壊れゆく日常
霧原町には【神隠し】の伝説が存在する。
町に住むほぼ全員が幼い頃にそれを聞かされて成長するはずだ。
霧が出る日は外に出てはいけないよ。神様に攫われてしまうから。
だが実際にそれを律儀に守っている者などこの現代ではそう多くない。
せいぜい古い言い伝えを信じている迷信深い心の持ち主たちだけだろう。
彼らは先祖代々伝えられてきた物語を語り継ぐ。
【霧】とは神が変じたもの。
神は常に自分の世界である【桃源郷】へ来る資格を得られる者を捜している。
資格を持つ者がいると霧になり、その者を連れていくのだと。
基本的に桃源郷へ連れて行かれた者は帰らない。
しかし桃源郷より現世に連れ出される者もいた。
自分たちとは違う容姿をしたその者たちは桃源郷にいる資格を失った者として考えられた。
桃源郷へと連れ去られた時と同様に霧によって現れる彼らのことを、人々は自分たちとは違う名で呼んだ。
【霧】の向こうの【幻】の世界。【桃源郷】より来る異邦人。
【霧幻人】と。
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ユーリックの住む霧原町は一応、観光地の扱いを受けている。
春には桜。夏にはキャンプ。秋は紅葉。冬は温泉。と一応は年中観光資源が存在する。
現在は春。と言っても桜の見頃はとうに終わり、五月に入ってしまっているから観光客のピークは終わっていた。
そんなわけで、春と夏の合間は暇かというとそうでもなく。この期間には昔からこの地方で作られている陶磁器の祭りが開催されている。その分マニアックな観光客が多かったりするが、霧原町は人口約八千人の小さな町である。どんな客だろうと、町に金を落としていってくれるのだから文句はない。
観光資源になりそうなものは何でも使うというのがこの町の方針だった。
おかげでこの町に引っ越してくる人間も多少なりに増えている。が、やはり都会の魅力は捨てがたいようで出て行く人間も少なくはなく、過疎化現象に歯止めをかけるとまでにはいたっていない。
それはさておき、ユーリックはこの町を代表する観光誘致にほんの少し荷担していた。
観光案内人、という仕事で、郷土に伝わるあれこれを、観光客に説明するガイドである。
外国人らしい外見――実際に外国人であるわけだが――で観光客に霧原町の歴史などを説明するその姿はこの国の人々に興味深いものとして映ったようだ。
観光客相手に喋るのは苦ではなかったが、時折興味本位で自分の故郷のことなどを聞かれることにはこの仕事をはじめてから十四年と少し経った今でも慣れない。
適当に返事をするにしても、下手なことは言えない。
ユーリックは外国人は外国人でも、この世界の住人ではなかったのだから。
【地球】ではない世界。
【フォライザ】
この世界と似た構造を持ちながら、全く違う理を持つ世界。
ユーリックの故郷はその【フォライザ】にある。
もう二度と戻れないだろうその世界のことに思いをはせると胸が痛む。
「あの……大丈夫ですか?」
ユーリックが顔を上げると、目の前に数人の女性の顔があった。
その後ろにも四人ほどこちらを不思議そうに見ている。
それが思考の世界から現実の世界へ切り替わった瞬間だった。
仕事中。という言葉が日本語で頭のなかを駆けめぐる。
「申し訳ありません」
気を取り直して謝ると、女性たちは揃って首を横に振った。
「やだ。謝ることなんてないですよ」
「そうです。むしろこっちが謝らないと。そういう顔をするってことはしばらく帰ってないってことでしょう」
「わたしたちこそ興味本位で聞いてしまって。ごめんなさい」
ぺこぺこと次々にお辞儀をする女性たちの姿はこの国の礼儀の象徴のようなものだとユーリックは理解していたが。しかし同時に接客する側の心構えを叩き込まれている以上、相手に謝らせて終わりではすまない。
ユーリックは「とんでもない」と女性たちに向き直った。
