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ビーチサイドstory

作者: Y.J

 騒がしい夜の繁華街を一人の男が歩いている。

 センター分けの黒髪に切れ長の目、黒いナイロン製のコートにジーンズ、スニーカーを履いて男は歩く。手にはボストンバッグを持っていてかなり重そうだが男は何事もないふうを装って歩く。

男の名前はヒロシ。二十八才、職業は泥棒。かれこれキャリアは五年になる。

 ヒロシがいつも狙うのは表に出せない金であり、したがって被害者から通報されることはない。その代わり捕まってしまえばヒロシに明日は無い。

 つい十五分前にヒロシが奪ったのは違法バカラの一日の売上であり、今までの仕事のなかではかなり大きい金額だ。この仕事を続けていればいつか必ず捕まってしまう。今回も含め、今までの仕事でかなりの金を稼いだヒロシは引退を決意していた。

 「どっかに引っ越して、バーでも始めるか」

 ヒロシは心のなかでつぶやき、駅へと向かった。電車に乗って一時間で隣の県に着く。仕事柄、知人が一人もいないヒロシの唯一の趣味がカクテル作りであり、泥棒を引退後はバーを経営しようと漠然と考えていた。

 最終電車に間に合ったヒロシは電車の座席に座り、缶ビールを開けた。なんとなくバーの名前はフラッシュバックに決めた。缶ビールを飲み干し、ヒロシは眠った。

 一時間後、ヒロシは隣の県に着いた。この町にも何度か仕事で来たことがある。繁華街から数キロほど行けばビーチがあり、この町は過ごしやすそうだ。ビジネスホテルにチェックインし、ベッドに寝転んだ。

「前の家の荷物は、こっちでの生活が落ち着いたら取りに行くとしますか」

 確認するように声に出して呟いた。起き上がり、黒いバッグから金を三十万ほど取り出しポケットに詰めた。ビジネスホテルを出て繁華街を歩く。この町の繁華街は大通りを中心とし、スナック、ラウンジ、キャバクラ、居酒屋、バー等がテナントで入ったビルが何軒もある。今日はこの町をよく知るために遊ぶことにした。数軒ハシゴしてわかったことは、この繁華街の半分以上がハマムラ産業の持ちビルだということ。それに町の揉め事のほとんどをハマムラ産業のハマムラ会長が解決しているということだ。

  三軒目のキャバクラでヒロシは窓際のボックス席に座っていた。キャバクラ嬢の方言が心地よかった。

「あっ!」

 ふいにキャバクラ嬢が窓の外を指さした。

「どうしたん?」

 ヒロシが尋ねる。

「えー、知らんの?あの人、ハマムラ会長やで。一緒にいるのがワタナベさん。このビルもハマムラ会長のビルなんやで」

「そうか」

 ヒロシは窓の外を見下ろした。小柄だが眼光の鋭い老人と体格のいい男のふたりが歩いていた。

「あの顔、憶えておくことにするわ」

 ブランデーを飲みながら言った。

 そして二年が過ぎた。

 ヒロシは繁華街の大通りから少し入ったところのビルの二階にバーを開いていた。バーの名前はフラッシュバック、カウンター八席とボックス席が二つで、開店から二年で常連客も何人かついている。営業時間は二十時から五時。忙しくなるのは二十四時をまわってからだ。

 カウンターには常連客のカズが座っていた。近所で自動車修理工場をしているカズは、仕事帰りによくフラッシュバックに飲みに来る。

「すいません、ビールお代わり下さい」

 カズはそう言いながらグラスをヒロシに手渡した。

「あいよっ」

 ヒロシはグラスを受け取り、サーバーからビールを注いだ。手際よくカズの目の前のコースターに乗せる。

 十二時をまわった頃、フラッシュバックのドアを開けたのは一階のスナック、ムーンリバーのママ、アズサだった。

「ヒロシくん、焼酎一本貸してよ」

 どうやらムーンリバーで焼酎が足りなくなったようで、アズサはフラッシュバックに焼酎のボトルを借りに来たらしい。この町の繁華街ではよくある風景だ。

「あいっ」

 ヒロシはアズサに焼酎のボトルを手渡した。

「ありがと、ヒロシくん」

 アズサは焼酎のボトルを受け取るとカズの肩に手を置いた。

「カズ君、こんばんは。あんまり飲み過ぎたらアカンよ」

「はい、大丈夫です」

 カズが答えるとアズサは、

「じゃあねー」

 と言って去っていった。

 翌日もカズはフラッシュバックにいた。しばらくすると、焼酎のボトルを持った若い女の子が入ってきた。

「すいませーん。昨日、焼酎のボトルお借りした一階のムーンリバーです」

「あいよ、おつかれさん」

 ヒロシはタバコをくわえたまま、焼酎を受け取った。カズが軽く会釈すると、女の子が言った。

「カズ君?」

 突然のことにカズが驚いていると、女の子は続けた。

「カズ君!あたし、あたし!」

「…ユウコか?」

 カズは思い出した。メイクをキメてドレス姿だが、女の子は高校の同級生のユウコだった。

「ユウコ、おまえムーンリバーにいるん?」

「うん、少しの間だけ親戚のお姉ちゃんの手伝い」

「アズサさんが親戚のお姉ちゃんか?」

「そうだよ」

 ふたりの会話を聞いていたヒロシがユウコに、

「まあ、座りなよ」

 と言うとユウコは、

「はい」

 と返事をし、カズの隣に座った。いい匂いがする。

「ユウコちゃん、カズ君のおごりやから一杯、飲んでいきなよ」

「わあい、じゃあジンバックください。カズ君、ありがとう」

 ヒロシがジンバックをユウコに渡すとユウコは、

「いただきー」

 と言いながらカズのグラスに軽く当てた。

「おう」

 カズは答えてビールを飲んだ。

「カズ君、いつもビールなん?」

「こいつ、ビール以外を飲んでるの見たことないな」

 カズの代わりにヒロシが答えた。

「そうなんや。マスター、カズ君にジンバック作ってあげて。カズ君、おいしいから飲んでみて。じゃあわたし、もう戻るね」

 ユウコはそう言ってジンバックを飲み干し、ムーンリバーに戻っていった。カズの目の前には新しいジンバック。

「飲んでみ」

 ヒロシに促され、カズはジンバックを飲んでみた。

「どうよ、イケる?」

 タバコを吸いながら尋ねたヒロシにカズは言った。

「おいしいです。例えるなら久々に再開した同級生が、かわいかったって感じの味ですね」

「あはは、わかるわかる」 

 ヒロシはむせながら笑った。


 近畿地方のある繁華街。

 ここは大通りを中心として何軒ものテナントビルがあり、スナック、キャバクラ、バーなどが点在している。近年の不況で平日にこの大通りを歩く人間は減ったが、週末ともなるとまだまだこの繁華街も活気が溢れている。

