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霧幻の彼方 ~霧向こうの世界~  作者: 小池らいか
第一幕 霧の向こう側
3/11

家族



 また、相手にされなかった。

 優佳は追い返された喜里山家の家屋を見上げてため息をつく。

 濃霧の中、山の上の公園で見慣れない格好の男の人を見つけたのは昨日のこと。

 そのすぐ後に喜里山浩三が車で現れた。

 浩三は何度も帰れと言っていた。

 これまでも、何度となく言われた言葉だ。

 けれど優佳は聞くつもりはなかった。

 やっと見つけた手がかりだと、浩三の表情を見て悟ったからだ。

 言葉が通じないことに少し焦ったものの、諦めるつもりはなく。強引に浩三の運転する車に乗り込み、そうして喜里山家までついてきた。

 結局のところ、そこまでしか出来なかったわけだが。

 男の人は浩三の妻が何か喋ると倒れてしまって家に運び込まれてしまった。

 今日はその見舞いも兼ねての訪問だったのだが、見事に追い返された。

 あまりしつこくして以前のように家に電話されると困ったことになるので、今日はひとまず帰ることにした。

 お見舞いのフルーツは渡したのだから今はそれでよしとする。

「悠斗。絶対におねえちゃんが見つけてあげるからね」

 五年前忽然と消えてしまった弟の名を胸に刻み直して、優佳が喜里山家を後にしたのはその日の夕方。

 どうにか暗くなる前に家に辿り着いて、優佳はほっと胸をなで下ろす。

「ただいま」

 靴を脱いで玄関をあがる。

 おかえりなさいという返事は最初から期待してない。

 父親は今日も残業だと言っていたし、母親は二年前から入院したきりで家族はばらばら。

 五年前に弟の悠斗がいなくなってからずっと、ばらばらのままだ。

 それまであったはずのテーブルを囲んでの楽しかった家族団らんも、今はない。

 誰もいない家。

 優佳は手にぶら下げた夕飯の買い物を台所に置いた。

 着替えたらすぐに父親と自分の分の夕飯の支度をするのがいつもの生活だった。

 その時優佳が必ずするのは弟の写真を見えるところに置くこと。

「ねえ、悠斗。今日はね、学校でこんなことがあったんだよ」

 誰もいない家にひとり響く声は滑稽に聞こえるかもしれない。けれどこれが優佳の心を一番穏やかにするひとときだった。

 ただ、父親に見られると怒られるのでいないときに限ってだったが。

 正直に言うと、父親のあの過剰反応は嬉しくない。

 母親もこうして写真に向かって話しかけていた。それが彼女を唯一正気に保たせていたものだったのに、父親はそれを責めた。母親が正気でいるための行動を禁じてしまったのだ。

