表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
霧幻の彼方 ~霧向こうの世界~  作者: 小池らいか
第一幕 霧の向こう側
8/11

それぞれの心



 ユーリックが日本にやってきてからの初めての冬。

 夏に予告した通り、十二月の末に司馬家の娘は戻ってきた。

「やー、もう。さっむぅい。ハルト、早く家の中入ろう!」

「ちょっ、みつき。だったら自分の荷物くらい持とうよ」

 さっそく騒がしいな。

 イアナに頼まれた買い物を済ませて戻ってきたユーリックは、目の前で繰り広げられる数ヶ月前と同種の光景に思わず笑みを浮かべる。

 迎えの運転手をしていたコウゾウも運転席から一歩降りたところで苦笑していた。

 ユーリックが敷地内に入るとコウゾウが気付いて手を振った。

「ただいま」

 以前より違和感なく発することが出来るようになった日本語での帰宅の挨拶。それに反応し、騒いでいたふたりが同時に振り返る。

「ユーリック!」

「あ、おかえり。買い物行ってたんだ」

 外見は日本撫子な美少女と異国情緒漂う少年。

 少年の方は以前よりも背が伸びたようで、記憶していた場所よりも少し目線が高くなっている。

「ああ。イアナに頼まれた」

 そう言うと少女の方にじろじろと上から下まで眺められた。

「うーん。流石に慣れた感じが出てきたわね。前来た時とは別人みたい」

「電話でも聞いてたけど、言葉も普通だし」

「教え方のうまい教師がいたからな」

 とコウゾウを見やれば、いやいや、と首を振られた。

「生徒の方が優秀だったのさ」

 その顔がにや、と自慢げに笑っている。

「それはどうも」

 このあたりのやり取りももう慣れたものだ。

「いや、これはお世辞ではなく本当だぞ。言葉に関しては僕が教えられることはもうないよ。卒業認定証をあげてもいい」

 それは大げさだ。

 コウゾウもそこはわかっていて言っているのだろう。悪戯っぽく顔が笑っていた。

 全員が苦笑したところで「あ、そうだ」ミツキが旅行鞄を開け、なにやらごそごそと探し始めた。

「ちょ、みつき。こんなところで」

 ハルトが慌てて止めようとするが、ミツキはそれを無視。じゃーん、と効果音を真似た声を上げて右腕を振り上げる。その手にあるのは細長い包み。それをユーリックに向かって差し出す。

 贈り物用の包装がされたそれに、ユーリックは首を傾げた。

「これは?」

「就職のお祝い。あたしとハルト、二人からのプレゼント。ボールペンよ」

 ミツキは満面の笑みでその包みをユーリックの手の中に押し込んだ。

「観光協会だっけ。そこの仕事手伝うんでしょ。おじさまの伝手で」

 ミツキの視線がコウゾウに移動する。

 いきなり話を振られたコウゾウは目を丸くしたが、すぐに返答を用意したようだ。

「まあ偶然なんだがね。飲み会の席で観光協会の奴が人手が足りないんだが話題性を兼ね備えたインパクトある人材が欲しいと言っていたんで、じゃあ外国人を使ってみたらいいんじゃないかって提案したんだよ。ユーリックもそろそろ働き口を見つける必要があったし」

「確か他の観光地でもそういう前例はあるみたいだから、すぐに本決まりになっちゃったんだっけ?」

「……本人の意志は無視で、なんだが」

 その件に関しては、本当にユーリックは何もしていない。

 就職口を探していたのは確かだが、その他のことは全て本人の知らぬところで勝手に決められていた。助かったと言えば助かったわけだが、就職には面接が必要だと教えられていたので拍子抜けした感がある。

