夏の終わりに
「お、終わらなかったわ」
がっくりとまとめた荷物を足下に置いて、ミツキがうなだれる。
「いやまあ。そうだろうね。お見舞いにかこつけてさぼってたみたいだし」
同じく荷物をまとめたハルトの突っ込みは、的確にミツキの心に突き刺さったようだ。
「くっ、ハルトのくせに!」
夏休みが終わるまで、あと七日。
ハルトとミツキが司馬の家に戻る日がやってきていた。
コウゾウが車を出して、ふたり分の荷物を積み込む。
ユーリックの見送りは庭までのため、ここで二人とはお別れとなる。
「イロイロ、助カッタ。アリガトウ」
「こちらこそ」
お互い穏やかに微笑んで、握手を交わす。
「みつきの件では特にお礼を言っておかないと」
「あらぁ。それはどういう意味かしら?」
背後から忍んできたミツキがぼそりと呟く。
「言わないとわからない?」
「うふふ。いい覚悟ね。帰ったら覚えてなさい?」
視線だけで誰かを射殺せそうな形相のミツキがハルトの背中に拳を入れる。
「いっ……!?」
そのまま肘鉄を連続して叩き込むと、ハルトは完全に沈黙した。
帰ったらもなにもないじゃないか。と涙目になるハルトを黙殺して、ミツキはユーリックを見上げる。
「うふふ。見逃してくれてありがとう」
単に止める機会を逃してしまっただけなのだが、礼を言われたユーリックはすっかり癖になってしまったため息を落とす。
「ホドホド、ニ」
「わかってるわ。大丈夫よ」
目を奪われるような笑顔を湛えた美少女は肩をすくめた。
「それよりも、優佳よ。優佳」
ミツキは今だ入院中の少女の話を持ち出した。
「まだ会ってもらえないんでしょう?」
最初の見舞いから、すでに十日以上が経過。ハルトやミツキ、マドカなどの同級生はとっくに面会に行って会話もしている。
だが。
「行ッテ会ウ、出来ル。デモ会話ダメ」
病室まで行くことも、会うことも出来る。けれど、ユーカはユーリックを見ない。口も開かない。
ユーリックに対してだけ、その態度を貫いている。
貫き続けている。
「んー。歪みの方もなにか憑くまではいかないけど、濃くなったり薄くなったり不安定だし。やっぱり根本的なところが原因かな。理由がわかればそっから切り込んで解決できるんだけど。肝心なところを優佳が話さないんだよね」
だからお手上げ。
ミツキが文字通り両手を上げる。
「お父さんと喧嘩して、家を飛び出して事故にあった。誰が聞いてもそれしか言わないの。流石に親子の問題じゃ、早々あたしたちみたいな他人が入り込むわけにはいかないんだけど。でもそこでなんでユーリックだけ無視されるのかよくわからないのよね」
「……ソレハ」
ユーリックにもわからない。
自分は何かしたのだろうか。とユーカの友人であるマドカに尋ねてみたが、微妙な表情をされたもののそれはない。と断言された。
「ま、とにかく。根気よく頑張るしかないわね。また冬に来るから、それまでにはどうにかしてね」
「うぇっ!? 冬休みもうちに泊まる気!?」
きっぱりと宣言されて、地面にうずくまっていたハルトは素っ頓狂な声を上げて復活した。
「あら。当然でしょ。優佳はあたしの友達よ。友達に会いに来て何が悪いの?」
「いや、悪くはないけど。なんで僕の家……」
「だって、宿代が浮くでしょ」
「その分僕の苦労が増えるんだけど」
勉強の分野でハルトにやりこめられていた鬱憤が溜まっていたのかもしれない。
ミツキはこの屋敷に来たばかりの頃の調子をすっかり取り戻していた。
「目の保養になる美少女が同じ家に泊まってあげるって言ってるのよ。ありがたく泊まらせなさい」
「……これだもんなぁ。ユーリック。一緒に来ない?」
「イカ、ナイ」
懇願されたところで無理は無理。流石にユーリックも毎日面倒は見きれない。
「うふふ。今度はちゃんと同じ部屋がいいわね」
「って、みつき。顔が怖いよ。本気? っていうかそれ本気なの?」
じゃあね、とミツキは恐れおののくハルトを引きずって車へと向かっていく。
にぎやかさが去り、そして静けさが戻る。
日差しが緩やかになりつつある夏の日の午後のことだった。
********************
八月二十六日。
ユーリックはユーカの見舞いのためイアナに連れられて病院に来ていた。
前もってマドカからも連絡があり、一緒に行くことになっていた。