「むしろ私が皆さんに謝らなければ。他のことに気を取られて案内人の仕事をおろそかにしたとあっては、怒られるどころか給料カットされても文句は言えません」
実際にユーリックの上司はそれをやりかねない。
客の満足度で、次の客数が決まると豪語し、外国人だろうが、同じ国の人間だろうが、客を満足させることが出来ない時点で案内人失格のレッテルを貼りつける実力主義人間である。
「まあ、そんなことが?」
「うちの上司は厳しいんです。鬼上司と他の案内人仲間も毎日怯えてるんですよ。なので全員いつあの雷が落ちてくるかと毎日必死なんです」
「雷だなんて。それはまた」
「私がまだ新人の頃は本当に随分怒られましたよ。外国人だから甘くみると思っているなら大間違いだ、とね。いつだったか……」
自分の失敗談を持ち出すと女性たちの意識は完全にユーリックの話の内容に向いたようだった。
自分がこういう話をしていた、と上司に聞かれれば多少のお叱りは受けるだろうが……観光客を楽しませるという目的は達成できているようなのでそう強くは言われないだろう。
「よくもまあ、これまであの上司の下で働いてこられたものだと自分でも思います」
この十何年かで培った少しおどけた態度は彼女たちの表情を和らげるのに役立ったようだ。
「そういうわけですので、さきほどの件は内密にお願いしますね」
そう締めくくると女性たちの間で和やかな笑いが溢れた。
案内人は基本接客商売だ。多少の冗談を交えながら……というのも仕事のうち。リピーターを増やすために相手を楽しませ満足させることも必須技能のひとつである。
「ええ。もちろんです。こんなことをあなたが怒られては可哀相ですもの」
「そうです。内緒にしますから安心して下さいね」
「ありがとうございます。では、気を取り直して行きましょうか。工房へご案内します」
なごやかムードを作りつつ、仕事を再開させるユーリック。
頂上から傾きかけた太陽の光を背中に受けながら、観光用に整備された道を歩き出す。
目的地はそう遠くない。
既に見えていた大小ふたつの建物に近づいていくと幾人もの人影が見える。
今の時期は陶磁器祭りが行われているし、観光案内人なしでもここを訪れる人間は少なくない。ただ女性の数が圧倒的に多いのは、この工房が女性向けのあるものを多く作っているからだろう。
人影はある程度一定の場所に集中していた。
近づいてそこが物品の販売スペースだとわかる距離になったところで小さい方の建物から出てきた人間がいた。
「あ、来たのネ」
黒髪に黒い目。そこは日本人と同じ特徴だが、顔立ちはユーリックに近い。年齢は二十歳を過ぎた頃。一目で外国人だとわかる容姿の女性がユーリックに近づいてくる。
彼女はユーリックに案内されてやってきた女性たちに丁寧なお辞儀をした。
「はじめまシテ。ワタシはリン・シャオ。この小さい方の工房がワタシのヨ。シャオと呼んでくださいナ」
女性たちが釣られてお辞儀をすると、リン・シャオと名乗った彼女は小さい方の建物を指さした。
「今日は簡単なアクセサリー作りの体験コースへようこソ。ゆっくり楽しんで行ってネ」
シャオがユーリックから女性たちを引き取る形で先頭に立つ。
ここから先しばらくはユーリックの仕事はない。
一時間ほど観光客から解放されることになったユーリックは今後の仕事の確認をしてから、土産として人気の高い陶器で作られたアクセサリーを販売するスペースに向かう。
「ありがとうございましたー」
丁度人がはけたところで、販売を手がけていた女性がユーリックに気付いた。
外見は四十代半ば。ユーリックと同じ茶色の髪に茶色の瞳。やはり外国人だとわかる容姿だ。
「あら、ユーリック。いらっしゃい」
「こんにちは。アレイシア」
ユーリックがこの工房へ観光客を連れてくるようになって五年。すっかり顔なじみになった彼女が実は同郷だということがわかったのはつい最近のこと。