 しかし、追いつめられた彼女の精神は余計に弟を求め、父親はそれに対して以前にも増して禁を発した。

 繰り返し、繰り返し、それは起こった。

 完全なる悪循環。

 父親はそれに気付かずにいた。優佳がいくら言っても無駄だった。

 そして、母親は入院せざるを得ない程度まで精神を病んでしまった。

 だから優佳は今の父親があまり好きではない。

 顔を合わせても、簡単な挨拶だけ。

 お互いの気まずさも知っているけれど、それだけだ。

「どこにいるの、悠斗」

 五年前、優佳は十歳で悠斗は七歳。

 夕暮れ時、公園で友達と遊んでいた悠斗を迎えに行って欲しいと母親に頼まれた優佳はふと霧が出ていることに気が付いた。

 悠斗の名前を呼んだが、返事はなかった。

 霧が晴れて公園を探し回ったけれど、悠斗の姿は何処にも見あたらなかった。

 覚えているのはそれだけだ。

 その夜から失踪だ、誘拐だ、と周りが騒がしくなった。

 霧が出ていたから、昔から言われている【霧の神隠し】だとも言われた。

 実際に霧の中で悠斗を捜した優佳にはその【神隠し】が真実を物語っていると思った。

 どうしても見つからない悠斗を捜して、霧を追いかけるようになったのはその一年後からだった。

 それまでも【霧の神隠し】の噂はあった。

 優佳の住む霧原町に遙か昔から伝わる伝説でもある。

 霧の先には桃源郷があって【神隠し】にあった人はその桃源郷に招かれたのだと。そして桃源郷からやってくる旅人もいるのだと。

 優佳はその伝説を頼りに霧の中を彷徨い続けた。

 途中で「やめなさい」と声をかけてきたのが喜里山浩三だったが、弟を捜すのをやめることはできなかった。

 その頃母親はすでに精神に異常をきたし始めていたし、優佳はそれを見ていられなかった。

 父親も母親を見ては苛立ち、怒りを露わにすることも珍しくなかった。

 そんな家にいたくなかったということもある。弟が見つかればきっと元に戻れるはずだというはかない希望も持っていた。

 結局それは叶わないまま全ては悪化してしまったわけだが、それでも優佳は諦めなかった。

 もしかしたら。

 その望みの薄い希望にすがることで、優佳は母親と同じように正気を保っていたのかもしれない。

 だがそれに気付いたからと言って桃源郷と呼ばれる場所からやってきたのかもしれないあの男の人のことを諦めるつもりにはなれなかっただろう。

 弟を捜すことは、すでに優佳の人生の一部。

「絶対に、絶対に見つけるから」

 出来上がった料理を前に、優佳は決意を新たにするのだった。




   ********************




 あれから既に三日が過ぎていた。

 ユーリックにとっては長く、そして短い時間だ。

 体の重さは取れたものの、心の重みは今だ取れない。

「やはり、君以外にこちらに来た者はいないようだね」

 数日の間、キリヤマコウゾウと名乗った男は例の場所へ出かけていたらしい。

 その報告も心の重みが取れない原因のひとつだった。

「そう、ですか」

 家の中なら自由に動き回っても構わない。その許可を得たユーリックは見たことのない服を借りて身につけている。なにやら文字の入ったTシャツという上着とGパンと呼ばれるズボンだ。ユーリックが身につけていた服はこちらの世界では目立つからという配慮らしいが、着慣れないので戸惑っている。

