佐多君に絵を見せた瞬間、だったと思う」

「ふむ……」

 矢継ぎ早に質問すると、犬塚さんはしばし黙考します。臼井教授も、話すことは話したというように、ソファーにぐったりともたれ掛っています。

「あの、ありがとうございました」

 優子が沈黙に耐えかねたように、会談に終止符を打ちました。まだ聞かなくてはならない事があるような気がしましたが、私もすこし話に圧倒されてしまったようで、うまく言葉にできません。私達は臼井教授に丁寧に礼を言い、その自宅を去ることにしました。外に出ると、日はすでに傾いています。

「ごめんね。なんだか妙な話になってきちゃって」

 駅への帰り道で、優子が謝ります。妙な話といえば妙な話なのですが、優子と私達の間で、なんとなく『妙』のニュアンスがずれているような気がしないでもありません。そのまま言葉少なに駅に向かい、その日は解散しました。


   ◇


 狭い浴室に響く水音。シャワーヘッドから放たれて頭頂部から滴る水滴は、脂肪の少ない身体を滑り落ちて床に水たまりを作る。目の前の白いタイルを眺めるともなく眺めながら、俺は今日会った出来事について考えていた。

 詠子君の友人。その豹変した恋人。その豹変と同時期に贈られた絵画。それを描いた老画家。

 そして『呪い』

 バカバカしいと一笑に付すには、俺はいささか特異な経験をし過ぎた。さりとて頭から信じるほど、まだ俺は正気を踏み外してはいない。

 しかし、予感があった。放っておけば、厄介なことになる。たとえ仕事とは関係ない、プライベートな頼みごとであったとしても、そのまま脇へ置いておくには、あまりに不穏な出来事だ。

 『どこか不完全な気がした』 米国の友人から送られてきたという絵画を、臼井教授はそう評した。それを完全なものにするために絵を描いたのだ、とも。人の精神を侵す呪いの絵画。佐多氏のアトリエで見た未完成品からは、不愉快なほどの生命感が感じられた。不完全とはどういう事か? もし、それが完全になったならば?

 シャワーを止め、バスタオルで体を拭く。浴室を出て、服を身に着け、ソファーに腰かける。目の前のコーヒーテーブルには携帯電話が置いてあった。まだそんな型を使っているんですか、と詠子君にバカにされた事がある、古い型だ。

『呪い』 という言葉について、しばし考える。呪いのビデオ、不幸の手紙。そんな都市伝説が子供のころに流行ったか。当時はそういうものを鼻で笑うような生意気な子供だったから、都市伝説自体についてもそれほど詳しくはない。本物の呪いについてなど、なおさら。

 そういえば、とふと思い至る。テーブルの上に置いてあった名刺入れから一枚の名刺を取り出し、その番号を携帯電話でブッシュする。知らないことは仕方がない。ならば、知っていそうな人物に聞けばいいのだ。


 数回のコール音の後、目的の人物が電話口に出た。以前依頼を受けた、怪しげな作家。

『もしもし、藤です』

『犬塚だ。今、平気か?』

『あら、本当に掛けてきてくれるなんて。デートのお誘い?』

『予定は開いているが、今日はそういう用件じゃない。訊きたいことがある』

『そう、残念』

 相変わらず、感情の読めないトーンで彼女はそう言った。

『呪い、というものを聞いたことは?』

『また変なことに巻き込まれたの?』

『前回のはアンタが原因だろう』

『ふふ、そうね。ごめんなさい』

 当然、謝意は感じられない。俺としても別段、根に持っているわけでは無いが。

『まあ、変なことに巻き込まれたわけだ』

『詳しいことを聞かないと何とも言えないけれど。そういう人知を超えたものが存在する。というのは、この間体験していただいた通りよ』

 人知を超えたもの。魔術、呪い。たった一か月前までは、俺も常識的な世界の住人だった。しかし、あの山中の廃墟での経験によって、誘われた夢の中での体験によって、自分の知っていた世界が全てではないと、嫌というほど気付かされた。