 アズサはこの大通りから少し入っところのビルの1階でカウンターバーをしている。24時まではアズサ一人、24時以降は親戚の女の子、ユウコに任せてアズサは帰る。38才ともなると体力的にきついからだ。24時に店を出て、アズサは歩いてアパートに帰る。3年前までは夫であるケンイチと二人で暮らしていた。子供はいなかったが仲の良い夫婦だった。3年前にケンイチが失踪するまでは。

 3年前、アズサが仕事を終えてアパートに帰るとケンイチは居なかった。たまに夜に出かけることもあったのでその時は気にしなかったが、その夜からケンイチは帰ってこない。

 ケンイチが居なくなってから、アズサはありとあらゆる手を尽くし探したが、この5年間、手掛かりすらない。今では事情を知っているお客さんもケンイチを探してくれている。

 この日、アズサはいつものように店を開けた。20時ごろ常連さんの二人組みがやってきた。

「いらっしゃい、何、飲みはります?」

 アズサが手馴れた手つきで二人組みの客にお通しを出す。

「ママ、とりあえずビールふたつと、何か腹にたまる食いもん出してや」

「はーい」

 アズサはビールを出し、厨房で野菜炒めを作り、客に出した。二人組みの客は数人で写っている写真を何枚か持っておりその写真を見ながら話していた。おそらく会社の歓送迎会の写真だろう。大勢の大人が酔っ払った顔でピースサインしている。

「ママ、この写真、見てよ。この日は大変やったわ」

 客に写真を手渡されたアズサは、その写真を見た瞬間、

「あ、ああああああっ」

 なぜかその場に泣き崩れた。

「ちょ、ママどないしたん?」

 二人組みの客は驚き、カウンターに入り、アズサを抱き起こした。

「こ、この写真はどこで撮ったの?」

「ん、この写真を撮ったのは駅裏の居酒屋の外やけど、ママどないしたんや?」

 アズサは震える手で写真を指さした。集合写真の後を歩いている路上生活者、あまりにも変わり果てた姿にアズサ以外は気付かないだろう。その路上生活者は3年前に失踪した夫のケンイチだった。

 翌日の午後、アズサは一人で駅裏に行った。駅裏には大きな公園があり、その公園のベンチにケンイチはいた。

「ケンイチくん」

 アズサが話しかけても返事は無い。肩をポンポンと叩くと、ケンイチは振り返った。

「なんですか?」

 ケンイチはアズサのことをまったく誰であるのか分かっていないようだった。アズサは少し黙ったあと言った。

「あんたの名前はケンイチ。で、わたしの旦那。何にも覚えてないん?」

 ケンイチは困惑した表情をしている。

「とにかく一緒に帰るで。なんやねん、その汚い格好」

 アズサはケンイチの手を引き、アパートに連れて帰った。

 アパートにつくと、アズサはケンイチを風呂に入れることにした。

「今着てる服は捨てとくから、お風呂に入ってこれに着替えて」

 アズサはケンイチに新しい服を手渡した。浴室に向かうケンイチの後頭部には大きな傷跡があった。アズサは悟った。5年前のあの日、ケンイチは何らかの事故に遭い記憶を無くし、路上生活をしていたのだろうということを。そんなケンイチの5年間を思うと、アズサはいたたまれない気持ちになった。ケンイチは風呂に入っている間にアズサは店を手伝ってくれている親戚のユウコに電話し、今日は自分の代わりに店を開けてもらえるよう頼んだ。

 しばらくするとケンイチが風呂から出てきた。髪型は滅茶苦茶、髭はところどころ剃れていないが、それ以外は間違いなく3年前のケンイチのままだった。

「すいません、お風呂をかしてもろて」

 ケンイチは申し訳なさそうに言った。

「すいませんって、ここはあんたの家なんやで」

 アズサにそう言われても、ケンイチはただ申し訳なさそうな表情をするだけだった。

 二人はリビングのソファーに座っていた。アズサはケンイチに一生懸命に話しかけたのだが、ケンイチは何ひとつ憶えていないようだった。アズサは悲しい気持ちを打ち消すように立ち上がり言った。

「おなかすいてるやろ?ご飯作るわ」

 ケンイチは急に立ち上がったアズサに驚き、ただうなずくだけだった。

アズサは冷蔵庫を開け、中の食材を確認した。今日はカレーを作ることに決めた。黙々とカレーを作りながら、アズサは5年前にケンイチが失踪する前の生活を思い出した。アズサがキッチンで料理をしていると、決まってケンイチが、

「何か手伝おか」

 と言いながらキッチンに入って来る。アズサが、

「あんたが居ても居なくても同じやから、リビングで待ってて」

 と言うのだが、ケンイチは、

「居ても居なくても同じなんやったら、この辺に立っとこっと」

 と言ってアズサの近くに立ち、料理が終わるまで二人は話し続ける。

 そんな5年前とは程遠い今の状況にアズサは悲しくなったが、

「わたしが、しっかりせな」

 とつぶやき、料理を続けた。

 鍋に固形のカレールーを入れると、いい匂いが広がった。もうすぐカレーが出来上がる。

 その時、ケンイチがキッチンに入って来た。

「何か…手伝おか」

 アズサは驚いて、おたまを床に落とした。

「ケンイチくん、思い出したん?」

 ケンイチはしばらく黙ったあと答えた。

「いい匂いするなあと思って…、それでこの匂い懐かしいなあと思ってたら、思い出したんや、全部」

 アズサは落としたおたまを拾い、ケンイチに近づいた。

「あんたが、居ても居なくてもカレーは作れるけど、もうどっか行かんといてな」

 ケンイチはアズサを抱きしめ、

「ごめんな、ほんまにごめんな」

 と謝り続けた。そしてアズサの顔を見ながら、

「ちゃんと髪もピシッとして髭も剃って、早く社会復帰するわ。しばらくはアズサの店を手伝うわ」

 アズサもケンイチの顔を見た。5年間の路上生活で、ケンイチの前歯は2本抜けていた。

「私の店を手伝うのは、ちゃんと歯を入れてからにしてな」

 アズサはそう言って笑った。ケンイチもつられて笑顔になった。

 二人とも今日のカレーはおいしいカレーになりそうな気がしていた。


「ああ、くっそ!」

 カズは怒鳴りながらスロット台のレバーを叩く。

「今日はもう、ヤメや」

 煙草に火を点けながら立ち上がりパチンコ店を後にした。

 パチンコ店から川沿いを漁港に向かって歩き、漁港の南側の坂を下りた所にカズのアパートがある。もう夕方だというのに今年の夏は暑い、道に転がっている空き缶を蹴ろうとしてサンダルが脱げた。