 そんなユーリックの様子を暖かい眼差しで見守るコウゾウと妻のイアナ――ふたりが夫婦だと聞いて驚いた――は。

「まあ、最初は戸惑うことばかりだろうがそのうち慣れるよ」

「わからないことはお教えしますから」

 少しでもユーリックの気持ちを和らげようとする努力をしてくれていた。

 最初に教わったのは、この世界の名前。

 【チキュウ】というらしい。

 そしてこの国は【ニッポン】と呼ばれていて、今いるこの場所が【キリハラチョウ】。

 先日知ったように、この世界ではユーリックの世界のような魔法は存在しないし使えない。

 ある特殊な一族が魔法に似た力を使えるそうだが、それはほんの一部に過ぎず、この世界の大多数の人間はそれを知らないという。

 だがこの世界にはユーリックのいた世界にはないものが存在する。

 【カガク】という理論に基づいた技術。

 先日ユーリックが乗ったクルマもそのカガクに基づいた乗り物だそうだ。

 そして、この家でも天井で光る【デンキュウ】や【デントウ】がそれに当たる。

 何よりも驚いたのは【てれび】という四角い箱だった。中で人が活動しており、声まで聞こえる。

 どんな魔法をつかったのだ、と魔法がないと言われていたのにもかかわらず詰め寄ってしまったことは記憶に新しい。

 本当に全く別の世界に来てしまったのだと実感した。

「慣れたら外出も許可するから。しばらくは家の中で我慢してくれるかい?」

「……わかりました」

 そのためにはとにかくこの世界の常識を覚えなくてはならない。

 コウゾウとイアナはそこから更に5日ほどかけてユーリックにこの世界のことを教えていった。

 そこで彼らはユーリックがとても優秀な生徒だと知ることになるのだが、それはまた別の話。

 持ち前の記憶力で教えられるものを吸収していくユーリックの方としては、心にわだかまる不安を新たなことを覚えるという期待で埋めるので精一杯だったと言っておく。

「あら?」

 玄関のチャイムに反応して、この世界の言葉を教えていたイアナが立ち上がる。

「少し待っていらしてね」

 あの来客音は一日に数度。

 ユーリックはそういうものなのだとここ数日で記憶している。

 しばらく待つと、イアナが憂鬱そうな顔で戻ってきた。

 実はあの来客音のいくつかに対して、彼女がそういった顔をすることが珍しくないことも知っている。

「何かありましたか?」

 尋ねると必ず。

「なんでもありませんよ」

 隠せていないと当人もわかっているのだろうが、弱々しく微笑む。

 だが今日はそれだけでは終わらなかった。

「……なんでもない、と言えればよかったのですけれど。流石にこれ以上はあの子が可哀相ですからお話ししましょう」

 コウゾウからはあの子に対しては話すなと言われていますけれど、あなたに話すなとは言われていませんもの。

 その言葉を免罪符にするかのごとく、イアナはぽつりぽつりと話し始めた。

「ユーリック。最初の日に会った女の子を覚えていて?」

 最初の日、というとそれはもうひとりしかいない。

 黒髪をふたつに結んだあの少女のことだろう。

「ユーカのことですか?」

「あら、名前まで知っているのですね。でしたら話は早いですわ」

 イアナは瞬きして両手を合わせる。

「あの子はあなたに会いたがっているの」

「俺に、ですか」

「ええ。おそらくわたくしたちが元いた世界【フォライザ】のことを知るためでしょう」

「フォライザのことを? 何故」

「彼女の弟がそこにいるかもしれないから、というのが大きな理由です」

 ユーリックの脳裏に、ユーカの必死な表情が思い起こされる。

 イアナはユーリックの反応を見つつ、話を進めていく。

「彼女の弟は五年前、霧が現れ【門】が開いたその日に行方不明になりました。そして今に至るまで、見つかっていません」

「では……」

 彼女の弟は自分たちとは逆にあちらの世界に行ったことになる。

 ユーリックはそう考えたのだが、イアナはそれを否定した。

「いえ。フォライザへ行ったかどうかは確かではありません。確かめる術もありません。ただ、姿を消してしまった。わかるのはそれだけなのです」

「しかし、この世界では……」

「ええ」

 ユーリックの言いたいことを押さえた上で、イアナは告げる。

「魔物はいません。危険は少ない。けれど、人間は何をするかわからない生き物でもあります。それはあちらの世界でも、こちらの世界でも同じです。誘拐されることもあれば、殺されることもあるのです」

「イアナ。それは」

「確かに【門】がその日に開いている以上、その可能性は高いでしょう。けれど、他の可能性がないわけではありません。ですからコウゾウは、わたくしが彼女にフォライザのことを話すのを禁じています。彼女が行方知れずになった弟を追ってフォライザへ行きたいと言わないように、です。あなたが外に出られるようになれば、必ず彼女は接触してきます。言葉を喋ることが出来るようになれば、聞きたがるでしょう。彼女にとってあなたは弟に繋がるものだと確信しているようですから」

「……俺はこの世界の人間に会ったことがないのに、ですか?」

「ええ。彼女の捜しているものに一番近いのがあなたですから」

 ぱたり、とそこで会話は止まった。

 時計の針の動く音がやたら大きく聞こえる。

「貴女は、どうなんです?」

「何が、ですか?」

「貴女も彼女から見ればフォライザの人間だ。貴女は彼女から何か聞かれたことはないんですか?」

 質問に質問が返され、また質問する。

 馬鹿馬鹿しくも思えるが、聞きたいと思うことに蓋はしない。

 イアナは少し驚いて、それから笑みを浮かべた。

「彼女にとってわたくしはこの世界の外国人です。別世界の人間だとは知りはしないでしょう。ですから聞かれたことはありません」

 そもそも彼女はユーカが生まれる前にこの世界に来ているのだ。

 そのことにユーリックは気付いて恥じ入った。

 イアナはその様子を微笑ましく見つめたあと、表情を改めてユーリックと向き合う。

「けれどコウゾウがあなたと会話を交わしたことで少し疑惑は持たれたようですね。勘のいい娘さんですから。流石にそろそろ隠し通すのは難しいと感じてはいます。その時が来たら……」