戻らぬ精神の安穏への郷愁は置いておいて、俺は今回芦名から持ち込まれた相談、見聞きした佐多氏の印象、臼井教授との会談について彼女に話した。長い説明の間、彼女は電話口から離れず、熱心な相槌と共に、辛抱強く聴いてくれた。

『なるほど、なるほど。確かにそれは魔術というよりも、呪いね』

 一通り説明を聞いたのち、彼女は納得したようにそう言った。

『その二つの違いが判らない。説明してくれないか』

『呪いというのも不正確かもしれないけれど……。ウィルスは解るわよね?』

『さすがにそれくらいは知っている』

『それと似たようなものと考えてくれていいわ。自分を複製して、別の宿主に感染させる。その宿主の中で複製して、また感染させる。無機的なウィルス。解説は省くけど、ミームという言葉もあるわね。そういったものに近いと思う』

『だが、今回のものはインフルエンザとは違うようだ。話を聞く限り、絵を媒介して、一人ずつにしか感染しないように思える。そして何より、他人に移せば呪いは消える』

『それが現状、その呪いの弱点でしょうね。けど、ウィルス同様、突然変異するという事も当然ありうる。もし、優れた画家以外にも感染するようになったら? 一度に何人にも感染するようになったら?』

『そうなれば、俺に採る策はないな』

『だからもし解決したいならば、早めに決着をつけることね』

『分かった。アドバイスありがとう。恩に着る』

『食事一回』

『あ?』

『相談料は食事一回』

『……考えておこう』

 電話を切り、ソファーに深々と腰を沈める。なぜ俺は、この件にこれほど深入りしているのだろう。俺が狂気を引き寄せるのと同じく、俺もまた狂気に引き寄せられているのか。

 しかし悩んでも始まらない。俺は目の前の厄介ごとを片付けていくだけだ。今までもそうしてきたし、それはこれからも変わらない。

 

   ◇


 三連休の二日目、午前十時。私は散歩と買い物を兼ねて、忘れた私物を事務所に取りに来ておりました。私と犬塚さんはカレンダー通りのお休みをいただいているのですが、休日に舞い込む依頼も多く、事務所には数人の所員が立ち働いています。

 ロッカーから私物を回収して事務所の入ったビルの外に出ると、入り口に一匹の黒猫が座っていました。

「あ、うーたん」

 その黒猫はうーたんといい、ある雨の日にこの事務所前で行き倒れていたのを私が介抱してからというもの、この近辺に住み着いているのでした。つややかな毛並みと、哲学者然とした落ち着いた佇まいをした立派な雄猫です。私はその誇り高い姿に相応しい、アウレリウスという古代の哲学者と同じ名前を与えたのですが、長くて呼びにくいので普段は単純にうーたんと呼んでいるのです。

 私は普段から持ち歩いている猫用のカリカリした餌を取り出すと、うーたんに与えました。彼は許可を請うように少し私を見つめた後、カリカリを食べ始めました。彼は時折与えられるこのささやかな報酬と引き換えに、事務所の警備を担ってくれているのです。

 私は近くの生垣のレンガに腰かけ、うーたんを膝に乗せてしばし日向ぼっこをします。秋の陽光に当たりながらしばしの考え事。優子の相談についてです。

絵画と呪い。豹変した恋人。捨て置くにはあまりに気がかりが多すぎます。しかし私は祈祷師ではありませんから、人に掛けられた呪いを解くことはできません。

絵を見ることで呪われ、呪われた人はまた絵を描く。その絵を見た人間はまた呪われ……。呪われたことによるデメリットが、あの気色悪い絵を量産すること以外にあるのかどうか謎ですが、臼井教授の憔悴っぷりを見るに、あまり放置してよいことだとは思えません。