「ねぇ、ここの観光協会ホントにそれでいーの?」

 ミツキが呆れているが、それがまかり通ってしまったのだからいまさらだ。

「さ、それより早く家に入ろう。凍えてしまいそうだ」

 コウゾウのその号令に従って放り出されていた荷物が動き出す。

 ちらほらと降り始めた雪がそれを後押しして地面に積み重なっていくのだった。




   ********************




 夕食後の談話室。

 筆の先が紙の上を走る音だけがしばらくの間聞こえていたが。ゴン、と木製の机に何かが打ち付けられてその全てが止んだ。

 原因はある少女が頭を机にぶつけたことによるものだ。

「うー、なんで着いて早々勉強なのよぉ」

「課題がどれだけ出てると思ってるの? さっさとやらないと終わらないよ」

 またしても夏を思い出させるそのやり取り。

 ユーリックはその間にも観光協会に渡された資料に目を通しつつ、わからない単語を前回同様ハルトに教えてもらうということを繰り返していた。その資料はひらがなだけではなく、漢字も交えて書かれたものである。

「凄いなぁ。漢字もだいぶ覚えたみたいだね」

 ユーリックの成長ぶりはハルトから見ても目を見張るものだったらしい。

「勉強するだけの時間はあった。小学六年。だったか。それぐらいまでに習う漢字は大体頭に入っている」

「え、ちょっと。あの頃からまだ半年なのに?」

 本来ならそれは六年の間に覚えるべき量だ。

 ミツキが驚くのも当然だろう。

 確かに大変ではあったが、それでも短い期間で覚えられたのは。

「記憶力は【フォライザ】にいたときからよかった」

 というのと、勉強が苦にならない性格だった為だろう。

「自慢できるのはそれぐらいだからな」

 魔法学校時代、筆記において常にトップにいた実力は伊達ではない。

「って、なにそれ。狡っ」

 ユーリックとは逆に、暗記や応用問題が苦手だというミツキには恨めしい能力のようだ。

 ハルトは集中力のなさが原因だと言っていたが、実際彼女には落ち着きがない。じっとしている時間がどうしても我慢できないらしく、動くなり喋るなりしていないと気持ちが悪いという。

「この調子だとそのうちみつき、追い越されそうだね」

 しみじみと言うハルトの台詞は諦めと感心とが入り交じっている。

「そういえばコウゾウが中学三年程度まで覚えたら、通信教育でいいから高校に行ってみないかと言っていた」

「え、ホントに?」

「申し込み時期は俺の学習速度次第らしいが」

「ユーリックなら来年の春からでも行けそうな気がするけど」

 来年の春、となるとあと三ヶ月もない。

「いや、流石にそれは無理だろう。働きながらになると効率は落ちる」

 観光協会の仕事は年明けからすることになっている。今はその準備のため、前もって渡された資料の内容を覚えている最中だった。

 それと平行して今までしていたのと同等の勉強をするのは正直難しい。

「そっか。でもユーリックなら高校学年一位も狙えそうな気がする」

「いやちょっと。異世界人に追い越されたら洒落にならないからやめて」

「だったら努力したらいいのに」

 戦々恐々としているミツキの隣でハルトがため息をついた。

 それはともかく、ユーリックはコウゾウの勧める通りにしようと考えている。この世界に暮らしていくしかない以上、知識は多いに越したことはない。

「っていうか、高校の授業が社会に出て役立つことなんてそう多くないのよ?」

「コウゾウもそんなことを言ってはいたが、俺はまだこの世界のことをよく知らないからな」

 確かにミツキの言う面もあるだろうが、ユーリックにはこの世界の知識が圧倒的に知識が足りない。自分の周りのことなら最低限ことは理解しているとは思うが、根本的にこの世界のことを知らなさすぎた。

