エメラルド公爵の恋煩い
ヘタレな公爵様と、芯の通った御令嬢の小話です
──彼女の姿を眼で追い始めたのは、いったい何時からだったか。
父から家督を譲られたばかりのシトロン・スチュワートは、今宵の夜会でも特段輝いて見えるアイリス・ハワードを、自身のエメラルドの瞳で眺めていた。
アイリスは伯爵家の娘で、今年確か20歳を迎える、夜に咲く華の様に可憐な淑女だ。
彼女は真っ黒で艶やかな髪をハーフアップに結い上げ、少し長めの前髪からは長いまつげに縁取られた大粒のアメジストが覗く。
扇子で口元を隠している為、紅を差さずとも紅い唇が見えないが、その美しさは隠しきれていなかった。
(やはり美しい……。だが、30の男に言い寄られても迷惑なだけだろう)
シトロンは本来女嫌いだ。
公爵家嫡男の身でありながら、政務を理由に婚約を突っぱねまくり、浮いた噂の一つも流さずにここまで来た。
付いたあだ名は【エメラルド公爵】、彼を宝石の様に硬い堅物だと揶揄したものだ。
そんな彼が、何故アイリスに恋をしたのか。
──半年前、シトロンは王家主催の夜会に徹夜をした翌日参加した。
ショートスリーパーである彼は、普段一日程度の徹夜では体調を崩したりしないのだが、この日は別だった。
ウェルカムドリンンクで提供されたワインの度数が思いの外強くて、油断していた彼は酒に呑まれてしまったのだ。
(まずい、気持ちが悪い……!)
なんとか眼に留まろうと纏わりついて来る淑女達や、政治の話をしたがる紳士達の相手をしていく中、具合はどんどん悪くなっていく。
だが、こんな所で失態は犯せない。
ここは様々な思惑渦巻く戦場なのだ。
シトロンは腹に力を入れて、この場を何とか乗り切ろうと、青くなる顔を必死に隠して張り付けた笑顔を作る。
その時だ、凛とした声音が彼を救ったのは。
「スチュワート公爵様はわたくしの父とこの後予定がありますの。失礼ながら、公爵様をお譲り頂いても?」
約束なんてしていないと思い、シトロンは声のした方を見遣る。
そこには、背筋をピンと伸ばして立っている、アメジストの瞳が印象的な令嬢が居た。
不思議と他の女性に抱く嫌悪感を全く感じさせない彼女は、人垣を割ってシトロンに近付き、小さな声で耳打ちする。
「失礼は承知です。スチュワート公爵様、もしや御加減が悪いのではないですか? わたくしをエスコートする名目で外庭に出ましょう。外の空気を吸えば少し良くなると思います」
自分の完璧な仮面が見破られるとは思っていなかったシトロンは、しかしこの提案に乗らない理由はなく、頷く。
「皆さん失敬、御令嬢を父上の元までエスコートするので、今夜はこれにて」
名残惜しそうにする面々を躱し、シトロンは令嬢をエスコートし外に出た。
王城の庭園には春の花が咲き誇っており、街灯の灯りがそれらを優しく照らす。
会場の喧騒が聴こえなくなった大噴水近くで、シトロンは詰めていた息を吐きだした。
「助かりました御令嬢、よく私の具合が悪いと分かりましたね? 御名前を御聞きしても?」
噴水の縁にハンカチを引いて、シトロンは令嬢に座るよう促しながら訊ねる。
彼が座った後に横に腰掛けた令嬢は、綺麗なアメジストの眼でシトロンを見た。
「申し遅れました、わたくしはハワード伯爵家のアイリス・ハワードと申します。公爵様が笑顔を作られる時、口元を抑えていらっしゃったでしょう? わたくしも具合が悪い時はよくそうするので、もしやと思いました。それに、少し眉間に皺が寄っていらしたんです」
「……自分では気付きませんでした。それ程目立ちましたか?」
「いいえ、凄く軽微な変化です。他の方も気付いていらっしゃらないと思います」
きっと、彼女は観察眼が鋭いのだろう。
さり気なく助けに入る機転も見事で、シトロンは途端にアイリスを眩しく感じた。
「よろしければ、このハンカチをお使いください。使用しておりませんので御安心を。よからぬ噂が立ってもいけませんので、わたくしはこれで失礼しますわ」
シトロンはさっと渡されたハンカチを反射的に受け取ってしまい、アイリスは既に立ち上がっている。
「……っ、この御礼は必ず致します……!」
だが、アイリスは優雅にカーテシーをしてそのまま去ってしまったのだ。
──(あの時もっと話をしておくべきだった……。贈り物をしようにも彼女の好きなものが分からないし、いきなり声を掛けるのも失礼だろう……)
シトロンは現在、初めての恋煩いに悩んでいるのだ。
手紙を送ろうにも、彼女の両親には夜会でのことは伝わっていないだろうし、いきなり【エメラルド公爵】から手紙が来たなんて知られれば、騒ぎになるに決まってる。
アイリスに恋心を抱いているシトロンはそれで構わないが、彼女にとっては迷惑な話だろう。
そうして何もできないでいる彼は、密かにアイリスが出席する夜会や舞踏会を調べては、壁に張り付いて彼女を眺めているのである。
はぁ……っとシトロンが溜め息を吐いた時だ。
「よーう! 今日も辛気臭い顔してんな!」
バシッと肩を叩くと共に、彼の親友であるクリス・グレイが話し掛けて来た。
「クリス……。ほっといてくれ……」
「【エメラルド公爵】の恋煩いなんて面白い事、放って置けるかよ! で、どうなんだ?その様子だと今日も収穫はなさそうだなぁ」
面白そうに、にやりと笑う彼は大学時代の同級生で、侯爵家の出身だ。
まだ家督は継いでいないが、栗色の髪に甘い青い瞳をした彼はプレイボーイで、夜会では人気者なのだ。
そんなクリスとシトロンは何故だか馬が合って、今日まで良好な関係は続いている。
女性関係に明るいグレイならと思ってアイリスの事を相談したのが運の尽き、シトロンはクリスに毎回こうして揶揄われているのだ。
「いつまでも馬鹿みたいに見つめていたって、彼女は手に入らないぞ~?」
「……分かってる。だけど色々あるんだよ……」
シトロンは俯いて、どよんとしたオーラを垂れ流す。
「おいおい! 折角の美丈夫が台無しになってるぞ! っ……たく、ちょっと待ってろ!」
言い置いて、クリスは何処かに消えて行った。
彼と話している間に、視界の中からアイリスも消えてしまっていて、シトロンは、自分は何をやっているんだ……と落ち込み、更に俯きかける。
「公爵様? 御用事があると伺ったのですがどうされましたか?」
凛とした女性の声が耳に届き、シトロンは顔を上げる。
なんとそこには、にやにやするクリスに連れられて来た、アイリスが立っていた。
(……!? クリス……!!)
