心のゆらぎ
楽しかった。そして、嬉しかった。
それが例え、相手に意識されていないとわかっていても。
気恥ずかしくて、きっとこれからはなかなかその顔を見ることが出来なくなるだろうけれど。
夏祭りの最後に。そして肝試しの時に初めて自覚した、自分の中に生まれた恋という感情。
きっとまどかがいなければ、その自覚はもっと先だったに違いない。
まどかと二人、肝試しが終わって帰る途中はずっとその話題で持ちきりだった。
そうしてまどかの母親に家まで送ってもらった優佳は、少し浮かれて玄関の鍵を取り出した。
がちゃり、という重苦しい音のあと扉を開けて家に入る。
「ただいま」
いつもなら浮かない帰宅の声も今日はこころなしかトーンがひとつ高い。
返事がないことも、気にならなかった。
お風呂に入って、それから髪を乾かして。優佳は台所に入る。
確かオレンジジュースがまだ入っていたはずだ。
コップを取り出し、冷蔵庫を開ける。予想通りオレンジジュースのパックが入っていた。父親はジュース系は滅多に飲まない。中身は前回飲んだ分を差し引いても半分ほど残っていた。それをコップのぎりぎりな部分まで注いで、半分ほどをぐいっと一気飲みする。
「ぷはー」
風呂上がりの親父もどきな行動だと優佳は苦笑するが、誰も見てないのだから構うことはない。もう半分も飲み干して、コップを流し台で濯ぐ。
「……寝よっか」
時計はすでに夜中の零時近くを示している。
父親の朝食を作るのは朝の六時すぎくらいからだから、今寝ないと朝に響く。
そうは言っても、今夜の興奮が冷めやらぬ今の状態で簡単に眠れるはずもなかったが。
「ねえ、悠斗。あたしね、好きな人が出来たんだよ」
部屋に戻って優佳がしたことは、七歳の弟の写真に話しかけることだった。
写真の中の弟は笑っている。七歳のまま、ずっと変わらない。
「実はその人、悠斗がいるかもしれない違う世界の人なんだ。格好いいんだよ。背も高いし、強いし、凛々しくて、目があったらもう顔から火が出そうになっちゃった」
思い出すだけでも、恥ずかしい。
自分の今までの行動が、自分の全ての思考をユーリックに縛り付ける。
「普通に抱きついたり手を繋いだりしてたけど、今度から簡単に出来そうにないの。まあ、彼があたしのことを意識してくれてるかわからないんだけど。今までも拒絶はされてなかったし、大丈夫だよね。見込みあるよね?」
悠斗が年相応に育ってそばにいたなら優佳の初恋をなんと言ってくれただろうか。
応援した? それとも呆れてそっぽを向いたかもしれない。
「あ、でもまず言葉がちゃんと通じないと駄目だよね。少しずつ覚えてくれてるみたいだけど。告白するにも、ちゃんとそれが伝わらないとだめだし。流石にそれは通訳してもらうわけにはいかないよねぇ。っていうか、ちゃんと伝えたいもん。そこは絶対」
うんうん、と返事がなくても優佳は止まらない。
「でも伝わるとして。言えるかな。だって、顔見るだけで心臓がばくばくいうの。もー恥ずかしくて恥ずかしくて、どうしようかと思っちゃった。そこに目が合ったりなんかしたら……きゃーっ」
ベッドに顔を埋めて、優佳は悶えた。ばしばしと手が布団を叩く。
だから気付かなかった。
部屋の外に立つ人間がいたことを。
「と、とにかくだよ? ちょっと怖いんだけど。告白してみようとは思ってるの。たぶんまだ先だけど。だから、だからね」
優佳は写真立ての中の弟に微笑む。
「悠斗。おねえちゃんを応援してね」
その直後、どん、という音と共に部屋が揺れた。
「っ!?」
遠くではない、すぐ近く。何かが壁にぶつかる音が優佳の顔を上げさせた。
ああ、どうしよう。
優佳は体を縮こまらせた。
その背後には気配が一つ。誰なのかは言うまでもない。
この家に住んでいるのは二人だけだ。
優佳とそして……
振り返った優佳が見たのは、全開になった部屋の扉と。
「……優佳」
冷えた目をした父親だった。
********************
ミツキがばてている。
これはユーリックがばてているのとは違った理由によるものだった。