 ユーリックはその後の言葉を待つ。

 外から戸を叩く音がしなければ告げられていたに違いない。

「イアナ。ユーリック。入ってもいいかな」

 コウゾウの気の抜けた声にイアナが「どうぞ」と返答して、会話は途切れた。けれど続けられるはずだった言葉はユーリックも理解した。

 今はそれだけで充分だった。

 その日の夜。自室に戻ったユーリックはイアナが言っていたユーカの弟のことを考えていた。

 真相はともかくとして。思えば、ユーリックもその弟と同じ状況にいる。

 家族の顔が思い浮かんだのは自然なことだったろう。

「家族、か」

 決して忘れていたわけではない。

 自分が居なくなったことを知って、どうしただろうかと考えたことは一度や二度ではない。

 ユーリックは、母親とふたり暮らし。

 父親は幼い頃に、魔物の大群に襲われて死んでいる。

 それはユーリックが魔法師団に入ろうと思ったきっかけでもあった。

 母親には反対されたが、説得が無理だと知ると「頑張ってきなさい」と言ってくれた。

 たったひとりの家族。

 父親が死んだと聞かされたときも気丈にしていた母のことだ。

 そう簡単に精神が折れるとは思わないが、それでも自分までいなくなっていまうことは堪えるに違いない。

 霧に包まれた時には、ルワレたちがいたから伝承になぞらえて伝わるだろうけれど。

 せめて自分が生きていると伝わっていればいい。そう思った。




   ********************




「ではユーリック。お買い物に出かけましょうか」

 張り切った様子のイアナがそう言い出したのは、十日目の午後のことだった。

 彼の異世界結婚した夫婦に一通りの挨拶とお礼の言葉を教え込まれたユーリックは、魔法学校時代、女子生徒が買い物に出かける様子を思い出した。

 確か彼女たちもこんな感じではなかったろうか。

 見れば夫であるコウゾウもなにやら苦笑気味だ。

 クルマの運転手として駆り出された、とぼやくコウゾウの様子に似たような笑みが浮かんでしまう。

 向かう先は、町で唯一の【しょっぴんぐせんたー】という場所だと聞く。

「ユーリックの服を揃えるのと、お金の使い方を覚えて貰うのが目的です」

 とは言っているが、楽しみで仕方ないとイアナの顔が物語っている。

 クルマの中から見えるもの、ひとつひとつも説明を受けた。

「家、はわかりますか?」

「はい。なんとか。あの柱についている赤や青く光るものは?」

「あれは信号というもので、車の事故が起こらないように赤なら止まれ。青は進め。と指示を出しています。歩行者にも同じような指示を出すものがあるんですよ。人間の形を象った絵が描いてあるものがそうです。困ったときは周囲を見て行動すればよいですよ」

