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霧幻の彼方 ~霧向こうの世界~  作者: 小池らいか
第一幕 霧の向こう側
2/11

霧幻人



 ユーリックの住むバルフェルド王国にはある伝承が存在する。

 それは霧に纏わる不可思議なもの。


 【異界は霧の先にあり】


 バルフェルド王国だけではなく、そこから西の国々にも伝わるものだがそれは今置いておく。

 とにかくそんな伝承が存在するのだとわかればいい。

 伝承には他にこんな一説がある。


 【霧は人を流し、また人を攫う】


 どういう理屈なのかはわからない。

 それでもひとつ言えるのは、霧が出ると人が消えるか、現れるかのどちらかの現象が起こる。ということだった。

 実際に霧が発生した後に人が消えたという話も耳にしていた。またその逆も。

 逆の場合は【異界人】が現れるそうだが、発生した霧全てでその現象が起こるわけではない。

 バルフェルド王国では何年かに一度起こる程度。

 大陸の西南端にある砂漠の魔法大国ジルヴェスタではその現象が多発していると聞くが、あそこは少し特殊なのでよくわからない。

 ともかく、ユーリックの認識はその程度のものだった。

 だからまさか自分がそれに巻き込まれたとは思わなかったのだ。

 後にコウゾウと名乗ったその男が現れるまでは。

「【ムゲンビト】?」

「霧の向こうからやってくる人間のことをこちらではそう呼んでいるんだ」

 癖はあるが、流暢な共通語を話した男はユーリックを上から下まで眺めて乗りなさい、と箱の扉を開けた。

 その中には椅子のようなものがあって、ユーリックはもう一度男を見た。

「とりあえず、君の格好はこちらでは目立つ。私の家に案内するよ。そこなら同じように君の世界から来た人間もいるからね」

「……俺の世界?」

 戸惑うユーリックに男は言う。

「そう。君の世界は【フォライザ】と言うそうだね。そこでは霧の先に【異界】があると言われている。さっきの霧はその【門】でね。ここは君たちの言うその【異界】だ」

 【異界】という言葉にユーリックはぶつけたばかりの後ろ頭が痛んだ。心音が乱れ、耳元で大きく鳴っている。

 まさか、という否定したい気持ちが落ち着けと叫んでいた。

 見たことのない地面。見たことのない服を着た人間。そして聞いたことのない言葉。

 確かにここは先程までの森とは違っている。だがそれだけでここが【異界】だというのは早計すぎはしないだろうか。

 ユーリックは先程の自分の上にのしかかってきた重圧のことに思考を走らせた。

 あれは魔法使いならではの魔法が使われた感覚だった。そのことから考えられる魔法にひとつだけ心当たりがある。

 研究され続け、しかし未だに完成に至ることのない上級よりもさらに上の魔法。


 【転移魔法】


 【紋章】を用い、同じ【紋章】がある場所へ転移する移動のための魔法。

 しかしこの魔法が成功したという話は聞いたことがないし、何より魔法はそれを使おうという本人にしか作用しないはず。

 ユーリックは転移魔法の資料を読んだことはあるが【紋章】を知らないし、魔法を使った覚えもない。ここにはそんな【紋章】の類もみられない。

 だからあり得ない。

 こんな馬鹿げたことは本当に【霧の伝承】以外には。

 結局巡り巡ってその考えに辿り着いてしまい、ユーリックは男の言葉を否定することができなくなっていた。

 だとすると。

 嫌な予感が現実になった瞬間、ユーリックは共に居たはずの仲間の名を呼ぶ。