【レイボウ】が効いた部屋にいるので現状ユーリックがばてているということはないのだが。
ミツキが苛立ちを露わにして叫んだのは、まだ午前中のことである。
「あー、もうっ。なんであたしがこんなのを!」
「ちょっとみつき。うるさい。静かにしなよ。集中できないから」
「って、あんたはなんでそう冷静なの!?」
「……なんでって。僕らは高校生。夏休みなんだから課題があって当然だと思うけど」
「くーっ。この優等生! 写させなさい!」
「駄目。無理。写したらばれるよ。そしたらやり直しさせられる。僕も含めてね」
以上は【ニホン語】での彼らの会話。だが、筆記用具と課題のノートの前で言い合っているその様子を見ればなんとなくその内容は想像がついた。
魔法学校でもあちこち見られた光景だ。
「せっかく夏祭りで楽しめたと思ったのに。最後はコレ!?」
「僕は振り回されて終わったけどね」
「地獄よ。地獄」
「うん。たまには味わった方がいいね。みつきは」
ミツキがこれまで課題のことを頭の隅に追いやっていたのが原因である。これまでの鬱憤が溜まっていたのか、ハルトはミツキを適当にあしらっている。ユーリックから見ても自業自得だとしか言いようがなかった。
そのユーリックはニホン語の勉強として、書き取りをしている。【ヒラガナ】と【カタカナ】は覚えたので、その二つで描かれた絵本を意味を覚えつつ丸々書き写し中である。
一冊写し終えるとそれを読み上げる。ニホン語の発音や綴りが間違っていないかの確認でもあった。わからない意味はすぐにハルトに尋ねるようにして、現在合計で三冊目に突入。
一定の数の基本的な文字を並び替えて単語にし、文章を作る。
これはどの世界でも共通のようだ。
そうやって学ぶ中、ユーリックがまず驚いたのはこの国で使用される文字の種類が多いことだった。
同じニホン語を使うのに形の違うヒラガナとカタカナ、そして更にはカンジという一筆では書けない文字。
前の二つはまだよかった。
形が違うだけで同じ発音だったからだ。同じ発音なのに、書き方が2種類あるのはどうしてだろうという気もしたが、そういうものなのだと納得してしまえば終わりだ。
ただカンジがわからない。
一文字で意味を成し、それを連続した単語を作る。ヒラガナやカタカナがそれに混ざって文章になる。
こうなるとややこしい。
耳から聞き取るぶんには問題ない。
だがこの国ではカンジを使った文章が一般的に用いられているため、何か仕事をしようと思うなら習得は必須事項だ。
さらに、この国以外の言語まであり――そちらの方がユーリックにとって習得は簡単だったかもしれない――そこまで行くには随分な時間がかかりそうだ。
だが何より驚いたのは、この国では十五歳以下の子供全てがそれらの言語を含める学問を修める権利があるということ。
つまりそれはこの国に住む全員が文字を読み、書くことが出来るということだ。
下手をすると十歳にも満たない状態で働きに出されるバルフェルド王国では考えられないことだった。
そういうことであれば【カガク】技術とやらが発展している理由も頷ける。
「まあ、ちょっと早めに向こうに戻ることになるんだし。こっちに居る間に課題を終わらせたらあとは遊べるよ?」
ハルトの方は今日明日中には全ての課題が終わるようだ。
「……これだから要領のいい人間はっ」
「要領がよければ、みつきに捕まらないと思うけど」
「ん? 何か言った?」
「え、気のせいじゃない?」
こんなやり取りがここ数日続いている。
「あー、もう。止め止めっ」
限界に達したらしいミツキがペンを放り出す。
課題に取り組み始めて一時間後のことだった。
「午前中は勉強するって自分で言い出したのに」
「いや、駄目でしょ。午後は暑すぎて外に遊びに行けないー! ねぇ、ユーリック。訓練。訓練付き合って! 修行よー!」
「シュギョウ……」
確か訓練と同義語だったか。
ユーリックは書き取りの手を止めて顔を上げる。ミツキの切羽詰まった表情が案外近くにあってちょっと体を引く。
「ダメ。ベンキョウスル、ダイジ」