十歳にも満たない頃に喜里山家の先代、浩三の父に保護されてそれから三十年以上この世界で暮らしているという大先輩だ。
彼女もユーリックと同様に、最初の頃は自分の身に何が起こったのかまったく理解しておらず、家に帰して欲しいと泣きわめいたこともあったが、こちらの言葉を覚えるにつれ、帰れないことを悟ったそうだ。そして【霧】によって娘を失ったと思われるこの工房の主の所へ引き取られたとか。
地球で過ごした年数の方が長くなってからは、【フォライザ】のことを思い出すことはほとんどなくなっていたそうなのだが。先程小さな工房から出てきた女性、シャオが十年前に霧から現れたことで彼女と自分が重なって見えたらしい。夫となったこちらの男性と相談して彼女を引き取り、育ててきたのも彼女の意志だった。
「シャオの作る飾り玉は評判がよさそうですね」
販売スペースに並べられているのは陶器で作られた指輪や首飾り、チャームなど様々だ。
「ええ。本当。流石よね。五歳の頃から石を見つけては飾りを作っていたって言うだけあって、センスは抜群。才能がもったいないなあって思ってたら自分からやりたいって言ってくれたのよ。アイデアもよかったし。良い子を養女にもらったわぁ」
そう言って笑うアレイシアは本当に嬉しそうだ。そこからは彼女がシャオを心底家族として愛していることが感じ取れる。
「あ、そうだ。ユーリック。おすすめがあるんだけど」
すっかり商売人気質が芽生えてしまったらしいアレイシアはここぞとばかりに売り込みを開始する。
取り出したのは手のひらにすっぽり収まる大きさの陶器の鈴。
猫に似た動物の形をしていて、鋭い目が特徴になっていた。
「これは?」
「あの子の故郷につたわる夏の精霊の化身ですって。イアディって言ったかしら」
「というと、シャンタナの」
ふたりの故郷であるバルフェルド王国の北にあるその国は草原の民と呼ばれる人々が暮らしている。三十種以上の部族が混在しており、彼らは一様に目に見えない季節の精霊を奉っていた。そして稀少な存在である大人しい魔物を精霊の化身と見なして崇めているのだ。シャンタナにしか存在しない種類の魔物であるため、ユーリックは実際にそれを見たことがなかったのだが、シャオが作ったというこの鈴はその中の精霊のひとつを模したものらしい。
「この世界の猫、に似ていますね」
「外見はね。でも実際にはカメレオンみたいに体毛を周囲の色に合わせることが出来るんだそうよ」
「それなら本で読んだことが。魔力を纏う種族の魔物ですね」
「あら、博識なのね。わたしは初耳だったのに」
「一応、魔法学校の生徒だったので」
それらは全て日本語でだったのだが、他の人間が聞いていたらさっぱりわからない会話だっただろう。
それでも、彼らの間ではそれが通じる。
「いいわねぇ。わたしなんてこの世界に来るまで文字なんてさっぱりだったのに」
しみじみというアレイシア。故郷であるフォライザでは田舎に行けば行くほど文字の普及率は下がる。村長という役目を負った人間しか文字を読めないという村まであるくらいだ。
アレイシアがいたのもそういった文字普及率が極端に低い村だったそうだ。
「おかげでこっちに来てから楽しかったけど」
勉強したくとも出来る環境ではなかったのがその理由らしい。
「今あっちに帰ることが出来たとしても絶対に嫌って言うわねぇ。ユーリックはどう?」
「え……」
帰りたいかどうか。
アレイシアが軽く聞いたそれにユーリックは戸惑う。
「最近ほら、例の【霧】。頻繁に出てるみたいじゃない?」
「……アレイシア」
それはあまり口にしていいことではなかった。
咎める口調で名前を呼ぶとアレイシアは「ごめんなさい」と目を伏せた。
「行方不明になっている人には悪いけど。でも帰りたいと思っている人にはいい機会なんじゃないかしらと思ったのよ」
「俺はこの世界で生きると決めた人間です」
アレイシアの言いたいことはわかっている。