「ルワレやハンナ。他の人間も側にいた。彼らは!?」

「ん? 他にもいたのかい。では少し捜さなければならないかな。けれど、そろそろ霧が晴れる。君は車の中で待っていなさい」

 そう言って男は再び箱の中に入るように勧めた。だが得体の知れないものの中に入るようなことはしたくないユーリックは首を振った。

「彼らは俺の仲間だ。俺が捜す」

「……と言ってもね。君、結構フラフラだろう」

「!」

 隠していたそれを簡単に看破されてユーリックは表情を険しくした。

「すまない。警戒させたかな」

 男は頭を掻いて、それでも敵対行動はしないという現れのように穏やかな口調で続ける。

「これも君の世界の人から聞いた話だよ。君のいた世界から【門】を通る際にはものすごく体力を消耗するようだ、とね。君の世界の【魔法】によく似ているそうだけど」

「では……いや」

 転移魔法の可能性も捨てきれない。そう呟きかけてやめる。

 自分ひとりの考えで、正解が導き出せるとは思えない。

「ともかく待っているといい。あまり無理をするのはよくない」

 男はそう言うとユーリックにしがみついている少女に困った顔をして知らない言葉を発した。

 少女がいかにも嫌だと言わんばかりに頭を横に振る。

 ユーリックが不思議がるほど思い詰めた顔で。

 男は少女がどうあっても動かないことに頭を抱えると再びユーリックに声をかけた。

「すまないが、彼女と一緒に待っていてくれるかな。詳しい話はあとでするから」

「……わかった」

 完全に警戒を解いたわけではなかった。が、今の自分ではこの少女を振り払ったところで途中で倒れるのがおちだろう。

 男が少女になにか言い含めて去っていくのを見送り、ユーリックは嘆息した。

 ひとりで去っていくその姿から察するに、この場所に危険はないのだろうが……

 霧が身にまとわりつく感覚ももうない。

 それを確認していると服の裾を引っ張られ、ユーリックはその方向を見た。

 大きな黒い瞳が真っ直ぐにユーリックに向けられて、少女の口が開いた。行動がそれに伴う。

 少女の指は男の言い残した得体の知れない【クルマ】という箱に向けられていた。

 どうやら乗れと言っているらしい。

 少女がその扉らしきものを引いて中を示す。

 低い天井、その狭い空間にはソファのような椅子があり、そこに入って座れということのようだ。

 ユーリックは素直に従う気にはなれず、しばしの間その中身を凝視した。

 これが、何かの罠だという可能性は捨てきれない。

 黙ってその場に立ち続けるユーリックに、少女は何を思ったかふたたび服の袖を引っ張った。

 早く中へ、とでも言っているのかもしれない。

 それでもユーリックが動かないでいると、少し怒った顔をして今度は実力行使に出た。

 ユーリックの反対側に回って、体をクルマの方向へ押しやったのだ。

「お、おい」

 ユーリックは慌てた声を出したが、体力をほぼ限界まで削られてしまっている現状では反抗する力はないに等しい。

 連行される犯人のごとく、あっというまにクルマの中に押し込まれてしまった。

 そのユーリックを追うように、続けて少女もその中に入ってくる。

 ふたりぶんの体重でクルマが揺れたあと。少女は慣れた手つきで扉を閉めた。

 密室のできあがりである。

 逃げられない。

 疲れで鈍った頭がそう答えをはじき出す。

 その上、自分の背に触れるソファのような椅子の座り心地はともかくとして、鼻につんとくる嗅いだことのない匂いが不快だ。外の方がよかった気もするが今更どうしようもない。