「どうすればいいと思う? うーたん」

 うーたんはにゃお、と鳴いて私の膝から降り、そのまますたすたとどこかへ行ってしまいました。

 私はぽつん、と事務所前の生垣に取り残されます。やはりもう一度優子と会って今後の方策を話し合ってみようかしら、などと考えていると、うーたんが何やら茶色いものを咥えて戻ってきました。そしてそれをぽとり、と私の足元に置きます。

「にゃう」

 よく見ると、それはセミの抜け殻です。季節は十月、もはや蝉は鳴いておらず、夏に採取したものを取っておいたのだと思われます。

「くれるの?」

 落ち込んでいる私を見かねて、自分の宝物をプレゼントしてくれたのでしょうか。中々いじらしい行為です。

 うーたんは、がんばれよ、とでも言いたげにもう一度鳴くと、てくてくと事務所の裏手方向に歩いて行ってしまいました。私はうーたんがくれたセミの抜け殻を眺めながら、セミの一生などに思いをはせます。

 セミの幼虫は七年間地中で過ごし、その後地上に出て成虫となります。成虫になってからの寿命は一週間。その限られた期間に、活発な子供や捕食者から逃れて子孫を残し、生命をつながなければなりません。地中は安全なのでしょうが、危険を冒して地上に出なければ子孫を残せません。大変ご苦労なことです。

 そこまで考えたところで、ふと思いつきます。今回の呪いも、同じようなものではないか、と。

 すなわち現在佐多さんの内にある呪いは地中の幼虫です。人体に守られ、人として法律に守られているため、私達には手出しができません。しかしいったん外に出れば。他者に伝染するための媒体として、絵画の姿を取ったならば。セミの成虫を虫取り網で捕えるがごとく、私達にも対処が可能なのではないでしょうか。佐多さんが臼井教授と同じ状態になってしまうのは仕方ないとして、それ以降の被害を無くすことはできるのではないでしょうか。

 そこまで考えたところで、私の携帯電話が鳴りました。優子からメールが来たようです。

『例の絵が完成しそう』

 と、それだけ書かれたメール。彼女なりに不安でいっぱいなのでしょう。簡素な文面からそれが伝わってきます。

 具体的な方策はまだ思い浮かびませんが、とりあえず彼女のそばにいてあげるのが大事だろうと思い、私は再び彼女の家を訪れることにしました。一応犬塚さんに連絡を入れて、私は駅前でケーキなどを買いつつ、優子の元へ急ぎます。


   ◇


 三連休二日目。昼食を作り、ふと携帯を見ると、詠子君からメールが来ていることに気が付いた。芦名の元へ再び向かうらしい。個人的に思う事もあるので、俺も同席することにした。昨日藤女史に聞いたことも、話した方がよかろう。

 俺は手早く昼食を済ませ、身づくろいをして玄関を出た。

 道すがら、再び考える。絵を媒介として人に移っていく呪い。絵を破壊すればよいのだろうが、問題は佐多氏が簡単にそれをさせるか、どうか。

相手が怪物ならば打ち倒せばよい。しかし相手は人間であり、その所有物だ。人間に守られ、法律に守られている。実に巧妙なものだ。少なくとも、芦名の全面的な協力は不可欠になる。

まあ、今から考え過ぎても仕方があるまい。俺は駅前で手土産のケーキなどを買いつつ、芦名の住むアパートへと向かうことにした。


三十分ほどで芦名のアパートへ着いた。招かれて玄関から入ると詠子君がすでにいて、自ら買ってきたのであろう、ケーキをぱくついていた。俺は余分に買ってきてしまったケーキを持ってしばし途方に暮れた後、促されるままソファーに座った。

「……と、いうわけで、早期の対応が必要と、俺は見ている」

 藤女史からのアドバイスを踏まえて俺は自分自身の見解を述べる。呪いを放置しておけば、臼井教授や佐多氏のような被害者を増やすだろう。そして、その呪い自身、今後強力に変化する可能性がある、と。