マドカが言うには今日がユーカの誕生日で、プレゼントを持っていく、とのこと。
イアナはそれを聞くと自分たちも準備しなくてはと大急ぎで買い物に連れ出された。
【フォライザ】では、誕生日は王族の祭りとして認識されているだけで一般庶民は気にしない。
ああ、またひとつ歳を取ったのか。程度の認識だったから、一人一人の誕生日を祝うというこの国の習慣は新鮮だった。
だがこれでユーカの気持ちが少しでも晴れるのなら。
ユーリックは待ち合わせたマドカとイアナと共に病室に向かった。
「優佳ちゃん。来たよ」
マドカが声をかけると雑誌に目を通していたユーカの視線が三人に向いた。瞬間的に逸らされたのは、ユーリックが目に入ったからだろう。
俯いて、顔を上げることはない。
今日も駄目か。
「今日は優佳ちゃんの誕生日だから。プレゼント持ってきたの」
「え、ほんと。嬉しい」
目を伏せつつ、マドカの方に顔を向け、ユーカはぎこちなく笑う。
ユーリックは彼女が自分を気にしながら、マドカにも気を遣っているその状況に口を引き結んだ。
わかっていたこととはいえ、辛い。
自分がユーカに避けられていることはまだいい。だがそのことでユーカが気に病む姿は見たくない。
自分はいない方が彼女は気兼ねなく誕生日を笑顔で過ごせるだろう。
それは見舞いに来る度、何度となく感じていたことでもある。
「イアナ」
【ニホン語】は使わない。フォライザの言葉で席を外す旨を伝えた。
「ユーリック。いいの?」
返すイアナはニホン語だったが、それにうなずき返すとユーリックはベッドのカーテンの囲いから抜け出した。
イアナが見舞いを終えるまで待合室ででも待機していようと病室の入り口に向かいかけたユーリックだったが、ひとりの男と目が会った。その途端男は顔を強張らせてきびすを返した。
ユーリックはとっさにその男の後を追う。
それは直感だった。
目が合ったその瞬間は他の患者の見舞い客なのだろうと思ったのだが、男が逃げるように去ったことでユーリックの脳裏にある可能性が思い浮かんだ。
「待ッテ」
後を追ったのも、直感だった。
おそらくユーリックと目が合ったのは偶然ではない。男が見ていたのは、たった今までユーリックがいたその場所だ。
「アノ」
二度目にかけた言葉で、男は立ち止まった。振り返る。
初めて見る顔だったが、瞬間的に父親だ。と思った。
似ている、と思ったのはその瞳。
罪悪感と、悲愴を背負った泣きそうな目だ。
「アノ、ユーカ、ノ」
彼女がここにいる以上、父親も家族として顔を出すのは当然だろう。友人たちの語らいの最中にやってきてもおかしくはない。
だが、ユーリックと目が合った途端に背を向けるのは少しおかしい。
確か優佳は父親と二人暮らしのはずで、それならなおのこと顔を出すべきだろうに。
「……君は、優佳の友達かい?」
少し怪訝そうに、男はユーリックを見つめていた。
*********************
待合室で、ふたりは横並びに座った。
「私は日渡玲二。優佳の父親だ」
やはり想像通りだったようで、その男は弱々しく微笑んだ。
やつれて見えるのは、娘が入院してしまったからか、心労が溜まっているからなのか、ユーリックには判断がつかない。
ただ何かを喪ったことだけは確かだろう。
昔、ユーリックの母親が父親の死を知らされた時とよく似ていた。
「ハジメマシテ。ワタシ、ハ、ゆーりっく、デス」
「ああ、少しはしゃべれるようだね。あ、いや、済まない。失礼だったかな」
「ダイジョブ、デス。聞ク、ハ、ダイブ、出来ルヨウニ、ナリマシタ」
「そうなのか。いや、しかし」
レイジと名乗った男は今までの人間のようにユーリックを上から下まで眺めて、感心する。
「君のような外国の人が見舞いに来るとは想像していなかった」
「ユーカ、ワタシ、二、言葉ヲ教エテモラッタ」
「ん? 優佳が、君に言葉を教えたってことかな」
どうやら一部分間違えて使用してしまったようだ。聞き返されたが、とりあえず意味は通じたようなので頷く。
「そうか。あの子がそんなことを」
「トテモタクサン。教エテ、クレタ」
通訳なしで本格的に喋るのはこれが初めてだったが、どうにかなりそうな感じだってので続けた。
「感謝、シテ、イマス」
「……そうか。いや、ありがとう。あの子をことをそんな風に言ってもらえるとは、嬉しいよ。でもそうか」