 深いため息が出た。 

 なにより。

「…………」

 言葉が通じないせいだろう。おたがいの沈黙と、ユーリックを見る少女の思い詰めた黒い瞳が空気をさらに重くしていた。

 要するに、気まずい。

「君は……」

 とりあえず、声をかけてみると少女が顔を上げた。

 あどけなさの残る幼い顔に似合わない不安げな表情が酷くユーリックの心を揺さぶる。

 それ以上の言葉を重ねられずにユーリックが口を閉じてしまうと、今度は少女がうつむき加減で何か呟いた。

 ユーリックにはそれが何かわからない。

 ただ少女の唇から漏れる言葉の音をじっと聞く。

 自分に向かって返事を期待しているものではなさそうだということだけはわかったので、黙っておいた。

 それもやがて終わり、少女は再び顔を上げた。そうして自分を指し示してにこりと笑う。

「ユウカ」

 ひとつの単語がそれで名前なのだと気付けば、あとは簡単だった。

「ユーカ?」

 繰り返すと勢いよく頭が縦に振られた。嬉しげな表情の中に、期待が込められているのは気のせいではないだろう。

 こちらの名前を知りたがっているのだ。

 教えなければ、ずっと付きまとわれそうな予感がするほどに。

「……ユーリックだ。ユーリック・フォーン」

「ユ……?」

 わかりにくかっただろうか。

「ユーリック」

 先程よりもゆっくりと名を言えば、少女は何度か口をもごもごさせた。

「ユ……リック?」

 ぎこちないし危ういが、及第点というところか。

「ユーリック」

「ユーリク!」

 ユーリックが聞く限り、ユーカの話す言葉は自分とは発音の仕方が違うようなので多少の間違いは仕方ないことだろう。

 それでもどうしたらちゃんとした発音で教えられるだろうかと眉根を寄せたユーリックに、ユーカは自分がうまく言えてないことに気付いたらしい。

 申し訳なさそうに何か言った。

 おそらく謝罪の言葉だろうが。

「すまない。謝るのはこちらだ。好きに呼べばいい」

 言葉が通じないのを覚悟で、ユーリックは少女の頭を撫でる。が、籠手をしたままだったことに気付いてすぐに手を放した。

 ユーカは撫でられた頭へ手をやって不思議そうにユーリックを見る。そうして籠手が気になったらしく、視線がそちらへ向けられた。

「【魔導具】が気になるのか?」

 興味津々に触れたいとユーカの顔に書いてあった。彼女が魔道具らしきものを持っている様子はないから、単に珍しいのだろう。

 そう思ったユーリックは籠手をした腕をユーカの前に差し出し、小さく呟く。


 【小さき光よ。ここに宿れ】


 下級に位置する【照明】の呪文。

 ユーリックはユーカを驚かすつもりで、ほんの数秒ほのかな光を灯すつもりでいた。

 少しでも空気を柔らかくしたいと思ったからでもある。

 だが驚いたのはユーリックの方だった。

 灯るはずの光は現れず、魔法を使う際に発生するはずの魔力が押し寄せる感覚も起こらなかったのだ。

「失敗した!?」

 あり得ない。

 ユーリックは籠手を引き寄せて凝視した。

 籠手に触れようとしていたユーカはユーリックに驚いた様子で目を丸くしていたが、本人はそれどころではない。

 とっさに籠手にはめ込まれた【魔鉱石】を確認するが、割れているわけでも、傷が付いているわけでもなかった。

 ならば、一体何が悪かったのか。

 困惑するユーリックにユーカが心配そうに声をかけてくるが、耳に入らなかった。

 ユーカを押しのけるように箱の外へ出ようとして。

「どうしたんだい?」

 戻ってきた男が箱の中をのぞき込んでいた。

 それどころではないユーリックは箱の外に出ようともがいた。しかし、開け方がわからない。

「外に出たいのか?」

 男が箱の外から扉を開けるとユーリックは遠くが見えるほど薄くなった霧の中に立つ。

 不安が、彼を駆り立てた。

 【魔導具】はあくまで補助器具。

 そしてあのコウゾウと名乗った男の言うことが真実であればここは異世界。

 ユーリックのいた世界【フォライザ】とは少し魔法の使い方が違うのかもしれない。

 自分に言い聞かせるようにして、ユーリックは口を開いた。


 【出でよ、小さき焔】


 火をおこす際などに使われる【火種】。

 ほんの小さな火を生む程度のものだが、何も起きない。

 その気配すらない。


 【風よ、散れ】


 自分を中心に風を起こす【風起】。

 これも変化はない。

 それどころか、ユーリックはあることに気付いて愕然とする。

 常に自分を取り巻いていたはずの空気。その気配が消え失せていたのだ。

「どう、して」

「……君は、魔法使いか」

 背後から男が気の毒そうに声をかけた。

「残念だが、この世界では君たちの使う魔法は使えない」

 疑問が確信に変わり、そして絶望に変わる。

「この世界には君たちの世界にある魔法の理が存在しない。【魔素】と呼ばれるのだったか。それが存在しないんだ」

「【魔素】が、存在、しない?」

 ユーリックは愕然と呟く。

 世界には、魔法を使用するための魔力の元となる【魔素】が存在していて。その【魔素】を取り込むことで魔力が生まれ、そしてそこから人の意を介して魔法となる。