この世界にはアレイシアやユーリック以外にもたくさんのフォライザから霧によって地球へ運ばれてきた人間がたくさんいる。
アレイシアやユーリックのように、この世界で生きることを決めても故郷を忘れられない人も少なくない。
当然、機会があれば帰りたいと望む人間もいた。
だが。
「アレイシア。帰りたいと望んだからといって、霧がその人をフォライザへ戻すとは限らない。現に行方不明になった人間は全員……」
「こちらの人間だというのでしょ。わかってるわ」
こういったことを言うのは自嘲しなければならない。というのは二人の様に真実を知る人間にとって暗黙の了解。
それでも彼女がユーリックに尋ねてしまったのは仕方のないことだったかもしれない。
そのはじまりは去年の九月だった。
ひとりの少女(高校生)が失踪した。
次は十一月。
観光に来た三十代の夫婦だった。
そして十二月、二月、三月、四月。
今までとはまるで違う頻度で【霧】は人をさらっていった。
八ヶ月で六回。わかっているだけで七人の行方不明者が出ているのだ。
これまで年に一回から二回だったそれが突然増えるのはどう考えても不自然である。
ユーリックたちの恩人である喜里山家の人々もこれには疑念を抱いており、調べている最中だと言う。
「あまり、大事にならないといいのだけれど」
アレイシアに同意しながらユーリックは少し不安に思う。
去年からの突然の変化。
何かが起きているのは確実なのにそれがどうしてなのか全く見当がつかない。
「あ、そうだ」
アレイシアが何か思いついたように声を上げた。
「これをお守りになるように売り込もうかしら」
シャオが作った陶器製の鈴を持ち上げにこりと笑う。
見事な商売根性と言うべきか。
「そうだ。魔よけのお守りとして使えるものをあの子に考えてもらうのもいいわね」
自分が考えたこととは全く違う方向の話題に持って行かれて、ユーリックは顔を引きつらせた。
女というものは、まったく本当に逞しいものだ。
彼がその結論に達した頃、再び販売スペースに人が集まりはじめた。
邪魔になるわけにはいかないと離れたユーリックだったが、一度耳に入れてしまったアレイシアの言葉は重く胸の奥の方に収まった。
この町に住んでいる以上、再び霧がユーリックをフォライザへ連れていく可能性がないとは言い切れない。特に現在は頻繁にそれが起こっている状況だ。
しかしそれはユーリックを含め、この町に住んでいる人間全てに言えることである。
この世界に来て十五年。
妻を迎え、子供を得て、家族と共にこの世界で生きると決めたユーリックにとってそれは恐怖でしかない。
その恐怖が間近に迫っていようとは、この時点では誰も知らなかった。
********************
霧原町の中心部から車で約四十分。
夏を迎える前のキャンプ場。【霧野山渓キャンプ場】は毎年最寄りの小学校からの遠足の目的地として使われている。
小学校五年生、六年生になると徒歩で……ということになるのだが、流石にそれ以下の生徒にはきつい行程なので必然的にバス遠足となる。
霧原小学校の三年生、四年生もまたバスでキャンプ場に入った。
今年四年生に進級したばかりの日渡エイシャ、という少女もまたこのバス遠足の参加者だ。
色素の薄い柔らかな茶色の髪と、それよりも少しだけ色の濃い茶色の目。周囲にいる子供たちと比べて白く映える肌も、その彫りの深い顔立ちも全ては父親から受け継いだもの。
いわゆる外国人とのハーフであることの証だった。
といってもエイシャは父親がどこの出身であるか聞いたことがない。
故郷の話もたまにぽつりと話すくらいで、エイシャが父親について知っているのは自分の名前が父親の母親。つまり祖母からもらったものだというくらいか。
どうしてこの国に来たのか、というところについても曖昧だ。
だからといってエイシャの父親が父親であるという事実は変わりなく、家族生活に問題があるわけでもないので、それはそれで構わなかった。