「はいはいはいはい、やっぱりね」

 カズはつぶやいた。やはり今日はついていない。

アパートに着くまでにコンビニで買った缶ビールを一本、飲み干していた。

 アパートに帰り畳に寝転がる。少し眠った。

「カズ君」

 声をかけられ、カズは目を覚ました。

「なんやねんな。せっかく寝てたのに」

 声をかけたのはユウコだった。いたずらっぽく笑う。

「俺はな、忙しいんや。寝かせといてくれへんか」

「カズ君、今日は休みやん」

「うるさい、うるさい。うるさいねん」

「今日もスロット負けたの?」

「負けた、負けた、負けましたよ。五万円」

 カズはふてくされ、寝返りをうった。

「もう、カズ君はギャンブル運ゼロだね」

 ユウコはあきれている。

「そんなもん、俺が一番わかってるっちゅうねん」

 カズはそう吐き捨ててタバコに火をつけた。振り返るとユウコは浴衣姿だった。

「お前さ、なんで浴衣なん?」

 カズがタバコの煙をはきながら聞いた。 

「はあー」

 ユウコはゆっくりとためいきをひとつつき、答えた。

「今日は花火大会だよ」

 カズとユウコがこの部屋で花火大会の日を迎えるのは、七年目になる。七年前の花火大会の日から、ふたりはこの部屋で暮らしはじめた。

「ねえカズ君。花火大会、七年目だね」

 ユウコはカズに寄り添う、カズは鼻の穴からタバコの煙を出しながら無言で頷いた。大きい金魚鉢で飼っている二匹の金魚が水を跳ねた。

七年前の花火大会の日、カズとユウコはふたりで花火を見ていた。メインの水中花火が終わり、ふたりは川沿いを歩く。浴衣姿のユウコの手には露天の金魚すくいで手に入れた金魚が二匹、透明なビニール袋に入ってある。学生時代はバレー部に所属し、背が高いユウコは浴衣が似合う。付き合って一年経った今でもカズは浴衣を着たユウコに少し緊張していた。カズは露店で缶ビールを買い、飲みながら歩いていた。

「よっしゃ、よしっ」

 心の中で気合をいれたつもりがつい声に出てしまったカズに驚いて、ユウコは振り返った。

「カズ君、どうしたん?」

 顔を覗き込むユウコにカズが答えた。

「あのさ、俺、こんなんやし、頼りないしさ。もしやで、もしユウコがさ、イヤじゃなかったら」

「私が、イヤじゃなかったら?」

 ユウコがさらにカズに近づく。

「お、俺とさ、ずっと一緒にいてくれへんか?」

 ユウコの答えを待つ間、カズの膝は震えている。ユウコは少しの沈黙のあとペコリとお辞儀をした。

「カズ君、よろしくお願いします」

「え、ええんか?あのさ、俺、がんばってこれから幸せに…」

「もう私、今でじゅうぶん幸せ」

 カズの言葉をユウコの笑顔が遮った。

 ふたりは川沿いの道を手をつないで歩いた。しばらく歩き、その先の坂を下りればカズのアパートがある。今日からはふたりのアパートになる。

 そしてふたりは暮らし始めた。金魚二匹とともに。

 時の流れは早く、それから七年たち、ふたりにとって七回目の花火大会。もうすぐ窓の外に花火があがる。

「あれから七年やな」

「そうだね」

「俺、相変わらずでごめんな」

 カズはうなだれた。

「こらっ、そんなこと言わないの」

 ユウコはカズの頭を小突く。

「ユウコ、いつまでもありがとうな」

 カズは言葉どおりのことを心から思った。

「でもね、カズ君。早く私のことは忘れて、まだ若いんやから優しい奥さん探してね」

「それは断るわ」

 カズは鼻の穴からタバコの煙を出しながら答えた。

「もう!」

 ユウコは口を尖らせ、さらに続けた。

「カズ君がちゃんと新しい奥さんもらわないと、私、カズ君が心配で、ずっとここにいないとあかんやん!」

 ユウコの肩越しには仏壇、そしてユウコの遺影。それを見ながらカズは答えた。

「お前が、ずっとここにいてくれるように、俺はお前にこれからもずっと心配かけるねん。」

「…あほ」

 そう言ったユウコの瞳は少し濡れているように見えた。

 窓の外にひとつめの花火があがった。金魚鉢に反射した光がふたりを照らした。

花火大会も終わり、海沿いの町は日常に戻っていた。カズは仕事場である自動車工場で客を待っていた。

「おーい」

 クラクションを鳴らしながら、かなり古い型のベンツが走って来る。後部座席の窓から、ハマムラ会長が手を振っている。カズは飲み屋で知り合ったハマムラ会長に気に入られ、愛車のベンツの整備をまかされていた。ハマムラ会長は戦後からこの海沿いの町を仕切っている。もともとは港の荷揚げ業務を請け負っていたが、やがて様々な事を取り仕切るようになり、力をつけていった。今はこの町で何軒ものビルを所有し主な収入源は大家業だ。この町の人間はハマムラの事を会長と呼んでいる。かなり高齢だが健康そのものといった感じだ。いつも部下のワタナベの運転でカズの自動車修理工場にやってくる。

「カズ君、今日も頼むよ」

 ワタナベがカズにベンツのキーを渡した。ワタナベはかなりゴツい手をしている。運転手兼ボディーガードなのだろう。

「了解です。会長、ワタナベさん。終わったら声かけますんで奥の事務所で休んでて下さい」

 ハマムラ会長とワタナベを事務所に通し、カズはベンツの整備を始めた。この時代のベンツは単純だが頑丈な造りになっており定期的に丁寧な整備さえすればいつまでも走ってくれる。ハマムラ会長のベンツを整備することはカズにとっても好きな仕事のうちの一つだった。過去にハマムラに、