「えー、なんでようっ!」
「オボ……オボエル、ダイジ。ワタシ、コレ、イマ、ノ、シゴト」
たどたどしいニホン語の羅列。
慣れるならこの方がいいからと、よほど相手の言っていることがわからない時を除いて通訳はなし。わからなくても会話をすることでわかることもあるだろうと身振り手振りも踏まえてユーリックは別世界の言葉を活用する。
「うん。だいぶ文章になってきたね」
それを褒めるハルトの言葉もニホン語だ。
「ちょっと。あたしは無視!?」
「無視したわけじゃないけど。日本語初心者に嫉妬とかないから。普通」
「し……っ」
「はい、叫ばない。ちょっと手伝ってあげるからさ」
ミツキがやり込められるこの光景はいつもと逆で、新鮮だ。
どうやら少なくとも勉学に関しては彼らの力関係は逆転するらしい。
唸りながらミツキは再び課題に目を落とした。が、よほど難しいのか眉間に皺が寄っている。
「さ、わからないところがあったら聞いて」
「……ぜ、全部?」
ハルトの眉間にも皺が寄った。
「とりあえず、辞書取ってくるから。それまで自分で考えてて」
ため息と共にハルトが部屋を去る。
途端にミツキが唸るように叫んだ。
「わかるかこんなんっ!」
ハルトに聞こえると後で睨まれるので、やや小さめにだったが。
「あー、もう。勉強なんてやーだ。こんな英語とかわかんなくったって困らないのに」
ミツキはぶつぶつと文句を言い、腕を組む。
「ユーリックはハルトと同じでそっち方面は優秀そうだし。いつものあの訓練見てても、凄いなあって思うの。さっすが軍人になるはずだったってとこ?」
早口なので聞き取れず、返事も出来ないユーリックだったが、ミツキは特に気にしていないようだった。
「ちょっと見たことない体術よね。見た感じ、護身術ってとこ? 魔法学校で学んだって言ってたっけ。っていうか普通魔法学校って聞いたら体術とかの授業があるって思わないんだけど。いや、まあそこは違う世界なんだからあり?」
完全にユーリックを置き去りにしてミツキの話は続く。だがそれもここまで。
「あ、体術って言えば。あの夏祭りの後から優佳来なくなったわよね。毎日毎日いっつも訓練してる最中に来て、ユーリックのこと見てたのに。もう三日も見てないわ。もしかしてって思うんだけどユーリック。優佳に何かした?」
ぐい、と詰め寄られたので体を引く。
かろうじて聞き取れたユーカ、訓練という言葉にユーリックは顔をしかめた。
「ユーカ?」
そう言えば、ここ最近見ていない。
結果的にミツキが言いたいことは部分的に伝わった。
「ユーカ。来ナイ。リユウ、シラナイ?」
「って、あたしに聞かれても知らないわよ。電話でもして聞いてみたら?」
「デンワ」
遠くにいる人間と言葉を交わすことが出来るキカイ。
確かに優佳のことは気になるが、まだ片言に近い今の状態でそれを使うのはどうだろう。
リン、とその【デンワ】が鳴ったのは偶然だった。
二度、三度とベルが鳴り、やがて止まる。
「あーあ。やっぱりまだこういう話は難しいか」
ミツキがつまらなさそうに、口を尖らせた。
だが暢気にしていられたのはそこまでで。
「ユーリック。みつき」
ノックもなしにハルトが談話室に戻ってくる。
「あ、わ。お、おかえり。ハルト」
ミツキが慌てて筆記用具を持ち直す。
いつもなら、ハルトの「さぼってたね」という呆れた声がやってくるはずだがそうはならない。
不思議に思い顔を見れば、どこか硬い表情が印象的だった。
その手にあるはずの辞書もない。
明らかに何かがおかしかった。
「日渡さんが……」
ハルトが呟く。
彼らが町唯一の総合病院に向かったのはその日の午後のことだった。
********************
病院の前でマドカと合流する。
前に会ったときは落ち着いた感じのする少女だったが、今はだいぶ動揺しているようでハルトたちが現れると泣きそうな顔になった。
「まどか!」
ミツキが声をかけると、その体に抱きつく。
「みつきさん。ゆ、優佳ちゃんが」
端から見てもわかるほどに震えている。