「あ、だから父さんユーリックに高校に行ってみたらどうか、って言ったんだ」

「え、どういう意味?」

「この世界の仕組みを学ぶ意味でも、高校に行くのは悪くない選択だ。ってこと」

 ハルトが的確な表現をしてくれたので、追加の説明は不要だった。

 その結果、ミツキの嘆きが深くなってしまったわけだが、こればかりはどうしようもない。

「そりゃそうかもだけど。そうなったらますます勝ち目なくなりそうだわ」

「その分、みつきが頑張ればいいだけだよ。ほら、続き続き」

「うー」

 ハルトの正論に、ミツキの目がおそるおそる課題の山に向けられた。

「追い越されたくないんでしょ」

「うん」

「じゃあ、頑張らなきゃ」

 ミツキが拗ねたように口を尖らせる。が、最後には課題に向き合う決心をしたようだ。

「……頑張るから、褒めてよねっ」

「頑張ったらね」

 ハルトの笑顔が嬉しげに見えるのはきっと気のせいではない。

 ユーリックもこれでやっと落ち着いて資料が読めると思ったわけだが、そう簡単にはいかないのがミツキである。

 最初こそユーリックには負けられない、と腕まくりまでして課題にかじりついていたが。

「えーっと。これはあれで。あれはこれで。だからこの答えは……」

 シャープペンシルを握ってああでもない、こうでもない、と言っていたのはここまで。やがて何も言わなくなり、静かになったと思い顔を上げると目が合った。

「ミツキ?」

 正面から見れば誰もを釘付けに出来るだろう微笑みが向けられたわけだが、その目はどこか悪戯を思いついた子供のように楽しげだ。

 飽きたんだな。

 先程の頑張る宣言から数分。実は五分も経っていないのだが、彼女は課題を放棄した。

 やはりミツキはミツキだった。

「ユーリック。付き合ってね」

 そうして連れ出された先は夏場と同じ庭の片隅。

 昼間は寒いからと大騒ぎしていたのにそれよりも寒いはずの夜に出るのは気にならないらしい。

 準備運動をするミツキの表情は晴れ晴れとしていた。よほど課題が嫌だったのか、勉強している時とは打って変わって、訓練と称した手合わせでも生き生き伸び伸びと体を動かしていた。

 昼から降っては止んでの雪は、今は止んでいる。積もるほどではなかったから、庭もまだ地面がむき出しのままだ。明かりは庭に設置してある電灯と家から漏れる光だけだったが、慣れてしまえばどうということもなかった。

 ハルトはいない。ミツキが課題を放り出したのに呆れて勝手にすればいいとひとりで課題に集中することにしたらしい。夏場に無理矢理見学に参加させられていたという経緯もあるので、今回は早めに予防線を張ったようだ。