「会長、金あるんやから車、買い換えなよ」

 と言ったことがあるがハマムラ会長は、

「死ぬまで苦労させた女房とよくこの車で出かけてな。だからと言うわけか、なんとなく手放されへんでな」

 と答えた。その時カズはハマムラ会長のことをもっと好きになった。

 オイル交換、ブレーキ点検及び一通りの整備が終わった。

「すいませーん、終わりましたよ」

 事務所にまで聞こえるように大きい声で報告すると、ハマムラ会長だけが事務所から出てきた。整備が終わったあとカズの運転で港を一週するのが毎回の決まりになっていた。カズはベンツのエンジンをかけてハマムラ会長を待った。

「よっこいしょ」

 ハマムラ会長が助手席に乗り込む。いつもは後部座席に座るのだが、今回ハマムラ会長は助手席に座った。カズは一瞬、戸惑ったが何も言わずにベンツを走らせた。

「カズ君よ、昨日の花火は見たかえ?」

 ハマムラ会長が微笑みながら尋ねた。

「あ、はい。アパートから見ました。屋台で会長も儲かったでしょ」

 カズは前を見たまま答えた。

「うふふふふ」

 ハマムラ会長は笑っている。ベンツは港の中に入った。十分ほどで一週するいつものコースだ。しかし今日に限ってカズは波戸場でベンツを停めた。

「カズ君、どないしたんや?」

 ハマムラ会長は少し驚いた。カズは今度はハマムラ会長のほうを見て言った。

「会長、今日はなんかおかしいで。助手席に乗ってくるし、何かあったんですか?」

 ハマムラ会長はため息をつき、話し始めた。

「実はなカズ君。この港で、他府県のやつらが何かの取引をしようとしてるんや」

「取引って。何のですか?」

「何の取引かはわからん。拳銃か、薬物か。ただ今週中にこの港で取引するっていうのは確からしいいんや」

 カズは無言でタバコに火をつけた。

「それでな、カズ君。わしらが動いて取引を潰すことは簡単なんやけど、わしらが動いたら大事になってしまうんでな。それで困ってるんや。わしら以外の誰かを雇えればええんやけど、なかなか信用できる人間がおらんでな」

 しばしの沈黙のあと、カズが答えた。

「会長、俺がやってあげましょか。どうせ俺に頼むつもりやったんでしょ」

「カズ君、わかってたか。危ないことなんで言いにくくてな」

 ハマムラ会長は肩をすぼめた。

「すまんな、礼はいくらでもするさかいに」

 カズはタバコを消し、無言でベンツを走らせた。そした自動車工場に着く直前に、独り言のように呟いた。

「礼は、このベンツでいいですよ」

「カズ君。このベンツか!」

 予想外のカズの言葉にハマムラ会長は驚いたが、やがて微笑みながら答えた。

「たしかに危ないことを素人のヤス君にさせるわけやし。このベンツと別れるのは淋しいけど仕方ないな。カズ君、頼んだで」

 カズはベンツを自動車工場の駐車場に停めた。駐車場ではワタナベが待っていた。

「ワタナベさん。会長から話は聞きました。俺に任せといて下さい」

 カズからベンツのキーを受け取ったワタナベは一言ですべてを理解し、うなずいた。

 ハマムラ会長はベンツの後部座席に移動し、ワタナベの運転で帰っていった。ふたりを見送ったあとカズは事務所のソファーに寝転んだ。

「アカンで!」

 不意に声が聞こえ、振り向くとユウコがいた。

「おう。お前おったん?」

 カズは寝返りをうち、ユウコのほうを向いた。

「ずっとベンツの後部座席に乗ってたもん!」

 ユウコは腕組みしながら立っている。

「ははは。幽霊やのに昼やろうが関係なく現れるんやな。あんたは」

 カズは起き上がりソファーに座り直した。

「カズ君。会長がいい人なのは私も知ってるけど、危ないからやめてよ!」

 ユウコの願いにカズが笑いながら答えた。

「ははは。心配なん?じゃあますます俺のそばにいないとなあかんな」

「もう!」

 そう言い放ち、ユウコは消えた。

「さて、どうしたもんやろねえ」

 自動車工場の事務所で、カズはソファーに寝転んで考えている。すでに灰皿には吸殻が山盛りになっていた。

 考えているうちに夜になった。いい考えが浮かばない。飲みに行くことにした。向かった先はフラッシュバック、カズがよく飲みに行く店だ。ユウコが生きていた頃は毎週末、一緒にこの店で飲んでいた。フラッシュバックのドアを開ける。まだ開店時間からあまり時間が経っていないため客はカズひとりだった。

「いらっしゃい」

 ヒロシはカウンターからおしぼりを渡し、グラスにアイスを入れ始めた。そのグラスにジン、ジンジャーエール、レモンシロップを入れ軽くステアする。若い頃、ユウコがカズに薦めてくれたカクテル、ジンバックだ。カズはジンバックを受け取り、缶ビールを持ったヒロシと無言で乾杯した。一杯目のジンバックを飲み干し、同じものをおかわりした。

「グイグイいくね。何かあったか?」

 二杯目のジンバックを作りながらヒロシが言った。

「はい。まあ」

 カズは二杯目のジンバックを受け取り一口飲み、話し始めた。

「ヒロシさん、もしも。もしもの話ですよ」

「ん?なんや」

 ヒロシはカウンターの中の椅子に座り、タバコに火を着けた。

「港でですよ、ヒロシさん。危ないやつらが取引するとして、どんな方法でするんですかね?」

「取引かあ」

 ヒロシは考えたあと、答えた。

「ほとんどの場合、物と金とは交換やわ。手っ取り早いし、ミスも少ない。取引した記録も何も残らんからな」

「ヒロシさん、方法はどんなんですかね?」

 カズはさらに一口飲み、尋ねた。

「んー。まず売り手が船から物の沈める。そのまま波止場に行き、買い手から金を受け取る。金を受け取った売り手が船でその場から去ったあと、買い手が沈められた物を引き上げで取引終了ってとこやな」