今のところは。
ただ、やはりその外見のことでからかわれることも多い。
小学校四年生にもなれば言葉の語数も増え、それを使いたくもなるし、男女の違いもこの頃から次第に顕著になっていく。
それゆえの弊害もある。
良く言えば「憧れ」。悪く言えば「嫉妬」。
そうして組みあがったグループの外で、最後までエイシャの側に残ったのが家が近所の幼馴染みだったのは必然的だったのかもしれない。
山下里愛と春日浦比奈。
エイシャが無邪気に甘えられる唯一の友人たち。
「エイシャちゃん。それちょうだい。あたしのタコさんウインナーあげるからっ」
あちこちにアスレチックが建ち並ぶ広場の一角。
お弁当を広げた比奈がエイシャのお弁当をのぞき込んで指で示したのは卵焼きだった。
「……いいけど。なんで?」
「だって、エイシャちゃんのところの卵焼きって甘くておいしいじゃないっ」
そう言い切った比奈は自分のお弁当の中から足が八本になったウインナーをエイシャのお弁当の蓋に乗せた。エイシャもそれを真似て、卵焼きをひとつ比奈のお弁当の蓋に乗せる。
「あー、比奈ってば、甘いもの好きだからね」
と呆れ気味の声音で言ったのは里愛。
「たしか、チョコレートでご飯とかも食べられるんだっけ?」
「うん。それおかずでご飯二杯は食べられるよ」
「なんでご飯とチョコレート?」
「え。おいしいからだよ」
平然と胸を張る比奈に、エイシャは眉間にしわを寄せた。
甘い卵焼きがおかずとして入っているエイシャだが、比奈のそのチョコレートをおかずにするという感覚はわからない。
そもそもチョコレートとはおやつなのではないだろうか。
「ぜったいに、それおかしいから」
里愛も冷めた目で比奈を見ているが、比奈はケロッとしている。
「そうかなぁ。熱いご飯の上にチョコレート置くとね。溶けてチョコレートがご飯にからまって、チョコフォンデュみたいでおいしいよ」
「げーっ。甘くて気持ち悪いよそんなの。おかーさんも言ってたけどそういうのをジャドーっていうの!」
やめてー、と里愛が悲鳴を上げる。
エイシャもエイシャで比奈の言うそれを思わず想像してしまったので、なんとなく残りの卵焼きを食べる気力がなくなってしまう。
「比奈ちゃん」
「なあに?」
エイシャのあげた卵焼きをおいしそうに食べる比奈。
「残りの卵焼きもあげる」
そう言うと比奈は喜んで「いいの!?」と声をあげた。
自分の口には入らないが、食べたいと思う人間の胃に収るのならお弁当を作った母親もきっと満足するはずだ。
多分。
「ありがと。エイシャちゃんっ」
お弁当箱ごと差し出すと、比奈はそこから直接残りの卵焼きを箸で取り上げた。そのままぱくりと口に運ぶ。
満足げな比奈の様子に「比奈の感覚はわかんないわー」里愛が呟き、エイシャまたそれに頷いた。
「おやつ持ってきたけど。あの話聞いたあとだと食べられそうにない」
「だよね」
リュックサックの中に入った三百円分のおやつが今日中に日の目を見ることがあるのかどうか。それはこのあとの彼女たちの気持ち次第だった。
約一名にとっては至福のお弁当タイムが終わると、エイシャは「トイレに行って来るね」と席を立った。
続けて甘そうなお菓子の袋を開けつつある比奈には悪いが、ここで一度逃げなければ胸焼けがしそうだったというのも理由のひとつだ。
「じゃ、あたしも行くわ」
里愛がそう言い出したのも、おそらくエイシャと同じ理由だろう。顔にいかにも気持ち悪いと出てしまっている。
「ん。いってらっしゃい」
お菓子を手に持っているのでご機嫌な比奈が手を振る。
それを見ないフリをして。
ふたりはそのままアスレチック広場の隅にある公衆トイレに向かうのだった。
「……う。気持ち悪い」
よほど比奈の話が辛かったのか、甘味の入っていないまともなお弁当だったににかかわらず、里愛の顔色は良くない。
「先生。呼んでこようか?」