 ユーリックも出来ればそうしたかったが、相手にしなければしないでちょっかいをかけてくるに違いないのだ。それを相手にしながらでは頭に入るはずもない。

 気の済むまで好きなようにやらせようと夏と同じように手合わせをすることにしたのだった。

「むう。当たらない」

 一通り体を動かした後、ミツキは肩を落とす。

 自分の攻撃を全ていなされてしまったわけだから、ミツキはかなり不満げだ。

「前の時も思ったけど。体に一発も当てられないってどーなのよ」

「ミツキは動きが大雑把だ。見ていてわかりやすい。だから防がれる」

 ミツキの攻勢に、ユーリックは基本的に手を出さない。

 ユーリックの体術は本来魔法と組み合わせて使用する護身術のようなものだ。

 近接戦闘に相手を誘い、下級魔法で動きを奪い、とどめを刺す。

 この世界には魔法がないので自然と防御姿勢が主となり攻勢に出る回数は少なくなった。

「……的確な指摘アリガトウ。お兄ちゃんたちからもよく同じこと言われるわ」

 ミツキの性格が動きにそのまま出ているからだというのはとりあえず言わないでおいた。兄から同じことを言われるのだとしたらそのことも承知しているはずだ。

 その代わりに体が冷えきってしまう前に家の中へ戻った方がいいだろうと促す。

「あ、ちょっと待って」

 ユーリックが背中を向けたところでミツキがそれを引き留める。振り返ると腕を捕まれた。

「聞きたいことがあるの」

 思ったより真剣な表情に、ユーリックは瞬きをする。

「ここで?」

「そうよ。ここならハルトに口出しされることもないもの」

 だから自分を連れ出したのか。

 ハルトが手合わせと称した訓練に付き合うのを拒否したとき、特に何も言わなかった理由もこれでわかった。

 もちろん彼女の気晴らし、という面も大いにあったのだろうが。

「あ、心配しないで。すぐ終わる質問だから。体が冷えてしまう前に手っ取り早く聞くわ」

 ミツキはユーリックに近づき、囁くように言った。

「優佳に、何かした?」

 その声は低い。低く怒気を帯びているように聞こえる。ミツキの瞳を見て、それを確信する。

「何の話だ」

 ユーリックには思い当たる節がない。というかわからない。

 なぜここでユーカの話が出てくるのかさっぱりだった。

「心当たり、本当にないの?」

 心底わからない、という顔をしているのがわかったのだろう。厳しい目つきながらも、ミツキの顔に戸惑いが見られた。

「ない」

 と、断言してやるとため息をつかれた。

 ユーリックは本当に心当たりがない。ため息をつかれても困るのだが、ミツキが言うそれが気になる言葉であることには違いない。

「ユーカがどうかしたのか?」

 逆に聞き返すと、ミツキは頭を掻きむしった。

「あー、もー。何よ。ホントに知らないの? ってことは。いや、でも」

 なにやらひとりで、自問自答し始めてしまった。

「ミツキ?」

「うるさい。ちょっと待って。考えをまとめさせて」

 頭を抱えて唸りだしたミツキに、ユーリックはひとまず様子を見ることにした。

 それにしても。

 まさかいきなりユーカの話を持ち出してくるとは思わなかった。

 ユーリックの脳裏に思い浮かんだのは十一月の終わり頃、退院して父親と一緒にこの家へ挨拶に来たユーカの姿。

 あの時はまだ松葉杖をつき、右手も右足もギプスをはめた痛々しい姿だった。

 父親がそんなユーカを気遣いながら寄り添っていたのが強く印象に残っている。

 ユーリックが病院で発露した叫びは、あの親子の間のしこりを一部ではあるが取り除けたらしい。

 父親がユーリックとイアナ、ふたりの異世界人を認識することでユーカに一歩近づいたからだ。

 弟の件は確かめようがないために保留中だが、父親の方も異世界で生きているのならそれだけでも救いだと思い始めたようだ。

 ユーカも十二月の頭から再び高校に通い始めた。

 入院していた間の勉強をマドカに手伝ってもらった成果があったらしく、全くついていけないというようなことはないらしい。

 時々様子を見に出かけているイアナの報告では、自宅での父親との会話も増えてきているとのこと。

 前よりも自然な笑顔が増えたことも聞いていた。

 ハルトやミツキにも事の顛末はある程度イアナが話したはずだが、それにしてもミツキが聞いてくる理由がよくわからない。

「ねえ。ユーリック。もう一回聞くわ」

 ミツキが考えをまとめたらしい。先程よりは怒りの色を抑えて、指を一本立てる。

「優佳と何かなかった?」

「ない」

「心当たりも?」

「ないな」

「じゃあ、最近優佳と会って話をした?」

「……会ってないし、していない」

「は? 会ってないって、いつから」

「十一月の終わり頃だ」

 退院後に父親と一緒に挨拶に来た時、ユーカは入院していたときと変わらず、ユーリックを見ようとしなかった。俯き、手を握り込んで座っていた。

 原因は相変わらずわからないままだったが、少なくとも自分が避けられていることは伝わった。

 だからその後は会っていないし、会話もしていない。

「そこから全然?」

「ああ。いまはもう会う必要もなくなったからな」

 予想外の返答だったようで、ミツキの顔が驚きの表情で固まった。

「彼女が知りたかったのは【フォライザ】の情報だった。俺の元へ通ってきていたのはもともとそのためだったんだろう? その必要がなくなった以上、会わなくなってもおかしくない」