「ああ、大丈夫よ。大丈夫。生きてるんだから。大丈夫よ」
ミツキもそれほど落ち着いている風ではなかったが、少なくともマドカを慰められるくらいには冷静だ。
「怪我の具合とは聞いたの?」
尋ねると頭が横に振られる。
「怖くて、待ってたの」
「そう。じゃあ、行きましょう」
一同は硬い表情のまま、独特の薬品臭のする白い建物の中に入り込む。
受付で聞いた部屋番号は三階のもの。
【えれべーた】という階を移動する【キカイ】を使い目的の階に辿り着くと、足早に東の隅の部屋を目指した。
三○一号室。
四人部屋の、一番奥にいるらしい。
部屋の入り口にユーカの名前があることを確認してすぐさま入室する。
「優佳ちゃんっ!」
まっさきにマドカがカーテンで仕切られたその奥のベッドに向かう。
「……まどか?」
驚くほど感情のこもらない声だった。
それが発せされたカーテンの奥にマドカの姿が消える。
「よ、よかった。無事で……!」
途端に鳴き声があがって周囲のベッドを使っていた患者が驚いたように身動いだ。
「ごめんね。ごめんね。あたし、知らなくてっ」
泣きじゃくるマドカに続いてミツキ、ハルトと安堵の声を出す。
「もう。びっくりしたわよ。夏祭りのあとに事故に遭ってたんですって?」
「ごめんね。うちに来てないってわかった時点で電話するんだった」
「ううん。気にしないで」
カーテンの奥で、ユーカの声がした。。
ユーリックはほんの少しそのカーテンをずらす。
白い金属製の手すり、白いシーツ。
そして白いベッドの上に彼女はいた。
ユーリックよりも小さく、細い右腕と右足。その両方に太く白い何かを巻いている。添え木、のようなものだとそれで理解した。
折れているのだ。両方とも。
あまりにも痛ましいその姿にユーリックは何故、と拳を握る。
「ユーカ」
声をかけると一瞬だけ目が合った。
しかし、びくり、と肩を震わせてすぐに俯いてしまう。
それに違和感を覚える。
「……?」
いつもなら笑いかけてくるところなのに、何故。
「ダイジョブ?」
だから、覚えて間もない相手を心配する言葉をかけた。
ユーカも何度かユーリックに向けて使っている言葉だ。ちゃんと使い方も覚えた。伝わるはずだ。多分。
そう思った。
しかし。
「…………」
「優佳?」
俯いたまま反応のないユーカにミツキが首を傾げる。
「どうしたの、どこか痛むの?」
「え、じゃあ先生呼ぼうか?」
マドカが言葉通りの行動を実行しようとしたときだった。
「帰って」
それは呟かれた。
「え……?」
耳にした全員が動きを止めた。
そこにもう一度、彼女の声が落ちる。
「もういいから、帰って」
これまでのユーカからは考えられない拒絶という感情が、言葉に乗せられていた。
「日渡さん?」
その場にいる誰もが困惑し、ユーカを見つめる。
けれどユーカは誰も見ない。俯いたまま、ただ拒絶の言葉を繰り返す。
数日前の彼女とはあまりにも違いすぎて、ユーリックの胸がずきりと疼いた。
「お願いだから。帰って」
理由を聞くことすら許されない空気がそこには存在していた。
********************
静かだ、と優佳は思った。
病室の中は静か。
四つあるベッドの残り三つにも患者はいるのだが、動く気配はない。
当然だった。
きっと彼らはどうしていいかわからなくて静かにしているんだろう。
「はは。追い返しちゃった」
ベッドに背中を預けて、目を閉じる。
心配してくれたのは知っている。それを嬉しいと思った。
でも。
駄目だった。
彼らに優佳の心は救えない。
痛みを和らげることは出来ても、本当の意味での救いは訪れない。
気付いてしまったから。
優佳に、弟は救えない。
そしてユーリックにも、悠斗は救えない。
だからあの異世界から来た少年を見ることができなかった。
でも、それでも縋ってしまう。
「悠斗、助けて」
今はいない弟に縋りつく。
現実にはいない存在に彼女は依存した。
そうでなければ、優佳はおかしくなりそうだったからだ。いや、もうおかしいのかもしれない。
母と同じ状態に陥りそうになっているのはわかっている。