レイジは自嘲気味に笑っている。
「私は娘がそんなことをしているとはひとつも知らなかった。知っていて当然のことなのに。親失格だな」
「シッカク?」
「ああ。失格だ。わかっていたことだが、こうして聞いていると堪える」
そうしてレイジはユーリックの顔をじっと見つめて「君に話してもどうしようもないことなんだがね」と肩をすくめた。
「普通親というのは、子供の話を聞いてやるものだろう。少なくとも五年前までは私もそうしていた。だが、悠斗……優佳の弟なんだが。あの子が行方知れずになってしまってから全てが変わってしまったんだ」
彼は再び自嘲する。
「妻は精神を病み、まともではいられなくなった。私はそれに苛立ち、彼女を責め、優佳はそれを見かねて、悠斗を捜すようになった。家族は次第にバラバラになっていったよ。私は耐えられなくなり、妻を壊した。彼女は今精神病院にいる。そして私は優佳と二人になった」
幸せだったはずの家族が崩壊していく姿を語るレイジは全てに疲れているように見えた。
大切な家族の喪失が招いた悲劇。
その末路が今の状態ということなのかもしれない。
ユーリックはユーカの弟を攫っていったかもしれない【霧】のことを思う。
ユーリックもあれのせいで、全部が変わってしまった。
仲間とも、たった一人の家族である母とも引き離されてここにいる。
何故、こんなことになるのだろう。
「どうして、こんなことになったのかわからないんだ」
ユーリックが思うことと同じことを彼は言葉にした。
「わかっていた。わかっていたのに、私は優佳を、家族なのに放っていたんだ」
そう俯いて、頭を抱える。
「その結果がこれだ。あの夜、私が言った言葉が優佳を傷つけて、怪我までさせてしまった。そう思うと病室に足を向けるのが怖くなった」
「デモ、部屋、来マシタ」
「だが病室には入れない。必要な着替えや小物を持ってくるだけだ」
「ド、シテ?」
率直に聞くと、レイジは目を丸くして苦笑した。
「そうか。君は外国人だからな。ストレートに聞いてあたりまえか」
なぜ笑われるのかわからなかったが、ここで尋ね返せば話が逸れてしまうことはわかったので黙っておいた。
「簡単さ。また同じことを繰り返すことが怖いんだ」
「繰リ返ス、デキナイ?」
「無理だな。優佳の顔を見て、同じことはしないと言い切れない。どうせ我が家の事情はこの町のほとんどが知っているから隠しても仕方ないんだが。優佳の行動は私から見ていると妻とよく似ていてね。それが私には我慢できなかった」
「ドウイウコト、デスカ?」
「悠斗がまだ生きているように振る舞うんだ」
その時のレイジの瞳に浮かんだのは憎しみ、恨みの表情だ。彼の震える拳、食いしばる口元からもそれは見て取れた。
「悠斗がいなくなってもう五年だ。生きているなら、もうとっくに帰ってきているはずだろう? いない人間にすがることほど滑稽なものはない。過去ばかりを見て、その先を認めずに生きてなんになる。悠斗は死んだ。もう二度と帰ってこない。その現実を見ろというのはそんなに酷なことだと思うかい?」
「……イエ」
確かにレイジが言っていることは正しいとユーリックは思う。
ユーリック自身もまた、二度と故郷へ帰れないという現実を突きつけられている。それを受け入れなければ生きていけないということも理解していた。
けれどそれを受け止めきれずにいる人間がいることも事実。
「優佳も妻も悠斗が死んだことを認めようとはしなかった。そうして自分の世界にこもって出てこない。私はそれを見ているのが辛いんだ。だから」
ぎり、とレイジの拳が唸る。空いていた隣の席に拳を打ち付けて彼は言う。
「私は息子が……悠斗が憎い!」
途端に彼から激情が迸り、荒ぶる声が待合室に響く。
「自分の息子だ。息子なのに私は悠斗が憎くてたまらない。死んでいるのに私の家族を奪っていく。でも私たちは生きているんだ!」
驚いた患者や看護士たちが振り返る。だが、誰も咎めようとはしなかった。それほどまでにレイジの叫びは悲痛に満ちていた。
「悠斗は……どうしてこんなことをするんだ。死んでいるのにこの先もずっと、妻と娘はそれに囚われたままだ。だから私はっ」
現実を見てその先を生きて欲しくて、家族の中でただひとり現実を見ることが出来た彼は苦しんでいたのだ。
ユーカとは違う方向で、ユーカが望む結末に至らない別の結末を欲していた。