 説明は出来ても、実際に見なければわからないものもたくさんある、とイアナは言う。

 見たことのない高さのいくつか建ち並ぶ【びる】という建物の間を抜けて、ユーリックは目的地である【しょっぴんぐせんたー】に辿り着いた。

 三階建てで、屋上が【チュウシャジョウ】になっているとのこと。

 その【チュウシャジョウ】にクルマを止めて、三人はまず、階段で二階へ下りた。

 ユーリックの服を見るためらしい。

「服だらけだ」

 ユーリックがまず漏らした言葉はそれだった。

 バルフェルド王国の服飾店と比べてもこちらのほうが多い。

 しかも大人用だけではなくて、子供用、男女別と種類も豊富だ。

「ではこちらへどうぞ」

 ユーリックを促し、イアナが目的の場所へ進んでいく。

 顔見知りなのだろう。イアナやコウゾウに挨拶をする人間もいる。

 やけにじろじろとユーリックが見られている気がするが……

「イアナもそうだが、君もこの国の人間からしてみれば外国人だからね。珍しいんだよ」

 コウゾウの台詞にユーリックはなんとなくだが納得した。

 周囲の人間の顔は多少違えど、同一人種のものだ。自分やイアナのような顔は珍しいに違いない。

 そんな中、イアナがひとりの女性に声をかけた。

 ここに来る前に教えられた制服を身に纏った女性で、どちらかというとユーリックに近い年齢だろうか。

 何か会話をしたあとに、女性はユーリックを見上げた。

 何か値踏みするように見られている、と感じた後。服が並べられた場所に連れて行かれた。

 そうして何枚かユーリックの体に当てるよう、指示したようだ。

 目の前に鏡があり、どうやらそれで確認しろということらしい。

 薄い茶色の髪と茶色の目。

 自分の姿がそこに映っていた。

 違和感を覚えたのはこちらの服を着ているからだ。

 別世界なのだから、と胸の奥が痛んだのは言葉に出さない。

 だがそれも女性二人の着せ替え攻撃によって消え失せてしまい……

 あとには疲労に暮れたユーリックとその肩を叩くコウゾウの姿が見られたという。

「すまないな」

 コウゾウが疲れ切ったユーリックに何か差し出す。

「これは?」

 受け取ったのは金属製と思われる円柱型の何か。

 上に輪になっている部分があり、コウゾウは自分が持っている同じ構造のそれを見本として開けて見せた。

「中に飲み物が入っているんだ。長期間保存がきくように密封されている」

「……すごい」

 ユーリックは見よう見まねで開けようとするが、うまくいかずに結局コウゾウに開けてもらうことになった。その礼を教えてもらったばかりの【ニホン語】で言うと同じくニホン語でそれに対する礼が返ってくる。