「え、ちょ、ユーリック。それ本気で言ってる?」

 ミツキの言いたいことがよくわからずに、ユーリックは顔をしかめる。

「それまでずっと苦しんできたんだ。ユーカが笑っていられる環境があるのならそれでいいだろう?」

「や、それ間違ってはいないけど。なんか違うから。ってか会いにいかないの?」

「会いに行く必要が?」

 自分が顔を見せればユーカは苦しむ。それはユーリックの本意とは逆のものだ。

 だから会いには行かない。

「ねえ、まさか。とは思うけど」

「なんだ?」

「夏の時から全然状況変わってないとか言わないわよね」

 ユーリックはその問いに肯定も否定もしない。ただ黙ってミツキを見返す。

 しばしの沈黙。

 ミツキはそれだけで何もかも理解したかのように体をよろけさせた。

「いや、もう。わかった。あたしが悪かったわ。謝る」

「……ミツキ?」

「直接優佳に聞くべきだったわ」

 ミツキはそう呟くと肩を落としてユーリックに背を向けた。

 結局何が聞きたかったのだろうか。

 ユーリックは首を傾げながらミツキの後を追うのだった。




   ********************




 玄関のチャイムが鳴って、待ち人が来たとばかりにこたつから立ち上がる。

「はいはいはーいっ」

 まだ急激な運動はやめておいたほうがいいと言い含められていたので、口だけ素早く動かす。

 前日に電話で来訪が告げられていたので、前もってジュースやお菓子類は準備しておいた。

 自室の暖房も一時間前から入れてあって、準備万端。

 優佳は玄関の扉の鍵を開け、夏休みの最中に出来たばかりの友人を迎え入れた。

「久しぶりね、優佳」

 勝気で、同じ女である優佳から見ても見ほれてしまうような笑顔の美少女がそこにいた。

 久しぶりだ、と思ったら耐えられなかった。

「みつきーっ」

「!?」

 彼女に向かって飛びつくように抱きつく。ぐらり、とバランスが崩れたところをみつきが慌てて受け止め、支える。

「え、ちょ、優佳。なんなのよ、危ないじゃない。っていうかそんな暴れて大丈夫なの? 病み上がりよね?」

「え、平気だよ。ギプスはとっくに取れてるし。一応大人しくしてなさいって言われはしたけどそれだけだし。他には何も」

「ってあんた何でそんなにテンション高いのよ。前とは全然違うじゃない」

「そうかな?」

「そうよ」

 はて。自分はそんなに前と違うだろうか。

 優佳が首を傾げると、みつきは呆れて「まぁ、元気ならそれでいいけど」と呟いた。

「じゃあ、部屋行こっか」

 電話ではこれまでも何度か話したが、会うのは本当に久しぶりだ。

 直接会って病院のお見舞いのお礼を言って、それ以外にもたくさん話したいことがある。

 優佳は自室の扉の前でうふふ、と笑う。

「初公開。わたくし、日渡優佳のお部屋でーす」

「はぁ? なにそのノリ。引くんだけど」

「え、そう?」

「てか、あんたほんとにキャラ変わってるわよ? 頭大丈夫?」

 ちょっとやりすぎたようだ。

 優佳はえへへ、と笑って今度は普通に扉を開けた。

 部屋の中は暖房が効いていて適度に温かい。

 女の子らしいピンクのカーペット。壁紙もピンクの水玉模様で、ベッドと机と椅子。それから本棚がひとつ。

 半年以上前から変わらない部屋。けれどひとつだけ変わったものがある。

「あ、写真発見」

 みつきが本棚の上に飾られた2つの写真を見つける。

 以前はひとつしか置いていなかったその場所にあるのは。

「こっちは家族写真で……お、これは弟くん?」

 自分と弟、父親と母親。

 一番幸せだったと呼べた頃の写真。

 ずっとアルバムの中にしか置けなかった写真は、父親と話すようになってから置くようになったものだ。

「へえ。弟くんはなかなか賢そうな顔してるね」

「でしょ。実際頭良かったよ。あたしなんか全然かなわないくらい」

「将来有望そうだねぇ。会えるものなら一度会ってみたい気もする」

「ふえ?」

「だって弟くん、あっちの世界にいるかもしれないんでしょ」

 あっちの世界。

 そう言われて優佳の胸の奥がちくりと痛んだ。

「あ、そか。みつきは知ってるんだ」

「ん。まあね。あたし自身はその辺全く関係ないからあくまで知ってるだけだけど。おばさまとかユーリックにあっちの言葉で話されたら完全に蚊帳の外だよ。あれだね。内緒話するにはいいかも」