シトロンは直ぐにクリスの仕業だと気付いて彼を睨むが、クリスはひらりと手を振って立ち去っていく。
残されたシトロンは、顔に疑問を浮かべてこちらを見てくるアイリスと向き合うしかなかった。
「すまない……、友人が勝手をした様だ。だが、私も貴方ともう一度話せたらと思っていたんだ。よければ少し付き合ってくれないだろうか……?」
「えぇ、勿論です。御加減も良くなられた様で安心しました」
色よい返事を貰えて、シトロンはホッとする。
だが、女性経験のない彼には女性の喜ぶ会話という物が分からない。
取り合えず話をしなければと、彼は焦って取り留めのない話題を振る。
「その、今日は良い夜だな」
「えぇ、風の温度が丁度良くて心地の良い日ですね」
「……ご両親は御元気だろうか?」
「はい、お陰様でぴんぴんしております」
(まずい、会話の広げ方が分からない……!!)
何を言っても律儀に返答してくれるアイリスに申し訳なくなり、シトロンは正直に話した。
「すまない、私は女性経験がないもので、上手い会話の仕方が分からないんだ……。つまらないだろう?戻ってもらって構わない……」
情けなく肩を落とすシトロンを見て、アイリスは笑わなかった。
「いいえ、公爵様のお人なりが伺えて嬉しいです。それに、得手不得手があるのは当然です。つまらなくなんてありませんよ」
「君は笑わないのかい?」
「笑うだなんてとんでもないです。よろしければ、少し歩きませんか? 会話が無くともここの御屋敷の御庭は素敵ですので、良い時間を過ごせると思うのです」
シトロンは腕を曲げてアイリスに差し出す。
アイリスは微笑んで彼の腕に手を沿え、二人は夜の散歩に繰り出した。
──「まぁ、薔薇が見頃ですね。色々な色があって綺麗です」
「そうだな、アイリス嬢は何色が好きなんだ?」
「やはり紫ですかね。わたくしの眼と同じ色なので」
「私も貴方の瞳はアメジストの様でとても綺麗だと思う」
褒められると思っていなかったのだろう、アイリスは暗がりのわずかな明かりでもわかるくらいに顔を赤くする。
「お世辞でも嬉しいです。この眼は代々伯爵家の女性に受け継がれている色なので……」
「私は世辞など言わない、本気でそう思っている。それに貴方の髪は艶やかで美しいし、紅い唇は熟れたリンゴよりも魅惑的だ。それに……」
「も、もう結構です!」
アイリスはいっぱいいっぱいになって顔を背けてしまう。
最後まで言わせてもらえなかったシトロンは、宙に浮いた言葉を飲み込んだ。
「すまない、嫌だっただろうか?」
「い、嫌ではなく恥ずかしくて……! 公爵様の金髪とエメラルドの瞳の方がずっと美しいと思います」
今まで容姿を褒められてもなんとも思わなかったが、アイリスに美しいと思って貰えてる事実に、シトロンは嬉しくなった。
「初めて自分の容姿が好きになれそうだ。貴方に褒められると、とても嬉しい」
「わたくし以外の方だって、公爵様を美しいと思っていらっしゃると存じますよ?」
シトロンはまだ顔の赤いアイリスの頬に手を沿え、告げる。
「私が嬉しいと思うのはアイリス嬢だけだ。……私は貴方に恋をしている」
アイリスは、突然なストレートすぎる告白にびっくりして固まってしまった。
シトロンはそれを振られたのかと勘違いして、俯く。
「やはり私では駄目だろうか……」
はっと我に返ったアイリスは、淑女らしからぬ激しさで首を横に振った。
「わ、わたくしも公爵様に好意を抱いております……!」
信じられない返答が得られて、シトロンは顔を上げる。
アメジストの瞳が、じっとシトロンを見つめていた。
「そ、それは本当か……?」
「本当です、夜会で一緒になるたび、公爵様をそっと見つめておりました」
なんと、彼が知らない間にアイリスも同じ事をしていたらしい。
じわじわと嬉しさが込み上げ、シトロンは衝動的にアイリスを抱き締めていた。
「きゃっ」
アイリスが驚きの声を上げる。
「人生で一番嬉しい……! アイリス、どうか私の恋人になってはくれないだろうか?」
「はい、喜んで……!」
二人は見つめ合い、笑顔を重ねる。
「愛しているよ、私のアメジスト」
はにかんだアイリスとシトロンは月明りの下、そっと口付けを交わしたのだった。
~END~
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