 ユーリックにとって、いや、全ての魔法使いにとってごく当たり前の知識だというのに。

「魔法、が存在しない?」

 念を押すように呟いたユーリックに男は頷いた。

「似たような技能はあるが、それはこちらの世界の理を元にした全く別のものだ」

 男の言うことはおそらく嘘ではない。

 ユーリックの頭の中では瞬時にそれを証明するための思考が動いていた。

 起きていても、寝ていても、何処にいても感じられていた魔法の気配の喪失。それが【魔素】が存在しないという証拠であるのならば、魔法が使えないのも道理。

 それはつまり魔法が存在しない。あるいは存在できないということであり。

「っ……!」

 ユーリックは自分の体を見下ろし、魔法力が感じ取れないことに気付くと目の前が暗くなった。

 そこから何を話したのか、よく覚えていない。

 再びクルマという箱に詰め込まれ――どうやら馬車のような移動の乗り物らしい――見たことのない町のような場所を信じられない速度で移動した。

 正気ならその速さに恐怖したかもしれないが、生憎とユーリックの頭の中は他のことで一杯だった。

 魔法を使えないということに打ちのめされていたこともある。

 そこに追い打ちをかけられるように男が告げたのは、ルワレやハンナ。他の仲間たちがどこにも見あたらなかったということだった。

「ざっと確認しただけだから、確かなことは言えないが」

 男も気を遣ってか断言しなかったが、ユーリックは自分だけが【異界】に来てしまったのではないかと考えていた。

 ユーカが相変わらず腕にしがみついて心配そうに時折声をかけてくるが、弱々しく微笑むくらいしかできない。

 クルマがその動きを完全に止めたのは、ある屋敷の敷地に入ってからだった。

 バルフェルド王国でも見かけるような煉瓦造りの家。

 だがやはりどこか違う。

 一般人が住むにしては大きすぎるし、貴族が住むにしては小さい。

 商人あたりが妥当だろうか。

「ここは私の家だから心配しなくていい」

 言われるままにクルマを降ろされ、屋敷の前に立つ。

 男はまたもユーカを見て何かを言った。ユーカがユーリックの腕にしがみついたまま首を横に振る。必死に何か訴えているようにも見えた。

 押し問答はしばらく続き、予告なく屋敷の入り口が開かれる。

 女性の声がして何か怒鳴った。そして一瞬で止む。

 ユーリックが目をやると、そこには小麦色の肌をした男と同年代と思われる女性がいた。ユーリックを見て目を見開いている。だがそれもすぐに終わり、腰まである黒髪を後ろで緩く編んだ彼女はにこりと微笑んだ。

「あなたですね。今度の【霧幻人】は」

 それは紛れもなくユーリックの知る共通語。

「はじめまして。わたくしはイアナ・ルヴェ・ナハムディ。あなたと同じ【フォライザ】から来た人間です」

 その言葉を聞いた安堵からか、疲労に上乗せされた極度の緊張故か。

 ユーリックの意識はそこで途切れた。

 最後に聞いたのは自分を呼ぶユーカの声、だった気がした。




   *******************




 頭が重い。

 最初に思ったのはそんなことだ。

 そのあとすぐにかちゃり、と音がするのが聞こえて目を開けた。

 すぐに目に入ってきたのは見たことのない図柄の天井だった。

「目が覚めたようですね」

 足音がした方向を見れば、小麦色の肌の女性がたおやかに歩み寄ってくるのが見えた。

「……俺は、どうして」

 あまり働かない頭を総動員して問いかけると、女性は起きあがりかけたユーリックを制した。

「まだ無理はしないほうがよいですよ。【門】を通り抜けた影響で、体が重いはずです」

「【門】?」

 とりあえず言われるまま、ユーリックは体を倒した。

 確かに体は重かったし、頭の中身もぼんやりと霞がかっている状態だ。

「コウゾウから聞きませんでしたか? 【異界の門】。【霧】のことです」

「……霧」

 彼女の言葉が胸に納まったことで、ユーリックは自分に何が起こったのか思い返すことが出来た。

 未だに信じがたい気持ちは残っている。

 だがそれを裏付けるだけの証拠をユーリックは持たない。

「大丈夫ですか?」

 自分を労る声にユーリックは女性と目を合わせる。

 穏やかな黒い瞳。

 何もかもを知っていると錯覚するような目だった。

「あなた、お名前は?」

「……ユーリック・フォーンと言います。貴方は確か、イアナ・ルヴェ・ナハムディ。と名乗っていましたね」

「あら、覚えていてくれたのですね。わたくしが名乗ってすぐに倒れられたからもう一度名乗るべきかと思っていたのですけれど」

 体は重いが、そのままでは話しにくい。

 ユーリックは改めて体を起こした。

 視界に入る家具類は貴族などでなければ手に入らないような装飾を施したもの。けれど、それはどこを見ても自分の感覚からして何か違うとわかるもの。

「その名の響き。貴女はジルヴェスタの?」

「……なつかしいですね」

 遠く何かを思い出すように彼女は笑う。

「ええ。わたくしはジルヴェスタの貴族の娘でした。避暑に向かう途中で【霧】に遭遇してしまい、こちらの世界に来てしまったのですよ。十五の時ですから、もう二十年以上前のことですけれど」