「それには私も同感です。その為には、絵画の完成を待ってそれをどうにかするのが良いと思うのです」

 と、詠子君も彼女なりに考えていたらしい。二つ目のケーキに手を付けつつ言う。

「あの、それなんですが……」

 芦名がやにわに口を挟む。彼女は言いづらそうに少しもじもじした後、リビングに置いてあるパソコンに向かって何やら操作し始めた。

 しばらくして彼女が開いたのは、メールソフトの送信画面であった。

「あのあと気になって、メールの履歴を覗いてみました。そうしたら、この女性と最近、頻繁にやり取りしていることが分かったんです」

 俺と詠子君で画面を両側から覗き込む。メールの送信欄には、江川有紗、とあった。

「この江川さん、ってのは?」

 俺が尋ねると、芦名は少し思い出すようなしぐさをした後にこう言った。

「最近雑誌か何かで見た記憶があります。確か、画家さんだったかと」

 彼女はさらに画面を操作して、メールを開いていく。今朝、佐多氏から江川女史に送信されたメールが、送信ボックスに残っていた。

『見せたいものがある』

 これだ、と俺は直感した。佐多氏の絵は完成間近であり、佐多氏の内にある呪いは、新たな宿主を探しているのだ。その宿主は、彼の者をより完全に近づけられるだけの美術的素養を持った人間である必要がある。そして、呪いの伝達には、媒介として完成した絵が必要だ。見せたいものというのは、間違いなくその絵の事だろう。

「その江川さんの住所は分からないか?」

 と、俺が促すと、芦名はやけに手慣れた様子でメールを開いていく。恋人のプライベートを侵犯するのは、やはり女性のたしなみなのだろうか。

「以前送られてきた住所がありました。これです」

 出てきた住所は都内だ。意外に近い。

 江川有紗。おそらくは次の宿主となるのだろう。彼女への感染はなるべく防ぎたい。我々は現在までの情報を総合し、カンバスに宿る不気味な呪いを破棄するための方策を練ることにした。


   ◇


 さて、私は今優子のアパートの前にいます。正確に言うと、アパート付近の物陰に潜んでいます。佐多氏の動向を見張るために、交代制の張り込み中なのです。

 まだ助手とはいえ、探偵の仕事はその大半が素行調査と浮気調査。尾行と張り込み、それから盗撮はお手の物です。とはいえ普段は犬塚さんが一緒なので、一人での張り込みは初めてです。む、アパートに動きが。

 一五〇〇(ひとごーまるまる)。監視対象がアパートから出るのを確認。手にはA3大の梱包物を所持しています。対象物にほぼ間違いないでしょう。携帯電話で犬塚さんに連絡を入れ、追跡を開始します。私は佐多氏に面が割れているので、万が一にも尾行を気付かれるわけにはまいりません。

 監視対象は真っ直ぐ駅へ向かいます。休日なので人出が多いですが、対象の身長が高いので失尾の危険はそれほどありません。人ごみで身を隠すことが出来てむしろ好都合です。

 対象を見失わないように改札を通り、電車に乗ります。やはり、事前に知った江川さんという方の住所に向かっているようです。

 犬塚さんと優子はと言いますと、ただ今別行動中です。優子は江川さん宅に先行し、佐多氏から受け取った絵画を見ずに破棄してくれるよう説得中のはずです。ただ知人の恋人が相手とはいえ、説得に応じてくれる可能性は高くありません。なので、説得の助けとして、犬塚さんが臼井教授に協力を要請中です。

 この連係プレー。犬塚さんの采配には無駄がありません。

 おっと、監視対象が電車から降ります。ここから江川さんの住むマンションまで徒歩十五分ほどですが、優子は無事説得に成功しているでしょうか。私としては、今は信じるしかありません。