だけど、それが唯一、家族と繋がることだと信じていたから――
だから、わたしは。
********************
「何をしているんだ。優佳」
夏祭りが終わって、家に帰り着いて、いつものように弟の写真に語りかける。
それはいつもと変わらない、いつものことなのに、今日はなんだか違っていた。
ベッドの上から見上げる父親は壁に拳を打ち付けて、優佳の部屋の入り口に立っている。
その顔は。
「お、お父さん。おかえり、なさい」
瞬時に刺激してはいけないと悟った。
そうして今日の朝、母親が入院している精神病院に行って来ると言っていたことを思い出す。
こういうときの父親は、危うい。
危ういとわかっていたのに、自分のことで浮かれて油断していた。
油断してしまった。
「何をしている、と聞いたんだ!」
だん、と再び壁が叩かれる。
こうして激高する父親の姿を見るのは二度目。
一度目は、母親が完全に壊れてしまった時だった。
その時の恐怖がよみがえって、優佳は後悔し震えた。
しかしその後悔も父親がこうして怒りを露わにした時点で意味をなくしている。
「お、とうさん」
ぎゅっ、と手の中の写真立てを握る。
今はいない悠斗の笑顔がそこにはある。それは優佳の救いで、家族を繋ぐものと信じている優佳の心。
優佳とは逆の考えを持つ父親にはわからない優佳だけの家族の絆。
その行為が父親の怒りをさらに駆り立てるものだと知っていても、優佳はそれを手放せない。
「優佳っ」
父親が怒りの表情そのままに部屋へと入る。
優佳はとっさに写真立てを抱え込むとうつ伏せになった。
取られる。取り上げられてしまう。
それは嫌だった。
うずくまる優佳の体が乱暴に掴まれる。
それは大人の男の手で、今だ発展途上にある少女の力では到底叶わない。
「いや、いやっ」
必死にベッドにしがみついたけれどそれも無駄なこと。
すぐに床に叩き付けられるようにして、優佳はベッドから引きはがされた。
その拍子に弟の写真立てが、手から離れてしまう。
「あっ……」
優佳は手を伸ばしてそれを拾おうとするが、父親の方が早かった。
床に落ちた写真立てを乱暴に掴み上げる。
「こんな。こんなものがあるからっ!」
廊下に向かって写真立てが投げられた。開いたままの扉の向こうへと吸い込まれたそれは、ガラスが割れる音と共に視界から消え去る。
そうして激情のままに父親が叫んだ。
「どうしてわからない! お前も、母さんもだ! 悠斗はもう帰らない。帰ってこないのに! いない人間に、どうして話しかけるんだ!」
「そん、なのっ」
優佳もわかっている。
悠斗はいない。もう、帰らない。
父親はずっとそう言い続けてきた。諦めてきた。
「頼むからもうやめてくれ! もうこれ以上は……っ」
悠斗は死んだ。
母親がおかしくなりはじめた時から、父親はそう言うようになっていた。
最初は誘拐かと言われて、自宅に警察が来て電話を待った。
だがそれから何日経とうとも電話はなく、やがて警察も去っていった。
数ヶ月後。警察も諦めてしばらく経つと【霧の神隠し】にあったんじゃないかと噂されはじめた。
母親がいもしない悠斗に話しかけるようになったのはこの頃からだ。
最初の頃は父親も母親の心情を思ったのかそれを許していた。けれど一年が過ぎた頃からおかしくなりはじめた。
いつからか両親の喧嘩が絶えなくなって、悠斗がみつからないままさらに時が流れたある日のこと。
父親はそ悠斗は死んだのだ、と、口にした。
おそらく父親は悠斗が目の前にいるかのように振る舞う母親に現実を見てほしいと思っていたのだろう。
強く、懇願するかのように父親は母親に言い聞かせた。
母親が完全に壊れてしまうまで。
家族はそうして散り散りになった。
本当は父親がそれを悔やんでいることを優佳も知っている。母親のようにはなって欲しくないから怒るのだということも。
けれど彼はその行為が優佳を追いつめるのだと知ってはいても、止められない。
父親の、母親や優佳を思う感情が止めることを許さない。
「嫌……」