 ヒロシはあごをさすりながら答えた。

「はあ、そうですか」

 返事したカズに、ヒロシがさらに続けた。

「カズ君。ハマムラ会長に頼まれたやろ」

「うっ。バレてました?」

「港で何かあるっていう噂を聞いたからさ。となるとハマムラ会長もからんでくる」

「へへへ。ヒロシさん、さすが」

「今の話からすると、港での取引を潰してくれって言われたんやな」

 ヒロシはタバコの火を消し、さらに続ける。ヒロシが異状に勘が鋭い理由をカズは知らない。

「カズ君。ハマムラ会長のことを好きなんはわかるよ。俺もあの人はいい人やと思う。でもこの会長のお願いは危ないで。て言うかな…」

「て言うか、ヒロシさん。何ですか?」

「カズ君はな、ユウコちゃんが死んでからヤケクソちゃうか。もうええ加減にちゃんとせんと。ユウコちゃんもカズ君のこと心配やと思うで」

 カズはタバコに火を着け、隣の席を見た。ユウコが口を尖らせていた。

「ヒロシさん、確かにあいつ本当に俺が心配みたいですよ」

「なんやねん、それ」

 ヒロシは呆れた。その夜、カズはいつもどおり帰りに階段を転げ落ちるほど飲んで帰った。

 翌日のの午前三時、フラッシュバックの閉店時間にカズはフラッシュバックを訪れた。

「いらっしゃい」

 ヒロシはおしぼりではなく、アイスコーヒーを出してくれた。

「カズ君、港で働いてる知り合いに電話しといたで。何か変わったことがあったらすぐに知らせろってな」

「ヒロシさん、すんません。ありがとうございます」

 カズはアイスコーヒーを飲んだ。隣のカウンター席に目をやると、今日もユウコが口を尖らせながらカズを見ていた。

「ふふっ」

 思わずカズは吹き出した。

「おいおいおい。なんやなんや。カズくん」

 急に笑い出したカズにヒロシが言った。

「ヒロシさん。じゃあ俺、帰ります」

 カズは席を立ち、フラッシュバックをあとにした。

「何かわかったら連絡するわー」

 うしろでヒロシの声が聞こえていた。カズはアパートまで歩いて帰った。夏の終わりの夜風が気持ちよかった。

 アパートに帰ると、ユウコはいなかった。「あいつ、怒っとるな」カズは苦笑いしシャワーを浴びた。シャワーを浴び終わると風呂の外には自分では用意してなかったバスタオルと着替えが用意されていた。カズは少し涙ぐんだ。

 着替えをすませると、敷きっぱなしの布団に入り目を閉じた。隣に人の気配がする。ユウコがいる。カズは心の中で笑った。いつの間にか眠っていた。

 翌日もカズは仕事のあとフラッシュバックに行った。二十三時すぎだったので店は混んでいた。二時間ほど飲みフラッシュバックを出て少し歩くとハマムラ会長とワタナベが歩いていた。

「会長!」

 カズは声をかけ、ハマムラ会長のほうに歩いていった。ハマムラ会長はホステス数人を引き連れていた。少し後ろをワタナベが歩いている。

「おお。カズくん。例の件は順調かあ?」

 ハマムラ会長が手を振る。

「はい。任せといてくださいな」

 カズは手を振り返した。ハマムラ会長のうしろでワタナベが軽く右手を振っていた。

「ねえ。会長ぉ。早く行こうよう」

 すっとんきょうな話し方のホステスのうちの一人に促され、ハマムラ会長達は去っていった。今日はまた一段と肌寒い。カズはポケットに手を突っ込んでアパートまで歩いた。少しフラフラしながら。今日は少し飲みすぎた気がした。「もう夏も終わりやな」と思った。

 二日後、カズが自動車工場で仕事をしているとヒロシから電話があった。

「もしもし。ヒロシさん、おつかれさまです」

「カズくん。港にいる知り合いから電話があったんや。今朝から今まで見たことない漁船が波止場にあるらしい」

「ほんまですか!ありがとうございます」

「カズくん。ちょっと、ちょっと待て」

 電話を切ろうとしたカズをヒロシが制した。

「何時に迎えに行ったらいいんや?」

「えっ?」

「だからカズ君。俺が手伝ってやるわ。お前ひとりじゃ無理や」

「で、でもヒロシさん…」

「店はバイトに任せとくから大丈夫や」

「い、いや、ヒロシさん。そういうことじゃなくて」

「あのな、カズくん。笑わんといてくれるか?」

「…はい」

 ヒロシはひと呼吸おき、さらに続けた。

「実はな。昨日の閉店の時にな。出たんや!」

「出たって?何がですか?」

「ユウコちゃんの幽霊や!ユウコちゃんがいつも座ってたイスあるやろ!そこにユウコちゃんが座ってたんや!」

「あいつっ!」

 カズは心の中で唸った。

「それでな、カズくんを助けてあげてって俺に言うたんや!」

 ヒロシはさらに続けた。

「俺が酔ってたのかもしれへんのやけど、見たんや!だからカズ君を手伝うことににたんや」

 ヤスは無言で聞いていた。

「カズ君。聞いてるか?」

 ヒロシの問いかけにカズは我に返った。

「ヒロシさん。何か、すいません」

「気にすんな。それにな、ユウコちゃんが死んでしもて淋しいんはカズ君だけ違うんやで。そのユウコちゃんのお願いやし、気にすんな!とりあえず夕方、仕事場に迎えに行くで!」