 ユーリック。

 どくん、と久しぶりに聞くその名前に今度は心臓が鳴った。

 ああ、どうしよう。なんか嫌だ。

「……みつき。それは」

 聞きたくない。

 優佳は目を伏せて黙り込んだ。

 半年前、ユーリックが声をあげて叫んだその内容を優佳はイアナから少しだけ聞いた。

 知らなかったから。では済まない。

 自分のことばかり考えていて、ユーリック自身のことなんてまったく考えようとしてなかった。

 彼もまた、家族を奪われてここに来ていたのに。

 何も知らずに頼っていたその存在。初めて知った恋心と弟の消息を知る手がかりになるかもしてないとはしゃいでいた頃の自分が憎らしい。

 謝らなければ、という気持ちはあった。けれど、それ以上に顔を合わせて何をを言えばいいのかわからなかった。

 結局例の日以降、優佳が入院している間ユーリックが見舞いに現れることはなかったわけだが、退院してから父親と一緒に挨拶に行った喜里山家でも顔を上げられなかった。

 ユーリックと会ったのはそれきり、だ。

「優佳?」

 みつきに呼ばれて優佳は顔を上げた。目が合うと、みつきの表情が今までの楽しげなものから真剣なものに変わる。

「やっぱり、か」

「え?」

「優佳。ユーリックと全然会ってないんだって?」

 ユーリック。

 名前を聞くと胸の奥からこみ上げてくる痛みの数々。だから考えないように壁を作って明るく務めてきたのにみつきはそれをやすやすと打ち砕く。

「電話でユーリックの名前を出したことがあったでしょ。そしたら今みたいに様子がおかしくなった。あの時はあえて聞かなかったけど。一昨日ユーリックに問いつめたら夏から口きいてないっていうじゃない」

「…………」

「余計な口出しはやめておこうかと思ったんだけどね。今の優佳を見て、放っておいていいとは思えないから聞くわ」

 怖い。と優佳は思った。

 みつきが、ではない。自分の中にあるその感情が暴き出されてしまうのが怖かった。

 後ずさり、後ろにベッドがあることに気付いた。

 逃げたいという思いは強かったが、みつきは逃がしてくれないだろう。

「どうしてユーリックを避けてるの?」

 逃げ場はないのに逃げようとして優佳はベッドに尻餅をついた。

 みつきから目を離せない。離させはしないとみつきが優佳を見張っている。

「みつき、だって」

 優佳の中にある罪の意識が、それ以上の言葉を封じた。

 事故に遭ったとき、優佳は悟ってしまったのだ。

 異世界からやってきたあの少年、ユーリックが弟には繋がらないことを。

 だけどそれは、そうなる以前から心のどこかにひっかかっていた棘だった。

 でも、もし万が一繋がるとしたら?

 不安の方が大きかった。けれどほんの少しでいいから期待も持ちたかった。だから執着した。わずかでも望みがあるとそう信じてユーリックの元へ通い続けた。

 その結果が父親との決裂とあの事故だ。

 誰も悠斗を救えない。優佳のことだって救ってはくれない。家族は終わり。

 それはまさに絶望だった。

 あの事故のあと、ユーリックを遠ざけたかったのは、それを再確認したくなかったからだ。

 けれどその後。

 イアナや父親から聞いたユーリックの嘆きは優佳のその絶望を罪悪感に変えた。

 ユーリックも優佳と同じだった。否、優佳以上に苦しんでいた。

 元いた世界に二度と帰れない。家族にも会えない。右も左もわからぬ世界で、知るものが誰もいない世界でたったひとり生きていかなくてはならないその痛みを優佳は知らなかった。