 現在時刻一五四五(ひとごーよんごー)。現場到着はあと十五分後ぐらいと思われます。私は犬塚さんと優子に連絡を入れます。ここからは住宅街になるため、日中の尾行は発覚の危険が高いと思われます。江川さんの自宅まで監視するのが最良ではあるのですが、尾行が発覚して訪問を中止されては元も子もありません。私の任務はここまでです。


   ◇


 江川女子説得のため、臼井教授に御足労願う。いくら友人の恋人とはいえ、友人から送られた絵画を見ずに廃棄してくれ、という依頼は唐突に過ぎる。快諾してくれる可能性は低い。だから臼井教授の協力が要る、そう俺は考えた。ただ、呪いについて説明するのは論外だ。

 理由を話すと、臼井教授は協力に同意してくれた。時刻は午後二時半。今頃、詠子君が佐多氏の動向を監視しているところだろう。

 そして、江川女史の自宅に到着する。小奇麗なマンションの一室である。すると、芦名と女史が玄関で押し問答をしている最中だった、どうやら説得に失敗し、芦名が最後のあがきをしているらしい。なんとかギリギリ間に合ったようだ。

「すみませんが」

 と、玄関先の二人に声をかける。二人はまず俺に目を遣り、背後の臼井教授に目を遣った。美術界の大御所だという臼井教授の威光が通じるかどうかが、この作戦最大の賭けだったが、江川女史の驚く表情を見て俺は安堵した。彼女は臼井教授を知っている。

「あなたが江川さんですが」

 臼井教授がゆっくりと江川女史に話しかける。時刻は午後三時五分。先ほど詠子君より、佐多氏がアパートを出発したとの報が入った。時間的猶予はほとんどない。

「私から、あなたにお願いしたいことがある」

 臼井教授が丁寧な物腰で江川女史に話す。相変わらずその目は落ちくぼみ、表情は生気を感じさせない。

「詳しくは、中で」

 江川女史は怪訝な表情をしながらも、我々を中に招き入れてくれた。

 マンションの室内には上品な調度が多すぎず配置されており、持ち主の美的センスをうかがわせた。目の前の江川女史は三十前後であろうか、落ち着いた雰囲気の黒髪の女性である。

「それで、お願いというのは、芦名さんがおっしゃっていたのと同様の事ですか?」

 と、江川女史が問う。出された紅茶はこれまた上品な香りのセイロンティーだ。だが今の我々には紅茶の香りを楽しんでいる時間的余裕はない。臼井教授に口火を切るよう、無言で急かす。

「……あなたは、呪いというものを信じますか」

 ああ、言ってしまった。

 いや、俺にも落ち度はある。臼井教授には事情の説明に協力してくれと言ったきりで、詳しい打ち合わせをする時間がなかった。俺は恐る恐る江川女史の表情を観察する。

 マズイ。思い切り眉をひそめている。

 しかし、話し始めた臼井教授を止めることはできない。彼はまたしても熱に浮かされたように話続け、やがて力尽きるとぐったりとソファーにもたれ掛った。

 江川女史はひとしきり考えるような様子を見せた後、幾度か口を開きかけては何かを言いかける。信じられないのは当然。困惑するのも当たり前だろう。しかし問題は呪いの存在を信じさせることではない。彼女が佐多氏の絵を見るのを阻止することだ。

「……いいでしょう」

 しばしの沈黙の後、江川女史はそう口にした。

「佐多さんの様子がおかしいというのはどうやら本当のようですし、絵を破棄することについても、特段私の方に不都合はありません」

 説得は成功した。俺は胸をなでおろし、芦名にちらりと視線を遣る。彼女の顔にも安堵が浮かんでいる。時刻は午後三時半を回っていた。


 俺、芦名、そして臼井教授は、江川女史宅の寝室で顔を突き合わせ、息をひそめていた。詠子君からの連絡によれば、そろそろ佐多氏が訪問してくるはずだ。彼がどんな態度で江川女史に接するかはわからないが、彼女には佐多氏の絵を決して見ないように言い含めておいた。