「そんなに前に……? 帰ろうとは思わなかったのですか」

 ユーリックの問いはそれこそ当たり前のことだった。

 【異界】に渡って来ることが出来たなら、その逆も出来るはず。

 伝承でもそのようになっていたはずで。

 しかしイアナは少し苦しげに、だが残酷にそれに答えた。

「それは無理なのです」

「え?」

「わたくしも、最初は帰ることが出来ると思っていました。来ることが出来たのだから帰ることも出来るだろうと。けれど、それは叶いませんでした」

「どう、いう……?」

「【異界の門】である【霧】はわたくしたちには捕らえられないからです」

「……?」

「わからない、という顔ですね。それも当然ですが」

 イアナはふっと悲しげに微笑む。

「【門】は年に数度、この町のどこにでも現れます。ですがどこに現れるかは誰にもわかりません。そして【門】が開くのは一瞬だけ。その瞬間にその場に居合わせる確率がどれだけあるとお思いですか? よほど偶然が重ならない限り、再びこの身が【フォライザ】へ戻ることはないでしょう」

 それに戻れたとしても。

 イアナは口だけをそう動かしてやめた。

「幸いわたくしはコウゾウに出会い、こちらの言葉や知識を得ることも出来ました。他にもたくさん、友人や家族もその中のひとつです。帰りたいという気持ちがなくなることはないでしょう。けれど、こちらで生きて死ぬ覚悟は出来ています」

 そうするしかなかった。そう考えるしかなかった。

 絶望の末に辿り着いた答えがそれだった、というのもひとつの見方なのかもしれない。

 けれどイアナは寂しそうにしていても、時折見られる笑顔の中に幸せを見いだしている。

 漠然とだがそれが伝わってきてユーリックは長いため息をついた。

 なんにしろ、彼女の言葉はユーリックにとって慰めになるものではなかった。

「帰ることが、出来ない?」

 誰に問いかけるでもなく、ユーリックは呟く。

 イアナもそれがわかっていたのか、あえて答えることはしなかった。代わりに「お腹が空いているでしょう。食事を用意しますね」と言い置いて部屋を出て行った。

 残されたユーリックはただ、事実を反芻していた。

 目標だった魔法師団に入団し、ついさっきまで初の任務で仲間と一緒だった。

 任務の最中に霧が発生。気が付くと別の場所。仲間はいない。

 自分だけ。自分だけが【異界】に追いやられた。

 伝承にある【霧】によって。

 魔法も使えず、自分を知る者もおらず、ただ言われるがままに居ることしかできない絶望。

 唯一の救いは同じ世界から来たというイアナの存在だが、それもユーリックを落ち着かせるには足りなかった。


 帰りたい。


 ユーリックが思うのはただそれだけ。

 それ以外のことは何も考えたくなかった。




   ********************




「どうかな、イアナ」

 様子を見てくる、と言って出て行った妻をリビングで出迎えた浩三はイアナが首を横に振るのを見て「そうか」と目を伏せる。

「やはりそう簡単にはいきません。全くの別世界に来てしまったわけですから。今は戸惑いも、絶望も、色々な感情が心の中に渦巻いているはずです」

「……というと」

「【門】のことをお話しましたわ」

 イアナが「勝手をして申し訳ありません」と謝罪する。

 だが浩三に妻の勝手を咎めるつもりは毛頭ない。

「いや、話すなら早いほうがいいだろうからね。かまわないよ」

「けれど、コウゾウの能力のことは話していません」

 妻のその言葉は浩三にとってありがたいことだったが、それを話したところであの少年の力になれるわけでもない。

「僕の力は【門】が開くその瞬間を捕らえることが出来るだけのもの。あまり意味はないよ」

 【門】自体を開くことが出来るわけではない。

 そんなことが出来るなら、イアナもあの少年もこちらの世界で見つけたときに還すことが出来ている。

 自嘲気味の笑みを浮かべる浩三に、イアナはそっと近づいた。

「そんなことを言わないでください」

 テーブルに肘を突いている浩三の肩に手を置いてイアナは微笑む。

「わたくしがこうしてここであなたの隣にいることが出来るのはコウゾウがその力でわたくしを見つけて下さったからです。確かにあちらの世界に未練がないわけではありません。帰ることが出来るのならば帰りたいと思う気持ちもあります。それでもわたくしは決めたのです。あなたの側にいるのだと」