 そう言ってヒロシは電話を切った。

 カズはうしろを振り返らずに言った。

「おーまーえーなー!」

 カズのうしろにいたユウコは笑いながら答えた。

「ヒロシさんが手伝ってくれてよかったね」

「おまえなー。ええかげんにせえよな」

 カズが振り返りユウコを睨む。その時、ユウコは一瞬、悲しげな表情になった。

「だって。だってカズ君、私に心配かけすぎなんやもん!」

 そう言ってユウコは消えた。言い返そうとしたカズは、ユウコに逃げられた気がした。

 夕方になった。自動車工場の外で、ヒロシの黒いバンのエンジン音がした。

「おつかれっ」

 ヒロシは手に弁当をふたつ持っていた。

「カズ君。長い夜になるで」

「ヒロシさん。ほんまにすいません」

 カズはヒロシに軽く頭を下げた。ふたりは無言で弁当を食べた。食べ終わったあと、ふたりとも同じタイミングでタバコに火をつけた。ヒロシが口を開いた。

「これ吸い終わったら、行こうか」

「はい」

 カズは答えた。

 ヒロシの運転で黒いバンは港に向かった。車内にはカーステレオから九十年代ハードロックが流れている。ヒロシの趣味だ。ほどなくバンは港に着いた。

「あの漁船や」

 ヒロシが一隻の漁船を指さす。

「あの漁船が取引の売り手なんですね」

「いや。カズ君。まだそうとは限れへん。今日はとりあえず一晩中、見張るで」

「わかりました」

 カズはうなずいた。

 数時間後、四人の男たちがその漁船に近づいて行った。

「カズ君。ビンゴや!あいつらが取引の売り手やで」

「なんでわかるんですか?」

「見てみ。革靴履いた漁師なんてどこにもおらんで」

「あ、ほんまや。四人とも革靴ですね。今から取引始まるんですか?」

 ヒロシはタバコに火を着け、答えた。

「いや、今日は予行練習やな。金を積んでない。取引は明日やな」

 たしかに漁船には何も積まれていないように思われる。そんなヒロシの言葉通り、その漁船は漁港内を行ったり来たりしている。文字通り、予行練習のようだ。カズはヒロシのほうをちらっと見て、「この人、すごいな。何者なんやろ、バーのマスターだよな」そんなことを考えていた。数十分後、予行練習を終えた男たちは漁船から降り、去っていった。

「さ、俺たちも帰ろっか」

 ヒロシはバンを走らせた。アパートでカズを降ろし、帰っていった。

 アパートに入り、カズはすぐに眠った。今まで経験したことのない疲労だ。自動車工場は今日から臨時休業にしてある。

 翌日、カズは昼過ぎに目覚めた。昨日の疲労からか夕方までアパートで寝転んでいた。

 ふいに外からクラクションの音がした。ヒロシが迎えに来たのだ。カズは着替えを済ませ、アパートを出た。ドアを閉める一瞬、アパートの中からユウコがこっちを見ていた。

「行ってくるで」

 カズは心の中でつぶやき、階段を降りた。ヒロシがバンの中で待っていた。

「さ、カズ君。取引は今日やで」

「なんで今日なんですか?」

 カズが尋ねると、ヒロシは答えた。

「予行練習というのはな、本番にできるだけ近いかたちでするもんやろ?」

「はい」

「それに、あいつらはできるだけサッと取引を済ませて消えたいはずやろ?」

「そうですね」

「昨日と同じ時間の翌日、つまり今日が本番やと思うで。俺の経験上」

「そ、そうかもしれないですな」

 カズは答えながら「ほんまにこの人は何者なんやろ、それに今、俺の経験上って言ったよな!」と思ったが平静を装った。

 ふたりはファミリーレストランでゆっくり夕食をとり、港に向かった。取引用の漁船からはこっちが見えないように壁に隠れたところにバンを停めた。ふたりは車を降り、待った。

「ところでヒロシさん」

「ん?何?」

「肝心の、取引を潰す方法は考えてるんですか?」

 カズが不安になり、尋ねるとヒロシが笑いながら答えた。

「ああ、それか。大丈夫。大丈夫よ」

「ヒロシさん、大丈夫って言っても…」

「カズ君は、俺のうしろで真剣な顔しといてくれればええから」

「えっ?」

「まあまあ。任せとけって」

 夜になった。そろそろ昨日と同じ時間になる。

「ヒロシさん!あれ!」

 カズが指さした方向には昨日と同じ男達、うち一人は手に黒いカバンを持っている。

「カズくん。あのカバンに金が入ってるわ」

 ヒロシの目付きが変わった。

「来たな、ばっちり今日やな」

 ヒロシは車のエンジンを切った。

「ヒロシさん、これからどうしたらいいんですか?」

 カズが言った。ヒロシは静かに答えた。

「しばらくは様子を見ようか」

 カズは無言でうなずいた。

 しばらくすると、男たちは漁船に乗り込んだ。カズとヒロシの間に一瞬、緊張が走った。その数分後、漁港内に一隻の小型ボートが入ってきた。

「ヒロシさん、あれ」

「そやな、今から売る物を海に沈めるはずや。俺らも行くで」

 そう言ってヒロシは車から降り、漁船のほうに歩き始めた。

「ちょ、ちょっとヒロシさん!」

 ヒロシのあとを歩くカズにヒロシは言った。

「カズ君。俺のうしろで真剣な顔しといてな」

「な、何かわからないですけど、了解です」

 カズはできるだけ真剣な表情をつくり、ヒロシに続いた。ヒロシの足は完全に漁船の方に向っている。「やばい、ヒロシさん。どうするつもりなんやろ!」カズは足の震えを抑えながら歩いた。できるだけ真剣な表情をつくりながら。