ふたりがすれ違ってしまった原因はそこにあったため、家族は皆ばらばらになったのだ。
ユーリックは彼らのあり方がとても辛く、考え方が悲しいものに思えた。
レイジの瞳は涙を湛え、既にあふれ出している。
このままではいけない。
ユーリックは思うままに、それを口にした。
「ユーカ、弟、ガ、異世界ニイル、思ッテイマス」
「……聞いたのか」
「ハイ」
忌々しい、とレイジの瞳に再び憤怒が宿る。
彼にとって悠斗という息子は当に死んだ存在で、ユーカの言うそれはありえない妄想に過ぎない。
現実を見て欲しいと願うレイジには許せないことなのは当然のこと。
「確か【霧の神隠し】の桃源郷だったか。だがそんなのは作り話だ。あり得ない」
確かに、ユーリックも自分が【フォライザ】にいる時は自分がそんな目にあうとは思わなかった。
だが実際にはここにいる。存在してしまっていた。
「デモ、ソレガ本当ダッタラ?」
「君までそんな与太話を信じるのか!?」
怒りの矛先がユーリックに向いた。けれどこれは予想の範囲内。
「嘘ナラ、ワタシ、ココニイナイ」
もしかしたらこれからする告白は今以上に彼らを苦しめることになるかもしれない。そうなれば完全に家族の絆を壊すことにもなるだろう。
だが今のままでも酷すぎる。互いにすれ違い、破綻していく家族を見ているのは辛すぎる。
少しでもそのすれ違いがなくなるのならばとユーリックは願う。
覚悟はとうにできていた。
「ワタシ、ユーカガ言ウ、異世界カラ来タ人間、デス」
これを告げることで、もし完全に彼らの家族の絆が途切れてしまったときは。
その時はその憎しみを受け止め、死を望まれたならそれを受け入れる。
殺されてもいい。
ユーカがもう一度笑ってくれるなら。
それで、ユーカが救われるなら。
「ふざけるな!」
殴られた、と自覚した。
覚悟はしていたが、口の中が切れた。
血の味を嚥下し、ユーリックは怒りで震えるレイジを見上げる。
それを目撃した人々から悲鳴が上がる。
「お前か。お前が優佳に馬鹿なことを吹き込んだのか!?」
レイジの拳が、再びユーリックに迫る。だが今度は殴られるつもりはなかった。
所詮、訓練も受けていない一般の人間。
喧嘩慣れした程度であれば、魔法師団に入るための鍛練を積んだユーリックの相手ではない。
レイジの拳はユーリックの左手に吸い込まれ、その勢いのまま腕をひねる。
「っ!?」
相手の勢いを利用して腕を後ろ手に固定すると、レイジの顔が歪んだ。
周囲の慌てる様子が見なくてもわかる。
「ダイジョブ、デス」
と言っても傍目にはそうは見えないかもしれない。けれど、ユーリックはそのままレイジにだけ聞こえるように声を落とし、告げた。
「ワタシ、自分ノ意志、デ、来タワケデハアリマセン」
三度暴れられて、話どころではなくなってもらっては困る。
必死に抜けようともがくレイジを押さえつけ、言い聞かせる。
「霧ガ、ワタシ、コノ世界、運ビマシタ」
「……っ、黙れっ! そんな嘘を私が信じるとでも」
彼の中では息子はとっくに死んでいる。
ユーリックもレイジがそれを言葉にした時点で理解していた。が、今のレイジの言い分は、ユーリックのある琴線に触れてしまった。
家族を失ったのがあなただけと思うな!
耐えきれなくなって【フォライザ】の言葉が出た。
周囲がしん、と静まりかえる。
【ニホン語】など使っていられない。そんなものは、ユーリックにとっていらないもので、必要ないものだった。
それなのに自分は今ここにいる。手足の延長のように使えていた魔法のないこの世界で生かされている。
この世界で生きるしかなくなった。
それなのに、これがユーリックの真実で現実なのにレイジはそれを否定した。
呆気にとられる野次馬たちを前に、ユーリックは心のままに叫んだ。
俺には俺の家族が。母さんがいたんだ。
父さんが死んでからずっと長い間、母さんはひとりで俺を育ててくれた。
母さんが反対する道を行くことを許してくれた。
まだ何も返せていないのにもう二度と会えない。
俺は死んでいない。でもあなたの息子と同じだ。
母さんはきっとあなたやユーカと同じ思いを抱えて生きてかなきゃならない。
俺だって俺の家族にもう二度と会えないんだ!
どうして。どうして俺がこんなところに来なければならなかったんだ。
どうして俺だったんだ!?