「……イアナ」

「だからそんなことを仰らないでくださいな」

 浩三は肩に置かれた手に自分の手を重ねて「ありがとう」と呟く。

 そうして見つめ合ったところで、玄関のチャイムが鳴った。

「…………」

 物事とはそう簡単にうまくいかないものだ。というのをこんな所でも感じて、イアナとともに苦笑する。

 まったく間の悪い客人だ。

「わたくしが出ますわ」

 イアナがリビングから出て行くのを見送った浩三は再び2階の客間に寝かせた少年のことを思い浮かべる。

 浩三はこれまで【門】を感知する力を使って、何人もの【霧幻人】と接触し、保護をしてきた。

 それが浩三の一族の役割でもあるわけだが、今回【門】を通ってやってきた少年は今までの【霧幻人】よりも冷静だ。正確には冷静とは言えないだろうが、急激な変化に対してパニックを起こし、暴れるといったことはない。

 これは浩三にとって非常に助かる点だった。

 浩三が一族の役目を担い始めてからこれまでの間【霧】により運ばれてきた【霧幻人】は知るだけで三十名近く。その中には来て早々車との接触事故で死ぬ者もいれば、帰ることが出来ないという現実に打ちのめされて自殺した者もいた。精神を病み、病院に入った者もいる。中でも一番ひどかったのは、あちらの世界で冒険者をしていたと見られる青年が、町中で剣を振り回して暴れて警官に射殺されたことだ。

 武芸の心得がない浩三には止めることも出来ず、どうしようもなかった。

 現在きちんとしたケアを受けてこちらの世界で暮らすことが出来ている【霧幻人】は浩三の妻となったイアナの他に十二人ほど。

 半数以上の人間がこの世界に適合できずに脱落していることになる。

 今回の少年の様子を見ていると大丈夫そうに思えるのだが、そう判断するにはまだ早い。

 浩三の経験からして、あちらの世界で魔法使いだった者の精神が病んだ確率が半々だからだ。

 これからの対応次第だろうが、まだ楽観視するわけにはいかなかった。

 いくら一族の役目を負っているからと言っても【霧幻人】の悲痛な声を聞くのは辛い。

「コウゾウ」

 思考に耽っていた浩三にイアナが声をかけてきた。

 来客の対応は終わったようだ。と思っていたのだが。

 困惑した表情でイアナは玄関先をちらりと見た。

「……ユウカが来ています」

 もうひとつ頭を抱えることがあった、と浩三は空を仰いだ。

「何度駄目だと言ったらわかるんだ。彼女は」

「そうは言っても、あんなに必死なのですよ。お話をするぐらいは……」

「彼女の事情は知ってる。だが、だからと言って話せるものではないんだよ」

 日渡優佳。

 この町に住む高校生。

 昨日、浩三よりも先に【霧幻人】の少年を発見してしまった少女。

 浩三は彼女のことをよく知っている。


 弟を【霧】に攫われた姉。


 確かに彼女の弟が居なくなった日に【門】は開いたことを浩三は知っている。が、実際にそうだという証拠はない。確かめようがないからだ。

 当時は失踪誘拐事件、として大きく騒がれた。と同時に昔からこの地方に伝わる【霧の神隠し】だという噂も立った。

 つまり【異界の門】を通って異世界へ行ったのだ。と。

 彼女は最初から後者を信じていた。

 そうしてその時から優佳は霧が出ると弟を捜して町を彷徨うようになったのだ。

 浩三は弟の失踪から彼女の家族が抱えた苦しみの一遍は知っている。それ故にその行動を止めるのは気が引けたが、彼女が【霧】に攫われてしまえば残された家族はどうなるだろう。

 幸いなことにこれまでは優佳が【門】に遭遇したり【霧幻人】と出会うことはなかったわけだが、浩三はことあるごとに優佳に諭してきた。もちろん【霧】によって現れる【門】のことは隠してのことだ。

 それでも優佳は引かなかった。そして聡い子供だった。

 浩三が何か知っていることを見抜いて、浩三の元を訪れるようになった。

 必死に訴える彼女を見て心が動かなかったわけではない。

 それでも浩三は彼女に何も知らせてはいない。

 優佳の精神はまだ幼く、知らせれば【異界】にいるかもしれない弟を追いかけようとするだろう。その為に霧を追いかけ続けるだろう。

 今でもそう変わらないが、それで彼女が居なくなれば浩三はおそらく後悔する。

 彼女の家族になんと言えばいいかわからない。

 だから浩三は何も言わないことに決めていた。

 だが彼女は見つけてしまった。

 異界に繋がる鍵を。

 あの少年を。

「……まったく、困ったものだ」

 浩三は重苦しいため息をつき、優佳を追い返すために立ち上がった。



2011.10.14 一部修正&訂正

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