「うーん。だいじょぶ。比奈の話が原因だと思うし……」
「はは。あれはちょっと、ないよね」
「ないよねぇ」
お互い、顔を引きつらせながらあははと笑う。
里愛はどちらかというと辛党だ。ポテトチップスや、イカ串のようなものを食べている印象が強い。甘いものも嫌いではないが、進んで食べたいということはないらしい。
逆に比奈は甘党で、おやつには必ずチョコレートと甘い飲み物が欠かせない。塩辛いものは苦手で、みそ汁は飲めない。という珍しい味覚の持ち主だった。
全く別方向の味覚を持つふたりだが、その間を取り持つのがエイシャで、だからこそバランスが取れているのかもしれない。
ただ今回のチョコレートフォンデュご飯については異論を唱えざるを得なかったが。
「ご飯には普通おみそ汁だよ。甘いものなんて気持ち悪いったら」
「うん。そうだよね。比奈ちゃんがお菓子好きなのは知ってたけど。でもチョコレートご飯なんて」
「あ、エイシャ。それ言わないで。また気持ち悪くなってきた……」
里愛が手で口を押さえた頃にはトイレの前に着いていたが、長い列が出来ていてしばらく待つことになりそうだった。
それを見た里愛が唸って座り込む。
「里愛ちゃん?」
エイシャがそれに気が付いてしゃがみこみ、里愛の顔をのぞきこむ。
里愛の顔色は青かった。
「ちょ、里愛ちゃん。だいじょうぶ!?」
トイレに並んでいた少年少女もそれに気が付いたようで「どうしたの?」と声をかけてきた。
「え、と。先生呼んできた方がいい?」
「んー。とりあえず、よこになりたい」
里愛がそう言ったので、近くにあったベンチまでゆっくりと誘導する。ふらふらと足取りがおぼつかない。
「吐きそう?」
「……わかんない。とりあえず、もーだめ」
ベンチまで辿り着いた途端、里愛が倒れるようにベンチにもたれかかった。目を閉じて横になるその姿はとても大丈夫には見えない。
担任を呼んでくるべきかもしれないと思ったとき。
「日渡さん」
心配して声をかけてきたのは同じクラスの男子だった。
名前はたしか……
「渡辺くん」
だったと思う。
「先生呼んできた方がよさそうだね」
あまり話したことのない相手だが、この状況でそんなことを言っていても仕方ない。厚意はちゃんと受け取ることにした。
「うん。お願いしてもいい?」
そう言うと渡辺は頷いてアスレチック広場の方に走っていった。
とりあえず先生の方にはこれで話が行くはず。
「うー。気持ち悪いよー」
里愛がまた唸る。
なんとかしてあげたいが、エイシャにはその知識も道具もなにも持っていない。
「里愛ちゃん?」
ぺた、と里愛の顔に手を当てると少し熱かった。
「……エイシャの手、冷たくてきもちいい」
「もしかして熱がある?」
里愛に聞くと「んー。朝ちょっとだるかったかも」という返答がかえってきた。
だとすると風邪かもしれない。
こういうときは冷やしたほうがいいと聞いたことがある。
エイシャはハンカチを取り出すと「ちょっと濡らしてくるね」と立ち上がった。
「んー。待ってる」
里愛が手をひらひらと振ったので、エイシャは急いでトイレの中に駆け込んだ。少年少女が並んでいたが、謝って洗面台だけ使わせてもらう。
お世辞にも綺麗とは言えないものだったが、清掃だけは行き届いていて水もちゃんと出る。飲むわけではなくてハンカチを濡らすだけだから問題はないはずだった。
「あれー?」
という不思議な声が聞こえたのはそのときだ。
ちょうど水道を使っていたので水音でうっかり聞き逃しそうになったが、次の声でエイシャもそれに気がついた。
「ねぇ。霧が出てるよ」
「え、煙じゃないの?」
それは外から聞こえた。
ざわざわとトイレの周辺が騒がしくなる。それと同時にトイレの中に白いなにかが入り込んできた。
「え、ちょっと。何コレ。煙?」
「匂いないから違うよ。もやじゃない?」
「霧でしょ」
「今昼だよ?」
周囲の声は途絶えることなく、聞こえてきた。その大多数は戸惑いの声だ。