 漁船に数メートルまで近づいた時、そのうちのひとりがこちらに気づいた。カズは震える足を両手で掴み、震えを抑えた。

「なんや、お前ら?」

男が漁船から降り、こちらに近づいてきた。その時、ヒロシが言った。

「今日の取引やけどな。この港を仕切ってる奴らにばれてるんでな。予定変更や。」

「何?」

 このやりとりに気づいた漁船の男たちが漁船を降り、カズとヒロシを囲んだ。うちひとりは手に黒いカバンを持っている。ヒロシがさらに続けた。

「それでな。俺が金の受け取り担当なんや。あんたらはあそこから荷物引き上げてさっさと逃げたほうがええで」

 ヒロシが指さした先では、小型ボートから何かが海に沈められている。

 男たちは戸惑っていた。さらにヒロシは、

「おいっ、早くせんか。俺らもさっさと仕事終わらせたいねん!」

 そう言いながら、金の入った黒いカバンを奪った。カズは汗びっしょりになりながらその空気に耐えていた。

「あんたらも早く荷物を引き上げて逃げや。じゃあ」

 ヒロシは振り返り、カズにウィンクした。男たちがきょとんとしている間に、カズとヒロシは振り返り歩き出した。

「カズ君、あの角曲がった瞬間、車までダッシュやで」

 ヒロシが舌を出した。カズはなんとか軽くうなずき、歩いた。

 角を曲がった瞬間、ふたりは走った。ヒロシのバンに乗り込んだ瞬間、うしろから声がした。

「まてー!おらー!」

「やベっ、意外と早く気付かれたな」

 ヒロシがエンジンをかけながら言った。

「ヒロシさん!ヒロシさん!ヒロシさん!」

 カズがヒロシを揺さぶる。

「これでオッケー」

 ヒロシはヘッドライトをつけないまま、ハイビームにした。

「カズくん、こうやったらうしろのナンバープレートが見えへんねん」

 黒いバンは走り出した。豪快がエンジン音とともに。

 一時間ほど走った。どうやら振り切れたらしい。

「ヒロシさん、何なんですか!なんでこんなことができるんですか?」

 カズの問いかけにヒロシは思わず答えた。

「こういう仕事もやってたからね。あっ!今言ったこと忘れてな」

「まったく」

 カズはシートに倒れ込んだ。後部座席からユウコがカズをのぞき込んでいた。カズは、

「疲れた」

 とだけ言って目を閉じた。黒いバンは走り続けた。

「カズくん、ちょっと揺れるで」

 ヒロシの声でカズは目を覚ました。山道を走っていた。

「ヒロシさん、ここはどこですか?」

 ヒロシはタバコに火をつけながら言った。

「念の為に県境を超えるで。国道は走らん。この山を超えたら隣の県や」

 そしてカーステレオのボリュームを上げる。九十年代ハードロックが車内に鳴り響いた。バンはかなり揺れている。

「ちょっと、ヒロシさん!車、大丈夫ですか?」

 カズは上下に激しく揺れながら言った。

「カズ君。この車をいつも整備してるのは誰や?」

「お、俺ですけど」

「じゃあ大丈夫か聞くなやー。はははははっ」

 ヒロシが言った瞬間、カズ側のサイドミラーが飛んだ。木の枝に当たったのだ。

「ヒロシさん!大丈夫じゃないかもしれないです」

「カズ君。あとで直してな」

 ヒロシが小さな声で言った。

 一時間後、バンは山を降りた。県境を超えたのだ。

「カズ君、泊まるところ探そうっか」

 ヒロシはスピードを落とした。ただバンは傷だらけになっていた。おまけにサイドミラーが片方、取れている。このままでは目立ち過ぎる。カズが頭を抱えていると、ヒロシが車を停めた。ラブホテルの駐車場だった。

「ちょっと、ヒロシさん。ここに泊まるんですか?」

 驚いているカズにヒロシが答えた。

「ラブホテルはな、駐車場が外から隠れてるやろ、だから車を隠したい時にちようとええねん。さあ、行くで」

 ふたりは車を降り、ラブホテルのフロントに入った。部屋を選ぶパネルの前で、ヒロシが言った。

「ねえ、カズ君。どの部屋がいい?」

「もう、どの部屋でもいいですよ!」

 うしろで順番を待っているカップルが、かなり怪訝な顔をしている。カズは素早くパネルのボタンを押し、部屋を選んた。ヒロシの手を引き、逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。ふたりは部屋でシャワーをあび、眠ることにした。ヒロシがベッドで、カズがソファーで眠った。向かいのソファーではユウコがこっちを見ながら笑っていた。確かにユウコは笑っていたのだが、いつもの笑顔とは違うどこか寂しげな笑顔だった。カズは疲れていたので無視して眠ることにした。

 翌朝、早い時間にカズは目覚めた。ソファーがあまり寝心地が良くなかったことと、ヒロシのいびきのせいであまりよく眠れなかった。ベッドを見るとヒロシはまだ寝ていた。カズは洗面所で顔を洗った。うしろにはユウコが立っていた。

「なんやねん」

 カズがめんどくさそうに言うと、ユウコは体の前で腕を組みながら言った、

「こんなことするの、もうやめてよね。無茶苦茶心配やったんやからさ」

「まあな、ちょっと予想以上にやばかったな。こんなことはもうやめとくよ」

 カズはタオルで顔を拭きながら言った。

「そう、…よかった」

 うしろでユウコがそう言った気がした。

 振り返るとユウコはもういなかった。

「おはよう」

 ヒロシが上はTシャツ、下はトランクスといった姿で洗面所に入ってきた。

「カズ君、寝れたか?」

 ヒロシが洗面所の蛇口を捻りながら言った。

「おかげさまで」

 カズが答えると、

「俺、イビキすごかったやろ!わはははは」

 ヒロシは豪快に笑った。

 翌日、カズとヒロシは黒いカバンを持って、ハマムラ会長の事務所に行った。ワタナベがふたりを会長室に通した。

「よくやってくれたね。はははは」

 ハマムラ会長はふたりの肩を揉んだ。

「会長、これでいいんですんね」

 カズが黒いカバンをハマムラ会長に渡した。ハマムラ会長がカバンを開けると、中には札束が入っていた。ハマムラ会長は満足そうにうなずき、

「この金は君たちふたりで分けなさい」

 と、カズに持たせた。

 ヒロシが大きな声で礼を言った。ワタナベがこちらを見て微笑んでいた。

「あと、カズくん。ベンツなんやけどな…」

 ハマムラ会長の言葉を遮るように、カズが言った。

「ベンツですか。貰いますよ、もちろん。約束ですから」

「はぁ。やっぱり約束やもんな」

 ハマムラ会長は落ち込んでいる。カズはハマムラの隣まで歩き、言った。

「会長が死んだら、あのベンツ貰います。遺言状にちゃんと書いておいてくださいね」

「カズ君」

ハマムラ会長が顔を上げた。

「あと、会長。いずれあのベンツ、僕の物になるんでちゃんと定期的に整備に来てくださいね」

「おお、行くわ。毎月、整備に持って行くわ。でもなかなか死ねへんで」

 ハマムラ会長は笑顔になっていた。

「じゃヤス君、俺らはこれで失礼しよか」

 ヒロシが言った。ふたりはハマムラ会長の事務所をあとにし、金を分けた。ふたりとも仕事はもう一日、休むことにした。こうして夏が終わった。

 その夜、ヒロシだけがハマムラ会長に呼び出された。ヒロシは会長室にいた。

「君は、何者なんだい?」

 ハマムラ会長がヒロシに尋ねた。ヒロシは黙ったまま立っている。ハマムラ会長がさらに続ける。

「君、俺の下で働かないかね」

 ヒロシはハマムラ会長のほうをまっすぐに見た。そして一度、目を閉じたあと、答えた。

「僕ですか、フラッシュバックってバーやってます。飲み屋のおねえちゃんたちと飲みに来てくださいよ」

「んん、そうか、わかった。もう帰っていいぞ」

 ヒロシはハマムラ会長の事務所をあとにした。自分の過去のことは誰にも話したことがない。この海沿いの町の住人たちが気づいた時には、ヒロシはバー「フラッシュバック」をオープンしていた。ヒロシは自然に町に溶け込み、フラッシュバックも町の一部としてまったく違和感なく存在していた。ヒロシの過去を知る者は誰もいない。また、ヒロシも誰にも話すつもりはなかった。自分が昔、表に出ない金専門の泥棒だったことを。