憎い、というのなら。
レイジが息子を憎むように、ユーリックはこの世界が憎かった。
この世界に自分を運んだ霧が憎かった。
ずっと胸の奥にあって、吐き出せずにいたその感情。
違う世界で生きなければならないという痛みが、今までは憎しみを勝っていた。
けれど、異世界にいるかもしれない弟を捜すユーカを見て、ありもしない希望をもたらす息子を憎むレイジを見て、気付いた。
ずっと自分が言いたかった本心。
狂おしいほどの望郷の思い。
涙が溢れる。
「ユーリック!」
イアナが血相を変えて駆け込んでくるのが見えた。
イアナがフォライザの言葉で大丈夫かと問う。
「イアナ」
帰りたい、と言えばイアナは困るだろう。
彼女もまたユーリックと同じ運命を背負った人間だった。
それでも今だけは許して欲しいと思う。
帰りたいんだ。イアナ。
どうしようもなく悲しかった。
********************
今はただ、眠りなさい。とそれだけしか言えず、イアナは同じ世界から来た少年をベッドに寝かせた。
その枕元には魔法を思い起こさせる籠手を模した魔道具が置いてある。
なにもかもを失った、その少年が唯一彼の世界にいたと照明できるもの。
イアナは昼間見た少年の憎しみと悲しみを、ただ思う。
かつて自分が抱いていたそれを彼は今まで発露しなかった。
何故、どうしてと疑問はたくさんあったろう。
けれどそれを怒りとして外に出すことはなかったのだ。
相当に内に溜めていたに違いないそれが今日、爆発した。
「……おやすみなさい。ユーリック」
入り口のスイッチで電気を消し、イアナは夫が待つ書斎へ向かった。
「コウゾウ。入りますわね」
ノックを2回。すぐに返事があったので入室する。
コウゾウは机に向かって何かを書いていた。彼の表向きの仕事は歴史・郷土研究者だ。おそらくその方向の原稿でも書いていたのだろう。
「ああ、イアナ。どうかな。彼は」
一時的に手を止めて尋ねてきたコウゾウに、イアナは静かに微笑んだ。
「本心をさらけ出したせいでしょうね。疲れたのでしょう。眠っています」
昼間の出来事は余すことなく、全て伝えてある。
ユーリックが優佳の父親に伝えたことも、そのあとどうやって収拾をつけたかも全てである。
結論からいうと、イアナは優佳の父親に全てを打ち明けた。
ユーリックの叫びは、どうやら言葉はわからないまでも彼に届いていたようだ。
一応話は聞いてくれたが、それを信じるかどうかは彼次第。
また、娘である優佳との関係がどうなるかもこれからの彼次第だ。
「まったく、困ったものだね」
コウゾウが目を細める。
「霧と門は一体のもの。いまこの瞬間も存在し、人を攫い、人を運ぶ」
「ええ」
「まあ、おかげで君と出会えたわけだが。それに関わってしまった者は心に傷を負う。あれは人に害なす存在。だが存在している。消えはしない。これからも、この先もずっと」
「ええ」
「霧とは何なのだろう、と考えることがある。いや、僕の前任者たちが徹底的に調べ上げたことはわかっている。あれは門。異世界に通じるもの。この地以外に存在する門と同種のものだが、よそと決定的に違う面がある。違うのは制御も、封じることも出来ないということだ。それ故に異質、と言わざるを得ない」
「あなたはそれを、どうにかしたいと考えていらっしゃるのね」
コウゾウが目が瞬く。照れたように「まいった」と頭に手を押し当てた。
「ふふふ。何年一緒に暮らしているとお思いですか。わたくしはあなたの妻ですよ」
「……流石、だな」
「ええ。妻ですから。もちろんお手伝いさせていただきます」
わかっている。
彼が何を考えているかなんて考えるまでもない。
今まで霧によって運ばれてきたフォライザ人。そしてこれから運ばれてくるだろう人々。もちろんこちらから向こうへ運ばれてしまった人、運ばれてしまうかもしれない人々も含まれている。
彼らの不幸を止めたい。
その気持ちも確かに間違いではないだろうけれど、それはついでに過ぎない。
彼の望みは、彼が願うその先にあるものは。
「まずは、何をしましょうか?」
全てを穏やかな笑顔の中に押し隠して、イアナは愛する夫の元へ歩み寄る。
お互いの気持ち、お互いの本心。
彼らの望みが重なることは決してない。
それでもふたりは共にあることを望むだろう。
その生があるかぎり。
永遠に。
2012.3.3色々修正