 自分が求めるばかりでユーリックの痛みを知ろうとしなかった。

 あげく、その彼に恋心を抱いた自分。

 なんて自分勝手だったんだろう。

 そう思った優佳は蓋をした。

 ユーリックに会いたいという気持ちに。

「……なんていうか。優佳の場合、すっごくわかりやすいわ。ユーリックの場合だとポーカーフェイスうまいからよくわかんないんだけど」

 みつきが家族写真から離れて、優佳の隣に座る。

「あのね。優佳が本当のとこなにを考えてるのかはあたしにはわからない。でもそうやって溜めれば溜めるほど自分が辛くなるだけだよ。たまには全部吐き出しちゃわないと。優佳は笑ってるけど、でもその心は笑ってない。優佳の周りの歪みがその証拠」

 みつきがどこから取り出したのか、一枚の紙を手にしていた。

「ユーリックはそのあたり流すのがうまそうよね。彼はあたしから見たら異質ではあるけど、心の歪みは自分で修正できる人だから。あ、でも一度爆発しちゃったみたいだから、そうでもないのか。ま、それはどうでもいいんだけど」

 みつきは一体何を言っているんだろう。

 優佳が疑問を覚えたとき、みつきの手が動いた。

「いたっ」

 唐突に額を突かれて、視界が揺れる。なにか白いものがその端に映った。

 みつきの唄が耳に入る。

 知らない言葉で紡がれるしらない唄はそれなのにどこか懐かしく、締め付けられていた何かがほどかれていくような感覚を伴って優佳の心に入り込む。

「もっと自分に素直になりなさいよ。自分を押さえるのも大事ではあるけど、それだけじゃ一番大事なことを見逃してしまうわ。そうなったら絶対に後悔する。自分の気持ちは自分にしかわからない。でも言葉にすれば相手に伝えられるの。後悔だって言葉にすれば相手に伝わるのよ。優佳が伝えたいって思えばね」

「……でも」

「ユーリックには会いたくない?」

 額からみつきの手が離れる。同時に彼女が持っていた紙もなくなった。

 不思議に思って見上げると、みつきは女の側から見ても見惚れるような笑みを浮かべて優佳の返事を待っていた。

「さっきも言ったわね。優佳の気持ちは優佳にしかわからないけれど言葉にすれば相手に伝わるって。あたしは優佳じゃないし、優佳の気持ちもわからない。だけど想像は出来る。優佳はユーリックに何か負い目を感じてる。だからユーリックの話題になると黙っちゃう。違う?」

「違わない」

 今までならためらっていただろう答えがするりと口から出てくる。それも不思議に思ったが、みつきは優佳の返事に満足したようだ。

「優佳はユーリックが好きだったのよね。だから余計にその負い目を感じてしまってる。そのきっかけはあの事故でしょ。あの時からおかしかったもの」

「うん」

「で、ユーリックが爆発しちゃって。それを聞いてますます何も言えなくなっちゃった。ってとこか」

 みつきがひとりで納得して、大きなため息をついた。

「そりゃ、歪みまくるわけだわ。たぶんユーリックは優佳の反応を見て自分が見えないほうがいいだろうって判断したんだろうね。わからなくはないけど、自己完結型の人間はこれだから。ユーリックの誤解も相当なもんね。っていうかあれはわざとなのかしら。無理矢理自分に言い聞かせてた? いや、どうかな。ユーリックだし。あの対応だと優佳が幸せならそれでいいっていう親心?」

 誰に答えを求めるでもなく、完全にひとりごと状態でみつきは延々と喋り続ける。

 聞こえる内容はユーリックに関するもの。

 それに戸惑いながら優佳はみつきの様子を窺い見た。

「え、あ。みつき?」

「ああ、いいのよ。大丈夫。優佳に必要なものはわかったから」

「……え?」

 すでに優佳にはみつきの言っている意味がわからない。

「まあ、任せといて。ちゃんと解決させてあげるから、ね」

 悪戯っぽく笑うみつきの意図が全て把握できたのは年が明けてから。

 夏祭りと同じ場所で、ユーリックと再会してからだった。




2012.3.3色々修正

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