 空いた穴の中に液体が入っているのを見て、ユーリックはコウゾウを真似てそれを傾けた。

 中から冷たく、ほのかに甘い水のようなものが喉に流れ込んでくる。

 少し変な味だが、不味くはない。

「……この世界には、俺の知らないものがたくさんありますね」

 感慨深く言うと、コウゾウは首を縦に振る。

「まあ、君から見ればそうだろうね。僕たちには当たり前のものだけれど。逆に僕たちの世界から君たちの世界へ渡っても、同じように思うものは多いと思うよ」

「そうでしょうか」

「そうだよ。特に魔法はその代表だろう。僕たちの世界には存在しない。似ているようで、違うものならあるけどね」


 【魔法】


 ほんの少し前なら使えたはずのあの世界では当たり前のもの。

 誰が悪いわけでもなく、ユーリックの中にはその言葉に対して過剰に反応してしまう部分がある。

 もう二度と使うことのないだろうそれ。

 ある意味支えだったものを失ったのだから心も痛む。

「……ユーリック?」

 黙り込んだユーリックを気にしてか、コウゾウが名を呼ぶ。

「顔色がよくないな。大丈夫かい」

 急に連れ回したのがよくなかったかな、とコウゾウがイアナの姿を探し始めた。

「今日は帰ろう」

「あ、いえ。大丈夫です」

「いや、疲れているんだろう? 無理をすると悪い」

 コウゾウはイアナを探しに席をはずし、ユーリックはひとり残される。

 よくないのは、体よりも心。

 知らずと追いつめられていくユーリックにコウゾウとイアナが気付くのはもう少しあとのこと。

 ユーリックはふたりが戻るまで、魔道具である籠手があるべき両腕をじっと眺めていた。




   ********************




 十一日目。

 前日の夕食後も浮かない顔をしていたのが悪かったのか、ユーリックは「庭に出てもいいけど外出は禁止」とイアナに言い渡された。

 どうやらここに来てからずっと家にこもっていたのと、昨日急に連れ出したのが不味かったと取られたらしい。

 まずは庭から、ということでイアナが手入れしたという草花の世話を手伝うことになった。

 春の庭は色とりどりの花が咲き乱れていてユーリックはその香りをわずかながら感じ取る。

「ふふ。気持ちいいでしょう」

 自慢げにいうイアナから水挿しらしきものを手渡される。

「水を汲んで、そこの花壇にあげていただけますか。最近雨が降らず、元気がないのです」

 【スイドウ】の使い方は教わったので、迷うことはない。

 井戸から引き上げて運ぶ必要のない【スイドウ】もまたユーリックには驚きをもたらすもののひとつだ。

 いちいち驚いていては身が持たないとは思うのだが、驚くものは驚いてしまうのだからしょうがない。

 庭の隅へ置いてある【スイドウ】へ向かう。

 【スイドウ】の上のでっぱりを回せば出てくる水に、ユーリックはこれがこの世界の魔法なのではないかと思う。

 墓穴を掘った、と思ったのはそれを考えてからだったが。

 満杯になった水挿しを確認して水をを止める。

 何かと魔法に関することに思考が行ってしまうのは困りものだ。とユーリックは嘆息した。

 そういえばイアナは確か魔法大国であるジルヴェスタの出身だったはずだ。

 ジルヴェスタは国民の多くが魔法を使う。

 貴族は魔法が使えて当たり前の国だから、元は貴族だと言っていた彼女も魔法を使えたはず。

 この世界に来て魔法を使えないという状況は彼女にとっても辛いものだったのではないだろうか。

 今でこそ幸せそうな顔で花を弄る顔を見せてはいるが、そこに至るまでの紆余曲折はどんなものだったのか。少し聞いてみたい気がした。

「イ……」

「ユーリク!」

 不完全な名前で呼ばれ、不発に終わったイアナへの呼びかけ。

 ユーリックは聞き覚えのあるその声に振り返る。

 最初に会ったときと同じ服装の少女が玄関先に立っていた。

「ユーカ?」

「あら、見つかってしまいましたね」

 対して困っていない様子のイアナが作業を中断してやってくる。

 ユーカに向かい、言葉を放つと少女は嬉しそうにユーリックの元にやってきた。

 そうして真っ正面から、勢いよく抱きつく。

「まあ、随分懐かれてしまいましたのね」

「……離れるように言ってもらえませんか?」

 ユーカが渾身の力を込めて自分にしがみついている為、ユーリックは下手に動けない。

 元々魔法師団に入るために鍛えていた身だ。ほどこうと思えば出来るだろうが、それよりもイアナに通訳してもらった方が確実に思えた。

 イアナに伝達してもらったそれは正確にユーカに伝わったようだ。

 名残惜しい顔をしながらも、ユーカが一歩後ろに引く。

 口早に何か訴えられたので、イアナを見る。

「ごめんなさい。でも早く会いたかったから。ですって」

「…………」

 ユーカが自分に会いたい理由。それはおそらく弟に関することであるのは間違いないだろう。

 だが先日イアナから言われたときに反応した通りユーリックは【フォライザ】でこの世界の人間に会ったことがない。

 それを知らないユーカにとって、ユーリックは唯一の情報源。少しでもユーリックに近づいてその情報が欲しいと思っている。というところだろうか。

 ユーカが再びユーリックを上から下まで眺めて何か言った。

 イアナが訳す。

「この間の服も似合っていたけど、その服も似合ってる。そうですよ」

「…………」

 ユーカの瞳に宿る羨望の光。

 まだ彼女から何かを聞かれたというわけでもない。

 日常会話すらイアナを通してでしか伝わらないのだから拒絶する理由はない。

 それでもユーリックとユーカが直接話せるようになった頃に聞かれるだろうその質問の答えは彼女を傷つけるものになるだろう。

 今のうちに突き放していたほうがいいのかもしれない。

 しれないが。

「ユーリク?」

 押し黙ったユーリックの名を呼ぶユーカにユーリックはひとこと。

「ユーリック、だ」

 自分を示すその名に訂正を入れた。

 きょとん、とユーカがユーリックを見上げ、続けてイアナを見る。

 イアナがユーリックの言いたいことを代弁したのは当然のことだった。

 イアナに教えられるまま、ユーカがもう一度ユーリックの名を呼ぶ。

「ユーリック?」

 今度は間違いない。

「そうだ」

 褒めるつもりで頭を撫でてやると、気持ちよさそうに笑顔になる。

 兄弟のいないユーリックにはよくわからないが、妹とはこんな感じなのだろうか。

 ユーリックは無邪気に慕ってくる――少なくともそう見える――ユーカにそんな感想を持ったのだった。

 ユーリックとユーカの交流はそうやって始まり、ユーリックのこの世界での本格的な生活もまた、この時から始まった。



2011.10.14 一部修正&訂正

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