エイシャもなんだろう、と思いながらぼんやりそれを眺めていたが。
「あ、里愛ちゃん!」
はっと我に返ったときには白い霧はトイレの中を覆い尽くし、視界さえも遮ってしまっていた。
一寸先も見えないほどの白。これでは動きようがない。
あちこちで壁にぶつかってしまったらしい音や「痛っ」という声がしている。
エイシャはその体に巻き付くような霧に気味悪さを覚えた。
何かわからないものに、体を調べられているような、見られているような。そんな感覚。
いやだ。気持ち悪い。
エイシャは体中の毛が逆立ったかのように思えて身を固くする。
動きたくても、まとわりつくようなその気持ち悪さが邪魔をして動けない。
どれぐらいそのままだったろうか。
不意に髪をほんの少し揺らす程度の風が吹いた。かと思えば、縛られたように動けなかった体が自由になる。
二度、三度と瞬きをすると、トイレに充満していた霧は次第に薄れていくのが見て取れた。
現れたときと同じくらいの時間で去っていったのではないだろうか。
誰もが呆然としている間に、視界を遮っていた全ての霧は消え去っていた。
あとに残ったのは、霧が現れる前と変わらないトイレの内装だけ。
「もうっ。何よいまのー」
トイレの中から出てきた少女が頬をふくらませた。
その隣からも同じように少女が出てくる。そしてもうひとつからも。
しかし。最後のひとつからは何もない。
扉は閉まったまま、しかし人は出てこない。
そして、妙だと思ったその背後でもまた変化は起こっていた。
「あれ。みっちゃんは?」
「オレの後ろにいたやつはどこ行った?」
「ねえ、ベンチで寝てた子がいないんだけど」
周囲がざわめく。
なかでも一番最後に聞こえたそれは、エイシャにとって聞き捨てならないものだった。
「……え?」
濡らしたハンカチを握りしめてエイシャは慌ててトイレの外に出る。そうしてベンチを見て愕然となった。
さきほどまで気持ちが悪いと言って、唸っていた少女。横になっているはずの里愛の姿はそこにはない。
「里愛ちゃん?」
動けなかったからエイシャが運んだ。だからそこにいて当然なのにいない。
周囲を見渡す。
あの状態だ。動けたとしても、そう遠くまで行けるはずはない。
そう考えてのことだったが、それらしい影も形も存在していなかった。
「なんで……?」
どうしていなくなったのだろう。
そこに辿り着いたのは、周囲の方が先だった。
「やっべー。霧が出ていきなり人がいなくなるとかあれだろ」
「あれ?」
「ほら、母ちゃんたちが噂で言ってた【霧の神隠し】」
それは霧原町に伝わる神隠しの呼称。
突然現れた霧。そしてさきほどまでいた人間がいなくなっている事実。
今の状況にぴったり符合するのはたしかにそれだけだったが。
「え、けど。それって噂だろ」
「さっきのあいだにどっか逃げたりとかしたんじゃないの?」
飛び交う否定の言葉も、エイシャの耳には入っていなかった。
彼女にとっては目の前のこれが現実。
いつだったか聞いた【霧の神隠し】の内容が脳裏をよぎる。
【霧】とは神が変じたもの。
神は常に自分の世界である【桃源郷】へ来る資格を得られる者を捜している。
資格を持つ者がいると霧になり、その者を連れていくのだと。
この町に住む人間なら誰もが耳にしたことのあるその言葉。
エイシャは霧が自分にまとわりついたあの感覚を思い出してぞっとした。
もしあれが、桃源郷へ行く資格を持つ者を選別するものだったのだとしたら?
「里愛ちゃん。なんで……」
エイシャはその場に座り込む。
下は地面だが、それを気にする余裕はなかった。
渡辺がようやく担任を連れてきてからもずっとエイシャは放心したままだった。
長らく放置状態でしたが、流石にこれ以上はちょっとなー、という気分に陥ったので更新再開します。
いろいろ突っ込みどころ満載ですが、寛容なお心で読んで頂けるとありがたいですm(_ _)m