優佳はそんな父親をわかっていながら、否定する。
わかっているから、否定する。
「あたしは、諦めない」
それを信じているから優佳は今まで壊れずにこれた。
心の奥底ではそうではないかもしれないという恐怖に怯えながら、それだけを信じて霧を追いかけた。
その先でようやく見つけた希望。
異世界から来た少年。
優佳の初恋の人。
「優佳!」
わかってもらおうとは思わなかった。
それに話したところで、父にはわからないだろう。
でもそれが、優佳にとっての家族の絆。
家族を繋ぐための、命綱。
頭に衝撃が走ったのはそのすぐ後。平手で叩かれたと気付いたときには、優佳はもう動き出していた。
部屋を飛び出し、廊下に落ちた写真立てを拾う。玄関に走り、靴を履いて。
「優佳!」
背後に父親の制止する声がしたが構わなかった。
家を飛び出し、がむしゃらに走った先で優佳は光を見る。
そうして気がつくと優佳は病院にいた。
体を動かそうとすると右側に痛みが走った。
右腕と、右足。
目を開けて医者と看護士を見たが、そこに父親の姿はなかった。
気配を感じることはあっても一度もその姿を見せないまま、時間だけが過ぎ去った。
ああ、全部終わっちゃったんだ。
そう思った。
*********************
病室を追い出され、ユーリックたちは途方に暮れた。
何がユーカをああまでしてしまったのかがわからない。
「あれは、相当に深刻ね」
いつもなら茶化す側の人間であるミツキも、今回ばかりは真剣だった。
「何があったのか知らないけど、ちょっと不味いわ。あの子の周り、周囲が澱んで歪んでた。病院ってもともとそういうのが集まりやすい場所だから。下手すると憑かれるわね」
「……憑かれる?」
「ちょ、みつき!」
それは、人外の世界を知らないマドカを前にして言うことではなかったかもしれない。
ハルトがそれを咎めるが、ミツキは「大丈夫よ」と笑う。
「大したことじゃないわ。出来るだけお見舞いに来て、元気づけてあげるの。それだけで色々と言い方向に行くものよ。ま、あたしの目の前で、変なのに憑かれるような真似はさせないから。まかせてよ」
前半はマドカ。後半はハルトへ向けて。そして。
「ユーリック」
名前を呼ばれ、ユーリックは改めてミツキを見下ろす。
「要はあんたよ。がんばんなさい」
何か、期待されたようだ。それはわかって、言われるままに頷く。
「まあ、今日はこれ以上は無理だろうから。明日出直しましょ。あ、ユーリックはちょっと時間空けた方がいいかもだけど」
ミツキを先頭にして、患者と看護師が行き交う廊下を歩き出す。
ユーリックはただその後ろをついて歩く。
誰も喋らないので、思考はユーカのことへと向いた。
初めて会ったのは霧の中。
いきなり抱きついてきて離れなかった実年齢よりもずっと幼く見える少女。
理由はわからなかったがどこか必死で、突き放すに突き放せないというのが正直なところだった。
弟を捜している、という理由を知った今でもそれは変わらない。
事情を知るコウゾウやイアナ。
彼らに何も教えてもらえないとわかっていながら通い詰めてきていたユーカ。
異常なまでのユーリックへの執着は、仕方のないことなのかもしれない。不意に覗かせる悲痛な顔が、痛ましかった。
それが笑って過ごせるようになったのはユーリックと会話――かなり一方的だったが――をはじめてからだ。
ユーリックを見つけるといつも明るく元気な姿で現れた。
ハルトやミツキ。彼らと接することでさらに豊かな感情も引き出されたと思う。
彼女の友人であるマドカも紹介され、これからもそれが続いていくだろうと思っていたその矢先。
ユーカが見せた初めての拒絶。
いつもなら、ユーリックが顔を見せた瞬間に飛びついてくる。嬉しげに笑い、抱きつく。あるいは手を繋ぐ。
最初は戸惑ったが、兄を慕う妹のようなものだと思ったら受け入れられた。
それが当たり前になったふたりだったからこそわからない。
どうして彼女が自分にだけ顔を見せずに俯いたのかその理由が知りたかった。
2012.3.3色々修正