 最後の仕事で着たコートはこの町に着いた日に捨てた。「まさか、またやるとはねぇ」ヒロシは少し笑った。

 一ヶ月経った。カズとヒロシは日常に戻り、海沿いの町には秋が訪れていた。あの日以来、ユウコはカズの前に現れていない。

 これが本当の、「ユウコを失った日常」であり、いつかはこんな日が来るとカズは覚悟していた。相変わらずフラッシュバックでジンバックを飲み、今まで通りの生活を続けている。ヒロシはといえば、黒いバンをカズの工場で修理したついでにハマムラ会長から受け取った金でカーオーディオを最上級のものに変えた。機嫌良く九十年代ハードロックを聞いている。

 ハマムラ会長は相変わらずベンツを整備に持ってくる。ますます元気なようでベンツがカズの手に渡るのは、まだまだ先のようだ。そんな普段通りの日常を繰り返し、月日は過ぎていく。最近、カズは犬を飼い始めた。ユウコが生きている時に飼いたがっていたシーズーだ。こんな犬を飼うといった些細な夢も叶えられないまま、ユウコは逝った。そして今回の別れはカズにとってのユウコとの二度目の別れである。飼い始めたシーズーには名前はつけていなかった。カズは毎日、自動車工場で働き、シーズーの世話をし、フラッシュバックで飲み、そして眠る。シーズーという同居人が増えたが、アパートにはもうユウコはいない。

 代わり映えのない日常は早く過ぎる。あれから一年経ち次の夏が訪れた。海沿いの町の夏は暑い。カズは昼間、汗まみれになりながら自動車工場で働いている。仕事を終えて飲みに出る。開店直後のフラッシュバックのドアを開けた。

「いらっしゃい」

 ヒロシはカウンターの中で氷を砕いていた。右手首にはかなり高そうなシルバーアクセサリーが着けてある。ジンバックを出してくれた。

「あれから一年やな」

 ヒロシが言った。カズはジンバックを飲み干した。

「早いですね」

 ヒロシはハマムラ会長に頼まれた仕事から一年経ったという意味で言ったのだが、カズにとってはユウコがいなくなってからの一年だ。

「犬、元気?」

 ヒロシがタバコに火をつけながら聞いた。

「めちゃめちゃ元気ですよ。手がかかって仕方ないですけど」

 カズは少し笑った。フラッシュバックをあとにし、町を歩く。風が生ぬるい。

「カズくん!」

 ふいに声をかけられたほうを見ると、ハマムラ会長がいた。例によってホステスたちを引き連れて歩いている。少しうしろにはやはりワタナベが立っていた。

「去年の夏から無口になったけど体調悪いんかい?こんなジイサンがまだまだ元気やのに、情けないのう」

 ハマムラ会長にそう言われ、カズは少し笑いながら、

「元気ですよ。でも会長がなかなか死なないから、ベンツが貰えなくて落ち込んでるんですよ」

 と言った。ハマムラ会長は大きな声で笑った。

 カズはアパートに戻り、シャワーを浴びた。浴室から出てもバスタオルと着替えは用意されてはいない。冷蔵庫からビールを取り出し、飲んだ。

 カズは眠ることにした。どれくらいたっただろう、背中のほうで声がした。

「パンダ」

 振り返るとユウコがいた。

「おまえ、パンダって何やねんな」

 カズは目をこすりながら言った。

「シーズーの名前。もし飼えたらパンダにしようと思ってたから」

 ユウコは笑顔で答えた。

「いやいや、だから犬にパンダって、なんやねんな、その名前」

 カズは座り、飲み残しのビールを飲んだ。少しぬるい。となりにユウコが座った。

「ねえ、カズ君」

「何?」

「私がいなくなって、この一年どうやった?」

「別に、こっちは変わりなく暮らしてます」

 カズが答えると、ユウコは口を尖らせた。

「カズ君さあ、私、試しに一年間、カズ君の前から消えていたけど、相変わらず新しい彼女もできてないし。全然だめだね」

「失礼なやつやな」

 カズはタバコに火をつけ、鼻から煙を出した。

「カズ君がそんなんやから、私、もう少しここにいることにするよ」

 ユウコは立ち上がり、言った。

「そうか、勝手にどうぞ」

「もう!」

 ユウコはカズのとなりに座り直し、カズに静かに寄り添った。

「私がシーズー飼いたいって言ってたこと、憶えててくれておりがとう」

「たまたま安く売ってただけや」

「ごめんね。私、すぐ死んじゃったから。二人でやりたいこと、行きたいとこもいっぱいあったのに」

 カズは肩越しにユウコが泣いているのを感じていた。ユウコの小さな肩が震えていた。カズは何も言わずに、ユウコの肩を抱き寄せた。ユウコがカズの顔を見上げる。カズは言った。

「あのな、ユウコ。俺は、俺たちはこのままでええねん。だから、だからな。おまえは泣かなくてええねんで」

 ユウコの肩を抱くカズの手も震えている。涙を我慢していた。ユウコはまだ泣きやめずに震えている。沈黙が続いた。

「そうや、工場しばらく休みにして旅行に行くか」

「えっ?」

 ユウコが瞳に涙を溜めたまま、カズのほうを見た。

「だってさ、去年、ハマムラ会長にもらった金のほとんど使ってないし、おまえ旅行好きやったやん。それにさ」

「それに?」

「幽霊は宿泊費、タダやしな」

 カズは笑顔で言った。その笑顔につられてユウコも笑顔になった。

「あはは、カズ君。そうだね」

 二人はこの日から再びこのアパートで暮らし始めた。いつか本当にユウコがカズの前から消えてしまう日が来るかもしれない。ただ、今この瞬間ふたりは一緒にいる。それでいいとカズは思った。

 外で近所の高校生が花火をしている。アパートの窓から花火の光が時折、入ってきていた。その光がふたりを照らしていた。ユウコはもう泣いてはいなかった。カズの前からふいに消えてしまった一年前の夏の、あのユウコの勝気な笑顔そのままだった。

 夏の終わりには毎年恒例の花火大会がある。カズは思った。「今年は俺も浴衣を着るかな」そして少し笑った。

 ふたりの会話に気づき、パンダが目を覚ました。パンダはユウコに寄っていった。ユウコは笑顔でパンダの頭を撫でている。カズは黙ったままそんなユウコを見つめていた。

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