 しばし緊張に満ちた沈黙。それを打ち破るように、チャイムが響いた。江川女史が玄関に向かう音がする。男性の声。しばらくの問答。江川女史のやや強い口調。再びの沈黙。断片的な声と物音が緊張と不安を増幅させる。

 しばらくして、寝室のドアが叩かれる。江川女史が入ってきて、カンバスが入っているらしき包装を我々の足元に置いた。

「受け取りました。これがあなた達の言っていた絵画ですか?」

 事の重大性を理解していないような口調で江川女史が言う。それは無理からぬことであるが、我々としては少し肝の冷える思いがした。

「ありがとうございます。助かりました」

 実は助かったのは貴女なのですよ、という態度は出さずに礼を言う。江川女史は、そういえばお前は誰なのだ、という視線を俺に向けるが、無視する。時間のない中で説明すれば混乱させ、不信感を増すだけだ。

 とにかく絵画が他人の手に渡ることを阻止した。我々は丁寧に辞去し、解散する。詠子君にも報告の連絡を入れておいた。この絵画は念を入れて破壊した上で、焼き芋用の燃料にでもするとしよう。


   ◇


 三連休最終日の夕暮れ。私は自宅の一室で、一着のポロシャツを前に正座しておりました。服装に無頓着な犬塚さんにプレゼントするために、わざわざ買い求めたのです。名目としては、友人の相談に乗ってもらったお礼です。犬塚さんの趣味に合うよう、なるべく地味、かつ上品な柄を選んだつもりですが、果たして気に入ってもらえるかどうか。

 そうそう、優子の恋人の佐多さんですが、その後奇妙なふるまいはしなくなったそうです。ただ精神の衰弱が著しく、通院しながら自宅で療養中、とのことでした。心配ではありますが、これを機に優子との仲を一層深めてもらえればと願う事しきりです。

 そんなことを考えていると、机の上に置いてある携帯電話が鳴りました。表示を見ると、優子からのようです。

 今度は私の恋の相談にでも乗ってもらおうか、などと考えながら私が通話に出ますと、彼女から衝撃の事実を知らされました。

 江川さんが失踪した、と。

 さらに優子はこう続けます。江川さんの失踪を不審に思い、何か手がかりはないかとメールの送信履歴を見たところ、件の絵画、その画像ファイルが、江川さん宛に送られていたのです。

 追い打ちをかけるように、優子は続けます。今日、一通の手紙が届いた、と。そしてそこにはこう書いてあったようです。江川さんのものとは思えぬ歪な筆跡で、


 『探偵たちによろしく』


 ああ、何という事でしょう。あの呪いを、うまく消滅させたと思っていたのに、解決したと思っていたのに。私達は出し抜かれたのです。あの呪いはいつしか人格を持ち、狡猾な知能を持って自らを変化させて媒体に入り込み、我々をすり抜けて江川さんに到達してしまったのです。

 この事実を犬塚さんに伝えるかどうか悩みましたが、結局伝えることにしました。犬塚さんは残念そうにため息をついた後、私を慰めてくれました。気を落とすことは無い。万全を尽くしても、上手くいかないことはあると。それは探偵をしていく上で仕方のないことだ、とも。

 私は犬塚さんの思いやりに感謝しながらも、不安をぬぐえないでいました。失踪した江川さんはあの呪いと共に何処へ行ったのか。そして変化していく呪いは、一体どんな災厄に変わっていくのか。

 窓から見える夕焼けが、とてつもなく不吉な色に見えます。

 私は以前不思議な作家の藤さんからもらったお守りをぎゅっと握りしめ、不安と後悔に耐えます。しかし、いつまでも落ち込んでいては、犬塚さんにまた要らぬ心配をかけてしまいます。

 強くなろう。そして、自分のしたことに後悔をしないよう、早く一人前の探偵になろう。私はひっそりと、孤独な決意を固めるのでした。


お読みいただきありがとうございました。

何か感想や改善点がありましたらお教えください。

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